最新更新日:2024/11/21 | |
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1時間目の授業
国語の書写の学習、社会科の日清日露戦争についての学習、英語の過去形と過去進行形の学習などに取り組んでいます。
ちょっといい話
じっちゃんへ
じっちゃん、僕は今人生で1番幸せな時です。 あれから2年後、僕は結婚してさ、仕事では重要な事を任せてもらえるようになったよ。ただ、じっちゃんには僕の結婚式見て欲しかったな……。カラオケ、祝辞、あといろいろ。じっちゃんはなにやらせても面白いから。 そうそう、ばぁちゃんの葬式のときも最後の挨拶ビシっと決めないといけないのに、笑わさせてもらったよ。そんなじっちゃんが、もういないんだね。 でもね、じっちゃんが亡くなった日決めたんだ……。僕は「じっちゃんの代わりに全ての人を明るくする」って。だから心配すんな。 2代目じっちゃんより。 今日のお話 −3月8日(火)−
吉田松陰の名言(2編)
□ 学問とは、 人間はいかに生きていくべきかを学ぶものだ。 □ 過ちがないことではなく、 過ちを改めることを重んじよ。 3時間目の授業ちょっといい話
おはよう
俺ニートだからいつも昼過ぎまで寝てるんだけど、たまに朝早く目が覚めることがあってさ、ぼーっとしてたら母さんが部屋に入ってきて「おはよう」って言ってきたのね。「おはよう」って返事したら、俺が起きてる事に気付いてなかったみたいで母さん驚いてた。そんな事が何回かあって、母さんは俺が寝てるのを知ってて、毎朝返事のない「おはよう」を言ってくれてる事に気付いた。たいした事じゃないんだけど、なんか凄い嬉しかった 真面目に生きようと思った。 2時間目の授業今日のお話 −3月7日(月)−
吉田松陰の名言
夢なき者に理想なし、 理想なき者に計画なし、 計画なき者に実行なし、 実行なき者に成功なし。 故に、夢なき者に成功なし。 □ プロフィール 1830年9月20日〜1859年11月21日。明治維新の精神的指導者・理論者として知られる長州藩士、思想家、教育者、兵学者。通称は寅次郎。叔父の玉木文之進が開いた私塾「松下村塾」を引き受けて主宰者となり、高杉晋作を始め、幕末維新の指導者となる人材を多く育てた。辞世は□ 身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂”(門弟宛)、”親思う心にまさる親心けふのおとずれ何ときくらん”(家族宛)など。また、吉田松陰を描いた小説としては、司馬遼太郎の『世に棲む日日』が特に著名。 ちょっといい話
意識不明の花嫁に呼びかけ続ける新郎
尚志さんと麻衣さんが知り合ったのは10年前。そこから交際をスタートし、2年目に結婚を決意しました。半年後の2007年3月、2人は結婚式をあげる予定でした。結婚式まで3ヶ月と迫ったある日、麻衣さんの記憶が突然なくなり、急遽入院することになりました。入院から3日後、原因不明の病により意識不明になりました。麻衣さんがショックを受けないようにと、尚志さんは結婚式を保留にしました。 そこから2人の、長い長い闘病生活が始まります。一時は心肺停止になり、一命を取り留めたものの麻衣さんの意識は戻らないままでした。尚志さんは麻衣さんが目覚めることを信じて毎日病院に通い続けました。麻衣さんが眠り続けて1年が経った日、尚志さんは麻衣さんのお母さんに「他の元気な女性を探したら」と、言われました。尚志さんは「もう1度麻衣の笑顔が見たい」と言って、麻衣さんの両親に頼み込みました。 眠ったまま1年半が過ぎた頃、麻衣さんは目を開けましたが、表情がなく意識はまだ戻ってはいませんでした。尚志さんは諦めずに看病を続け、6年目にとうとう麻衣さんの顔に笑顔が戻りました。笑顔が戻った麻衣さんでしたが、毎日看病していた尚志さんの記憶はありませんでした。それでも尚志さんは、2人で愛を育んでいきました。 それから2年、必死にリハビリを頑張り「保留」にしていた結婚式でバージンロードを歩くことができた麻衣さん。8年越しに実現できた結婚式で、お母さんに「頑張ったね」と声をかけられた麻衣さんは大粒の涙が止まりませんでした。尚志さんが8年も経って結婚式をキャンセルしなかったのは、「2人で決めたことだから」と……。 8年という長い長い月日を経て実現できた結婚式は、まさに奇跡と呼べる出来事となりました。 ちょっといい話
渋沢栄一の名言
有望な仕事があるが 資本がなくて困るという人がいる。 だがこれは愚痴でしかない。 その仕事が真に有望で、 かつその人が真に信用ある人なら資本ができぬはずがない。 愚痴をこぼすような人は、 よしんば資本があっても大いに為す人物ではない。 3時間目の授業卒業式3卒業式2令和3年度 第75回卒業式
おだやかな天候の中、卒業生と保護者の皆様、在校生の代表が参加して、第75回卒業式を挙行しました。1人1人に証書を授与し、校長先生から卒業生へ式辞を送りました。在校生の送辞、卒業生の答辞、とても立派なものでした。そして、最後となる校歌斉唱を行いました。式後のセレモニーでは、これまでお世話になった保護者、地域の皆様、在校生、先生方に向けて、感謝の思いを伝えました。
172名の卒業生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。城中魂を大切にして、次のステージでの活躍を祈っています。また、これまで支えてくだっさた保護者の皆様、地域の皆様、在校生の皆さん、本当にありがとうございました。 ちょっといい話
卒業式に向けて送った最後の時間割
とある中学校の卒業式の日に、先生が「卒業生に向けて贈った最後の時間割」です。 ○ 1時間後「最幸の卒業式にしよう」 ○ 2日後 「高校入試がんばれ!!」 ○ 3週間後「ここまでは中学生です」 ○ 4年後 「東京オリンピック!誰が出るかな?」 ○ 5年後 「成人式でまた会いましょう!」 ○ 宿題 「幸せになりなさい」 自分が卒業生で、卒業式当日にこの黒板を見たら……、泣いてしまうでしょうね。生徒たちの幸せを望む、素敵な先生です。 今日の給食 3月2日 〜卒業お祝い献立〜・赤飯 ・牛乳 ・鶏の唐揚げ ・小松菜のなめたけ和え ・花ふ入りすまし汁 ・お祝いケーキ です。 今日は卒業お祝い給食を提供しました。3年生は9年間の最後の給食になりました。 赤飯の赤色は邪気を払うと古くから伝えられてきました。その習慣がいまでも残り、お祝いの席で食べられています。 リクエストメニューにもよく挙がる「唐揚げ」と「なめたけ和え」の組み合わせです。 今日は約1時間30分かけて全校分を揚げていただきました。 すまし汁には、桜をイメージした花ふと、花形人参が入っています。 特別に型抜きしてもらいました。 今日は残食なくほとんどのクラスで完食出来ていました。 卒業式会場準備今日のお話 −3月2日(水)−
渋沢栄一の名言
人を選ぶとき、 家族を大切にしている人は 間違いない。 仁者に敵なし。 私は人を使うときには、 知恵の多い人より 人情に厚い人を選んで採用している。 4時間目の授業ちょっといい話
祖父の手を握ると温もり
幼い頃、祖父を慕っていた私は、よく一緒に寝ていました。私は、祖父のことをとても慕っていたし、祖父も可愛がってくれました。小学校は良好な関係でしたが、中学校に進学し中学3年になると、会話も少なくなりました。思春期が邪魔をして、祖父を嫌がっていたんです。それでも祖父は、可愛がってくれていました。やがて祖父は、私に何も言わなくなっていきました。当時の私は、学校や部活が居場所だと感じ、徐々に素行の悪い高校生になっていました。 祖父が倒れたと聞いても、お見舞いに1度しか行きませんでした。その一度のお見舞いを、祖父は凄く喜んでいました。そんな関係のまま私は大学に進学し、祖父のことも忘れて学生生活をしていた頃、祖父が亡くなったと連絡をもらいました。 すぐに病院に向かい、祖父の遺体を確認しました。もう長いこと、まともに会話をすることもなかった祖父なのに、もう声が聞けないと思うと涙が溢れそうになりました。気持ちの整理がつかない私に、両親は祖父が持っていたという1枚の写真を渡してきました。写真は小学校の頃、祖父と一緒に旅行に行ったときの写真でした。まだ私と仲がよく、祖父が私を肩車していたときのものです。祖父が大事に持っていた写真を見たとき、お見舞いに1度しか行かなかった事や今まで冷たい態度をとったことを後悔しました。私は、祖父のことを忘れてしまっていたのに、祖父は私のことを気にかけてくれていた、その事実を知ったとき涙が溢れて止まりませんでした。横たわる祖父の手は冷たく、もう温かくなることもありません。それでも祖父の手を握ると温もりを感じた気がします。 月日が流れ、私も親になり子どもと毎日忙しく過ごしています。私によく似た子どもの成長を祖父の墓前に見せるため、毎年実家に顔を出すのが家族の恒例行事となりました。 今日のお話 −3月1日(火)−
渋沢栄一の名言
40、50は洟垂れ小僧、 60,70は働き盛り、 90になって迎えが来たら、 百まで待てと追い返せ。 |
犬山市立城東中学校
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