ともに生きる

ちょっといい話

   やっと素直になれた

 私が4歳の時、父と母は離婚した。祖父母と同居していたため父が私を引き取った。
 母は出て行く日に私を実家に連れて行った。家具や荷物がいっぱい置いてあって叔母の結婚の時と同じだったので、「わぁ、嫁入り道具みたいだね」と嬉しそうに言ったのを覚えている。家に戻ると母はドアの所で「おばあちゃんちに又行かなきゃいけないの」そう言った。「いつ帰ってくるの?」と聞くと困った顔をして少し黙り「日曜日かな?」と答えた。疑いもせずに私は笑顔で手を振って送り出した。日曜日がいつかも知らなかった。
 それから私は祖母に日曜日がいつかを聞いては、玄関で待つ日々が続いた。何回か繰り返したある日、母以外の家族全員が揃う夕食の時間に私は聞いてみた。「あのね、ママが帰ってくる日曜日っていつだか知ってる?」食卓が凍り付いた。それまでの笑顔が全く消えてみなが押し黙って目を伏せた。「私、うっかり聞くのを忘れちゃったのよー」と笑いかけたが、誰1人笑ってはくれなかった。それ以来、私はママの話しは絶対にしないようにして・・もう30年が経つ。結婚式にも呼ぼうとはしなかった。
 今では1歳の娘と5歳の息子がいる。先日、5歳の息子が「ねぇ、妹と僕を産んだのはお母さんだよね?」と聞いてきた。「パパを産んだのはばぁばだよね? ママを産んだのは誰?」「おばあちゃんよ、でもどこにいるかわかんないから会えないのよ」「僕会いたいなぁ」「どうして?」そこまでは平気な受け答えだった。「ママを産んでくれてありがとうって言わなきゃ!」(うん、会いたいねぇ)と言うはずだったのに涙が止らなくなってしまった。ずっとずっと封印してきた言葉。育てられないなら産まなきゃいいのにって思ったこともあった。
 ありがとう息子。私はやっと素直になれそうだ。

今日のお話 ー3月14日(火)ー

   武田信玄の名言・格言

  武将が陥りやすい三大失観。

 一 分別あるものを悪人と見ること

 一 遠慮あるものを臆病と見ること

 一 軽躁なるものを勇剛と見ること

ちょっといい話

   プレゼント

 「こんなのいらない!」と、部屋の真ん中で絶叫しながら、俺の買ってやったクマの置物を壁にぶつけて逃げる妹。きっかけは些細なことだった。夕食で出た肉の最後のひと切れをどっちが食べるかで口論になったのだ。それがだんだんとエスカレートしていき今に至る。つか、修学旅行のお土産だぞそのクマの置物。俺ショックだよ。無残に割れてるよ。あぁあ。これ絶対直んないな。せっかく俺のおこずかい叩いて中学入学祝いに買ってやったのに。これが噂の反抗期ってやつなのかな。「はぁ……」なんかアホみたいな喧嘩だった。めったに喧嘩なんてしないから余計落ち込む。
 PCでもやって落ち着こう。俺は起動済のノートPCを開き、すぐさま某動画サイトにアクセスする。いつもならここから楽しい楽しい動画鑑賞タイムが始まるのだが、画面の横に「クマのぬいぐるみ」とかいうおもちゃの広告が載っていたため、逆に気分が害された。12時30分、今日はもう寝ることにしよう。そう思った瞬間、となりの妹の部屋からすすり泣く声が聞こえてきた。扉が少し空いていたのでそこから覗き込むと必死に「クマの置物」をボンドでくっつけようとする妹の姿があった。……まったく、そうなるなら最初から壊すなよな。
 俺は静かに部屋に戻り、「クマのぬいぐるみ」の広告を思い切りクリックしてやった。

今日のお話 ー3月13日(月)ー

   武田信玄の名言・格言

  人は城、人は石垣、人は堀、

  情けは味方、仇は敵なり。

□ 武田信玄 プロフィール
甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。甲斐の守護を代々務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男。先代・信虎期には国内統一が達成され、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で対立した越後の上杉謙信と5次にわたると言われる川中島の戦いを行いつつ信濃をほぼ平定し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領し、次代の勝頼期にかけて武田氏の領国を拡大した。晩年、上洛の途上に、三河で病を発し信濃で病没した。

3月13日(月)以降のマスク着用について

ご存じの通り、3月13日(月)以降のマスクの着用は個人の判断に委ねるとの方針が示されましたが、学校は4月1日(土)から適用されることとなっています。そのため、3月13日以降3月末までのマスク着用については、これまで通りの対応とし、4月1日以降はマスクの着用を求めないこととします。
尚、登下校時にマスクを着用している児童生徒を多く見かけます。登下校時にはマスクを外してよいことを家庭でもご指導ください。学校においても、4月1日以降の対応のため、マスクを外してよい場面はできる限りマスクを外して活動するよう呼びかけるとともに、引き続き、効果的な感染対策防止対策を行っていく方針です。ご理解とご協力をお願いいたします。


ちょっといい話

   これからも長生きしてね。お父さん 

 私は父が大好きだ。いつも優しく笑顔で、私がいじめられていたときも、守ってくれた。父は職場が遠いので、朝7時に車で行き、遅い時には夜11時に帰ってくる。父が休みの日は、学校から帰ってくると「おかえり」と言って、「じゃあ寝てくるね。」と言う。父は私と姉が学校から帰ってくるのを待ってくれている。
 ある日突然、職場で父が倒れた。習い事をしていたため、行くのに時間がかかった。父がいる病院まで行くとき、雨が降っていた。病院に着いたのは5時ぐらいだったが、夜1時までその病院にいた。患者さんがとても多かった。私は、「父が、癌や深刻な病気なのではないのか」と、ずっと考えていた。それから数時間後、「看護師さんが入っていいですよ」と言ったので、病室に入った。父はグッタリした様子で、ベッドで寝ているようだった。看護師さんが、「まだ目を覚まさないようなので1日入院する」と言っていた。倒れた理由は、雨による気圧だったらしい。「癌でもないですよ」と言われたので、人生で一番安心したと思う。「深刻な病気じゃなくてよかった」と心の底から思った。
 これからも長生きしてね。お父さん。

今日のお話 ー3月10日(金)ー

   アルフレッド・アドラーの名言・格言

  子どもにとっては、家族が世界のすべてなのだ。

  親に愛されなければ、死ぬしかない。

  だから子どもたちは全力で親に愛されようとする。

  そのときとった命がけの戦略が

  そのまま性格形成につながっていく。

ちょっといい話

   ずっと笑っています

 私がまだ中学1年生だった頃のお話です。
 私には5つ年上の姉がいました。 姉は中1の時に癌がみつかり、それ以来ずっと闘病生活を送っていました。いつも笑っていた姉は、私の中では無敵の存在。そんな姉が、私は大好きでした。でも、姉の努力とは裏腹に、癌はどんどん姉の体を蝕んでいきます。もう手を上げるのも苦しいはずなのに、私が学校の話をすると、いつも私の頭を撫でてくれました。私が中学上がる頃、姉は天国へ旅立ちました。
 姉が亡くなったその日、私は夢をみました。「ごめんね。卒業式まで、見てあげられなかったね。一緒に遊んであげられなかったね。ダメなお姉ちゃんでごめんね。私はいつも、りあのこと、見守っているからね」、 そう言って、姉は去って行きました。亡くなる直前まで私の手を撫で、微笑んでいた姉。苦しかったはずなのに、ずっと笑っていた姉。亡くなった後も、私のことを考えてくれた姉。
 今思い出す思い出の中の姉は、ずっと笑っています。

今日のお話 ー3月9日(木)ー

   アルフレッド・アドラーの名言・格言

  子どもは、親が貼ったレッテル、

  たとえば「しっかりした子」、
      「甘えん坊」、
      「おてんば」、
      「恥ずかしがり屋」

  などに対して過剰に応えようと努力する。

ちょっといい話

   優しい手

 おばあちゃんが、認知症になってしまった。いつも何でもかんでもこなしてたおばあちゃんは、認知症になってから「ぼーっと」するようになっていてた。急に怒り出したり、怒り出したと思ったら、急に優しくなったり……。私はついていけなかった。
 ある冬の日、その日は久しぶりにに雪が降った。おばあちゃんのことはみんなあまり気にせず、いつもほったらかしだった。その日私は、いつの間にか寝てしまっていて、おばあちゃんのことを見ていなかった。次、目を覚ました時おばあちゃんはいなかった。家中どこを探してもおばあちゃんがいないのだ。すぐ家族に電話して、町中探し回った。警察にも探してもらい、やっとおばあちゃんがみつかったのだ。家から遠く離れた公園のベンチにおばあちゃんは座っていた。おばあちゃんのまわりには雪が積もっていて、とても寒そうだった。どうしてあんな場所にいたのか聞かれた。おばあちゃんは、「○○(私)ちゃんを探しにきたんだよ」ってしわがれた声で言った。私は小さい時、迷子になりこの公園で見つかったのだ。あの時、私を見つけてくれたのはおばあちゃんだった。さみしくって怖かった。そして、家族が迎えに来るまで、ベンチで一緒に手を繋いで待っていた。あの時助けてくれたおばあちゃんの優しい手は、もうシワだらけで小さくなってしまったけど、今もあの時と同じ優しい手だった。

今日のお話 ー3月8日(水)ー

   アルフレッド・アドラーの名言・格言

  まだ無理だと思ってもやらせてみる。

  失敗しても「今度は上手くできるはず」と

  声をかけることが大切。

1年生 3時間目の授業 3月8日(水)

 1年生の3時間目の授業の様子です。

 1組は英語、2組は理科、3組は保健体育、4組は保健体育、5組は保健体育の授業でした。
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今日のお話 ー3月6日(月)ー

   アルフレッド・アドラーの名言・格言

  「仕事で失敗しませんでした。

   働かなかったからです」、

  「人間関係で失敗しませんでした。

   人の輪に入らなかったからです」。

  彼の人生は完全で、そして最悪だった。

今日のお話 ー3月3日(金)ー

   アルフレッド・アドラーの名言・格言

  たとえ不治の病の床にあっても、

  天を恨み泣き暮らすか、

  周囲に感謝し余生を充実させるか、

  それは自分で決めることができる。

ちょっといい話

   誰よりも娘の卒業式を楽しみにしてたんだよ 

 私の小学校6年生の卒業式のこと。退場の時私は、お母さんに大きい花束を渡された。今思えば、騒ぐほど大きいものじゃなかった。当時クラスでも大人しかった私は、学校の皆の前で変に目立つことが嫌で、渡してきた花束を「いらない」と言ってお母さんに押し返してしまった。その後、移動した教室で、お母さんはまた私のところに駆け寄り、花束を渡してきた。どれだけ拒否しても押し付けてくるので、嫌な顔をしてお母さんを睨みながらしぶしぶ奪い取った。クラスの人に見られるのが本当に嫌だった。
 その後、家に帰っても私は終始不機嫌で、「何であんなことしたの。私のことなんにも考えてない、こんなのいらない」とひどいことをお父さんにいい続けた。「お姉ちゃん(私)の事分かってあげられなくてごめんね。けど、お母さんはお姉ちゃんにバレないように花束を買って、誰よりも娘の卒業式を楽しみにしてたんだよ」と……。
 その夜私は、その時お父さんに言われた事がずっと頭をかけ巡っていた。思い返すとお母さんは私に花束を渡すとき笑顔で「おめでとう」と言ってくれていた。拗ねて全然見ていなかった花束には弟が、「おねえちゃんそつぎょうおめでとう」と書いてくれていた。
私はこんなに家族に想われている。なのに私は何てひどいことをしたんだろうと、涙が溢れて止まらなかった。私は夜中にもかかわらずお母さんを起こして、涙でぐちょぐちょの顔で謝り続けた。お母さんは私を責めもせず、ただ「ごめんね、お姉ちゃんがそんなに嫌な思いをしてるとは思わなかった。ごめんね」と繰り返していた。
 これを書いている今も罪悪感でいっぱいで、思い出す度に涙でぐちょぐちょで、家族の大切さと暖かさを感じます。私はまだ高校生だから成人したらもっと親孝行して、いつかまたこのことを謝れたらいいなぁと思います。お母さんだいすき。

今日のお話 ー3月2日(木)ー

   アルフレッド・アドラーの名言・格言

  幸福な人生を歩む人のライフスタイル(=性格)は、

  必ずコモンセンス(=共通感覚)と一致している。

  歪んだ私的論理に基づく性格では、

  幸せになることはできないだろう。

今日のお話 ー3月1日(水)ー

   アルフレッド・アドラーの名言・格言

  行動するたびに叱られ、褒められて育った人間は、
  叱られるか、褒められるかしないと行動しなくなる。
  「よくできたね」と褒める必要はない。
  ただ「ありがとう」と感謝を伝えるだけでいい。
  感謝される喜びを知れば、
  自ら進んで周囲に貢献しようとする人間になる。

ちょっといい話

   お前は体が弱いから

 小学校低学年でガンを患って以来、えらい病弱になった。元々体は弱かったけど、ここ数年は年を重ねていくごとに弱っていくような感じだった。ちょっとした事で熱を出したり、それが悪化して肺炎になったり……。今年は入院もした。それくらい弱かった。
 ある冬の日、学校から帰ってきて夕飯を食べた後。ゴロゴロしていたらチョコレートが食べたくなったので近所のスーパーに買いに行こうとした。だが両親は「寒いからダメだ」と言った。私は「それくらいいいだろう」と思った。いくら体が弱いとはいえ、近所のスーパーくらいいいだろうと思ったのだ。しばらく反論していたが、父親は、私が先月入院した話をもってきた。「そうやって寒い時に外出するから肺炎になってお前は1週間も入院したじゃないか」と……。わたしはチョコレートが買いに行けないとか、お菓子が食べられないとかそういうのじゃなくて、自分の身体の弱さで行動を制限される事が悔しかった。父に「お前は体が弱いから」、そう言われる事が悔しくて悲しくて、情けない事にわたしは泣いてしまった。そのまま布団に行って泣きながら眠った。
 数日後。昼食をつくるためにキッチンへ。戸棚の下にある引きだしにパスタがあったので開けると、そこには板チョコレートが何枚も入っていた。祖母に理由を聞くと「お父さんとお母さんが、夜の寒い時にチョコレート食べたいって言い出したら、いつでも食べられるようにって買ってきたんだよ。ばあちゃんも最初見た時はびっくりした」と笑いながら話していた。
 父と母は、私がどうしてもチョコレートが食べたくて泣いたんだと思ったらしい。何枚もの板チョコを見て、私は泣きそうになった。もう自分の身体の弱さを自覚してわがままを言わないようにしようと思った。

今日のお話 ー2月27日(月)ー

   アルフレッド・アドラーの名言・格言

  どうしたらみんなを喜ばすことができるかを、

  毎日考えるようにしなさい。

  そうすれば憂鬱な気持など、

  吹き飛んでしまいます。

  反対に自分のことばかり考えていたら、

  どんどん不幸になってしまいますよ。

ちょっといい話

   私は6人家族、4人しかいないじゃないか。あとの2人は?

 私のお母さんは、生まれつき少しみんなと違っていて、背中に「できもの」みたいなものがあります。そこを押したりすると、全部の神経と繋がっているらしく、死んでしまうそうです。今は普通に暮らしていますが、生まれたときは、「3才まで生きられるかわからない」と言われていたそうです。
 お母さんは、26才で、私を産みました。弟が1人いて4才差です。でも、ほんとは、もう2人、いるはずでした。私と2才差で、双子でした。でも、妊娠して3ヶ月で流産してしまいました。そのときの辛さは、残念ながら2才だった私にはわかりませんでした。この事を知ったのは3年前、小学校4年生のときです。そのときは、「へぇ」としか思いませんでした。でも、今、2人のことを考えると、とても辛くなります。ふと思うんです。「こんな悪い子が生まれるくらいなら、あの双子が生きててほしかった」と……。「双子が生きてたら私は今どうなんだろ、何をしてるんだろ」と。「男だったかな、女だったかな、もしかしてめっちゃにてる」と。親には強がってて言えないのですが、やっぱり逢ってみたかったです。「おねぇちゃん」という元気な声が聞きたかったです。
 でも、こんなこと考えてたら何も進みません。だから、私、決めたんです。私、亡くなってしまった双子の分まで、「3人分を生きる」と。生きる、こう決めてから、変わったんです。何事にも全力で、取り組むようになりました。おかげで、受験も成功し、偏差値60、倍率6倍の都立中学にいけました。辛いことはたくさんあります。でも、「3人よれば文殊の知恵」で乗り越えています。
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学校行事
3/15 2年進路説明会
3/16 5時間授業
3/20 小学校卒業式

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