ともに生きる

今日のお話 ー12月7日(水)ー

   大久保利通の名言・格言

 失敗に落胆しなさるな。
 失敗に打ち勝たなければならぬ。
 度々失敗すると
 それで此大切なる経験を得る。
 其経験に依って以て
 成功をきさなければならぬのである。

ちょっといい話

   そのあと抱きしめてね

 あなたが天国に足早に旅立って、もう12年ですね。2歳だった娘、0歳だった息子ももう中学生です。あの時からずっと自分を責めてます。「何かできたんじゃないか、あぁすれば、まだあなたは生きていたんじゃないか」とか……。あなたの家族に「私達なら救えたのに」と言われました。「なぜ私だけがこんなに苦しまなきゃいけないのか」、ズタボロでしたよ。追いかけていこうと何度も何度も考えました。けど子どもたちは、いつも笑顔で私を必要としてくれました。無我夢中で過ごしてきた12年。悲しむことより怒りですね。「夫婦揃ってる人たちを見た時、子どもの体調不良で不安のとき、子育てで悩んだ時」、あなたがいてくれたらって何回、何百回と考えたか。置いていきやがって、……アホ。「ママが元気でいてくれれば、私はいいです」と、10歳の時に手紙に書いてくれたんだよ、娘が。「子どもたちなりにも色々あっただろうよ、感じただろうよ、言われただろうよ」、けど、何一つ言わず、「パパいないけど、うちは幸せだよね」って、2人して言ってくれるよ。何度も何度も。こんなよい子たち残して、なに先走ったのよ。私はこの子たちを、私の人生をかけて幸せにする。あなたの分も……。
 だから、そちらで精一杯見守るんだぞ。2人を私に授けてくれてありがとう。私と出会って、私を選んでくれてありがとう。支えきれなくてごめんね。私がそちらにいったら、まずパンチな。そのあと抱きしめてね。

今日のお話 ー12月6日(火)ー

   大久保利通の名言・格言

 目的を達成する為には

 人間対人間のうじうじした関係に

 沈みこんでいたら物事は進まない。

 そういうものを振り切って、前に進む

ちょっといい話

   空 

 「空に憧れて、空を駆けてゆく あの子の命は、飛行機雲」

 その通りでした。小さい頃から、「僕、ぜーったいパイロットになるからね」と言っていたあの子。先月、あの子の飛行機雲のように短い命が消えました。小さい頃から「パパみたいになるんだー」と言っていた息子。「ママみたいになる」とは言ってくれないのね……。最愛の息子を、癌で亡くしました。
 私は情けない母でしたね。麻痺してしまってよく動かない手で、私があげた日記帳に、「ママ、さいきん笑ってない。ぼくのせいかな。ぼくが心ぱいかけるからかな。早くたいいんして、ママに笑ってもらう」と綴っていました。それを読んだ瞬間、息子の前で、笑わないどころか泣いてしまいました。「ごめんね、ごめんね。」と頭を押さえて泣く私の髪の毛を、「ママ、泣かないで?」と言いながら撫でてくれました。 本当、パパに似て優しい子です。自分より、他人の心配をするなんて……。不安なのに笑顔しか見せなかった。もっと甘えていいのに……。最期は、仕事で中々会えない夫も来てくれました。私は、掠れた声で何か伝えようとする息子の声を聞き取ろうと必死でした。すると夫は、「作ってきたよ。」と言って息子に何かを差し出しました。紙飛行機でした。息子は嬉しそうにそれを受け取り、「やっとお空、飛べるね」と言って、静かに息を引き取りました。私は、涙が溢れて止まりませんでした。息子の部屋を掃除していて見つけた、あのノート。続きが書かれているみたいでした。読んでみると、「パパみたいにお空をとびたいな。パイロットになれたら、ママとも一しょにおしごとする」。私は、息子の癌が見つかる前、キャビンアテンダントとして働いていました。息子はそれを知っていたんです。それを読んで、私は仕事に復帰しました。
 ねぇ、空?聞こえてますか?貴方は世界一のパイロットとして、その小さな命が燃え尽きるまで生き抜いた。ママも、空みたいな人になれる様に頑張ります。

今日のお話 ー12月5日(月)ー

   大久保利通の名言・格言

 ようやく戦乱も収まって平和になった。よって維新の精神を貫徹することにするが、それには30年の時期が要る。
 それを仮に3分割すると、
 明治元年から10年までの第1期は戦乱が多く創業の時期であった。
 明治11年から20年までの第2期は内治を整え、民産を興す即ち建設の時期で、私はこの時まで内務の職に尽くしたい。
 明治21年から30年までの第3期は後進の賢者に譲り、発展を待つ時期だ

□ プロフィール
 明治維新の指導者。島津久光のもとで公武合体運動を推進。やがて討幕へと転じ、薩長連合を成立させる一方、岩倉具視らと結んで慶応3年12月、王政復古のクーデターを敢行。版籍奉還や廃藩置県を推進し、新政府の基礎を固める。参議、大蔵卿を経て明治4年特命全権副使として岩倉遣外使節団に随行。帰国後、内政整備を主張し、征韓派参議を下野させるとともに、参議兼内務卿となり、政権を掌握。地租改正、殖産興業の推進など、重要施策を実行した。西南戦争に至るまでの各地の士族反乱を鎮圧するも、11年士族に暗殺される。

ちょっといい話

   お母さんからあなたへ 

 自分が多少つらくても、腰痛くても頭痛くても、子どもが元気にしてくれてるのがすごく嬉しいの。元気そうな子どもの姿見たり、声聞いてるとね、本当に嬉しいの。別に感謝してくれたり、無理に気にかけてくれたりしなくていいの。苦労して育てた自分の子ども
が、自分の足で立って人生歩んでくれることが、何より嬉しい。
 悩んでる、行き詰ってる子どもを見るのは本当につらい。何とかしてあげたい、どうにかしてあげたいんだけど、私じゃ何もしてあげられない。余計な口出ししちゃって、後悔する事もある。アナタにはアナタの考えがちゃんとあるのにね。でも、見守るだけしかできないのはつらい。苦しんでる姿見ると、心が張り裂けそうになる。親なのに、何でこんなにも、何もしてあげられないんだろうって、情けなくなるよ。
 今楽しいアナタへ。アナタが楽しく生きているという事実が、お母さんの生きがいです。
 今苦しいアナタへ。何もしてあげられなくてご免なさい。頼りなくて本当にごめんなさい。でも、つらくても生き抜いてください。お願いだから、自暴自棄になったり、自分を卑下したりしないでください。生きる場所は必ずあります。生きる道は必ずあります。アナタが、もがいて、もがいて。そこに辿り着くことを毎日祈っています。私にできることが何かあるなら、どうか言ってください。誇大表現でも何でもありません。アナタが強く生きてくれることが、お母さんは自分の命よりも大事です。

今日のお話 ー12月2日(金)ー

   西郷隆盛の名言・格言(3編)

 □ 人を責めるが如く、自己を責めよ

 □ 断じて行えば鬼神もこれを避ける

 □ 徳に勤むる者は、これを求めずして、財自から生ず


ちょっといい話

   俺の皿には冷めた料理がのっていた 

 すぐに再就職できると思っていたが、なかなか見つからず、仕方なく親戚が支配人をやっているファミレスに3ヶ月ほどバイトすることになった。その時、たくさんの家族連れやカップルを見てきたが、子どもの世話って、どの家族連れも母親がするもんなんだな。温かい食事を持っていっても、嫁さんは子どもに食べさせたりして、温かかった皿はどんどん冷めていく。逆に旦那は、子どもが何をしようが、嫁さんの飯が冷めようがお構いなしに自分の分を平らげていく。旦那が食べ終わると、子どもの世話をする人もいれば、そのまま新聞なんかを読み出す人もいる。どっちにせよ、温かい食事を食べる嫁さんというのは結構少ない。多分、家でもこうなんだろうな……。もし、俺に子どもが生まれて外食する時は、「俺も面倒みてやろう、嫁さんに温かい食事を食べさせてやろう」と思った。  
 それからしばらくして、待遇のよい会社へ再就職した。そして子どもにも恵まれた。
 ファミレスに食べにいった時、子どもの世話をする嫁さんとその皿を見てふと思い出した。「あぁ、俺、あの時の旦那と同じことしてるな」と。「俺が面倒みるから、お前、先に食えよ」と言うと、嫁さんは驚いた顔をした。家でも滅多に子どもの面倒をみることもないから。嫁さんは「悪いから」と言ったが、「いいから、ほら」と、嫁の手から娘用のスプーンを取り、娘に食べさせた。嫁は小さく「ありがとう」と言い、温かい食事を食べ始めた。嫁はいつもより早口で食事をし、俺と交替した。俺の手からスプーンを受け取る時、「ありがとう、本当にありがとうね」と、涙ぐんでいた。
 俺の皿には冷めた料理がのっていたが、それでも美味く感じた。

今日のお話 ー12月1日(木)ー

   西郷隆盛の名言・格言

 道は天地自然の未知なる故、

 講学の道は敬天愛人を目的とし、

 身を修する克己をもって終始せよ。

 己に勝つ極功は

 「意なし、必なし、固なし、我なし」と云えり。

◇ 論語より:意は、独断。必は、無理強い。固は、執着。我は、我欲)

ちょっといい話

   大丈夫、大丈夫だからね

 抗がん剤も効果なく「これ以上の治療は、ただ体力を削るだけだ」と医者から宣告され、穏やかに過ごすために、母は私の働く病院に入院しました。
 夜勤に入る前に早めに行って、いつも通り話をしてると、「あんたがいてくれてよかった」と急に言われた。徐々に弱って、胸水が溜まり始めてたから不安に思ったけど、とりとめのない話を続けてる内に夜勤も終了。
 仕事が終わった途端、急に母が苦しみだした。「どうにかして……」と、すがるように母が私を見た。不安にさせないように笑顔で居ることが私の役割。いつも通り「大丈夫」って擦ってあげればよかった。でも、私は動くことができず、何とか笑おうとしても、どうしても顔が引きつってしまい、涙がこぼれた。「泣いたらだめだ」と思い、母から顔を逸らした。そのとき母は、ぐっと手首を掴み「大丈夫、大丈夫だからね」と言った。目の焦点さえも、私にあわせられていないのに……。手首を掴む手も、力強い声も、昔の強いお母さんでした。それ以降、母は苦しいとも辛いとも言わずに、2時間後に亡くなりました。
 「大丈夫」、それは私が言ってあげなければならない言葉だったのに。私は看護師失格で、母から「キツイ」「苦しい」の言葉を奪ってしまった。でも最後に子どもでいられた。どんなに子どもが大人になろうとも、経験を積んで立派になろうとも、母親には敵わないと思った。

今日のお話 ー11月30日(水)ー

   西郷隆盛の名言・格言

 世のすべての人からけなされても落ち込まず、

 すべての人から褒められてもうぬぼれるな。

ちょっといい話

   その紙には数字の羅列が書いてありました

 ポケベルが流行していた時、私の父親もポケベルを持っていたんだけど、私がいくら説明してもうまく操作できなかった。
 父親はその時から癌におかされていていて、父親が死んだ時、病室の引き出しから1枚の紙が出てきた。おばあちゃんやお母さんはその紙を見て「何だろうね、これ?」と言って私に見せてくれました。その紙には数字の羅列が書いてありました。私は一見しただけでそれがポケベルで使われる数字を使った文章だとわかりました。涙が出てきました。
 「お父さんもがんばるから、おまえたちもがんばれ」と書いてありました。

今日のお話 ー11月29日(火)ー

   西郷隆盛の名言・格言

 文明というのは、
 道理にかなったことが広く行われることを
 褒め称えていう言葉であって、
 宮殿が荘厳であるとか、
 衣服がきらびやかだとかといった、
 外観の華やかさをいうものではない。

ちょっといい話

   あの酒は親父と一緒に呑みたいから 

 6年前に亡くなった親父。決してよい父親じゃなかった。嫌な事があると酒を飲んでは暴れ、母親にあたってばかりいた親父。思春期の頃から大っ嫌いだった。でもそれが、自分も大人になり、いつの間にか小さくなった親父の背中を見た時、ふと親父も辛かったのかなと思えた。寒くなり始めた頃、次の正月には一緒に酒を呑もうと思って話をした。めっきり酒に弱くなっていた親父。一度も一緒に呑んだ事がなかったから。なのに……、何でその1週間後に逝くんだよ。何で急に逝くんだよ。建てた家も産まれたばかりの孫も、まだ見てもらってなかったじゃないか。
 安置所で顔を見た時は信じられなかった。棺の中で眠る顔を見た時、幼い頃に遊んで貰った記憶ばかりが甦ってきた。涙が止まらなかった。嗚咽が出るのを堪えられなかった。母親に聞いたよ。渡した孫の写真を毎日見ては、何度も「俺に似てる」って嬉しそうに話してたらしいな。孫を抱いてもらえなくてごめんな。酒を注いでやれなくてごめんな。親不孝ばかりしてごめんな。あと何年後、いや何十年後かもしれないけど、俺がそっちに逝ったら一緒に呑んでくれるか、その時まで、そっちでも呑みすぎてまた体壊したりするなよ。親父が好きで呑んでた銘柄は、今でも呑んでないよ。あの酒は親父と一緒に呑みたいから……

今日のお話 ー11月28日(月)ー

   西郷隆盛の名言・格言

  物事を成そうとの意気込みを
  広く持つ者にとって、
  もっとも憂えるべきことは、
  自分のことをのみはかり、
  けちで低俗な生活に安んじ、
  昔の人を手本として、
  自分からそうなろうと
  修業をしようとしないことだ。

ちょっといい話

   別に泣く事なんか何も無いよなぁ、親父

 「1年前、親父が死んだ」という話で、泣いたというのはよくあるが、俺は泣かなかった。
 俺は北海道で漁師をやってる。ガキの頃から親の手伝いをして、骨の髄まで漁師仕事は叩き込まれた。すげー厳しい親父だった。どんくらい厳しいかって、もう漫画の世界。ゲンコツなんて毎日のように食らってた。そのゲンコツのお陰で今も美味いメシ食わして貰ってる。その親父は、6年前の冬に胃癌で死んだ。やつれて別人みたいだったけど、中身は厳しいまんまだった。苦しいだろうに弱音のひとつも吐かねーの。
 遺言は「船は任せたからな」だった。親父が死んだってのを実感したのは船の上。仕事始める時の馬鹿でかい掛け声が聞こえなくて、「あぁ、いないんだな」って思った。代わりに自分で叫んでみたら、思いの外気持ちよくて今まで損してた気分だった。
 俺は今漁師をやってる。別に泣く事なんか何も無いよなぁ……、親父。

今日のお話 ー11月25日(金)ー

   西郷隆盛の名言・格言

 過ちを改めるには、
 自分が間違いを犯したと自覚すれば、
 それでよい。
 そのことをさっぱり思いすてて、
 ただちに一歩を踏み出すことが大事である。
 過ちを犯したことを悔やんで、
 あれこれと取りつくろおうと心配するのは、
 たとえば茶碗を割って、
 そのかけらを集めて合わせてみるようなもので、
 何の役にも立たぬことである。

ちょっといい話

   黙って撫でていた 

 両親は、仲が悪いのだと思っていた。冷たく見えるぐらい素っ気なかったから。両親の兄弟姉妹などから、幼なじみで大恋愛だったとか、周りの反対を押しきって結婚したんだとか聞かされても、到底信じられなかった。
 母が子宮癌で手術を受けた。手術の終わる時刻を見計らって病院へ行くと、父が母のベッドの傍に座り、好きな歴史小説を読んでいた。麻酔から覚醒したのか、母が痛い痛いと呻きだした。父は即座に小説を閉じ、母の右手を両手で包み込んだ。「ユミ、大丈夫だよ、ユミ……」、まだ意識が戻りきっていないながらも、父の声に母が反応して答えた。「タカちゃん、痛いよ、タカちゃん……」。
 父と母が名前で呼び合うのを聞いたのは、それが初めてで、最後だった。母の通夜の後、棺の中の母の頬を何度も何度も父は撫でていた。黙って撫でていた。

今日のお話 ー11月24日(木)ー

   西郷隆盛の名言・格言

 世の中で、人からそしられたり

 誉められたりするといったことは、

 塵のように儚く消え去ってしまうものである。

ちょっといい話

   あなたの言葉で今に必死に人生にしがみつけてます

 今まですれ違いが多くて、なかなか時間をとって話す機会のなかった父。そんな父と時間をとって話す機会を得たのは、恥ずかしながら仕事でミスをしまくって、会社から叱責を何度もうけていた時だ。家に帰り、何気なく「もう仕事がしんどい……」とつぶやいた自分に、父は「今週末、飲みにいこう」と言った。近所の居酒屋で父と酒を飲む。家で飲むことは今までにもあったが、居酒屋で2人で飲むというのは、今まで生きてきて初めてのことだった。仕事のことなど、自分のことを一通り話した後、父が言った言葉。
 「お前が生まれた時な、何とも言えない不思議な気持ちになったんだよ。初めての子どもだったからな。『この子は特別な子だ』ってその時思ったし、今でもその気持ちは変わらん。だからいくら辛いことがあろうが、苦しもうが俺、そして母さんが、お前のことをそう思ってると思っていてくれ」
 自分に自信が無くなっていた自分にとって、すごく染みた言葉だった。今でもその言葉を思い出して、泣いてしまうことがある。
 「父さん、今も苦しいけど、生きづらいけど、あなたの言葉で今に必死に人生にしがみつけてます」
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
学校行事
3/16 5時間授業
3/20 小学校卒業式
3/21 春分の日

お知らせ

緊急のお知らせ

1年生学年通信

2年生学年通信

3年生学年通信

犬山市立城東中学校
〒484-0094
住所:愛知県犬山市大字塔野地字田口洞39番地の101
TEL:0568-61-0501
FAX:0568-63-0270