最新更新日:2024/05/10
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令和6年度が始まりました。1年間どうぞよろしくお願いいたします。

ちょっといい話 1月26日(火)

泣ける映画と本のホームページより

   兄の声

 私には二歳で病死した兄がいる。私は兄の死後に生まれた為、兄の事は全く知らないんだが、何回か兄に会った(?)事がある。中学生の時、両親と折り合いが悪くて、今思うと恥ずかしいくらいにグレた。同じような友達や先輩とつるむようになり、女の先輩から初めて煙草を渡されて「吸ってみろ」と言われた。受け取って口に咥えた瞬間、先輩の形相が急に変わり、男の声で「何やってんだ!」と怒鳴られてビンタされた。私も唖然としたが先輩も「えっ!?私何でアンタ殴ったの今!?ごめんね!えっ!?」と混乱していた。結局煙草は吸ってないし、その後そういう仲間との付き合いも断った。
 高校時代に付き合ってた彼氏が寝てる時、寝言で普段の彼氏ではない声で「こいつは駄目だ、別れなさい」と言った。怖くなって別れた後、友達からそいつが二股かけていた事を聞かされた。就職してから付き合った彼氏もやはり同じように寝言で、あの声で「この人なら大丈夫、幸せにしてくれる」と言った。今、その人と婚約中で来年式を挙げる。
 夢に出たり姿を見る事は無いが、私にはあの声は兄だ、という確信がある。
遺影の兄は二歳のままだが、きっといい男になって側にいてくれているんだと思う。

今日のお話 1月26日(火)

    塩沼亮潤の名言

  人は誰でも一人では

  生きていけませんし、

  それぞれに辛いこと苦しいこと、

  そしてさまざまな迷いを

  抱えながら生きていかねば

  ならない時もあります。

  そんな時こそ、自分一人だけが

  苦しいと悲観的にならず、

  世の中にはもっと苦しい思いや

  悲しい思いをしながらも

  頑張っている人達がいるんだ

  と自分に言い聞かせ、

  みんな共に生きているんだ

  という思いやりの心をもち、


  笑顔を心がけることです。


ちょっといい話 1月25日(月)

泣ける映画と本のホームページより

   弟の物語

 弟がまだ6歳の時の話。弟と私は12才離れてる。凄く可愛い。だけど私は遊びさかりだったし、家に居れば父と母の取っ組み合いのケンカに巻き込まれて、それが嫌でほとんど家には帰らない日々だった。6歳の弟は、毎日淋しかっただろう。
 ある日家に帰ったら、酒ばかり飲んで人の顔を見れば殴る父が座って1冊のノートを見ながら泣いていた。私もノートを覗き込んだんだ。そしたらね、父が急に「ごめんな」って言うの。よく見たら弟が拙い字で物語を書いてた。
 僕には楽しいパパ、優しいママ、いつも笑顔のお姉ちゃんがいる。いつも皆でおいしいご飯を笑いながら食べる。毎週日曜日は家族でお出かけをする。僕は皆にいつもいい子されて幸せいっぱい。毎日笑顔がいっぱい。
 そんなような事が沢山書かれてた。普通なら当たり前なのに、私の家では出来ていなかった事が想像で沢山書かれてた。紛れもなく弟の夢が書かれてた。父と泣いて読んだ。母がパートから帰ってきて母も読み泣いた。その日の夜は揃って鍋をした。弟は初めての体験。凄い笑ってた。凄い喜んでた。父も母も私も照れながら笑った。
 それから少しづつ弟の物語は現実になった。今では笑顔沢山の家族になりました。弟の物語はあれ以来書かれなくなった。

今日のお話 1月25日(月)

    塩沼亮潤の名言

  過去を追うな

  未来を願うな

  過去はすでに捨てられた

  そして未来はまだやってこない

  だから現在のことがらを

  それがあるところにおいて観察し

  揺らぐことなく

  動ずることなく

  よく見極めて実践せよ

  ただ今日なすべきことを

  熱心になせ


ちょっといい話 1月22日(金)

泣ける映画と本のホームページより

   痴呆の末に亡くなった母……。母の日記に残されていた言葉  掲載 

 痴呆の末に亡くなった母の遺品を整理していた。幼い頃見覚えのある着物、編物の道具。そういえば着せ替え人形の洋服を編んでくれたりしたっけ。よくあんな小さな洋服を……。そして古ぼけた大学ノートが数冊。
 若い頃の母の日記だった。読み進むうちハッとした。母は若い頃に子宮の病気をしていたのだった。「神様、お願いします。子宮を取らないで下さい。わたしは子どもを産んでみたいのです。自分の子供にお乳を飲ませて抱いてみたいのです。だから、どうか神様、赤ちゃんを産ませてください」そして数年後身ごもった子供がわたしだった……。
 亡くなる少し前には、何かを食べさせてもボロボロとこぼす母に苛立ち、母のオムツを替えるのだって内心めんどうに思っていた自分。
 ごめんね。ごめんね。ごめんね。こんなにも大切に産み育ててくれたのに私は……。古ぼけた写真の中の母は微笑んでいる。「いいのよ」って言ってくれているんだろうか。もう一度会いたい。会いたいよ……。

今日のお話 1月22日(金)

    塩沼亮潤の名言

  人間は自分が苦しくなると、

  他人のことを考えなくなったり、

  自己中心的にものごとを考えて

  勝手気ままに立ち振る舞ったりして

  しまうことがあります。

  そんな生き方では

  周りの人は喜びませんし、

  それがまわりにまわって

  自分自身に返ってきてしまいます。


ちょっといい話 1月21日(木)

利ちゃんのちょっといい話より

   幸福の7カ条   

 水木しげるさんといえば、『ゲゲゲの鬼太郎』で知られる日本を代表する漫画家です。 90歳を超えた現在も、なお新作漫画を発表し続けており、近年では、妻・布枝さんの『ゲゲゲの女房』がドラマ化、映画化されるなど話題に事欠きません。そんな水木さんが、著書『水木サンの幸福論』のなかで、「何十年にもわたって世界中の幸福な人、不幸な人を観察してきた体験から見つけ出した、幸せになるための知恵」を七か条にまとめています。
第1条:成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない。
第2条:しないではいられないことをし続けなさい。
第3条:他人との比較ではない、あくまで自分の楽しさを追及すべし。
第4条:好きの力を信じる。
第5条:才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。
第6条:怠け者になりなさい。
第7条:目に見えない世界を信じる。
                 水木サンの幸福論 (角川文庫) より

今日のお話 1月21日(木)

    塩沼亮潤の名言

  もし人生において自分の気まま

  わがままばかりが通り、

  自分の思いが次から次へと

  叶っていったなら、

  どんな人間になって

  しまうでしょうか。

  おそらく人の痛みや

  悲しみがわからずに

  多くの人を傷つけてしまったり、

  決してみんなから慕われ、

  心から尊敬されるような存在には

  なれないと思います。

  人生には良いことも悪いことも

  半分半分に訪れるからこそ、

  自己の成長があるのだと思います。

ちょっといい話 1月20日(水)

泣ける映画と本のホームページより

   子どもに励まされた話 

 保育士してます。卒園式のピアノ曲がうまく弾けなくて、毎日職場で夕方練習していました。いつもその様子を、子どもたちがまわりに座って黙って見ていたのですが、ある日いつもの様にピアノの蓋を開けてみたらびっくり。蓋の内側に「〇〇先生頑張って!」 「沢山練習して上手になってね!」と書いた折り紙のメダルが沢山貼ってあったのです。
 元々ピアノは得意でなく、練習にも息詰まってたので本当に嬉しかった。もう4年経ちますが、いまでも当時の楽譜と一緒にファイルに挟んで大切に持ってます。

今日のお話 1月20日(水)

    塩沼亮潤の名言

  人には、

  あらゆる可能性があります。

  善く生きる可能性もあるし、

  悪く生きる可能性もある。

  どちらに転ぶかは、

  すべては自分の心次第です。

  どんなに困難なことでも、

  目の前にあることから逃げずに、

  精一杯取り組むこと。

  そして、縁を大切にし、

  与えられた仕事を、

  心をこめて精一杯させていただく。

  そうすると、

  必ず道が開けていきます。

ちょっといい話 1月19日(火)

 泣ける映画と本のホームページより

 携帯解約   

 嫁さんのお父さんが亡くなった。ガンだった。嫁さんは最後の1ヶ月付きっきりで看病し、病院で寝泊まりしていた。嫁さんにしてみれば、ソレほどに愛したお父さんだった。 葬儀が済み、49日も済んで納骨した後、彼女はお父さんの携帯の解約に行った。それに俺も付き添った。携帯ショップに到着し、書類を書いて、店員さんが解約の手続きを行う。「ではこれで解約となります。ヨロシイですか?」と確認したら、嫁さんが、「チョット待って下さい」と言い、自分の携帯からお父さんの携帯に電話した。
 誰も出るはずがない電話。そのうち留守電に切り替わる。
 「お父さん 今まで本当にありがとう。ワガママな娘だったけど、許してね。私お父さんの娘で本当に幸せでした。さようなら」
と留守電に登録した。
 嫁さん・俺・ショップの店員さん、みんな泣いてました。

ちょっといい話 1月18日(月)

泣ける映画と本のホームページより

   未送信のメール   

 去年3月に定年を迎えた父に兄と私で携帯電話をプレゼント。退職前は携帯などいらんと言っていたがうれしそうだった。使い方に悪戦苦闘の父に一通り教えて、まずメールを送ったが返事はこなかった。
 そして、その6月に脳出血で孫の顔も見ずに突然の死。40年働き続けてホッとしたのはたったの2ヶ月。
 葬式後、父の携帯に未送信のこのメールを発見した。最初で最期の私宛のメール。私は泣きながら送信ボタンを押した。私の一生の保護メールです。
 「お前からのメールがやっと見られた。返事に何日もかかっている。お父さんは4月からは毎日が日曜日だ。孫が生まれたら毎日子守してやる。」


今日のお話 1月18日(月)

    塩沼亮潤の名言

  厳しい状況下で、
  職場環境や人間関係で
  悩んでいる人も多いと聞きます。
  私も修業時代に、
  ある一人の僧侶を理解できず、
  悩んでいた時期がありました。
  今ならばマイナスの出来事を
  試練と受け止め、
  プラスに転じることが
  できるのですが、
  若いころの自分は、
  頭でわかっていても
  なかなかできません。
  心がすっきりしないまま、
  迷いの渦の中で苦しんでいたのです。
  しかし、
  あきらめずに努力していると、
  心の中に変化が起きました。
  「今までこの人を
  受け入れられなかったのは、
  自分の心が小さいからなのだ」。
  そう心の底から思えた瞬間に、
  その人に対して素直に
  やさしさを表現することができました。
  するとその人からも、
  やさしい言葉が
  返ってくるようになりました。
  そして「この人がいたからこそ、
  自分は成長できた」と、
  心から感謝できるようになったのです。
  マイナスだと思うことを、
  自分の成長だと思い、感謝する。
  それが自然にできるようになってから、
  私の人生は180度好転しました。

ちょっといい話 1月15日(金)

中日新聞 くらしの作文(2016.1.14)より

   早く寝る理由(9歳) 

 私は、どうして子どもは早く寝ないといけないかということを知りたい。寝る時間が少ないといろんなことがよくないといわれるけど、本当かどうかはよくわからない。大人はいつまでも起きて、テレビなど見てうらやましい。私は夜8時30分から遅くても9時までには寝る。もうちょっとテレビを見たいと思うことがある。
 新しい年になる日、近所で花火が上がる。2階の部屋の窓から見えるけど、夜中なので私は今まで見たことがない。だから今年は見たいなと、お母さんにずっと言い続けた。お母さんは笑って何も言わなかった。
 大晦日の夜になって、8時30分が過ぎていつもの「もう寝る時間」という言葉がなかったので、私はドキドキしながらテレビを見ていた。時々お母さんと時計をかわりばんこにチラッと見てはテレビを見ていた。でも11時過ぎに目が開いていられなくなった。もう少しがんばろうと思ったけど、お兄ちゃんが「もう限界」とギブアップしたので、私も寝てしまった。
 早く寝ないといけない理由はまだよくわからないけど、遅くまで起きていると、目も疲れて頭もボッとしてテレビが楽しめないことはよくわかった。

今日のお話 1月15日(金)

    塩沼亮潤の名言

  辛いときや調子が悪いときほど、

  攻めの姿勢で向かったほうがいい

  と考えています。

  そのときに必要なのが、

  ゆとりです。

  例えば山で行をしていると、

  5分の遅れが命取りになります。

  5分遅れると、それを取り戻すのに

  非常に時間がかかるのです。

  無理に頑張ると、

  いろいろな所にひずみが生じ、

  体調を崩す原因にもなります。

  逆に5分でも余裕を持って臨むと、

  その5分のゆとりが心のゆとりになり、

  小さな気づき、

  悟りにつながる可能性があります。

ちょっといい話 1月14日(木)

骨肉腫と私+αより

   雪とパイナップル 

 医師・鎌田實さんの絵本「雪とパイナップル」【鎌田實(著)唐仁原教久(画)集英社)。2004年出版なので、読んだ人も多いと思う。私はあらすじは知っていたが、最近やっと本を読んだ。死にたいと思ってしまう私が、どうしたら生きていけるのかヒントをもらった。未読の方のため、内容を紹介すると(ネタばれすみません)――
 1986年チェルノブイリ原発の爆発事故後、周辺地域で子供の甲状腺がん、白血病が増えた。鎌田さんの医療ボランティアグループはソ連に行き、政府から貧しいベラルーシ共和国の支援を頼まれる。そこで治療した子供たちの中に、急性リンパ性白血病の男の子アンドレイ君(享年14)がいた。アンドレイ君の白血病は日本から持ってきた抗がん剤が効かない、難治性のものだった。そこで、ベラルーシではやったことのない骨髄移植を行うことになった。移植前に、がん細胞をなくすため、大量の抗がん剤を投与する。免疫力が落ち、敗血症で死にかけたが、なんとか移植が行われた。しかし10か月後再発。アンドレイ君は、両親やドクターたちの気持を知っていたから、絶対に病気に負けたくなかった。何度も奇跡的に命を取りとめた。しかし、しだいに抵抗力がなくなり、2000年7月に亡くなった。
 彼が亡くなってしばらくして、鎌田さんはアンドレイ君の家を訪れた。歓迎されないことを覚悟して。でも母親は、ヤヨイさんという看護師の話をして、鎌田さんにも感謝してくれた。ヤヨイさんは、移植後に熱と口内炎で全く食事ができなくなったアンドレイ君に、「何なら食べられる?」と聞いた。「パイナップル」と彼は何度も聞かれて小さい声で返事をしたそうだ。ベラルーシでは、2月にパイナップルなど売っていない。でもヤヨイさんは、マイナス20°の雪の町へ、パイナップルを探しに何日も続けて出かけた。母親は「あるはずのないパイナップルを探して雪の町を歩き回ってくれた彼女のことを考えると、人間ってあったかいと思った」と語る。
 結局パイナップルは見つからなかったが、奇跡が起きた。日本人女性がパイナップルを探していると、うわさが広がり、パイナップルの缶詰を持っている人が病院に届けてくれたのだ。生ものは危険なので、缶詰でちょうど良かった。パイナップルを食べられたのをきっかけに、アンドレイ君は食事がとれるようになった。そして元気を取り戻した。
 母親はアンドレイ君が病気になってから、「なぜ私たちだけが苦しむのか、何も悪いことをしていないのに」と恨み、生きている意味も見えなくなったという。でもヤヨイさんのおかげで、最愛の子供を失った悲しみの中で、忘れていた感謝する心がよみがえってきたそうだ――。

今日のお話 1月14日(木)

 1月14日は、「タロ、ジロの日」です。
 1958(昭和33)年、南極観測の第2次越冬隊は厚い氷に行く手を阻まれ観測を断念。  1次越冬隊員は救助されたものの、15頭の樺太犬は南極に取り残されました。 しかし、1959年のこの日、タロとジロ、2頭の生存が確認されました。

 この記念日は、「愛と希望と勇気の日」とも呼ばれています。

ちょっといい話 1月13日(水)

  すごい父に拾われた   鎌田 實

□ 鎌田 實 プロフィール
1948年東京生まれ。東京医科歯科大学医学部卒業後、長野県茅野市の諏訪中央病院医師として、患者の心のケアまで含めた地域一体型の医療に携わる。88年同病院院長に就任し、2005年から名誉院長。同時に東京医科歯科大学臨床教授、東海大学医学部非常勤教授も務める。また、91年からチェルノブイリ事故被災者の救援活動を開始し、94年信濃毎日新聞賞を受賞。04年からイラクへの医療支援も開始し、4つの小児病院へ毎月400万円の薬を送り続けている。

 ぼくは拾われた子どもです。終戦5年目の1950年、生みの親が捨てた1歳のぼくを、亡き父、岩次郎がもらってくれた。37歳、諏訪中央病院の副院長だった時に、偶然、その事実を知りました。好きになるのに40年もかかったけれど、岩次郎という男の存在がぼくの核をなしています。
 岩次郎は青森県花巻市(現・黒岩市)で貧農の末っ子として生まれ、小学校しか出ていない。18歳で上京し、公営バスなどの運転手で生計を立てます。バスの車掌だった母のふみと結婚しますが、居を構えた東京都杉並区の家は6畳二間と3畳、お勝手。はじめはお風呂もなかった。
 ぼくが小学校に上がる前、母が僧坊弁狭窄症(そうぼうべんきょうさくしょう)という心臓病を患います。入退院を繰り返した先は、日本で唯一の心臓病専門病院だった、東京女子医大付属日本心臓血圧研究所(心研)でした。50年代、往診こそ頼めても、貧しい人が高度な医療を受けるのは大変でした。国民皆保険になるのがぼくが中学生になる61年だし、もちろん高額療養制度もない。岩次郎は、朝8時から夜まで、長い日は1日15時間も働きます。切りつめても切りつめてもお金は母の治療費に消える。疲れ切って帰り、夕食をつくれない夜は、ぼくを連れて近くの定食屋へ。ぼくはいつも、おかずに一番安い野菜炒めを選びました。
 名前の通りに頑固で、無口だけど声が大きく、津軽弁で理路整然と話す人でした。背筋が伸びて、シャンとしていた。上京した同郷の苦学生を狭い家に置いてあげたりもした。でも、ぼくが運動会の徒競走や試験で一番になっても、岩次郎は決して褒めてくれない。全力を出し切っていないって見られた。叱られて、叱られて、ぼくは育ちました。「ぼくのほうを見てよ。理解してよ」 と心でつぶやきながら。
 だからこそ、旅券申請のために取り寄せた戸籍で、父親の欄に別の名前を見た時、衝撃だったんです。血のつながっていない岩次郎が、ぼくを育ててくれていた。心臓病の母を抱えた あの貧しい暮らしの中で、「拾ってやった」 とか、恩着せがましい言葉を一度も口にせず。泣き言も言わず、弱音も吐かず。岩次郎は苦難から逃げなかった。苦しい時ほど、その苦しみを横に置いて、誰かのために生きようとした。がんばって、がんばって、全力投球で、最後は個人タクシーの運転手を70歳くらいまで務めました。
 すごい人に拾われたって思います。12年前に亡くなった岩次郎は今も、ぼくの内側でどんどん大きくなっていくんです。

今日のお話 1月13日(水)

    塩沼亮潤の名言

  やはり何かに挑戦することで、

  人は成長していけるのだと思います。

  誰かが切り開いた道には

  データがありますが、

  挑戦にはデータがありません。

  そこに成長の

  ポイントがあるのです。

ちょっといい話 1月12日(火)

泣ける映画と本のホームページより

   不幸になる方法   美輪明宏

 何か不幸や不運に見舞われたら、誰でも世間や何かのせいにして、恨みたくなります。私とてもそうです。 金銭関係で人に騙されたこともあるし、信じていた人間に恩を仇で返すような仕打ちをされたこともあります。そういう時、「私は悪くないのに」と責任転嫁しそうになります。でも、私はそれで終わらせない。
 なぜそうなってしまったかをよく分析してみるのです。その人との出会いまでさかのぼり、関係を築く中で起こったことを思い出し考えます。そうすると気づきます。「私に見る目がなかったんだ。対処の仕方に不味いところがあった。」って。「そうか。問題の大部分が私のせいなのだ」と気づくのです。そう思えれば、気持ちのモヤモヤは、すっかり片付くものなのです。
 たとえば、上司に怒られたとします。
 殆どの人が怒られたということに執着し、がっぷり受け止めてしまいます。そして恨みます。怒ります。「なぜ怒られることになったのか」とその理由を冷静に分析しないのです。その思考パターンがすべてに広がっていきます。人生の中で起こった原因からは目をそらし、結果ばかりクローズアップ。恨む、憎むという行為をし続けるから、みんな怨霊になる。
 責任を押し付け、被害者ぶっているからいつまも辛いのです。自分が加害者であるという現実を見極めようとしないから不幸になっていくのです。
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