ともに生きる

ちょっといい話

   あの子はたった7つの春しか迎えられなかった…

 娘千春が逝ってから、もうすぐ1年。「千の春を迎えられるくらい長生きして欲しい」という願いを込めて名をつけたのに、あの子はたった7つの春しか迎えられなかった。先天性の免疫不全症候群で、生まれてから1度も病室の外に出ることはなかった。「いつになったらお外へ出れるの」と、悲しそうに呟くあの子の姿が今も目に焼き付いている。結局、生あるうちにその願いは叶えられないまま終わった。小さな身体で懸命に、最後まで、生きることを諦めなかった千春。闘って、闘って、闘い抜いた千春。とうとう力を使い果たして、眠るように逝った千春。「よく頑張ったね、えらいぞ、1等賞だ。だからね、もういいからね、おやすみ」と主治医の先生が看取った時に、優しく千春の頭を撫でながらそう言って泣いていた。私は主人と一緒に泣きながら、そんな先生に何度も何度も頭を下げた。小さかった千春をもっと小さな一握りの灰と骨にして、海と山に撒きました。外の世界に焦がれ続けていた千春を、また狭くて暗い墓の下に閉じ込めたくなかったので……。
 千春、千春、今あなたはどこにいるの?、空?、海?、山?、幸せでいる?今はまだ、あなたのことを思い出すと涙があふれて止まらないよ。
 おかあさんの娘に生まれてくれてありがとうね。またいつか会おうね。

今日のお話 −11月14日(月)−

   西郷隆盛の名言・格言

 間違いを改めるとき、
 自ら間違っていたと気付けばそれでいい。
 そのことを捨てて、ただちに一歩を踏み出すべし。
 間違いを悔しく思い、取り繕うと心配することは、
 たとえば茶碗を割り、
 その欠けたものを合わせてみるようなもので、
 意味がないことである“

(過去に間違ったことをしたと嘆いていても、今更、過去は変えられな
 い。それならば、これからできることを最大限に行って、あとは天の
 采配に任せよう)

□ プロフィール
 幕末期の薩摩藩の武士。 故郷鹿児島の盟友・大久保利通と共に薩摩藩をリードして王政復古を実現させ、徳川幕府を倒し、明治政府の成立に大きな貢献をした。 維新後、封建制度下の特権を失った不平士族(旧武士)の首領となって西南戦争を起こしたが政府軍に敗れ自刃した。

ちょっといい話

   お母さんに「ありがとう」といえた

 いつも私は、お母さんと喧嘩ばっかしてた。いつもお母さんに頼って生きていた私は、毎朝起こしてもらってるのだが、時々起こすのが遅い。そういうときも母に「早く起こさねぇのが悪いんだろ」と言ってた。お母さんも「だったら自分で起きなさい」と言って喧嘩。ある日、ちょっと大きい喧嘩をした。母から「あんたはお兄ちゃんと違って、何もできない」と言われた。私は「あんたのせいなんだよ。いつもウチを保育園で1人ぼっちにさせる、いつも仕事で授業参観にも来ない、母親ずらしてんじゃねえよ、あたしはあんたの事、母親だと思ってねえよ」と言い返した。この一言を聞いた途端、いつもは口うるさいお母さんが黙った。「言い過ぎたかな」とは思ったけど……。そして自分の部屋にこもった。部屋で少しお母さんのことが気になった。ちょっと様子を見てみると、母親が泣いていた。あんなに強い母が泣いていた。そして、独り言で「私のせいだ……」とつぶやいていた。目頭が熱くなった。こんな母親見たことない。見たくない……。
 気分転換にまだ見てないビデオがあったのを思い出し、ビデオを探していると、母親の字で私の名前が書かれたビデオがあった。「何だろう」と思って見てみると、幼い頃の私が大事そうに、微笑んでる母親の腕の中にいた。ビデオの中のお母さんはとても優しく、何度も私をビデオに写して、私の名前を呼んでいた。そしてビデオでこんなことを言っていた。「大好きよ。私の子だから何度も反抗するでしょう。だけど、あなたは私の大好きな子よ。ずっとずっと……」何年間も流してない涙が自然と出てきた。
 その日、私はお母さんに「ありがとう」と言えた。

今日のお話 −11月11日(金)−

   高杉晋作の名言・格言(2編)


□ 真の楽しみは苦しみの中にこそある。


□ 友人の信頼の度合いは人の死や緊急事態、困難の状況の時に分かる。

ちょっといい話

   お母さんに会いたいです

 私の父は、私が5歳のときに白血病で亡くなりました。それからは母が働き、祖母が私と弟の面倒をみるようになりました。母が、乳癌だとわかったのは私が小学校6年生の時でした。そのときは本当に驚いたのですが、「手術をすれば大丈夫」と思っていたので、「お母さんはすぐに元気になるんだ」と思っていました。その通り、摘出手術をしてからは、仕事にも無事復帰。私が中学1年生の夏ごろ、癌細胞が肝臓に転移しているのがわかりました。私は「また手術すればすぐに治る」と思っていました。しかし、母は見る見るうちに衰えていきました。仕事も辞め、抗がん剤の作用で髪が抜け落ちたり、吐き気がひどかったりすることもありました。そして、私が中学2年生夏から、入院生活になりました。それでも心のどこかで「私のお母さんが死ぬわけない」と思っていました。冬のある日、母から電話がきました。「ちゃんとおばあちゃんの言うこときいてね。お手伝いもちゃんとしなきゃだめだよ」と、すごく疲れた声でした。それから1週間後の早朝に、母は亡くなりました。祖母から「弟と一緒にタクシーで来て」と言われ、弟とタクシーで病院へ向かいました。母の病室のある階につき、祖母の震えた声で私たちを呼ぶ声が聞こえた瞬間、涙が出てきました。「あぁ、本当にお母さんは死んでしまったんだ」と……。祖母から聞いた話ですが、母は亡くなる前、「○○(弟の名前)が高校卒業するぐらいまでは生きたいな」と言っていたそうです。その話を聞いて、また涙がでました。
 今でもお母さんに会いたいです。会ってたくさん話したいです。学校のこと、部活のこと、音楽のこと、たくさんたくさん聞いて欲しいです。以前より成長した今の私なら、お母さんとたくさん語れる気がするよ。たまにお母さんの夢をみて泣いてしまうことはあるけど、私は大丈夫です。次に会うときは、たくさんわたしの話聞いてね。おもしろい話たくさん用意しておくね。

今日のお話 −11月10日(木)−

   高杉晋作の名言・格言

  古くから天下のことを行う者は、
  大義を本分とし、
  決して他人に左右されることなく、
  断固として志を貫く。
  禍福や死生によって
  気持ちが揺れ動いたりするものではない。

ちょっといい話

   1995年1月16日に戻りたい【阪神・淡路大震災のあと】  

 当時21の私と倫子はその日ちょっとしたことで喧嘩をしてしまった。普段なら隣同士で寝るのに、この日はひとつの部屋で少し離れて寝た。17日の朝、大きな揺れがあった。すごい音と共に屋根などが崩れてきた。運よく私も倫子も無事だった。しかし、2人の間には大きな瓦礫の壁があった。私は窓の近い側だったので、自力で出ることができた。私は、倫子を助けるために近所の方と合わせて、瓦礫をどけようと必死だった。ある程度作業が進んで、これなら助かると思った。しかしそのとき周りの人が「隣の家から火の手が上がっている」と言った。皆、ピッチを上げて作業をした。しかしそのとき、隣の家が崩れてきた。私も周りも、その場から反射的に離れた。そう、見捨ててしまった。「神はどうしてこのようなことをするのか」、「見捨ててしまった……」、「どうして自分も死ななかったのか」こんな言葉が頭をずっとめぐっていた。
 後日、瓦礫の山からともこの骨だけが見つかった。たった2メートルの距離の差だった。たった2メートルの距離の差が「1番大切な人」を失う距離だった。16日に喧嘩したことが、素直でなかった私が、最も失ってはならない「大切な人」を失う結果にしたのだ。喧嘩をしていなければ、2人とも助かったかもしれない。そして、見捨てることも……。 私は1995年1月16日に戻りたい。そして君と一緒にいたい。阪神大震災経験をしていない人にとっては分からないことだと思う。ただ、これから1月17日に阪神大震災の話題が出たときに、今さら……、とは言ってほしくない。そして、今恋愛をしている人に。あなたは大切な人を手放さないで下さい。
 後悔しても、すべて戻ってこないのですから……。

今日のお話 −11月9日(水)−

   高杉晋作の名言・格言

  世間の人々は名誉や利益を追って走っている。

  そんな時代に利益や名誉を捨てる

  僕のようなものが他にいるだろうか。

  僕はたとえ牢で死んでも恨みはない。

皆既月食・天王星食 11月8日(火)

 11月8日(火)は、18時ごろから22時ごろにかけて月食が起こります。月の全てが影に入り込む「皆既食」は19時16分から20時42分までの約1時間半、全国で観察することができます。
 また今回は月食の最中に、月が天王星を隠す「天王星食」も起こります。皆既食中に惑星食が起こるのは非常に珍しく、日本ではなんと442年ぶりです。

 ぜひ442年ぶりの天体ショーの観察を!

ちょっといい話

   お前は俺にとって、命よりも大切な友達だ

 お前は俺にとって、命よりも大切な友達だ。
 小学校2年の時、友達もいなかった俺の誕生日にチョロQをくれた。その当時の600円というのは、俺達にとって大金だった。とても嬉しかった。3年生の時、一緒にサッカークラブに入った。お前は上手で俺は下手だった。4年生の時、スイミングに入った。そこでもお前は大会に出れるようになったけど、俺は幼稚園児達と一緒に練習していた。5・6年生になって俺は野球クラブに入ったが、やはり下手で野球をやる時、最後にジャンケンで「いる」とか「いらない」とか言われてた。だけど、お前にけなされた覚えはない。こんなに差があるのに、友達でいてくれたお前を、俺は大好きだった。中学校に入学してからも、ほとんど一緒に登校したし、部活のない日は一緒に帰った。
 昨日の通夜は、行かなかった。家でタオルを咥えてこの文を書いてたよ。「朝、遅刻をすると内申書によくない」と言って一緒に走った。お前はよく遅れて来たよな。今でも後ろを振り向くと、後ろから走ってくる気がする。お前の声が聞こえてきそうな気がする。今、お前をこうして見ていると、「冗談だ」と言って、笑いながら起きてきそうな気がする。起きてきて欲しい。数えきれない程の人達が、こんなにも悲しんでいる。俺が、テストでよい点を取った時は褒めてくれた。俺が、悪口言われている時は庇ってくれた。お前は自慢しなかったけど、これだけ沢山の友達がいることは自慢した方がいい。よく「喧嘩する程仲がよい」って言うけど、あれは違う。俺とお前は、喧嘩した事がないからだ。 
 時々遊びに来いよ。夢でも、幽霊でもいいから、盆と正月には必ず来いよ。俺が死ななきゃならない時は、三途の川まで絶対来いよ。今度話す時、お前は天国、俺はプロ野球の話をしよう。最後にもう1度言うけど、お前は俺にとって命より大切な友達だ。いつまでも友達でいよう。

今日のお話 −11月8日(火)−

   高杉晋作の名言・格言

  先が短いなら短いなりに
  僕は面白う生きたい。
  派手な打ち上げ花火を打ち上げて、
  消えていく……。
  それが高杉晋作の生き方ですき。

オミクロン株対応2価ワクチンに関する リーフレットの周知について

 愛知県教育委員会から「新型コロナワクチンのオミクロン株対応2価ワクチンに関する
リーフレットの周知」の依頼がありました。

 ホームページにリーフレットを掲載しますので、ご一読いただけるとありがたいです。よろしくお願いします。

 リーフレットはこちらです。

 https://www2.schoolweb.ne.jp/weblog/system/file...

ちょっといい話

   今から、嫁と子供連れて嫁の墓参りに……

 親友Aの嫁さんが先日交通事故で死んだ。
 Aの嫁さんは、当時学生のAと知り合ったときは既婚者で、無職の夫の暴力に耐えながら週7日休みなく仕事していた。Aは、嫁さんの相談にのっていて、そのうち「あの人を好きになった」と言って、付き合い始めた。やがて嫁さんは、弁護士をたてて無事離婚、Aと結婚を前提とした付き合いはじめた。ところがAの実家が、結婚に猛反対。Aは県内では有名な資産家の長男、嫁さんは貧乏育ちで片親、外国人とのハーフ、そしてバツイチ……。Aは大学を辞め(学費を親が払っていたため)、嫁さんと結婚した。
 2年後には子どもが生まれて、その子どもが歩き出した頃、俺を含むAの学生時代の友達を交えて遊んでいて、嫁さんが交通事故にあった。漫画みたいな話で、道路の真ん中にヨチヨチと歩いていった子どもをAが追いかけたところに、トラックが猛スピードでやってきて、それを嫁さんがかばう形だった。当たり前だけど即死。嫁さんはAが大好きで、いつもニコニコしてAにくっついていた。会うといつも幸せそうだったし、2人が喧嘩した話なんて聞いたことがなかったくらい。Aも嫁さんを愛してた。
 最近電話で、「今ヒマやったらどっか行かへんか」と誘った。Aは「今から、嫁と子ども連れて嫁の墓参りに……」と言って、「ああごめん。子ども連れて墓参りやった」と……。事故から1年とちょっとしか経ってないんで、まだ受け入れられないんだなと思った。家に遊びに行ったとき、嫁さんの写真を見ながらポツンとしていたAの小さな背中が忘れられない。

今日のお話 −11月7日(月)−

   高杉晋作の名言・格言

 「朝に人としての道を悟ることができれば、
 その晩に死んでも悔いはない」
 という事こそが人の道である。
 人としての努力をすることもなく、
 ただ死に向かうのは人の道ではない。

ちょっといい話

ごめんな、俺、助けてやれなかった 674  済

 友達が自殺した。理由は「いじめ」。俺は気付いてた。友達がいじめられてたことには気づいてた。でも、自殺なんてするとは思っていなかった。ショックだった。俺だって、アイツをいじめたようなもんだから、何も言えなかった。ただ、ずっと後悔するしかなかった。そしたら、ある日友達の母親に呼ばれた。「貴方は息子がいじめられたの知ってたの」と聞かれて、「はい」と答えた。「怒られるかな」と思った。でもなぜか、友達の母親は何も言わずに手紙を差し出してきた。
 ○○へ。こんな形で別れてしまってごめん。いじめられていた間のことについては、かなり怒ってる。でも、誰だってああしたくなるよな。だから、後悔するなよ。俺のこと、お前がかばったらお前までいじめられるだろ。だからこれでよかったんだ。お前は、俺みたいにはなるなよ。俺はもう死ぬけど、お前には生きていてほしい。男同士で気持ち悪いかもしれねえけど、何だかんだで俺はお前のこと好きだったからさ。まあ、とにかく、俺はお前のコトは恨んでねえから。じゃあな。
 死ぬ前に書かれたであろう手紙は、所々濡れていて文字がぼやけていた。アイツが、どんな気持ちでこれを書いたのかは分からない。でも、「もう2度と会えないんだな」、「笑ってくれないんだ」って思いがこみ上げてきて、思い切り泣いた。
 そしたら、アイツの母親が「私ね、あの子がいじめられてること知らなかったのよ。だって、あの子ったら、家でもあなたの話ばかりしてるのよ。でも、それも嘘だったのね。
気付いてあげられなかった私も悪いから、私に貴方をしかる権利はない。でも、息子の友達になってくれてありがとう」と言って泣き出すんだよ。あの時の気持ちは、今でも忘れない。
 「ごめんな、俺、助けてやれなかった。これからは、お前の分もしっかり生きるよ」。今俺は、スクールカウンセラーとして働いています。

今日のお話 −11月4日(金)−

   高杉晋作の名言・格言

 どんな事でも周到に考えぬいた末に行動し、
 困らぬようにしておく。
 それでもなおかつ、窮地におちた場合でも
 「困った」とは言わない。
 困ったと言ったとたん、
 人間は知恵も分別も出ないようになってしまう。

ちょっといい話

   小児がんだった息子の願い 

 歳の離れた弟は体が弱く、小さい頃から何回も入院を繰り返していて、見舞いにいくことがよくありました。同じ病室には小児がんでずっと入院している子が何人かいて、特別人懐っこいA君と僕は弟と同じくらい可愛がっていました。A君は病室から出たことがなく、A君のご両親曰く、病状も思わしくない状況が続いているとのことでした。それでもご両親も、A君も、いつもとっても明るいんです。しかし、ある時期を境に、A君の病状は僕の目から見てもわかるくらいに悪化していきました。それでも病室ではA君のご両親はいつも通りに明るく振る舞い、A君も調子が悪い中でも笑顔を絶やしていませんでした。「本当に強い家族だな…」と驚いたものですが、見舞いに行った帰りのタクシー乗り場で、A君のご両親が泣いているのを見て、僕は胸が締め付けられる思いでした。またその後、A君がベテランの看護師さんに「僕は、あとどのくらい生きられるの?」と聞いているのを聞いてしまった僕は、A君家族が病室で無理をしてでも明るく振舞っていることに気づき、涙が止まらなくなりました。それから数週間して、A君のがんはさらに重くなったようで、重症患者の病棟に移りました。その後、A君が亡くなったことをA君のご両親から聞かされました。
 大人でもその副作用に苦しむくらいですから、子どもにとっての抗がん剤治療はとても苦しいものです。A君のご両親は、「これを打てばよくなるから」と言ってA君を励まし、A君はそれを信じ、我慢して注射を打ち続けたそうです。最期、息を引き取る直前のA君は、消え入りそうな声で「注射…打って…」と懇願したというのです。「注射を打てば、よくなる」、ご両親の言葉を信じ、何度も何度も痛みに耐えて注射を打って来たA君は「また注射を打てば、自分はまだ生きられるんだ」と思って、「注射を打って欲しい」と何度も何度もご両親に頼みこんでいたそうです。「その姿が今でも目に焼き付いて離れない…」と、ご両親は目を真っ赤にして話してくれました。
 僕はA君とご両親のことは一生忘れないでしょう。

今日のお話 −11月2日(水)−

   高杉晋作の名言・格言

 シャクトリムシのように身を屈するのも

 いずれは龍のように伸びるためだ。

 そのためには奴隷になっても、

 下僕になっても構わない。

ちょっといい話

 ICUで僕を支えてくれたもの

 高校3年生の時、バイクで学校に向かっていて、いつもの交差点に来たときのこと。突然クラクションが鳴り響き、驚いて横を見ると、すぐ近くに大型のワゴン車が迫っていたのです。その瞬間、スローモーションになったのを今でも覚えています。「どうすればぶつからないだろうか」と考える時間はたくさんありましたが、時間としては一瞬の出来事だったようで、気づいたら体がフェンスに激突していました。すると、周りの人たちが「動かないで!」と騒ぎ始め、すぐ近くの病院に運ばれました。検査したところ、足と肩甲骨、肋骨の骨折の他に、肺が潰れていることがわかりました。緊急手術をすることになり、手術後にICUに運ばれました。両親は「助かるどうかはわかりません。命は取り留めたとしても、植物人間になる可能性もあります」と説明を受けたようです。
 ICUは無菌状態になっているため、基本的には面会はできません。そんな中で僕は過酷な治療に耐えなければいけなくなりました。24時間続く地獄のような治療に僕は心が折れかけていました。そんな孤独なICUで僕を支えてくれたのは、友達の存在でした。ICUの病室の扉には、小さな窓がついていて、その窓からたくさんの友達が僕を励ましに来てくれたのです。もちろん会話をすることはできませんでしたが、友達は筆談や、変顔で僕をたくさん笑わせてくれました。友達が来てくれている間だけは不思議と、痛みと苦しさを忘れることができました。
 後から聞いたのですが、実は僕の両親が僕が死の危険があることを告げられてから、たくさんの僕の友達に「もしかしたら最期かもしれないから、会いに来てあげてほしい」と言ってくれて、それで本当に毎日多くの友達がきてくれたそうです。
 「まず助からない」とまで言われた大怪我でしたが、気持ちが負けなかったおかげで、僕は今も生きています。高3の受験を控えた時期だったのにも関わらず、僕をはげましてくれた友達と、呼びかけてくれた両親には感謝してもしきれません。周りの人の温かさのおかげで起きた奇跡を、今後もずっと忘れずに生きていきたいです。

今日のお話 −11月1日(火)−

   高杉晋作の名言・格言

 人間、窮地におちいるのはよい。

 意外な方角に活路が見出せるからだ。

 しかし、死地におちいれば、それでおしまいだ。

 だから、おれは困ったの一言は吐かない。
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4/6 入学式準備(在校生登校)

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