最新更新日:2024/11/08
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ともに生きる

ちょっといい話

   気づいてあげられなくてごめんね 

 私の母はとても厳しい。身の回りの事は全て自分でやらされていた。勉強も部活も1番じゃないと気が済まない。定期テストで2番をとると「2番は敗者の1番だ」とすごく怒られた。どれだけいい点数をとっても、いい結果を残しても母は笑顔を見せてはくれなかった。1番、1番……、プレッシャーで円形脱毛症になり声も出なくなりかけた。
 しかし、私にはその他にも大きな問題を抱えていた。 いじめ。学級委員などに選ばれていた私は、クラスで話すことが多かった。多感な時期の中学生は、「出る杭は打たれる」もの。そんなある日、帰ろうとすると机の中に教科書が1冊もなかった。血の気が引いた。探し回ると、洗面所の蛇口から水が勢いよく出ていて、その下に私の教科書があった。お母さんに怒られる、それしか思わなかった。それでも帰るしかなかった。家に着いて欲しくない、本気でそう思った。しかし、家に着いてしまった。案の定、母の車は家にあった。水に濡れてところどころ破けている教科書を母の前に出し、私は土下座した。「ごめんなさい、ごめんなさい」と母に謝った。母が、私の前に座った気配がした。殴られる、そう思った瞬間、母が私を抱きしめた。ぐっぐっと……、母の嗚咽が聞こえた。「ごめんね、ごめんね、気づいてあげられなくてごめんね」と、母が泣きながら私に謝ってきた。毎日死にたい、と思ってた。生きる意味が分からなかった。何で頑張ってるのかも分からなかった。母の涙を見て、私も涙が止まらなくなった。久しぶりに母の腕で泣いた。
 それから、私は学校に行かなくなった。世間体ばかり気にする母が、仕事を休職してまで私と居てくれた。今、私は県内で1番の進学校にいる。恩返しをしたい。いい会社に入って、母を楽にしてあげたい。目標がある勉強はとても楽しい。あの時、抱きしめてくれた母の匂い、力強さ、私は一生忘れない。

4時間目の授業

社会科の東北地方の産業についての学習、国語の名詞の学習、英語のbe動詞の過去形についての学習などに取り組んでいます。
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今日のお話 −2月7日(月)−

   日野原重明の名言

 人間は生き方を変えることができる。
 繰り返す毎日の行動を変えることにより、
 新しい習慣形成により、
 新しい習慣の選択を人間は決意できる。
 人間には選択の自由がある。
 そして、意志と努力により、
 新しい自己を形成することができる。

5時間目の授業

社会科の東北地方の産業についての学習、数学の立体についての学習、理科の雲のでき方についての学習などに取り組んでいます。
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ちょっといい話

   幽霊でも、何でもいいから会いたい 

 いつも通り、朝がきて、夜がくる。楽しいことも辛い事も、あってもなくても朝がきて、夜がくる。何気ない日常の始まりと終わり。あの時も同じだった。会社で仕事をしていた時、携帯電話が鳴った。父からである。「お母さんの心臓の鼓動がおかしい」、「看護士さんもかなり厳しい状態と言われた」と……。父の連絡を受けて、入院している母の元へ駆けつけた。母の心臓、息つかいは、正常ではなかった。時間は刻一刻と迫ってきている。父は、しっかりと強く母の手を握りしめていた。すると、母は、大きく息をした。止まった。最期の灯火。
 母は、2週間程前から、この病院へ入院している。その前は、自宅で父と2人で介護していた。母の病は、脳腫瘍と呼ばれる癌である。癌の治療は日々進化しているが、脳腫瘍は違う。症状が現れた時は、既に末期状態という癌。現在の医学では、根治は無理な病気である。この様な状態で約2年間、闘病してきたが、終焉を迎えようとしている。母は、闘った、頑張った。自宅では、失禁などなかった。この病院の看護士さんから「この状態で、よく自宅で介護されましたね」と言われるほど状態は悪かった。いろいろな事を思いだすが、闘病の時に母へひどいことを言ったことなど、悪い思い出しか浮ばない。母は、本当に優しく穏かで、父、弟、自分を支えてきた。母は、入院する直前から言葉が話せなくなったが、最後に「あんたが、そばにおってよかった」、「もう、あんたに何もする事ができん」と言った……。
 もうすぐ、母がいなくなって1ケ月近くたつ。自分は、いい歳だが、「母が恋しい、母に会いたい、幽霊でも何でもいいから会いたい」。街を歩くと、父、母と行った場所へ行ってしまう。

今日のお話 −2月4日(金)−

   日野原重明の名言

 自分の命がなくなるということは、
 自分の命を他の人の命の中に残していくことである。
 自分に与えられた命を、
 より大きな命の中に
 溶け込ませるために生きていくことこそ
 私たちが生きる究極の目的であり、
 永遠の命につながることだと思う。

ちょっといい話

   炊き込みご飯作ったよ

 俺は小学生の頃、母の作った炊き込みご飯が大好物だった。特にそれを口に出して言った事は無かったけど、母はわかっていて誕生日や何かの記念日には、我が家の夕食は必ず炊き込みご飯だった。高校生になるとさすがに「またかよっ」と思うようになっていたのだが……。家を離れるようになっても、たまに実家に帰ると待っていたのは母の「炊き込みご飯作ったよ。沢山食べなさい」の言葉だった。
 会社に電話があり、慌てて向かった病室には近くの親戚が集まっていた。モルヒネを打たれ、意識のない母の手を握り締めると、母の口が動いた。何かを俺に言いたそうだった。母の口元に耳を近づけると「炊きこ……、たよ。たくさ……、さい」と消え入りそうな声で言っていた。それが最後の言葉だった。
 「ママの作ったスパゲッティー大好き」、口の周りを赤くしてスパゲッティーを食べる娘とそれを幸せそうな目で見つめる妻を見る度に、母の炊き込みご飯が食べたくなる。

今日のお話 −2月3日(木)−

   日野原重明の名言

 何事も、
 今ある規則のとおりにやっていたのでは進歩はない。
 規則を破るようなことをやらないと、
 現状はなかなか変わらない。
 規則を破ったとしても、
 皆が応援するような破り方をすればよい。
 そうすれば、新しい良い規則がずっと早く出来る。

入学説明会

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令和4年度入学者用の入学説明会を行いました。学校生活全般について説明させていただきました。職員一同、新入生の皆さんのご入学を心よりお待ちしております。本日はご参加いただき、ありがとうございました。

【校長先生の話】
・オミクロン株の感染力の強さから、愛知県にまん延防止等重点措置が適用されています。そのような状況の中で、QRコードでの連絡先・体温の記入、換気、アルコール消毒、座席の間隔を開けるなど感染対策をした上で、入学説明会を開催させていただきました。ご参加、ありがとうございます。

・「子育てを通して、親も一緒に成長する」という話があります。4月から始まる中学校3年間で、心も体も大きく成長すると思います。保護者の皆様も、我々教師も子どもに負けないよう、一緒に成長していきましょう。

・城中生はとても落ち着いた生活をしており、温かい雰囲気が城東中学校の伝統になっていると思っています。また、卒業生から在校生、上級生から下級生へと生徒会活動や城中ソーラン、合唱、あいさつ、部活動等が受け継がれており、一生懸命取り組んでいます。来年度は、入学される新1年生の子どもたちにもチーム城中の一員として、温かい学校づくりに参加していって欲しいと思います。そして3年間の中学校生活で、自己肯定感を高め、思いやりに満ち、自他の生命を大切にする心豊かで、健康な生徒に成長していってほしいと願っています。

1時間目の授業

国語の作品の流れを理解する学習、体育のハンドボールや表現運動の学習、技術のプログラミング学習などに取り組んでいます。
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ちょっといい話

   父の視線 

 俺の父は、俺が6歳の時に死んでしまった。ガンだった。今思えばかなりの早死にだった。父のイメージは、俺の中ではあまりよいものではなく、どちらかといえば怖いという印象しかなかった。
 父の記憶といえば、1つだけ、ラーメン屋の思い出が鮮明に残っている。父はラーメンの大盛りを1人前頼み、取り分け皿をもらい、そこに俺の分のラーメンを入れてくれた。当時5歳だった俺にとって取り分け皿のラーメンでも結構な量だった。食べるのに時間がかかった。ふと見ると、父が俺のことを見ていた。怖い顔をして「早く食え」と、睨まれていたような記憶がある。ちらちら父の視線を盗み見たが、父はいつまでたっても俺を睨んでいた。「何でそんなに俺のこと睨んや……」と思ったが、父の表情が怖くて、再びラーメンを必死で食った。それが数少ない父の記憶だった。
 そんな俺も母に育てられ、30歳になって結婚した。そして男の子を授かった。とてもかわいく、「目の中に入れても痛くない」とはこのことだと初めて知った。そして、息子も幼稚園に入る歳になった。だが、仕事が忙しいこともあり、満足に遊べなかった。だから先週、日頃の罪滅ぼしにと、息子を連れて2人で出かけた。そして昼飯時になり、息子は「スパゲティが食べたい」と言ったので、大盛りを頼み、2人でシェアして食べた。息子は一生懸命食べていた。先に食べ終えた俺は、頑張って食べている息子がとても愛おしくずっと眺めていた。そんな俺の視線に気付いたのか、息子はちらちらと俺の方を見ていた。俺も仏頂面で、見てみぬふりをしつつ、息子が食べる姿を見ていた。仕事が忙しく、あまり会話もない俺と息子だからこそ、俺は息子がとても愛おしく思えた。いつまでも息子を見つめていたいと感じていた。
 あの時の親父の視線の意味が、今になってようやく理解できた。父さん、ありがとう。

今日のお話 −2月2日(水) −

   日野原重明の名言

 人間の夢見る幸福というのは、
 往々にして、貧乏するとか、
 仕事に失敗するとか
 あるいは病気にかかるということによって、
 一瞬にして不幸に変わってしまうような、
 儚いものである。
 病のなかにも心の幸福を得るためには、
 どうしたらよいかということを、
 考えなくてはならない。

2時間目の授業

国語の形容動詞の学習、理科の飽和水蒸気量についての学習、家庭科での給食の献立を考える学習などに取り組んでいます。
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ちょっといい話

   命の大切さ 

 息子は赤ちゃんの頃から好奇心旺盛で元気な男の子でした。しかし、2才の頃風邪をこじらせてしまい、何日も熱が引かず、く元気がない日々が続いていたので小児科で診察してもらいました。風邪という診断で様子を見ていました。一時的に体調が良くなったものの、毎日ぐったりと横たわる時間が増え、再診。そこで、息子が一生涯治らない病気になっていたことが発覚したのです。命に直接的に関わる病気ではないものの、一生涯治療をし続ける必要があること、またその治療が小さな息子にとってはかなり苦しいものであったことから、病名を聞かされた時に泣き崩れてしまいました。苦しい治療をする度に泣き叫び、苦痛に顔を歪める息子の姿を見れば見るほど、変わってあげられないことに申し訳ない気持ちでいっぱいになったことを覚えています。
 息子は入院生活の中で、治療さえしていれば、病気じゃない人と同じような生活ができることを知ることで、息子の為に治療を続けなければいけないと思うことができたのです。しかし、ある日の夜、息子の寝顔を見ていた時、もっと早く病気に気付いていれば違った人生があったのではないかと後悔ばかりが襲ってきました。私の様子に気付いた看護師さんが声を掛けてくれ、「病気になるのは誰のせいでもない。今は苦しくて辛いかもしれないけど、病気になったからこそ分かることもあるよ。」と教えてくれたのです。
 あれから10年、息子は元気な小学生になり、友達と遊ぶ充実した毎日を過ごしています。息子の病気を通して、健康で生きていくことの尊さを知ることができました。辛い治療を毎日頑張っている息子の強さに励まされる日も多いです。病気になった時は、人生がこれで終わってしまったような気持ちになっていましたが、息子に持病があろうがなかろうが私たちにとってかけがえのない大切な存在であることに変わりありません。

今日のお話 −2月1日(火)−

   日野原重明の名言

 人間は生き方を変えることができる。
 繰り返す毎日の行動を変えることにより、
 新しい習慣形成により、
 新しい習慣の選択を人間は決意できる。
 人間には選択の自由がある。
 そして、意志と努力により、
 新しい自己を形成することができる。

2時間目の授業

理科の水蒸気の変化についての学習、数学の立体の体積についての学習、体育のバスケットボールやハンドボールの学習などに取り組んでいます。今日から3年生は私立高校の一般入試です。頑張ってください!
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ちょっといい話

   60年後の真実

 私は60歳になった時に、赤ちゃんだったときに病院で取り違えられたことがわかりました。1人の兄と1人の姉と母親という家族構成の母子家庭で育ちました。中学を卒業してからは、高校に行かずそのまま働き始めました。父親がいなくて貧乏な家庭だったので、高校に行く余裕がありませんでした。仕事を転々として、今はトラックの運転手として働いています。給料は多くはありませんが、食べていくには困りません。
 60歳になったある日、私の家に一通の手紙が届きました。その手紙には以下のように書かれていました。
 60年前に病院で取り違えられており、本当は別の家の長男とのこと。父親は不動産業を営み、裕福な家庭の長男として生まれた。何らかの理由で病院で取り違えられてしまい、今に至る。
 その手紙の送り主は、私の弟と名乗る人物からだった。自分は不動産屋の長男として、本来は後を継ぐはずだったとのこと、兄弟は全員大学を出ており、それ相応の仕事に就いていることなども書かれていた。以前から長男が弟たちに協力的ではなく、容姿も異なることを疑問に思い、自分たちで調べた結果、この事実が判明したとのこと。
 自分は取り違えられたせいで、不遇な人生を送ってきたと思っています。でも、今の人生が自分の人生だと思っています。60年分の時間を取り戻すことはできないからです。60代になった今、これから地位や名誉やお金を得たいとは思いません。そのような気持ちを弟たちに伝えています。今は、弟たちと時々会ってお酒を飲むのが楽しみです。

今日のお話 −1月31日(月)−

   日野原重明の名言

 鳥は飛び方を変えることは出来ない。

 物は這い方、走り方を変えることは出来ない。

 しかし、人間は生き方を変えることが出来る。

□ 日野原重明 プロフィール
医師。1911年、山口県生まれ。京都帝国大学医学部卒業。41年に聖路加国際病院の内科医となり、米エモリー大学医学部への留学を経て、同院の院長、理事長、聖路加看護大学学長などを歴任した。患者主体の医療や、医療関係者の力を総合した「チーム医療」の重要性を訴え、看護師の育成に力を注いだ。54年に民間病院として初めて人間ドックを導入、予防医学の発展にも尽力した。終末期医療の充実にも取り組み、93年には国内初の独立型ホスピスを設立した。また、小学生を対象とした「いのちの授業」を続け、老いのあり方を説いた著書「生きかた上手」がベストセラーになるなど、講演や執筆でも活躍した。

2時間目の授業

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家庭科の「日本の郷土料理」の学習、社会科の関東地方の学習、英語の不規則動詞についての学習などに取り組んでいます。

ちょっといい話

   父が母に送った保護メール

 俺は今高3なんだけど、10月26日に父親が死んだ。尊敬できる素晴らしい父親だった。だから死んだ時は、母親も妹も泣きじゃくってた。それから2ヶ月くらいたった最近は、まだ元の生活には戻れてないけど、多少は落ち着いてきてた。
 そして今日、俺は何となく父親が母親にどんなメールを送っていたのかと思って、少し悪いと思いつつも、タンスの引き出しにしまってあった、今年の8月まで母親が使っていた携帯を手に取って、父親のメールを見た。メールの内容は、恥ずかしがり屋な父親らしく、「めしはいるか」だとか「いつもの時間に帰る」だとか「どこにいる」だとか、「?」もついていなくてすごいそっけないものだったので笑ってしまった。「どれも同じ内容ばっかりだな」と思って適当に流していると、母親の携帯のメール一覧の一番下に、保護しているメールが一件だけあった。それは去年の8月3日の父親からのメールだった。「今日も、1日がんばれ」、ただそれだけのメールだった。8月3日がもうなんの日だったかは覚えていないんだけど、その短い文章に、照れ屋な父親の優しさが物凄く現れている。そして、それをもらって凄く嬉しかったのかそのメールを保護してある母親のことも考えたら、胸が熱くなって思わず泣いてしまった。
 どうしてもこの気持ちを誰かに伝えたくて、だけど友達にわざわざ電話する内容でもないしって思って書いちゃった。

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