最新更新日:2024/06/24
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ともに生きる

ちょっといい話

   遠足 

 遠足の日、お昼ご飯の時間になり、子どもたちの様子を見回って歩いていた時、向こうの方でとても鮮やかなものが目に入ってきました。「何だろう」と思って近づくと、3年生の女の子のお弁当でした。中を覗いて見ると、お花でびっしりのお弁当箱でした。
 その女の子は、お母さんとお父さんとその女の子の3人家族でした。遠足の数週間前に、お母さんは交通事故で亡くなってしまったのです。それ以来、お父さんと女の子の生活が始まりました。お父さんの仕事は、タクシーの運転手。1日交代の勤務で遠足の当日は勤務の日でした。お父さんは、毎日炊飯器でご飯だけは炊いてくれていました。女の子は1人で起きて、ご飯を弁当箱につめます。おかずは、自分で作らなければなりません。家にあるのは梅干とたくわん。そこで、おかずを作り始めます。小学3年生の女の子にできたのは、ぐじゃぐじゃの卵焼きだけでした。そのぐじゃぐじゃの卵焼きを白いご飯に入れたとき、女の子はお母さんが生きていた頃のことを思い出します。お母さんが生きていた頃は、とても素敵なお弁当を作ってくれました。同時に今日もって来るお友達のお弁当箱が気になり始めます。お母さんが作ってくれる可愛らしい綺麗なお弁当。そう思って自分のお弁当箱をのぞいた時、真っ白いご飯に黄色のぐじゃぐじゃの卵焼きだけ。女の子は思わずお母さんの仏壇の前に行き、仏壇にさしてあったお花をちぎって持ってきて自分のお弁当箱に入れ、びっしりとお花で埋め尽くしたお弁当箱を持って来ていたのです。
 この女の子の担任は、遠足から帰ると大声で泣きました。この子の生活を十分知っていた自分であったはずなのに、実は知っていたたつもりでしかなかった悔しさで、泣き続けたのです。

今日のお話 −10月18日(火)−

   勝海舟の名言・格言

  自分の価値は、自分で決めること。

  つらくて貧乏でも、

  自分で自分を殺すことだけは、

  しちゃいけないよ。

ちょっといい話

   家族

 オレが小学生の時、事故で両親が死んだ。その後親戚中をタライ回しにされた。オレが「高校入学を機に1人暮らしを始めたい」と言うと、親戚のヤツは「好きにしろ」とふたつ返事でオレを放り出した。金も貰った。300万。家の代金や貯金とか、もっとあるはずだが、オレは何も言わずに飛び出した。何よりその場所が耐えられなかった。
 そして、1人で暮らし始めた。高校2年の時に知り合った友達の家に、初めて遊びに行った。時間が遅くなって、晩ご飯をごちそうになった。友達の家は、親父さん、お母さん、友達、弟の4人家族だった。オレを入れて5人の食卓には、ごはん、味噌汁、肉じゃが、煮魚が並んだ。オレは「うまい、うまい!と連発して食べた。友達が「そうか、こんなん普通だよ」と言った。オレは「何言ってるんだ、こんなん毎日食べれるなんて羨ましい、炊きたてのゴハンなんてすっげーゼイタクだぞ」と返した。それを聞いていたお母さんが「○○くん、いつもどんなもの食べてるの」と聞いてきた。オレは「いつもバイト先で賄いを食べてます。家だとおにぎりとかパンとか、ラーメンとかです」と答えた。お母さんは「お母さんはいらっしゃらないの」と聞いたので、「あ、オレ、両親いないんす。事故で2人とも……」と、なるべく気を使わせないようにサラッと言ったつもりだった。ところがお母さんは、いきなりオレの手を握ってきた。オレがビックリしてると、涙目で「○○くん、困ったことがあったらうちに来るのよ」って言った。何だか分からないけど、泣けてきた。家族なんて欲しいと思ってなかったけど、その友達が本当に羨ましかった。この時のゴハンの味が今でも忘れられない。
 それからもそいつの家にはバイトの休みの日にゴハンを食べさしてもらいに行った。いつもタダメシじゃ悪いから、1度お金を持っていったら、逆に怒られた。「子どもが余計な気を使わなくてもいい」って……。でもうれしかった。

今日のお話 −10月17日(月)−

   勝海舟の名言・格言

  功名をなそうという者には、
  とても功名はできない。
  戦いに勝とうという者にも、
  とても勝ち戦はできない。
  何ごとをするにも、
  無我の境に入らなければいけない。

□ プロフィール
 勝海舟(かつかいしゅう)は武士、そして政治家として幕末から明治維新へと激動する日本で重要な役割を果たした人物のひとりです。 とりわけ、「戊辰戦争」においては幕府軍の軍事総裁となり、「江戸城無血開城」を実現させた功績は大きく、江戸の町が戦火に焼かれることを防ぎました。

ちょっといい話

   中学生になった娘

 俺は高校までずっと都立で給食だったし、大学も学食やらコンビニやらで済ませてきた。母親の手作り弁当の記憶なんて、運動会か遠足、それも遠すぎて覚えてない。就職しても、社食が当たり前で妻も俺に弁当を作ったことはない。俺自身も、弁当箱を持って歩くのも荷物になるし、弁当への思い入れも何もなかった。
 ある日、今年中学生になった娘が、「はい、オヤジさん(←娘は俺をこう呼ぶ)」とバンダナで包まれた弁当箱を手渡した。「何じゃ、これ?」と俺が言うと、「だって、今日オヤジさんの誕生日じゃん」と……。俺、絶句。「何だ、お前、弁当作ってくれたのかよ。食えるのか?」と、恥ずかしさのあまり悪態をついてしまった。だが、娘は「一生懸命、早起きして作ったよ」と笑顔だった。素っ気ない顔しながら、気になって弁当箱の中身を確認したら、ご飯には鮭フレークでハートが描いてあった。おかずはハンバーグと、ウインナーと、ベーコンポテト。俺の好きなチーズも入っていた。胸が詰まった。2450グラムと小さく生まれてきた日のこと、夜中熱を出して夜間診療所に駆け込んだこと、運動会の徒競走で転んだこと、俺の胸に幼い日の娘の姿がよぎる。
 あいつ、こんなに大きくなりやがって……。食べた弁当の味は、しょっぱい。勿論俺の涙の……。

今日のお話 −10月14日(金)−

   二宮尊徳の名言・格言

  私が倹約を尊ぶのは、
  その後に活用することがあるからである。
  住居を簡素にし、服や食を粗末にするのは、
  資本を作り、国を富ませ、
  万人を救済するためである。
  目的があるのが倹約である。

ちょっといい話

   リンゴ

 私は、2歳のとき父を亡くし、以来、私を一人で育ててくれた母も、私が中学2年生の時突然の心臓病でなくなりました。その日のことです。
 私が学校から帰ると、近所のスーパーで勤めていた母は、仕事を早退し床に臥していました。「お母さん、どうしたの」と聞くと、「心配しないでもいいよ、ちょっと風邪をこじらせただけだから」と、か細い声で答えました。昨日から何も食べてない様子だったので、「何か買ってこようか」と母に聞くと、「おまえも今、期末試験中で大変なのに、いいの。もしよかったらリンゴが食べたい」と答えました。「じゃあ、すぐ買ってくる」と言って、リンゴを買って家に着いたとき、母はもう死んでいました。枕元に、ほんのわずかな時間に、苦しみながら書いた母の言葉の走り書きがありました。「哲、一人になってもお母さん、お父さんはいつもおまえを守っているよ。ありがとう」とありました。
 私は、それ以来リンゴを見ることも、無論、食べることもできなくなりました。あれから9度目の桜を見る季節がやってきます。私にとっての桜の季節は、ただリンゴをにぎりしめながら、泣きつづけた日々の思い出なのです。

今日のお話 −10月13日(木)−

   二宮尊徳の名言・格言

  人道は勤めるのを尊しとし

  自然に任せるのを尊ばない。

  勤めるということは

  私欲に克つということである。

ちょっといい話

   おふくろから電話 

 自殺考えていた頃におふくろから電話。
オレ:かあさん、オレが生まれた時、どう思った……。
母 :そうねえ、やっと会えたねって……。それから……。
オレ:……?
母 :この子の為なら自分の命は捨てられるって思ったかな。
オレ:……。
母 :……?、どうしたの、アンタ……。
オレ:なっ、なんでもないよ、じゃあね。

 電話切った後、ひたすら泣いた。オレに自殺する権利などない。
 オレは生きる……。せめて親が死ぬより後に……。

今日のお話 −10月12日(水)−

   二宮尊徳の名言・格言

  一人の人間は、

  宇宙にあっては限りなく小さいが、

  その誠意は天地をも動かすことができる。

ちょっといい話

   サーカスの像

 サーカスの像は、片足を細い鎖で繋がれています。そんな細い鎖なら、引っこ抜いて逃げ出せると思いませんか?しかし像は逃げ出さないんです。なぜでしょう?
 答えは、「自分には力がない」と思い込んでいるからなんです。この像は、幼いころからずっと鎖に繋がれて育ってきました。逃げ出そうと思っても、小さな体では鎖を引きちぎる力が無かったんです。そうして大人になってからも、幼いときの「力がない」という思い込みから逃げ出すことはないそうです。
 このサーカスの像のように、「自分には出来ない」と潜在的に思い込んでいることがあると思います。無意識のうちに「自分にはこれは出来ない」と決めつけていませんか?しかしそれは、自分の可能性を捨ててしまうことになります。「出来る」と思ってやれば、出来ることはたくさんあります。
 今まで出来ないと思い込んでいたことにも「挑戦」を……

ありがとうございました!!

 10月8日(土)に本校の吹奏楽部が、犬山産業振興祭「わいわい犬山フェスティバル」で演奏させていただきました。
 その折に参観されていた方より、吹奏楽部の活動に対して寄付をしていただきました。

 ありがとうございました。

 吹奏楽部の楽器の修理等、大切に使わせていただきます。

今日のお話 −10月11日(火)−

   二宮尊徳の名言・格言

  人道は勤めるのを尊しとし

  自然に任せるのを尊ばない。

  勤めるということは

  私欲に克つということである。

ちょっといい話

   俺はお前の兄ちゃんだから、お前が一番大事だ 

 中学時代、幼なじみの親友が目の前で事故死した。
 あまりに急で、現実を受け入れられなかった俺は少し精神を病んだ。突発的にパニックを起こして自傷行為を始めるので、親や兄が付きっきりだった。夜中にふと目を覚ますと、俺のベットの下に兄が布団を敷いて寝ていてお互いの手首を紐でしっかり結んでいた。その時はなんだか久しぶりに頭がクリアで、「ああ、兄ちゃん痩せたなあ。心配掛けて居るんだな」と、涙が出た。涙を拭おうとしたら、その動きで兄が跳び起きて「○○(俺)!」と俺にしがみついた。俺が泣いていて、パニックを起こしてないのを見ると、安心したように俺を抱きしめて「怖い夢を見たか、大丈夫だぞ。兄ちゃんがずっと付いてるからな」と笑顔になった。兄の腕や顔には引っ掻き傷が沢山あって、自分がやったんだと気が付いて、また泣いた。「○○君は可哀相だったな。でも俺はお前の兄ちゃんだから、お前が1番大事だ。お前に何かあったら、兄ちゃんは悲しいし、寂しい。兄ちゃんを置いて行かないでくれ」と頭を撫でて一緒に泣いてくれた。
 その夜から、少しづつ頭がはっきりする時間が増えて、ご飯を食べても吐かなくなった。今思うと兄は2歳上なので、その時、高校受験を控えた中学3年生だったはず。俺は1年近く学校を休んで、中1を2度やることになったけど、兄が現役で志望校に合格できてよかった。両親も優しく気遣ってくれたけど、幼なじみとの共有の思い出がある兄が一緒に泣いてくれたから幼なじみの死を受け入れられたんだと思う。
 何て言うか、あの時の俺には悲しみに寄り添ってくれる人が必要だったんだと思う。

今日のお話 −10月7日(金)−

   二宮尊徳の名言・格言

 両方が得をして、

 両方が喜べるような間柄を作ることに、

 知恵を働かせるのがよい。

ちょっといい話

   ごめんなさい、ごめんなさい

 私は自分で決めたルールがある。「自分が悪い」と思った時に、すぐ「ごめんなさい」を言うこと。
 もともと私は意地っ張り。だから「自分が悪い」と思っても「ごめんなさい」の一言が出ない。小さい頃から勝気で、兄とケンカしても必ず兄が折れるまで謝ったことはなかった。通知表の所見欄にも、「意思が強いのはよいところ、意地っ張りは悪いところ」と書かれていて、母も手を焼いていた。
 当時、付き合っていた彼氏とケンカをしても、絶対に折れることがなく、彼がいつも折れてくれる事で修復されていた。クリスマスイブにも、大ゲンカをした。原因は私。でも、意地っ張りな私。「悪い」と思っても、「ごめんなさい」が言い出せなかった。いつもなら「分かった、分かった」と、和ませてくれるのに、その日は違った。「もういいよ」とだけ言ってバイクで1人、さっさと帰ってしまった。意地っ張りな私。その場で「ごめんなさい」が言えなかった。当然電話やメールで謝る事もできず、あっと言う間に日付けが変わった。ホワイトクリスマスになった夜中。私の携帯のバイブレーションの音が、妙に部屋に響いた。彼のお母さんからの着信だった。私と別れた帰り道、「信号無視してきたトラックに跳ねられ、そのまま命を落とした」と……。頭の中は真っ白だった。無我夢中で病院に駆けつけて、何度も何度も叫んだ。「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」、今更言っても遅いのに……。私がちゃんと謝っていれば、彼がこんな事にならなくてすんだ。私が素直になれていれば、まだ彼と一緒にいる時間だった。「もういいよ」それが、彼との最後に交わした言葉。「ごめんなさい」の一言が言えずにいた、ちっぽけな私のプライドのせいで、彼は死んだ。私に彼のお母さんが彼が使っていたケータイを見せてくれた。そこには未送信メール1件「むくれてるお前も好きだけど、素直な笑ってるお前が好きだよ」と……。
 あれから10年。もちろん1日も彼の事を忘れたことはない。そして、今でもクリスマスの時期にバイブレーションの音を聞くと、あの日の事を鮮明に思い出す。彼が命がけで教えてくれたこと。悪いと思ったら「ごめんなさい」、意地をはらず素直になること。これだけは絶対守る。
 私の生きていくルール。

今日のお話 −10月6日(木)−

   二宮尊徳の名言・格言

 富貴天にありという言葉は、
 寝ていても勝手に豊かになると考えている人もいる。
 これは大きな間違いである。
 その意味は、日々励んで、
 その言動が天理にかなっているときには、
 富は向こうから近づいてくるということだ。

ちょっといい話

   おふくろからの1本の電話 

 おふくろからの1本の電話。「お父さんが……、死んでたって」。「死んだ」じゃなくて、「死んでた?」。
 親父とおふくろは離婚してて、まともに会話すらした事がなく、思い出もない。借金を背負って、自分の事しか考えず、家族はそっちのけ。とにかく自分本位でおふくろは、いつも愚痴ばかりもらしていた。ただ、そんな親父は、小さい頃に母親に捨てられ、施設で育ったらしい。愛情に欠けて生きてきたから、仕方ないのかと思った時もあった。お祖父さんは帰化申請をした外国人。小さい頃から「外国人はあっちいけ」とバカにされてたらしい。自分も親になって、少しは親父の気持ちも分かり始めた時であった。
 最後に会ったのは3年前、子どもと一緒に飯を食いに……。相変わらず何一つ喋らず、 黙々と食べ終わって帰ったっけな。糖尿病で病院に行く金もなく、インスリンを半年も打たず部屋にはチョコとかコーラが大量だった。 座椅子に座ったまま苦しんだ形跡もなく、10日後に発見。新年迎える前日だったらしい。台所には甘口のカレーの作りかけの後があった。ちゃんと作っておいてやったよ……、ちゃんと食ってやったよ……。涙が止まらなかった。何で言ってくれなかった、最後の最後まで迷惑かけやがって、一緒に酒飲みたかったな、 温泉行きたかったなー。親父らしい最後だったのかもしれないな……。

今日のお話 −10月4日(火)−

   二宮尊徳の名言・格言

 尊い人の道も書物に書いた時は、
 世の中を潤すことはなく、世の中の役に立つこともない。 
 それは、水が凍ったようなものである。
 この氷となった書物は、
 胸中の熱を使って元の水に戻さなければ役に立たない。
 書物を理解して実行する力を尊ぶのである。

ちょっといい話

  母さんが泣くのを見るの初めてだった 

 うちは、親父が仕事の続かない人でいつも貧乏。母さんは、俺と兄貴のためにいっつも働いてた。土日もゆっくり休んでたという記憶は無い。俺は中学・高校の頃、そんな自分の家庭が嫌でしょうがなかった。夜遅くまで好き勝手遊んで、学校さぼったことも多かった。高校卒業して就職もしないで遊んでて、当然金は無い。そこでやっちゃった。盗み。小心者の俺は、その日に自首。ただ、びびっただけ。警察に俺を迎えに来た母さんは、本当に悲しい顔してた。でも泣いてはなかった。一緒に家庭裁判所行ったときも、割と落ち着いてた。裁判所の帰りの電車で、俺あやまったんだ。ボソッと「ごめん」と……。そしたら、「お母さんこそ、お前に申し訳ないよ。小遣いもやれないで……」。 俺、電車の中でぼろぼろ泣いた。「何やってんだ俺、何やってんだ俺」って……。ここでも母さんは泣いてなかったな。ただじっとうつむいてただけだった。
 俺はその後必死になって勉強した。昼はスーパーでバイトして、夕方からは受験勉強。そして、翌春に何とか大学に合格。バイトは続けながら、大学生活が始まった。でも、母さんは、俺のことがまだ心配なようだった。母さんも相変わらず働きづめで、俺との会話がなかったので……。だから俺、入学後も一生懸命勉強した。自分のためっていうより、母さんを安心させてやりたかった。それで大学1年目の終わりに、「母さん、見せたいものがあるんだ」と言って、紙を1枚渡した。大学の成績通知書。履修した科目が全部「優」だったから……。最初はよくわかんなかったみたいだけど、説明したら成績がいいのはわかったみたい。 母「へえ、すごいね、成績」、俺「すごいかどうかはわかんないけど……」、母「すごいね、偉いね」、俺「だからさ、俺、もう大丈夫だから。母さんを裏切ったりしないから」、そしたら母さん、泣き出しちゃった。もう号泣。そこで気付いたんだけど、俺、母さんが泣くのを見るの初めてだった。きっと、何があっても子どもには涙は見せないようにがんばってたんだと思う。それを思ったら俺も泣き出しちゃった。
 親孝行しなきゃな……。
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