最新更新日:2024/05/10
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令和6年度が始まりました。1年間どうぞよろしくお願いいたします。

今日のお話 10月8日(木)

    泉正人の名言

  チャンスはどこにでもあるけど、

  準備ができていなければ、

  つかむことはできないよ。

ちょっといい話 10月7日(水)

利ちゃんのちょっといい話

   「わが母中村久子」 中村富子

 明治30年(1897)、高山市に生まれた中村久子(幼名ひさ、〜1968)は、3歳の時、しもやけが元で突発性脱疽(とっぱつせいだっそ)にかかり、両手両足を切断しました。それでも久子は、想像を絶する苦難を乗り越えて、針や編み物、教養を身につけます。そして結婚し、子を産み育て、力強く生き抜きました。そのほんの一端を、高山市にご健在の次女・富子さんのお話を交えて紹介します。
 幼少の頃、久子は母あやから着物の糸ほどきをするよう命じられ、苦心の末、ハサミを口でくわえ、糸を切ることができるようになりました。これをきっかけに、工夫を重ねることで、裁縫や編み物、書き物から、箸を使ってご飯を食べるといったことができるようになっていきます。どれも、口や頬と肩先に残った腕を使っての、血のにじむような努力の末のことです。また、学校に行けなかった久子は、祖母ゆきの元に預けられた2年間に百人一首や古今集などの文学に親しみ、教養を身につけます。「母は『一番楽しかったのは、ばば様と暮らした2年間だった』と、ことあるごとに申しておりました」と。
 大正5年(1916)19歳になった久子は自分の力で生きていくため、見せ物小屋で芸人として働く決意をし、高山から旅立っていきます。久子は「ダルマ娘」の名で針や書を実演し、やがて一座の中心になります。北は北海道から、南は台湾、さらに朝鮮、満州まで巡業を続けます。結婚・出産も巡業生活の中でのことでした。しかし、一度ならず夫に先立たれ、また一児を亡くします。そうした過酷な運命を久子は前向きにとらえ、二人の娘を育てます。
 「厳しい人でした。私が口答えでもしようものなら、短いゲンコツのような手で殴られましたから。また優しい人でもありました。女学生時代のことです。私はやんちゃだったので、先生が母宛に手紙を書き送ったんです。そしたら母は、興行先の朝鮮から義足を付けて3日間かけて学校に来てくれたんです。一人ではトイレに行けませんから、ずっと飲まず食わずで。先生との話を終えた後に『しばらくね、元気?』とニコニコして言うんです。ちっとも叱りはしない。ショックでした。怒鳴られたほうがどれほど気が楽だったか。あれほどこたえたことはありません」
 昭和17年(1942)に22年間の芸人生活に終止符を打ち、各地で講演を行います。そこでは自分の生い立ちとともに、人々への感謝の気持ちを語りました。あくまでも自立を目指し、国からの援助も受けなかった久子の言葉だけに説得力があり、障害者のみならず多くの不幸な境遇にある人々に勇気と希望を与えました。
 久子はこんな歌を残しています。
  あかときに 見しゆめはしも
  友と二人 荒野をかける
  吾れに足あり
 「母の死後に改めてこれを見たとき、母がいちばん欲しかったのは足だったんだなあと思いました。今でも時々、もう一度あの大きな声で叱られたい、ひっぱたかれたいって思います」
 昭和12年(1937)、久子はヘレン・ケラー女史と会見する機会に恵まれます。女史は久子にこう言いました。「私より不幸な人、私より偉大な人」と。久子の生涯を知るにつけ、この言葉が今改めて響いてきます。
               Heart of Japan Gifu Winter 1999

今日のお話 10月7日(水)

    泉正人の名言

  人のためになるサービスを提供していたら

  自然とお金はついてくるものだよ。

  サービスとは「他利」で

  「自利」は自分の利益のことだろう。

  他利を考えている人は成功する。

  逆に、相手から奪うことばかり考えている

  自利的な人間は成功しないよ。

ちょっといい話 10月6日(火)

利ちゃんのちょっといい話

   「ホ・オ ポノポノ」

 ハワイに州立病院があり、そこに大勢の心神喪失の犯罪者が収容されていました。殺人、レイプ、強盗等々といった犯罪は、精神的な病と深くつながっています。そういった犯罪者は、一般の刑務所ではとても管理しきれません。そこでハワイ州立病院が、手に負えない彼らをまとめて引き受けていたのです。やっかいなこうした犯罪者をまとめて収容したこの病棟では、囚人同士の喧嘩やトラブルが相次ぎ、いつも危険極まりない状態にありました。彼らを病棟に自由に野放しにしておいては、それこそ殺人すら起こりかねません。そこで囚人が動けないようにと、手かせ&足かせをし、また大量の薬物を投与することでなんとか管理していたようです。
精神病院の閉鎖病棟がそうであるように、囚人たちをついには廃人とせしめ、そのまま静かに死んでくれることを願っていたのかもしれません。そんな病棟に勤務することは、誰にとっても嫌なことだったからでしょう、職員たちは頻繁に病欠し、心理カウンセラーたちも数ヶ月で職を辞しました。その病棟に入るときは、頭の狂った囚人たちから攻撃されることを恐れ、多くの人々は、壁を背にして恐る恐るにじり寄るほどだったと言います。それくらいこの病棟は恐れられており、訪問者もほとんどありませんでした。
 誰もが近寄りたくないと思っているその病院の心神喪失犯罪者の病棟に、心理カウンセラーであるヒューレン博士が赴任しました。しかしヒューレン博士は、彼ら囚人の誰一人とも全く会わず、カウンセリングも一切することがありませんでした。ヒューレン博士は、ただオフィスに座って囚人たちのファイルを見ていただけです。しかし、時が経つにつれ、その病棟に徐々に変化が出始めてきました。まず、囚人に投与されていた薬物が徐々に減り始め、囚人たちが勝手に動けないようにとはめられていた手かせ足かせも外されるようになり、さらに囚人たちには、病棟内を自由に散歩することが許されるようになりました。これはそれまでにない、まさに劇的で画期的な変化でした。それどころか、それまでは「廃人化→死」の一方的な囚人エスカレーターが、なんと、心身の健康を回復して退院する囚人までもが現れ出したのです。もちろん職員や心理学者たちも、日を追ってどんどん明るくなっていきました。そしてその数年後、その囚人病棟からはすべての囚人が退院して一人もいなくなり、現在では、すでに閉鎖されてしまっているということです。そこではいったい、何が起こったのでしょうか。ヒューレン博士は、いったい何をしたというのでしょう。何が極悪な囚人たちを正常化し、かつ健康を回復させてくれたのでしょうか。
 ここからホ・オ ポノポノ の話が始まっていくのですが、結論から簡潔に言ってしまえば、ヒューレン博士は、囚人の個人情報が記録されているファイルを開いて、次の4つの言葉を、たえず一人で語っていたに過ぎないのです。すなわち、
 I love you. (愛してます)
 I’m sorry. (すみません)
 Please forgive me. (どうか赦(ゆる)してください)
 Thank you. (ありがとうございます)
 ヒューレン博士は、囚人とは誰一人として会いませんでした。誰とも面談せず、カウンセリングせず、ただ一人で言葉を繰り返すことにより、すべての囚人たちの心の闇を消し去って、まっとうな人間に戻したのでした。
 以上は決して作り話などではなく、実際にハワイの州立病院で起こった事実です。そしてこの情報がインターネットであっという間に広がり、日本でも「ホ・オポノポノ・ムーブメント」が一気に広がっているわけです。
  『ガン呪縛』を解く」の著者 稲田芳弘氏のメルマガより引用


今日のお話 10月6日(火)

    泉正人の名言

  出来ないという言葉は、

  使っちゃいけない。

  それよりもできる理由を考えなさい。

  決して諦めないこと。

  そのあきらめないという気持ちの中にこそ

  自分のしたいことやビジネスを成功させる

  原動力が潜んでいるんだ。

  大事なのは勉強と知識、

  そして考え方、この3つだ。

ちょっといい話 10月5日(月)

利ちゃんのちょっといい話

   メイク・ア・ウィッシュ

 「メイク・ア・ウィッシュ」とは難病に苦しむ子供達の夢を実現するボランティア団体です。この活動が始まったのはアメリカで1980年のことです。
 クリスという、7歳の男の子がいた。警察官になるのが夢だったが、白血病にかかって学校にも行けなくなった。クリスの夢を聞いた地元の警察官たちは、クリスのために、ほんものそっくりの小さな制服とヘルメットとバッジを用意した。そして、クリスを名誉警察官に任命した。さっそうと制服に身を包んだクリスは、規則にしたがって宣誓し、駐車違反の取締りをした。ヘリコップターに乗って、空からの監視もした。ミニチュアのバイクもプレゼントしてもらって、大喜びだった。それからわずか五日後、クリスは亡くなった。警察は、一日だけでも仲間だったクリスの死を悲しんで、名誉警察官のための葬儀をおこなった。クリスの夢の実現にかかわった人たちは、考えた。ほかにも、夢をもちながら、病気と闘っている子供たちが大勢いる。その子たちの夢もかなえてあげたい。クリスが大喜びしたように、その子たちも、とびっきりの笑顔で生きることの幸せを感じてくれるにちがいない。こうしてメイク・ア・ウィッシュの運動が始まった。
 今ではメイク・ア・ウィッシュの事務所はアメリカの80ヶ所を始め世界中に支部がある。日本では1992年に発足し、現在まで200人の子供たちの夢をかなえた。
 メイク・ア・ウィッシュ日本事務所が行った活動の一つ「太郎くんは背番号1 」。太郎君は、もうすぐ一年生というときに、神経芽細胞腫という病気で入院した。太郎君は病院内にある院内学級「がんばるーむ」に毎朝誰よりも早く出かける。気分の悪い日だって腕に針を刺したまま、注射のビンをさげたスタンドを押していく。ぐあいの悪いときだって酸素吸入の機械を引っぱっていく。太郎君のお母さんは太郎君になにかワクワクすることをさせてあげたいと考えた。お母さんがメイク・ア・ウィッシュに連絡すると、おばさんたちが太郎くんの病室にやってきた。「太郎くんの夢は、なーに?、太郎君の夢がかなうお手伝いをするから教えて」太郎くんはずっと前からこっそり思っていたことを言ってみた。太郎くんはダイエーホークスの秋山選手のファンだった。「ぼくねーぼく、ダイエーの選手と野球がしたい」お母さんは予想もしていなかった言葉にビックリ。だって、病気の太郎くんは、みんなのように運動ができない。メイク・ア・ウィッシュのおばさんたちは、すぐにダイエーホークスに連絡した。「ゲーム開始の始球式で太郎くんに投げてもらいましょう。その前に秋山選手とキャッチボールをするのはどうでしょう」話は決まった。始球式まで1ヵ月ちょっと。病院から許可が出て家に帰れたときは、お父さんとキャッチボールの練習をした。でも、足が痛い。病気がくやしくて涙がでそうになる。ちょっぴり不安になってきた。院内学級「がんばるーむ」の仲間も励ましてくれた。
 始球式の日がきた。車でドーム球場のそばのシーホークホテルに向う。ホテルの部屋についたら大きなプレゼントが太郎くんを待っていた。ダイエーホークスのユニホームだ。背番号は1番。王監督のサイン入りのバットを貰った。城島選手のサイン入りのボールも貰った。でも、始球式までの1時間太郎くんはぐったりしていた。「時間ですよ」係りの人に案内されてマウンドに出る。下から見上げるドーム球場はとてつもなく大きい。太郎くんと秋山選手のキャッチボールが始まった。足の痛みなんかウソみたいに消えた。秋山選手とツーショットの記念写真も撮った。「ピッチャー富永太郎くん、背番号1」場内アナウンスが、太郎くんの名前を高らかにつげる。「がんばれよ」秋山選手の声がする。「がんばれよ」「がんばれよ」つぎつぎにダイエーの選手が声をかけてくれる。まるで太郎くんがチームの一員になったみたいに。マウンドに立ってキャッチャー城島選手のミットをじっと見つめる。大きく振りかぶって投げた。まっすぐ伸びたボールをキャッチャーの城島選手が拾った。試合開始のアナウンスとワーという歓声がマウンドを下りる太郎くんの背中で聞こえる。やったぞ。体の力がいっぺんに抜けた。夢がかなった、夢を見事にかなえた太郎くんの姿はテレビで放映されインタビューも受けた。

            株式会社 騒人社 「夢はいのち」「太郎くんの背番号1」から

第2回資源回収 10月5日(月)

 「第2回資源回収」の案内文書をアップしました。

 http://www2.schoolweb.ne.jp/weblog/files/231018...

第2回スマイルエコキャップ運動 10月5日(月)

 「第2回スマイルエコキャップ運動」の案内文書をアップしました。

 http://www2.schoolweb.ne.jp/weblog/files/231018...

今日のお話 10月5日(月)

    泉正人の名言

  不平不満、愚痴からは、

  何も生まれてこない。

  心が傷つき、意欲がそがれるだけだよ。

  悩むことと考えることは違う。

  悩むだけでは駄目だ。

  考えることだよ。

今日のお話 10月2日(金)

    和泉正人の名言

 
   人間は必ず他人より

   優れたところを持っている。

   ただ、本人にはそれが

   わからないだけなんだよ。

今日のお話 10月1日(木)

    泉正人の名言

 まず、自分に出来そうな事から

 始めるといい。

 目標を高く掲げて失敗するより、

 実現可能なことから少しずつ

 取り組むのが賢明だよ。

今日のお話 9月30日(水)

    泉正人の名言

 実際には「できない」のではなく、


「できる」ための方法を知らないだけ。




今日のお話 9月29日(火)

    泉 正人の名言

 モチベーションの無い人は、

 何をしても成功しないよ。

□ 泉 正人
 神奈川県・横浜市出身のファイナンシャル教育家、実業家、作家。美容師・ITベンチャー起業を経て、「日本ファイナンシャルアカデミー」を設立。経済や会計、財務をはじめ、経済新聞の読み方、マネープラン、株式投資、不動産投資などまで、幅広い「経済とお金の教養が身につくマネースクール」を東京や大阪、ニューヨークなどで運営している。

運動会前日準備について 9月25日(金)

 本日の運動会の準備について連絡をさせていただきます。
 13時30分から準備を予定していましたが、天候・グランドコンディション等を考慮して15時から準備をはじめていきたいと思います。
 PTA・町会長・楽田コミュニティの皆様には、急な変更でご迷惑をおかけしますがご理解とご協力をお願いします。
 保護者の皆様におかれましては、PTAの役員・委員の皆様に限らず時間の都合のつく方、参加していただけるとありがたいです。

 場所取りにつきましては17時以降にお願いをしております。

運動会前日準備について

 本日【25日(金)】の運動会の準備について連絡をさせていただきます。
 13時30分からPTA・町会長・楽田コミュニティの皆様を中心に運動会の準備を予定していましたが、現在の天候では判断できない状況です。
 そこで12時30分から13時を目途に再度ホームページ・メールで実施かどうか(時間を遅らせて実施を含めて)を連絡させていただきます。

 なお、場所取りにつきましては17時以降にお願いをしております。

 ご理解とご協力をお願いします。


今日のお話 9月25日(金)

    茂木健一郎の名言

 人には誰でもコンプレックスや、

 負い目のようなものがある。

 そのようなマイナスの感情がある場合、

 そんな自分に向き合い、

 笑ってしまうくらいの方がいい。

 「私にはこんなにダメなところがあって」

 というユーモアのメタ認知があってこそ、

 私たちは成長しつづけることが

 できるのだ。

□ メタ認知(メタにんち)とは?
 認知を認知すること。人間が自分自身を認識する場合において、自分の思考や行動そのものを対象として客観的に把握し認識すること。

運動会準備についてのお願い 9月24日(木)

 明日13時30分から運動会の準備を行います。都合のつく方、ご協力をお願いします。

 また、プログラム等には載せさせていただきましたが、前日の場所取りにつきましては、17時以降にお願いします。

今日のお話 9月24日(木)

    茂木健一郎の名言

 もともと脳には、

 「これは薬だよ」と言って

 砂糖の塊を与えると効いてしまう

 という「プラセボ効果」がある。

 笑顔は自分でつくることのできる

 もっとも強力なプラセボ。

 自分で自分の脳を、

 前向きに再プログラムできる。

今日のお話 9月18日(金)

    茂木健一郎の名言

 人生には、楽しいことばかり

 あるとは限らない。

 苦しいこと、

 悲しいこともある。

 仕事も生活も、

 いつもうまくいくわけではないし、

 思わぬ落とし穴も待っている。

 他人の心とのすれ違いもあるし、

 そもそも自分自身のことだって、

 思うに任せない。

 しかし、だからこそ、

 笑顔が大切である。

 微笑んで前向きに生きることで

 私たちは明日への挑戦する勇気を得る。

 微笑むだけで、人生の多くの問題を

 解決することができるだ。

今日のお話 9月17日(木)

    茂木健一郎の名言

 遊びの時っていうのは、

 脳が一番いい形で動いてるんです。

 我を忘れて取り組んでるという状態で、

 一番いいパフォーマンスを

 するんだと思います。

 時間を忘れて熱中する

 ということが本当に大事なんです。

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