ともに生きる

ちょっといい話

   お父さんとお母さん、どっちにつく 

 私には父と母と中学1年生の弟がいて、私が高2の頃まではごく普通で平凡な生活を送っていた。多分、私が高3になった頃から両親がお互い何も話さなくなっていた。気付いたときには、家族みんなで笑って食事することも、家族みんなで寝ることも、みんなで旅行に行くこともなくなってた。一番大好きだった場所が、いつの間にか嫌いになって、家にいるだけで息がつまるようになり、自分でも知らないうちに親にも気を使うようになっていた。そんな毎日が続いて、今までありえなかったことが「当たり前」になってしまい、そんな家族が嫌で私は家を出て、しばらく家には帰らなかった。
 そんなある日、いつもなら何も言わない母から「帰っておいで」のメール。とりあえず理由を聞いた。返ってきたメールには、「離婚」という2文字。今まで考えたことがなかった親の離婚。いつか家族が元に戻る日が来るのを、勝手に信じていた自分が情けなくて…。悔しくて、悲しくて、ひたすら涙があふれた。
 やっと落ち着いてから家に帰ると、私は何も言えずに、ただ立っているのが精一杯だった。しばらくすると、母が優しい声で「しほ」と言った。私は、震える声で「…はい」と返事をし、椅子に座った。何秒か沈黙が続き、自分の心臓の鼓動と時計の秒針だけが、静かに聞こえていた。緊張感の中、ようやく父が口を開き「…ごめんな」と呟いた。そのあと母が言った言葉は「2人とも、お父さんとお母さん、どっちにつく?」
 必死で涙をこらえて心の中で泣いていた。そして、見つけた私の方程式は、『2−1=0』。2から1を引いちゃうと、もう何にもなくなっちゃうんです。だから私はどちらも選びませんでした。と言うより、選びたくなかったんです。毎日、一生懸命働いてくれたお父さん。私を産んでくれて、18年間育ててくれたお母さん。自分には、そんな2人を選ぶ資格なんかないと思いました。
 結局、戸籍上は母の方になったけれど、私は彼氏と結婚することにしました。今では月に2、3回程度ですが、父とご飯を食べに行ったり、母と買い物に行ったりしています。でもやっぱり寂しくて、彼氏や友達の前だけは我慢しきれずに泣いてしまうこともあるけど、両親が幸せなら私はそれで充分だと思いました。家族は、離れ離れになっても絶対に途切れることのない大きなものなんだなぁと改めて実感することができました。

今日のお話 −9月30日(金)−

   二宮尊徳の名言・格言

 いかに善を思っても、
 行いによって善を表さなければ、
 善人とは言えない。
 それは、悪い事を考えていると言っても、
 実際に悪事をしなければ悪人といえないのと同じである。
 従って私はどんな小さなことでも、
 実際に善を行う事を尊ぶ。
 善心が起きたら、すぐに実行するのがよい。  

ちょっといい話

   きっと大丈夫ですよね

 60歳過ぎて、「癌」と言われても治療はしません。5年前、1人娘も結婚しましたし、思い残す事ももうないのです。でも、オリンピックと孫の顔は、見てみたかったですね。30歳の時に夫を舌癌で亡くしました。それからというもの、娘を1人で育ててきました。癌だと電話口で娘に伝えると、1通の手紙が送られてきました。
 お母さんへ 
 ほんとに治療しないの? 私としては「治療をしてほしい」、「生きてほしい」。お父さんが死んでから、お母さんに無理をさせたのは分かってる。お父さんが死んだとき、仏壇の前に1人で佇んでるお母さんのちっさい背中を見たとき、「この人も不安でたまらないんだ」って私にも分かったもん。不安でたまらなくて、押しつぶされそうなくせに、いっつも笑ってたよね。もう無理はさせたくないんだけど、まだ一緒に居たいよ。小柄なくせに、ピンって伸びた背筋はお母さんの性格を物語ってた。たったひとりで、何十人もの悲しみとかを背負えるわけないじゃん。でもお母さん、意外と頑固だから私が言っても聞かないんでしょう。だから、感謝を伝えるために書いた手紙のはずなのに、いつの間にか 「まだ生きて」と、また重みになるような言葉かけてる。お母さんが欲しいのは、「頑張ったね」とか「お疲れ」っていうお父さんからの言葉かもしれない。でも私は、まだ未熟で子どもっぽいから分からない。「何で自ら死に向かって行こうとするの?」。まだお母さんの笑顔が見たいよ。                        〇〇より
 私は27年間、娘の前で泣きませんでした。女らしいとか捨てて、ただ強く生きようとしていました。今は確かに、夫からの褒め言葉を聞きたいですね。でも、1つ言えるのは、自ら死に向かっているのではなく、「死」を受け入れようと頑張っているんです。私も娘の笑顔はまだ見たいですが、過ごした時間は夫より娘のほうが18年も多いのです。そろそろ夫の声も忘れてきましたし、お迎えが欲しいところです。甘えん坊を置いて逝くのは、気が引けますが、あの子には支えてくれる夫が居るのです。きっと大丈夫ですよね?泣いても笑っても、実はもう少ししか、私には時間というものがありません。私の大好きな人と、大嫌いな人にも感謝です。私という人間を作り上げた全ての人に……。

今日のお話 −9月29日(木)−

   二宮尊徳の名言・格言

 親の養育を受けたことに報いるために子どもを養育し、

 先生から教えを受けたことに報いるために子弟を教え、

 人の世話を受けたことに報いるために人の世話をする。

 これが人道である。

ちょっといい話

   18日間、娘は良くがんばった 

 親と喧嘩をし、「出て行け」と言われ家を飛び出して6年。家を出て3年後に知り合った女性と結婚し、2年後に子どもができた。ものすごく嬉しかった。「母性愛がある」と同じように「父性愛がある」と気付いた。「子を愛さない親はいない」というのも知った。妻の検診の日は毎回産婦人科まで一緒に行った。初めて聞いた元気な心音に「父さんは、おまえのためにがんばる」と誓った。何もかもが順調だと思ってた。予定日の1ヶ月前に妻が破水をした。切迫流産の前兆だった。「妻も元気で何も問題なんてない」と思っていただけにビックリした。嫌な言葉、「八月子(やつきご)はもたない」が蘇った。詳しい検査をした時に、娘の心音に雑音が混ざっている事が分かった。母子ともに危険な状態になった為、緊急手術で帝王切開する事になった。
 よく晴れた10月に娘は生まれた。最初は小さく泣いたらしい。けど、自発呼吸ができなかったため、酸素供給するための管を通す事になった。その後の事は、よく覚えてない。どこからが現実で、どこまでが現実じゃないのか……。初めてNICUで見た娘の姿に、涙が出そうになった。娘にかけた最初の言葉が「生まれてきてくれて有難う」。初めて人前で泣いた。いろいろと医師から説明を受けた。「絶望」って眩しくも、真っ暗でもなかった。いつもの生活が、私と妻を追い立てた。娘は管から母乳も飲み、オムツも替えさせてもらい、名前も付けてやれたし、出生届も出してやれた。戸籍上も私の娘。可愛い。
 医師からの突然の電話。最初で最後、娘を抱っこしてあげれた。涙が出そうになった。
だけど泣かなかった。泣く必要は無いと自分に言い聞かせた。18日間、娘はよくがんばった。妻と2人で娘を荼毘に出し、小さな骨壷に骨拾いをした。やっと娘は父と母が住む家に帰ってこれた。

今日のお話 −9月28日(水)−

   二宮尊徳の名言・格言

 私の本願は、

 人々の心の田の荒廃を開拓していくことである。

 天から授けられた善の種である仁義礼智を栽培し、

 善の種を収穫して、各地に蒔き返して、

 日本全体にその善の種を蒔き広めることである。

ちょっといい話

   クソガキ 

 訳あって引き取り、育ててたかわいげ皆無なクソガキが、結構いい大学に受かった。正月に親戚が集まったとき、俺の嫌いなおばちゃんに「私たちのところで引き取ってたら、もっといいところに行けたかもね」って、そいつが言われてた。そもそも、そのおばちゃんは、「こいつを誰が引き取るか」っていう親族会議になったとき、「私は絶対イヤ」って本人の前で言いやがった。一番経済的な余裕があるのに……。それで俺が勢いで「じゃー俺、育てます」って言っちゃったんだけど……。
 俺はイライラしつつも、「ああそうなのかもな、俺がもっといい会社に就職したり、早く出世したりしてれば、こいつにもっといい環境を与えてやれただろうし、塾だって通わせてあげれたのにな」、「あぁ、俺、もしかして悪いことしちゃったのかな」って思ってた。そしたら、そのクソガキ、「今の自分があるのは○○(俺の名前)さんのおかげだし、俺がこんなとこに受かれたのも○○さんのおかげです」って、言ったんだよ。おばちゃん沈黙。そいつ、普段俺の名前に「さん」なんかつけないんだ。常に、えっらそーに俺を呼び捨てなんだ。なのに……。本当に死ぬほど嬉しかった。今まで生きてきた中で、一番嬉しかった。
 帰りの車で、俺すっごい浮かれてて、そのガキに「ありがと」って言ってやった。そしたら、クソガキが怪訝な表示した後、しばらくしてからマフラーに顔埋めて、そっぽを向いた。どうやらクソガキは、その自分がその言葉を言った時、俺が襖一枚向こうにいたのを知らなかったらしく、「ありがと」と言われたことに照れてるらしかった。すっげえかわいかった。
 実際に子どもいたら、こんな感じなのかなって思った。

みんなでGo!

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クラスで力を合わせてバトンをつなぎました。

玉入れ

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競技が再開しました。

スウェーデンリレー

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男子にスウェーデンリレーが終わりました。気温が上がってきているので、教室で休憩をとり、11時から玉入れを再開します。

スウェーデンリレー

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バトンをつなぎます。

200m走

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みんな一生懸命走っています。

走り高跳び

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男子は125cmに挑戦しています。

体育大会

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競技が始まりました。

体育大会の日程の変更について

別紙のように30分程度繰り上げた日程で、「みんなでGo!」を午前に変更して実施させていただきます。なお、時間は競技の進行の状況で前後することがあります。あらかじめご了承ください。

0927体育大会日程(変更)について

よろしくお願いいたします。

今日のお話 −9月27日(火)−

   二宮尊徳の名言・格言

 人々にはそれぞれ長所もあり、
 短所があるのは仕方がない。
 相手の長じているところを友として
 劣っているところは友としてはいけない。
 人の短所を捨て、長所を友とするのだ。

本日体育大会を実施します

本日の体育大会は実施します。なお、午後から降雨が予想されるので、以下のように対応します。

1 開会式から30分程度繰り上げます。開会式は9時に開始します。
2 午後の種目「みんなでGo!」を午前玉入れの後実施します。
3 雨に濡れる可能性があるので着替えの準備をお願いします。

ちょっといい話

   ばあちゃんのスイカ 

 昨年の夏に高知へ行った。夏真っ盛りで走ってても頭がクラクラするくらいの炎天下。
国道439号線の全線走破目指して2日目の午後、中村市に近いところまで辿り着いた。辺りには何もない川べりの道端にビーチパラソル立てて、1人の婆ちゃんがスイカとトマト売ってた。オレは水を張った樽の中に浮かんでるスイカとトマトに魅かれてバイクを停め、「おばあちゃん、ココで食べてもいいか」と聞いた。婆ちゃん、笑って椅子を出してくれ、小さなスイカを4つに切ってくれた。ほんのりと冷えていて、喉が渇いていたオレは2切れを一気に食った。「トマトも食うか」、そう薦められて歪な形の、それでも真っ赤に熟れたトマトを1つ頬張った。
 「なあ、ツトム」と婆ちゃんがオレに話しかけた。「今日は学校休みなんか」オレは食いかけのトマトを握り締めたまま婆ちゃんの顔を見た。ビーチパラソルの青い色の下で、婆ちゃんは優しそうに笑ってた。「そいともこれからか、学校は」、婆ちゃんがボケているのだと気づくまでに少し時間が必要だった。「そうだよ、今日はこれから学校なんだよ」そう答えると婆ちゃんは何度も何度も肯いて、「ツトムはちいこい頃からよく勉強しちょったなぁ」と笑った。「このオートバイはツトムんか」、「気いつけんといかんぜよ、バアちゃん、泣かさんちくれよ」、婆ちゃんはオレの返事などお構いなしに独りで話し続けた。
 高くて真っ青な空に、夏雲が飛んでいた。何にも音のしない本物の夏が、ただキラキラ輝いてた。トマトの濃厚な味を感じながら「ツトムって誰だろう」とオレは思った。「婆ちゃんの孫だろうか、それとも息子だろうか」。このトマトを食い終わるまでの間だけ、オレはツトムになった。
 今年もまた夏がやってくる。高知の西の川べりに、またあの婆ちゃんはスイカを売るのだろうか……。

今日のお話 −9月26日(月)−

   二宮尊徳の名言・格言

  貧となり富となる。
  偶然にあらず、
  富も因て来る処あり、
  貧も因て来る処あり。
  人皆貨財は富者の処に集まると思へども然らず。
  節約なる処と勉強する所に集まるなり。

ちょっといい話

   1人娘の結婚式

 1人娘の結婚式。
 俺が嫁と結婚したのと同じ歳。当時、俺25歳、嫁33歳、娘13歳。娘は嫁の連れ子だったんだけど、多少ギクシャクしながらも数年過ぎた。子どもはあえてつくらなかった。娘の気持ちを考えたら、「子どもは娘1人いればいい」って事になった。
 突然、嫁が交通事故で逝った。娘17の時。突然2人きりになり、2人とも呆然……。これからどうしようと思った。生活の面では収入も安定してたし、娘も家事の一通りはできた。何の問題もないはずだったけど、嫁側の親戚が騒ぎ立てた。血の繋がらない29の男と17の女。ある意味カップルでもおかしくない歳の差だもんな。でも、俺は「娘は、間違いなく俺の娘だ」と思ってた。何よりも、嫁のたった1人の忘れ形見だ。俺が育てていく以外の選択肢は全く頭になかった。娘も「今更こんな足の臭いオッサンと、どーにかなるか」と笑ってた。当たり前の様に言う娘の気持ちが嬉しかった。それで2人で暮らしてきた。再婚なんか考えた事もなかった。それくらい娘に「穏やかな、幸せな時間」を与えてもらってた。
 娘に話があると言われた。「結婚したい人がいる」と……。娘は25になってた。次の日曜に相手の男に会った。娘を見る目が優しかった。こいつなら大丈夫だと思った。安心した。諦めもついた。披露宴では、「お母さんが亡くなった時、本当にどうしようかと思った。お父さんはまだ若かったから……。私がいたら絶対に足枷になると思ってた。だから、『これからも一緒に暮らすのが当たり前』みたいな態度でいてくれたのが、本当に本当に嬉しかった。私のお父さんは、お父さんだけです。今まで本当にありがとう。お母さんが亡くなってからも、今までずっと幸せな子のままでいられたのは、お父さんがお父さんだったからです」と娘が、しゃくりあげながら読む花嫁からの手紙を聞いて、涙がどっと溢れた。
 大変だったけど、父親って立場、選んでよかった。嫁と結婚してよかった。娘の父親になってよかった。1人になって部屋は、何か広くなっちゃったけど……。微妙な抜け殻感は否めないけど。今度はいつか生まれて来る孫の為に頑張ってみようかな。
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