最新更新日:2024/06/17
本日:count up3
昨日:540
総数:1848219
ともに生きる

ちょっといい話

   お前は俺にとって、命よりも大切な友達だ

 お前は俺にとって、命よりも大切な友達だ。
 小学校2年の時、友達もいなかった俺の誕生日にチョロQをくれた。その当時の600円というのは、俺達にとって大金だった。とても嬉しかった。3年生の時、一緒にサッカークラブに入った。お前は上手で俺は下手だった。4年生の時、スイミングに入った。そこでもお前は大会に出れるようになったけど、俺は幼稚園児達と一緒に練習していた。5・6年生になって俺は野球クラブに入ったが、やはり下手で野球をやる時、最後にジャンケンで「いる」とか「いらない」とか言われてた。だけど、お前にけなされた覚えはない。こんなに差があるのに、友達でいてくれたお前を、俺は大好きだった。中学校に入学してからも、ほとんど一緒に登校したし、部活のない日は一緒に帰った。
 昨日の通夜は、行かなかった。家でタオルを咥えてこの文を書いてたよ。「朝、遅刻をすると内申書によくない」と言って一緒に走った。お前はよく遅れて来たよな。今でも後ろを振り向くと、後ろから走ってくる気がする。お前の声が聞こえてきそうな気がする。今、お前をこうして見ていると、「冗談だ」と言って、笑いながら起きてきそうな気がする。起きてきて欲しい。数えきれない程の人達が、こんなにも悲しんでいる。俺が、テストでよい点を取った時は褒めてくれた。俺が、悪口言われている時は庇ってくれた。お前は自慢しなかったけど、これだけ沢山の友達がいることは自慢した方がいい。よく「喧嘩する程仲がよい」って言うけど、あれは違う。俺とお前は、喧嘩した事がないからだ。 
 時々遊びに来いよ。夢でも、幽霊でもいいから、盆と正月には必ず来いよ。俺が死ななきゃならない時は、三途の川まで絶対来いよ。今度話す時、お前は天国、俺はプロ野球の話をしよう。最後にもう1度言うけど、お前は俺にとって命より大切な友達だ。いつまでも友達でいよう。

今日のお話 −11月8日(火)−

   高杉晋作の名言・格言

  先が短いなら短いなりに
  僕は面白う生きたい。
  派手な打ち上げ花火を打ち上げて、
  消えていく……。
  それが高杉晋作の生き方ですき。

オミクロン株対応2価ワクチンに関する リーフレットの周知について

 愛知県教育委員会から「新型コロナワクチンのオミクロン株対応2価ワクチンに関する
リーフレットの周知」の依頼がありました。

 ホームページにリーフレットを掲載しますので、ご一読いただけるとありがたいです。よろしくお願いします。

 リーフレットはこちらです。

 https://www2.schoolweb.ne.jp/weblog/system/file...

ちょっといい話

   今から、嫁と子供連れて嫁の墓参りに……

 親友Aの嫁さんが先日交通事故で死んだ。
 Aの嫁さんは、当時学生のAと知り合ったときは既婚者で、無職の夫の暴力に耐えながら週7日休みなく仕事していた。Aは、嫁さんの相談にのっていて、そのうち「あの人を好きになった」と言って、付き合い始めた。やがて嫁さんは、弁護士をたてて無事離婚、Aと結婚を前提とした付き合いはじめた。ところがAの実家が、結婚に猛反対。Aは県内では有名な資産家の長男、嫁さんは貧乏育ちで片親、外国人とのハーフ、そしてバツイチ……。Aは大学を辞め(学費を親が払っていたため)、嫁さんと結婚した。
 2年後には子どもが生まれて、その子どもが歩き出した頃、俺を含むAの学生時代の友達を交えて遊んでいて、嫁さんが交通事故にあった。漫画みたいな話で、道路の真ん中にヨチヨチと歩いていった子どもをAが追いかけたところに、トラックが猛スピードでやってきて、それを嫁さんがかばう形だった。当たり前だけど即死。嫁さんはAが大好きで、いつもニコニコしてAにくっついていた。会うといつも幸せそうだったし、2人が喧嘩した話なんて聞いたことがなかったくらい。Aも嫁さんを愛してた。
 最近電話で、「今ヒマやったらどっか行かへんか」と誘った。Aは「今から、嫁と子ども連れて嫁の墓参りに……」と言って、「ああごめん。子ども連れて墓参りやった」と……。事故から1年とちょっとしか経ってないんで、まだ受け入れられないんだなと思った。家に遊びに行ったとき、嫁さんの写真を見ながらポツンとしていたAの小さな背中が忘れられない。

今日のお話 −11月7日(月)−

   高杉晋作の名言・格言

 「朝に人としての道を悟ることができれば、
 その晩に死んでも悔いはない」
 という事こそが人の道である。
 人としての努力をすることもなく、
 ただ死に向かうのは人の道ではない。

ちょっといい話

ごめんな、俺、助けてやれなかった 674  済

 友達が自殺した。理由は「いじめ」。俺は気付いてた。友達がいじめられてたことには気づいてた。でも、自殺なんてするとは思っていなかった。ショックだった。俺だって、アイツをいじめたようなもんだから、何も言えなかった。ただ、ずっと後悔するしかなかった。そしたら、ある日友達の母親に呼ばれた。「貴方は息子がいじめられたの知ってたの」と聞かれて、「はい」と答えた。「怒られるかな」と思った。でもなぜか、友達の母親は何も言わずに手紙を差し出してきた。
 ○○へ。こんな形で別れてしまってごめん。いじめられていた間のことについては、かなり怒ってる。でも、誰だってああしたくなるよな。だから、後悔するなよ。俺のこと、お前がかばったらお前までいじめられるだろ。だからこれでよかったんだ。お前は、俺みたいにはなるなよ。俺はもう死ぬけど、お前には生きていてほしい。男同士で気持ち悪いかもしれねえけど、何だかんだで俺はお前のこと好きだったからさ。まあ、とにかく、俺はお前のコトは恨んでねえから。じゃあな。
 死ぬ前に書かれたであろう手紙は、所々濡れていて文字がぼやけていた。アイツが、どんな気持ちでこれを書いたのかは分からない。でも、「もう2度と会えないんだな」、「笑ってくれないんだ」って思いがこみ上げてきて、思い切り泣いた。
 そしたら、アイツの母親が「私ね、あの子がいじめられてること知らなかったのよ。だって、あの子ったら、家でもあなたの話ばかりしてるのよ。でも、それも嘘だったのね。
気付いてあげられなかった私も悪いから、私に貴方をしかる権利はない。でも、息子の友達になってくれてありがとう」と言って泣き出すんだよ。あの時の気持ちは、今でも忘れない。
 「ごめんな、俺、助けてやれなかった。これからは、お前の分もしっかり生きるよ」。今俺は、スクールカウンセラーとして働いています。

今日のお話 −11月4日(金)−

   高杉晋作の名言・格言

 どんな事でも周到に考えぬいた末に行動し、
 困らぬようにしておく。
 それでもなおかつ、窮地におちた場合でも
 「困った」とは言わない。
 困ったと言ったとたん、
 人間は知恵も分別も出ないようになってしまう。

ちょっといい話

   小児がんだった息子の願い 

 歳の離れた弟は体が弱く、小さい頃から何回も入院を繰り返していて、見舞いにいくことがよくありました。同じ病室には小児がんでずっと入院している子が何人かいて、特別人懐っこいA君と僕は弟と同じくらい可愛がっていました。A君は病室から出たことがなく、A君のご両親曰く、病状も思わしくない状況が続いているとのことでした。それでもご両親も、A君も、いつもとっても明るいんです。しかし、ある時期を境に、A君の病状は僕の目から見てもわかるくらいに悪化していきました。それでも病室ではA君のご両親はいつも通りに明るく振る舞い、A君も調子が悪い中でも笑顔を絶やしていませんでした。「本当に強い家族だな…」と驚いたものですが、見舞いに行った帰りのタクシー乗り場で、A君のご両親が泣いているのを見て、僕は胸が締め付けられる思いでした。またその後、A君がベテランの看護師さんに「僕は、あとどのくらい生きられるの?」と聞いているのを聞いてしまった僕は、A君家族が病室で無理をしてでも明るく振舞っていることに気づき、涙が止まらなくなりました。それから数週間して、A君のがんはさらに重くなったようで、重症患者の病棟に移りました。その後、A君が亡くなったことをA君のご両親から聞かされました。
 大人でもその副作用に苦しむくらいですから、子どもにとっての抗がん剤治療はとても苦しいものです。A君のご両親は、「これを打てばよくなるから」と言ってA君を励まし、A君はそれを信じ、我慢して注射を打ち続けたそうです。最期、息を引き取る直前のA君は、消え入りそうな声で「注射…打って…」と懇願したというのです。「注射を打てば、よくなる」、ご両親の言葉を信じ、何度も何度も痛みに耐えて注射を打って来たA君は「また注射を打てば、自分はまだ生きられるんだ」と思って、「注射を打って欲しい」と何度も何度もご両親に頼みこんでいたそうです。「その姿が今でも目に焼き付いて離れない…」と、ご両親は目を真っ赤にして話してくれました。
 僕はA君とご両親のことは一生忘れないでしょう。

今日のお話 −11月2日(水)−

   高杉晋作の名言・格言

 シャクトリムシのように身を屈するのも

 いずれは龍のように伸びるためだ。

 そのためには奴隷になっても、

 下僕になっても構わない。

ちょっといい話

 ICUで僕を支えてくれたもの

 高校3年生の時、バイクで学校に向かっていて、いつもの交差点に来たときのこと。突然クラクションが鳴り響き、驚いて横を見ると、すぐ近くに大型のワゴン車が迫っていたのです。その瞬間、スローモーションになったのを今でも覚えています。「どうすればぶつからないだろうか」と考える時間はたくさんありましたが、時間としては一瞬の出来事だったようで、気づいたら体がフェンスに激突していました。すると、周りの人たちが「動かないで!」と騒ぎ始め、すぐ近くの病院に運ばれました。検査したところ、足と肩甲骨、肋骨の骨折の他に、肺が潰れていることがわかりました。緊急手術をすることになり、手術後にICUに運ばれました。両親は「助かるどうかはわかりません。命は取り留めたとしても、植物人間になる可能性もあります」と説明を受けたようです。
 ICUは無菌状態になっているため、基本的には面会はできません。そんな中で僕は過酷な治療に耐えなければいけなくなりました。24時間続く地獄のような治療に僕は心が折れかけていました。そんな孤独なICUで僕を支えてくれたのは、友達の存在でした。ICUの病室の扉には、小さな窓がついていて、その窓からたくさんの友達が僕を励ましに来てくれたのです。もちろん会話をすることはできませんでしたが、友達は筆談や、変顔で僕をたくさん笑わせてくれました。友達が来てくれている間だけは不思議と、痛みと苦しさを忘れることができました。
 後から聞いたのですが、実は僕の両親が僕が死の危険があることを告げられてから、たくさんの僕の友達に「もしかしたら最期かもしれないから、会いに来てあげてほしい」と言ってくれて、それで本当に毎日多くの友達がきてくれたそうです。
 「まず助からない」とまで言われた大怪我でしたが、気持ちが負けなかったおかげで、僕は今も生きています。高3の受験を控えた時期だったのにも関わらず、僕をはげましてくれた友達と、呼びかけてくれた両親には感謝してもしきれません。周りの人の温かさのおかげで起きた奇跡を、今後もずっと忘れずに生きていきたいです。

今日のお話 −11月1日(火)−

   高杉晋作の名言・格言

 人間、窮地におちいるのはよい。

 意外な方角に活路が見出せるからだ。

 しかし、死地におちいれば、それでおしまいだ。

 だから、おれは困ったの一言は吐かない。

ちょっといい話

   愛する妻と抱くことのできなかった我が子

 私の話で命の誕生というのがどれほど尊いものなのか、奇跡であるのかを感じてほしい。そして愛する妻と、愛する子どもをお持ちのお父さんは、今を「当たり前」だと思わないでほしい。私たち夫婦をおそった話を伝えることで、胸に何か響くものがあればいいと思っています。
 私たち夫婦は、結婚10年目を迎えて、ようやく待望の赤ちゃんを授かることができました。エコーに写る小さな小さな我が子に、2人で感動して涙を流したのを覚えています。「この子を大切に大切に育てよう」と、2人が親になる決心をしたのもこの頃です。妊娠中の生活は気を付けなければならないことが多く大変でした。毎日の食事面や生活面で常にお腹の子を気遣いながらの生活は、緊張感がありながらもどこかワクワクした気持ちがあって全く苦ではありませんでした。妊娠5ヶ月を過ぎて、妻のお腹がちょっとずつ大きくなるにつれて、自分が親になる実感もわいてきました。
 大きなトラブルもないまま10ヶ月が過ぎました。あの日もいつものように、笑顔で妻は健診に向かいました。もしかしたらもう産まれてくるんじゃないかと思い、ソワソワして妻の帰りを待っていました。ですが、もう妻が帰ってくることはありませんでした。この手で抱くことを10ヶ月間待ちわびた我が子にも、1度も会うことができませんでした。死因は、常位胎盤早期剥離でした。妻も大量出血により死亡しました。原因は、はっきりとはわかっていませんが、高齢出産や高血圧などの人に比較的多いとされているようです。妻は基礎疾患もなく、高血圧や糖尿にも人一倍気をつけていました。常位胎盤早期剥離は通常のエコーでも気づきにくく、早期発見は難しいそうです。
 これから家族3人になる予定だったのに、気づいたら家には私1人取り残されていました。新しく迎え入れるはずだった我が子のために用意した服やおむつ、ベッドを見るたびに涙が溢れ、胸を締め付けられます。「なんで妻が、何でうちの子が……」と、何度も自分自身に問いかけました。けれどこれは誰が悪いんじゃない。誰しもが起こりうることです。たまたま私の妻が、私の我が子が常位胎盤早期剥離によってこの世を去ってしまった。
 これから出産を控えている人にとっては不安になるかもしれません。最後まで、決して油断せずに元気な赤ちゃんを産んでください。そして無事に生まれたことは決して当たり前なんかじゃない。命の誕生は奇跡なんです。そのことを忘れずに大切に大切に育ててあげてください。

今日のお話 −10月31日(月)−

   高杉晋作の名言・格言

 おもしろきこともなき世をおもしろく

□ プロフィール
 長州藩士高杉晋作は吉田松陰が主宰していた松下村塾に学び、大きな影響を受けました。尊皇攘夷に傾倒し、1862年イギリス公使館焼き討ちを実行するなど過激な行動で長州藩に手を焼かせます。しかし、長州藩が外国船砲撃などで欧米諸国、幕府、朝廷の全てを敵に回してしまった時、それを救ったのは高杉晋作でした。身分に関わらず参加することのできる最強部隊、奇兵隊を結成。また長州藩代表として英・仏・蘭・米の四カ国連合軍との和議交渉をまとめました。功山寺にて挙兵し、揺れる長州藩内の意見を倒幕へと統一。そして薩長同盟を経て、第二次長州征伐では高杉が海軍総督を務め幕府に勝利しました。ところが、その時高杉はすでに肺結核に冒されており、療養の甲斐無く1867年に病没。29歳。

ちょっといい話

   父の視線

 俺の父は、俺が6歳の時に死んでしまった。ガンだった。確か年齢は34歳で亡くなったと思う。自分がまだ6歳と幼かったこともあり、父の記憶はあまりなかった。だから父のイメージは、怖いという印象しかなかった。
 父の記憶といえば、1つだけ鮮明に残っているものがあった。それはラーメン屋の中での思い出だった。父はラーメンの大盛りを1つだけ頼み、取り分け皿に俺の分のラーメンを入れてくれた。食べるのに時間がかかった。一生懸命食べたとは思うが、時間がかかった。ふと見ると、父が俺のことを見ていた。じっと見つめていた。「早く食え」と急かされているようで、少し怖かった。ちらちら父の視線を盗み見たが、父はいつまでたっても俺を睨んでいた。「何でそんなに睨むんや…」と思ったが、父の表情が何となく怖くて……、それが数少ない父の記憶だった。
 そんな俺も母に女手一つで育てられ、30になったころ結婚もし、男の子を授かった。とてもかわいく、「目の中に入れても痛くない」とはこのことかと初めて知った。先日、息子も幼稚園に入る歳になった。先週、息子を連れて2人で出かけた。昼飯時になり腹が減ったので、「何が食べたい」と尋ねたら、息子は「スパゲティが食べたい」と言った。息子はまだ食が細いのでスパゲッティの大盛りを頼み、2人でシェアして食べた。息子は一生懸命食べていた。俺は、頑張って食べている息子がとても愛おしく、ずっと眺めていた。そんな俺の視線に気づいたのか、息子はちらちらと俺の方を見ていた。普段あまり会話もない俺と息子だが、俺は息子がとても愛おしく思えた。気が付けば、いつまでも見つめていたいと感じていた。あの時の親父の視線の意味が、今になってようやく理解できた。

 父さん、ありがとう。

今日のお話 −10月28日(金)−

   勝海舟の名言・格言

  事を成し遂げる者は、

  愚直でなければならぬ。

  才走ってはうまくいかない。

ちょっといい話

   誓った双子 

 私には双子の妹がいます。名前はあやか。両親もたまに間違えるほどそっくりでした。でも性格は全く違って、あやかはとても活発で明るい性格でした。一方私は、ネガティブで、体を動かすことがあまり好きなほうではありませんでした。でもあやかと一緒ならどこへ行くのも、何をするのもとても楽しかった。私はそんなあやかに憧れていました。
 そんな彼女を病魔が襲いました。乳がんでした。発見されたときには、既に末期状態で、余命1ヶ月と宣告されました。あやかは、「まだ1ヶ月あるやん。あと1ヶ月、何しようかな。どっか旅行いかへん?くよくよしてる時間がもったいないわ」と言って旅行の計画を立て始めました。「あやかがこんなに前向きに頑張っているんだから、最期まで楽しい思い出いっぱい作ってあげよう」と私は心に決めました。北は北海道、南は沖縄まで、あやかの行きたい所にたくさん行きました。毎日あやかの笑顔を見ていると、本当にガンは消えてなくなるんじゃないかと思えてきました。
 でも現実はそう甘くはありませんでした。急に状態が悪化し、そのまま入院。私は「このままあやかがいなくなったらどうしよう」と、そんなことばっかり考えて泣いていました。するとあやかが「なあ、私ら双子やからわかんねん。お姉ちゃんが笑えば、私が笑っているのと一緒やで。だからな、約束してや。最期までずっと笑顔でおろ。みんなにあやかとお姉ちゃんの笑顔見せたろ」。
 その日から、私は涙を封印しました。あやかのために、あやかを支えてくれている人のために常に笑顔でいると2人で約束しました。あやかは29歳という若さでこの世を去りました。常に笑顔でいると約束したはずなのに、あやかを想うと涙が止まりません。ふと空を見上げると、「お姉ちゃん、笑顔やで」と、怒ってくるあやかの声が今でも聞こえてきそうです。2人で行ったたくさんの旅行の写真を見ながら、あやかの笑顔を常に思い出します。最期まで、そして、これからも笑顔で……。

今日のお話 −10月27日(木)−

   勝海舟の名言・格言

  人には余裕というものが無くては、

  とても大事はできないよ。

学校評価アンケートの結果について

学校評価アンケート(前期)の結果についてアップいたしました。
以下のリンクよりご確認ください。


https://www2.schoolweb.ne.jp/weblog/system/file...

ちょっといい話

   小旅行、地図もお金も何も持たずに…… 

 夏休みに自転車でどこまで行けるかと小旅行。計画も、地図も、お金も、何も持たずに。国道をただひたすら進んで行った。。途中大きな下り坂があって、自転車はひとりでに進む。ペダルを漕がなくても、何もしなくても……。ただ、ただ気持ちよかった。自分は今、世界一早いんじゃないかと思った。子ども心に凄く遠い所まで来た事を知り、一同感動。滝のような汗と青空のもとでの笑顔。しかし、帰り道がわからず、途方にくれる。不安になる。怖くなる。イライラする。当然けんかに。「泣いてね〜よ」と、全員赤い鼻して、目を腫らして強がってこぼした涙。交番で道を聞いて帰った頃には、もう晩ご飯の時間も過ぎてるわ、親には叱られるわ、蚊に刺されるわ、自転車は汚れるわ……。でも、次の日には全員復活。瞬時に楽しい思い出になってしまう。絵日記の1ページになっていた。
 大人になってあの大きな下り坂を、電車の窓から見下ろす。家から電車でたかだか10個目くらい。子どもの頃感じたほど、大きくも長くもない下り坂。でも、あの時はこの坂は果てしなく長く、大きかった。永遠だと思えるほどに……。今もあの坂を自転車で滑り落ちる子ども達がいる。楽しそうに嬌声を上げながら。彼らもいつの日にか思うのだろうか。
 今、大人になってどれだけお金や時間を使って遊んでも、あの大きな坂を下っていた時の楽しさは、もう2度とは味わえないと……。もう2度と、友達と笑いながらあの坂を、自転車で下る事はないだろうと……。あんなにバカで、下らなくて、無鉄砲で、楽しかった事はもう2度とないだろうと……。

今日のお話 −10月26日(水)−

   勝海舟の名言・格言

  生死を度外視する決心が固まれば、

  目前の勢いをとらえることができる。

  難局に必要なことはこの決心だけだ。
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
学校行事
3/16 5時間授業
3/20 小学校卒業式
3/21 春分の日

お知らせ

緊急のお知らせ

1年生学年通信

2年生学年通信

3年生学年通信

犬山市立城東中学校
〒484-0094
住所:愛知県犬山市大字塔野地字田口洞39番地の101
TEL:0568-61-0501
FAX:0568-63-0270