今日は、本年度最後の朝礼でした。
校長講話では、これまで卒業生にのみ話してきた私の大切な体験談を話しました。悲しい話ですし、生徒たちがどのように受け止めるのか不安もありましたが、私が最も伝えたいメッセージを大切な生徒たちに伝えるべきと考えて決断しました。
いつもより長い話でしたが、真剣に耳を傾けてくれたように思います。命ほど大切なものはないというメッセージがうまく伝わっていることを願います。
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(3月12日校長講話)
今日は最後の朝礼ですので、校長先生が皆さんに一番伝えたいことを話します。それは、簡単に言えば命を大切にしましょうという話です。
校長先生にとっては悲しい話ですので、今まで卒業生にしか話してきませんでしたが、大事な皆さんのために話します。聞いてください。
校長先生には二人の娘がいます。二人とも既に就職や結婚をしています。
そして、校長先生にはもう一人息子がいました。生きていれば、今二十八才になります。
小学校四年生の秋に脳腫瘍という重い病気でなくなりました。十才でした。
小学校一年生まではとても元気のよい男の子でした。誰よりも背が高く、誰よりも思いやりのある子どもでした。
症状が出はじめたのは小学校一年生の十二月でした。
食べた物を戻すようになったのです。
初めは胃腸風邪だと思っていました。実際、熱もありました。
しかし、熱が引いても吐き気が止まりません。毎日一、二度食べたものを戻します。
医者に診せても原因は分かりません。仕方なく、しばらく学校を休みました。
次第にやせ細り、そのうちまっすぐに歩けなくなりました。
原因が分かったのは、入院をしていろんな検査をしてからでした。
お医者さんに呼ばれて、息子の脳のレントゲン写真を見せてもらいました。
誰が見ても、それが正常な脳の写真でないことは分かりました。
息子の脳には、後頭部に直径八センチもある大きな脳腫瘍ができていたのです。
お医者さんはこのような腫瘍は見たことがない、手に負えないと言いました。
すぐに専門の病院に転院しました。新しいお医者さんからは、このまま放っておけばあと十日の命だと言われました。手術をするけれども、成功するかどうかは分からないとも言われました。先生はその場に立っていられなくてしゃがみ込んでしまいました。
翌日、すぐに手術をしました。十二時間に及ぶ大手術でした。
手術室の前で祈るような気持ちで待ちました。
手術は成功しました。しかし、脳幹と呼ばれる大事な部分を傷つけるといけないので、その近くにある腫瘍はとれませんでした。そのため、その後しばらくは放射線治療や化学療法というつらい治療を続けました。
それに耐えて、再び学校に通えるようになったのは、半年後の九月でした。手術のため、手足に少し麻痺が残りました。字が書きづらく、歩くこともゆっくりとしかできませんでした。それでも息子は極めて明るく、そして一生懸命学校生活を送りました。
脳腫瘍が再発したのは、その十カ月後でした。三年生の六月、定期検査に行った息子の脳に、今度はおでこの部分と、脊椎に腫瘍ができていました。
再び手術を受けました。脳の手術は五時間かかりました。脊椎の手術は十五時間に及びました。しかし、そんな大手術に息子は耐え抜きました。
そして、その後にはさらにつらい治療も待っていました。しかし、そのたびに息子はこの治療でおできをやっつけてくるぞ、といって、明るく立ち向かっていきました。
元気なときには冗談を言ってまわりを笑わせたりもしました。そんな息子は、病院中の人気者でした。
しかし、何度も入退院を繰り返し、次第に身体は弱っていきました。医者にあと一カ月の命だと言われたのは、三年生の一月でした。しかし、息子も先生もあきらめませんでした。
先生は、お医者さんの治療以外に何か方法はないかと、ありとあらゆる民間療法を調べました。そして身体にいいと思われることは何でもやってみました。
その中のどれかが効いたのでしょう、息子の状態は少し安定しました。
医者の反対を押し切って退院をし、しばらく自宅で過ごしました。いつ容態が悪化するかもしれないという不安はありましたが幸せな日々でした。
しかしそれも長くは続きませんでした。
再び嘔吐が止まらなくなったのは、半年後の九月でした。
家での看病は限界となり、再度入院しました。
入院をするとき、いつも先生の奥さんは泊まり込みで看病をします。先生は毎日朝食と夕食の支度をしてから、まだ小さかった二人の娘を小中学校に送り出し、病院によってから学校に通います。学校の仕事が終わると毎日病院に通い、息子が寝るまで話をしました。親子に残された時間は短く、かけがえのない時間でした。
あるとき息子が先生にこういいました。
「お父さん、僕には二つ心配事がある。一つはおうちへ帰れるかどうかということ。もう一つは字が書けないようになってしまうんじゃないかなということ」と、次第に動きが悪くなる右手を見つめながら言いました。
先生は、「大丈夫、ちゃんとおうちに帰れるし、ちゃんと元通り字も書けるようになるよ」というしかありませんでした。
それを聞いて息子は安心した表情になりました。
これが息子とかわした最後の言葉でした。
じゃあねと言って別れ際に振った息子の右手はぎこちなくゆれていました。
翌日、息子の容態は悪化して、人工呼吸器を付けざるを得なくなりました。
もう話すことも、食べることもできません。
それでも、目を見つめてほほ笑むことはできました。
しかし、心臓の鼓動がなくなるのは時間の問題でした。
数日後、鼓動が異常に高くなったかと思うと、けいれんが始まり、それが終わると、やがて不規則になって、そしてついに止まってしまいました。
お医者さんが電気ショックを与えても、息子の心臓が二度とふたたび動くことはありませんでした。十月十六日の朝でした。
先生は奥さんと二人で、すぐにでも息子の後を追おうと思いました。しかし、二人の娘の存在がこのことを思いとどまらせました。
時間がたっても悲しみは癒えるどころか、さらに深くなっていきました。
しかしある時、悲しんでいても死んでいった息子は決して喜ばない、と気付きました。
息子が残したものは、治療という困難にも前向きに立ち向かっていった勇気と、まわりを気遣いながら、愚痴一つこぼさず毎日を過ごした明るい笑顔や思いやりと、自分の運命にまっすぐに立ち向かい、それを受け入れていった潔さでした。
それを思うと、何かつらいことがあっても何の困難でもなくなりました。
死んでいった息子に恥じない生き方をすることが、先生の目標となりました。
皆さんにお願いがあります。
一つ、世の中にはいくら学校へ行きたくても、勉強したくても、何かの理由でそれができない人もいます。学校へ行けることが、勉強できることが、あたりまえだと思わないでください。勉強させてもらえることを幸せに感じてください。
二つ、誰もが皆と同じことがしたいと願って生きています。しかし、何かの理由で、皆と一緒に行動できない人もいます。そのような人に心ないうわさや、心ない言葉をかけないでください。相手の立場を思いやって手助けや気遣いのできる人になってください。
三つ、親はどんな時も、わが子のために最善を尽くすものです。息子が普通の食事がとれなくなったとき、少しでも食べれるものはないかといろんなものを作って病院に持って行きました。医者がもう打つ手はないと言ったとき、何かいい方法はないかと全国を飛び回りました。息子が死んでしまったあとは、お墓に飾る花を一生懸命育てています。先生の奥さんは今でも息子の分まで食事をつくって、息子の勉強机に備えています。皆さんがここまで育ってこれたのは、まぎれもなく皆さんのご両親のおかげです。ご両親に感謝しましょう。
四つ、人は、誰でもいつかは死にます。いつ死ぬかは誰にもわかりません。突然死ぬこともあるのです。死んでしまったあとに残るものは何でしょうか。
「人がこの世を去りゆくとき、手に入れたものはすべて失い、与えたものだけが残る」という言葉があります。
人は、お金を、地位を、名誉を手に入れたいと思います。しかし、それらを手に入れたところで、死んだあとに何が残るのでしょうか。死んだあとに残るものは、人に与えた笑顔であり、人に与えた親切であり、人に与えた勇気であり、人のために尽くした功績です。
「人がこの世を去りゆくとき、手に入れたものはすべて失い、与えたものだけが残る」
人のために尽くした人の一生ほど美しいものはありません。人のために尽くせるように、自分を磨いてください。
これで、校長先生の最後の朝礼を終わります。
最後まで真剣に聞いてくれてありがとう。