野口芳宏先生のぶれない姿から学ぶ

本年度第4回教師力アップセミナーは野口芳宏先生の講演でした。

第一部は、「何のために学校に行くのか?」というお話でした。「ヒトは人によって人になる」という言葉を引用して教育の大切さを問います。
「何のために学校に行くのか?」を参加者に問いかけ、「学力形成」「人格の形成」とまとめられます。その上で、「家庭教育」「学校教育」「社会教育」のどこがうまくいっていないかと再び問いかけられました。ここでは、多くの方が「家庭」と考えられましたが、野口先生ははっきりと「学校」と指摘されます。「ろくでもない家庭をつくった大人をつくったのは学校」だからです。「子どもたちを教育することは義務であり、教育は強制である」という野口先生の主張はいつ聞いてもぶれがありません。授業においては、必ずノートに書かせることで考えることを強制されます。すぐに手を挙げさせれば、手が挙がらない子どもは考えることを放棄するからです。野口流の底流にある考え方です。
教育基本法の第一条(教育の目的)の「国家及び社会の形成者を育成」「心身ともに健康な国民の育成」を元に、「国家や社会があってこそ個人の未来があり、国家は国民を守り、国民は立派な国家を形成する」という主張をされます。今個人が優先されていることが多いが、この目的を忘れてはいけない。心身ともに健康な国民の育成というが、多くの人は、自分は未完であると意識している。自分が未完、未熟と認識することで、完成へと向かう。教育の根本は「未完の自覚、未熟の自覚」であり、教育の本質は「そのままにしておかないこと」と、野口先生の考えは明快です。「何のために学校に行くのか?」という問いの答を、「国家及び社会の形成者たる資質を備えるため」とまとめ、「利他」「公益」をすることで、結局自分が幸せになると結論づけられました。

「教育」と「education」は違うという話が、印象に残っています。「education」は「e」外へ、「duce」引き出す、「tion」名詞で、「よさを引き出す」という押しつけの教育である。一方「教育」は、「教」の「孝」は子どもと関わる、「攵」は手で鞭を持つ意味があり、「育」は上の部分は頭から生まれる(安産)を表し、下の部分は肉で、健康に生まれた子どもに肉を食べさせて育てるという意味がある。「鞭を持って子どもを教え、育てる」という教育を表わしているという説明です。「地獄への道は『善意』で敷き詰められている」という言葉と合わせて、厳しく子どもに接することが大切であることを伝えられました。

また、一番大切なのは「安心」であり、「安心」から「安定」が生まれ、そこから「秩序」が生まれ、続いて「差別」が生まれる。「平等」は今ある秩序を壊し不安定をつくり出す。差がなければ秩序はなくなる。だから「差」「差別」は大切であるという主張も野口先生らしいと思います。この考えに全面的に賛成するわけではありませんが、批判を恐れずに自分の考えを主張される姿に野口先生らしさを感じます。

第二部は、一宮市の伊藤彰敏先生による模擬授業を、岐阜聖徳大学の玉置崇先生の司会で野口先生が切るというものです。子ども役は玉置ゼミの学生です。この模擬授業は授業深掘りセミナーで行われたもの(第3回授業深掘りセミナー(その1)参照)と同じですが、それをどう野口先生が評価するのかとても楽しみでした。
トイレを表わす言葉を取り上げ、きれいな言葉も手垢がついていくことや、語感について考えさせ、最終的には「和語、漢語、外来語」の持つ語感について学ぶというものです。時間の関係で、「和語、漢語、外来語」の部分については省略されました。
野口先生から、子どもにトイレの呼び方を出させる場面で、臭いと感じる順番という感覚で並べるのではなく、「これは漢語、これは外来語だよ」と教えて分類すべきだという意見が出されました。語彙を広げるチャンスを失ったと言われます。「伊藤先生はあえて教えていない」と玉置先生がつなぎ、伊藤先生から「今日はおもしろそうだと感じさせ、感覚で並べるから全員が参加できる」とその理由が説明されます。それに対して、野口先生は「それは、思い上がり。子どものご機嫌取り」と切ります。「では、どうすればいいのか?」という問いかけに、「雪隠の意味がわかる人はノートに○、わからない人は×をかかせる。『ではわかりたい人は?』と聞けば、生徒はわかりたいと言う。そのチャンスを生かして教える」という答です。野口先生らしい組立てです。
質の高い模擬授業と、野口先生の明解な解答に参加者も大いに学んだことと思います。
来年の野口先生のセミナーでは、今回司会の玉置先生の模擬授業を野口先生が切ることになっています。今からとても楽しみです。

第三部は、「国語学力を向上させる基礎・基本」についてのお話でした。
基礎の「礎」はいしずえ。その上に基本がある。被災地では多くの物が流されていたが、建物の下にある土台はそのままだった。国語における「いつなんどきでも変わらないもの」を話したいと切り出されました。
「おにごっこ」という教材を元に進められます。漢字の書き順と言った原則を叩きこむことや、多くの漢字に触れさせることの重要性を説明されます。「おにごっこ」をあえて「鬼ごっこ」と板書することで、鬼という字に触れさせ読字力を上げると言った例が挙げられます。原則を知っていれば、正しい筆順で書くこともできるはずです。
本文で紹介されている鬼ごっこの内容を要約して板書することで、要約を教える。「さまざま」な遊びを種類という漢語に置き換え、語彙を増やす。鬼ごっこの種類はいくつあるかを問いかけ、対立をつくり考えさせる。そして、きちんと正解を示す。具体的に授業の形を取りながら国語の授業で何が大切かを伝えられました。

最後に国語学力は3つに分けられるとまとめられました。
1つは、「読字力」です。学年配当は気にせずに、教師が板書するときにはどんどん漢字を使う。
2つ目は、「語彙力」です。教科書に書かれている文章をそのままではなく要約し、要約を通じて学んだ語彙を活かす。
3つ目は、「文脈力」です。教師は発問を工夫する。これは落とし穴づくり。間違いそうなところを取り上げる。ときどき、落とし穴に落ちていることに気づいていない子どもがいるため、そういったときには、落とし穴に落ちていることを教えてあげる。そして「正解」を明示する。

いつもと変わらない主張ですが、新しい教材を例に具体的な授業の形で説明されたので、説得力があります。まさに、基礎・基本がしっかりしていれば、どのような教材にも対応できることを示してくださいました。

10年以上、毎年教師力アップセミナーに登壇いただいていますが、そのぶれない姿と常に新しい教材に対応する姿勢に刺激を受け続けています。これからも野口先生から学び続けたいと思います。

行事での子どもの姿から、学校経営の難しさを感じる

学校評議員をしている中学校の2つの行事を通じて感じたことです。

体育大会でのことです。
以前と比べて生徒数が減ってきていますが、人数が減ったからといって、子どもたちのエネルギーそのものは変わっていないようにこれまでは感じていました。しかし、今年度は少し違った印象を持ちました。
一言で言うと「躾けられている」です。子どもたちの強い意志を感じなかったと言い換えてもよいかもしれません。合わせて気になったのは学年によって子どもたちの様子がかなり違って見えたことです。特に、他学年の競技を観戦している時の姿に違いを感じました。
3年生は、そろって声援しているというより、それぞれの意志で声を出しているように見えます。自然に仲間を応援しているように感じました。2年生は、子どもたちの視線や姿勢がそろっていました。とてもよい姿に見えるのですが、そうしなければいけないからやっているようにも見えます。頑張れと声援したいと思っているのかどうか、よくわからないのです。これに対して、1年生は何となく他学年を応援しているような印象でした。学年によって子どもたちの成長の違いや個性があるのは常なのですが、それ以上に先生方の指導に対する姿勢や考え方の違いがあるように思えました。
どれが正しいというのではありません。小さな学校でもこのような違いがあることが気になるのです。学校としてどのような子どもの姿を目指すのかが揺れているのではないのかという心配です。

同じようなことを、先日行われた「地域ふれあい学びフェスティバル」でも強く感じました。学校と地域が一緒になって行う、とても素晴らしい企画です。今年は、出し物や出店の数を減らし、1企画に一人、担当の先生をつけることもできたようです。その結果でしょうか、一つひとつの企画は昨年と比べてもよく練られているように思いました。しかし、子どもたちの様子からは、昨年と比べてもエネルギーを感じられませんでした。やらされている感が強いのです。例えば、お客を呼ぶために宣伝を担当する子どもがいますが、ただ歩きながら時々声を出すだけです。それも、目の前にいる人に来てもらおうと目を合わせるのではなく、誰もいない空間に向かって声を出しているのです。かつては、そこまで強引に引っぱろうとしなくてもいいのにと思うような子どもの姿をたくさん目にしました。
現場担当の子どもたちも、しっかりとは働いているのですが、やらなければいけないことだからやっているという、やらされている感が強いのです。
企画によっては、積極的に取り組み楽しめている子どもの姿が見られます。しかし、来場して下さった地域の方に喜んでもらいたい、喜んでもらえたから楽しいと感じている子どもは少ないように思いました。この行事の目指すところが子どもたちに共有されていないことが気になります。
このことは、先生方や地域の協力者にも言えるように思いました。指示を出して子どもを動かしている先生もいれば、じっと見守っている方、自分も役割を持ってそれを果たすことに専念している方いろいろです。地域の協力者も、子どもたちを前面に出して後ろで支えることに徹している方もいれば、先頭に立って子どもたち以上に動いている方もいらっしゃいます。このフェスティバルを通じて子どもたちにどう育ってほしいのかが見えなくなってきました。長い年月(10年以上の歴史があります)のうちに、このフェスティバルが子どもたちや地域、先生方のどのような思いを受け継いでここまで来ているのかが、忘れられているように思いました。
ともあれ、今は学校の行事として行っている(以前は地域と子どもたちの有志で行っていた)のですから、少なくとも、先生方の方向性は一致してほしいと思います。

2つの行事から、学校としてこの方向へ向かっていこうという一体感を感じられなかったことがとても残念でした。いろいろな事情もあると思いますが、学校経営の難しさを改めて感じました。

うれしい知らせ

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本日、明治図書出版編集部から、拙著「授業アドバイザーが教える『授業改善』30の秘訣」の増刷決定の知らせが届きました。発刊から1年余り、多くの方に読んでいただけたおかげです。こんなうれしいことはありません。

この本を書くきっかけをつくっていただいた編集者と明治図書出版、私に多くのことに気づかせてくれた子どもたち、そしてもちろん授業を見せていただいたすべての先生方に感謝です。ありがとうございました。

金大竜先生から本当にたくさんのことを学ぶ

今年度第1回の教師力アップセミナーは大阪市の小学校教諭の金大竜先生の、「やっぱり子どもが好き」から始める学級づくり〜魁・殿と凸凹のある子ども達〜と題した講演でした。

全体を通じて感じたことは、金先生の子どもたちに対する視線の優しさと、授業や子どもに対する視点(観)の豊さでした。
教師として子どもたちと接して悩むのは、自分の思った通りに子どもが動かないからです。しかし、例えば「やめて」の一言で話し合いが終わるのは授業規律がよいと言えますが、なかなか終わらないのは話し合いに熱が入っているとも言えます。よい悪いではなく授業観が違うのです。上手いかないということは、今の自分が持っている授業観と異なるものに出会えたということです。自分の授業観を豊かにしてくれると前向きにとらえればいいのです。

個が成長できるような環境づくり、集団づくり(つながりづくり)が重要ですが、そのためには自分の観を広げることが大切になります。観を持っていないと、目の前にそのことが起きていても見えません。見えないことは指導できないからです。例えば、数字の13は見方によってはアルファベットのBとも見えます。しかし、これはアルファベットを知らなければ認識できません。立ち位置の違いで同じものでも見え方が変わるのです。
しかし、見えることには弊害もあります。そこに目が向けばできないことが気になります。疑問を持たずに善意で指導してしまいますが、必ずしもそれがよいこととは限らないからです。

金先生は、つながりを大切にされています。教師と子どもの関係という視点では、子どもの親の前でもできる指導を意識されています。子どもと子どものつながりでは、「全員とは親友になれない」、しかし「温かい関係にはなれる」と、子ども同士の信頼関係をつくることを大切にされています。
忘れ物を無くすのは無理です。大切なのは忘れた時の対応を教えることです。人間関係ができてくれば自然に忘れ物も減ってきます。具体的な指導例で伝えてくださいます。
「先生が好きです」と日記に書いてくる子がいます。そこには、「先生にポジティブに見てもらいたい」という気持ちが現れているという金先生の視点は、常に子どもに寄り添っています。「水をやり、日にあてて植物を育てるように、成長のための環境を整えるのが教師の役目で、いつ花が咲くのかは植物に聞かない」という、成長を温かく見守る姿勢はとても素晴らしいものです。

金先生は具体的な授業技術をたくさん持たれている方です。しかし、そういった技術ではなく、子どもたちのどのような姿勢で接するといいかを伝えられます。かつて、勉強会でこれなら絶対上手くいくだろうという授業技術を伝えても、仲間が自分の学校でやってみるとうまくいかず落ち込むということが何度もあったそうです。子どもたちやその取り巻く環境が異なるからそれは仕方がないことです。講演の冒頭で「他人の実践は上手くいかないと思って持って帰る」とおっしゃった意味がよくわかります。

具体的な例も交え、子どもたちにできるという自信を持たせ、他者とかかわる力をつけていくことの大切さを伝えられます。そのために、受け側・聞き手を育てるということを大切にされています。全く同感です。

最後に、教師には子どもたちとつながるためなら何でもする覚悟と創造が必要だというメッセージを送られました。「自分のやりたいことをやらせようとする宗教家ではなく、子どもたちのやりたいことをやっているのか、なぜやらないのかを考え続ける哲学者となってほしい」という金先生の言葉は、私の中に深く残りました。

今回の金先生の講演は、どうすればいいという”How to”を伝えるのではなく、どうあればいいのかとその場で参加者に考えてもらうものでした。私自身の講演では、問いかけはしても、自分なりの答や具体的な例を伝えてしまっています。自分の講演スタイルを変えたいという気持ちになりました。とてもよい刺激をいただきました。
それだけでなく、金先生から、子どもを見るということの意味と大切さを始め、本当にたくさんのことを学ばせていただきました。ありがとうございました。

関係ができていない学級での授業の難しさを感じる

昨日の日記の続きです。

3つ目の公開授業は、他の学校の先生による中学校2年生の図形の証明の授業でした。子どもたちにとって活動する必然性のある課題を意識したものでした。

授業者は子どもとのコミュニケーションを意識している方です。子どもの顔を上げることを強く意識して声をかけますが、なかなか思うようにはいきません。この日3つの学級に共通することです。
授業者は「正三角形をかいて」「(辺を共有した)正三角形をもう一つかいて」「線分上に適当な点をとって」「その点と頂点を結んだ線分を一辺にする正三角形をかいて」というように指示を分割し、その度ごとにフリーハンドで黒板に書き足していきます。正確な図を用意して示せばよいのに、しかもフリーハンドと思ったのですが、ちゃんと意図がありました。最後にかいた正三角形の残りの頂点がもう一つの正三角形の辺上にあるかどうかがはっきりしないようにしたかったのです。頂点が辺の右側、辺上、三角形の中と子どもたちがかいた図が分かれることで、本当はどうなのだろうと疑問を持たせたのです。
この疑問をもとに「……、点○が線上にあるのか?」と問題を提示し読み上げます。しかし、子どもたちの多くは板書を写すことを優先しています。授業者は「何が言えればいい?」と子どもに聞いていきます。人間関係ができていない子どもたちが相手なので、しゃがんで目線を子どもの高さに合わせるといったこともします。コミュニケーションに関するスキルの高さがうかがわれます。この時、すでに考え込んでいる子どもが何人もいます。もう自分の世界に入っています。よい課題と提示の仕方であったということがわかりますが、これでよいのかは悩ましいところです。こういった場面で、先生と子ども、子ども同士がかかわることが日ごろからあれば、そこに参加しようとすると思います。こんな場面からも、日ごろの学級の様子がほの見えてきます。この子どもたちであれば、まず問題に取り組ませた方がよかったのかもしれません。判断が、難しいところです。

一人の子どもが「2つの三角形が合同ならいい」とずばりと正解を言います。授業者は「どうして」問い返して、「問題の点と頂点を結ぶ線分と辺の角度が、三角形の頂角と等しいことが言える」ということを引き出しました。この進め方はあまりにももったいないと思いました。「2つの三角形が合同ならいい」という発言に対して、「○○さんの言っていることわかる?」と子どもたちに戻して考えさせたいところです。ペアやまわりと相談させることで、子どもたち自身で気づき、考えを深めることができたと思います。
さて、ここで2つの角が等しいことを証明しようとなるのですが、いつの間にか点が辺上にあることが前提になっていました。時間のこともあるので、授業者が取り組ませたいところに、すぐに持っていきたくなるのですが、「このことが言えれば線上にあることがわかるが、線上にないことを言うにはどうすればいいのかな?」といった問いかけも必要だったと思います。

指名した子どもに板書をさせ、説明させます。結論と条件が混乱して、結論を使って説明をします。聞いている子どもたちは不思議な顔をしていますが、言葉は発せられません。結局授業者が説明を始めます。慣れない学級なので難しいかもしれませんが、ここは、子どもたちに、「どうしたの?」「何か言いたそうだね?」と発言を求めれば、きっと答えてくれたと思います。
授業者が説明する間、間違えた子どもは前に立ったままでした。授業者は説明を終えた後、その子どもに板書を修正させました。なるほど、最後は本人に正しい答を書かせたかったのです。
子どもから質問が出てくると「いい質問」と評価します。「いいと思います」という発言に対して、「何がいいと思いますか?」と問い返します。個別の発言に対する受けと返しがきちんとされています。

授業者は子どもの考えを大切にしようとしています。子どもの考えを積極的に引き出すために課題の提示についても工夫をしています。慣れない学級だったこともあり、他の子どもにつなぐことがほとんどなく、授業者が説明する場面が多かったのが残念でした。子ども同士で考えを深める場面をもっと見たいと思いました。

最後は、大学の教授による講演でした。
日本の授業研究が海外で評価されていることやそのエピソードが中心のお話しでした。興味深い事実もたくさんありましたが、主張したいことは何かが今一つ私には理解できませんでした。日本の授業研究が評価されていることが、私にとっては既知のことだったからかもしれません。
最後に、ピラミッド型にガラス玉を積み上げたオブジェを題材にした課題を紹介されました。子どもが書いた式の意味を説明するといったものですが、大学生を対象としたものです。大学生にとってはよい課題だと思いました。その答や内容についても時間をかけて説明されましたが、少なくとも私にとっては考えるまでもないことだったので、ちょっと残念でした。おそらく参加された先生方も同様の感想を持たれたと思います。
主張がシャープに伝わる講演の難しさを感じました。

この日一番の収穫は、旧知の大学の先生とお会いできて、授業の感想などを聞き合えたことかもしれません。会場での授業検討会の意見は、私とはずいぶん視点が違うもので、意見を言う気になれなかったのですが、この先生や一緒に参加した先生との話はとても共感し合える、考えが深まるものでした。
他の団体の主催する研究会に参加することで、いろいろなこと考えさせていただきました。よい学びの機会だったと思います。

授業は日ごろの積み重ねが大切だと実感する

昨日の日記の続きです。

2つ目の公開授業は、この学校の先生による中学校1年生の文字式の利用の授業でした。
この日の課題は、前時にやった3つの連続する整数の性質を拡張して、偶数個の連続する数の性質を考えるものでした。

授業の開始の挨拶はきちんとするのですが、子どもたちが授業者と目を合わせないのが気になりました。授業中に子どもたちの顔が上がらない場面で授業者が顔を上げるように指示をすることもあるのですが、なかなか全員の顔は上がりません。

前時の復習で、3つの連続する整数の和は真ん中の数の3倍になることを確認した後、「どこが変えられるか?」と問いかけます。問いかけはするのですが、授業者が連続する「3つの偶数」、「5つの整数」「7つの整数」「9つの整数」を調べることにします。なぜこれを選ぶのかの根拠が全くありません。普通、「奇数は?」「6や8は?」と疑問に思うはずだと思いますが、そのような声は出てきません。子どもたちは、教師が課題を提示して自分たちはそれに答えるという、教師主導の進め方に慣れているようでした。

答がどうなるか予想させたあと、説明をペアで「整数が偶数の時」「連続する奇数の個の時」と分担して確認します。分担するという発想は個人的にはどうも好きになりません。同じような説明になってよいので、互いに同じ課題について説明し合う方が、学び合えるように思うからです。
子どもたちが説明する性質が「3つの連続する偶数の和は、6の倍数になる」「5つの連続する整数の和は、真ん中の数の5倍になる」となっていて、その視点が数学的にそろっていないことが気になります。「3つの連続する偶数の和は、真ん中の数の半分の整数の6倍になる」とするのか、「5つの連続する整数の和は、5の倍数になる」とするのが、本来のように思います。「性質とは何を言うのか?」「どういった視点で見るのか?」といったことが意識されていないことが気になります。思考の連続性が感じられないのです。
授業者は「奇数個の時は……」とまとめますが、奇数個か偶数個かでセグメントを分ける理由が明確ではありません。最初に、偶数個も考えてみて、「奇数個なら今までの考えが使えそうだ」「偶数個は真ん中の数がないから、ちょっと違う」といったことを子どもたちから出させたうえで、奇数個と偶数個を区別する必要があったと思います。
この課題で大切にすべき数学的な予想や推論がなく、天下りで教師が課題を示すのはあまりにもったいないと思います。子どもたちが自ら課題を見つける絶好の機会を逃していると思います。

連続する整数が、4個、6個、8個の時、それらの和にどんな決まりがあるか考えることを次の課題にします。ここで言う「決まり」とは何かが気になります。「性質」と「決まり」の違いが明確になっていません。何らかの式を立てることなのか、必ず偶数になるといったことを言うのか、それとも出てきた式を解釈することなのかがはっきりしていないのです。数学は他と比べても特に言葉にこだわる教科だと思うのですが、曖昧なまま授業が進んでいることが残念です。

4個、6個、8個を考えた子ども同士集まって話し合います。何を話し合うのかが今一つよくわかりません。「決まり」という言葉がはっきりしていないので、目標が定まらないのです。数を文字に置いて式を立てた子がいます。どの数を基準にするかは子どもによって違います。真ん中の数の和の2倍といったことを言う子どもいます。これらの考えをどう子ども同士が深めていくのかがこの活動のポイントですが、あまりかかわれていませんでした。友だちの説明を顔を上げて聞かずに手元のワークシートを見ている子どもも目立ちます。互いに聞きあって考えを深めるということが普段からできていないようです。
日ごろの数学的な活動の中で、「帰納的に見つけたものがあれば、それがいつも言えることなのかを説明する」「演繹的に見つけたことに対して、どのように解釈するか、また他の場合に拡張できるのかを考える」といったことを常に求める必要があります。そういった視点が子どもの中に育っていれば、こういった場面で疑問をぶつけたり、相談したりできるようになっていると思います。

4個の場合に見つけた決まりを「真ん中の数の和の2倍」と子どもが発表しました。ここから考えを広めることのできる発言です。しかし、授業者はすぐにこの答を「真ん中の“2つ”の“整数”の2倍」と修正してしまいます。「それってどういうこと?」「真ん中の数って何?」「○○さんの言っていることわかる?納得する?」といったように問い返してほしいところです。子どもの板書を先生が解説します。どうやってこのように考えたのかを子どもに聞くこともしません。結局、子ども同士がかかわり合う場面はありませんでした。一人の子どもの発表をもとに先生が結論づけてしまいます。

「みんながみんなこうじゃないと思いますが……」と奇数個の時と何が違うかを授業者がまとめます。時間が気になるとは思いますが、そのように思うのであれば、他の考えを聞きたいところです。
「奇数個の時と同じ見方ができないか考えてみましょう」と言いますが、子どもたちから出てきた疑問ではありません。常に授業者が課題を提示しているのです。
x−1+x+x+1+x+2という式を発表した子どもがいます。真ん中の数をxとおきたいのにおけないという苦悩が式からにじみ出ています。この苦悩に焦点を当てることで考えを一気に深めることができます。「何をxとおいたの?」「どうしてそうしたの?」と聞くことで、「真ん中の数がない?」という言葉が出てきます。「なぜ、真ん中にこだわったの?」と聞くことで「奇数の時に真ん中の数×個数になったから」という考え出てくるでしょう。本人が上手く言えなければ、「だれか、○○さんの気持ちがわかる人?」と聞けばきっと答えてくれます。「真ん中の数って何だろう?」と切り返すことで、「平均」といった言葉が出てくるかもしれません。平均という言葉が出てくれば、奇数個も偶数個も関係なく、統一的に記述することにつなげることができます。しかし、授業者は式の流れを追うだけでした。授業者が数学的な価値をどのようなものととらえているのか疑問に思いました。
結局授業者は、自分の求める答「最初と最後の数を足して2で割って個数をかける」を書いた子どもを紹介してまとめてしました。これでは、奇数個の場合の「真ん中の数」との関係が見えてきません。ここは、最後まで真ん中の数にこだわりたいところでした。この説明ですべての連続する数の和について言えることとその意味についてはほとんど触れられることはありませんでした。

子どもたちは友だちが説明する場面では聞こうとはするのですが、板書を写すことがどうしても優先されているようです。顔を上げている子どもは半分以下です。また、一部の子どもは自分の世界に入って、ずっとワークシートを見て考え続けています。授業者はそんな子どもたちを見ていません。子どもの説明の後、「わかりましたかー?」と問いかけて、すぐに補足の説明を始めます。
授業全体として、子どもの考えや気づきを共有し、深めていく場面がありませんでした。一見、子どもたちの考えをもとに進めているように見えますが、説明はほとんどが授業者でした。子どもたちは、いろいろと思考はしているのですが、それを取り上げて評価される場面や価値付けされる場面がありません。子どもたちも、授業者の提示する課題を「解く」ことが学習だと思っているようでした。

この授業のねらいを実現するのであれば、例えば、「3つの連続する偶数の和」については、「偶数も整数だから、前にやったことがつかえ、真ん中の数の3倍になることが言える」「偶数という条件が加わることで、何が言えるかな?」と問いかけて、既存の知識を活かして、出てくる式を解釈することを価値付けしていくといったやり方がありそうです。個数を増やすという「拡張」をすると、「3つの時に言えた、『真ん中の数×個数』は成り立つのだろうか?」と問いかけて、「奇数なら言えそうだ」「真ん中の数がないから偶数では言えない」といった言葉を引き出し、「偶数の時は真ん中の数はないの?あるの?」と揺さぶったりしてから、「じゃあ、何が言えて何が言えないのか?ちょっと考えてみてくれる?」と課題を提示して活動させるといったやり方があります。「真ん中の数はある」という子どもが出てくれば、その子どもの考えを活かせばいいですし、出てこないのであれば、「2と3の真ん中の数はある?」と数直線を使って問いかけても面白いでしょう。真ん中の数を使って、(x−1.5)+(x−0.5)+(x+0.5)+(x+1.5)といった式がきっと出てくると思います。整数にならないからダメだという意見が出てくれば、数の拡張の意味について考える機会にもなると思います。

既存の知識を拡張するという発想は面白いと思いますが、だからこそ子どもたちの考えをどう活かし、深め、共有するかを考えて授業を構想する必要があります。教師主導で、教師の求める考えを無理やり引き出す、教える授業になってしまったように思います。また、子どもたちも、互いに考えを聞き合い深めることに慣れていないと感じました。授業は日ごろの積み重ねが大切であることを改めて実感させられました。

この続きは明日の日記で。

研究会で授業の展開について考える

数学の授業づくりの研究会に参加してきました。この日は体育館で3つの授業が公開されました。一般参加者として授業を見るのは久しぶりなので、純粋に授業を見ることを楽しむことができました。

一つ目の授業は中学校1年生の関数の授業でした。小学校の算数の題材で、ヒゴを使って正方形で階段をつくっていくときの段数とまわりの長さの関係を考えるものがあります。その題材を小学校の「ともなって変わる2つの量」という考え方から、「一方が決まれば他方が決まる」という関数関係でとらえなおし、従属変数のふるまいを独立変数との関係で見ることによりその「特徴」を知ることができることを理解させるのがこの授業のねらいでした。

授業者は大学の教授です。子どもの顔が上がっていないのにしゃべる、子どもが理解できているかの確認をせずに進めていくというように、授業技術については気になるところがたくさんあります。小中学校の現場の経験のない方にはどうしても仕方がないことです。また、授業者の問題ではなく、この学校の子どもたちも授業者の顔をあまり見ない傾向があるように感じました。顔は上がっていなくても説明はちゃんと聞けています。優秀な子どもたちなのでしょう。しかし、子どもたちの表情が見えないと理解の程度がわからなかったり、気づきや戸惑いを察知できなかったりします。子どもの反応を大切にする学校であれば、子どもたちは自然に顔を上げるようになっています。このことも少し気になりました。

子どもたちに題材を提示して、「変化する数量をちょっと考えて」と発問します。小学校であれば実際に試してみせたり、自分の手で図をかかせたりといった操作活動必要になりそうですが、さすがに中学生です。すぐに考えることができます。子どもたちから「まわりの長さ」が出てきます。「段の数が変わると?」と授業者は返しますが、子どもはあまり反応しません。授業者が関数関係を意識させようとしていることがわかりますが、子どもたちにとっては唐突だったのかもしれません。子どもから出てきたものを図で確認していきますが、「面積」を「四角の数」と置き換えたり、「段の数」と「高さ」を同じとしたりします。数学では、等価なものに置き換えて考えることは大切なことですが、子どもたちに納得する時間を与えることが必要だと思います。「頂点の数」も出てきたのですが、確認をしませんでした。私は面白いと思ったのですが、その理由がよくわかりません。授業全体が、授業者の都合で進んでいるように感じました。

この中からどの数量に注目して関係を調べるのかを決めるのですが、そこまでで15分以上かかっていました。「段の数が変われば変わる量」ということを意識させたいのかとも思いましたが、特にそのような場面はありませんでした。導入としてはちょっと長すぎると思います。
何を調べるのかを挙手で諮りますが、どれがよいか数学的に根拠があるわけではありません。子どもにとっては調べる必然もなく、この授業のねらいや目標もよくわかっていないので、ただ指示に従って活動しているだけです。「関係がよくわからない」「知りたい」といったこの後の活動やねらいにつながるような条件を足しておきたいところでした。

ここで、1段、2段、・・・に続いて突然x段という言葉が出てきます。調べるということと段の数をx段とおくこと必然性がありません。また、x段とした時点で関数であることを示唆していますが、多分に誘導的です。
「正方形の数」か「ヒゴの数」を選択させて「段の数」との関係を考えさせます。授業者は「作戦」という言葉で、関係をとらえる過程や方法を意識させようとしますが、子どもたちの手の動きは止まりません。
関係という言葉がどうにも明確にならないまま授業が進んでいきます。2つの数量の関係を式にすることがねらいなのであれば、関係を考えることには直接つながりません。それでも子どもたちは、活動しています。「関係を調べる」=「関係の式をつくる」という図式でできているのでしょう。
「どんなことが明らかになったか?」を書くように指示します。途中でまとめの例を出すのですが、どうにも意図がわかりません。視点や方向性を明確にしたいのなら、最初に例を示せばよいと思います。自由に書かせてそれらを価値付けしながら考えていくのであれば、例を示す必要はありません。途中で示すのなら、子どもたちが書いたことをいくつか発表させてカテゴライズしたり価値付けしたりして、視点を増やすといったやり方もあります。どこをねらっているのかよく見えませんでした。

多くの子どもは表から規則を調べていましたが、それだけでは根拠が不足しています。授業者はそのことには積極的に触れていませんでした。「よく見ると式の形が似ている」といった言葉を発しますが、子どもたちがそのように思ったのかどうかはわかりません。主観で話を進めていきます。授業者が説明をしている間も、子どもたちは説明の式をノートに写していました。
考え方によって、式の形が違ってきましたが、最終的には同じものだという確認の場面がなかったことも気になりました。子どもたちは疑問を持たなかったのでしょうか?授業を通じて疑問を持ち、それを解決していくといった形の授業にはなっていませんでした。授業者と子どもたちのつながりが感じられないのが残念でした。

最後に授業者は「関数の考えを使うと特徴がつかめる」とまとめましたが、「関数の考え」とは何だったか、どんな「特徴がつかめた」かは、全くわかりませんでした。

この授業のねらいを達成するのであれば、式を出すことにエネルギーを使うのではなく、式などを使って関係の特徴をたくさん表現させたいところでした。
例えば「段の数」と「正方形の数」の間にどんな関係があるかを問いかける。その関係にどんな特徴があるかを言わせる。その上で関数関係にあることを押さえて、関係をより明確にするにはどうすればいいのか考えさせる。「グラフ」「表」「式」といった言葉を子どもたちから出させた上で、それぞれがどのようになるか、そこから何が言えるかを考えさせる。こんな展開もあるでしょう。
また、特徴を意識させるのに、「正方形を2倍にするには、段の数は2倍くらいいるのかな?ヒゴの数は?」といった課題もあるかもしれません。

「特徴をつかむ」というキーワードを意識した授業展開についていろいろと考えることができました。よい学びのきっかけをいただけた授業でした。

この続きは明日の日記で。
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