ともに生きる

ふたご座流星群

 毎年ほぼ安定して多くの流星が出現する3つの流星群「しぶんぎ座流星群(1月)」「ペルセウス座流星群(8月)」「ふたご座流星群(12月)」は、「三大流星群」と呼ばれています。
 今日、12月14日(水)は、三大流星群の一つ「ふたご座流星群」が極大となり、14日の夜から15日の明け方にかけて見頃を迎えます。

今日のお話 ー12月14日(水)ー

   東井義雄の名言・格言

 「聞く」は、「話す」ことより

 消極的なことのように考えられがちですが、

 これくらい消極的な

 全身全霊をかけなければできないことはない。

今日のお話 ー12月13日(火)ー

   東井義雄の名言・格言

  どの子も子どもは星。

  みんなそれぞれが、

  それぞれの光をいただいて、

  まばたきしている。

ちょっといい話

   ガイドブック 

 東京で単身赴任してたとき、連休とかにはいつも嫁が来て、家のことなどしてくれていた。母にも、「たまには東京来いよ」と言ってたんだけど、人混みが苦手だと決して来なかった。そんな母が脳梗塞で突然死んじゃって、呆然としたまま遺品を整理していたら、東京のガイドブックが出てきた。皇居とか、浅草とかベタなところに一杯赤鉛筆で線引いてあって、何度も読み返したらしくボロボロになってた。
 親父に聞いたら、行きたかったんだけど嫁の方ががいいだろうって我慢してたんだそうだ。自分は肉が嫌いなくせに、俺の好きそうな焼肉屋とかにも一杯線引いてあって、俺と一緒に回るのを夢見てたみたい。俺は、お義理で誘っただけなんだけど、誘われた後は、「何回も、何回も息子が来いと言ってくれた」と喜んでいたらしい。一緒に行きたかった場所には、俺の名前が書いてあって、それがたくさん、たくさん書いてあって……。
 死に顔を見たときよりも、葬式の時よりもすっごく泣いた。田舎に戻った今でも、生きてる間に呼ばなかったこと後悔している。

今日のお話 −12月10日(土)−

   東井義雄の名言・格言

  太陽は夜が明けるのを待って昇るのではない。

  太陽が昇るから夜が明けるのだ。

□ プロフィール
東井義雄(1912 〜 1991 年)は、日本の教育者 である。 兵庫県の浄土真宗の東光寺に生まれた。 1932(昭和 7)年に姫路師範学校を卒業したのち、 小学校教師として勤務し、日本のペスタロッチ賞 を受賞した。 東光寺住職でもあった。 

ちょっといい話

   俺がぶん殴ってやるよ 

 田舎の祖母が入院してるので実家に数日戻ってきた。
 祖母はあんまり長くないらしい。祖父母は九州に住んでいて、祖父は完全に頑固一徹の昔ながらの親父って感じ。「男子厨房に入らず」を徹底して、晩酌は日本酒(必ず熱燗)。当然、すべて祖母が準備。熱燗がちょっとでもぬるいと、口をつけた後、「ぬるい」と一言だけ言い、無言で祖母に温めなおすよう指示。祖母は「すみません」と言い、温めなおす。祖父は祖母を怒鳴りつけるということはなかったが、とにかく一貫してそんな態度だった。小さい頃から細々とよく働く祖母を呼びつけて、召使のように扱う祖父をみて、何だか理不尽なものを感じていた。その反動か、俺は小さい頃から母親の手伝いをよくやったし、今も家事を積極的に手伝うようにしている。
 その祖母が先月いきなり倒れたらしい。検査の結果「癌」発見。しかももう手遅れで、「このまま…」という方針に決まった。で、連休明けて仕事が一段落して休暇もらって行ってきたんだが、実家帰ってびっくりした。祖父が、連日祖母の病院に朝からいっているらしい。ほとんど1日病室で2人で過ごしているそうだ。病院に行ったら、祖父はいなかったが、しばらくしたら祖父が帰ってきて、その手にはプリン。祖母が食欲が落ちてきたので食べやすいものを、と思って買ってきたらしい。見ていると祖父がよく動く。鞄から祖母の着替えを出したり、ちょっとした買い物や何やと……。俺がそろそろ帰ろうかとしていると、祖父がいきなり「そうだ。せっかくだから写真を撮ろう」と言い出した。祖母が「こんな痩せてガリガリの写真なんて撮らないでください。葬式には若い綺麗な頃の写真を使ってくださいね」と冗談めかして言うと、祖父は「病人だし、飯も食わんのだからガリガリなのは当然だ。今のお前が綺麗じゃないと言う奴がいたら俺がぶん殴ってやるよ」と。祖母は「まぁまぁ」なんて笑ってたけど、ちょっと泣いてたんだよな。
 何だかんだ言いながら、この2人は夫婦なんだなぁと思ったよ。

今日のお話 −12月9日(金)−

   大久保利通の名言・格言(4編)

 □ 彼は彼、我は我でいこうよ

 □ 堅忍不抜
  (意志が強く、辛いこともじっと耐え忍んで心を動かさないこと)

 □ 為政清明
  (政治を行うものは清らかでなければならない)

 □ やりすぎるのはやり足りぬより悪い。

ちょっといい話

   心から尊敬します 

 父が食道癌になりました。
 私は父と、この10年ほど腹を割って話したことがなく、何かあれば衝突ばかりでした。だから、「お父さん、体の調子が悪いんだ」そんな言葉を耳にしても、気にもとめずに、いつもの様に遊び歩いていたんです。そんな父が緊急入院した時は、本当に目の前が真っ暗になりました。私と母は、父の検査が終わるのを待ちました。「癌なわけないから、きっと大丈夫」と言い合ってました。が、下された診断は、食道癌でした。告知を家族と一緒に聞いていた父は、主治医に「何故、こんなことを家族に聞かせるんだ。俺だけに言えばよかっただろう」と言って急に怒り出しました。
 お父さん、普通逆だよね。「本人に聞かせないように」って、家族が気を使うよね。こんな時にまで、家族を守ろうとしなくていいんだよ。怖い時には、震えて泣いていいんだよ。皆の前でわざと強がって、布団に顔を隠して泣かなくていいんだよ。
 お父さん、私はあなたのことをわかろうとしていなかった。事業に失敗したり、借金抱えたり、頼りにならない父親だとばかり思ってた。こんな大人にだけはなりたくないと、思ってた。でも、今は……。
 こんな家族思いな父の娘に生まれてきて本当によかった。こんなに優しくて、思いやりのある父を心から尊敬します。お父さん、一緒に頑張ろうね。

今日のお話 ー12月8日(木)ー

   大久保利通の名言・格言

 最善を得ざれば次善、

 次善を得ざれば、

 その次善と、

 できる程度において、

 出来うる事をなす

今日のお話 ー12月7日(水)ー

   大久保利通の名言・格言

 失敗に落胆しなさるな。
 失敗に打ち勝たなければならぬ。
 度々失敗すると
 それで此大切なる経験を得る。
 其経験に依って以て
 成功をきさなければならぬのである。

ちょっといい話

   そのあと抱きしめてね

 あなたが天国に足早に旅立って、もう12年ですね。2歳だった娘、0歳だった息子ももう中学生です。あの時からずっと自分を責めてます。「何かできたんじゃないか、あぁすれば、まだあなたは生きていたんじゃないか」とか……。あなたの家族に「私達なら救えたのに」と言われました。「なぜ私だけがこんなに苦しまなきゃいけないのか」、ズタボロでしたよ。追いかけていこうと何度も何度も考えました。けど子どもたちは、いつも笑顔で私を必要としてくれました。無我夢中で過ごしてきた12年。悲しむことより怒りですね。「夫婦揃ってる人たちを見た時、子どもの体調不良で不安のとき、子育てで悩んだ時」、あなたがいてくれたらって何回、何百回と考えたか。置いていきやがって、……アホ。「ママが元気でいてくれれば、私はいいです」と、10歳の時に手紙に書いてくれたんだよ、娘が。「子どもたちなりにも色々あっただろうよ、感じただろうよ、言われただろうよ」、けど、何一つ言わず、「パパいないけど、うちは幸せだよね」って、2人して言ってくれるよ。何度も何度も。こんなよい子たち残して、なに先走ったのよ。私はこの子たちを、私の人生をかけて幸せにする。あなたの分も……。
 だから、そちらで精一杯見守るんだぞ。2人を私に授けてくれてありがとう。私と出会って、私を選んでくれてありがとう。支えきれなくてごめんね。私がそちらにいったら、まずパンチな。そのあと抱きしめてね。

今日のお話 ー12月6日(火)ー

   大久保利通の名言・格言

 目的を達成する為には

 人間対人間のうじうじした関係に

 沈みこんでいたら物事は進まない。

 そういうものを振り切って、前に進む

ちょっといい話

   空 

 「空に憧れて、空を駆けてゆく あの子の命は、飛行機雲」

 その通りでした。小さい頃から、「僕、ぜーったいパイロットになるからね」と言っていたあの子。先月、あの子の飛行機雲のように短い命が消えました。小さい頃から「パパみたいになるんだー」と言っていた息子。「ママみたいになる」とは言ってくれないのね……。最愛の息子を、癌で亡くしました。
 私は情けない母でしたね。麻痺してしまってよく動かない手で、私があげた日記帳に、「ママ、さいきん笑ってない。ぼくのせいかな。ぼくが心ぱいかけるからかな。早くたいいんして、ママに笑ってもらう」と綴っていました。それを読んだ瞬間、息子の前で、笑わないどころか泣いてしまいました。「ごめんね、ごめんね。」と頭を押さえて泣く私の髪の毛を、「ママ、泣かないで?」と言いながら撫でてくれました。 本当、パパに似て優しい子です。自分より、他人の心配をするなんて……。不安なのに笑顔しか見せなかった。もっと甘えていいのに……。最期は、仕事で中々会えない夫も来てくれました。私は、掠れた声で何か伝えようとする息子の声を聞き取ろうと必死でした。すると夫は、「作ってきたよ。」と言って息子に何かを差し出しました。紙飛行機でした。息子は嬉しそうにそれを受け取り、「やっとお空、飛べるね」と言って、静かに息を引き取りました。私は、涙が溢れて止まりませんでした。息子の部屋を掃除していて見つけた、あのノート。続きが書かれているみたいでした。読んでみると、「パパみたいにお空をとびたいな。パイロットになれたら、ママとも一しょにおしごとする」。私は、息子の癌が見つかる前、キャビンアテンダントとして働いていました。息子はそれを知っていたんです。それを読んで、私は仕事に復帰しました。
 ねぇ、空?聞こえてますか?貴方は世界一のパイロットとして、その小さな命が燃え尽きるまで生き抜いた。ママも、空みたいな人になれる様に頑張ります。

今日のお話 ー12月5日(月)ー

   大久保利通の名言・格言

 ようやく戦乱も収まって平和になった。よって維新の精神を貫徹することにするが、それには30年の時期が要る。
 それを仮に3分割すると、
 明治元年から10年までの第1期は戦乱が多く創業の時期であった。
 明治11年から20年までの第2期は内治を整え、民産を興す即ち建設の時期で、私はこの時まで内務の職に尽くしたい。
 明治21年から30年までの第3期は後進の賢者に譲り、発展を待つ時期だ

□ プロフィール
 明治維新の指導者。島津久光のもとで公武合体運動を推進。やがて討幕へと転じ、薩長連合を成立させる一方、岩倉具視らと結んで慶応3年12月、王政復古のクーデターを敢行。版籍奉還や廃藩置県を推進し、新政府の基礎を固める。参議、大蔵卿を経て明治4年特命全権副使として岩倉遣外使節団に随行。帰国後、内政整備を主張し、征韓派参議を下野させるとともに、参議兼内務卿となり、政権を掌握。地租改正、殖産興業の推進など、重要施策を実行した。西南戦争に至るまでの各地の士族反乱を鎮圧するも、11年士族に暗殺される。

ちょっといい話

   お母さんからあなたへ 

 自分が多少つらくても、腰痛くても頭痛くても、子どもが元気にしてくれてるのがすごく嬉しいの。元気そうな子どもの姿見たり、声聞いてるとね、本当に嬉しいの。別に感謝してくれたり、無理に気にかけてくれたりしなくていいの。苦労して育てた自分の子ども
が、自分の足で立って人生歩んでくれることが、何より嬉しい。
 悩んでる、行き詰ってる子どもを見るのは本当につらい。何とかしてあげたい、どうにかしてあげたいんだけど、私じゃ何もしてあげられない。余計な口出ししちゃって、後悔する事もある。アナタにはアナタの考えがちゃんとあるのにね。でも、見守るだけしかできないのはつらい。苦しんでる姿見ると、心が張り裂けそうになる。親なのに、何でこんなにも、何もしてあげられないんだろうって、情けなくなるよ。
 今楽しいアナタへ。アナタが楽しく生きているという事実が、お母さんの生きがいです。
 今苦しいアナタへ。何もしてあげられなくてご免なさい。頼りなくて本当にごめんなさい。でも、つらくても生き抜いてください。お願いだから、自暴自棄になったり、自分を卑下したりしないでください。生きる場所は必ずあります。生きる道は必ずあります。アナタが、もがいて、もがいて。そこに辿り着くことを毎日祈っています。私にできることが何かあるなら、どうか言ってください。誇大表現でも何でもありません。アナタが強く生きてくれることが、お母さんは自分の命よりも大事です。

今日のお話 ー12月2日(金)ー

   西郷隆盛の名言・格言(3編)

 □ 人を責めるが如く、自己を責めよ

 □ 断じて行えば鬼神もこれを避ける

 □ 徳に勤むる者は、これを求めずして、財自から生ず


ちょっといい話

   俺の皿には冷めた料理がのっていた 

 すぐに再就職できると思っていたが、なかなか見つからず、仕方なく親戚が支配人をやっているファミレスに3ヶ月ほどバイトすることになった。その時、たくさんの家族連れやカップルを見てきたが、子どもの世話って、どの家族連れも母親がするもんなんだな。温かい食事を持っていっても、嫁さんは子どもに食べさせたりして、温かかった皿はどんどん冷めていく。逆に旦那は、子どもが何をしようが、嫁さんの飯が冷めようがお構いなしに自分の分を平らげていく。旦那が食べ終わると、子どもの世話をする人もいれば、そのまま新聞なんかを読み出す人もいる。どっちにせよ、温かい食事を食べる嫁さんというのは結構少ない。多分、家でもこうなんだろうな……。もし、俺に子どもが生まれて外食する時は、「俺も面倒みてやろう、嫁さんに温かい食事を食べさせてやろう」と思った。  
 それからしばらくして、待遇のよい会社へ再就職した。そして子どもにも恵まれた。
 ファミレスに食べにいった時、子どもの世話をする嫁さんとその皿を見てふと思い出した。「あぁ、俺、あの時の旦那と同じことしてるな」と。「俺が面倒みるから、お前、先に食えよ」と言うと、嫁さんは驚いた顔をした。家でも滅多に子どもの面倒をみることもないから。嫁さんは「悪いから」と言ったが、「いいから、ほら」と、嫁の手から娘用のスプーンを取り、娘に食べさせた。嫁は小さく「ありがとう」と言い、温かい食事を食べ始めた。嫁はいつもより早口で食事をし、俺と交替した。俺の手からスプーンを受け取る時、「ありがとう、本当にありがとうね」と、涙ぐんでいた。
 俺の皿には冷めた料理がのっていたが、それでも美味く感じた。

今日のお話 ー12月1日(木)ー

   西郷隆盛の名言・格言

 道は天地自然の未知なる故、

 講学の道は敬天愛人を目的とし、

 身を修する克己をもって終始せよ。

 己に勝つ極功は

 「意なし、必なし、固なし、我なし」と云えり。

◇ 論語より:意は、独断。必は、無理強い。固は、執着。我は、我欲)

ちょっといい話

   大丈夫、大丈夫だからね

 抗がん剤も効果なく「これ以上の治療は、ただ体力を削るだけだ」と医者から宣告され、穏やかに過ごすために、母は私の働く病院に入院しました。
 夜勤に入る前に早めに行って、いつも通り話をしてると、「あんたがいてくれてよかった」と急に言われた。徐々に弱って、胸水が溜まり始めてたから不安に思ったけど、とりとめのない話を続けてる内に夜勤も終了。
 仕事が終わった途端、急に母が苦しみだした。「どうにかして……」と、すがるように母が私を見た。不安にさせないように笑顔で居ることが私の役割。いつも通り「大丈夫」って擦ってあげればよかった。でも、私は動くことができず、何とか笑おうとしても、どうしても顔が引きつってしまい、涙がこぼれた。「泣いたらだめだ」と思い、母から顔を逸らした。そのとき母は、ぐっと手首を掴み「大丈夫、大丈夫だからね」と言った。目の焦点さえも、私にあわせられていないのに……。手首を掴む手も、力強い声も、昔の強いお母さんでした。それ以降、母は苦しいとも辛いとも言わずに、2時間後に亡くなりました。
 「大丈夫」、それは私が言ってあげなければならない言葉だったのに。私は看護師失格で、母から「キツイ」「苦しい」の言葉を奪ってしまった。でも最後に子どもでいられた。どんなに子どもが大人になろうとも、経験を積んで立派になろうとも、母親には敵わないと思った。

今日のお話 ー11月30日(水)ー

   西郷隆盛の名言・格言

 世のすべての人からけなされても落ち込まず、

 すべての人から褒められてもうぬぼれるな。
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