今年も野口芳宏先生から大いに学ぶ

本年度第4回の教師力アップセミナーに参加してきました。12年連続の野口芳宏先生の講演です。野口先生の元気な姿とお話に出会うことが毎年の楽しみです。

午前は作文指導のお話です。
現在の指導要領では「話す・聞く」の順番になっている。「話す」は表現で、「聞く」は理解だ。表現が先になっているが、理解してから表現するのが本来の順番だ。近年、表現力が重視されているが、基本は聞く力である。聞く力、「傾聴力」を大切にするべきだ。という主張から入ります。その上で、「書く」ことについてのお話です。

書くことは言語活動で一番高度で、作文力は国語の学力の総決算でとても大切なものだ。それなのに一番行われていない。書かせれば読まなくてはいけない。読むと腹が立つ。あれだけ指導したのに、漢字を使っていない、仮名遣いが間違っている。「一番いいのは書かせない」となってしまう。だから「読まない」というのが野口流です。

野口先生の作文指導の原則は「多作」「楽作」「基礎基本」の3つです。
たくさん書かせるというのが「多作」です。好きにするというのは理想だが、それは求めないでとにかく書かせる。欠席をすれば「僕の欠席した1日」を書かせる。とにかく書くことを日常化させる。それもただ書かせるのではなく、意識的、自覚的、目的的に書かせることで力をつける。いかにも野口流です。「鍛える」という言葉がこれほどふさわしい方はいません。
この多作のための方法が「日直作文」です。日直が15分早く来て、自分の書いた作文を黒板に書きます。子どもたちは、必ず「評価」の視点で日直の作文を読みます。日直に望ましい読み方で読むように指示し、間違いはその場で指導します。こうすることで教師が手間をかけなくても、子どもたちはおかしな文を書かないようになるというわけです。子どもたちに書いたものを提出させ、よいものは保存に値すると評価して年度末に傑作集として文集にする。こうすることで、子どもの意欲も高まります。

子どもが面白がって書くというのが「楽作」です。「苦作」に対する野口先生の造語です。嫌なことは続かない。苦を楽にするという発想です。作文指導はネタが大切というわけです。子どもが一番喜んで書いたのが「野口先生の欠点」。なるほど、これなら作文嫌いの子どもでも喜んで書きそうですね。子どもが作文を書かないのは、作文力がないのではなく、ネタと題が悪いということです。
例えば、子どもが自分の大好きなものになったつもりで書く「なりきり作文」。自分の好きなものになるので、どうしてもその対象は持ち主である自分自身に向かいます。不思議と自分の悪いことを書くそうです。自分を見つめ直すのです。その後で、「僕から○○へ」と返事を書かせれば反省する。道徳的効果もあるのです。

「多作」「楽作」で子どもたちの作文の活動量は増えますが、それだけで力がつくかというと、そうではありません。ただ活動するだけでは、ある程度の力は着きますが、それ以上はつきません。工夫改善が必要です。「基礎基本」を教えないと崩れた「多作」「楽作」が続くことになります。そのために、野口先生は「作文ワーク」をつくられました。例えば、「段落」を学ぶのであれば、「試し」の文章を段落に分けるという作業をします。段落を分けるのはどういう時かを、ヒントの形でまとめてあります。こうして「段落」という文章を書くための基本を教えるのです。欄外には、どのような学力が形成されるかという「形成学力」と子どもが学ぶ「学習用語」が書かれています。野口先生がいつも主張されている、国語でどのような学力を形成するのかを意識し、子どもたちが学習すべき用語を明確にしています。子どもたちにつける力はどのようなものか、教えることは何かという授業の基本がきちんと守られています。野口流は、いつもぶれることなく、授業の基礎・基本がきちんと押さえられています。

さて、問題はこうして子どもたちに作文の活動をさせていくと、読まなければいけない量が増えていくことです。最初に述べたように、ここで「読まない」のが野口流です。
では、具体的にどのようにするのでしょうか。
ポイントは、褒めて、読まないことです。読むと腹が立つ。読まないで返すと親が怒る。読まないで見る。見たとたんに○をつけて評価をするのです。○は大サービス。ちゃんと書いてあれば三重丸、ちょっとどうかは二重丸。「うまい」と書いて、細かい批評はしないのです。それでも気になるところがあれば、そこには線を引く。これだけでいいと言うわけです。教師が読むことよりも、子どもがどんどん書くことの方が、作文の力をつけるためには大切なのです。
とはいえ、誤字は気になるものです。しかし誤字を直しても子どもは見ないものです。子どもの間違いは、普段の国語の授業が貧しいからそれが反映しただけだというわけです。個別に対応するではなく、こういう間違いがあったといって授業で取り上げて全体で指導すべきだということです。

いかに作文力をつけるかを、具体的、現実的な方法で示していただけました。私が日ごろ主張している、「先生が頑張ったからといって子どもの力がつくわけではない。子どもが頑張ることが大切」にもつながるお話だと勝手に解釈して喜んでいました。
さて、参加された先生方どのように野口先生のお話を聞かれたでしょうか。早速明日から実行しようと思われたでしょうか。セミナーでよいお話を聞いた、勉強したと満足するだけでは授業は変わっていきません。実行しようと思っても、実際にやらなければ何の意味もありません。何か一つでも実際に試していただきたいと思います。

午後の前半は、中学校の国語の授業(国語の授業撮影参照)のダイジェストビデオを見ての、野口先生の講評です。
野口先生はいきなり核心に迫ります。「この授業で子どもたちに形成したい学力は何だったか」と問います。
野口先生は、学力形成の判定を次のように整理されています。

1 入手・獲得
2 訂正・修正
3 深化・統合
4 上達・進歩
5 反復・定着
6 活用・応用

今回は、この1から4にそって検証されました。このように学力形成の観点から分析することで曖昧だったものが明確になっていきます。授業者にとってはごまかしがきかない、厳しい指導です。しかし野口先生がこのような指導をされるということは、授業者がそれに耐えられると判断したからだと思います。セミナー終了後の反省会では、授業者にとても温かく接していたことが印象的です。公的な場と私的な場をきちんと区別して接してくださいます。そこも野口先生の魅力です。

授業での問いに関連して、質問と発問の違いを示されます。
子どもに聞くのが「質問」。正解があって、そこにいたる道筋があるのが「発問」。「考えることができる」と問うのであれば、考えればいいのであって、その質は問われません。「正しく読み取る」ことを求める必要があります。
そういう意味で、今回の授業は活動主義であると評価されました。
いつものことながら、明確です。参加された方、授業者ともに多くのことを学べたと思います。正解にいたる道筋を明確にしておくことは、どの教科でも大切なことです。その道筋を子どもたちが見つけていく活動をどのようにつくっていくのかが、授業づくりのポイントであることを再確認することができました。

最後の講演は、「日本の誇り」という視点で皇室について話されました。
私たちは、自分たちの国「日本」に誇りを持てているのだろうかという問いかけから始まります。自分の出自である日本という国に誇りを持ってほしい。日本には世界に類を見ない長い歴史を持った国です。その象徴として皇室があります。昭和天皇のエピソードをもとに、皇室は私たち日本人が世界に誇れるものだということを話されました。
いつも思うことですが、いろいろな考えがある中で、批判を恐れずに自身の考えを主張する姿勢はとても立派です。よい悪い、正しい正しくないは別にして、批判されることがわかっていて主張することには勇気がいります。自分はあれだけ堂々と自分の考えを公の場で主張できるかと考えると、いささか心もとなくなります。

今年も野口先生のお話とその姿勢から多くのこと学ぶことができました。毎年お会いしていても、もうこれで十分だということがありません。今から、来年お会いできることを楽しみにしています。

地域の枠を超える動き

子どもたちの間で、スマートフォンやゲーム機などを利用したコミュニケーションでトラブルが増えています。その対策に頭を悩ませている学校は多いと思いますが、具体的な対策がとれていないのが現状のようにも思います。そんな中、保護者向けのネット講習会を企画したPTAと学校があります。家庭と学校が協力して対応していこうという試みです。この問題は1校だけの問題ではありません。市全体で取り組むべきだと考え、市内の全中学校を会場にして講習会を行うことを企画しました。急な話に「なぜ、今」と思う学校もあったようです。私には一刻を争うほど喫緊の課題になっていると思えるのに、意外な反応でした。
企画した学校からすれば、他の学校のことまで考えることは負担以外の何物でもありません。実際、市内の全中学校を会場として行うには外部の講師を手配する余裕も予算もありません。そこで、講師研修会を開いてPTAや地域の方、教師、自分たちで講師を務めようということになりました。自校のことだけを考えるのではなく、市全体のことととらえ、互いに協力して自分たちの手で子どもたちを守り育てていこうという姿勢に、これからの地域と学校のあり方の方向性が見えるように思います。

素晴らしいのが、この講師研修会を他の地域の方にも参加を許したことです。自分たちの負担でつくり上げたものを無償で提供するのです。行政主体であれば、予算の出どころのこともあり、このようなことは難しいと思います。しかし、行政ごとにそれぞれが一からつくりだすことは時間と予算のムダです。よいこと、必要とされることはそういった枠を超えて互いに共有すべきです。そのあたりまえのことをあたりまえのように実行されたことに頭が下がります。かく言う私も、参加を申し込みました。どの学校もネットの問題には頭を悩ませているようです。たくさんの地域学校からぜひ参加したいという声が上がってきました。
1つの地域、学校の試みをその枠を超えて提供し合い共有する。今回の研修会がきっかけとなって、このような動きが広がっていくことを期待したいと思います。

アンケートの対応も比べられる

秋は行事が多い季節ですが、最近はそれに伴いアンケートの季節とも言えるように思います。学校評価に関連してアンケートを取る機会が増えているのです。特に行事は終了後時間が経っていると記憶があいまいになるので、できるだけ早く実施することが望まれます。ではその結果の保護者へのフィードバックはどうでしょう。学校側の都合でいえば、反省と次年度の計画までに集計しておけばいいのでしょうが、保護者としてみれば1月も経ってからその結果見せられても、自分がどう答えたかも覚えていないということになります。

そこで最近はOCR(マークシート方式)やWEBのアンケートシステムを使って素早く実施・集計する学校が増えてきました。行事の翌週にはホームページにアンケートの速報が載っている学校も珍しくなくなってきました。とはいえ、結果を知らせるだけであればアンケートの意味はありません。その結果をどのよう評価し学校としてどう対応するかを伝える必要があります。しかし、結果はICTを活用して素早くできるとしても、分析や対応はすぐにできるわけではありません。以前に「保護者はホームページを通じて校長比べをしている」という言葉を伝えましたが(他校の取り組みをどう見るか参照)、このアンケート結果への対応も「校長比べ」の重要な要素のように思います。

結果を公表してもその内容についてのコメントがなければ、保護者の信頼は得られません。特に自由記述欄に意見を書いた方は、それに対する反応を期待しているはずです。公表するだけでは、かえって無視したようにもとられてしまいます。その意見を今後どのように扱かっていくのか、結果の公表とあわせて明確に伝えることが大切です。「こういう理由で対応することは難しい」「次年度に向けて検討する」このことを伝えるだけでも随分印象は変わります。意見を書いた方もそれがそのまま通るとは思っていません。きちんと説明されれば納得していただけるのです。もちろん、検討するといったことは次年度きっちりその結果を伝えなければいけないことは言うまでもありません。

ホームページも毎日更新することから、その発信内容の質が問われています。アンケートも素早く実施・集計することから、一歩を進んでその対応の質が問われてきているように思います。保護者の目には、学校間、校長間の格差がますます大きくなっているように見えているのではないでしょうか。

研究発表会の季節が近づく

秋分も過ぎ、秋らしい日が増えてきました。研究発表会の案内が届いてきます。秋は研究発表会の季節でもあります。私がかかわらせていただいている学校でも、この秋に研究発表会を開くところがいくつかあります。どのような発表になるのか、案内を見ながら思いを巡らします。
どの学校も研究を通じて得たことがあると思います。授業公開する学校では、素晴らしい子どもの姿が見られ、その姿はどのようにしてつくられたのか参加者に明らかになるようなものであれば素晴らしいと思っています。

発表会によっては、「こんなにいい学校になりました。どうぞ見てください」という成果だけが目について、何がこの学校のよさをつくり出したのかよく伝わらないことがあります。「こんなことをやりました」とやったことだけをたくさん伝えられ、一つひとつがどのように有効だったのか、どこに改善点があったのかがわからないこともあります。参加された方が、自分の学校に取り入れようとした時に知りたいと思うことを伝える努力が必要です。時には、実際に行った改善策などよりも、それを学校全体に広めるためにどのような体制をつくったのか、先生方の関係をどう作り上げたのかといったことを発表する方が、参加者には参考になることもあると思います。
講演をお願いされた学校に対して、講演の代わりに研修主任や何人かの先生方とのパネルディスカッション(座談会?)を提案することがよくあります。それは、「どんなことが学校を変えるきっかけになったのか」「うまくいくためのポイントは何か」といった参加者が知りたいと思うことを私が代わって聞き出すことの方が、私の拙い講演よりもよほど参加者の役に立つことだと思うからです。

私のアドバイスは、学校によってかなり異なっていると思います。もちろん子どもと教師の関係、授業規律の問題など、共通してお話することもありますが、基本的にそれぞれの学校が目指すところによってアドバイスの内容は大きく違います。発表会に参加される方やその所属する学校も、それぞれ目指すものや状況は異なります。「どのような課題があり何を目指したのか」「どのような学校にとって有効なことか」が端的に伝わることが大切だと思います。そうすることで、参加者が研究のどこを参考にすればいいのかがよくわかるからです。「やっと、ここまでです」「まだまだこんな課題があります」「こうするとうまくいきません」「こんな失敗をしました」といったことを隠さず伝える方が参加者にとっては有益なこともあると思います。

研究発表会は、自分たちの研究の成果を発表する大切な場です。だからこそ、「こんな成果が出ました」「こんなに頑張りました」と多くの方に知ってもらいたい、伝えたいという気持ちが前面に出ます。しかし、研究で得たことをできるだけ多くの学校に役立ててもらうことこそが本当に大切なことだと思います。参加者の立場に立って、「何をどう伝えれば、より自分たちの研究を活かしてもらえのるか」という視点を発表に加えてほしいと思います。

この秋、いくつかの研究発表会に参加する予定です。そこでどのようなことを学べるのか今からとても楽しみです。

体育大会で子どもたちの成長をみる

先週末は学校評議員を務めている学校の体育大会に、来賓として参加させていただきました。
いつものことですが、子どもたちがどのような成長を見せてくれるかとても楽しみです。

開会式では、子どもたちの視線が印象的でした。しっかりと壇上を見つめています。端の列の子どもたちが体を自然に内側に向けているのに気づきます。とても素晴らしい姿勢です。
例年、聞く姿勢や集団行動面で差があるので、1年生がどの集団かすぐにわかるのですが、今年はよく見ないとわかりませんでした。かろうじて体の大きさの違いでわかる程度です。学年の差が縮まったようにおもいます。というか、高いところで揃ってきたという感じです。
何人も交代で話が続くので集中力が切れやすいのですが、最後までしっかりと保てていました。中でも校長の話の時の集中力はとても高いものでした。校長の話ということもありますが、やはり指導力も大きいと思いました。受け身の状態を変えるために、子どもたちに声を出させます。大きな声が出せるようになってから、「次は挨拶をします」と宣言し、子どもに心の準備をさせます。とてもよい挨拶になるのは当然です。こういうことが自然にできるのは流石です。集団に対する指導の上手さは、専門教科が体育であるからかもしれません。よい勉強をさせていただきました。

一方、係の子どもたちですが、今年は特にやらされている感が少ないように思いました。しっかり指導されてきちんとやっているというより、自分で一生懸命考えてやっているという雰囲気です。ただ、国旗掲揚や進行の係は、旗を揚げることやアナウンスに意識がいってしまい、自分たちが見られているという意識があまりありませんでした。公的な場であることを意識し、背筋を伸ばして美しい姿をつくろうとしてほしいところでした。最近はそこまでは指導しないのかなと思いましたが、聞けば今年は、教師の口出しをできるだけ減らし、子どもたちに考えさせ自分たちでつくる大会を意識させたそうです。いろいろな意味で納得できる話でした。
子どもたちの係の中でとても印象に残っているのが、トラックの審判です。1レースごとに違反がないか旗を揚げて知らせるのですが、例年は旗を揚げる時に顔が下がったままの子どもが目立ちます。無理もありません。暑い中、選手の足元を見ながら淡々と旗を揚げ続ける仕事です。モチベーションを維持するだけでも大変です。しかし、今年の審判は、どの子どもも背筋を伸ばし、顔を上げ、肘を伸ばしてまっすぐに旗を揚げます。とても気持ちのよい姿でした。見ていて感心しました。大会を支える地味な仕事ですが、自分に与えられた大切な仕事としてとらえていることがよくわかりました。

体育大会では競技している子どもではなく、観戦している子どもたちの様子を見るのが私の常です。昨年は、自分の学級の友だちが参加している時だけ集中して、他の学年の競技の時にはまわりとおしゃべりしているような姿も目につきましたが、今年は違います。どの学年もどの競技でもしっかりと観戦し、声援をおくっています。
スタートの準備の笛が鳴ると、運動場全体に緊張がみなぎります。該当学年でなくても全員の視線がスタートラインに集中しています。昨年と比べて大きく進歩していました。

クラスマス(ゲーム)で、とても素晴らしい姿を見ることができました。全員が運動場の正面に座り各学級の演技を見るのですが、午前は1、2年生だけで3年生の演技はありません。その3年生が各学級の演技の見せどころで自然に拍手をするのです。それにつられて各学年からも大きな拍手が起こります。自分たちの出番がないところで、見る姿勢で下級生を引っぱっていました。これが最上級生ということなのでしょう。

時間の関係で、午前中で失礼しましたが、子どもたちの成長した姿をたくさん見ることができ、とても幸せな時間を過ごせました。いろいろ指導したいこともあるでしょうが、その気持ちを抑え、先生方が子どもたちに多くを任せ、考えさせたことが成長の原動力のように思いました。先生方に見守られて子どもたちが生き生きと頑張っていました。この日の空のように、さわやかな気持ちで学校を後にしました。

子どもたちの姿から、数学との出会いを思い出す

先日、児童館のサマーナイトスクールへボランティアとして参加しました。算数・数学自由研究作品コンクールへ応募する子どもたちへのアドバイスをするというものです。立体図形に関して面白いことをしている子どもがいると聞き、興味を持ち参加させていただきました。

驚いたことに8名もの中学生が参加していました。数学に興味を持っている子どもがこれほどいることをとてもうれしく思いました。アドバイスをする大人も6人と多く、個別の対応が可能でした。
私がアドバイスさせてもらった中学3年生は、立方体を、各面を底面とする合同な6つの四角推に分割し、それを裏返して(元の立方体の面と四角推の底面を重ねる)できる立体が菱形多面体(合同なひし形で構成される多面体)になることに気づいたそうです。これがおもしろくて、同様のことを他の正多面体でもできないかと、模型を作って試したということです。結論から言うと菱面多面体は現れなかったのですが、このような姿勢はとても素晴らしいと思いました。数学的には、できない理由やできるための条件を示して証明できるとよいのですが、そこまでを求めるのはちょっと酷でしょう。高校生になって空間図形や三角関数を学習し道具を手に入れた時に、このことを思い出して挑戦してくれることを期待します。今回のことをきっかけにして、多次元空間や内積空間など、本格的に数学に興味を持ってくれたらとてもうれしく思います。
本題のコンクールへのレポートは、最初の立方体と菱形多面体の関係をきっかけに他の正多面体ではどうなのか興味を持ったこと。模型をつくることで確かめてみたこと。その結果わかったことと予想したことまでをできるだけわかりやすい写真をつけて書くようにアドバイスしました。彼がレポートを書くための参考になれば幸いです。

ここで子どもたちが挑戦していた内容は、大人や専門家からみれば数学的には大した意味がないと思われることかもしれません。しかし、こうしたことがきっかけとなって数学の世界に興味を持ち、知識の海に漕ぎ出そうとしてくれるかもしれません。実際、彼らが興味を持ったことを突き詰めていけば、必ず数学的に意味のある課題にたどり着くことに気づきます。子どもたちにそのような機会を与えるという意味でも、このような場をつくることはとても意味のあることだと思います。
子どもたちの姿から、私自身が数学に出会うきっかけとなった小学生や中学生の頃のいくつかの出来事とその時の気持ちを久しぶりに思い出すことができました。子どものころのように純粋に数学と向き合う時間をつくりたい。そのような気持ちにさせられました。昔の自分と出会うきっかけをつくってくれた子どもたちと企画者に感謝です。

今の私の学びの原点

ありがたいことに、研修や講演などでお話しさせていただく内容や対象の範囲が増えてきています。親御さん向けの子育てに関するものや、企業の社員研修、介護関係者向けの研修なども依頼されます。これらの研修を通じて私自身が学ばせていただくことはとても多いように思います。授業に関することでも、日ごろあまり接点がない栄養教諭や養護教諭の方を対象にするものは、いつも以上に学ぶことが多いと感じます。
私自身、数学以外に専門と呼べるような知識や技量があるわけではありません。その数学とて、数学者を名乗るには程遠いレベルです。そんな私だからこそ、他者から学ぶしかありません。授業についていえば、多くの素晴らしい先生の授業づくりのお手伝いをし、その授業を見せていただき、一緒に考えたことが今の私の基礎にあります。そうやって学んだことを私の言葉で皆さんに伝えているだけです。

自分自身が経験したことがないようなことについても、依頼をされれば原則お引き受けすることにしています。野口芳宏先生がよくおっしゃる、「『はい』か『Yes』しかない」を身近で実践されている方が多いため、いつの間にかその影響を受けてしまっているようです。そのため無謀とも思える仕事を引き受けてしまうこともあります。そのような時は、相手の方に教えてもらう、聞きだすことで何とか対応していきます。この経験がとても貴重なものです。必ずと言っていいほど自分自身の世界が広がるのを感じます。学ぶとはこういうことなのだと実感できます。教師時代、先輩や同僚からたくさんのことを学びましたが、一番多くを教えてくれたのは子どもたちだったように思います。いつも、子どもの「わからーん」という言葉をきっかけに、教師として大切なことを学んできように思います。子どもたちの「わからない」と向き合うことは、自分自身の「わからない」と向き合うことと同じです。「わからないことは、相手から引き出そう。教えてもらおう」という今の私の考え方はそこから始まったように思います。

意外に思われる方があるかもしれませんが、一方的に話すことの多い講演や講義は実はあまり好きではありません。なかなか機会がないのですが、一つのテーマを何回かに分けて一緒に考えながらじっくり進める授業がやはり一番性に合っているように思います。今回、月1回の研修を半年ほど引き受けることになりました。一貫したテーマで連続して行えるので、講義ではなく授業に近い形で行なえそうです。授業することを通じて学ぶことが今の私の原点であることを再確認させていただけそうです。
参加した皆さんからどのような考えが出てくるでしょうか。私も含め互いにかかわり合うことでどのように深まっていくのでしょうか。とても楽しみです。

学び合いを中心とする授業づくりを考える

先週末、本年度第3回の教師力アップセミナーに参加してきました。三重大学教育学部教授岡野昇先生の「身体技法を通したワークショップ形式による学び合いを中心とする授業づくり」でした。

子どもを見ることが大切だと言われますが、子どもを見る視点を変えることで教師に見える子どもの姿は変わってきます。まずそのことからお話が始まりました。子どもを変えるのではなくその環境を変える、子どもを見るのではなくその関係を見るという発想はとても共感できました。
失敗を「笑わない学級」ではなくて、失敗を「笑いとばせる学級」という言葉もとても納得のできるものでした。授業は失敗や間違いから出発していくもので、それらが価値のあるものだという考えがその根底にあります。参加された先生方は自分の学級で具体的にどのようにしていこうと考えられたでしょうか。また、「許せないラインを明確にすること(明確なルールの設定)」ということを強調されていたことも流石でした。学級づくりの一番の基本、「安心・安全」につながることです。

私たちが持っている以下のようなパラダイムについて、

・学校は楽しい(学校観)
・失敗を笑わない学級(学級観)
・主体的に取り組む学習(学習観)
・自分の力でやりとげる子ども(子ども観)
・一人ひとりを大切にする指導(指導観)

「解す」「触れる」「委ねる」「任せる」「察する」「引き出す」というキーワードをもとに、身体的活動を通じて見直しました。

「解す」に関連して
人は失敗を笑うもの、失敗を楽しむことから始めればいい。できないことに挑戦する子どもをつくることが大切。失敗から出発して「理」を「解き解す」ことが理解。失敗を笑い合える、許し合える関係を学級につくることが求められる。

物理的な距離の持つ意味
子どもとの物理的な距離感も大切。距離が離れると関係性が薄れる。教室の後ろと教室の前では赤の他人の距離(公衆距離)になってしまう。だからコの字の机の配置、4人(互いに程よい距離を保てる人数)でのグループ活動。教師は子どものそばに行くことで子どもとつながることを大切にしてほしい。

「触れる」に関連して
「触れる」は「見る」「聞く」「触る」などと違って、双方向的である(主体と客体を入れ替えることができる)。私が机に触れる。⇔机が私に触れる。この相互に立場(主体と客体)が入れ替わる関係が大切。「教える」「教えられる」という相互主体(相互依存)の関係を重視する必要がある。他者とだけでなく、学ぶ対象(モノ)や自己においても双方向性が大切である。問題は、どのようにして双方向性をつくり出すかが問題。

「委ねる」に関連して
「助ける(力を上げる)力」と「助けを求める(力をもらう)力」が必要。一人ではできない課題であること、かかわらざるを得ない状況をつくることが、双方向の関係をつくる。学習の定着率は他者に教えることが一番高い。できる子どもは教えることで、実は大きな利益を得ている。この互恵の関係が大切。

「任せる」に関連して
「問題のない」学校・学級であろうとするのではなく、「問題を共有できる」学校・学級であってほしい。互いに問題を引き受けることが大切。そのためには、しっかりとした軸(ビジョン)を共有できていることが必要。

「察する」に関連して
コミュニケーションは、言語:非言語=3:7と言われる。相手の気持ちを察すること、受け容れる気持ちを持つことが大切。「他者の声を聴く」「聴き合う関係」が重要。大きな声で言い直させるよりは、聴き取ろうとすることを大切にしたい。テンションを下げ、「しなやかさ」と「集中」を重視する。

「引き出す」に関連して
「選手の力を引き出し、目標を達背する手助けをする」というコーチングの考え方はまさに教師の仕事そのもの。引き出すとは、「きく」こと。「聴くこと(同調して話させる)」「訊くこと(怪しい部分を訊ねる)」。そして、「タイミング(関心のあるその時に伝える)」「気づかせる(自分で見つけさせる)」「信じる(フランクな関係をつくる、絶対味方であることを伝える)」が大切。

パラダイムを次のように変えるべきではないかという岡野先生の主張が、ワークショップや具体例を通じて実感することができました。

・学校は楽しい(学校観)
→安心して落ち着いて学べる場

・失敗を笑わない学級(学級観)
→失敗を笑いあえる(許し合える)学級

・主体的に取り組む学習(学習観)
→受動的(客体的)=積極的受動性(聴く・訊く)+能動的(主体的)な相互主体(相互依存)の学習

・自分の力でやりとげる子ども(子ども観)
→仲間の力を借りて背伸びする、ジャンプする子ども

・一人ひとりを大切にする指導(指導観)
→関係を変えることによる、一人ひとりが大切にされる指導

そのためには、

・まずは教師が聴くこと(受容)から始める。
・聴き合う関係を丁寧につくる
・わからなさを授業の真ん中に置く

ことの3つを毎日心がけてほしいというお話は、全く同感です。
また、「わからなさを伝える」「聞かれたらわかるまで伝える(逃げない)」という2つのルールは学び合いの基本です。最後にこのことを強調されました。

岡野先生のお話は、参加者に方向性を示していただけたと同時に、教室で具体的にどう実践していくかという課題を突きつけるものでもありました。私にとっても自分の考えを整理し見直すとてもよい機会となりました。岡野先生、ありがとうございました。

学習とはどういうことか伝えてほしい

昔からあることなのかもしれませんか、子どもたちが学習するとはどういうことかよくわかっていないと感じることが増えています。
たとえば問題を解くときに、どこから手をつけていいかわからない、何をやればいいのだろうかと悩み考える時間が必要です。この時間が学力をつけるためにとても大切な時間です。しかし、答を知ることが目的の人にとっては全くムダな時間です。解答を見るか聞けばいいからです。たとえば宿題の計算ドリルを提出することを考えれば、解答を見てそのまま写すのが一番簡単で早い方法です。当然のことながら計算力は全くつきません。これは極端な例ですが、似たようなことをしているのです。
試験で点を取るためには、解き方のパターンや試験に出そうな知識をだけを覚えておけばいい。悩むのは時間のムダだ。多くの子どもたちが、そのように考えているように見えます。授業でも、友だちの説明と自分の考えを比べながら聞くよりも、絶対正しことを言うはずの教師の答を待つ方がムダがない。いや、そもそも自分でいろいろ考えるより、最初から正しい答を覚えた方が早いと考えているふしがあります。しかも、その教師の説明を聞くより、板書された正解を写すことを優先します。
ネットの普及で、知識や情報も簡単に手に入ります。わからない問題もネット上で質問すれば誰かがピンポイントで答えてくれたりします。聞くことが悪いことではありませんが、自分で考えずに答を知っても、その問題を考える過程で身につくはずの力がつかないことが問題のです。

学習は答探しではありません。知識を身につけるだけでもありません。身につけた知識を使って、問題を解決する。問題解決の経験を、問題を解決するためにはどのようなアプローチをすればいいかといったメタな知識に変えていく。知識を知恵に変えていく過程です。その過程を省いては意味がないのです。

たとえ正解にいたらなくても時間をかけて悩み考えることに価値がある。その過程そのものが学習であること。悩み考えたからこそ、答がわかる、理解できたことに喜びを感じること。先生方には、問題を出して、その答を教える、説明することよりも、こういったことを伝える、経験させることを大切にしてほしいと思います。

授業力向上への道のりを考える

この夏休みの間に、研修や研究会で20回ほど模擬授業を見せていただきました。少経験者から達人級までいろいろでした。学校の通常の授業研究ではこれほどを幅広い層の授業に出会うことはありません。達人級は管理職となってしまい、子ども相手の授業をする機会がないことが多いからです。模擬授業とはいえ、達人級と少経験者の授業を比べる機会を得て授業力向上への道のりについて考えました。

少経験者と達人級の授業とではその質に大きな差があるのは当然です。しかし、少経験者でもこれはと思う授業には、達人級の授業と共通点があることに気づきます。何かというと、目指す授業の姿、子どもの姿がはっきりしていることです。実際にその姿が実現されているかどうかの精度には差がありますが、例外なく授業から目指すものが伝わるのです。

たとえば、子どもの言葉を活かしたいという先生は、当然子どもに発言させようとします。うまく引き出せなくても、引き出そうと努力します。子どもから出た言葉を何とか他の子どもにつなごうとします。達人級との差は、「対応力」「受け」の技術の差です。
子どもに興味・関心を持たせたいという先生は、課題や発問に工夫をします。その課題や発問が授業のねらいにうまくつながっていないこともよくありますが、子どもを惹きつけようとする姿勢が見られます。達人級との差は子どもが興味・関心を持つために必要な条件を知っているか、その具体例をどれだけ持っているかという「知識」「経験」の差です。

この差が大きいと言ってしまえばそれまでですが、達人級も初めは目指す姿を実現したいという思いからスタートしたはずです。そのことにあらためて気づけたのです。経験があればだれでも達人級になれるわけではありません。目指す姿があって、それに向かって経験を積むから進歩していくのです。目指す子どもの姿があるから、その姿が見られるかどうか真剣に子どもたちを見ます。毎日の授業が学びにつながるのです。子どもたちの姿から足りないことに気づくから、学ぼうとするのです。
目指す姿が明確でないまま経験を積んでも、自分の授業を評価する基準がないため何がよいのかどこを直せばいいのか気づくことができません。ただ経験しただけで、その経験が積み上がっていかないのです。
目指す姿が明確だからこそ、それを実現するための、課題や発問をつくる力といった「授業の構成力」や子どもへの対応力、受けや切り返しといった「授業技術」が身につくのです。

少経験者に対して、どんな授業を目指すかという問いをよく発します。これに対して、だらだらと抽象的な言葉が続き明確に答えられない方がいます。自分の目指す授業が明確になっていないことがわかります。一方、「子どもが自分で考える授業」といった短い言葉で答えてくれる方もいます。とても明確です。明確になっていれば、「それは具体的に子どものどんな姿でわかるのか」「この授業では具体的にはどの場面で、どうなっていればいいのか」と問いかければいいのです。このことを毎時間繰り返して自分に問いかければ、間違いなく授業力は向上するはずです。
また、「○○先生のような授業」という答もあります。先日お会いした若い先生は、セミナーで出会った講師の先生の模擬授業を見て、こんな授業がしたいと憧れて、以来その先生の著書を読み、講演を聞く機会があれば参加しているそうです。「憧れる」ことは、目指す姿が明確になることでもあります。自分の中に「基準となる教師像」があるということはとても素晴らしいことです。若い方には、名人や達人と呼ばれる方の(模擬)授業を見る機会をたくさん持ってほしいと思います。「憧れる」ことが授業力向上への近道だからです。

若い先生でも、ぜひ多くの先生方にも見てもらいたいという授業をされる方もあります。出会った時から、そのような授業をしていたわけではありません。会うたびに少しずつ成長していて、気づけばそのような素晴らしい授業になっていたのです。目指す姿が明確だからこそです。毎日ほんのわずかでも成長していれば、1年間で驚くほどの成長も可能なのが、教師の世界です。
毎年多くの先生方と出会います。どの先生も名人や達人と呼ばれるようになる可能性を秘めています。そこにたどり着くかどうかは、そこを目指すかどうかです。名人や達人を目指すというと大げさかもしれませんが、目指す授業や子どもの姿を明確にしてほしいのです。そのことが授業力向上への第一歩だからです。

11年続いた研修会で考える

先週末は授業力アップの研修会に、オブザーバーとして参加させていただきました。市の有志の先生方が主催するものです。10年続いた研修会をリニューアルして、「わかる・できる」授業づくり学習会として再出発しました。以前の授業技術を中心としたものから、より授業の根本から学び合っていくものへ進化させようという思いが伝わります。また、一回の研修で終わりではなく、秋にもフォローの研修会が用意されています。学んだことを実践すれば必ず疑問点が出てきます。それを解消するとともに継続的に学んでいくことを大切にしようということだと思います。今回の参加者は3年目から5年目が中心です。日々の授業での課題が見えてくる時期です。その課題を解決するきっかけになることも願っての、「わかる・できる」授業づくりだと理解しました。

プログラムの最初は講演です。授業中への子どもへの対応(キャッチ・アンド・レスポンス)についてのお話が中心でした。参加者の聞く姿勢が気になります。聞いてはいるのですが、どうも受け身です。体が前のめりになっている方が少ないのです。昨年の研修会でも感じたのですが、知ろうとする姿勢は感じるのですが、考えようという空気が薄いのです。参加者はその情報を理解し消化しようというよりは、講義をノートに写しておく学生のような態度です。そのことに気づいた講師は、この日使ったスライドはホームページにアップすることを伝えました。それでも、講師の先生が考えることを投げかけている場面でも、スライドをメモしている姿が見られました。投げかけられた課題が、切実なものとして感じられていないのかもしれません。考えること、外化することをうながすために、ペアやグループワークを講演の中に組み込まれます。活動をすることで明らかに表情に変化が見られますが、全体での共有場面ではやはり重たくなるのです。自分の考えを言えばいいのですが、どうも正解を言わなければと思っているように感じられます。彼らの授業が、日ごろ子どもに正解を求めているものである裏返しのように感じます。
子どもの言葉をどのように受け止め、どのように切り返すか。このことが「わかる・できる」授業づくりにどうつながるかを理解できていないことが、会場の雰囲気を重たくしている原因であるように感じました。
また、わからない子どもや間違えた子どもへの対応を考える場面でとても気になることがありました。どうやって子どもに正解させるか、考えを修正するかに意識が集中して、その子どもをポジティブに評価するような働きかけが出てこないのです。わからない、できない子どもに対して寄り添う視点が感じられないのです。講師の先生は「愛ある授業」ということを提唱されている方ですが、その部分が参加者と共有されていないようです。講演終了後、講師の先生とそのようなことをお話ししました。

続いては、授業技術についての2つの講座です。昨年までは、かなりの時間を割いていたものですが、今回は非常にコンパクトにまとめられていました。まずは、入り口を経験してもらい、実際に使ってみることで、そのよさと難しさを知ってもらうことにねらいを絞っているのでしょう。よさを知れば、もっとうまくなりたいと思いますし、難しさを知れば課題意識を持ちます。そこでフォロー研修を行うことで、よりよく学べるようにしようということでしょう。
そうなると、短い時間で何を伝えるかです。時間がないので、どうしてもすぐにできるようになるための How to に時間を割いてしまいます。しかし、だからこそ、この授業技術が「わかる・できる」授業にどうつながるかを実感してもらう必要があります。こういう講座は授業と同じです。このことを学習することにどんな意味があるかがわからなければ(必然性)、意欲は高まりません。指示に従って活動するだけでは学びは多くはないのです。
1つ目の講座は、この授業技術についてある程度知っていることが前提で組み立てられていました。たった一人ですが、この授業技術を聞いたことがない方も参加されていました。この方を起立させました。また、この授業技術を知っているが使ったことがない方も続いて起立させました。かなりの数になります。このことを確認した後、着席させました。ここで、この授業技術のポイントについて、復習という意味でワークシートの空欄を埋めさせる作業をさせました。参加者からすればアンフェアな進め方です。知識は知らなければ答えることはできません。知らない人にとっては気持ちがネガティブになる進め方です。もし参加者から出力させたいのなら、余計なことは聞かずにいきなり作業に入ればいいのです。ただし、「わからなければまわりの人に聞いてください」とするのです。まわりとかかわりながら、全員が正解となることを目指すのです。知らない人が、ただ答を聞くだけでなくその意味もたずねれば、より意味のある活動になります。ポジティブになることを意識した組み立てが大切です。
2つの講座に共通して感じたことは、2つの授業技術のよさを伝えることも技術を伝えることも中途半端に終わったことです。フォロー研修があるのであれば、よりこの授業技術のよさを伝えることを重視し、技術に関しては一番基本的なことだけに絞って、残りは自ら学んでもらうことを意識した方がよいように思いました。
とはいえ、参加者はグループでの活動もあったので、雰囲気が柔らかくなり表情もよくなってきました。午後からの研修が楽しみです。

午後は3つの講座から2つを選択するものです。「全員参加させるためのアイデア」という講座が目新しいものとして私の気を引きました。授業に全員参加させ、全員を評価するアイデアの紹介です。評価について参加者に問いかけます。評価と評定が混乱しているような回答が多いようです。評価は子どもたちの現状を正しく理解し次の指導を考えるためのものです。その視点をまず押さえたことはとてもよいと思いました。
参加者を子ども役として具体的な場面で評価方法を紹介していきます。とてもわかりやすいと思いました。
今回の例は「知識が身についているのか」の確認や「全員を参加させる」ための活動が中心でした。だれでも使いやすい、わかりやすいものに絞っています。すぐにやってみようと思えることは大切です。ここで気をつけてほしいことが、評価してできていないことがわかっても、その時にどういう指導をするのかが明確になっていないと困ってしまうということです。常に評価と指導は一緒に考えておく必要があることをもう少し伝えておきたいところでした。
参加者に、全員を評価する方法を具体的に考えてもらう場面がありました。その様子を見ていたのですが、なかなか意見が出てきません。フラッシュカードを使って、列指名するという意見があるグループで話されました。そこで、「その列以外の子どもはどうでしょうか」と投げかけてみました。すぐに答えが出てきません。日ごろ全員を参加させることをあまり意識していないことがわかります。もちろん、いい意見を出してくださる方もいますが、残念ながら少数でした。
この講座でも、具体例の紹介だけでなく、当たり前のことですが、「全員を評価する」「全員を参加させる」ことの意味を再確認する必要があったように思います。日ごろ意識されていないということは、まず強く意識させる動機づけが必要なのです。
他の講座でも、同様の傾向を感じました。この1日の研修が「わかる・できる」授業にどうつながるかを最初に明確にする必要があったように思います。

私が日ごろから実践を通じて学ばせていただいている中学校の先生も、オブザーバーとして参加していました。講座の実習場面を通じて、フラッシュカードの使い方に関してとてもよいことを学ばせていただきました。単に定着だけでなく、そこから考えることにつなげる方法です。デジタルではない紙のよさを改めて確認することをできました。ありがとうございました。

最後に午前に引き続いて、同じ講師の先生の講演がありました。さすがだと感じたのは、午前の参加者の様子から、講演内容を修正されたことです。教師のありよう、教師は何を目指すのかといった根本的な部分について、自身のライフヒストリーを通じて熱く語られました。午前中とはトーンもテンションも違います。実習を通じて雰囲気が変わってきたこともあってか、聞く姿勢が違います。体が前に傾いている方が一気に増えました。この先生からはめったに聞くことがない厳しい口調での言葉もありました。これは、参加者の様子からこのような言い方をした方が伝わるのだろうという判断があってのことでしょう。みなさんがその言葉をしっかり受け止めていることがよくわかります。子どもに学ぶことを求める教師だからこそ、自身も学ばなければならない。積極的に学ぶ姿勢があって初めて子どもの前に教師として立てることを強く訴えられました。めったに見られない姿だからこそ、その思いの強さを感じることができました。参加者にもきっと伝わったことを思います。

今回は10年続いた研修会の11年目として、新しい一歩を踏み出したものでした。授業技術中心から、もっと広く授業の根本的なあり方まで考えるものへと進化しようとしていることがよくわかります。今回は多くの生みの苦しみを味わったことと思います。だからこそ、次のステージへとステップアップできるのです。中心メンバーも10年経てばそれだけ歳を取ります。若いスタッフがどんどん増えて、この研修会がさらに10年、20年と続いてほしいと思います。私自身、毎回多くのことを学ぶ機会を得ています。スッタフや参加者の皆さんに感謝です。

夏休み前半の研修を振り返って

夏休みの前半が終わり、研修の仕事も一段落がつきました。夏休みということもあり、模擬授業を組み合わせた研修を多く持つことができました。実際の授業と違って途中で止めることもできます。今見た具体的な場面を元にすぐ話ができるので、一方的に話すのとは違って参加者にはわかりやすいものとなります。また、子ども役をやっていただいた方は子どもの気持ちを想像しようとすることで、普段はなかなか意識できない子どもの視点で授業を考えることができます。このことも大きなメリットです。多くの場合、講演に替えて模擬授業を元にお話しする形を取っています。そのため、私が伝えたいことを話すための材料として模擬授業をとらえることになります。授業者には申し訳ないのですが、この場面を元に伝えたいと思えば、そこで授業を止めてしまって解説をすることになります。切れ切れになりますので、授業者にとってはとてもやりにくいものになります。この点をうまく解決する方法を思案しています。

今回、ある学校では私の解説中心ではなく、通常の授業研究に近い形で模擬授業をおこないました。途中で私の解説を入れずに、1時間の授業を通したあと、検討をおこなったのです。今までの授業検討のやり方を変える試みとして、模擬授業を元に子ども役と参観者を組み合わせた小グループで検討をおこないました。子ども役が加わることで、第三者の視点だけでなく、子どもの視点での意見も出るので、とても学びが深くなるように思いました。この学校にはすでに何回もおじゃましてお話をさせていただいているので、あえて私が場面ごとに解説しなくても先生方の気づきを元に話し合うことでしっかりと学び合えました。

また、夏休みの後半には、模擬授業を通じて授業案の検討をおこなう研修があります。この検討を元に、秋に授業研究をおこなうのです。授業研究では、ともすると授業者一人に負担がかかり苦しい思いをすることがあります。模擬授業を通じてみんなで考えることで、授業者の負担を減らし、参観者の授業への参加意識を高めることができます。また、子ども役をやることで、本番の授業での子どもの様子をより意識して観察するようにもなります。一つの授業からより深く学ぶことができます。

講演では、先生方の受け身の時間を減らすことを心がけました。参加者が活動する場面を意識的に組み込むようにしました。単に問いかけただけでは、意見を言っていただけません。しかし、グループやまわりと相談する時間を少し入れるだけで、様子は大きく変わります。先生方の活動量が一気に増えるのです。子どもと同じです。相談した結果を聞くときに、「答がわかった方」とあえて正解を求めたり、「自信のある人」とプレッシャーをかけたりして、子どもの気持ちも体験してもらいました。こうすると先生でもなかなか挙手はできません。このような問いかけがいかに答えにくいかわかっていただけたと思います。それに対して、挙手に頼らず「よく話し合っていましたね。どんなことを話しましたか。聞かせてください」と聞けば、しっかりと話してくださいます。「同じようなことを考えた方」「今の意見になるほどと思った方」「納得した方」とつなぎ方も実際にやって見せるようにしてみました。つなぎ方については特に説明をしないことも多かったのですが、気づいていただけたでしょうか。講演を授業とまったく同じようにはできませんが、いろいろな授業技術を取り入れることを意識してみました。

毎年、たくさんの場所でお話をする機会をいただきますが、参加された方にとって意味のあるものになっているかどうかがとても気になります。講演を聞いて授業がよくなった、学校が変わったという報告を聞くことがあまりないからです。講演よりも実際に授業を元に先生方と一緒に考えることや、具体的なアドバイスをすることの方が効果的と思うのですが、夏休みは授業そのものをする機会がありません。どのような形で研修をおこなえばより効果的なのか、毎回毎回試行錯誤の連続です。参加者の反応を頼りに少しでもよいものにしようと考えていますが、力不足を感じさせられる毎日です。夏休みの後半にも研修の講師をいくつか務めます。私自身の勉強の機会とらえ、よりよいものにしていきたいと思います。

1学期を振り返って

1学期も終わり、学校へ出かけての授業アドバイスは一休みです。たくさんの授業を見せていただきました。多くの授業に共通して言えることがいくつもあります。また印象に残る授業にもたくさん出会いました。少し振り返ってみたいと思います。

・育てる視点で子どもを見ている学級は授業規律が確立している。
教師が「できていないことを叱る」姿勢の学級では、その瞬間は子どもが緊張して指示に従いますが、すぐに緊張が弛みます。そうするとまた叱られるので、子どもは安心して授業を受けることができません。教師が視線を外すとすぐに落ち着きがなくなります。授業者が子どもをチェックする視線で見ている学級では、一見落ち着いているように見えても子どもが集中していないことがほとんどです。授業規律が確立しているとは言えない状態です。
それに対して、「できている子どもをほめる」。できていない子どもに対しても「できた瞬間にほめる」。そういう姿勢で接している学級では授業規律が確立しています。子どもが緊張せずに、柔らかい雰囲気で集中している姿を見ることができます。

・教師の笑顔が多いと、子どもの笑顔も多い。
当たり前のことですが、教師が笑顔で子どもに接していると、子どもの表情もよくなります。しかし、意外にこのことができていない方に多く出会います。私は教師の基本は笑顔だと思っています。

・指示の徹底は授業規律の確立につながる。
指示をして、全員が指示に従うまで待っている学級では、授業規律が確立していることが多いようです。指示を徹底するためには、一度に複数の指示をしない、指示をしたら確認をするということも大切です。こういうことが意外とできていない場面に出合いました。

・教師が温かい視線で子どもを見ることが集中につながる。
子どもは作業を始める時は集中していますが、しだいに集中力を失くします。そんな時も、顔を上げて教師の優しい視線に出会うとまた集中力を取り戻します。音読をしている時なども、教師がしっかり子どもを見ていると集中力は落ちません。

・基本ができるだけで子どもの授業態度はすぐによくなる。
笑顔で子どもに接する。子どもの言葉を受容する。できたことをほめる。子どもをよく見る。こういった基本を意識することで、経験の少ない教師でも驚くほど授業が変わります。数か月、時には数週間で、子どもたちが落ち着いて、集中して授業に参加するようになった例をたくさん見ました。

・数人しか手が挙がらないときの対応。
数人しか手が挙がらないのにすぐに指名して授業を進める場面にたくさん出会いました。答がわかっていても手を挙げない子どももたくさんいます。安心して答えられる雰囲気をつくること。まわりの子どもと確認し合う時間を取る。挙手した子どもにヒントを言わせる。など、いろいろな対応が考えられます。挙手した子どもを指名しなければならないという思い込みは捨てて柔軟な対応をしてほしいと思いました。

・見たい子どもの姿が明確な教師の成長は早い。
1学期見た中で、急速に進歩したと思う教師に共通していることは、素直であることにプラスして、子どもたちのこんな姿が見たいということがはっきりしていることです。子どもが友だちの方を見て集中して話を聞く。自分の言葉で友だちに伝えようとするといった目指す姿が場面ごとにはっきりしているのです。このことを意識していれば、授業中にそのような姿が見られるか常にチェックをするはずです。うまくいった、いかなかった理由を毎日考え続けることで、確実に力がつくのです。

・子どもを受容することが学校全体で共有できていると、異動者が苦労する。
できていない子どもをチェックして指導してきた方は、そのやり方でそこそこうまくいったという成功体験を持っています。ところが、受容されることに慣れている子どもは、できていなことばかり指摘されたり、叱られたりすることにうまく対応できません。そのスタイルをなかなか受け入れられないのです。結果、教師は同じようにやっているのに今までのように上手くいかないので、この学校の子どもたちははやりにくいと思ってしまいます。子どもが悪いと思うと、自分を変えようとせずに子どもを変えようとします。ますます叱るようになっていきます。子どもとの関係が決定的に悪くなっていくのです。
こういう教師は基本的な指導力はあることが多いので、そのスタイルを変えることですぐによい方向に変わっていきます。難しいことではないので、そのことに気づく機会をどうつくるかが問われます。4月5月の早い時期に、そのような機会をつくった学校ではこの問題にかなりうまく対処できていました。

・学校全体を考えるとリーダー層の動きが大切。
全体がよい方向に変わってきている学校は、間違いなく教務主任クラスの動きが大きく影響しています。日ごろから授業に関する情報を発信する。先生方の授業を見て、よいところを共有するようにする。若手に対して、授業についての相談に乗ったり、授業を見てアドバスしたりする。スタイルは一人ひとり違いますが、間違いなくこういう動きをしているのです。

多くの先生から本当にたくさんのことを学ぶことができた1学期でした。授業を見せていただいた先生すべてに、あらためて感謝です。

懇親会で元気をいただく

先日、学校評議員をさせていただいている学校のおやじの会の懇親会に参加させていただきました。いつものように楽しい時間があっという間に過ぎ、気づけば3時間ほども話し込んでいました。

地域の住人として子どもたちに何ができるか、口先でなく実際に行動されている方々です。その言葉には重みと説得力があります。校区という狭い範囲を越えて、市全体での視点で考えられています。
子どもを取り巻く環境を考えるとき、物理的な環境と人的な環境があります。物理的な環境には、学校や保育園、児童館といった機関や施設、人的な環境には教師や保育士、保護者や友だち、それに地域の大人などがあります。これらの環境がうまく連携することで子どもたちが健全に育っていきます。そのための機関としてPTAや健全育成会などがありますが、いつも言うように、この会のメンバーのように草の根的に子どもたちを見守り、学校や地域との調整役も務めてくださる方はとても貴重です。時には辛口の意見を言われることもありますが、決して一方的に押し付けるようなことはしません。子どもたちだけでなく、学校や教師も育てようとしていることがよくわかります。視点が温かいのです。話を聞かせていただいてそのことがとてもよくわかります。

真剣に子どもたちの未来を考えながら、しかし決して肩ひじ張らずに等身大の自分でできる範囲で日常的に活動されています。10年にもわたっておつき合いさせていただいていますが、息の長い活動には感心するばかりです。
この日も楽しくお話させていただきながら、たくさんの元気をいただきました。お誘いいただきありがとうございました。

保護者会に「行けないのではなく、行きません」

先週、今週は保護者会を開いている学校が多いと思います。保護者会に関連して、こんな話を耳にしました。

この日保護者会(個人懇談)に母親が出席予定の生徒が、「母親が来ないかもしれない」と曖昧なことを言ったそうです。どういうことか尋ねても「いろいろあって」と言うだけで、なかなか答えようとしはしません。ようやく聞き出したところ、どうやら成績のことなどでけんかになったようです。勝手にしなさい。親は知らない。そういうことなのでしょう。しかし、本当に来ないのかどうかは生徒にもわからないようです。そうは言っても来てくれるかもしれないと思っていたのかもしれません。結果は、親からの連絡なしのドタキャンです。子どもを通じて連絡したから問題ないと思っているのかもしれません。担任が連絡を取ったところ、「行けないのではなく、行きません」という返事でした。
もう一人出席されない方がいるので、夏休みにでも都合のよい日を設定しようと電話したところ、「行けないのではなく、行きません」という全く同じ返事でした。子どもが勉強を頑張るという約束を破ったから、もう知らない。本人が好きにすればいいというわけです。よく似た話です。同じ言葉を1日に2度も聞くとはと、担任は苦笑していました。

これはいったいどういうことなのでしょうか。親の気持ちもわからなくはありませんが、それは家庭内のことです。子どものことなど知らないと言っても、保護者としての責任が無くなるわけではありません。また、社会人として、保護者会に出席すると担任と一度は約束したのですから、そんな簡単に反故にしてよいものとも思えません。何か変です。そもそも、親の思い通りにならないのが子育てです。だからこそ、子どもに寄り添い、見守ることが大切です。学校とも協力することが必要となるのです。それを、本人と学校に任せるというのは、自分勝手な責任放棄です。子どもは、喧嘩はしても、内心は自分のために保護者会に出席してくれることを願っているかもしれません。これも新手のネグレクトなのかもしれません。しかし、本人は自分の行動をいたって正当なものと思っているのです。子どもが家庭内で自分の居場所を失くしてしまわないか心配です。

モンスターペアレントが話題になりましたが、この種のネグレクトもこれから増えてくるのでしょうか。子どもたちを取り巻く環境は、以前とは変わってきているように感じます。本来家庭が担うべきことを果たせていないと思うことが増えてきています。解決策は簡単に思い浮かびませんが、学校が何らかの肩代わりを迫られるのは間違いないでしょう。学校と教師がその負担に耐えきれなくなることがないように祈るばかりです。

伸びる先生の条件(その3)

以前に伸びる先生の条件について書かせていただきました(伸びる先生の条件伸びる先生の条件(その2)参照)。「素直」「謙虚」「向上心」といった資質や「目指す教師像」を明確に持つことが大切であることをお伝えしました。私の授業アドバイスや授業研究をきっかけに伸びる先生は、先ほどの条件を満たしていることはもちろんですが、そのほかにも共通していることがあります。「非日常を日常に変える役割」でも書きましたが、私のアドバイスや授業研究は非日常です。それをきっかけに、指摘されたことを意識して毎日の授業をおこなっていることです。非日常を日常に変えているのです。

わずかな期間で授業がよい方向へ変わった先生に、どのようなことに気をつけたかを聞くと、多くの場合、ほんの1つか2つのことだけを意識したと返事が返ってきます。たとえ「子どもの言葉を否定しない」「いつも笑顔を忘れない」「指示は必ず確認する」といった基本的なことであっても、たくさんのものが上がってくることは稀です。今自分に必要なこと、やれそうなことを地道に毎日続けているのです。
複数の先生方に同時にアドバイスしても、何が残るかは人によって異なります。大切なことは何が残るのかではなく、続くかです。指摘されたことを全部「よし、明日からきちんとやるぞ」と意気込んでも3日坊主では何も変わりません。続けられそうなことに絞って、やり続けていくことが大切です。
意識しておこなっていることもやがては習慣となり、無意識におこなえるようになります。無意識にできるようになれば、次のことを意識しておこなう余力が生まれます。こうして少しずつ、しかし確実に進歩していくのです。

もう一つ共通していることは、子どもをよく見ているということです。意識しておこなっているからといって、実行することが目的ではありません。その先に必ず子どもの姿があります。彼らはどのような子どもの姿を見たいかも意識できています。人は、見たい、見ようと思っていないことには気づけません。漠然と子どもを眺めていても何も情報は入ってきません。意識して見ることが必要なのです。
最近よく例に出すのが信号の赤は右か左かです。これに即答できる人は意外と少ないのです。生まれて今まで何千回と見ているはずなのにです。しかし、意識して見れば誰でもすぐにわかります。子どもを見るということもこれと似ています。おこなっていることと見たい姿が対になって、子どもが見えるようになるのです。子どもを集中させたいと思って顔を上げるように指示したのなら、子どもが集中しているかどうか意識して見ます。集中していることがわかれば、自分の対応はよかったのだと自信がついてきます。集中していなければ、どこがいけなかったか、どうすればよいかを考えます。新たな工夫を自然にするようになります。子どもを見るというのはこういうことなのです。

授業では「一時に一事の原則」と言われるものがあります。指示はいくつかをまとめるのではなく、1つ1つに分けて、できたことを確認してから次の指示をするというものです。教師の成長もこれと似ているのかもしれません。自分にやれることを1つずつ地道に取り組み、確実にできるようにしていく。このことの積み重ねです。伸びる先生は、非日常で得たことを意識して日常に変え続けているのです。

非日常を日常に変える役割

ありがたいことに、今年もたくさんの学校や教育委員会からお声をかけていただき、授業アドバイスや講演、研修のお手伝いをさせていただいています。この時期はなかなかご希望にそえなくて、日程の調整をお願することもあり、恐縮しています。
お仕事をさせていただく際に心がけているのが、できるだけ具体的にお話をすることです。ご存知の方も多いと思いますが、学校からの講演だけの依頼は原則としてお断りしています。授業を見せていただくことを引き受ける条件にしています。実際に目にした子どもたちの姿を元に話したいからです。

具体的な場面を例に話をしても、講演の場合はどこか他人事のようにとらえられているように感じることがあります。ある授業場面を例に話していても、当の本人が全く自分のことだと気づいていないこともあります。一方授業について具体的なアドバイスをする場合、逃れようがない事実を元にその方の授業について話すことになりますので他人事にはなりません。素直に受け止めることができる人であれば、個人の成長にはこれが一番効果的に思えます。講演であっても、自分の問題だととらえてもらえれば同じように効果があるはずです。もちろん伝わるように話しているか、内容が適切かといった話し手の力量の問題はありますが、受け手の問題の方が大きいように思います。逆に素直な方であれば講演だろうが授業アドバイスだろうが、必ず成長につながっていきます。個人差はありますが、素直な先生は間違いなく力をつけていきます。

では、学校全体を見たときに向上的な変容が見られるかどうかの要因はなんでしょうか。同じように訪問しても、なかなか変化が見られない学校もあれば、数回の訪問で進歩を感じられる学校もあります。その違いを生むのは、教務主任クラスのリーダー層の発信力のように思います。
講演であれば全員が聞いています。しかし、それでよしとするのではなく、その内容を自分の言葉で整理し、目の前の状況に合わせて必要な部分を何度も再発信をする。咀嚼したことを、実際の授業の具体的な場面に即してアドバイスをする。個別の授業アドバイスであれば、アドバイスの中で学校全体に共通するものがあれば、それをまとめて他の先生に伝える。アドバイスを受けた先生に、勉強になったことをまとめてみんなに伝えるように働きかける。アドバイスを受けて変容したことをこまめに評価し、全体に知らせる。こういったことをしているかどうかが大きいのです。講演や授業アドバイスは非日常です。そこで得たことを日常に変えていくことが求められるのです。

私ごとき者の講演やアドバイスで全体がよい方向へ変わっていく学校は、間違いなく非日常を日常に変えていく役割を果たしている先生がいらっしゃいます。逆にそのような方がいれば、私のような非日常は単なるきっかけに過ぎないのかもしれません。このような先生がいるからこそ、多くの学校で進歩している手ごたえを感じさせていただいているのです。このような出会いに恵まれていることに感謝する今日この頃です。

Dr.横山から学ぶ

先日、本年度第2回の教師力アップセミナーに参加してきました。山形大学医学部看護学科教授横山浩之先生の講演です。Dr.横山の登壇は3回目です。前回までは、個々の場面での対応が中心でしたが、今回は「通常学級にいる特別支援が必要な子どもに対応できる授業とは」というテーマで、具体的な授業のあり方についてのお話でした。
以前の講演でDr.横山から学んだことは、特別支援教育にとどまらず、通常の授業、学級経営を考える大きなヒントになりました。Dr.横山から学んだペアレントトレーニングの考え方が、私の子どもへの接し方の基本となっています。

最初に、ある子どもの事例を話されました。親の虐待が疑われる子どもです。甘えるところがない状況です。母親役が学校に必要だということです。その子どもが学校を休んだ後、教室に行きたくないというのです。理由は友だちが休んだ理由を聞くからだというのです。友だちがあなたのことを「好き」→「心配」→「聞く」ということだと説明すると安心して教室に戻ったそうです。好きだから、愛しているからとる行動が理解できないのです。愛情を受けていないということです。
よい行動をほめて強化するのがペアレントトレーニングの基本ですが、こういう子どもはほめられていることを理解できないことが多いようです。この子どもの場合はビー玉に興味を示したので、ビー玉を与えることでよい行動を強化したそうです。次第に母親役である先生に駄々をこねるようになってきました。不適応行動が増えたように思えます。状況が悪くなったように見えますが、そうではないのです。この子どもの場合、人を信じることができるのが目標です。愛着形成が必要なのです。そういう意味では、母親役の先生に心を許したのですから、よい状況になってきたのです。表面的な行動でとらえるのではなく、その原因を考えることが大切なのです。
子どもたちをほめて強化し伸ばすというペアレントトレーニングの考え方を学級経営に活かす方法としてクラス会議が紹介されました。クラス会議でルールを決めて、できたことの報告会をするのです。できなかった子どもを糾弾するのではありません。ほめるきっかけ、場面をつくり、意図的にほめてよい行動を広げる。教師の姿勢の基本だと思います。

授業を考えるにあたって、まず記録をとることの重要性を説かれました。「ICレコーダーやビデオに記録を取って客観的に振り返ることで改善点が見える」という当たり前のことなのですが、これを実践するのはなかなか難しいものがあります。自身の至らなさと直面するのは厳しいものがあるからです。Dr.横山自身、初めておこなう講義では3回振り返るそうです。他者に勧めるからには、自分もきちんとやるという姿勢は見習わなければいけません。

子どもに伝えるのに、「ことばをけずる」「ひとめでわかる工夫をする」ことが大切だと言われます。子どもの視線の移動に気を配るといったことなど、すべて特別支援に限らず、授業の基本でもあります。そのことをあえて言わなければいけないということが、学校現場の現状でしょう。新年度が始まって3か月近くが過ぎようとしています。学校に出かけていって、こういった基本的なことを指摘することがまだまだ多いことが残念です。

学級経営を個別指導に優先させるということも話されました。その通りだと思います。特別支援に限らず、気になる子どもを優先させるのではなく、大多数である普通の子どもを第一に考えるのが基本です。普通の子どもがまず安心して暮らせる学級をつくらないと、全体が崩壊していくからです。
発達障害を疑われる子どもがたくさんいるという学級は、実は不適切な扱いを受けている子どもがその中に混ざっている可能性があるという話も、なるほどと思いました。発達障害は高々10%と言われています。それ以上の数が疑われるときには注意が必要ということです。正しい対応というのはどういうことなのでしょうか。Dr.横山が実際におこなった授業ビデオを元に解説されました。

授業を見るプロとしてDr.横山の授業はどう見えたでしょうか。
実に教科書通りの授業なのです。たとえば、机間指導していても常に全体に目を配っています。努力している、よい行動を見つけると、すうっと寄ってほめます。「ずれないでしっかりかいているね」「最後の『。』も書いているね」と具体的にほめます。もちろん常に笑顔です。できる子への対応も忘れていません。「他の言葉もできるかな。あいているところに書いてごらん」「自分から勉強しているね。立派!」こういう言葉をかけます。決してネガティブな言葉は使いません。教師が近づくとほめてもらえるのなら、子どもは安心して作業を続けます。ところが、実際にはこの逆の場面を多く見ます。教師がいつも子どもの悪いところ指摘していると、教師が近づくと子どもに緊張が走るのです。机間指導の時の子どもの姿を見るだけで、その教師の日ごろの子どもへの接し方がわかるのです。
最初から失敗させるとやる気を失くします。そこで、書く場面では、なぞることから始めました。まずは、成功させほめるところから出発するのです。
指示も1度に1つです。それも、できるだけ短い言葉でするようにしています。子どもたちの短期記憶の負荷をできるだけ少なくするということです。指示を繰り返すにしても同じ言葉を使います。子どもが理解していないなと感じると、言葉を変える教師がいます。理解が遅い子どもは一生懸命理解しようとしているのに、違う言葉で説明されると追いつきません。かえって混乱するのです。適切な言葉に絞り込むことが大切です。そのために、教材研究は欠かせないのです。
基本がしっかりできていると感じる先生の学級では、発達障害の子どもが目立たない理由があらためてわかった気がしました。

ソーシャルスキルトレーニングついてもお話がありました。特別支援を必要とする子どもとその子どもを取り囲む子どもたちにとって、ソーシャルスキルはとても重要だと思っています。Dr.横山もその重要性をおっしゃっていましたが、特別の時間だけやっても効果が薄いということです。日常的におこなわないと定着しないということが研究でわかっているそうです。簡単なものでいいので、毎日取り組むことが大切なのです。Dr.横山がつくった、そのための教材「マンガでわかるよのなかのルール」を紹介されました。

参加者の質問に答える中で、幼保と小中の連携の必要を話されました。最初の事例でもわかるように、保護者の情報を知ることは子どもたちと接するうえでも重要なことです。しかし、小中の教師にとって、このことはそれほど簡単ではありません。保護者と接する機会が圧倒的に少ないのです。その点、幼保では子どものお迎えなどがあるため、かなりの頻度で保護者と接します。信頼に足る情報を持っていると思われます。連携の必要性を改めて納得できました。

医者であるにもかかわらず、どうしてこのような授業技術を身につけられたのか興味を持ちました。お聞きしたところ自分でもよくわからないということです。ただ、亡くなられたお父様が指導主事だったということが影響しているかもしれないということでした。実家に教育書がたくさんあって、それを参考にされたこと、また、子どものころに教育に関することを耳にする機会があったことなどが関係しているかもしれないということです。

今回の講演は、前回までの講演の知識を前提としているので、初めてDr.横山の話を聞かれた方には、ペアレントトレーニングなど、もう少し詳しく聞きたい部分もあったかもしれません。ぜひご自分で勉強していただければと思います。そういった知識がなかったとしても、とてもわかりやすく役に立つものだったと思います。特別支援教育とかまえる必要はありません。授業の基本をきちんと押さえることが、特別支援を必要とする子どもへの有効な対応であることをあらためて確認できました。とても中身の濃いお話をありがとうございました。

子どもとかかわるということ

学校で教育実習生に出会う季節になりました。真剣な目で授業を見つめる姿からやる気が伝わってきます。この中から、これからの学校現場を支えてくれる人材が育ってくれることを期待しています。彼らについていろいろなことが耳に入ってきます。その中で、難しい問題だと感じるのが、子どもとのかかわり方です。

定期考査の終わったあとです。成績が振るわなくて落ち込んでいた子どもが教育実習生に勉強を教えてほしいといってきました。特定の問題を教えてくれというのではなく、定期的にいろいろな教科の勉強を見てほしいというのです。教育実習生は子どもに頼られたのでうれしくてしょうがありません。早速指導の先生に許可を求めました。先生は、「自分の教科ならばともかく他の教科を教えるということは、どういうことだと思う」とそれぞれの先生の教え方や考え方がわかってもいないのに勝手に担当以外の人間が教えることの問題を伝えました。「実習期間が終わっても、教えてほしいといったらどうする?その子どもが、あなたがいなくなったから成績が下がったと言ったらどうするの。責任を取れるの?」と問いかけました。大切なことはどう行動すればよいかを子どもに考えさせ、行動をうながすことです。それも指導の先生と相談しての上です。子どもが教えてほしいと言ったのは、教育実習生に甘えたかっただけだということを、指導の先生はよくわかっていました。事前に相談してくれてよかった。もし、勝手に教え始めたらその後始末が大変だった。そう語っていました。

教育実習生は何も責任を取ることができません。子どもと深くかかわることは避けなければいけません。裏を返せば、教師は子どもに対して常に責任を持って接しているということです。今回のことで、この教育実習生はこのことを学んでくれたでしょうか。
教師を目指す学生ですから、子どもと触れ合いたいと思うのは当然です。だからこそ、将来しっかりと子どもと触れ合うために、今学ぶべきことは何かを考えてほしいのです。それは、ままごとのように、無責任に子どもとかかわり合う体験をすることではありません。教師が何を考え、どのように子どもと接しているのか、その背中から学ぶことです。
彼らが学校現場で多くのことを学び、何年かの後、立派な教師となった姿を見せてくれることを楽しみにしています。

教師が頑張ること

「今年の1年生は例年よりも学習に対してやる気がある。私たちも頑張ろう」という声がある学校から聞こえてきました。先生方もやる気を出しているのはよいことだと言えそうな気もしますが、何かしっくりきません。「子どもたちのやる気がなければ教師は頑張れないのか?」「そもそも子どものやる気のあるなしで教師のやることが変わるのか?」そんなことを考えました。

子どものやる気がなければ、やる気を引き出すために頑張って工夫する。教師の仕事とはそもそもそういうものです。そういう工夫をしなくても、最初からやる気があるのならそれはとてもよいことです。そうであれば、子どもたちをより伸ばすために次の工夫を頑張ってすれればいいのです。常に子どもたちの状況に応じて、必要なことをするだけです。もちろん子どもが意欲的だと教師も確かにやる気がアップすることは理解できます。そのやる気で何を頑張るかが実はよくわからないのです。

子どもの授業に対する集中力が高ければ、同じ授業でもより学力がつくことは容易に想像できます。そこに教師が頑張る要素は感じられません。子どもが意欲的なので演習量を増やすことができるのかもしれません。これも教師の頑張りを必要とすることではありません。やる気があるから宿題の量を増やしてもこなしてくれるかもしれません。ここで頑張るのは宿題の印刷なのか、それとも宿題のチェックなのでしょうか。子どもが頑張ることはいくらでも想像できるのですが、教師が今まで以上に頑張ることはなかなか見えないのです。子どものやる気に対して、量的な面で子どもを頑張らせることを教師の頑張りに置き換えているのであれば、それは違うように思います。

もし教師が頑張るべきことがあるのなら、子どものやる気を活かす授業を工夫することのように思います。子どもが集中して考えてくれるからこそ、より力のつく課題を考える。これは量的な発想とは次元の違うものです。教師が頑張らなければできることはでありません。また、ちょっと頑張ったからといってすぐに見つかるものでもありません。

子どものやる気に応えようという気持ちは決して悪いことではありません。しかし、安直に量的な面で子どもを頑張らせることに走るのではなく、やる気を活かすような課題を工夫するといった質的な面で応えてほしいと思います。
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