最新更新日:2024/11/21 | |
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今日のお話 −2月3日(木)−
日野原重明の名言
何事も、 今ある規則のとおりにやっていたのでは進歩はない。 規則を破るようなことをやらないと、 現状はなかなか変わらない。 規則を破ったとしても、 皆が応援するような破り方をすればよい。 そうすれば、新しい良い規則がずっと早く出来る。 入学説明会【校長先生の話】 ・オミクロン株の感染力の強さから、愛知県にまん延防止等重点措置が適用されています。そのような状況の中で、QRコードでの連絡先・体温の記入、換気、アルコール消毒、座席の間隔を開けるなど感染対策をした上で、入学説明会を開催させていただきました。ご参加、ありがとうございます。 ・「子育てを通して、親も一緒に成長する」という話があります。4月から始まる中学校3年間で、心も体も大きく成長すると思います。保護者の皆様も、我々教師も子どもに負けないよう、一緒に成長していきましょう。 ・城中生はとても落ち着いた生活をしており、温かい雰囲気が城東中学校の伝統になっていると思っています。また、卒業生から在校生、上級生から下級生へと生徒会活動や城中ソーラン、合唱、あいさつ、部活動等が受け継がれており、一生懸命取り組んでいます。来年度は、入学される新1年生の子どもたちにもチーム城中の一員として、温かい学校づくりに参加していって欲しいと思います。そして3年間の中学校生活で、自己肯定感を高め、思いやりに満ち、自他の生命を大切にする心豊かで、健康な生徒に成長していってほしいと願っています。 1時間目の授業
国語の作品の流れを理解する学習、体育のハンドボールや表現運動の学習、技術のプログラミング学習などに取り組んでいます。
ちょっといい話
父の視線
俺の父は、俺が6歳の時に死んでしまった。ガンだった。今思えばかなりの早死にだった。父のイメージは、俺の中ではあまりよいものではなく、どちらかといえば怖いという印象しかなかった。 父の記憶といえば、1つだけ、ラーメン屋の思い出が鮮明に残っている。父はラーメンの大盛りを1人前頼み、取り分け皿をもらい、そこに俺の分のラーメンを入れてくれた。当時5歳だった俺にとって取り分け皿のラーメンでも結構な量だった。食べるのに時間がかかった。ふと見ると、父が俺のことを見ていた。怖い顔をして「早く食え」と、睨まれていたような記憶がある。ちらちら父の視線を盗み見たが、父はいつまでたっても俺を睨んでいた。「何でそんなに俺のこと睨んや……」と思ったが、父の表情が怖くて、再びラーメンを必死で食った。それが数少ない父の記憶だった。 そんな俺も母に育てられ、30歳になって結婚した。そして男の子を授かった。とてもかわいく、「目の中に入れても痛くない」とはこのことだと初めて知った。そして、息子も幼稚園に入る歳になった。だが、仕事が忙しいこともあり、満足に遊べなかった。だから先週、日頃の罪滅ぼしにと、息子を連れて2人で出かけた。そして昼飯時になり、息子は「スパゲティが食べたい」と言ったので、大盛りを頼み、2人でシェアして食べた。息子は一生懸命食べていた。先に食べ終えた俺は、頑張って食べている息子がとても愛おしくずっと眺めていた。そんな俺の視線に気付いたのか、息子はちらちらと俺の方を見ていた。俺も仏頂面で、見てみぬふりをしつつ、息子が食べる姿を見ていた。仕事が忙しく、あまり会話もない俺と息子だからこそ、俺は息子がとても愛おしく思えた。いつまでも息子を見つめていたいと感じていた。 あの時の親父の視線の意味が、今になってようやく理解できた。父さん、ありがとう。 今日のお話 −2月2日(水) −
日野原重明の名言
人間の夢見る幸福というのは、 往々にして、貧乏するとか、 仕事に失敗するとか あるいは病気にかかるということによって、 一瞬にして不幸に変わってしまうような、 儚いものである。 病のなかにも心の幸福を得るためには、 どうしたらよいかということを、 考えなくてはならない。 2時間目の授業
国語の形容動詞の学習、理科の飽和水蒸気量についての学習、家庭科での給食の献立を考える学習などに取り組んでいます。
ちょっといい話
命の大切さ
息子は赤ちゃんの頃から好奇心旺盛で元気な男の子でした。しかし、2才の頃風邪をこじらせてしまい、何日も熱が引かず、く元気がない日々が続いていたので小児科で診察してもらいました。風邪という診断で様子を見ていました。一時的に体調が良くなったものの、毎日ぐったりと横たわる時間が増え、再診。そこで、息子が一生涯治らない病気になっていたことが発覚したのです。命に直接的に関わる病気ではないものの、一生涯治療をし続ける必要があること、またその治療が小さな息子にとってはかなり苦しいものであったことから、病名を聞かされた時に泣き崩れてしまいました。苦しい治療をする度に泣き叫び、苦痛に顔を歪める息子の姿を見れば見るほど、変わってあげられないことに申し訳ない気持ちでいっぱいになったことを覚えています。 息子は入院生活の中で、治療さえしていれば、病気じゃない人と同じような生活ができることを知ることで、息子の為に治療を続けなければいけないと思うことができたのです。しかし、ある日の夜、息子の寝顔を見ていた時、もっと早く病気に気付いていれば違った人生があったのではないかと後悔ばかりが襲ってきました。私の様子に気付いた看護師さんが声を掛けてくれ、「病気になるのは誰のせいでもない。今は苦しくて辛いかもしれないけど、病気になったからこそ分かることもあるよ。」と教えてくれたのです。 あれから10年、息子は元気な小学生になり、友達と遊ぶ充実した毎日を過ごしています。息子の病気を通して、健康で生きていくことの尊さを知ることができました。辛い治療を毎日頑張っている息子の強さに励まされる日も多いです。病気になった時は、人生がこれで終わってしまったような気持ちになっていましたが、息子に持病があろうがなかろうが私たちにとってかけがえのない大切な存在であることに変わりありません。 今日のお話 −2月1日(火)−
日野原重明の名言
人間は生き方を変えることができる。 繰り返す毎日の行動を変えることにより、 新しい習慣形成により、 新しい習慣の選択を人間は決意できる。 人間には選択の自由がある。 そして、意志と努力により、 新しい自己を形成することができる。 2時間目の授業
理科の水蒸気の変化についての学習、数学の立体の体積についての学習、体育のバスケットボールやハンドボールの学習などに取り組んでいます。今日から3年生は私立高校の一般入試です。頑張ってください!
ちょっといい話
60年後の真実
私は60歳になった時に、赤ちゃんだったときに病院で取り違えられたことがわかりました。1人の兄と1人の姉と母親という家族構成の母子家庭で育ちました。中学を卒業してからは、高校に行かずそのまま働き始めました。父親がいなくて貧乏な家庭だったので、高校に行く余裕がありませんでした。仕事を転々として、今はトラックの運転手として働いています。給料は多くはありませんが、食べていくには困りません。 60歳になったある日、私の家に一通の手紙が届きました。その手紙には以下のように書かれていました。 60年前に病院で取り違えられており、本当は別の家の長男とのこと。父親は不動産業を営み、裕福な家庭の長男として生まれた。何らかの理由で病院で取り違えられてしまい、今に至る。 その手紙の送り主は、私の弟と名乗る人物からだった。自分は不動産屋の長男として、本来は後を継ぐはずだったとのこと、兄弟は全員大学を出ており、それ相応の仕事に就いていることなども書かれていた。以前から長男が弟たちに協力的ではなく、容姿も異なることを疑問に思い、自分たちで調べた結果、この事実が判明したとのこと。 自分は取り違えられたせいで、不遇な人生を送ってきたと思っています。でも、今の人生が自分の人生だと思っています。60年分の時間を取り戻すことはできないからです。60代になった今、これから地位や名誉やお金を得たいとは思いません。そのような気持ちを弟たちに伝えています。今は、弟たちと時々会ってお酒を飲むのが楽しみです。 今日のお話 −1月31日(月)−
日野原重明の名言
鳥は飛び方を変えることは出来ない。 動 物は這い方、走り方を変えることは出来ない。 しかし、人間は生き方を変えることが出来る。 □ 日野原重明 プロフィール 医師。1911年、山口県生まれ。京都帝国大学医学部卒業。41年に聖路加国際病院の内科医となり、米エモリー大学医学部への留学を経て、同院の院長、理事長、聖路加看護大学学長などを歴任した。患者主体の医療や、医療関係者の力を総合した「チーム医療」の重要性を訴え、看護師の育成に力を注いだ。54年に民間病院として初めて人間ドックを導入、予防医学の発展にも尽力した。終末期医療の充実にも取り組み、93年には国内初の独立型ホスピスを設立した。また、小学生を対象とした「いのちの授業」を続け、老いのあり方を説いた著書「生きかた上手」がベストセラーになるなど、講演や執筆でも活躍した。 2時間目の授業ちょっといい話
父が母に送った保護メール
俺は今高3なんだけど、10月26日に父親が死んだ。尊敬できる素晴らしい父親だった。だから死んだ時は、母親も妹も泣きじゃくってた。それから2ヶ月くらいたった最近は、まだ元の生活には戻れてないけど、多少は落ち着いてきてた。 そして今日、俺は何となく父親が母親にどんなメールを送っていたのかと思って、少し悪いと思いつつも、タンスの引き出しにしまってあった、今年の8月まで母親が使っていた携帯を手に取って、父親のメールを見た。メールの内容は、恥ずかしがり屋な父親らしく、「めしはいるか」だとか「いつもの時間に帰る」だとか「どこにいる」だとか、「?」もついていなくてすごいそっけないものだったので笑ってしまった。「どれも同じ内容ばっかりだな」と思って適当に流していると、母親の携帯のメール一覧の一番下に、保護しているメールが一件だけあった。それは去年の8月3日の父親からのメールだった。「今日も、1日がんばれ」、ただそれだけのメールだった。8月3日がもうなんの日だったかは覚えていないんだけど、その短い文章に、照れ屋な父親の優しさが物凄く現れている。そして、それをもらって凄く嬉しかったのかそのメールを保護してある母親のことも考えたら、胸が熱くなって思わず泣いてしまった。 どうしてもこの気持ちを誰かに伝えたくて、だけど友達にわざわざ電話する内容でもないしって思って書いちゃった。 3時間目の授業今日のお話 −1月28日(金)−
立花隆の名言
『何でおまえはそれを知りたいんだ』と問いつめていくと、 ぎりぎりのところではもう理由はなくて 『知りたいから知りたいんだ』とそれしかない。 人間はそういう純粋知的欲求を強く持っていたから こういう『文明社会』を築くことができた。 あいさつ運動【生活委員会】今日の給食 1月27日〜名古屋経済大学の学生が考案した献立〜・麦ご飯 ・牛乳 ・厚揚げのみそがけ ・カルシウムたっぷりさっぱり和え ・お茶つくね汁 です。 今日の献立は、官学連携事業の一環として、市内にある名古屋経済大学管理栄養学科の学生さんが、カルシウムを多く摂取できるように考えてくれた献立です。 カルシウムは、豆腐、わかめなどのマグネシウムが多く入っている食品と組み合わせて食べることで吸収率をあげることができます。 つくねには、日比野製茶さんのお茶と愛知県産のれんこんを混ぜ込みました。熱い汁の中に、一つ一つ落としてくれました。 汁に入っている白菜と大根は、食育応援団の方に地元で収穫された野菜を納品頂き使用しました。 ちょっといい話
一コ上のおにいちゃん
3歳ぐらいの時から、毎日のように遊んでくれた1コ上の兄ちゃんがいた。成績優秀でスポーツ万能。しかも超優しい。1人っ子の俺にとって、本当のお兄ちゃんみたいな存在だった。小4の時、真冬にサッカーしてて林に入ったボールを取って戻ってきたら兄ちゃんが倒れてた。慌てて抱き起こしたら吐いちゃって、その時は「風邪ひいてる」って言われてバイバイした。しばらくして入院したって聞いて、病名も知らないのにお見舞いに行った。退院できたけど学校には滅多に来なくなった。外で遊んじゃいけないらしいんで、毎週土日は兄ちゃん家に遊びに行った。「しばらくしたら絶対よくなって、また外で遊べる」って思ってた。親にも兄ちゃんのママにも、「そのうちよくなる」って言われたし……。ある日、「やけに兄ちゃん家に抜け毛が多いな」って事に気付いた。身長も俺のほうが高くなったし、外に出ないから肌真っ白だし、腕も超細いし。その事を親に話したら、「脳腫瘍っていう難しい病気なんだよ」って初めて聞かされた。兄ちゃんがあんまり長くないって事、何となく分かった。それから急に顔合わせるのが辛くなった。遊びに行く機会が段々減っていって、最後は全く遊ばなくなった。しばらくして、夕方のニュースで「病気と闘う中学生」みたいな感じの特集に兄ちゃんが出てた。 結局会う事になったのは2年ぶり、兄ちゃんが棺の中に入った時だった。兄ちゃんのママから「何か言ってあげて」って、優しい声で言われた。俺が遊びに行かなくなってから、「どんな気持ちで毎日家の中で過ごしてたんだろう」って考えたら胸が張り裂けそうになって、何も言葉にする事ができなかった。結局自分の事しか考えて無かった。もっと沢山会ってあげればよかった。本当にごめんね。謝っても謝り切れないけど……。 あれからは身近な人を、いつでも大切にしようって思えるようになったんだ。今年も線香あげに行くよ。 3時間目の授業今日のお話 −1月27日(木)−
立花隆の名言
あらゆる失敗の可能性を忘れている人は、 いかに大胆に生きようと、 無謀に生きたというだけである。 あらゆる失敗の可能性を見すえつつ 大胆に生きた人こそ よく青春を生きたというべきだろう。 |
犬山市立城東中学校
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