最新更新日:2024/06/13
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そろそろ熱中症に注意。睡眠時間の確保もしっかりと!

今日のお話 10月28日(水)

    押井守の名言

  ほとんどの人は、

  才能などとは縁のない場所で一生を過ごすことになる。

  天才の身でない我々は、情熱を持ち続けることしか、

  この世を渡っていく術がないのだ。情熱さえあれば、

  貧乏も苦難も乗り越えられるだろう。

  金や名声を追っていけば、

  それが失われたとき人は堕落する。

  だが、自分の美学と情熱があれば、

  富と名誉に煩わされることなく生きていける。

ちょっといい話 10月27日(火)

利ちゃんのちょっといい話

  「ボランティアをやらせていただきます」 2(毎日新聞より)

□ 工藤 良さん
 福岡県田川市出身。02年4月の暴走族を解散、ボランティア団体「GOKURENKAI」を結成。25歳

 1歩間違えたら命を失っていた。ダンプカーを運転中に路肩が崩れ、土手を転げ落ちた。腰の骨にひびが入る大けが、2ヵ月半の入院中、ベッドの上で考えた。「神様に背中を押されている。生かしてやるから、思い切ってやれることをやれ、と。よし、仲間たちとボランティアをやろう」。約1年前の決心だった。
 両親が離婚した小学2年の時から荒れ始め、中学2年で地元の暴走族「極連会」に入った。18歳で総長。20人近くを従え、暴走や傷害事件を繰り返した。23歳の時に覚せい剤使用で逮捕され、拘置所で初めて自分を振り返った。「恨まれるようなことしかしていない。そう思うと、気がおかしくなりそうだった」
 仲間たちにも暴走族をやめてほしかった。でも、人にものを言える立場かと思うと、何も言い出せない。すがるような思いで座禅を組んだ。冬山に登り、滝にも打たれた。「悩んでいても仕方がない。何かをしよう」。そう思えるようになった直後の事故だった。「人のためにみんなで力を合わせ、胸を張ってできることをしたかった」
 今、約40人の仲間とごみ拾いや福祉施設の慰問をする。自動車工の仕事にも就いた。そんな体験を青春メッセージ全国大会で語りかけた。
 4歳の長女利蘭ちゃんをあやしながら言う。「現実から逃げないでほしい。それがまじめに生きることだと思う」


今日のお話 10月27日(火)

    押井守の名言

  残念ながら人は誰も、

  生まれてくる時代と場所を選べない。

  僕らはどんなに苦しくても、

  この時代を生きていかなければならない。

□ 押井守のプロフィール
 日本の映画監督、脚本家。東京芸大教育学部美術教育学科卒。アニメーションに実写映画の手法を大胆に取り入れた監督として知られ、多くのファンを持つ映画監督。『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』でジャパニメーションの代表的な監督として海外で知られるようになる。東京経済大学コミュニケーション学部客員教授なども務めている

ちょっといい話 10月26日(月)

利ちゃんのちょっといい話

  「ボランティアをやらせていただきます」 1
 
 昨年の4月に、先輩や後輩と共にボランティア団体『GOKURENKAI』を結成しました。現在、地元の学校行事に参加したり、ゴミ拾いなどの環境整備、障害者施設の手伝いなどをしたりと、活動を続けています。自分達がいろんな人に認められている、必要とされているという満足感と言いますか心地よさを感じています。何と言っても仲間の生き生きとした笑顔に囲まれて行う活動が気持ちがいいです。
 実は、自分たち、元々暴走族『極連会』として活動していました。それが今、どうしてこんな活動をしているのかを振り返ってみたいと思います。小学校の時、母親が夜の仕事に就いていた為、幼い弟の面倒を見ながらの留守番がとても寂しかったと強く印象が残っています。2年生の頃には両親が離婚し、本当につらく思いました。ただ、今では兄貴のように慕っている先輩との出会いがその頃にありました。よく可愛がって貰い、親父の代わりのようにも思えていました。その兄貴は、当時中学で突っ張っていてとても僕には格好よく見えました。その人に憧れ、真似ばかりしていました。
 中学生になり、暴走族に入れた事は自分にとっての唯一の誇りでした。親が夜居ない事や弟が大きくなった事、そして同じ臭いのする仲間が沢山できた事で、毎日のように遊んでいました。仲間の温かさが心地よく、みんなで生き生きと何かに打ち込むことが楽しかったのです。ただ、夜だと、どうしても悪いことになってしまいました。そして18歳で極連会の総長になり、誰にも止められなくなりました。
 21歳の時、結婚し子供も出来ました。しかし、「悪さ」はエスカレートし、今思い出しても、ぞっとするくらいの日々を送っていました。仲間を同じ道に引きずり込み、自分色へと染め、地元をぼろぼろにしていったのです。そして、警察のお世話になりました。拘置所では、今までの自分を振り返り、自分を責め追いつめていきました。髪の毛が抜けるくらい考え地獄にいるような心地でした。
 「兄貴、そして仲間に同じ道を歩ませてはいけない。地元を元に戻さなくては」と思いました。しかし、その為には自分の真面目な姿を見せるしか自分を信じてもらえる方法はないと思い、自分を変える為に必死に努力しました。現実はなかなか厳しいものがありました。そのとき支えてくれたのが嫁さんと娘でした。こんな自分に我慢をして、ついてきてくれた嫁さんには本当に感謝していますし、娘が可愛くてたまりません。また、神様にもすがる思いで神仏を信じ、神社やお寺に出かけ自分の精神を鍛える為の修業もしました。
 2年ほどたち、頑張ってきた自分の中に自信が生まれてきました。そこで思いついたのがボランティアです。また、みんなで一緒に何かに打ち込みたい。どうせするのなら胸を張って出来ることがしたい。仲間に話すのは今だと思い、自分の思いを先輩後輩一人一人に打ち明けて廻りました。その頃、仲間たちは将来に不安を感じていたと思います。自分の思いに、すぐに応えてくれました。そして昨年の4月に地元を元に戻す組織、ボランティア団体『GOKURENKAI』を結成することが出来ました。
 活動を通じて様々な人とのつながりも出来ました。自分たちを応援してくれる、おばあちゃんたちは後援会を作ってくれました。「ぜひ、私の個展を手伝ってもらいたい」と電話を掛けてくれた沖縄の障害をもった画家さん、そして地元の皆さん、田川署の皆さん。本当にに感謝しています。正直なところ、初めはみんなついて来てくれるだろうかという不安もありましたが、活動を重ねるごとに、ボランティア自体を楽しく感じ始めている仲間の姿が本当に嬉しく、また励みにもなっています。
 自分は、これまで地獄のような苦しみを味わって来ました。後輩たちに同じ思いは絶対にさせたくありません。これからも、どんなことがあっても、くじけずに、みんなで力を合わせて頑張っていきたいと思います。

今日のお話 10月26日(月)

    今村 暁(いまむら さとる) の名言 4つ

□ 自分の未来は、自分で創造できる。

□ あなたのやりたいことの7割は、今できる。

□ 愛情と信頼が根底になければ、

  人をしつけたり、

  教育することはできない。

□ 人間はしょせん60兆個の細胞からなっていて、

  どの人も99.9%一緒。

ちょっといい話 10月23日(金)

ニュースより

    「1人だけは嫌だろうと思って……」 

 9月25日、宮古島市のマティダ市民劇場で行われた宮古高校の合唱祭。あるクラスの35人がサングラス姿で登壇し、尾崎豊さんの「15の夜」を熱唱しました。見た目だけでなく、尾崎さんをまねてセリフを語る指揮の男子生徒のパフォーマンスもあって、会場は盛り上がりました。子宮頸がんワクチン接種後に苦しんでいる女子生徒は「みんなと歌って超楽しかった。楽しい思い出がつくれてよかった」と振り返ります。
 女子生徒は中学2年生だった2011年に子宮頸がんワクチンを接種。次第に頭痛や虚脱感といった異変があらわれ始め、高校に入ってからは手足のしびれなどで倒れ、保健室に運ばれることが増えました。体調不良や入院もあって、なかなか学校へ通えなくなり、登校できても保健室で過ごすことが多くなりました。光に対しても敏感になり、学校でもサングラスが手放せません。
 宮古高校では毎年、体育祭、文化祭、合唱祭のどれかひとつを順番で開催しています。今年は合唱祭の年。当初、女子生徒は欠席するつもりでしたが、クラスメートに誘われて練習から参加しました。放課後の練習を終えた後、「サングラスで本番出るのは嫌だな」とこぼすと、隣にいた別の生徒が「じゃあ、みんながサングラスで出たらいいんじゃない」と声をかけました。すると周りの生徒たちも「いいね、曲の雰囲気に合ってるし」と応じました。でも、女子生徒はためらいました。「きっとサングラスつけたくない人もいるはず。それに、持ってない人は買わなきゃいけない。私のために無理しないで。」そう話すと、仲間たちはこう返してくれました。「大丈夫だよ。合唱祭終わったら絶対に『やってよかった』ってなるから。」
 これを受け、担任の女性教諭は学内で事情説明に回りました。「私がしたことはこれだけ。女子生徒を練習に誘ったのも、サングラスをつけようと動いたのも、ぜんぶ生徒たち。リーダーがいるわけでもなく、おとなしいと思っていた生徒たちですが、しっかり成長していました」
 両親や祖父母から借りるなどして、当日は全員がサングラスを持参。登壇すると一瞬どよめいたものの、曲が終わると会場は大きな拍手に包まれました。本来、保護者は観覧できませんが、女子生徒の母親は特別に許可をもらって様子を見ていました。体はつらそうでしたが、笑顔を絶やさない我が子。終わった後、クラスメートと握手しながら、こう声をかけられていました。
 「ありがとう、おかげで一つになれた。最高のクラスになったね」
 その言葉を聞いた女子生徒は「この一言で、大変だったことが全部チャラになった」と思ったそうです。
 合唱祭をやり遂げたクラスには次の目標があります。「みんなで一緒に卒業する」。女子生徒は今日も闘っています。

withnews 10月21日(水)7時0分配信
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今日のお話 10月23日(金)

    今村 暁(いまむら さとる) の名言

  多くの人は過去や未来のことばかり考え、

  今の自分の感情を無視します。

  自分の感情は変わるのです。

  無理に同じことを思い続けることこそが、

  自分に嘘をついています。

  自分の心に嘘をついたまま、

  昔の夢や目標を追い求めようとしても、

  それはなかなか実を結ばないのは当然です。

  もし、自分の頭の中が堂々巡りをし、

  混沌としてきたら、「前後裁断」です。

  前のことも後のことも断ってしまい、

  「今の自分の感性」に耳を傾けてみましょう。

  そこに、本当のあなたがいるはずです。

ちょっといい話 10月22日(木 )

利ちゃんのちょっといい話

 ■ 幸せ 

 あなたは、自分が幸せだと思いますか。すぐに「幸せだ」と答えられる人はいないかもしれません。「禍福はあざなえる縄のごとし」で、すべてにおいて満足できないのが人間なのかもしれません。また、幸せそうな人が案外寂しい生活をしていたり、不幸のどん底にいるように見える人が、実はとても豊かな幸せの中にいるということもあるでしょう。 私はどうかというと、私自身は幸せだと思っていますが、人から見ればある意味では不幸せだろうと思います。私が生まれて20日後に母が病気で突然他界し、6年後には父も病気で亡くなり両親ともいないからです。また、私自身、先天性の心臓病で、生まれてから1年間は入退院をくり返し、ありとあらゆる病気を経験してきたからです。でも半年か1年の命と言われた私が、こうして元気に過ごしていることができるのは、私を育ててくれた祖父母の愛と多くの方々の支えがあったからで、私は恵まれていると思っています。もちろん、祖父母の苦労は並ではなかったことと思います。小学1年生の時、私は県内の病院で心臓の手術をし、手術の成功でホッとしたのもつかの間、今度は私がおたふくかぜにかかってしまい、他の入院患者に迷惑がかかると言われ、強制退院させられたときは、泣けてしかたがなかったと祖母は言います。まだ手術の糸もぬいていない高熱の私を抱きながら祖母は、なぜ自分や孫の私にばかり不幸がおそってくるのだろうと考えたのではないかと思います。
 でも今の私は年3回ほどの検査に行くものの、まったく皆と同じ生活ができています。両親がそろっている幸せの中にいて、「親がうるさい」などという人の言葉に両親のいない自分の寂しさを全く感じないと言ったら嘘になりますが、祖父母や叔母のいっぱいの愛を受けている自分を幸せだと思うことの方が多い毎日です。友達が「部活が大変」と愚痴を言うのも健康だから部活に参加できるのにと思います。当たり前のことを当たり前に出来るのは、大変な幸せなのだということを私は知っているからです。
 私が小学2年生の時に知り合った2歳上の友人は筋ジストロフィーで車椅子の生活でした。プールが好きで浮き輪に入りお父さんに背中を押してもらって、楽しそうに笑っていました。私も一緒になって遊びました。筋力が徐々に衰える病気ですから、今は大分病状が進んで寝返りさえも出来ないそうです。でも明るく生きています。その人が友達の不平不満を聞いたら「自由に動ける体を持っていて、それ以上の幸せがあるか」と言うに違いないでしょう。幸せの中にいるとその幸せに気付かないのかも知れません。
 先日国語の先生から野崎耕二さんという方の本を貸して頂きました。それは筋ジストロフィーの著者が「1日1絵」、つまり1日に1枚の絵を描くことを目標に生きている命の著書でした。「1本の絵筆から・車椅子の四季」と題されたこの本から改めて本当に生きることの素晴らしさが伝わって来ました。日に日に衰えていく筋力と闘いながら自分の生きた証を残されているこの方の日々は、やることも見つからず何となく生きている人のそれより、はるかに充実したものであるだろうと思います。そう考えると目標を持って精一杯生きている人は五体満足であるないにかかわらず幸せだと言えるでしょう。
 こうしたことから幸せ、不幸せは人の心のあり方で違ってくるものであることが分かります。仙台の大学病院に医師として勤めていた父が、私を母方の祖父母に預けて仙台に戻り、無理がたたって病に倒れて逝ったとき、6歳なりに私は死というものを「もう二度と会えないこと」なのだと思いました。しかし、命を傾けられる仕事をもてた父は幸せな人だったのではないかと、今は思うようになりました。母と父の命を貰い、あの世から母と父が見守ってくれているからこそ、私は今を生きていられるのだと思うと、とても温かい幸せな気持ちになります。祖母の干してくれたお日様のにおいのする布団に包まれて眠るとき、習い事で遅くなると必ず迎えに来てくれる叔母の笑顔を見るとき、宮城の父方の祖母が私の成長に涙して喜んで呉れるとき、私は1日1日の1歩1歩の歩みが出来ることを感謝して、私の命を精一杯生きようと思います。そして、今の自分の幸せを、これからの皆への幸せに少しでも役立てる生き方をしたいと思います。またそれが新しい幸せの発見にもつながると信じています。
 「私の主張2003静岡県大会・最優秀賞」より
        静岡県富士宮市岩松中学校 2年  高橋 由美香

今日のお話 10月22日(木)

    今村 暁(いまむら さとる) の名言

  夢は考えるものではなく、

  感じるものです。

  夢を理性で考え続けたら、

  あるときノルマになってしまいます。

  とてもワクワクできません。

  理性で考えるのは目標と計画です。

ちょっといい話 10月21日(水)

利ちゃんのちょっといい話

   「お母さんのテープ」 

 俺、小さい頃に母親を亡くしてるんだ。それで中学生の頃、恥ずかしいくらいにぐれた。親父の留守中、家に金が無いかタンスの中を探しているとビデオテープがあったんだ。俺、親父のエロビデオとかかな?なんて思って見てみた。そしたら……。
 病室のベットの上にお母さんがうつってた。
 「〇〇ちゃん20歳のお誕生日おめでとう。なにも買ってあげれなくてゴメンね。お母さんがいなくても、〇〇ちゃんは強い子になっているでしょうね。今頃、大学生になっているのかな?もしかして結婚してたりしてね……」
 10分くらいのビデオテープだった。
 俺、泣いた、本気で泣いた。次の瞬間、親父の髭剃りでパンチパーマ全部剃った。
 みんなにバカにされるくらい勉強した。
 俺が1浪だけどマーチに合格した時、親父、まるで俺が東大にでも受かったかのように泣きながら親戚に電話してた。そんで、20歳の誕生日に、案の定、親父が俺にテープを渡してきた。また、よく見てみたら。 ビデオを撮ってる親父の泣き声が聞こえてた。お母さんは、笑いながら「情けないわねぇ」なんて言ってるんだ。
 俺、また泣いちゃったよ。父親も辛かったんだろうな。親父にそのこと言ったら、知らねーよ、なんて言ってたけど、就職決まった時、親父が「これでお母さんに怒られなくて済むよ」なんていってた。
 俺、このビデオテープがあったからまっとうに生きられてる。

 お父さん、お母さん、ありがとうございます。

 ※マーチ:明治、青学、立教、中央、法政の頭文字を取った関東有名私大

今日のお話10月21日(水)

    今村 暁(いまむら さとる) の名言

  「自分はこうなりたいなぁ」と、

  1年に1度しか思わない人と、

  1ヵ月に1度思う人では当然、

  1ヵ月に1度思う人の方が目標に近づきます。

  それでは1ヵ月に1度しか、

  目標を思い出さない人と、

  1週間に1度思い出す人とでは、

  どちらが目標を達成するかと言えば、

  1週間に1度思い出す人です。

  では、もっと目標を達成する人は、

  どういう人かというと、

  毎日思い浮かべる人なのです。

10月21日(水) 朝

 今日は、教育実習の先生の授業、3年3組のパクパク弁当が予定されています。

 夜には、オリオン座流星群のピークだそうです。

□ オリオン座流星群は、どんな流星群?
 オリオン座流星群の母彗星はハレー彗星で、約1ヶ月にわたって長〜く活動する流星群です。全流星群の中で速度が2番目に速く、明るい流星や痕を残す流星が多く見られるのが特徴です。見頃となる21日(水)は24時頃月が沈むため、月明かりの心配なく流星観測を楽しめます。
□ いつ見える?
 出現期間は、10月2日から11月7日で、ピークは10月21日(水)夜から22日(木)早朝です。
□ どこに見える?
 放射点を見つけるのに目印になるオリオン座は、22時頃に東の地平線から昇り始め、深夜に空高くに昇ってきます。放射点は、オリオン座のほんのわずか左に位置しています。流星群観測の祭は、放射点を中心にして全天を眺めるようにしてお楽しみください。
  
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ちょっといい話 10月19日(月)

利ちゃんのちょっといい話

    中国からの留学生

 日本の大学に来て1年足らずという、20歳の中国人留学生がわが社のアルバイト募集を見てやってきた。背筋を伸ばし、日本語も上手で敬語などは日本の学生顔負けだ。好感が持てたので、その場で採用を決めた。
 私の会社は、ビルなどの掃除作業を主にやっている。採用の翌日から彼は毎日、自分で弁当を作って早朝から他の社員と一緒に働いた。ある日、市立公園の公衆トイレの洗浄作業があり、彼ともう一人の若い社員が行くことになった。アルバイトを始めて日も浅いのに、トイレ清掃は大丈夫だろうかと少し心配になったので様子を見に行った。清掃中のトイレをのぞくと、床を夢中で磨いている彼の姿が目に映った。すると、彼が顔をあげて、笑顔で「おはようございます」とあいさつしてきた。1人で日本に来て、働きながら学ぶにはつらいこともたくさんあるだろう。ましてこの日の作業はきれいな仕事ではない。それなのにこの笑顔は何だろう。そのすがすがしさに、思わず涙が出そうになった。
 「頑張ってね」と声をかけ、その場を後にしたが、黙々と作業をしていた姿を、その素晴らしい笑顔は忘れられない。
 
                 読売新聞・2000・4・20

今日のお話 10月20日(火)

    今村 暁(いまむら さとる) の名言

  最近、私は多くのクライアントと会話をしていて、

  よく感じることがあります。

  それは、世の中の多くの人が、

  「I want」を見失っているということです。

  最近の時代の流れからか、

  夢や目標を紙に書いている人も、

  多くなってきました。

  でも、その目標が書いてあるから、

  「I want」で生きているのかと言うと…、

  それはNOなのです。

  いい人や勉強熱心な人ほど、

  ここでワナにはまります。

  ズバリ、聞きます。

  あなたが「I want」と思っていることは、

  実は「You want」「He want」「○○ want」

  ではありませんか?

  あなた自身が、

  いつもガマンばかりの中を生きていたり、

  「これが○○の喜ぶことだから」

  と無意識に自分の「I want」ではなく、

  他人の「want」で自分の人生を、

  支配されているのです。

  あなた自身が心の底から、

  求めているのなら良いのですが、

  自分は楽しめていなかったり、

  心の底から「want」と思っていないのに、

  「これが、自分のI wantだ」と思っていたら、

  それはいずれあなたを苦しめ、

  行動渋滞を引き起こします。

  「親のため」「顧客のため」「社会のため」の前に、

  「自分のため」という、

  あなたの「I want」を、

  掘り起こすことが大切なのです。

  本当の自分自身の「want」があってこそ、

  他の人のことも考え、

  他の人のためになれるのです。

ちょっといい話 10月19日(月)

利ちゃんのちょっといい話

   「生命の暗号」から

 「人はみな隠れた能力(潜在能力)をもっている。ほとんどの人は遺伝子がONではなく0FFになっているが、何かの原因で遺伝子がONになると潜在能力を発揮して大きな仕事が出来る。
 遺伝子をONにする有効な方法は次のように考える。
 心のもち方を変えること、環境を変えることです。物事をつねに前向きにとらえるプラス発想、強い信念、目標意識をもつ、エゴを抑えて利他的な生き方をする、感動する、感謝の気持ちをもつなど……。遺伝子というと生まれつき固定された不動のものというイメージが強いが環境次第、心のもちようで、いくらでも「生まれつき」は変えられます。
 潜在能力という点では天才と凡人の間のには殆ど差がない。自分の中に内在する無限に近い可能性のスイッチをONにする、「遺伝子を目覚めさせる」生き方を心がけることが必要です。
 人間はいくつになっても、自分の才能を開花させる能力をもっています。あることをやろうという情熱と実行力があり心のもち方を変えれば可能性はゼロではありません。それを阻害するのは「もうダメだ」という気持ちだけです」

   筑波大学名誉教授、村上和雄(遺伝子工学の世界的な権威) より

今日のお話 10月19日(月)

    今村 暁(いまむら さとる) の名言

  私がセミナーやコンサルティングをするときに、

  「夢」の話をすると、多くの人が、

  「大きな目標」を口にしようとします。

  でも、大きな目標は夢ではありません。

  目標は目標なのです。

  夢とは、あなたの心がワクワクするものです。

  夢に、大きいも小さいもありません。

ちょっといい話 10月16日(金)

利ちゃんのちょっといい話

 「おかあさん、ぼくが生まれてごめんなさい」2

 山田康文くんは1960年奈良県桜井市に生まれました。山田家の次男で体重は2,700グラム、家族は大喜びでした。しかし生後12日目から熱が続き黄疸が出てきました。乳首を吸う力がなくお母さんは異常に気づき奈良県立医科大学の門をくぐりました。精密検査の結果は脳性マヒでした。難産で康文くんの脳が酸素欠乏を起こしたか、脳内出血したかが原因でした。お母さんの京子さんは万一を願い数々の病院を廻りました。ハリ、指圧の治療、あらゆる治療法を行いました。宗教団体にも入信しました。 しかし康文くんの症状はいっこうに良くなりませんでした。お母さんは康文くんと一緒に死ぬことを考えました。しかし死を押しとどめたものは家族ぐるみの愛と康文くんの生きる意欲でした。
 康文くんは8歳の時、奈良の明日香養護学校に入学しました。不自由児のための特殊学校で、康文くんも母子入学でした。康文くんは明るい子でクラスの人気者になりました。
 1975年4月には体の不自由な子供達が集う「タンポポの会」が「わたぼうしコンサート」を開き、康文くんの詩が披露されました。このコンサートはテレビ、ラジオでも取上げられ森昌子さんが康文くんの詩を歌いました。このコンサートのあと、康文くんは突然天国に行ってしまいました。窒息死でした。横になって寝ていたとき、枕が顔を覆ってしまったのです。お母さんは毎日泣き通しでした。康文くんの死後、お母さんの京子さんは「たんぽぽの家」の資金集めに奔走し、兄の英昭さんは脳性マヒの治療法を研究するため医大に進みました。
 平成12年1月、七尾市にある願正寺の住職で書道家の三藤観映さんが康文くんの詩を読み感動して筆を取りました。金沢市で開催された「現代美術展」に出展した三藤さんの作品は多くの人に感動を与えました。今から30年ほど前の詩が三藤さんの書によって多くの人の感動を呼び、絶版になっていた『お母さん、ぼくが生まれて ごめんなさい』が25年ぶりに復刊しました。康文くんの先生で、この本の著者の向野幾代さんは復刊にあたって「あの子の詩は障害者が『ごめんなさいね』なんて、言わなくてもすむような世の中であってほしい、というメッセージ。今もこうして皆さんの心に、呼びかけているんですね。いま、障害者の問題は、高齢者の方たちの問題でもあります。
 『老いる』というのは、障害が先送りされているということ。歳をとると、足腰が不自由になって車椅子が必要になったり、知的障害になったり・・・健常者の方も、たいていはいつか障害者になるんですよ。だから康文くんたちは私たちの先輩。世の中をより良くするよう切り開いてきた、パイオニアなんです」と・・・

参考「お母さん、ぼくが生まれて ごめんなさい」 向野幾代著、扶桑社

今日のお話 10月16日(金)

    今村 暁(いまむら さとる) の名言

  成功しようと思ったら、

  やらないといけないことは、

  たくさんあります。

  自分をしっかりと節制することも、

  必要になるでしょう。

  でも、もし「must」「should」で自分自身が、

  がんじがらめになってしまったとき、

  力を発揮できるでしょうか?

  そこに「should」と「must」しかなかったとき、

  そこには理性でやり遂げようという、

  忍耐強さしかありません。

  大事なことは「should」や「must」の、

  何倍も何十倍も大きな「I want」を感じることなのです。

地域の方より 10月15日(木)

 地域の方から電話をいただきました。

 「楽田小学校の通学路は、細い割に車の交通量が多い。子どもたちの登下校、事故等には十分気をつけてほしい」

 という内容でした。お電話でご指摘をいただいたように、通学路といえども危険な場所がたくさんあります。

 ご家庭でも、交通安全についてご指導をお願いします。

ちょっといい話 10月15日(木)

利ちゃんのちょっといい話

 「おかあさん、ぼくが生まれてごめんなさい」1

 「母への感謝を綴った詩に涙」というタイトルで石川県に住む主婦、高崎千賀子さんの投書が新聞に掲載され感動の輪が広がっています。
 「美術館なんて趣味に合わないし、書道なんてつまらない・・・」という女子高生の一団の言葉が、美術館でボランティア監視員をしていた私の耳に入り、思わず口にしてました。「あそこにお母さんのことを書いた書があるの。お願いだからあの作品だけは読んでいって」と・・・。女子高生たちは不承不承、私の指した書を鑑賞しました。すると一人がすすり泣き、そこにいた生徒全員が耐え切れずに、泣き出したのです。その書は生まれたときから母に抱かれ背負われてきた脳性マヒの人が、世間の目を払いのけて育ててくださった、強いお母さんへの感謝の気持ちを綴った詩でした。「今の健康と幸福を忘れていました」と高校生たちは話し、引率の先生方の目もうるんでいました。
 この詩の作者は山田康文くん。生まれた時から全身が不自由で書くことも話すことも出来ない。養護学校の向野先生が康文くんを抱きしめ投げかける言葉が康文くんのいいたい言葉の場合はウインクでイエス、ノーの時は康文くんが舌を出す。出だしの「ごめんなさいね おかあさん」だけで1ヶ月かかったという。気の遠くなるような作業を経て、この詩は生まれました。そしてその2ヶ月後、康文くんは亡くなりました。

      ごめんなさいね おかあさん
      ごめんなさいね おかあさん
      ぼくが生まれて ごめんなさい

      ぼくを背負う かあさんの
      細いうなじに ぼくはいう 
      ぼくさえ 生まれなかったら
      かあさんの しらがもなかったろうね

      大きくなった このぼくを 
      背負って歩く 悲しさも
      「かたわな子だね」とふりかえる 
      つめたい視線に 泣くことも
      ぼくさえ 生まれなかったら

      ありがとう おかあさん
      ありがとう おかあさん
      おかあさんが いるかぎり
      ぼくは生きていくのです

      脳性マヒを 生きていく
      やさしさこそが 大切で
      悲しさこそが 美しい 
      そんな 人の生き方を
      教えてくれた おかあさん

      おかあさん
      あなたがそこに いるかぎり

                (山田康文)

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犬山市立楽田小学校
〒484-0858
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TEL:0568-67-1005
FAX:0568-69-0335