高校入試問題に挑戦して考える

本日は愛知県の公立高校入試Bグループの面接試験です。多くの受験生にとってはこれが最後の試験となることと思います。教師時代は共通一次試験(現センター試験)や愛知県の公立高校入試の問題は、全教科に目を通すようにしていました。それぞれの教科でどのような力が子どもたち求められるかを知ることは、教える側にとってもとても大切なことだと考えていたからです。
どなたも自分の専門教科はチェックされますが、他教科に関してはあまりしっかりとは見てないように感じます。ちょっと意地悪な言い方をすれば、高校入試は義務教育の範囲ですから、基本すべて解けるはずです。他教科を解くということは、教える側ではなく子どもの視点に立つことになります。また、子どもたちは全教科を受験するわけですから、同じように教師も全教科を解いてみることで、子どもの立場でどんな学習が必要かに気づくことができるのです。

今回、新聞に掲載された筆記試験問題にちょっと力を入れて挑戦してみました。
どの教科にも共通して感じるのは、細かい知識を要求していないことです。その代り、一つの知識があればすぐに解けるという問題は少なくなっています。基本的な知識を組み合わせて考えることで初めて正解にたどり着けるように工夫されています。出題者の意図がよく伝わります。

数学は私の専門教科なので、紙と鉛筆を一切使わずに頭の中だけで解くことにしています。紙と鉛筆がなければ解けない問題は、ちょっと複雑か計算が面倒なものということになります。今回は紙と鉛筆の出番はありませんでした。簡単だということではありません。面倒な計算に時間を割かせるのではなく、考えることを重視しているのです。
社会科の細かい知識はもうすっかり忘れています。しかし、資料を読み取る力、社会人としての基礎的な知識や大きな歴史の流れをつかんでいれば、確実に解くことができます。
理科も、基礎的な知識やモデルをもとに、推論するといった論理的な力が要求されます。
国語は感覚ではなく、本文に書かれていることを根拠にしなければ解けないように設問が工夫されています。文章自体は難しいわけではありませんが、解答するために何度も本文に戻りました。
英語は、難しい単語や構文を知らなければ解けない問題はありません。しかし、問題の文章で示されているsituationを理解できなければ解答できないように工夫されています。コミュニケーションを意識した問題と感じました。

全教科に共通することは、知識の総量よりも考える力を要求しているということです。私が興味を持ったのは、受験対策をしている塾ではどのようにして教えているのかということです。問題のパターンを分析して解き方を教えているのでしょうか。もしそうであれば、子どもたちはたくさんのパターンを覚えることになります。パターンが変われば対応できません。不毛な学習方法になります。思考力をつけるのであれば、自分で考え、考え方を発表したり、議論したりすることが必要になってくると思います。受け身では力がつきません。よほど基礎となる思考力がなければ、集団でのかかわり合いが不可欠です。個別学習では、問題の答を教えることができても、子ども自身で気づくための働きかけをよほど工夫しなければ思考力はつきません。そのようなノウハウがあるのならすごいことです。しかし、私の知る高校生の実態は、勉強は覚えることだと錯覚している子がほとんどです。
これは学校でも同じことです。思考力は教えることでは身につきません。子どもが自分の問題として考える経験をたくさん積まなければいけません。

受験対策を口にする先生の授業が、知識伝達型がほとんどというのも不思議な気がします。こいう方は入試問題を見て、「こういう問題を教えておかなければ」「このパターンを事前に教えておいてよかった」といった感想を持たれているのではないでしょうか。このことがいかに教育の本質から外れているかは、説明する必要はないでしょう。
一方子ども同士のかかわり合いを大切にしている先生方はどうなのでしょうか。こういう入試問題は歓迎すべきはずです。もし子どもたちがこういう問題で点が取れないなら、「活動している」が「考えていない」授業だということです。知識が足りなくて解けないのなら、基礎的な知識すら身についていないということです。

日ごろ私の授業アドバイスでは、試験の結果がどうであったかをあまり話題にしません。それ以前の段階の授業がまだまだ多いからです。しかし、先生方の授業力の向上にともない、こういうことも話題にしていく必要があるように思いました。
ちなみに、入試問題に挑戦した結果は、とりあえず義務教育卒業レベルは維持できていたようでした。(笑)

研究に関する打ち合わせ

昨日あった打ち合わせで話題になったことを少しお伝えします。

授業「研究」と授業「研修」のどちらだろう。
研修は研究と修養という意味ですが、修養という言葉は、授業に関しては具体的にどのようなことを表すのでしょうか。たとえば、若い先生の中には子どもにどうなってほしいという目指す姿が明確でない方もいます。子どもの受け止め方、つなぎ方といった授業技術を伝えても、子どもにどうなってほしいという目的意識がなければ、ただ意味なく「なるほど」と答えたり、「今の意見に賛成の人」と問いかけたりするだけです。「なるほど」と受け止めた後、「それってどういうこと?」と深めるのか、「今の意見、なるほどと思った人いる」とつなぐのか、「いいね。みんなどんどん意見を言って」と次の意見を求めるのかといった判断が必要です。しかし、目指す子どもの姿が明確でなければ判断のしようがありません。個々の授業技術を教えることはできても、目指す姿を教えることはできません。教師として自らに問いかけ続けることで初めて明確になっていくものです。修養という言葉が示すのはこういうことだと思います。トータルに授業力を上げるという意味では、授業研修という言葉がふさわしいように思います。

基本となる授業のパターンの中に、本質が見える。
数学の飛び込み授業が話題になりました。・・・足して10になる2つの数を子どもに言わせる。ここまで聞くと次の展開が想像できました。この先生の問題把握の場面での進め方のパターンを知っているからです。
「1と9」「3と7」・・・、と答えさせながら、「どんな数でもいいの?」といった子どもから疑問が出るのを待ちます。疑問に対して、「それってどういうこと?」と問い返します。「負の数とかだったら、いくつでもできる」と子どもが具体的に説明できれば、「素晴らしい」とほめて、「じゃあ、整数ということにしようか」と子どもの疑問をもとに条件を与えます。
実際にもこのような展開になったようです。課題さえ決まれば、問題把握の進め方はこのパターンを使えばすぐに見えてきます。こういう基本となるパターンをいくつか持つことで、効率的に授業をつくることができるようになります。だれしもこのような基本パターンがあるものですが、そこにその教師の本質が見えてくるように思います。
この課題であれば、子どもが疑問を持たないように、最初から「整数」という条件を付ける教師もいます。子どもに「どんな数でもいいの?」と聞かれたら、「整数だよ」と教師が条件を付加するかもしれません。ここでは、最初に条件を付けないことで子どもの視野を広げています。子どもの疑問や気づきをもとに考えることで、条件が教師から一方的に示されるものではなく子どもにとって必然性のあるものになっています。「なぜこの条件が必要なのだろうか」と条件の持つ意味を考える。問題の意味を理解した結果、受け身ではなく、自分から解きたいと思う。そんな子どもを育てたいと考えた結果、このようなパターンが生まれたのです。基本となる授業のパターンの中に、その教師の授業に対する姿勢や目指す子どもの姿が埋め込まれているのです。

模擬授業は子どもを使えないので教師がその代わりをしているのか。
模擬授業では、教師が子ども役をすることに積極的な意味を持たせることができます。授業を子どもの視点で見ることで新たな気づきができます。子どもを使わないので、うまくいかなった場面をその場ですぐにやり直すことができます。実際の授業とはまた違った視点で学ぶことができます。模擬授業だからこそできる学びがあるのです。

というわけで、模擬授業を活かした授業研究(研修)をこの1年研究することになりました。模擬授業を通じて互いに学び合い、高め合うためのノウハウを蓄積していきたいと思います。どのようなものになっていくのかとても楽しみです。今後この日記でも報告していきたいと思います。

トータルコストを意識する

昨日参加した会議の合間に出た話題で、考えさせられることがありました。

営業の担当者が、顧客からの「こういう機能を付けてほしい」という要望を、文字通りそのまま開発の担当に伝えていることがよくあるのだそうです。開発の側からすれば、その機能が必要な理由やその機能をつけることで何を期待するのかがわからなければ、細かい仕様を決定することはできません。場合によっては、他の機能で代替するなど、別の実現方法を提案した方がよりよくなることもあります。しかし、情報がなければ何ともしようがないので、営業担当者に再度確認をお願いすることになります。きちんと情報を顧客から聞き取って伝えることはお願いしているはずですが、これがなかなかできないようなのです。
その原因の一つに、営業担当が忙しいことがありそうです。時間をかけて聞き取りをしていられない。要望を開発担当に伝えれば、取り敢えず前へ進む。その場はしのげる。そういう心理が働くのでしょう。

似たことにパソコンやケータイの設定の話があります。たとえば、メールの設定がわからないので教えてほしいと頼まれたときのことです。後々のことを考えて一つひとつの項目の意味を説明しながら進めると、何をすればよいかだけでいいと言われてしまうことがよくあります。結局、手順だけを教えることになりますが、別の機械に設定するときには、また一から説明をし直すことになります。たまのことなので、理解する手間をかける方が時間のムダと考えるのでしょう。

ここには、大きく2つの問題があるように感じられます。1つは自分の都合を優先して、相手のことを考えていないことです。1つ目の例では、もし開発担当が言われた通りのものを作っても、その目的がはっきりしていないため顧客が満足するものにならなかったり、使ってみたところ不都合が出てまたやり直しになったりというリスクもあります。顧客の言う通りのものをつくったのだから責任はないと言い訳できても、結局作り直すのであればだれにとってもいいことはありません。2つ目の例でいえば、その場は双方とも短い時間で済んで効率的に見えますが、次の機会にはまた1から同じことの繰り返しです。教える側はそれが嫌なので、次回は自力でできるようにと一つひとつ意味を説明しているのですが、聞く側はそのことを想像できないのです。
もう1つは、目先の結果だけを見て、先を見ていないということです。今は時間とエネルギーを節約できたように見えても、結局は何度も同じことの繰り返しになってちっとも先に進めないのです。このことは学校の現場でもよく見られます。答を教えて、手順を教えてという姿勢です。取り敢えず目先の試験で点を取れればよいという、その場しのぎの考え方です。そのような態度で勉強しても身につかないので、受験の前になって、もう一度はじめからやり直すという情けないことになってしまいます。本当に学力をつけるためには、基礎基本に時間をじっくりかけることが必要です。時間をかけて身につけたことはなかなか消えません。しっかりした土台ができると、ある時点から急速に伸びます。結果的により早く、より高いゴールに到着できるのです。
いずれにしてもトータルコストという考え方が欠落していると言えます。自分だけでなく、かかわる人すべての時間とエネルギーを考える。今だけでなく、将来も見通してトータルで費やす時間とエネルギーを考える。こういう視点がないのです。

このことは、個人の資質と言い切るわけにはいかないと思います。元来、教育の現場できちんとこのことを理解させ、そういう姿勢を身に着けさせているべきなのです。それができていないから話題になるのです。いかに効率的に答や手順を教えるかに力を注いでいる授業。試験に出るところを「大切」だと言って覚えさせる教師。いや、それ以前に校務処理のようすなどを見ていると、教師自身がトータルコストを意識できていないと思う場面にたくさん遭遇します。これでは、子どもたちにトータルコストを意識させることはできるはずがありません。
ちょっとした話題から、あらためて学校現場でトータルコストを意識することの必要性に思いを巡らせました。

学校評議員会で、学校の姿勢から学ぶ

昨日は、中学校の学校評議員会に参加してきました。先日卒業式に参加した学校です(「卒業式で学校と地域の連携を考える」参照)。学校側の説明から、この学校が課題や問題点に対して素早く対応しようとしていることがとてもよくわかります。ともすると原因や反省、ひどいときには言い訳だけで終わってしまうこともあるこの種の会ですか、次年度へ向けて着実な一歩を踏み出そうとしていることがよく伝わります。

子どもの実態調査から、読書は嫌いではないが実際の読書量が少ないことが以前の会で問題になっていました。その具体的な対策を今回は示してくれました。着実に前へ向かっています。子どもの読書量に関するデータも、市内と全国を3年分比較して、より詳しく見せてくれました。市内の他の学校がどのような対応をしているかも教えてくれます。私たちが考えるための材料をちゃんと与えてくれます。子どもたちの読書の機会を増やすことで何を目指すかについての質問にも、明確に答えていただけました。子どもたちの現状を冷静に判断していることが伝わります。その上での取り組みです。自然と応援したくなります。より成果が出る方向で意見を言いたくなります。

アンケートをもとにした学校評価については、資料の見せ方も改善されていて実態を推測しやすいものになっていました。実は、先日の卒業式の子どもの姿から想像していたものとアンケートの結果はずれていました。教師に対する信頼度や人間関係が思ったほどよくないのです。先生方もこの結果はショックだったに違いありません。表面的によい関係でも、深いところまでしっかりとかかわれていなかったということかもしれません。また、子どもの「積極的に学ぼう」という気持ちは、学年が進んでも決して下がっていないのですが、「授業がわかる」という割合が下がっているのです。これも、引っかかるところです。
一方保護者のアンケートでも気になることがありました。この学校はホームページや冊子でかなり積極的に学校のことを伝えようとしています。教員評価でも地域に関することはしっかりやっていると自己評価しています。実際、保護者の学校に対する評価も高いのですが、学校に関する設問に対して無回答が一定数存在するのです。子どもに関するものは、無回答がほとんどないので、決していい加減なわけではないと思います。学校に対する関心が薄い層ではないかと想像します。データを見るとこの層が広がりつつあるように見えます。保護者の意識が変わってきているのかもしれません。学校の広報のあり方をもう一工夫しなければならないように感じました。
教員の評価は、自分自身に対する評価は肯定的ですが、他学年や学校全体に対しては否定的な傾向があります。教員間の関係があまりよくない傾向が見て取れます。教師同士の価値観がずれているのかもしれません。基本となる目指す姿の共有化がうまくいっていないことが原因なのでしょうか。学校側はこの問題点をしっかりと意識しています。こういったネガティブな面もごまかさずにしっかりと伝えてくれる姿勢はとても好感が持てます。

次年度に向けては、これらに対して具体的にどのようにしていくかをしっかりと聞かせていただけました。
重点目標も抽象的でなく、具体的に示されました。その実現方法についても組織的な面まで考えられていました。担当者レベルで素早く動けるように具体的な方向性を明確にして管理職がバックアップすることをお願いしました。
そして、今回学校目標達成チェックリストが明示されました。年に1回ではなく学期に1回程度、目標達成の状況をチェックすることにしたのです。具体的なチェック項目が経営目標にリンクしているのでわかりやすくなっています。「チェックリストを意識させることで先生方の行動を変える方法もある」と、以前お話したことを受け止めていただいたように思いました。このチェックリストに基づいた評価がどのように変化していくのかとても楽しみです。

ネガティブもオープンにし、厳しい意見もしっかりと聞く耳を持つ姿勢は素晴らしいものです。私たちが忌憚のない意見を言えば、きっと学校がそれをうまく生かしてくれる。そう思わせてくれます。だからこそ、学校評議員の方々の姿勢も真剣なのだと思います。私自身、この学校にかかわらせていただいてとても多くのことを学べています。学校と評議員の皆様に感謝です。

会議で授業との共通性を感じる

先日、ある会議に参加しました。会議を多くの人から意見の出る活発なものにするポイントは、子どもが積極的に参加する授業と共通点が多いと思いました。

司会者が、できるだけ参加者に意見を出してもらおうと一人ひとりに声をかけます。笑顔で発言をポジティブに受け止めようとしていることもよくわかります。決して「それはおかしい」といった否定的な言葉は発しません。しかし、なかなか意見が出てきません。どこに問題があったのでしょうか?
発言に対して受ける言葉が大きく2種類ありました。「それもありますね。他にはないですか?」と「そうですよね」の2つです。どうやらここに問題がありそうです。この表現では、意見の価値を司会者が判断していることになります。具体的に言うと、「それもあります」というのは「他にもある」ということです。それが判断できるということは、司会者が他の考えを持っているということです。その上で、「他にはないですか?」と言えば、その司会者の持っている考えを言ってほしいということになります。こういうやり取りをした後に「そうですよね」と言えば、それが司会者の求めていた意見ということになります。司会者が自分の求める意見がどうかで評価していることになります。
「自由に意見を」と言われても、司会者の求める意見に収まるのであれば、あえて自分の考えを言う必要はありません。意見を言うにしても、司会者の求める意見を言おうとします。これでは、活発に意見は出なくなります。

司会者がある程度考えを持って議論を誘導することは必要です。しかし、それが前面に出てしまうと、多様な意見は出にくくなります。
他の意見を求めるならば、「○○さんの考えいいですね。こういう皆さんの考えをドンドン聞かせてください」というように、司会者はどんな意見も同じように評価する姿勢を見せる必要があります。もし、価値づけしたければ「○○さんの意見は、・・・が素晴らしいと思いました。皆さんどう思いますか?」と自分が評価した上で他の参加者につなぎます。参加者に最終的な価値の判断を委ねる形をとることで、参加意識が高まるのです。

このことは、授業にもそっくり当てはまります。ちょっとした言葉づかいで、子どもは教師の意図を感じ取ってしまいます。子どもの意見や解答に対する「他にはない?」という言葉は、「あなたの答は私の求めていたものではない」というメッセージとなることがよくあります。教師がこのようなメッセージを発し続ければ、子どもは教師の求める答探しをするようになります。その一方で、教師が最後には答を提示するのだからと、間違えるリスクを取らずに参加しない子どもも増えてきます。いずれにしても、子どもたちから自由な意見や考えは出なくなってしまいます。教師が正解かどうかを判断するのではなく、子ども同士が考えを伝えあうことで、自分たちで納得する答を見つけることが大切になります。

会議でも授業でも、まずどんな意見も尊重され、安心して発言できるという雰囲気をつくることが大切になります。その上で、たとえ目指す方向はあらかじめ決まっていても、結論は自分たちで出すように進めていくことが、活発で納得性のあるものにするために必要です。
授業で学んだことは、実は授業以外の場面でもいろいろと応用がきくのだと、あらためて感じました。

卒業式で学校と地域の連携を考える

昨日は、中学校の卒業式に来賓として参加させていただきました。

学校評議員として、日頃から行事等での子どもたちの姿を見せていただいているので、彼らの晴れ姿には感慨深いものがあります。私たちの席からは男子しか見ることができませんでしたが、子どもたちがこの式にどのような思いを持って参加しているのかとてもよくわかりました。
特に合唱での体を揺り動かしながら自分たちの思いを振り絞るようにして歌う姿は、一人ひとりがこの3年間、この学校で素晴らしい時を過ごしてきたこと示していると思いました。

この学校では地域との連携をとても大切にし、色々な活動やイベントを子どもたちと地域が一緒になって企画・運営しています。子どもたちと共通の時間を過ごした地域の方がたくさんいらっしゃいます。ふとその中心となっている方に目を向けると、泣いておられました。卒業式の雰囲気に流されて泣かれたのではありません。子どもたちの成長を願うが故に、時には厳しい態度で接したこともあったはずです、ぶつかることもあったでしょう。そういう濃密な時間を共に過ごしたからこそ、彼らの成長した姿を、保護者や先生と同じように誇らしく思い、感動して涙したのです。

最近は学校と地域の連携がよく言われますが、廃品回収や校庭整備といった学校に対する物理的なサポートのお願いにとどまっているところが多いように感じます。地域の方が子どもたち一人ひとりと直接かかわらなければこのような素晴らしい涙は見ることはできないでしょう。来賓の多くが、子どもたちとのエピソードを持っている方々でした。来賓控室では、卒業生との思い出話も聞こえてきます。
子どもたちの成長した姿に感動するとともに、学校と地域の連携がもたらしてくれるものが何かを感じることができた、とても素晴らしい卒業式でした。

「授業から学ぶ」とは

今年度の授業アドバイスは先週で終了しました。おかげさまでたくさんの授業を見る機会をいただきました。授業を見せていただいて気づくことがたくさんあります。毎年延べ数百人の授業を見ていることになりますが、いまだにその学びは尽きることがありません。というか、年々増えているように思います。私が授業から学ぶために、どのようなことを意識しているか少し書かせていただきます。

授業中に教師ばかりを見ていると、授業技術にとらわれてしまいます。説明の仕方、指名の仕方、板書の仕方、机間指導の仕方、・・・。どうしても批評家的に見てしまいます。これではダメだ、こうした方がよい。こんな目で見てしまうのです。もちろん名人・達人級の方の授業では、これは素晴らしい、なるほどこういう対応もあるのかと感動することがたくさんあるのですが、それでも冷静に、ここはこういうことを意図して、こういう技術を使ったのだなと分析していたりしています。私の場合、教師を見ることで学べることは実はあまり多くはないのです。
いつも多くを気づかせてくれるのは子どもです。子どもたちは、興味を持てば、目が輝いてきます。集中した瞬間、学級の空気が変わります。わかった瞬間に、思わず声を出したり、わからなくて頭を抱えたりもします。悲しい、悔しい思いに、時には涙を流すことさえあるのです。そんな教室のドラマから、実にたくさんのことが学べるのです。

同じような授業展開や教師の対応でも、子どものようすや反応は全く違うことがあります。それまでに子どもたちがどのような経験をしていたのか、どれだけ育っていたのか、その背景を想像します。ほんのちょっとした教師の言葉の違いが子どもの動きを変えてしまったのかもしれません。時間を空けて同じ学級をみると、大きくそのようすが変わっていることもあります。きっと子どもを変える何かがあったはずです。それは、何かを探ります。
子どもの姿から、子どもの視点から授業をながめると授業の風景は大きく変わります。教師だけを見ていれば、同じような展開の授業を2度見てもそこで学べることは増えません。しかし、子どもを見れば、必ず違いがあるはずです。逆に違いがなければ、その課題なり、授業の展開なりが本来持っている力だということです。授業を見ただけ学びが増えるのです。

私の若いころは、同僚の授業を見る機会はあまりありませんでした。わずかながらも私が教師として成長できた理由を考えてみると、子どもが私にその姿で大切なことを教えてくれたのだと気づきます。授業中に突然立ち上がり「わからーん」と叫んだ子ども、私の不用意な一言に涙を流した子ども、「よくわかった」と言っていたのに試験はさんざんだった子ども、・・・。その背景、理由を考え、どうすればいいのかを悩んだから、こんな私でも少しは成長し続けることができたのです。

子どもから学ぶ姿勢を持てば、他者の授業を見る機会がなくても、毎日の授業が即、教師としての学びの場に変わります。自分の毎日の授業から学べるのです。ですから、私は若い先生への授業アドバイスを頼まれた時、その先生の授業を見るより先に、まず一緒に他の先生の授業を見に行くのです。教師を見ずに子どもだけを見ます。そこに見える子どもの姿は、教師が日ごろ教壇から見る世界です。その子どもの姿から何がわかるか、何を知らなければいけないのか、それを伝えるのです。

「授業から学ぶ」とは「子どもから学ぶ」と言い変えてもいいと思います。この視点を持つことができれば、どんな授業からも学ぶことができます。子どもの成長を手伝うのが教師の仕事です。その子どもの姿からの学びが多いというのは当たり前のことかもしれません。しかし、そのことに気づいていない先生が多いのもまた事実です。

パネルディスカッションから学ぶ(愛される学校づくりフォーラム2013 in 東京 午後の部)(長文)

愛される学校づくりフォーラム2013 in 東京」午後の部の「ICT活用は新たな授業観を創り出すのか?」をテーマにおこなわれたパネルディスカッションについて書きたいと思います。
堀田龍也先生のコーディネートで有田和正先生、佐藤正寿先生に加えて、前小牧市教育委員会教育長の副島孝先生と私の4人がパネリストです。愛される学校づくり研究会の会員のブログ)にそのようすと素晴らしい考察が書かれていますので、詳しくはぜひそちらをお読みいただくとして、私はそこで特に話題になったことを中心に少し書きたいと思います。

副島先生は、学習指導要領の目標「社会生活についての理解を図り、我が国の国土と歴史に対する理解と愛情を育て、国際社会に生きる平和で民主的な国家・社会の形成者として必要な公民的資質の基礎を養う」に照らして、後段部分が多くの授業で意識されていないことを指摘されました。一方両先生の授業が、「6年生最後の授業」ということもあり、共に後段部分を絶対はずさないという強い意志を感じたと続けられます。
佐藤先生の模擬授業では「我が国の国土と歴史」をその前半部分で、「平和で民主的な国家・社会の形成者」を後半部分で意識した授業構成です。一方有田先生の模擬授業では、「平和で民主的な国家・社会の形成者」に向かって知識や資料をもとに子どもたちの考えを深めることに絞っていた。私はそのように考えました。
堀田先生の、「前段と後段の関係は授業ではどう考えたらいいのか」という突っ込みに対して副島先生は、「後段は公民的な資質の基礎」と答えられました。具体的には、知識を習得するだけではなく、「資料や情報を主体的に集め、判断すること」と説明されました。私が指導要領の後段の「平和で民主的な国家・社会の形成者」の部分に注目していたのに対し、それを支える「公民的な資質の基礎」とは何かに着目されていたのです。私は「資料や情報を主体的に集め、判断すること」を「公民的な資質」と特に関連させずに、漠然と社会科、それ以外の教科にも通ずることとしてとらえていました。「公民的な資質」とは何かをもう一度考えるきっかけをいただきました。

お二人の資料の扱い方の違いが話題になりました。副島先生は、「佐藤先生の資料は地図資料が多く、有田先生は地図2枚と表1枚という厳選されたものだった。その違いはテンポの違いとなって表れていた」と分析されました。佐藤先生は、6年生最後の授業ということで指導要領の目標をできるだけ取り入れたかった。それに対して、有田先生はいつものように少ない資料で深く考えさせたかったということです。
それと同時に、子どもの反応に対する受けの技術の大切さも指摘されました。よい資料を使っても、受ける技術がなければ子どもの考えは深まっていかないと有田先生も重ねられます。子どもが考えを深めるためにはじっくりと時間をかけて資料に取り組むことが必要だ。だからこそ、資料は精選する必要がある、いつもの主張です。
資料の扱いについて、皆さんの議論を堀田先生は次のようにまとめられました。
佐藤先生の模擬授業から
・軽重があれば資料の点数は多くてもよい。
・ICTがあればテンポよく提示できる。

有田先生の模擬授業から
・教師の都合で資料を変えない。よく見て考えさせる。
・子どもに見つけさせる、見つける力をつける。

私も資料について発言したのですが、時間の制約もあり十分に伝えることができなかったと思います。補足しながらここで整理したいと思います。
資料の活用には大きく3つの段階があります(資料集をどう活用する参照)。「必要な資料を見つける」「資料を読み取る」「読み取った内容をもとに考える」の3つです。有田先生の授業ではこの3つの段階を意識して、それぞれの力を身に着けさせようとしています。しかし、通常の授業では、いつもこの3段階をすべて子どもに任せるだけの時間の保証はありません。子どもに資料を見つけさせるのではなく、教師が資料を用意し子どもに提示するところから始めることもあるでしょう。与えた資料を教師がわかりやすく解説し、そこからじっくり時間を取って考えを深めさせることも時には必要です。この判断は、子どもがどれだけ育っているかでも異なります。鍛えられた子どもであれば、短時間で3つの段階一気にこなすことができます。資料をもとに考える経験を積んでいない子どもたちであれば、1段階ずつ立ち止まりながら丁寧に進めたり、途中をスキップしたり、時には資料を読み取るための知識を与えたりする必要もあります(資料と知識の関係参照)。佐藤先生はこのことを意識して授業を組み立てられていました。また、有田先生も子どもでは絶対見つけることのできない資料や知識は与えています。お二人とも資料の活用のステップと子どもの能力・状況という2つの軸を考えた授業になっていました。

ICTの活用について、有田先生は、ICTでどう見せるかということよりも資料を読み取る力が大切なのだと主張されます。佐藤先生は、「資料と同じくICTは必要な時に使えばいい。ICTが得意な分野で使う。隠すことは有田先生の得意技ですが、棒グラフを隠して見せるのはパワーポイントで作ったからこそできた隠し技。古い資料もインターネットを使えば手に入れることもできる」とICTのよさを伝えます。
堀田先生は、「ICTは必要な時だけ使えばいい」、問題は「必要な時」の見定めであるとまとめられました。そう、この必要な時をどう見定めるかというのが問題なのです。
そのためには、ICTで何ができる、どんな効果が期待できるかを理解していなければいけません。そして、授業の各場面で何が大切か、何が必要になるのかを考えて、ICTを利用するか、利用するならどう使うのかを考えるのです。
資料の見せ方を一つとって、ICTにはいろんなバリエーションがあります。例えばズームアップで焦点化し子どもを集中させることができます。瞬時に切り替えることで、ムダな時間を省き、授業にリズムが生まれます。リモコンがあると先生は資料の前から離れることができ、その場で資料を切り替えながら子どもとのやり取りに集中できます。もちろん、有田先生のように、しゃべりながらじわっと見せて「何だろう」と思わせるといったアナログならではの見せ方もあります。しかし、ICTを取り入れることでそのバリエーションは圧倒的に増えるのです。小さくて見えにくい資料に対して子どもから「大きくして」と言わせる。「どこ?」「そこ」「そこじゃわからない」と子どもとやり取りしながら、学級全体で注目すべきことを共有化する。こういう使い方もあるのです。
この日の佐藤先生の授業では、今まで学んだ多くのことをもとに「考えさせる」ことをねらっていました。単に1問1答で知識を確認するのではなく、資料をもとに考え、思い出させ、生きた知識にしようとされていました。ICTを活用することで、資料を効率的に利用でき、1時間の授業の中で無理なく知識の確認・復習の時間と考える時間を確保できたのです。

では、今回のテーマである「ICT活用は新たな授業観を創り出すのか?」の答はどうなのでしょうか。私の考えを述べたいと思います。
資料をもとにじっくり考えるといった社会科の本質的な授業観はICTを活用するか否かで変わるものではないでしょう。ICTを活用して資料を見つけることはできても、その資料をどう読み取るか、それをもとにどう考えるかということについては、たとえICTに集中させる、資料を焦点化するといった一定の効果があるとしても、授業観を変えるほどの大きな影響力はないと思います。しかし、ICTを使うことにより授業の進め方の選択肢は広がり、自由度は増します。今までとは違った授業の構成をすることや進め方を変えることはできます。1時限の時間制限を考えて、復習は1問1答形式がよいと考えていた方が、ICTを活用することで資料をもとに復習するように変わるといったことは十分あり得ると思います。ICTを使ったからこう授業観が変わるという明確な方向性はないもの、教師の授業観を個々に変える可能性は十分にあると思います。

ところで、副島先生は学校における授業研究のあり方を研究されていますが、その視点で語られたことがあります。そのことについて少し触れたいと思います。副島先生は「名人・達人から個人的に学ぶことは大切だが、学校の授業研究において名人と比べて議論することには疑問を感じる」と言われます。「授業名人がいることが学校にとってはよくないことになることもある」という言葉を以前に何度か聞いたこともあります。その先生の授業はよくても、子どもたちがその授業との比較で他の先生から離れてしまうこともある。学校としてはトータルでマイナスである。みんなが名人になろうとするのではなく、どのような子どもの姿を目指すのか、そのためにどうしていくのがよいのか学校全体で共有することのほうが大切である。そのようなことであったと理解しています。教育長という立場だったからこその視点に、なるほど感心したことを覚えています。
この話と直接関係あるとはいえないのですが、子どもの姿が授業者によって大きく変わる学校に出会うことがあります。特に中学校に多いのですが、今まで、似たり寄ったりの授業だったのが、よい授業を経験するようになるとその授業では真剣に参加するかわりにそうでない授業では今まで以上に参加意欲が落ちてしまうのです。学校としてどう子どもを育てるか、そのためにどうするのかを共有することの大切さがわかります。
このことを含め、「フォーラムで考えたこと」と題してコラムを書かれています。授業に関して教師はどう学んでいけばよいのか、次年度に向けて「愛される学校づくり研究会」に大きな課題をいただいた気がします。

この難しいパネルディスカッションを見事におさめた堀田先生の手腕にはいつもながら感服します。期待通りに、新鮮な視点で私たちをハッとさせてくれる副島先生。いつでもどこでも、たちまちまわりを有田ワールドにしてしまう有田先生。笑顔を絶やさず、しかし、粘り強く、たとえ有田先生といえども主張すべきところは一歩も引かない佐藤先生。こうして振り返ってみると、私はこのパネルディスカッションで役目を果たせたのか、甚だ心もとなくなります。
とはいえ、自分のふがいなさは脇に置いておいて、このパネルディスカッションからはとても多くのことを学べました。会場の皆さんも、楽しく有意義な時間が過ごせたことと思います。盛会の内にフォーラムが終えられたことを参加者、スッタフ、登壇者の皆様に感謝します。

最後に、授業名人有田先生と授業の達人佐藤先生がそれぞれの模擬授業で提案したことを私なりにもう一度整理して、今回のフォーラムに関する日記を終わりたいと思います。

社会科の授業では知識ではなく、その知識をもとに考えることが大切であることを訴えている点では共通です。
有田先生は、学習指導要領の目標がどう変わろうとも、自身の社会科の授業観、子どもが「自ら資料を探し」「読み取り」「考えを深める」という追究の鬼を育てることはいささかも揺るがないでしょう。常に有田先生が目指す社会科の授業をつくり続けられると思います。世の中が変わろうが変わらない社会科の授業、それこそが名人有田先生の授業だと見せつけてくれました。(パネルディスカッションの中で迷い続ける迷人だとおっしゃっていましたが、それは個々の授業をどうつくるかと迷うということで、授業の目指す姿に迷っているわけではないはずです)
一方佐藤先生は、社会科の授業の中で求められるいろいろな要素、知識の習得、復習、資料を探す、読み取る、活用する、コミュニケーション、言語活動などをどのようにして実現していけばよいのか、ICTも駆使しながら提案されたと思います。時代の変化によって、学校現場に要求されることは変化してきます。新しいテクノロジーもどんどん入ってきます。授業の根幹は揺るがないが、変化に対応し常に考え得る最上の授業を追究し、実現しようとする。まさに達人の名にふさわしいと思います。今回の模擬授業では、自然体にこだわりながらも、できるだけ多くの授業技術、ICT活用を盛り込もうとされました。それは、参加者に一つでも吸収してもらいた、参考にしてほしいという願いの表れだと思います。

私の授業はこう考えて、こうつくっていますとすべてオープンに伝える有田先生。しかし、それはどこまで行っても名人有田先生の授業です。
社会科の授業にはこんなやり方もあります。こんな授業はどうですか。その根底には確固たる授業観が流れていますが、より広がりのある、多くの人がまねできるようなものを見せ、伝えてくれた佐藤先生。それは、社会科のテンプレート(ひな形)といってよい授業でした。

有田和正先生の模擬授業から学ぶ(愛される学校づくりフォーラム2013 in 東京 午後の部)(長文)

愛される学校づくりフォーラム2013 in 東京」からずいぶん時間がたってしまいましたが、午後の部の授業名人の有田和正先生の模擬授業について書きたいと思います。「6年生最後の社会科の授業」をテーマとした佐藤正寿先生との対決授業です。
素晴らしかった佐藤先生の模擬授業(「佐藤正寿先生の模擬授業から学ぶ(愛される学校づくりフォーラム2013 in 東京 午後の部)(長文)」参照)と比較することで、有田ワールドとは何かということがよりわかるものになったと思います。

まずホワイトボードに如月/16と何も説明せずに旧の月名で書かれました。実際の子どもであれば、知らなければ知ろうとするはずです。もちろん有田先生の学級であれば、子どもたちはすでに知っているのかもしれません。教師が教えているのか、それとも子どもたちが調べているのか。教室で旧の月名を使うことは珍しくありませんが、有田先生の学級ではどうしていたのかちょっと興味がわきました。

今年が戦後68年になることを伝えて、この戦争が何戦争か問いかけます。第2次世界大戦という答えに、「素晴らしいですね」と返します。簡単な問いですが、称賛の言葉で返しました。簡単だからこそ、「答えて当たり前」と軽くながすのか、「よく答えたね」としっかりほめるのかの違いは大きいと思います。有田先生は、常に子どものやる気を引き出す方向で発言を受け止めることを忘れません。
「68年」と提示して、「これは何?」とクイズ形式で問いかける方法もあります。子どものテンションは上がるかもしれません。答がわかった子どもは第2次大戦に気づけていますが、第2次世界大戦を知っていても68年との関係に気づけない子どもは答えられません。あっさり「戦後68年」と示したうえで、「何戦争?」と問うことで、ほぼ全員が第2次世界大戦に気づくことができるはずです。そして「素晴らしい」とほめることで、全員がほめられた気持になります。何気ない導入のようですが、私の目にはムダのない素晴らしいものに映りました。

2枚のホワイトボードを横切る長い線を引き、68年と書きました。68年がいかに長いかを伝えます。さり気ないですが、こういうホワイトボード(黒板)の使い方は見事です。子どもたちが写すことを意識した「まとめ」的な板書と違い、授業が進むにつれてどんどん変化していくダイナミックな板書です。こういう技術を見せられると、確かにデジタルがなくてもいいと思わせられます。

世界大戦に参戦した国は何か国か問います。これは知識ですが、子どもが知っているはずはありません。考えても答えは出ません。では、調べさせればよいのでしょうか。いや、資料を見つけることさえも難しいかもしれません。ならば、なぜ問いかけたのでしょうか。ここでのキーワードは「予想」です。前回のフォーラムでも有田先生は、「そうぞう(想像、創造)」を大切にしたいとおっしゃっていました。「6か国」「もっとある?」「7か国」「8か国」「15か国」「だんだん増えてきましたね」「ちょっと増やす?」「もっと増やす?」。予想ですから、誰でも参加することができます。子どもたちに問い返しながら、参加をうながします。
「30か国」「うーん、なるほど」・・・。次々に子どもたちが答えます。子どもたちは自分が答えることでますます知りたくなっていきます。その上で、有田先生は「推測ですからね」と笑いをとりながら、根拠を元にした予想でないことを子ども役に意識させます。
ここで、当時、独立国は何か国あったのか問います。そもそも独立国がどれだけあったのかも知らなければ、「世界」大戦の参戦国を予想する手がかりは何もないことになります。とはいえ、これも子どもたちには知りようがありません。そこで、そのために、今世界に独立国が何か国あるかを「調べよう」と切り替えます。知識は「教える」か「調べさせる」かです。これで、子どもたちが調べられる課題となりました。通常であれば、子どもたちが持っている地図帳で調べさせるところですが、今回は用意した地図帳を示し、「どこに出てる?」と問いかけました。資料の使い方、探し方というメタな知識を問いかけています。資料の活用方法を身につけさせることを大切にしていることがよくわかります。

地図帳から195か国あることを確認して、当時何か国あったか再び問います。「半分くらい?」という子どもへの投げかけは、現在の独立国の数を根拠に考えることを意識させています。持っている知識を根拠に予想するという態度を育てようとしているのです。その上で、65か国だと教えます。予想することは大切ですが、結論は出ません。そこにあまりに多くの時間をかけるのは意味がないのです。子どもなりの根拠を持って予想したのなら、知識を教えればいいのです。

今と当時の独立国の数を比較することで、第2次世界大戦が世界に何をもたらしたかを考えさせることもできます。直接には触れないが、子どもが興味や疑問を持ち、調べてみたくなるような「?」がいくつも埋め込まれているのが有田先生の授業の特徴です。これもその1つでしょう。

65か国を元に、もう一度大戦の参戦国の数を問いかけます。今度は先ほどと違って、基本となる数がわかっていますが、それでもそこから先は推測でしかありません。ここで、有田先生は中立国に色が塗られた世界地図を資料として提示しました。この資料と先ほどの独立国の数から参戦国の数はわかります。「どうせこちらから情報を与えるのであれば、何もこんな回りくどいことをしなくても、ストレートに参戦国の数を教えればいいのではないか」と思われる方もいるでしょう。結果的には同じように見えますが、65か国という知識と、中立国の地図という資料を組み合わせ、そこから答えを見つけるということを経験させたいのです。算数では、答がわかっていても、何度も実際に計算させます。自分の手で経験することが大切だからです。これも同じ理屈です。
地図を少しずつ広げて見せることで、子どもを引きつけていきます。指名して各国の名前を答えさせていきます。本当ならば、子どもに地図帳を使って調べさせるところでしょう。「中立国は5か国」と言って終わるのではなく、地図で確かめながら自分で答を見つけることが大切です。答を知ることではなく、答を見つける過程を経験し身に着けていくことが目的だからです。

60か国もの国が参戦していたからこそ、世界大戦であることを強調しました。子どもたちが深く考えずに使っている「世界大戦」という言葉の重み、それがどれほどのものだったかは、単に60か国参戦したと教えただけでは伝わりません。自分たちが予想し、その予想をはるかに超える事実を知って初めて実感できるのです。そして、この戦争がどのようなものだったかを戦争の犠牲者の数で伝えていきます。
各国の犠牲者の数を書いた表をホワイトボードに貼り、全員に読み上げさせます。表は数字が並んでいるだけです。子どもたちは漫然と眺めるだけで一つひとつの値をちゃんと読まないことやその意味を考えないこともよくあります。ここは、その数の大きさを実感させたいところなので読み上げさせたのです。最終的に犠牲者の合計が6千万になることを伝え、日本の人口の半分にも達することに気づかせます。日本の人口と比較することで、よりリアルに伝わるのです。

ここで、「世界の人々は戦争に対してどう思ったでしょうか?」と問いかけます。これも想像です。この死者の数を目の前にして戦争に対して肯定的な答えは出るはずもありません。だからこそ、多くの子どもに発表させます。発表することで子どもの中に戦争を否定する気持ちが明確になります。それが、この後の問いとつながります。
「悲しい」「悲しいけど負けたくない」「なるべくなら2度と起こさない」・・・、どの答に対しても「なるほど」「いいですね」と受け止めます。「犠牲者が6千万人いたということは、それ以上に悲しんだ人がいる」という発言に対して、「すごいね、その背景、過程が見えた」とそのよさを具体的に示し、「素晴らしい、こういう考えを出してほしい」と全体に広げました。発言を価値づけすることで、子どもの視点を広げていくのです。「戦争は割に合わない」という意見に、過去に「戦争ほどいい商売はない」といった政治家が日本にいたと揺さぶります。こういう揺さぶりは、膨大な知識を持っている有田先生だからこそでしょう。同じ揺さぶりはできませんが、子どもの考えを深めるためにも揺さぶりは必要です。子どもの発言に対応するには、教師側にそれ相応の知識と力が求められることがよくわかります。ここは時間をかけて戦争を否定する気持ち(=平和を願う気持ち)を子どもに持たせました。
実際には6千万より多いとする資料もあることを伝え、資料が絶対でないこと、資料は比較し吟味する必要があることを意識させます。資料を大切にする有田先生だからこそ、こういう点はしっかりと伝えます。

「戦争は嫌だと世界中の人が思ったはず」とまとめた上で、「第2次世界大戦後、戦争はなかったのか」と問いかけます。「何回くらい?」と数を聞きます。数を聞くことで、客観性が求められてきます。「少し」「たくさん」といった聞き方では、なんとなく答えて終わってしまい、自分の予想と事実のギャップを強く意識できません。数を聞くことは、子どもたちに迫り、より深く考えさせるのに有効です。「朝鮮戦争」「湾岸戦争」「ベトナム戦争」・・・。具体的な戦争を子ども役から引き出しながら、意外とありそうだと気づかせます。「南北戦争」という間違いが出てきました。ここは、どう対処するのか気になるところです。「とても大切な戦争・・・、この戦争がなければ今のアメリカはない」「ちょっと時代は違うが素晴らしい」とポジティブに評価し、解説をします。とっさにこのような対応をするには、その背後に多くの知識がなければできません。このような場面も、有田先生をそのまま真似する必要はありませんが、少なくともポジティブに受け止め評価することが求められます。
「これは何を見たらいいですか」と問いかけます。これも「答の見つけ方」というメタな知識を問うものです。常に、どのようにして「考える」のかを意識されています。「社会科資料集」という子ども役の答を高く評価して続けます。ここで社会科資料を使わずに、「絶対当たらないだろう」と挑発しながら、相談させます。「何回か」を「相談」としました。相談しようとすれば、数に対して根拠を示す必然性が生まれてきます。子ども役の答には、それなりの根拠のあるものがでてきました。「(年に1回で)68回」「こういう出し方もあるんですね」と考え方を評価します。それぞれの答えに対して問い返すことで根拠を明らかにさせます。正解を求めるのではなく、また思いつきの答を求めるのでもなく、自分なりの根拠を持って考えることを求めています。子どもたちを育てるということはこういうことだとわかります。
ここでも資料によって答が違うことを断ったうえで、有田先生が正確だと選らんだ資料から300回以上という数を示しました。これだけ戦争があるのに、68年間戦争をしなかった国があるといいながら、その国に色が塗られた地図を示しました。一つひとつじっくりと確認します。その6か国(佐藤先生の資料とは数が違っている)の中に日本が入っていることがどれほどすごいことか、実感させてくれます。その上で、日本がその6か国に入っている理由を問います。「教育」「戦争放棄」「日米安保条約」、中には「資源がない」から攻められないという、子どもから出そうもない答が出てきます。尖閣諸島の問題を取り上げながら、戦争の原因の大きなものに「領土」「資源」があることをまとめ、「これからはわからない」「おもしろい」とポジティブに評価していきます。この他にも、「戦争を語り継いでいる」「国民の気持ち」といろいろな視点の考えが子ども役から出てきますが、すべてポジティブに受け止めます。最後に「平和は簡単に手に入らない」とまとめて終わりました。

有田先生は6年生最後の授業を、社会科の目標である「・・・平和で民主的な国家・社会の形成者として必要な公民的資質の・・・」から「日本の平和」をテーマに、自身が考える社会科の根幹、「知識を手に入れる(資料を見つける)」「知識を元に考える(想像する)」「新しい価値を創造する」で構成されました。最後の「日本が68年間戦争をしなかった6か国に入っている理由」は、今まで学習した「平和憲法」や「日米安保条約」といった知識に「新しい価値」を見出ださせる発問と位置づけているのではないでしょうか。そして、最近よくおっしゃられる「奇跡を起こすのは教育しかない」との信念の具体例としてこの授業を提案されたのだと思います。「教育で平和を維持する」ことができる、それはこういう授業で可能になるのだと主張されているように思いました。
有田先生の考える社会科の授業がとてもよくわかる素晴らしい模擬授業でした。この模擬授業も素晴らしい子ども役の皆さんの協力があってこそのものでした。ありがとうございました。

有田先生と佐藤先生の授業が提案したものは何だったのか、名人と達人とは何が同じで何が違ったのか。このことついては、パネルディスカッションとあわせて述べたいと思います。

送辞・答辞の指導で子どもの力に感動

先週末に中学校で送辞・答辞の指導をおこなってきました。例年、プロのアナウンサーにお願いしているものです。

指導の前に原稿を読ませていただきました。どちらも自身の体験をもとにしたエピソードがしっかりと語られ、とても素晴らしい内容でした。子どもたちの力もそうですが、先生方の指導力の高さもうかがえます。特に答辞はどの段落も内容の濃いもので、逆にどこに力を入れて読むのがもっともよいのか、私たちが悩むほどでした。

まずは、図書館で基本的な読み方の指導です。送辞の男子はちょっと緊張していたのか声がうまく出ていません。句読点以外のところでも息継ぎが入り、切れ切れに聞こえます。抑揚をつけようとしているせいでしょうか、トーンを落とすところが暗く感じてしまいます。彼が本来持っている元気さが出てないようです。そこで、原稿の持ち方、できるだけ顔を上げて喉を開けること指導し、声を落とすことで抑揚をつけるのではなく声を強くすることで強調するよう意識してもらいました。2回目は元気さが前面にでた、思いが伝わるものになってきました。

答辞の女子は、全体的にペースが速く感じられました。原稿量が多いため、時間を気にしているのかもしれません。言葉を強調する時、ちょっと語尾が上がる癖がありました。こういったことを指摘したあと、再度読んでもらいました。全体的にとてもよくなったのですが、何か物足りません。気持ちのこもった読み方ですが、答辞として聞くと違和感があるのです。一つひとつのエピソードに対して個人的な思いが強いので、私的なものに聞こえるのです。いつもは具体的で明確なアドバイスをしてくださるアナウンサーの方なのですが、今回は困ってしまいました。伝わらないことを覚悟の上で次のようなことを話されました。

卒業生みんなの代表として読み上げてほしい。書かれているのはあなたの気持ちかもしれないが、そこにみんなの気持ちが重なっているはずだ。一人ひとりがあなたの言葉に自分のことを思い出すのだ。私たちという言葉は、文字通り卒業生みんなの思いだ。その思いを伝える気持ちで読んでほしい。

このような抽象的なアドバイスをされたことはかつてありません。強く読む、ゆっくり読むといった、具体的なことは伝えていません。言われたからといってすぐにできるようになることは難しいでしょう。しかし、こうとしか言えなかったのです。無理を承知で、彼女自身が考え、変化することを期待しました。

体育館では、本番同様にマイクを使い、BGMも流しての練習です。
送辞の男子は、マイクを意識して緊張したのか、声がこもって、先ほど直ったことがまた出てきました。身体を少し動かしてリラックスさせてから、よい姿勢をとるように意識させました。その上で、声が前に出るように、マイクから少し距離をとるよう指導しました。その結果、声がしっかりと出て、言葉がはっきりと伝わるようになりました。下手に感情をこめて抑揚をつける必要はありません。話の中身が濃いだけに、元気よく読み上げて内容をしっかりと伝えれば感動的なものになるのです。読み手のよさを活かすことが大切なことがよくわかりました。

答辞は、そのあまりの変容に驚いてしまいました。先ほどとは全くの別人です。堂々とした、聞き手を引き込む答辞です。あえて指摘しなかった細かい欠点もなくなっています。途中で原稿を見るのをやめて、聞き入ってしまいました。最初の印象では、彼女は文化部なのかと思ったのですが、聞いてみたところ実はバスケットボール部のキャプテンでした。これがきっと本来の姿なのでしょう。みんなの思いをしっかりと伝えてくれる、力強くまた感動的なものになっていました。後半に比べて前半の方がややトーンが強い感じだったので、前半を抑え気味にするようにアドバイスしましたが、すぐに修正しました。素晴らし対応力です。

BGMは聞こえなくてもいいのでできるだけ小さくするようにとお願いしました。BGMに頼らなくても、2人とも十分に思いは伝わります。BGMがかえってじゃまになるくらいなのです。
2時間ほど、一人4回ずつの通読でしたが、みるみる上手になっていく姿に、子どもたちの持つポテンシャルのすごさをあらためて教えられました。
この後の指導について、担当の先生から具体的なアドバイスを求められました。お話を聞くと、プロのアナウンサーに来てもらうので、あえてこと細かく指導をしないでいたそうです。今回の指導を元に、本番当日までブラッシュアップするように指導を続けてくださるということです。私たちとの連携を意識していただけたことをとてもうれしく思いました。先生方のきめ細かい心遣いが、子どもたちの素晴らしい姿の陰にあるのです。

卒業式当日は、2人とも素晴らしい送辞・答辞を披露してくれることと思います。毎回的確なアドバイスをしていただけるアナウンサーの方からだけでなく、子どもたち、先生方からたくさんのことを学ばせていただけました。ありがとうございました。

若手の授業から多くを学ぶ(その2)(長文)

若手の授業から多くを学ぶ(その1)(長文)」の続きです。

最後の授業は、1年生の国語でした。「これはなんでしょう」というゲームの1時間目でした。
授業規律を大切にしようと意識していることがよくわかる授業でした。教科書を全員で音読する場面で、「読むときの姿勢は?」と子どもたちに声をかけます。子どもたちは素早く教科書を持って読む姿勢をとり始めます。授業者は子どもたちがそろうのを待っていましたが、数人ができない状態で読み始めました。どうなるかと見ていました。まわりの子どもが大きな声で読み進むとちゃんと気づき、教科書を手に持ってしっかり参加します。なるほどと、思う場面です。子どもは意図的に指示を無視していたわけではなさそうです。授業者は指示が通るまで待つことの大切さはわかっていると思います。注意することで指示を徹底することは避けようとしていることも伝わります。ネガティブな言葉が授業中にほとんど聞かれなかったことからもわかります。以前はきちんと指示が通るまで待っていたのでしょうが、規律が少し弛んだ時点で、待ちきれなくなったのかもしれません。指示が通らない子どもも決して逆らっているわけではありませんので、できている子どもたちをほめることで気づかせていくとよいでしょう。
また、授業者は音読の際、手元の教科書をずっと見ていました。子どもの声がしっかりでているので参加していると判断していたようですが、やはり子どもたちのようすをしっかり見ることが大切です。子どもたちのテンションの高さも気になります。音読で目指すものが何かがはっきりしていないことが原因です。大きな声で読むことだけが目標になってしまっています。「句読点でしっかり間をあけよう」「○○を見つけながら読もう」というような目標を意識させるとテンションは下がります。
授業規律を維持するためにルールをつくって意識させるようにしています。たとえば、「答がわかっていても勝手にしゃべらない」というルールがあります。「答がわかっていても我慢してくれた人がいるんだね」とほめるとともにルールを全体に意識させていました。よい方法だと思います。学年が上がってくれば、固有名詞でほめることも必要になってくると思います。
授業者が子どもたち背を向けて板書しているとき、子どものようすがだれているのが気になります。笑顔が多く、子どもたちも安心して参加できているのですが、指示をするときや指示が通るのを待っているときの表情が硬いことが問題です。子どもたちをチェックしているという表情なのです。他の場面で笑顔が多いだけに子どもたちは緊張することになります。その反動で視線が外れると弛むのです。笑顔で指示をして、子どもたちが指示に従うことを喜んでいるという姿勢で接するようにしてほしいと思います。緊張と集中は違うのです。
授業者が用意した「これはなんでしょう」ゲームに挑戦させます。1問目はすぐに答がわかるもの用意していました。これは、ゲームのゴールは何かを理解させるためです。次の2問は、子どもから質問をしないと、ヒントだけでは答がすぐにはわからないものです。なかなかわからない状況を経験することで、このゲームのポイントや注意すべきことに気づかせるための活動です。授業者の出すヒントに「えっ」という声が上がります。わかった人と問いかけると半分くらい挙手します。質問する必然性が子どもに生まれました。できれば、「えっ」とつぶやいた子どもに、「どういうこと」と聞いてあげるとよいでしょう。「わかんない」といった発言に対して、「他にも困っている人いる」と問いかけ、「わかった人」ではなく、「困っている人」を起点に進めるとより必然性が増します。
順番に子どもに質問をさせますが、次第に集中力が落ちて聞かない子どもが増えてきます。答がわかることが目的となっているので、わかった人は聞く必要がなくなってしまうからです。ここは、「よい質問をして、全員答えがわかるようにすること」を目標にするとよいでしょう。わかった子どもも積極的に参加できますし、「今の質問の答でわかった人」「すごい、○人もわかったね」と質問を評価することもできます。また、国語の授業としては、表現にもこだわりたいところです。質問は語尾に「ですか」をつけるといったことを意識させて、「質問の形になっているね」と評価するのです。漫然と活動すると、テンションが上がっていき、その一方で参加できない子どものテンションが下がっていきます。一つひとつの活動に子ども目線の目標を持たせることが大切になります。
3つ目の問題では、答が「チーター」と「ライオン」に分かれました。授業者が正解を発表して終わったのですが、子どもたちに根拠を求めてほしいところです。「今の意見で答が変わった人」「納得した人」とつなぎ、友だちの考えを聞いて自分たちで答を見つけていく経験を早くから積ませたいのです。
後半は子どもたちに、次回は自分たちで問題をつくってゲームをすることを伝え、事前にゲームを進めるためのルールを考えることを課題にしました。ここでも、授業者が規律をとても意識していることが感じられます。
授業者の子どもの発言を受け止める力が、この場面では見事に発揮されました。子どもの発言には「なるほど、ありがとう」と受け止めます。「失格はなし」というルールを提案した子どもから「いやな気分になるから」という理由を引き出し、「すごいね。今の聞いた?」と他の子どもに復唱させます。ちょっと声が小さかった子どもに対して、「とってもいいこと言ってくれた。後ろの方の人、聞こえた?」と子どもにつなぎます。聞こえなかったという声に、「後ろの人に聞こえるように、もう少し大きな声で言って」と促します。しかし、せっかく言い直したのに、授業者がそのあとを引き取って説明してしまいました。もったいない場面でした。発表したあと出番が終わったと集中力をなくす子どもが多いのは、自分の発言を起点として、友だちとつながっていくことがないことが原因です。ここは、発表者に声を大きくするよう指示するだけでなく、「みんな、○○さんの意見をしっかり聞こうね。いい?じゃあ○○さん、もう一度聞かせてください」と他の子どもに聞くことを意識させるのです。そして、「○○さんの意見聞こえた?もう一度言ってくれる?」「○○さんの意見、どう思った?」「○○さんの意見のどこがよかった?」と、もう一度返すのです。
「間違えてもうるさくしない」「わからなければ、追加で質問できる」といった、友だちを思いやる言葉がたくさん出ます。他者を思いやることを基本に日ごろからルール作りをしていることがよくわかります。立派な学級経営だと思います。
気になったのが、ルールの決定プロセスです。提案に対して他の子どもの意見を聞くこともあるのですが、「いいね」「そうしようか」と教師が決定してしまうのです。結局、発表する子どもと教師で話が進むので、次第に集中力をなくす子どもが増えてきます。少し時間がかかってしまいますが、子どもたちが合意することも必要です。
手遊びをしている子どもに、「○○さんが話してくれるから、手の物を離そう」とちょっと強引にやめさせました。しかし、すぐにまた手遊びを始めました。「○○さんの話を聞こう。話を聞くときはどうすればいい?」と投げかけ、子どもが手遊びをやめて体の向きを変えたときに「よい姿勢だね。ありがとう」とほめるようにするとよいでしょう。注意をされたという気持ちにしないように工夫することが大切です。
「答を教室の中の物から選ぶ。答が見つかったらそこに行って、『これだ』と教える」というルールが提案されました。いきなり否定するわけにもいきません。授業者は苦しんだことと思います。「どうする」と問いかけ、他の子どもの意見を聞きます。否定的な意見も出ますが、「今の意見をどう思う」とつないで広げることはしませんでした。反対が多ければ考えが変わったかもしれませんが、単発の反対なので発案者は自分の考えにこだわる姿勢を見せます。ここで、授業者はこのアイデアは素晴らしいが学級では人が多いので大変になると子どもから出た言葉をうまく使いながら、否定しました。友だちと遊ぶ時にやるといいと認めて、「○○さんのアイデアに拍手」と全員に拍手させました。認めてもらえたので発案者も笑顔で納得しました。なかなかとっさにできる対応ではありません。子どもを否定しないということを原則としているからできた対応だと思います。授業者のこの姿勢は称賛に値すると思います。
最後は、子どもの集中力が落ちてきました。ここで、授業者は3回手をたたきます。すると子どもも「は、あ、い」と手を3回たたきながら答えます。これもルール(約束事)です。子どもたちに「話を聞いて」「こちらを見なさい」と注意をしないでも指示を通すためのよい方法です。1回では集中できなくて、2回やる場面がありました。子どもたちも悪い意味で慣れてきて、このルールも少し形骸化してきているようです。このやり方は、教師が声を出さないのがポイントなので、授業者もじっと声を出さないようにしています。時には原点に戻り、時間がかかってもきちんと指示が通るまで待つことも必要でしょう。声を出さずに、一人ひとりと目を合わせて、笑顔でうなずくという方法もあります。従わない子どもがいてもよしとするとそこから崩れていくので注意が必要です。
最後に、黒板に書いたルールを全員で読ませて、ルールに関するクイズを出しました。○×を手で示させます。子どもたちは、友だちの答を見て確認しています。授業者は、1問ごとに「正解は、」「○」「×」と発表します。子どものテンションはまた上がっていきました。まず、板書を読む目的を子どもに明確にする必要があります。「今から、しっかり読んでルールを覚えよう。この後クイズをするよ」と目標を明確にし、クイズは後ろを向かせて黒板を見えなくするとよいでしょう。正解の判定も、子どもにまわりを見ながら確認させればいいのです。もし、何人か間違えているようであれば、「さあどうだったかな?」と振り返らせて、子ども自身で修正させるのです。教師が正解を教えずに済むのなら、それにこしたことはないのです。

授業観がはっきりと伝わる、とても好感の持てる授業でした。目指すものがはっきりしているので、課題もはっきり見えてきます。このような授業であれば、アドバイスもどんどん具体的になります。今できていることがたくさんあるので、それを活かすことと、その上に何を足せばいいのかを意識して授業をしてほしいと思います。たとえばテンションを下げる技術です(テンションを上げすぎない参照)。無責任に参加できる活動を減らす。しゃべり方の間を工夫したり、トーンを下げたりすることを意識する。こうすることで、子どもたちがより落ち着いて授業に参加できるようになります。
授業者からは前向きな言葉をたくさん聞くことができました。これからの進歩がとても楽しみです。次の機会には、教材についてもう少し話ができればと思います。

実はこの学校は、昨年度の「愛される学校づくりフォーラム2012 in東京」で国語の授業で名人に挑戦してくれた先生の所属していた学校です。今回授業を見せていただいた先生方も提案授業の検討会(「実りある指導案検討会」「授業者も参加者も学びあえた模擬授業」「提案授業を通じて多くのドラマがあった」参照)に参加していたことがすぐにわかりました。そこで、話し合われたことが、彼らの授業にしっかりと反映されていたからです。あの授業づくりを通じて授業者以外も大いに学ぶことができたのです。とても素晴らしいことです。残念なことは、そこで学んだことを活かしてはいるのですが、次に新たな壁にぶつかって止まっているのです。あれから互いに学び合う機会があまりなかったようです。

研究を進めるにあたって、どのような子どもの姿を目指すのかをまずしっかりと共有すること。そのために必要なことは何かとそのステップ明確にすること。その上で、互いに学び合うための仕組みをつくること。ICTの活用については、できるだけ具体的な教科や場面に即して、目的を明確にした使い方を提示すること。そして、3月中には、どのようにして学び合うのかを実際に試し、具体的に共有し、4月からすぐにスタートできるようにすること。こういったことをお願いしました。
今回、どの授業もとても多くのことが学べるものでした。互いに学び合う素材が実にたくさんあるのです。たくさんの先生方に見ていただき、そこで起こっていることを共有すれば、学校全体として大きく進歩できます。研究を進める体制さえできれば、可能になることです。この1か月が勝負だと思っています。どのような体制がつくられ、どのように進化していくのかとても楽しみです。

若手の授業から多くを学ぶ(その1)(長文)

来年度視聴覚(ICT)で研究発表を予定している学校で授業アドバイスをおこなってきました。この日の目的は若手3人の授業を見せていただいて、今後どのように研究を進めていくか、具体的にすることです。

最初の授業は5年生の算数でした。
子どもたちは騒ぐといった目立った動きをするわけでないのですが、指示に対する動きが遅いことが気になりました。授業規律の甘さが目立ちます。教科書を見ないように指示して、実物投影機で教科書を映しているのですが、教科書を開いている子どももいます。授業者の目線があまり動きません。手のつかない子ども、手が止まっている子どもが何人かいるのですが、特定の1人だけ個人指導して、他の子どもとは全くといっていいほどかかわりません。
1問1答で進み、ハンドサインで手が挙がれば先に進んでいきます。手のついていなかった子どもも即座にハンドサインは出します。根拠を問う場面がないので、正解だと思えばハンドサインで賛成をするのです。よくできる子どもが挙手をしません。自分の活躍の場がそこにはないことを知っているのです。個人作業がすぐに終わっても、追加の指示もありません。わからない子どもがわかるようになる、わかっている子どもがより深く考える、そういう場面がないのです。
「なるほど」と受容する言葉は時々聞かれますが表情に乏しく、子どもには受け止めてもらえているという安心感がありません。友だちの言ったことを他の子どもに言わせる場面がありました。指名された子どもは一生懸命に説明するのですが、途中で言葉に詰まりました。そこで授業者は、「助けてあげて?」と他の子どもを指名し、その子どもを座らせました。発表させた後、そのまま授業は進んでいきました。うまく言えなかった子どもは、声を押し殺すようにして泣いていました。10分以上顔は上がりませんでした。
教科面でも、「1ずつ増えると同じ数だけ増えるから比例」と間違ったことを教えるなど、問題となるところがたくさんありました。しかし、今はそのことよりも子どもとの人間関係をつくり、授業のスタイルを変えることのほうが先だと思いました。授業アドバイスは教科のことにはほとんど触れませんでした。

子どもが泣いていたことには気づいていたようです。休み時間にフォローはしたようですが、何がいけなかったのか、どうすればよかったのかについては、自身で明確にはできていないようでした。助けてあげてと言いながら、彼は助けられてはいません。ナイフとフォークをうまく使えず食べられなくて、助けがきたと思ったら、代わりに料理を食べられてしまった。そのような情けない状況に置かれたのです。まわりの子どもに助けを求め、彼らに答えさせるのではなく、教えてもらって本人が答える。本人をほめ、「助けてもらってよかったね」「助けてくれてありがとう」とつなぐのです。もし今回のように他の子どもに発言させたのなら、「今、○○さんの言ってくれたことでいい」と本人に確認してもう一度言わせ、ほめて終わる。こういう対応が必要です。また、子どもの言葉をうなずきながら聞いて、安心して言葉を続けられるようにすれば、そもそも言葉に詰まらなかったかもしれません。
授業でまず意識してほしいことに笑顔があります。私と話をしているうちに、素敵な表情が現れます。この笑顔を意識して子どもたちに見せるのです。これは訓練です。子どもが間違えた答やおかしなことを言っても笑顔をつくれるようになるのは訓練なのです。次に、大切にしてほしいことは、子どもの答に「正解」と言わないこと。「なるほど、・・・と考えたんだね」と受け止めて、「じゃあ○○さん」と最低3人は指名してほしいのです。私はこれを1問1答に対して1問3答と読んでいます。正解と言わないだけで、子どもは揺さぶられます。「正解」と言わない限り何人でも指名できます。答がわからなかった子どもも、友だちの答を聞いて正解は何かを考えます。もし、意見が分かれたら、焦点化して再度考えさせてもいいですし、間違えた子どもに「違う意見があるけどどう?」と再考を促してもいいでしょう。最終的に、教師が「正解」と言わずに、子どもたちで判断させることで、授業に積極的に参加するようになります。
子ども見るということに関しては、教師の視点ではなく、子どもの視点で見るという発想が大切です。「集中していない」「注意しよう」ではなく、「どうして集中しないのだろう」「何を考えているのだろう」「どうすれば集中するのだろう」と考えるのです。また、子どものどんな姿が見たいのか、どうなってほしいかを意識して授業を進めれば、子どもの姿が気になるので、自然に子どもに視線がいくようになります。
授業者にはこのようなことを話しました。授業者は明日から挑戦すると力強く答えてくれました。前向きな姿勢にうれしくなりました。きっと大きく成長してくれることと思います。
おそらく、授業者は今までも「子ども見なさい」といったことは指摘されてきたと思います。しかし、具体的にどうすればいいかは教わっていなかったのではないでしょうか。また、指摘をされるだけで、そのあとどう変わったか、どこで苦しんでいるかということをフォローしてもらっていなかったように見えます。ここは、組織として若手が育つ環境を整えていく必要があると思います。

2つ目は、3年生の算数、「□を使った式」のTTの授業でした。
デジタル教科書を積極的に使っていますが、まだポイントがわかっていないようでした。デジタル教科書は紙の教科書では書かれているところも空欄にして、クリックすると見えるようにしてあります。一斉授業では見せない方が使い勝手がよいからです。しかし、多くの場合イラストはそのまま表示されています。これは、イラストが問題把握や問題提起に有効だからです。授業者はイラストを使わずに、自分でつくったあめの袋と絵で問題を提示しました。紙の教科書を使うときには、子どもたちの顔を上げて表情を見るためには有効な方法です。しかし、デジタル教科書でイラスト見せることで十分に目的は果たせます。
子どもは友だちの発言を聞こうとする姿勢を見せます。また、一部の子どもだけですが、友だちの方に体を向ける子どももいます。しかし、子どもの発言を教師が板書すると、すぐに体は正面を向いてしまいます。「おっ、○○さん友だちの方を向いて聞こうとしているね。△△さんも。いい姿勢だね」とほめて、こういうよい姿を学級全体に広げることをしてほしいと思います。
「あめの袋に入っている数が○個だったら全部でいくつ?」と問いかけ次々答えさせます。テンポよく進みたいところなのですが、子どもの答に対して、授業者は自分で式も板書します。この場面では□+4という式をつくりたいので、式を考えることのほうが大切です。「全部でいくつ?式は?」と式も子どもに言わせる必要があります。「気づいたことない?」「いつも式には何が入っている?」と問いかけ、「+4」「ふくろの数+4」という言葉を子どもたちから引き出して、それを板書すればよいのです。言葉だけでは不安であれば、あらかじめデジタルでスライドをつくっておいて、子どもが答えるたびにスクリーンに表示すればよいのです。
ここで、気になったのがパソコンの位置です。パソコンとプロジェクターがボックスに設置されているのですが、教師はパソコンを操作するたびに教卓の前を回って移動しなければなりません。授業の流れが止まるのです。物理的に位置を変えるのが難しいのであれば、ワイヤレスのリモコンかマウスを準備する必要があります。
□+4=16のときに□にあてはまる数を求めることが課題です。その前段階として、式を使わずに袋のあめの数を求める「アイデアある?」と問いかけます。子どもからの「迷っている」というつぶやきに「そうだよね」と返します。こういうやり取りが、子どもが安心して授業に参加できる雰囲気をつくります。にもかかわらず、参加しない子どもがかなりいます。参加しなくても最後は教師が説明するので困らないのです。「○○さんのいい意見聞こえた」とつなげようとしますが、聞こえなかったという声に、「もう一度言ってくれる」と返します。ところが、そこで、教師が「そう、・・・」と言って復唱し、次に進みました。これでは、参加しなくなるわけです。聞こえなかったといった子どもに「聞こえた?もう一言ってくれるかな?」とつなぐ必要があるのです。
袋のあめの数を□にするというアイデアがなかなか出てきません。「よくわからない」というつぶやきも聞こえます。何とか活かしたいところなのですが、結局授業者が□+4を出しました。それに対して、「わかった」とつぶやいた子どもがいました。子どもから出てこなかったアイデアなので、子どもたちに理解させる必要があります。この子どもに発言させ、そこから広げたいところですが、残念ながら先へ進んでしまいました。
気になるのが、デジタル教科書でスクリーンに表示していることを授業者が再び板書していることです。もし、板書することに意味があるのであれば、スクリーンの表示はやめるべきです。使い分けを明確にする必要があります。
課題が明確になったところで、今日のめあては何かを子どもに考えさせます。なかなか面白い発想です。子どもたちは一生懸命に取り組みますが、なかには鉛筆を持てない子どももいます。課題がまだよく理解できていないのでしょうか。
子どもに発表させます。数人指名して板書したうえで授業者が「めあて」を書きました。これでは、教師の求める答探しになります。また、発表しても根拠も問わないので、とりあえず予想しただけになってしまいます。時間をかけることにあまり意味はありません。もし、この発想を活かすなら、できるだけ時間をかけずに書かせる、または次々指名して意見を聞く。授業の最後に、振り返りとして「今日のめあて」を書かせて予想と比べさせる。思いつきですが、このような展開もあるでしょう。
□がいくつになりそうかたずねます。「12、3個になりそう」とい言葉が出てきます。「Kさんが言ってくれた予想をしているんだね」と先ほどの「めあて」でてできた言葉とつなぎました。Kさんは、このあとずっと積極的に参加していました。こういう評価やつなぎが子どもの意欲を高めることがよくわかります。とてもよい対応でした。
答が12になることを先に共有して、「説明する」ことを主課題として示します。答があっているかどうかを悩ませず、説明に集中できるようにとの考えです。ここで、説明の方法について問いかけます。これはとても大切なことです。日ごろから子どもたちにメタな知識を意識させていることがわかります。最初に指名した子どもが「主語と述語をはっきりさせて説明する」と発言しました。ちょっとずれています。あとで授業者に確認したところこれは国語の時間でいつも意識させていることでした。どの教科でも問いかけているのです。授業者は否定せずにこの発言を認めました。これもよい対応です。授業者と子どもたちの人間関係がよい理由がよくわかります。ノートを見ている子どももいます。このよい行動をほめて広げたいところでしたが、「筆算の時にどうした?」と授業者がどこを見るか指示してしまいました。ちょっと残念でした。「言葉」「式」「図」「絵」といった説明のポイントを整理して課題に取り組ませました。授業者はすぐに机間指導に入りましたが、ちょっと待ってほしいところです。ここは、手がつくかどうか、まず全体を見渡して、それから動く必要があります。すぐに手がつかない子どもも目につきます。まずは、彼らのところに行くか、何らかの指示が必要です。とはいえ、この難しい課題を子どもたちはメタな視点を手掛かりにしてしっかりと取り組んでいます。いく通りもの考え方が出ています。日ごろから説明することを大切にしていることがよくわかります。
友だちに疑問を確認している子どもがいましたが、相手は自分の作業に集中していて返事をしてもらえませんでした。ちょうどそこへT2がやってきましたが、気がつかなかったのか何もしませんでした。ここは、「○○さんが聞いているよ。答えてあげて」とつなげるとよい場面でした。日ごろから、「友だちにたずねられたら、全力で答えてあげるようにしよう」と指導しておく必要もありそうです。
最後に「ノートを見せながら隣同士で話し合おう」という指示がありましたが、自分の考えを話して終わってしまいます。また、友だちの説明を聞いて、自分の書いたものを消してしまい、書き直している子どももいました。「聞きあって、なるほどと思ったら自分のノートに書き足すように」と指示をすれば、よりしっかりと聞け、自分の考えも残しておけるようになります。横3人で並んでいる列は3人で話し合うように指示しましたが、どうしても2人と1人に分かれてしまい、非効率的です。前後でペアをつくるようにすればよいでしょう。
全体での話し合いの場面は、実物投影機でノートをスクリーンに映しながら子どもに説明させて進めました。ところが、ノートを移動するなどの操作をするために授業者が実物投影機のそばを離れることができません。子どもの説明が終わるまでそこに釘付けで、発表者とスクリーンを見ています。子どもたちの反応を見ることができませんでした。子どもたちに自分で操作できるように指導して、自身は全体を見るようにする必要があります。
発表が終わると、○○さん方式と言って板書をします。「○○さんのすごいと思うところは?」と問いかけるのですが、結局授業者が説明してしまいます。これでは、自分たちで考えずに、黒板を写してしまいます。「どんな数を入れる?」「次は何を入れるの?」と問いかけ、「□の中に『順番』に数を入れる」と、キーワードを子どもたちから出させ、焦点化したいところです。
図を使った説明では、「図を使った人?」と同じ考えの人をつなぎますが、使わなかった子どもとの間もつなぐ必要があります。教師が板書せずに、自分で図を書いて考えさせる時間を取る、その図を使って他の子どもに説明させるといった活動をしたいところです。図を見て「あっ」と言った子どももいました。この子に発言させて、そこからつなげていくこともできそうでした。しかし、授業者は機械に縛られて、その発言を拾うことができませんでした。
ちょっと気になる場面がありました。友だちの説明の時に大きな声で反応する子どもがいました。興奮しやすい子どものようです。友だちから「うるさい」という声がでました。ここは「元気がいいね。説明が聞きづらいから次はもう少し声を小さくしよう」というように、教師が間に入ることが必要でしょう。
子どもたちの説明が一通り終わったあと、教科書を広げさせます。デジタル教科書を使ってキャラクターの考え方を示し、続けて説明も表示し、○○さんの考え方と一緒だと説明します。せっかくデジタル教科書を使うのに、教科書を広げては隠しているところが見えてしまうので意味がありません。教科書は広げさせず、キャラクターの考え方だけ見せて、誰の考えと同じだろうと問いかけ、子どもたち考えさせたいところです。
次に問題に移るとき、「さっきと違うみたい」とつぶやく子どもがいます。時間がないので最後にノートだけを映して教師が簡単に説明する場面では「○○さん字がきれい」とつぶやく子どもがいます。日ごろから拾っているからこそ、子どもたちはつぶやくのだと思います。この授業ではICT機器を操作することに授業者が追われ、拾うことがあまりできませんでした。ICTが授業者のよさをかえってつぶしてしまったのです。しかし、この授業から学べることはとても多かったと思います。日ごろから子どもたちとよい関係を持って授業をしているおかげで、ICTを活用した授業の落とし穴や活かしどころに気づけます。

授業者からは、子どもの発言をいつ黒板に書いたらよいのか質問されました。授業者も悩んでいたのです。子ども同士をつなぎながら、子どもたちで結論が出してから書くようにするとよいことをアドバイスしました。また、あえて黒板には書かずに、子どもたち自身でノートに書かせる方法もあることも伝えました。
子どもの考えをつなぐのに、作業を途中でいったん止め、図などノートの一部分を映して、「こんなことを書いている子もいるよ」と紹介だけする方法もあることを紹介しました。授業者はある学校を訪問した時に、子どもがノートをしっかり書けていてすごいと思ったそうですが、そこへの道筋が見えたと言ってくれました。課題を持って取り組んでいる人はちょっとしたきっかけで、多くのことに気づけます。この授業者はこれからもどんどん進歩していくことでしょう。
長くなりましたので、この続きは「若手の授業から多くを学ぶ(その2)(長文)」で。

愛される学校づくり研究会の打ち合わせ

先日、「愛される学校づくりフォーラム2013 in 東京」の会計報告と来年度の「愛される学校づくり研究会」の活動についての検討会に参加しました。

フォーラムの会計報告を聞きながら、あらためて多くの方に参加いただいたことを実感しました。参加者、企業会員はじめ、多くの方に支えられていることが数字からもうかがえます。先日終わったばかりですが、会場の関係で来年度のフォーラムの日程もこの時期に決めなければいけません。テーマと合わせて4月の研究会に提案できるところまで詰めることができました。今年のフォーラムのアンケート結果から、次回も多くの方に期待いただけていることがわかります。1年かけて、会員の力を結集し期待に応えるものにしていきたいと思います。正式に決定次第、ここで紹介させていただきます。

また「愛される学校づくり研究会」では会員を中心に、コラムをホームページに掲載しています。今回「楽しい授業研究」をテーマに12回の連載を引き受けることになりました。授業研究を楽しく、先生方の授業力アップにつながるものするためのポイントをお伝えできればと思っています。毎月締め切りに追われることになりそうですが、私自身が楽しんで書ければと思っています。掲載日には、この日記でお知らせいたします。

この会で、千葉県立千葉中学校3年生の山本恭輔君のプレゼンが話題になりました。その内容の高さと中学生とは思えない堂々とした話しぶりはちょっとした衝撃でした。山本君個人の資質の高さもあるのでしょうが、彼だけが特別ではないと思います。どの子どもも私たち大人が考える以上に大きな可能性を持っています。その可能性を引き出す環境や刺激が与えられたかどうかの問題です。学校は可能性を引き出す場になっているのでしょうか。子どもたちの可能性を過小評価し、子どもたち自身で考え行動する機会を奪い、教え指示することばかりしていないでしょうか。
山本君が特別だと思ってしまえば、彼のような子どもを増やすために私たちができることは何もありません。しかし、私たちがその可能性を引き出していないだけで、山本君のような力を潜在的に持っている子どもが全国にたくさんいるはずです。私たちの目の前にいる子ども一人ひとりの可能性を引き出すために何をすべきか、何ができるのか。あれこれ考えるきっかけとなりました。

小学校で授業アドバイス(その2)(長文)

小学校で授業アドバイス(その1)(長文)」の続きです。

授業研究は5年生の算数で、○や△を使った式でした。
授業者はこの日の授業の流れを示しますが、算数ではその必然性を重視するので作業の場合と違って先が見えることに意味はありません。むしろじゃまなのです。
ディスプレイを使って復習や課題の提示をするのですが、画面を切りかえるたびにパソコンの前に移動します。これではかえってテンポが悪くなってしまいます。ワイヤレスマウスやリモコンなどを使うことを考えてほしいと思います。

この日の課題を黒板に書きます。授業者は笑顔で素早くノートに書くように指示します。書けた子どもに「早いね」と次々に声をかけます。子どもたちの授業規律がよい理由がわかります。全員ができるまで、ちゃんと待っています。指示の徹底を授業者が意識していることがよくわかります。最後に「待っててくれてありがとう」と一声かけることができました。こういう言葉が、教師と子どもの関係をよくしていきます。できれば最後の一人に、「待っててもらえてよかったね」と言ってつなげると、子ども同士の関係をよくすることにつながっていきます。

問題文からわかることを確認していきます。反応をしてくれるようにうながして、子どもの意見を全体に問い返しますが、まだ素早く反応してくれません。テンポが悪くなってしまいます。こういう場面では、列などで次々に指名して確認することでテンポを上げ、最後に全体でもう1度確認するとよいでしょう。

本時の第1課題は、関係を○と△で表すことです。「表せそう?」と子どもたちに問いかけますが、あまり反応はありません。授業者が4年生で○と△の問題をやったことを投げかけると「あっそうだ」というつぶやきが出ましたが、残念ながら、拾うことができませんでした。こういう言葉を拾うことで、子どもたちにとって反応する意味が出てくるのです。ただ反応してというだけでは反応してくれないのです。4年生でやったと思いださせるだけでなく、ディスプレイに4年生の教科書を映し出して同じ問題を解いてみるといったことをしないと1年前のことはなかなか思い出せません。もう一工夫ほしいところです。

個人作業のあとに発表させますが、△=○+7という式を1人発表させて終わってしまいます。○+7=△という式を取り上げませんでした。この式を書いている子どもは自分の考えが正しかったの、正しくなかったのか。正しくないと思ったのなら、なぜいけないのかわからないままです。教科書は△=を示して、右辺を考えるように構成されています。この議論を避けるためです。そこをあえて制限しなかったのですから、2つの式を取り上げ、どう評価するかを考えておく必要があります。求めるものが△なら、△=○+7の方がわかりやすいといった言葉を引き出して、この書き方を使うことにしようと納得させるといったことが必要です。中学校での関数へのつながりを意識した展開を考えてほしいところです。

続いて、表を埋めるという次の課題が提示されます。なぜ表が必要なのかは論議されていません。4年生で表のよさを学習していますが、ここでも触れておく必要があります。ここも算数の授業としては問題でしょう。
兄役と弟役の子どもを2人前に出して首に札をぶら下げます。札には兄と△、弟の名前と○が書いてあります。弟役に数字のカードを持たせ、「弟が1才の時に兄は?」とみんなに問いかけます。兄役はみんなの答に合わせて数字のカードを持ちます。友だちが前に出ているので、子どもの顔も上がりテンションも上がります。しかし、ここでこのやり取りはあまり意味がありません。教科書の問いは、「○が1つずつ増えていくと、△はどのように変わっていくか、・・・」です。○と△という抽象化をされたものを使って式で考えることが目的の課題だとわかります。兄と弟という表現をここでは使っていない意味を理解できていなかったのです。子どもたちは、札に書かれた△や○も意識していませんでした。式をつくったのですから、ここでは式を使って表を埋めることをさせなければいけません。「○が1のとき△はいくつになるか、この式を使うと簡単に求められるね」といった確認が必要になるのです。
子どもを使ったこのような具体化が活きるのは、最初の問題文の把握や式を考える場面です。その場合でも、単に弟の年齢に対して兄の年齢を言わせるのではなく、「兄はいくつ?式は?」と式も問いかけて、式は「いつも弟の年齢+7」という関係に気づかせることが大切です。

授業者が用意した表は5までで閉じていました。教科書はちゃんと5から先があることがわかるように、表の端は横に伸びています。こういうちょっとしたところにも気を使う必要があります。子どもたちに作業させますが、5で終わらずにその先も書いている子どもがいました。こういう子どもを活躍させたいところですが、5まで埋めて「完成しました」と言ってしまいました。また、「表の変わり方」という言葉も使っていました。あきらかにおかしな表現です。また、教科書の問いは「どのように変わっていくか、調べてみましょう」です。それに対して、授業者は「2つの数量の関係を考えよう」と課題を変えました。教科書が、「△=・・・」の形にこだわっている、その前の問いでは、「○が1つずつ増えていくと、△は・・・」と増分を意識しているのは、関数的なとらえ方をさせたいと考えているからです。授業者は教科書の意図をどのくらい理解して、この発問を選んだのでしょうか。多様な考え方が出ればいいというわけではありません。もし、多様な考え方を出させたいのであれば、変化を見る考え方(横の関係を意識したもの)と2つの数量の関係だけに注目する考え方(表を縦に見る)の違いを焦点化することが求められますが、残念ながら、そのような場面はありませんでした。
教科書の問いには主語が書いてありません。ということは「何が」も問う必要があるということです。「何が変わるの」に対して、○と△を出させて、「○が変わると△も変わる」という関数の考え方につながる言葉を引き出してほしいところです。

子どもから「○が1増えると△が1増える」という発言が出ました。この発言を授業者はすぐに板書しました。一度板書すると、この考えや表現に縛られます。この表現は「ずつ」が抜けています。この違いを明らかにしていくことが必要です。板書せずに、何人か指名すれば言葉が足されていきます。子どもから「ずつ」が出てくるはずです。
ここで、この発言を揺さぶるという方法もあります。「○ってどこ?」「いくつのとき?」と問い返したり、「○が1増えると△は」と言いながら、対応しない△を指さして「1増えるの?」とわざとおかしなことをしたり、1つだけ確かめて「確かにこの時は言えるね」と言って、「ほかでも言える」「いつでも言える」という言葉を引き出したりするのです。特に、「必ず?」「いつも?」「絶対に?」という言葉は算数で大切にしたい言葉です(「算数・数学で大切にしたい問いかけ」参照)。授業者の表では○の欄は5までしか書いてありませんが、「○が10でも?50でも?」と確認することで、表が一部でしかないことにも気づけますし、5から先の表をつくった子ども活躍させることもできます。このことは、関数の定義にかかわる「定義域」を意識することにもつながります。「1から始まっている」という発言もありました。この発言を授業者は受容して終わりましたが、定義域の考えにつなげることもできたはずです。「それってどういうこと?」と問い返すと、「0がない」「おから始まるんじゃないか」といった言葉が出てきたのではないかと思います。小学校では扱いませんが、「0.5とかはダメなのと?」揺さぶると、連続量への拡張を意識させることもできます。結論を出す必要はありませんが、一部の子どもへの刺激にはなります。教科書がわざわざ兄弟の誕生日を同じだとことわっているのは、小数を考えなくてもよいようにしているからですが、だからこそこういう揺さぶりもあるのです。

子どもが、「△から○を引くと7になる」と発言しました。確認のために聞き直すと「7を引くと」と言葉が変わりました。授業者は最初の発言を板書しましたが、「7を引くと」と黒板の表では△から上へ矢印を引いて7を書きました。国語と算数は言葉にこだわってほしいのですが、特にこのようなミスは子どもに無用の混乱を引き起こす可能性があります。注意をしたいところです。
この場面でも、子どもから「いつも」といった言葉を引き出しませんでした。にもかかわらず、表ではすべての組み合わせで矢印を引きました。算数で大切にしなければならないポイントを外してしまいました。また、子どもの発言を受けて教師がすぐに表で確認をしたことも問題です。このようにすることで、結局子どもは自分で考えずに黒板の教師の説明を聞いて納得しようとします。別の言い方をすれば、教師が受け止めたあと黒板で確認をした内容が正解だと考えるようになるのです。教師が何を書いて説明するかに注目していればいいので、友だちの発言を聞かなくなってしまいます。この場面では、「本当にそうなっている?自分の表で確認して」と全体に返したあと、何人かを指名し、「なっていた?」「いつでも?」「絶対に言える?」と問い返し、最後に挙手で全員に確認して、「言えるね」と子どもたちに判断させるといった進め方をしてほしいところです。
子どもの言葉で授業をつくろうとしているのですが、一部の子どもたちの言葉だけで進んでいます。この授業だけでなく、この学校全体でこの傾向があるように感じます。とはいえ、教師が一方的に説明する授業から脱却しつつあるのですから、これは進歩の過程なのです。子どもの発言を教師が確認するのではなく、子どもたちに確認させるといった「つなぐ」ことが次の課題となってきます。

勉強熱心な授業者ですが、前回の訪問時に、いろいろなことに手を出すのではなく、まず一つずつきちんとできるようにすることを課題として指摘しました。今回授業を見て感じたのは、笑顔とほめることで授業規律をつくることを強く意識していたことです。子どもたちの授業規律もよくなっているように感じました。素直にアドバイスを受け入れる姿勢は素晴らしことです。いつも言っていることですが、授業のベースがしっかりすればするほど、課題は見えるようになります。
この学校に限らず、長文の日記が増えているのは、訪問する学校の授業の質が上がっていることの表れなのです。

授業検討会では、ベテランを中心によい意見がたくさん出てきました。ただ、どうしても教師の教科面での展開、指導に偏る傾向があります。その中で、子どものようすからわかること、ノートの内容をもとにした意見もいくつか発表されました。「2つの数量の関係」という発問に対して、1次関数の関係も比例の関係も、どちらも比例と書いている子どもがいた。子どもたちは2つの数量の関係は比例しか知らないから、この発問ではこういう間違いが出てしまう。このような意見です。こういう意見がもっと増えてほしいと思いました。
私の話も、先生方の疑問に答えることが中心となったために教科面の話が多くなりました。子どもとのかかわり方についてももう少し話すべきだったかと反省しています。
先生方にもっと子どもの事実をもとにした授業検討をしていただけるように、検討会の持ち方を変えるようにお願いしたいと思っています。

最後に「新年度に向けてのアドバイス‐学年始めにするべきこと‐」というタイトルでミニ講演をおこないました。
・この1年を振り返って、目指す子どもの姿を明確にすること(ちょっと早めに4月の学級づくりを考える目指す学級の姿を具体的にする参照)
・4月は教師も子どももリセットする時であること(「4月はリセットする」参照)
・まずは授業規律を確立して、安心安全な学級をつくること(「子どもが教師に求めること」、「規律を守れなかった子どもの指導」、「学級全体の問題か個別の問題か」参照)
・子どもを認める、ほめる場面をつくること(「子どもの自己有用感を大切にする」参照)
このようなことをお話して、大切にしたい「受容の言葉」「称賛の言葉」「外化・思考・行動を促す言葉」「つなぐ言葉」を紹介して終わりました。

訪問を重ねるごとにこの学校から学べることが増えていきます。来年度も4回ほど訪問させていただくことになりました。この学校の先生方の成長に立ち会えることは私にとってとてもよい勉強になります。継続して訪問できることをとてもうれしく思っています。

小学校で授業アドバイス(その1)(長文)

小学校で授業アドバイスと授業研究に参加しました。今年度最後の訪問です。

3年生のベテランは、算数の2桁のかけ算の授業でした。以前に見せていただいた時と比べて、授業者の笑顔が増えていました。子どもは落ち着いて、前向きに授業に参加していました。子どもたちの学習もよく定着しています。前時の復習では、1人を除いて全員の手が挙がりました。指名で進めましたが、こういう場面ではペアでの確認を取り入れると、子どもたちが発表する機会が増えますし、手の挙がらない子どもも自然に答を知ることができます。答だけでなく「考え方」も聞きます。子どもは前で図や式を使って説明したかったのでしょうか、「そこへ行っていい」と黒板を使おうとしましたが、「言葉で言って」と返しました。言葉での説明にこだわって、子どもたちにできるだけ言語化させようとしていることがわかります。算数や数学では図や式も表現の大切な手段です。言葉での説明だけにこだわらず、いろいろな表現手段を子どもの実態に応じて取り入れていただければと思います。発表者は一生懸命に説明しようとします。全員ではありませんが、何人かの子どもがうまく説明できるだろうかと、発表を気にしています。せっかくですので、「しっかり聞いていてくれたね」と評価したり、「助けてあげてくれる」「○○さんの言いたいことわかった。代わりに説明してくれる」「何か足すことはない?」とつないで活躍させたりすることで、こういう子どものよい姿を学級全体に広げてほしいと思います。
かける数が4増えて、1位の数が0から4に変わったときの計算の仕方を、今まで習ってきたことを使って自分で考えるよう指示しました。ただ答を出すのではなく、考え方もノートにしっかり書かせます。子どもたちを見ると、多様な考え方が書かれています。日ごろから鍛えられていることがよくわかります。その反面4、5人の子どもが手つかずの状態です。授業者は何とか自力で解決させたいと考えているのか、机間指導しても彼らにあまりかかわりませんでした。
「ちょっと鉛筆を置いてくれるかな」と作業を中断しました。「答えてくれる前に」とヒントを出しました。机間指導であえて声をかけなかったのはここでヒントを出そうとしていたからでしょう。さすがにベテランです、非常にわかりやすいヒントで、途中で止まっていて子どもたちも含めて多くの子どもが再び意欲的に活動を始めました。しかし、手のつかなかった子どもにとってはここまでの時間はかなりつらいものです。また、すでにできている子どもにとっては、このあとの時間は退屈な時間となってしまいます。
自力解決の前に、前時の復習と合わせて、2学期にやった2桁かける1桁の計算を(できれば今回利用する数を使って)実際に計算して復習する。ヒントと言わずに、問題把握の段階で、「ミカンが4つ増えると、払うお金は増えるね。どれだけ増えるかな。できそう?」と子どもたちに見通しを持たせてから取り組ませる。というように、必要な知識を具体的に復習し、見通しをそれとなく与えておくという方法もあります。また、手のつかない子どもに、できている子どもに聞くようにうながすことで、できた子どもにもよい学びの時間となります。
このようなことをアドバイスしました。

3年生の若手も算数の時間でした。線分図を元に2つのものをまとめてから計算するか、順々に計算するか、いろいろな解き方を考える場面です。
求めるものの確認を全員にしました。「消しゴム」と元気な声が返ってきます。こういう場面は全体で言わせて終わってしまうことがよくありますが、何人かには個別に確認したいところです。なんとなく全体の声に流されていることがよくあるからです。
個人作業を机間指導するのですが、一部の子どもだけに○をつけています。○をつけるのなら全員に○をつけることを意識してほしいと思います。正解していなくても、できているところまでを「ここまでいいよ」と部分肯定をすることで、止まっていた手も動き出します。「まわりと相談してもいいよ」と声をかけて子どもをつなぐという方法もあります。子どもへ「すごい」と声をかけますが、何がすごいのかはよくわかりません。具体的に何がすごいかを言わなければ、そのことが強化されたり、まわりに広がったりはしません。「できてるじゃん」という声も出ていましたが、「答が出ることに価値がある」と言っていることにもなります。「先に足してから引いたんだね。なるほど、すごいね。他のやり方もできるかな」と具体的に考え方をほめるようにするとよいでしょう。
答が出た子どもはそこで活動が止まっています。途中で、できた子どもには別の解き方を考えるように指示をしますが、まだ途中の子どもには、指示は通りません。このような指示は作業に入る前にしておくことが大切です。全体での共有化の場面では、何通りの解き方ができたか数を聞きます。途中で指示をしたといってもこれはあまりよいことではありません。数を問うのであれば、最初の段階で課題を「いくつの解き方ができる」といったものにしておく必要があります。
子どもたちに発表をうながしますが、できているのに手の挙がらない子どもがいます。自信がないから発表しないのか、できているので発表する意味がないと思っているのか気になります。式を発表したあとで、式の説明を「なんで」と聞きます。「なんで」や「なぜ」は答えにくい問い返しです。発表者はどう答えていいのか戸惑っています。できれば、「どういうこと」と答えやすい聞き方をしてほしいところです。しかし、授業者が笑顔でしっかりと受け止めてくれるので、たどたどしいながら言葉を紡いでくれます。説明でわかったかどうかを何人にも確認します。教師が自分の言葉で説明しないように意識していることがよくわかります。とてもよい姿勢です。苦しくてもこの姿勢を崩さなければ必ず成長します。
子どもは自分の言葉で説明しようとすると、簡潔な説明はできません。どうしても、長くなってしまいます。聞いている子どもは1回聞いただけでは完全に理解できません。こういう時は、「なるほど、しっかり説明してくれたね。みんなにわかってもらいたいから、もう1度きかせてくれるかな」と繰り返させます。このとき、途中で「ちょっと待って、ここまでの説明は納得した?」と切りながら全員の理解を確認します。「○○さんの言ったこと、もう一度説明してくれるひと?」と重要なところは他の子どもに説明させてもよいでしょう。
また、子どもの考えを深めたり、整理したりするには教師の切り返しも大切です。「この式で何を求めたの?」と返す場面がありました。このような問いかけに、「消しゴムの代金」と具体的に答えられる場合はいいのですが、式そのままに、「ノートと鉛筆の代金をたしたもの」としか答えようがないものもあります。先ほどの「なんで」と同じようにとても答えにくいのです。簡潔に「○○です」と答えられないからです。こういった場面は言葉での説明にこだわると苦しくなります。せっかく線分図を使っているのですから、それを活用すればよいのです。線分図の「どこのこと」「どこにある」といった聞き方をすれば、示しやすくなります。
また、子どもの説明で、「合わせての時は足し算ですが・・・」といった言葉が出てきたことが気になります。言葉と演算を1対1で覚えるのはとても危険なことです。「合わせていくらになりました、元の値段は・・・」では引き算です。言葉の示す状況を理解して、図示するなどして、演算を決定することが大切です。「足すと値段が大きくなるから引き算・・・」といった言葉も聞かれましたが、見通しを持つには有効な考えですが、それを裏付ける根拠を持たせることが大切です。言葉での説明にこだわりすぎているように感じました。
わかっている子、発表できる子は教師がしっかり受け止めてくれるので積極的に挙手をしますが、そうでない子はなかなか参加できません。子どもの発表の途中ですぐに教師が板書するので、友だちの話を聞こうとしている子どもも、そちらを頼りにしてしまいます。「わかった人?」とつなぐのですが、まだ、答という結果をつないでいます。「どこでわかった」と過程をつなぐといったことも意識する必要があります。教師が受け止めて、板書して、わかったと聞くという流れなので、発表者は教師に理解してもらって満足してしまいます。発表すると自分の仕事は終わったという顔をして、友だちの反応を期待していないことからもわかります。教師ではなく、友だちに理解してもらおうとする姿勢を育てることが大切です。
子どもとの基本的な関係、受け止める姿勢、授業規律がしっかりしてきたからこそ、課題がたくさん見えてきました。一つひとつのことを意識して、子どもの反応から少しずつ修正していくことで大きく進歩すると思います。来年度が楽しみです。

6年生の若手の授業は体育でした。前回バスケットボールの授業を見せていただいたのですが、そのバスケットボールの最後の時間でした。子どもたちはグループごとに練習をしています。タイマーによるインターバルで、教師の指示なしで次の活動にスムーズに動いていきます。授業者は、その間子どもたちのようすをじっと見ています。子どもたちを自主的に動かそうとしていることがよくわかります。前回と比べて子どもたちはずいぶんと成長しています。互いに声かけをして、自分たちで課題意識を持って活動しているグループがたくさんあります。ゲームをおこないましたが、子どもたちは小学校6年生としては、とても組織的にプレーをしていました。グループごとに作戦を立て、試合終了後にチェック表で自己評価しています。子どもたちが考えて意欲的に取り組んでいる理由がわかります。
途中で子どもたちを集めて指示や説明をしますが、コンパクトにまとまっています。ムダな時間が減って子どもたちの活動時間が確保されています。
グループごとの準備運動の後、ボールを取りに行って活動を始める場面で、素早くボールを取りに行くグループがいた反面、うっかりしてしばらくボーとしているグループがありました。子どもたちが気づくのを待っていましたが、こういう場面では「おっ、素早いグループがあるね」とよい行動をほめて広げることをするとよいでしょう。グループ内でのかかわり合いは意識されてきましたが、その学びを全体に広げることも大切です。グループ間のかかわり合いをつくることが必要です。ゲームのないチームがゲーム中のチームのプレーを見てよいところチェックし伝える。全体で、練習の工夫やうまくいったことを発表する。こういった活動を加ええるとよいことを伝えました。
わずかの期間ですが工夫をして授業がよい方向に変わっていることが、子どもたちの姿からわかりました。うれしいことです。

特別支援学級の若手の授業のようすも参観しました。
先週から担当の児童が1人増えて、3人になったようです。授業者は笑顔がとても素敵で、子どもたちのよいお兄さんといった雰囲気です。子どもたちとの関係も良好で、子どもたちは授業者とかかわりたくてしょうがありません。子どもたちは授業者が相手をしてくれるとテンションが上がります。授業者の気を引こうとして声を出したり、机をたたいたりといった行動をとります。授業者は、それにすぐに反応してしまいます。課題の指示をしたり、落ち着くよう指導したりしますが、子どもにとっては授業者の気を引けたのでそれで成功です。これの繰り返しで1時間が過ぎていきます。子どものテンションは高いままで、授業者は疲れてしまいます。笑顔で受容することも大切ですが、子どものテンションを下げる技術も必要になります。
教師の仕事は子どもたちの相手をして喜ばせることではありません。子どもたちがどのような姿になること目指すのかをしっかりと意識して対応する必要があります。目指す姿の一つに自分の行動を律することがあります。我慢できるようにすることです。子どもは教師が反応しなくても我慢できる時間や回数がある程度決まっています。3回まで我慢できるなら、4回目に反応してあげる。そういったかかわり方も必要です。子どもが机をたたいたりして授業者の気を引こうとしたときには、それをやめた瞬間にほめて相手をしてあげるといったよい行動を強化するペアレンタル・トレーニングの手法も有効です。
ある子どもが以前にやったダンスを始めました。授業者は「今はダンスの時間じゃないよ」と注意をしましたがなかなか止まりませんでした。子どもはそれまで机の前に座ってストレスをためていて体を動かしたかったのかもしれません。それとも、教師の気を引きたかったのかもしれません。それをわかって対応できるのは日ごろから接している担任しかいません。子どもの行動の因果関係を把握することも大切なことです。
このようなことを伝えました。

長くなりましたので続きは、「小学校で授業アドバイス(その2)(長文)」で。

来年度研修の打合せ

先日ある市の来年度の研修の打合わせを担当の教頭先生とおこないました。

中堅の先生対象の年3回の講座は、5年以上続いています。ここ数年は、授業を見ての検討会、模擬授業と指導案検討会、実際の授業を見ての検討会という構成です。受講者自身の授業力アップだけでなく、受講者を通じてここでのグループ主体の検討会のあり方を各学校の研修等に活かしてもらうというねらいもあります。ここ数年、受講者のレベルがどんどん高くなっているのを感じます。今までの受講者を通じてこの市のレベルが上がっている手ごたえを感じています。受講者の意識も高く、私自身もよい勉強をさせていただいている毎年楽しみな講座です。受講者からもよい評価を受けているおかげで、来年もこの企画を続けていく方向で提案していただけることになりました。

私が担当しているもう一つの研修は、模擬授業とその解説をリアルタイムでおこなうものです。ベテランに模擬授業をしていただき、適宜授業を止めて私が解説するというものです。ベテランがよい授業を提供していただけるので、充実した研修となっていたのですが、参加者の人数が多く、子ども役は限られているので、どうしても受け身の時間となってしまいます。また、若手からベテランまで、全教員が対象となっているので解説のターゲットがはっきりせず、必ずしも皆さんに満足していただけるものとはなっていませんでした。そこで、来年度は対象、人数を絞ったものにしようと相談しました。
初任者や若手には多くの研修が用意されています。中堅には先ほどの講座があります。ここでクローズアップされて来たのが、教務主任です。若手が学校に増えてくる中、授業力アップを含め学校力アップには教務主任が要となります。そこで、対象を教務主任と近い将来その役につくであろう方々とした講座を設けようということになりました。
内容は、自校の先生方の力量アップを通じて学校力をアップすることをテーマとして、受講者による模擬授業とそれを元に現職教育の持ち方やリーダーのあり方を考えるものです。学校力アップに関しては管理職対象で何度か研修をおこなっていますが、教務主任対象のもので、しかも模擬授業と組み合わせたものは全く初めての試みです。どんなものになるかちょっとわくわくしてきます。この企画が通ることを楽しみにしています。

打合せ終了後、少し雑談をさせていただきました。教頭職の多忙さを感じるとともに、その中でいかに学校をよい方向に変えていくのかに頭を悩ませていらっしゃることが印象に残ります。学校を取り巻く環境が厳しくなる中、いかに学校の応援団を増やすかが大きな課題になってきます。学校評価の活用が一つの答になってくるというようなことをお話しました。前向きな言葉を聞かせていただき、私も元気が出てきました。楽しい時間をありがとうございました。

中学校の授業研究に参加(長文)

中学校で授業研究に参加しました。教員は2時間の研究授業のどちらかに参加して、全体で授業検討をおこないます。

最初の授業は、ベテランの体育の授業でした。2年生の男子のバレーボールの試合形式の練習です。ベテランが率先して授業を公開することはとても素晴らしいことです。
準備運動は体育の係が中心となって進んでいきます。授業者は一切指示しません。子どもたちの声もよく出ています。しかし、注意してみると声が出ていない子どももいます。授業者は、子どもたちが自分たちでちゃんとできるので安心して授業の準備をしています。ある程度できているからこそ、評価する必要があります。毎度のことであっても、評価し、より高いところを目指してほしいのです。「○○君、よく声が出ていたね」「△△君、準備運動しっかりできていたね」と一言声をかけることで、よりよい状態になっていくはずです。
チーム分けは、毎回異なるようにしています。そのため、チーム内での役割を明確にできないという問題があります。逆に固定化しないので、いろいろな子どもとかかわれるというメリットもあります。どちらがよいというより、そのよさをどう活かすかです。
この日の課題は三段攻撃です。どうすればできるのか、そのポイントについてはあまり詳しく説明しません。子どもたち自身で気づいてほしいからでしょう。進め方について説明しますが、子どもたちの顔があまり上がりません。いつもと同じようなやり方であれば、組み合わせ表を貼っておき、チームの代表にチェックさせればいいのです。チームが固定化していいないので、難しいのかもしれませんが・・・。
チームに分かれた後、授業者がゼッケンを分けて各チームに配布します。見学者がいたので、できれば彼に役割として与え、「ありがとう」と言ってあげてほしいと思いました。見学者もできるだけ参加させてほしいのです。
ボールを持って子どもたちがサーブをしようとしているところへ、「足を動かして」と注意をします。動き始めてからでは、届きません。分かれる前にするか、一旦止めることです。
最初2ゲームは、漫然と進んでいきます。まず三段どころか返すのがやっとです。いわんやトスやスパイクを見ることはありませんでした。子どもたちは、三段攻撃を意識していましたが、何がいけなかったのか、どう修正するのかといったことは考えていません。だだ、ゲームをやっているだけなのです。当然互いの声かけもありません。点が取れて歓声を上げたり、おかしなプレーに対して笑い声が上がったりするだけでした。
2ゲームが終わったところで集めます。子どもたちにどうすればよいか問いかけますが、ほとんど意見は出ません。そんなことを考えてプレーしていないからです。何人かの意見を聞きますが、結局教師がまとめて、ビッグボイス、アイコンタクト、スマイルを大切にすることを説明します。コミュニケーション面です。しかし、技術面でも意識させるべきことがあるはずです。
グループごとに工夫して練習する時間を取るのですが、三段攻撃ができるようになる工夫は見られません。ほとんどが円陣を組んでパスの練習をしているだけです。授業者がグループごとにアドバイスをしますが、グループごとの問題というより、全体の問題のように思いました。
ローテンションの位置でセッターを指定する。レシーバーはセッターに返すことを意識する。他のメンバーはレシーバーに体を向けて、素早くフォローできる体制を取る。こういうことを意識させえる必要があります。具体的にすることで、セッターにレシーブが返った、レシーブミスのフォローができたと互いに評価し合えるのです。
ゲームを再開しました、子どもたちのようすはあまり変わりませんでした。声もほとんどでません。待機チームに、何回三段攻撃ができた、レシーブが成功した、トスが上がった、ミスをカバーした、声が出ているかなどをチェックさせて報告させる。ゲームごとに30秒でいいからチームで考える。そういう仕掛けをしないと意識されません。考えさせる場面をつくらなければうまくはなっていきません。子どもたちと授業者の関係は悪くはありません。子ども同士の関係もよいのですが、授業におけるかかわりや学びあいは機能していないようでした。
子ども同士のコミュニケーションを意識した授業だったのですが、指示するだけではうまくいきません。そうする必然性が起こるような仕掛けを工夫してほしいと思いました。

もう一つの授業は、若手による1年生のTTでの数学です。度数分布とヒストグラムの導入です。
この授業の流れが黒板の横に貼ってあります。これがあれば安心して授業に参加できると思ってのことでしょうが、数学は作業ではないので意味がありません。必然性を積み重ねて授業をつくることが必要です。残念ながらこの授業には数学的必然性が全くありませんでした。
指示に対する子どもの動きが遅いように感じました。指示が通っていないのに授業者がしゃべり始めます。紙コプター(細長い紙に縦の切れ目を入れて、広げたもの。クルクル回転しながら落ちていく)の羽の長さが異なるもの用意して、どちらかの滞空時間が長いのかを考えさせます。これは考えることではありません。根拠を持って考えるための知識を子どもたちがもっていないのです。隣の子に声をかけている子がいます。子ども同士の関係は期待できます。しかし、ほとんどの子どもは考えていません。考える必然もないのです。
指名した子どもが理由を聞かれて、「教科書に書いてあった」と答えました。授業者は扱いに困っていましたが、続けて他の子どもに聞きました。考えてといった手前、これで終わらせるわけにはいかないのでしょう。空気抵抗を理由に答えてくれた子どもを、「すごいね」とほめます。よい対応ですが、この場面自体がムダでした。
実際に2つの紙コプターをそれぞれ落として、時間を計りました。どちらの滞空時間が長いか、結果は明らかです。子どもたちに「1回で言えると」揺さぶりますが、「言える」と返ってきます。それ以上揺さぶることができないので、今日の課題はと進めていってしまいました。授業の流れを貼ってあったことと合わせて、授業は子どもたちの都合ではなく、教師の都合で進んでいくものだと言っているようなものです。
その場の思いつきですが、こんな導入を考えました。紙コプターを1つ見せて1度落として見せる。「何秒くらい?」と聞く。子どもに答えさせて、計ってみる。「○○秒で決まり?次は絶対当たる?」と挑発する。もう1度やって、値がばらつくことを確認する。じゃあと言って、もう1つの紙コプターを見せて、さっきのより早く落ちるかどうか子どもたちに問いかけ、「速いと思う人はノートに○、遅いと思う人は×を書いて」と態度を決めさせ挙手させる。1回実験して、「これで決まったね」と言う。子どもから「1回じゃわからない」とでてくれば、あとは簡単です。もしでなければ、「さっきの紙コプターのとき、ばらついたじゃない。ひょっとしたら、今度はものすごく速くなるかもしれない」と揺さぶります。子どもたちから「たくさん計らなければ言えない」という言葉を出して導入は終わりです。どうでしょう、5分はかからないと思います。たくさんのデータがないと結論をだせない場合があることが、統計処理の必然性なのです。
授業者は、教科書の50回のデータをもとに、理由を説明するように指示を出しました。最初に理由を聞いた場面で「空気抵抗」という物理的な理由をほめています。ここは、統計的な「理由」です。この違いを意識していません。発問も変えなければいけません。「このデータを基に・・・と言えそうですか」といった表現でなければいけません。統計的には信頼度などの言葉があるように、ある確率的な幅でしか結論は出せないからです。数学の教師であれば、中学校の教科内容の後ろにある膨大な数学の世界をある程度俯瞰できなければ、教科書の表現や教材の意味も分からないのです。教材研究が必要な理由です。
子どもに発表させますが、よく聞こえません。友だち伝える意思をあまり感じません。子どもに発表させるだけで、それを活かそうとはしないからでしょう。「同じことに気づいた人いる?」「気づかなかった人、本当かどうか確かめて?」と全員に広げなければ、ただ教師に向かって、私はちゃんとやりましたよとアピールする意味しかないのです。50の生データでは、確認するのも大変です。だから、度数分布表の必然性があるのです。度数分布表を使うと、もっとたくさんのことに気づけるとわかって、初めて使う意味が分かるのです。見やすいといっても全く説得力がないのです。
起立して教科書の度数分布表の説明を読ませます。読み終わると着席します。内容理解の確認のために、度数分布表の欄を指して、階級、度数といった用語を確認します。用語を覚えてもその意味を理解しなければなりません。度数分布表は階級の幅の取り方で見え方も変わります。そう言う本質的なことを考える場面がないのです。「以上」「未満」という用語は、それぞれ端の値を含むか、含まないかを確認します。3人ずつ指名するのですが、全員が本当にわかっているかの確認するための活動はありませんでした。
教科書は参考書のように読むことで理解できるようにつくられています。今の教科書はすべての内容を授業で扱う必要がないため、自学自習できることを意識しているからです。だからこそ、授業での活用は、もっとダイナミックなものであってほしいのです。
データから度数分布表をつくる練習をします。最初の階級の度数を全体で調べて、残りを個人作業にします。階級ごとに度数を調べる方法のほかに、データを1つずつチェックしてどの階級に属するか正の字を書く方法もあります。アルゴリズムとしては後者の方が早いはずです。どちらが正しいというわけではありません。子どもに好きにやらせて、それぞれの方法を共有して、どうするとよいか考えさせるといった活動も、視野に入れてほしいと思います。作業ばかりで思考がないのは数学の授業としては少し疑問です。
度数分布表を完成させた後の確認は、各度数を子どもに指で示させます。なかなか全員参加できません。教師はなんとか読み取れますが、子どもたちは全員の手元を見ることができないので全体の結果を知ることはできません。教師のみが常に上から判断するという姿勢に見えます。子どもの意見が分かれたときは、教師が「答は・・・」と正解を発表します。子どもたちは教師の求める答探しをしているだけです。意見が分かれたら、本来はそれぞれが再度確認して自分たちで結論を出せばいいのです。
途中でT1とT2が交代して、ヒストグラムの話になりました。ヒストグラムを見せて、小学校の時にやったことを思い出させます、棒グラフと柱状グラフという言葉が出てきました。柱状グラフという言葉は今後は使わないと説明しますが、棒グラフとの違いは明確にしません。最後までヒストグラムの定義は明確にされませんでした。
結局、授業は作業ばかりで、作業の結果をもとに度数分布表やヒストグラムのよさや必要性を考える場面はありません。子どもたちはまわりと相談することや、グループでの活動はちゃんとできます。しかし、それを活かすような活動がなかったのです。

授業検討会は単発での意見は出ますが、それらが焦点化されていきません。子どもの視点での意見もたくさん出ました。力のある教師がたくさんいます。一方で、その意見に対してうまくかみ合えない方もいます。学校全体で目指す子どもの姿が共有されていないことを感じました。授業観もかなり異なっています。
教師と子どもの人間関係は決して悪くはありません。しかし、授業の中で子ども同士の関係をつくることをもっと意識してほしいと思います。わかっている子どもだけで進む授業ではなく、どの子も参加できる授業を目指してほしいこと、そのためにはつなぐことを意識する必要があることなどを、少し具体的に話させていただきました。

授業検討会の持ち方も課題でしょう。全員での検討会は、視点が明確になっていないとうまくかみ合わなかったり、対立関係をつくったりします。目指す子どもの姿、授業像を共有化し、まずは少人数でじっくり話し合える関係をつくるところから始めるとよいことを教務主任お伝えしました。

検討会終了後、3人の授業者とお話しする時間を設けていただきました。とても素直な方たちでした。
体育のベテランからは、授業をもっとよくしたいという意欲を感じました。子どもとの関係もつくれる方なので、考えさせることを意識させることで大きく授業が変わっていくと思います。
数学の2人は、教科の知識がまだ不足していて、数学の授業観が育っていない状態です。素直でやる気はありますから、どの程度知識が足りないのか、今回の授業では何がいけなかったのかをあえて細かく伝えました。ちょっと打ちのめされたかもしれません。悔しく思ったかもしれません。しかし、きっと素直に受け止め、勉強してくれることと信じています。玉置崇先生の著書「スペシャリスト直伝! 中学校数学科授業 成功の極意」(明治図書)(「スペシャリスト直伝! 中学校数学科授業 成功の極意」が届く参照)を紹介しました。今の彼らに必要なことが詰まっている本です。きっと彼らの力になってくれることと思います。

今回感じたのが、子どもたちと先生方のポテンシャルの高さでした。先生方のベクトルがそろえば、子どもたちが大きく成長する可能性を秘めています。学校の課題として認識していただけることを期待しています。

中学校で授業アドバイスと1年間の総括をおこなう(長文)

中学校で授業アドバイスとこの1年間の総括を全体会でおこなってきました。

初任者の社会科の授業は、都道府県クイズづくりでした。
まず教師から都道府県クイズを出します。山のつく県を書き出させます。子どもたちのテンションが上がっていきます。一定数書けたら起立させるのですが、もっと探そうとする子、これでよいと緩んで勝手にしゃべりだす子もいます。授業者との関係は悪くないのですが、都道府県名を覚えていない子は参加できません。地図帳を見ることも禁止されています。それならば、早く終わって先に進む必要があります。山がつく県に岩手県という子どもがいました。確かに岩に山が含まれています。しかし、「これは考えるのをやめよう」と最終的には数にいれませんでした。まず、子どもの考えを「すごい」「おもしろい」と受け止めてやってほしいところです。
授業全体を通じて授業者がどのような授業規律を求めているかがよくわかりませんでした。一方子どもは授業者がどこまでを許すのかを探りながら、授業規律を緩めさせてきているように思いました。
メインの活動はグループのオリジナルのクイズづくりです。「ヒントを出せば答が出るのがよい問題」と評価の視点を示します。とはいえ、これだけではどのようなクイズをつくればよいかわかりません。そこで、回答者を1人指名して試しにやってみます。全体で一度体験することは、とてもよいやり方です。回答者を子どもの方に向かせて、黒板に答を書きます。「AKB」です。さすがに子どもからも「県じゃないの?」と疑問の言葉が出てきます。回答者から質問をさせて、子どもたちにヒントを出させます。これは、予定しているクイズとは形式が違います。この後の作業は正解となる都道府県を決めて、その県に関する情報をヒントとしてつくるものです。ずれています。これでは、体験させる意味はありません。真剣に考える必要のない活動なので、子どもたちのテンションは上がっていきます。テンションが上がる一方で白けている子どもも増えていきます。一部の子どもが場を支配していきます。あまりよい状態ではありません。しかも、答を「○○先生」としてもう一度おこないました。ムダな時間が多すぎます。授業の導入で、教師または他の学級がつくったクイズをおこなえば、すぐにメインの活動に入れます。
途中、「ガチでやめろ!」という声が聞こえてきました。この学校で授業中にこのような攻撃的な言葉が聞かれたのは初めてです。言われた子どもはそのあと、集中できずに目はずっと泳いだままでした。あとで確認したところ、授業者はその言葉が聞こえていたようです。であれば、子どもの間に入るべきでした。「どうしたの?」とたずね、「なるほど、でも、今のような言葉を聞くのは悲しいな」と諭す必要があります。もし、言われた子どもにも非があるなら、互いに謝らせ、「2人ともありがとう」と教師が言って終わるようにしたいところです。
グループでクイズづくりを始めましたが、子どものテンションは下がりません。どの都道府県を正解にするかは、根拠を持って考えるようなことではないのでテンションが上がるのです。6人の生活班でおこなったため、どうしても仕切る子どもが出てきます。3人は考えているが、残り3人は参加していないグループ。席を立ってよそのグループにちょっかいをかける子どももいます。授業規律がかなり怪しくなっています。最初から集中して取り組んでいたのは、たまたま4人のグループだけでした。子どもたちのテンションが落ち着いたのは、都道府県を決めてから、ヒントの内容を考えているときです。しかし、再びテンションが上がります。ヒントが決まってホワイトボードに書いているときです。大多数の子どもがすることがないからです。
結局時間がないため、ヒントを書いたパネルを前に並べ、各自が問題を解いて白地図に書き込んで終わりました。ヒントを1つしかつくっていないグループもあります。うず潮、踊りといった文化的なものをヒントにしているグループ。どのヒントでも答えが出るようにしているグループもあれば、1つのヒントでは絶対に答が決まらないようにつくっているグループもありました。基準がはっきり示されていないからです。せめて、ヒントを考える範囲を資料集や地図帳に限定して、そこを根拠に問題を解くといった活動にすべきだったと思います。子どもたちが考える時間のほとんどない授業でした。授業者はテンションが高いのがよい授業と考えている節があります。そうではなく、子どもたちが考える授業を目指してほしいと思いました。

講師の英語の授業は、わずかな間に急激に進化していました。まず子どもたちが積極的に授業に参加しています。理由の1つは、子どもたち一人ひとりを笑顔でしっかり見ていることです。以前は教科書を見ながら、顔を上げずに進めている場面がありましたが、この日は教科書を見ないで子どもだけを見ながら進んでいきます。CDを聞いて教科書を見ながら音読する場面。授業者の音読に続いてsituationを意識しながら音読する場面。ペアで音読し合う場面。教科書を見ずに黒板に貼った絵と授業者を見ながら、授業者の発声に続いて発声する場面。それぞれの場面の意図が伝わっています。子どもたちの声がしっかり出るようになり、確実にうまくなっていきます。
授業がよくなってくると課題もはっきりします。前回の個人発表の評価をALTが”Well done.”と書いてくれています。子どもたちは”done”の意味を知りません。似た言葉を連想させて、”do” ”dose”を引き出しました。そのあとすぐに自分で説明をしましたが、ここは他の子どもに「どう思う。似ている」とつなぎ、「doが変化した言葉思い出して」と”did”を連想させたりしたうえで説明すれば、多くの子どもが参加できます。
CDを聞きながら、situationを理解する場面は、隣同士で確認するのですが、聞き取れなかった子どもは、正解を教えてもらっても確認のしようがありません。もう1度CDを聞かせて、最初聞き取れなかった子どもにもう1度機会を与えるべきでしょう。
ペアでの音読は、聞き手に1文ずつチェックする役割が与えられています。役割がはっきりしているので、コミュニケーションがしっかりとれています。ただ、どちらから始めるかをじゃんけんで決めさせていました。ムダにテンションが上がってしまいます。どちらから始めるかは、教師が指示をすればいいのです。
グループの活動の時に、まだグループの中に入りすぎます。まず全体の活動のようすを見る習慣をつけてほしいと思います。
また、授業の道具を一式忘れた子どもがいました。注意をして、隣に見せてもらうように指示しました。本人にどうするか考えさせ、「見せてください」と頼ませる。頼まれた子どもに「いいよ」と言わせる。それに対して、「ありがとう」を言わせ、教師も「よかったね」「ありがとう」と言う。教師が主体で対応するのではなく、子ども同士をつなぐようにするとよかった場面です。
とはいえ、この進歩は尋常ではありません。授業を変えようと本当に真剣に取り組んだことがよくわかります。この姿勢であれば将来が楽しみです。

2年目の教師の数学の授業は、問題演習の時間でした。
わからない子どもが自然に聞きあっている姿が見られます。友だちに聞ける子どもは、問題が解けるようになっています。ところが、手遊びしたり、ボーとしたりしている子どもが何人かいます。問題に手がついていない子どもたちです。中には机間指導で授業者が近づいてくるのをこっそり見ている子どももいます。教師が助けてくれるのをそっと期待しているのです。ところが授業者はその子の横を素通りしてしまいました。
説明の最初に、「みんなの答を見たけれど、記述式の問題だったらたいていの子は×だよ」と話しかけます。方程式の問題は、何をxとおいたか示さなければいけないのを忘れている子がたくさんいるというのです。しかし、この言い方は試験で×になるからいけないというパラダイムです。そうではなく、相手にわかってもらうために書かなければいけないというパラダイムにしなければいけません。
xの説明がない解答に対して、「xて何?何のこと?」と問いかければいいのです。そうすれば、自然に気づきます。「相手にわかるように書くことが大切だね」と押さえるのです。説明も、「わかりましたね」ですぐに終わります。わかっていなかった子が本当にわかったかどうかは「わかりましたね」では確認できません。どうすればわかっているのか確認できる手段を持つ必要があります。結局わかっている子は確認だけで、真剣に聞いていません。わからない子は答を写します。聞いていたわかった子どもは途中から説明を聞かずに自分で解き始めます。説明を始めるときにまだ途中だった子どもはそのまま顔を上げずに自分で問題を解いています。説明を聞くより自分で解きたいのです。結局教師の説明はどの子にとってもあまり意味のないことだったのです。そのことを象徴する出来事がありました。授業者が線分図を書くときに、「歩いている」「走っている」を単純に取り違えて描いてしましました。ところが、誰も指摘をしませんでした。しばらくして授業自身で気づきましたが、子どもたちが真剣に参加していなかったということです。子どもが参加する必然性のある授業をつくることはどういうことか、もう一度自身に問い直してほしいと思います。

小学校から移動して2年目の教師の社会科の授業は、大日本帝国憲法についてでした。
一部の子どものテンションが最初から高く、授業開始の時点で顔が上がっていない子どもが目立ちました。教師が子どもに背を向けると席の離れた子ども同士が何かやり取りを始めます。
最初に「明治政府の目標」を問います。子どもから答えが出ないので、ヒントを出します。いくつかのヒントの後「殖産興業」とう言葉出ると、そうだねとすぐに拾います。1問1答になっています。一部の子どもは資料集や教科書を自主的に見るのですが、そのよい行動をとらえて広げようとはしません。ヒントに対して反応するテンションの高い一部の子どもたちで授業が進んでいます。
「伊藤博文が憲法をつくるのに参考にしたのはどこの国でしょうか」と問いかけますが、「1 ドイツ 2 フランス 3 イギリス」の3択です。根拠を考える必要がない、ただのクイズです。せめて、3つの国の憲法の特徴を与えるか、調べさせてから問いかけるべきでしょう。
結局、教師の説明中心の、子どもが受け身の授業になっていました。
授業後話をしたところ、中学校はきっちり指導なければならないと思い、注意をし続けてきた。あまり口うるさくてもいけないと注意を減らすと、規律が乱れる。その悪循環に苦しんでいるようでした。教師の死角でごそごそしているのは、その象徴です。中学校を妙に意識してうまくいかなくなっている例です。最近になって、強く子どもに出るというのはどうも違うことに気づいてきたようです。この学校で学級経営がうまくいっているのは、子どもをしっかり受容して、しっかりほめている担任です。実はこの先生がこの学校に来た当初は、子どもに対して受容的という印象でした。それが、いつの間にかそのことを忘れてしまっていたのです。しかし、そのことに気づけたので、子どものよいところを見つけ、広げるようにすればきっと状況は変わっていくと思います。

講師の社会科の授業は、時差の学習でした。療養休暇を取られた先生の関係で、担当が変わった学級です。
「日付変更線から夜が明けてくる」という発表をした子どもがいました。「わからない」とそれに反応する子どもがいました。とてもよい場面です。「どこがわからない」という授業者の問いかけに、「日付変更線から夜が明けてくる」とそのまま答えます。これでは全面否定です。教師が間に入って、たとえば「日付変更線はわかる」と問いかけ、発表者に「説明して」とつなぐ必要があります。しかし、授業者は他の子どもに「助けて」とつなぎました。ところが次の発表は「日付変更線から夜が明けてくる」と全く関係のない、その子自身の説明でした。これでは、最初の発表者は置き去りです。友だちの説明にも納得できないようすでした。まわりの子どもに自分の説明に対して同意を求め、しばらく授業に参加しませんでした。授業者は発表者や質問者に戻すことをせずに、2人が説明してくれたようにと言って、自分の言葉で説明を始めてしまいました。しかもその説明は、最初の発表者の言葉とは全く関係ありません。こういうことが続いてくると、子どもは教師を信用しなくなり、話も聞かなくなってしまいます。
「前の地図を見てください」と言っても、顔が上がりません。しかし、授業者は気にせずに進めていきます。説明すればわかったはずだと思ってしまうのでしょうか、確認をしませんでした。
ワークシートの穴を埋める作業をしますが、子どもたちは自分が活動する必要性をあまり感じていません。その理由はすぐにわかりました。1人指名して答えると「入れてください」とワークシートに答を書き込むように指示をするからです。どのくらい正解したか確認して「よくできている、○組はかしこい」とほめますが逆効果です。できなかった子は、自分はダメな子、この学級の数に入っていないと感じるからです。「みんな」でほめることは危険なのです。「みんな」を使うときは、本当に全員できていることを確認することが必要です。
作業中に、「困っている子いるから教えてあげてください」と指示をします。大きなお世話です。これでは、子どもたちの人間関係が悪くなってしまいます。先生が途中でヒントを出します。先生の求める答探しをしろということになります。
子どもの顔が上がっていないのに説明を始めてしまいます。子どもは、板書は写す価値があるが、説明を聞く意味はないと思っているのです。
机間指導で、「できている。早い」と声をかけますが、上から目線に聞こえます。そのあとの指示もないので、その子はそのあとずっとじっとしたままでした。ムダに時間だけが過ぎています。
全体での発表に移る前から、ペアで教え合っている子どもがいました。先生の説明、友だちの説明よりも、自分たちで解くことを優先しているのです。2人が聞いていないことに気づいた授業者は「何を言ったか聞いていた」と教えられている子どもを指名しました。その子どもは何とか答えましたが、これは明らかにお仕置きです。子どもは、教えろ、教えてもらえと言われていたので、そうしていただけです。釈然としないでしょう。「教えてもらっているの。よかったね。でも、今は友だちの考えを聞こう」といえば済むことなのです。そのあと、教えていた方の女子は、とても不安定な状態になりました。涙を流しているようにも見えました。
時差の求め方を、「覚えておいてね」と言いましたが、こういう言い方は、勉強は覚えるものだと思わせてしまいます。「自分で考えてできるようになろう」といった表現の方が望ましいでしょう。
グループ活動では、1つ1つのグループに深くかかわりすぎていました。グループの中の特定の子どもと話していますが、その間グループの誰ともかかわらずにいる子どももいました。教師が子ども同士のかかわりを断ってしまっているのです。時には、ミニ授業を始めています。あとで説明することであれば、一部のグループに話してしまえば、そのグループは全体の場で参加する意味がなくなります。本当に必要なのであれば、一旦活動を止めて、全体で話すべきでしょう。
残念ながら、以前のこの学級の姿と今の姿は大きく異なってしまいました。授業者が意図せずに、子どもたちから上から目線と感じられるような表現・態度をとっているのが残念でした。子どもたちに対し、意図して受容的になってほしいと思います。

全体会では、子どもたちが教師によって示す態度が変わっている。子どもと教師の基本的な関係は悪くないので、子どもの態度は悪くない。教師の話を聞くことはできるので、教師がしゃべりすぎる。グループ活動は、生活班ではなく男女4人グループで市松模様の座席でおこなう。グループで結論をまとめずに、一人ひとりの考えを持たせるようにする。このようなことを話しました。
今回は少し辛口の話になりました。学校として、研究を始めたころの原点に戻り、目指す姿を共有してほしいと思います。よい授業をしている方はたくさんいらっしゃいます。互いに学び合い、高め合っていただくことを願います。
来年度も続けてお手伝いさせていただけそうです。この学校の進化を楽しみにしています。

佐藤正寿先生の模擬授業から学ぶ(愛される学校づくりフォーラム2013 in 東京 午後の部)(長文)

愛される学校づくりフォーラム2013 in 東京」午後の部は、「授業名人に再び! ICTを活用して挑戦」と題して、授業名人の有田和正先生と愛される学校づくり研究会の会員の佐藤正寿先生の模擬授業、それを受けてのパネルディスカッションでした。

今回の模擬授業のテーマは、「6年生最後の社会科の授業」です。
佐藤正寿先生は「日本の国土と平和について」です。各場面でのICT機器の活用の意図、授業での位置づけやねらいが非常に明確でした。

日本地図をスクリーンに映してスタートです。佐藤先生はパソコンの画面切り替えにワイヤレスのリモコンを使いました。一人ひとりの子どもに迫ったり、机間指導をしたりすることを考えるとリモコンは必須のものかもしれません。資料を切り替えるたびにパソコンの前に戻っていてはテンポが悪くなるからです。リモコンを使うことで教師の自由度が増すのです。
日本の地図であることを確認し、地図を切り替えながら島の名前を言わせます。これは簡単な知識です。すぐに答えてくれなければ話になりません。「もう少しテンポを速くね」と促します。佐藤先生は笑顔で決して命令口調にならないように子どもに指示します。「・・・しよう」という表現もよく使われます。こういう言葉を使って、教師が目指す姿を子どもに伝えていきます。ここで「これらは本当に島ですか?」と子どもたちを揺さぶり、どちらかに挙手させます。島は日常用語ですが、社会科の用語でもあります。この発問を通じて日常用語を社会科の用語に変えていくのです。ここで「考えて」などと意味のない時間を取らないのはさすがです。考えて答えが出る問題ではないからです。1人だけ島でないと手を挙げました。「勇気あるね」と笑顔で一言声をかけます。1人だけ間違えています。ここでポジティブな声をかけることで、本人に「しまった」と思わせないと同時に、他の子どもにもまわりの意見に流されずに自分の考えを主張することはよいことだと伝えているのです。島の定義は、自然物である、まわりを水に囲まれている、オーストラリア大陸より小さい、の3つからなることを教えました。その上で、再度「島ですか」と問いかけます。子どもたちは正解したといっても根拠を持って答えたわけではありません。定義に基づき確認することで、島という社会科の用語を定着させているのです。
続いて「5番目に大きい島はどこですか」と問いかけます。次々指名していきます。子どもたちの答は分かれていきます。「ほう、答は一つですよね。5年生で習いました」と既習事項であることを強調します。覚えていなければいけない知識であることを意識させます。択捉島であることを伝え、拡大した地図で見せます。択捉島が最北端であることを確認して、東、西、南の端の島を書かせます。いくつ書けたか確認をし、指名して答えさせます。「手が5人しか挙がらない」と挑発し、続いて「同じ人」と確認したところ挙手が増えたので「急に手が挙がりましたね」と、最初から挙手してほしいということを伝えます。ちょっとした言葉に、子どもたちにどうあってほしいかというメッセージがこもっています。日本の国土面積を隣同士で確認して、この日の第1課題に移っていきます。この授業を単独で考えれば、必要最低限の知識だけ確認して、課題にもっと時間をかけてもよいように思います。しかし、6年生最後の授業ということで、今まで習ったこと(ここでは地理分野)を使う場面をつくりたかったのだと思います。また、確認の方法も、列で順番に指名したり、個人で考え指名で発表したり、ペアで確認したりといろいろな方法があることを見せてくれています。若い先生にとってはとても参考になります。しかし、実はここまでにあまり時間はかかっていません。復習ですから忘れていれば考えても答えは出ません。ムダな時間をかけずにテンポよく進めているからです。いつもながら実に自然なICTの使い方です。だからこそテンポがよいのです。ICT機器が授業のテンポアップに効果的なことがよくわかります。

いよいよ課題に入っていきます。まずは日本の国土面積の変化のグラフをスクリーンに映します。グラフは2013年の値、37.8万平方キロメートルしか示されていません。続いて、領土面積が確定したのが1880年であることを伝え、グラフに面積を表示します。「この時は38.3万平方キロメートル。千島列島が含まれていたのでこういう値です」とそれとなく、領土の変化の視点も伝えています。2つの棒グラフの間がどのようになっているか予想するように指示します。間をおいて、こうなりますと1つずつ順番に示します。なんとなく考えていた子どもも、次は増えるのか減るのかともう1度画面の切り替えのタイミングで考えます。教師が子どもの反応を見ながら、考えるリズムをコントロールできます。こういうところもICTのよさです。
ここで第1課題「日本の領土面積の変化からわかることは何か」を示します。領土面積の棒グラフの変化から分かること、気づいたことを3分間でノートに書かせます。理由がわかる人は理由も書くように指示します。「何年は増えている。それは〜だからである」という書き方も合わせて指示することで、子どもが自分の考えを書きやすいようにしています。指示が明確なので、子どもは戸惑いません。資料を読み取り、自分の持っている知識を使って考える場面です。時間をかければ気づくことがどんどん増えるという課題ではありません。歴史の知識がなければ理由はわかりません。時間を切ることで子どもたちの集中力を切らさないようにしています。

机間指導しながら子どもに声かけします。「詳しく書いてくれているね」といったよいところは意図的に他の子どもに聞こえるようにしています。佐藤先生の決まり文句「目力を使いましょう」も聞こえます。「隣の人はいっぱい書いていますよ」と続けて友だちから学ぶことを促します。友だちの答を見ることを否定的にとらえる先生もいますが、試験以外ではあまり気にしないでよいと思います。あとから教わって写すくらいなら、これで本当にいいのかと吟味して考え直す時間があるだけ、早く友だちから知った方がよいのです。
まず、いくつ書いたかたずねます。たくさん書けている子どもたちには「すごい」「素晴らしい」と称賛の言葉をかけます。ここで、列を立たせて順番に答えさせます。子ども役の動作が遅いので、「もう少し速く立ちましょう」とやり直させます。ここでも、教師が目指す姿を子どもに伝えています。
1人1つずつ発表させます。子どもたちの発言をきちんと評価していきます。一通りでたあとで、再度年代順に整理します。子どもたちは友だちの発言を聞いていますが、一度聞いただけでは、頭に残りません。もう一度確認することで明確になるのです。ここで、教師が順番に説明したいところですが、子どもに再度発言させます。子どもの言葉で授業を進めようとしているのがよくわかります。再度発表させた後、「関連して、追加。どうぞ」とつなぎます。一通り発表させて、子どもの発表したい気持ちを満足させてから、じっくりつないでいくというのは、なかなかできないことです。うなずくことで、子どもの反応を促しています。受容しようとしていると伝えることで、安心して発言できるようにしているのです。ちょっと自信なさそうに「確か、下関条約っていう条約が・・・」と答えてくれました。「台湾が増えた」と発言が続き、「いいねえ。追加していくことでみんなの知識が増える」とまた評価します。そして、これが6年生で習ったことの復習であることを強調します。今まで学んだことを、今活用しているのだと意識させようというのです。ここで、教科書以外の証拠がほしいと当時の地図帳を実物投影機で映しました。子どもから具体的に増えた領土が出てきたタイミングでの表示です。子どもから視点が出るまで、地図帳は出さないというのも素晴らしい対応です。地図帳をズームアップしながら、台湾が増えた、次はどこかと子どもたち発言させながら地図帳で順番に確認していきます。自分たちの知識を当時の資料で確認するというのは、子どもたちにとってとてもリアリティのある活動です。
「1920年から1940年のことについて書いた人?」とたずねますが、反応がありません。そこで、「グラフを見るときの基本は何ですか」と、グラフの見方というメタな知識を問いかけます。見つからなかった時に、見つけ方を問うことは基本です。見つけた結果を聞いても次の機会にできるようにはならないからです。「タイトル」とちょっと今回期待したこととずれた発言がでます。それでも「タイトル、その通り」と認め、「もうちょっと先」と続けます。これも素晴らしい切り返しの言葉です。「他には」とつい言ってしまうところです。「他には」というのは、発言を明確には否定していませんがここでは求めていない答だというニュアンスあります。一方「もうちょっと先」という表現は、発言が本筋に乗っていると認めています。「タイトル」も確かに大切な要素なのですから認めてあげることが大切です。「変化の大きいところ」という言葉を引き出し、変化の大きいところが1910年の日韓併合であることを確認しました。1830年から1920年の40年間は日本が強かった、侵略して領土を広げたという言葉でまとめていきます。この後の戦後68年を考えるための布石となります。

ここで全員起立させて、戦後68年のことを聞きます。「変化していない」「前の人と同じで、ほとんどしない」と続きます。ここで、「前の人と同じだったら、別の表現」とプレッシャーをかけます。全く同じ考えというのはない。どこか違うことがあるはずだから別の表現ができるはず、何か言葉を足せるはずだというわけです。教師がいつもこのような姿勢であれば、子どもたちの表現力も鍛えられます。「領土を広げていない」という発言に対して、「領土を広げていた、領土を広げていない。わかりやすい」と対比した表現を評価します。「増えてもいない、減ってもいないということは平和」という言葉を引き出し、「領土が増えていない」「平和だ」ということを、「戦争がなかった」につなげていきました。
今の日本の姿を、これまで学習した歴史的事実を積み重ねて明らかにしていきます。歴史の学習が現代社会を理解することにつながることを意識させたいという思いを感じました。

ここで排他的経済水域の話をはさみます。戦争は領土だけでなく経済水域の拡大も目指してきました。今まで学習していなかった排他的経済水域をここで扱ったのは、尖閣諸島や沖ノ鳥島の護岸といった現代の問題の理解につながるためです。
沖ノ鳥島の護岸のようすをGoogle Earthでズームインします。いきなり写真を見せるよりも、子どもたちの興味を引くことができます。変化させることもICTの得意技です。

日本が長い間平和で戦争がなかったことは、珍しいことであるかを問いかけます。友だちの意見を聞いて考えを変えた子どもに対して、「勉強して考えが変わるのは素晴らしい」と評価します。友だちの意見や考えを聞く姿勢を子どもたちに広げようとしていることがよくわかります。
この68年間戦争がなかった国は8か国しかないことを教え、第2課題「日本がなぜこのような長い間戦争のない状態を続けられたのか」考えさせます。
「戦争の悲惨さを伝えた」という意見に対して、「被爆」という言葉を引き出し、「どこの話」「どんなことを思いましたか」「どんな点で」と切り返して、より詳しく、より深めていきます。
「憲法で戦争を放棄している」という発言から「平和憲法」を引き出す一方、平和条項のある国は珍しくないことを教えます。
「軍隊を持たない」「宗教の対立がない」「日米安全保障条約」「日本人の教育の成果」といった言葉が出てきました。
「日米安全保障条約」については、どうして戦争がない状態につながるのかを問いかけます。「日本が軍隊を持たない代わりにアメリカが守ってくれる」に対して、「それはいいことなのか」と切り返します。基地問題などにつなげる発問です。
公民で学んだことを活かし、日本のよさや、日本の抱える問題をクローズアップしていきます。

最後の発問は「日本の戦争のない状態を続けていくために何が大切か」でした。正直この発問には虚を突かれた思いでした。私は、社会科は、たとえ歴史であっても「今」の社会を理解するためのものと考えていました。「過去」と「今」という視点はあっても「未来」という視点を意識していませんでした。しかし、この発問は「未来」を担う子どもたちだからこそ考えるべきものです。6年生最後の社会科の授業にふさわしいものだと思います。
「歴史を語り継ぐ」といった答に対し、「誰に対して」「一人?二人?」と揺さぶることは忘れません。
どの答えが正解というわけではありません。子どもたち一人ひとりが自分の答を持つことが大切です。それぞれの考えを聞きあって授業は終わりました。

前半は、地理や歴史で学んだ知識を元に、現在の日本の姿を明らかにする。後半はその今の姿を作り出しているものを公民の知識も加えて考え、未来に向かって何をなすべきかの答を各自で見つけるものでした。また、社会科で求められる力は何かを明確にする活動や問いかけもたくさん見られました。
ICTに関しては、テンポのよい資料の提示、ズームアップによる焦点化や変化を見せることで思考をうながすといった活用を自然な形で見せてくれました。
6年生最後の授業ということで、社会科で学んだことを活かすとはどういうことかをICTの活用とともに見事に伝えてくれました。
誰にとっても学びの多い素晴らしい模擬授業でした。佐藤先生、本当にありがとうございました。そして、佐藤先生の授業のよさを引き出してくれた、素晴らしい児童役の皆さんに感謝です。

有田先生の模擬授業パネルディスカッションについては、少し時間を置いて述べたいと思います。そこで、佐藤先生の模擬授業が何を提案していたのかについてもう少し詳しく触れたいと思います。
今回、愛される学校づくり研究会の担当者の記録が非常に参考になりました。ありがとうございました。

「劇で語る! 校務の情報化」で、校務の情報化のポイントを伝える(愛される学校づくりフォーラム2013 in 東京 午前の部)

愛される学校づくりフォーラム2013 in 東京」が無事に終了しました。今年も多くの方に参加いただき盛況のうちに終了しました。いつもながらこれだけの会を運営することは、企業会員からお手伝いいただくスタッフの協力あってのことです。感謝以外の言葉がありません。午前の部はその企業会員も参加しての「劇で語る! 校務の情報化」です。愛される学校づくり研究会の個性ある会員による5つの劇団が登場して、校務の情報化がなぜ必要なのか、どのように学校力の向上に役立つかを具体的な場面で伝えます。学校現場で忙しい会員たちです、一堂に会しての練習時間はもとより取れません。練習不足で思わぬ失敗が続くのではないのか。そんな心配も密かにしていたのですが、全くの杞憂でした。会場へ向かう新幹線の中で、乗客の怪訝な視線に耐えながら東京まで練習を続けた会員もいます。会場の隅で開始まで練習をする姿も見えました。日ごろ子どもたちに努力や工夫の大切さを説いている先生方です。さすがに言行一致しています。いやいや、先生方だけではありません。企業会員の中には仕事で移動中に台詞の練習をしていた方もあったそうです。(社長さん、職務専念義務違反なんて固いことは言わないでくださいね)
本番は、笑いも交え、観客の皆さんにわかりやすく伝えることができたと思います。

司会は玉置崇先生です。幕間は座長と国際大学GLOCOMの豊福晋平先生、私へのインタビューで進んでいきました。いつものことですが、劇とその場の観客の雰囲気に応じて玉置先生は変幻自在、質問に関する打ち合わせはあってなきがごとし。思わぬ方向から切り込まれます。私としては劇を素直に楽しむ余裕はあまりありませんでした。

ライブ映像をお見せできればよいのですがそれもかないませんので、各劇団が劇を通して伝えたかったことを私なりに整理したいと思います。

鈴木劇団は、「業務時間の短縮、素早い情報共有」がテーマです。
朝の打ち合わせなどで、共有すべき情報を毎回口頭で伝えたり、その都度印刷したものを元に説明したりしていることがあります。学校内で閉じたネット−ワーク上で共有すれば、読んだだけで十分伝わる情報は一々確認する必要はありません。各自の端末で情報が読めるのであれば、必要なもの以外印刷する必要はありません。資源のムダも省けます。事前に余裕のあるときにデータをアップしておけば済むので、うっかり忘れも防げますし、時間も有効に使えます。これらのことは先生を楽にすることが目的ではありません。業務時間の短縮は、浮いた時間を本来教師が一番使いたい、子どもとかかわることや本当に必要なことを話し合うために使うことが目的です。素早い情報交換は、情報を共有化することで、子どもたちに対して組織としてよりきめ細やかな対応をするためです。

小西劇団は、「データ蓄積と活用、いいとこ見つけ」がテーマです。
過去の資料を書類の中から探すのは大変なことです。前年度の担当者が異動でいなくなったりした時は、その引継ぎも十分にできないことがあります。行事への思いやねらい、反省も、いつの間にか風化してはっきりと思い出せなくなってしまいます。ネットワーク上で共有しておけば、検索することで計画案だけでなく関連するものをすべて手に入れることができます。データの形で蓄積されているので、修正しての活用も容易です。
職員会議も議題とその資料を事前にネットワーク上で共有して、予め意見を募っておけば、必要なことに絞って議論することができます。
経験の浅い先生にとっては、通知表の所見などはどのように書いてよいか悩むところです。書籍等で勉強することもできますが、子どもの過去の所見から具体的に学ぶことがとても有効です。個人の履歴がネットワーク上のデータベースに蓄積されていることで、過去の通知表の内容なども簡単に閲覧することができます。
また、多くの職員で子どもたちのよいところを見つけ、データベース上で共有する「いいとこ見つけ」で、担任だけでは気づけない一人ひとりのよさを知ることができます。いろいろな視点から見た子どもたちのよいところを通知表の所見に活かすだけでなく、子どもたちに伝えることで、自己有用感を高め、同時に教師への信頼を深めることができます。校務の情報化を考えるとき、データベースに何を蓄積するかはとても重要な課題なのです。
劇中、情報機器の操作について困った時は「川本先生!」という場面が何度も出てきました。得意な先生になんでも聞いて負担が集中してしまうという学校でよく見られる風景を、笑いを取るためにカリカチュアライズしたものです。もちろんこれがよいことだと主張しているわけではありません。会場の皆さんには気づいていただけたことと思いますが、「川本先生」がちょっと不機嫌に見える演技をしていたのはそれを伝えるためだったのです。

平林劇団は、「ネットで学校比べ、コミュニケーション活性化」がテーマです。
保護者は学校のホームページを見比べています。自分の子どもの通う学校がどのような情報を発信しているか、とてもシビアに見ています。行事ごとにしか更新されないようでは、学校が自分たちの教育活動を保護者に伝える気がないと思われても仕方がありません。いわんやホームページがないというのは論外です。ホームページは、保護者の信頼を得るための重要な手段となっています。愛される学校づくり研究会の先生方の学校のホームページでは毎日更新は当たり前のことです。更新頻度ではなく、どのような情報をどのような形で伝えればよいのか、その質を競い合っています。
しかし、残念な情報が豊福先生から発表されました。この1週間で4日以上更新した学校はわずか7%しかないというのです。それどころか、1度も更新しなかった学校が半分以上なのです。ホームページの活用をもっと意識してほしいと思います。
また、ホームページは保護者や地域の方々への情報発信ツールと思われがちですが、決してそれだけではありません。管理職やリーダーが教職員と直接話す機会は限られていますが、学校の目指すところ、子どもたちのよい姿などを外部に対して発信する形をとって、間接的にメッセージを送ることもできるのです。ホームページで「学校ではこんなことを目指しています」と発信すれば、保護者はそれが学校全体でおこなわれているものと思うはずです。保護者がそう思うと教職員が考えれば、管理職が直接言うよりもよほど意識してもらえます。
学年や教科、行事の担当者などがそれぞれ発信するようになれば、教職員間のコミュニケーションの活性化にもつながります。教職員のベクトルも揃っていきます。学校ホームページにはこういう内向けの発信という活用方法もあるのです。学校経営になくてはならないツールとなってきていることがおわかりいただけると思います。

中林劇団は、「安心と安全のお届け、緊急メール発信」がテーマです。
修学旅行などの宿泊行事などでは、保護者は我が子が無事に過ごせているかとても気になるものです。ホームページで逐次状況を報告することで安心を届けることができるのです。こういった宿泊行事の時のアクセス数は通常の何倍にもなることからも、保護者の関心が高いことがよくわかります。
また、台風の接近時など、緊急時に家庭に対して学校の対応などを素早く確実に伝えることはとても大切なことです。従来の電話連絡網では、全員にいきわたるには何時間もかかってしまいます。それに対して電子メールを活用した緊急メール配信は、短時間で確実に情報を伝えることができます。システムがきちんと構築されていれば、電話連絡網をつくって配布することと比べて、登録などの手間もわずかで済みます。しかし、年に1回あるかないかの発信では、肝心な時にメールアドレスが変更になっていて届かないといったことにもなりかねません。定期的に発信をして、メンテナンスをすることも重要になります。
社会が変化している中、子どもたちの安全に直接かかわる情報の提供は当然のことです。それを怠ることは信頼をなくすことにつながります。企業では存在そのものが揺らぐことにもなりかねません。いかにコスト(金銭だけでなく人的も含む)をかけずに実現するかは学校の大切な課題なのです。

水谷劇団は、「小刻み学校評価、短時間で集約と発信」がテーマです。
学校評価が義務づけられていますが、実際には集約作業に時間がかかり、その大変さから年に1度、保護者アンケートを形式的におこなって終わりという学校をよく見かけます。保護者の側も、何か月も前のことを聞かれても覚えていなかったり、たずねられている内容がよくわからなかったりするために、いい加減な回答になってしまうことがよくあります。アンケートの集計結果が発表されたときはもうすでに学年末で、どのように改善するのかも曖昧で、改善されたかどうかの評価も結局うやむやになってしまっていることもよくあります。
こういう状況を変えるのにアンケートシステムが有効になります。WEB上にアンケート項目や集計期間などを設定するだけで、保護者が携帯電話やパソコンから簡単に回答できるようになります。集計も自動でおこなえるので、今までに集計にかかっていた時間を集計結果の細かい分析に充てることができます。手間がかからないので、行事ごとにアンケートを取ることも苦になりません。とはいえ、より正確な評価をいただくためにホームページなどでの情報発信は欠かせません。学校が目指すこと、学校で起こっていることを正しく伝えることでより正確な評価を得ることができます。手軽にできることを活かして、小刻みに学校評価を実施することで、その結果を素早く学校経営に反映させることもできます。「どうせ学校に言っても変わらない」そう考えている保護者も、学校が外部の意見を真剣に受け止めて変わったことに気づけば、学校に対する評価をあらため、信頼するようになります。学校評価は前向き活用すべきことです。そのためには、集計といったムダな時間を削減し、大切なことに時間を割けるようなシステムが必要なのです。

最後に司会者から「学校の情報化を進めるためにどうすればよいのか」ということを問われました。

情報機器の整備が必要といった問題はひとまず脇に置いて、学校の情報化は何のためか今一度考えてほしいと思います。子どもたちの成長のためのよりよい環境をつくるための手段が校務の情報化です。情報機器やシステムがないからといって何もしないのではなく、今ある環境で何ができるかということを考えてほしいのです。たとえば、学校通信を毎週保護者向けに出すことでホームページのねらいの一部を実現できます。これも立派な校務の情報化です。何もしないで予算をほしいと交渉するのでもなく、ただ整備されるのを待つのでもなく、一歩でも前へ進むような動きをしてほしいのです。その姿がまわりを動かし、予算もついてくるのです。どうすれば「子どもたちのため」の時間をつくることにつながるのか、どうすることが「学校の信頼」を得てよりよい教育のための応援団を増やすことにつながるのか、このことを考え具体的に行動していくことが学校の情報化につながっていくのです。

このようなことを話させていただきました。
参加者の方々にとても真剣に聞いていただいていることが、張りつめた空気から感じました。きっと私たちの主張をしっかりと受け止めていただけたことと思います。それぞれの学校で校務の情報化を進める参考になれば幸いです。
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