教師が頑張ること

「今年の1年生は例年よりも学習に対してやる気がある。私たちも頑張ろう」という声がある学校から聞こえてきました。先生方もやる気を出しているのはよいことだと言えそうな気もしますが、何かしっくりきません。「子どもたちのやる気がなければ教師は頑張れないのか?」「そもそも子どものやる気のあるなしで教師のやることが変わるのか?」そんなことを考えました。

子どものやる気がなければ、やる気を引き出すために頑張って工夫する。教師の仕事とはそもそもそういうものです。そういう工夫をしなくても、最初からやる気があるのならそれはとてもよいことです。そうであれば、子どもたちをより伸ばすために次の工夫を頑張ってすれればいいのです。常に子どもたちの状況に応じて、必要なことをするだけです。もちろん子どもが意欲的だと教師も確かにやる気がアップすることは理解できます。そのやる気で何を頑張るかが実はよくわからないのです。

子どもの授業に対する集中力が高ければ、同じ授業でもより学力がつくことは容易に想像できます。そこに教師が頑張る要素は感じられません。子どもが意欲的なので演習量を増やすことができるのかもしれません。これも教師の頑張りを必要とすることではありません。やる気があるから宿題の量を増やしてもこなしてくれるかもしれません。ここで頑張るのは宿題の印刷なのか、それとも宿題のチェックなのでしょうか。子どもが頑張ることはいくらでも想像できるのですが、教師が今まで以上に頑張ることはなかなか見えないのです。子どものやる気に対して、量的な面で子どもを頑張らせることを教師の頑張りに置き換えているのであれば、それは違うように思います。

もし教師が頑張るべきことがあるのなら、子どものやる気を活かす授業を工夫することのように思います。子どもが集中して考えてくれるからこそ、より力のつく課題を考える。これは量的な発想とは次元の違うものです。教師が頑張らなければできることはでありません。また、ちょっと頑張ったからといってすぐに見つかるものでもありません。

子どものやる気に応えようという気持ちは決して悪いことではありません。しかし、安直に量的な面で子どもを頑張らせることに走るのではなく、やる気を活かすような課題を工夫するといった質的な面で応えてほしいと思います。

ホームページから学校経営の姿勢を知る

ある市の研修の講座の担当者からメールをいただきました。その担当者の所属は、私が5年間授業アドバイスをしている学校でした。今年度はまだおじゃましていないので、今どんなようすなのだろうとホームページを覗いてみると、そこには子どもたちの笑顔があふれていました。特別な日ではなく、日々の学校生活の中での光景です。うれしくなって、気がつけば今年度のすべての記事をチェックしていました。1日に何度も更新されているので結構な量ですが、写真が中心なのでそれほど時間はかかりません。アクセス数もかなりの数です。私が見ても楽しいのですから保護者ならなおのことでしょう。

この学校に初めておじゃました時のことを今でも覚えています。朝から1日中学校を回って授業を参観しましたが、笑顔には1つか2つしか出会えませんでした。子どもも先生も難しい顔、厳しい顔をしています。笑顔のない、俗にいう荒れた学校でした。そんな学校が今では子どもも教師も笑顔にあふれています。偶然のシャッターチャンスに頼っていては、これほどのたくさんの笑顔は撮れません。明るい学校に変わったことがよくわかります。先生方の努力が実を結んだのです。

子どもたちの姿だけでなく、校長の式辞やメッセージもたくさんあります。オープンスクールでは、事前に見どころも紹介しています。訪問していなくても学校のようすが手に取るようにわかります。昨年の9月にリニューアルしてから半年余りで素晴らしホームページになっていました。
これだけ短期間で充実したホームページをつくり上げることができたのは、担当者をはじめ、校長や多くの先生方の努力があったのはもちろんですが、某有名校のホームページを参考にしたことも大きいようです。よいと思うものはためらわず取り入れる。そんな学校経営の姿勢が伝わってきます。昨日の日記(他校の取り組みをどう見るか)に書いたように、他校のよい取り組みを積極的に取り入れることで、スピード感のある学校経営が可能になります。妙に自校の独自性にこだわるより、いろいろな学校のよい取り組みを取り入れることで、よほど個性的な学校に生まれ変わると思います。

ホームページは学校経営のための大きな武器であると同時に、そこから学校経営の姿勢も読み取れるものだとあらためて気づかされました。7月にこの学校でおこなわれる市の算数数学教育研究会の授業研究に参加します。子どもたちと先生のどんな笑顔に出会えるか今からとても楽しみです。

他校の取り組みをどう見るか

研究指定校でなくても、新しい取り組みをしている学校がたくさんあります。よい取り組みであれば、他校の保護者は自分の学校でもと願い、学校関係者は自校でもやれそうなことであればやってみようと思う。そこに矛盾はないようなのですが、保護者と学校関係者では若干とらえ方が違うようなのです。

以前は学校の取り組みを他の学校の保護者が知ることはほとんどありませんでした。ところがネットの発達で状況が変わってきました。ホームページを見ればその学校がどのようなことに取り組んでいるのかすぐにわかります。ある方が教育長時代に「保護者はホームページを通じて校長比べをしている」とおっしゃっていたことを思い出します。市町を超えて、面白い学校のホームページを見ている方が増えてきているように思います。毎日のアクセス数が保護者の数を超えている学校もあります。電子メールなどを使っての保護者同士の情報交換もあたりまえのことです。さて、こうなってくると「よい取り組みを我が校でも」というプレッシャーが学校にかかってくることになります。これは学校にとってよいことのように思います。学校側だけで考えるより、保護者からこうしてほしいと言ってもらえた方が、同じ土俵で学校運営を考えることもでき、協力体制がとりやすくなるように思えるからです。何もすべて取り入れる必要はありません。学校ごとに状況は異なるのですから、取り入れるべきは取り入れ、無理なことであれば無理といえばいいのです。要はしっかりと説明責任を果たせばよいことです。ところが、なかなかそうはいかないようです。学校には慣性力が大きく働くので変化への抵抗が未だに強いのかもしれません。保護者や外部からの圧力で変わることへの抵抗感があるのかもしれません。

どうやら後者の方が要素として大きいのではないかと最近は思うようになりました。というのは、よい取り組みを自ら取り入れようとする学校が増えているように感じるからです。ある学校で見た取り組みをよその学校でも目にすることがよくあります。よい取り組みがあれば紹介してくださいということもよくお願いされます。今の時代、学校は変わらなくてはいけなという意識は高くなっているのです。
では、外部の圧力で変わることへの抵抗感があるというのはどういうことなのでしょうか。私がこう感じる理由は、冗談交じりで「○○さん(いろいろと新しいことに挑戦している校長)、もう少しのんびりやってよ」といったことを聞くからです。研究指定校にはどんどん先進的に取り組むように言う教育長でも、自主的な取り組みに対して、市町全体のバランスを考えてほしいということをにおわせることもあります。
自分たち主導で変わることはいいのですが、外部からのプレッシャーはどうも好ましくないようです。外部の圧力で変われば、どんどん要求が増えてくる。理不尽なものも出てくるのではないか。そう考えるのかもしれません。確かに、マスコミの情報や中途半端な知識で流行の教育法を取り入れてほしいといった要求があることもあります。その学校にとっては取り入れ難いことでもきちんと説明して、代替案を示せば間違いなく納得していただけます。取り敢えず意見を聞いて試してみて、その結果を一緒にきちんと検証してもよいでしょう。保護者をうまく巻き込み、協力体制をつくれば、学校としてもメリットが多いはずです。

新しい取り組みが成果を上げ、取り入れる学校がどんどん広がっていくことはとてもよいことです。学校が自ら取り入れるのか、保護者からの願いで取り入れるのかといったことはどうでもよいことのように思います。それは単なるきっかけであり、いずれにしても保護者の合意を得、巻き込みながら進めていくことが求められるはずです。新しい取り組みを応援し合い、互いに参考にしながらすべての学校がよりよい方向に向かっていくことを願います。

子どもは教師を見透かしている

昨日仕事でお会いした方から面白い話をお聞きしました。
その方は小学校の早い段階で、授業でほとんど発言しなくなったそうです。その理由を聞くと次のようなものでした。

授業で先生の質問に対して、先生の求める答を言わなければならないというプレッシャーがある。たとえ先生が間違いと言わなくても、表情から「ああ、先生のほしい答じゃなかったんだ」とわかる。その表情を見ると何も言えなくなってしまう。

先生は間違いと否定せず、子どもが安心して発言できるようにしているつもりなのでしょうが、子どもには見抜かれているようです。どんな発言に対しても、いつも笑顔でうなずくことの大切さがわかります。子どもの間違いを含む多様な発言を楽しむ、喜ぶ姿勢が求められるということです。

また、このようなことも話されました。

授業参観や他の先生が見に来るようなときは、いつもは指名しない子どもにも発言の機会を与える。ああ、今日は特別なんだなと思う。いろいろな子どもの意見を聞くことはいいことだけど、普段はめんどくさい、進むのにじゃまだと先生が思っていることがよくわかる。そんな特別なときでも、いつも何を言っているのかよくわからなくなる子はやっぱり指名しない。先生は、その子が授業のじゃまになると思っていると感じた。

どうでしょう。何も反論できません。こうして子どもは教師を信頼しなくなっていくのです。学校の勉強は嫌いだったと言われる理由がよくわかります。この方が特別なのではありません。どの子も同じように感じていたようです。
教師は子どもには自分の思惑はわからないと高を括っているのかもしれませんが、子どもは教師のことを見透かしているのです。あたりまえのことですが、子どもだからと見くびらず誠実に対応することがとても大切なのです。子どもにとって保護者以外に接する大人は教師以外ほとんどいません。その大人の代表が子どもに見透かされるような態度をとっていては、大人全体や社会が子どもの信頼を失くしてしまいます。
子どもは私たちが思う以上にちゃんと教師を見ている、気持ちを見抜いていることを忘れてはいけません。このあたりまえのことを改めて気づかせていただきました。

最近の授業アドバイスへの思い

子どもが全員聞く体制になってから話をしましょう。
友だちが発言しているのに板書を写している子どもには、書くのをやめてしっかり聞くように指導しましょう。
黒板を見て話をしない。子どもを見て話をしましょう。
子どもが作業しているときは、しっかりその様子を見ましょう。
子どもの発言はきちんと評価しましょう。
子どもの発言は、笑顔で受容しましょう。

これはこの1月あまりの授業アドバイスの内容です。新人か若手へのアドバイスに思えますが、実はそうでもないのです。ベテランでもこのようなことがきちんとできない人が目立つのです。これはどういうことなのでしょうか。基本的なことができていないままに経験年数だけが増えたのでしょうか。これは私の想像ですが、経験の中で話術といった授業技術をそれなりに身につけてきたので、こういった基本をきちんとしなくても、とりあえず子どもが席についておとなしく授業を受けてくれるようになったからではないでしょうか。指示一つとっても、きちんと確認するには少し待つ必要があります。限られた時間の中できるだけ早く授業を進めたい。そういう気持ちが、その少しを待てなくしているのです。4月5月の時期は基本的な学習規律を確立する時です。ここを雑にすると、今はよくてもちょっとしたことですぐほころびが出ます。ベテランでも例外ではありません。たまたま今まではうまくいっていたとしても、今年は崩れるかもしれないのです。
この傾向は、学校がそれなりに落ち着いているところで目立ちます。子どもたちに手がかかる学校では、こういった基本をおろそかにするとすぐに授業は成立しなくなります。手は抜けません。時間をかけて立て直した学校でも、喉元過ぎて熱さを忘れてしまっていることもあります。
基本的なことをきちんとしておかないと、教室の雰囲気はじわじわと緩んできます。学校全体が落ち着かなくなるのは突然ではありません。その前兆として、あたりまえのようにできていた基本的なことができなくなってきます。子どもがあたりまえのことができなくなるその裏には、教師が基本的なことに手を抜いているという事実があるのです。

私のアドバイスは先生方の耳に届いたでしょうか。そんなこと気にしなくても、ここの子どもたちは大丈夫。いざとなればちょっと締めればなんとかなる。そんなことを思われていないことを祈るばかりです。

家庭での子どもの居場所づくりを考える

「子どもの居場所をつくる」ということがよく言われます。安心して過ごせる場所があることは、子どもが安定した精神状態で暮らすためにはとても大切なことです。当然のことながら、学校にも家庭にも居場所があることが望まれます。学校では、不登校対策という側面も含めて子どもの人間関係をつくることや子どもの自己有用感を高めることを意識するようになってきました。授業で子どもの発言や反応を受容し、たとえ不正解でもポジティブに評価して子どもが安心して参加できることを目指す教師も増えてきました。一方家庭ではどうでしょうか?

私が思春期の子育てについて講演をするとき必ずお願いするのが、家庭での居場所をつくるために子どもの自己有用感を高めることです。
子どもがよい成績を取ると「よい成績でうれしい」とほめる。成績が悪かったり、失敗したりした時に、「あなたはダメだ」と叱る。一つ間違えると、親の期待に応えることが愛情を得られる手段だと考え、子どもはプレッシャーを感じます。自己実現が親の期待に応えることになってしまうと、期待に応えられない自分を否定的にとらえてしまいます。「頑張れ」という励ましもかえって子どもを苦しめることにつながります。大切なのは、「何があっても、あなたを大切に思っている、愛している」と伝えることです。間違いや失敗を指摘し、叱ることはとても重要です。しかし、子どもの人格そのものを否定してはいけません。何があってもその子どもの味方であるというメッセージを送ってほしいのです。

子どもに家族の一員であること実感させることも大切です。そのためには家族の中で自分の役割があることが大切です。最近ではあまり聞かなくなりましたが、「あなたの仕事は勉強だよ」というのは、勉強でしか評価しないというプレッシャーにしかなりません。風呂掃除1回につきいくらというのも、間違っています。自分の行為がお金という価値に置き換わってしまうからです。家族のために役立っているという自己有用感にはつながりません。サボっても家族が困るとは考えません。お金がもらえないだけなのです。
食べ終わったあとの食器を流しまで持っていくことでもいいのです。それに対して、「助かるわ、ありがとう」と感謝の気持ちを伝えることが大切なのです。家族の一員として自分が役に立っているという自己有用感が必要なのです。

また、保護者に求められるのは子どものよき聞き手になることです。もうそろそろ大人に近づいたのだから「自分で考えなさい」と突き放すのも、まだまだ子どもだから「こうしなさい」と指示するのもちょっと違います。子どもの言葉をしっかり受け止め、「どうしようかな」と一緒に考える姿勢が必要です。叱るときも「あなたの・・・がいけない」とYOUメッセージではなく、「あなたのしたこと残念、悲しい」とIメッセージで伝えるようにすることを意識することが大切です。

こういったことをお話しするのですが、ありがたいことにとてもよい反応・評価をいただけます。しかし、これは私が伝えるまで保護者の方が意識してこなかったことなのでしょうか。もしそうだとすればこれは問題です。学校は家庭に子どもの居場所があることを願っているはずです。であれば、そのための働きかけをするべきではないでしょうか。家庭の問題だから学校がかかわることではないと考えているのでしょうか。「子どもの居場所をつくってあげてください」とただお願いすれば、それでよいと思っているのでしょうか。
私は、子どもの居場所をつくるための具体的な方法を伝えることの大切さを先輩から学びました。まだ子どももいない私でしたが、担任として保護者の方にここで述べたようなことを、失礼を承知でお願いしてきました。

家庭と連携して子どもを育てるとよく言います。であれば、学校として子育てを応援するためのことをもっと意識してもよいのではないでしょか。子どもとの会話のきっかけになる話題の提供。親が子どもを認め、ほめるために、一人ひとりのよいところを通知表や通信で伝える。こういうことが求められると思います。
ホームページで子どもたちの頑張りやよさを発信する。校長通信や学級通信を使って、固有名詞で子どものよいところを紹介する。学級担任だけでなく教科担任や部活動の顧問が、子どもたち一人ひとりの「いいとこ見つけ」をして、それを一人ひとりに印刷して配る。保護者面談で、子どものよいところをたくさん伝える。具体的な方法はたくさんあると思います。
学校での居場所だけでなく、子どもたちの家庭での居場所づくりを学校にもっと意識してほしいと思います。

読み物資料を活かした道徳授業を考える

先週末、本年度第1回の教師力アップセミナーに参加してきました。貝塚市立木島小学校長川崎雅也先生の「共感・感動で心をはぐくむ」というタイトルの読み物資料を活かした道徳授業のお話でした。

川崎先生の、「心は具体的な行動によって見える」という考え方は大いに納得できるものでした。登場人物の行動からその心に迫るという手法は、読み物資料を活かすための大切な視点だと思います。
 川崎先生の考える道徳授業の流れは、「ストーリーの把握」「登場人物の心を考える」「道徳的問題点とその変化を考える」、最後に「生き方を考えることにつなげる」というものです。読み物資料を活用する基本は、主人公(登場人物)があることをきっかけに生き方(ありよう)が変わる場面を中心にその心の変化を深く掘り下げることにあります。そのためには、「ストーリーの把握」「登場人物の心を考える」といった資料の読み取りの部分はできるだけ時間をかけず、主人公の変化を考えることに時間を使うということを強く主張されました。しかし実際には、まるで国語の授業のように読み取りに時間をかけ、肝心の主人公の変化を深く考える時間がほんのわずかしかない授業に多く出会います。深読みすれば、子どもたちに深く考えさせることができないので、そこに時間をかけてもすぐに終わってしまうからなのかもしれません。

川崎先生は、この主人公の気持ちが変化する場面でかかわる登場人物を助言者と呼んでおられました。この助言者とのかかわりを通じて、主人公の気持ちを問いかけ、子どもの考えを深めていきます。この時、子どもの考えは、大きく3つに分類できます。
1つは、自分の行動の反省(過去)、次に他者(助言者)への気持ち(現在)、3つ目が次の行動(未来)です。特に最後の「次の行動を考える」ことが、子どもたちに自分がどう生きるかを考えさせることにつながる一番大切な部分です。子どもたちにそこまで考えさせなければ、道徳の授業としては薄いものになってしまいます。
また、子どもたちに深く考えさせるためには、映像でなく読み物であることが大切だと言われます。読み物は書かれていないことを想像するよさがあります。登場人物の表情が書かれていないからこそ、子どもたちはその時どんな表情をしていたのか考えます。これが絵やビデオであれば、顔が見えてしまえば終わりです。子どもによって異なる考えも生まれません。リアルなだけにかえって表面的になってしまうのです。読み物資料の「書かれていない姿が見える」よさを活かそうと意識して授業をつくることが大切であると感じました。

川崎先生は読み物資料のよさを活かしながら、子どもたちの考えを深める場面を見事に模擬授業で示してくださいました。どんな意見も「いいですね」とほめしっかり受容します。順番に指名しながら時には、「えー、○○じゃないの」と突っ込んで、より多くのものを引き出します。受けと切り返しの技術の素晴らしさに感心しました。ほめることで、どの子も安心して発言できる雰囲気がつくられます。順番に指名することで次は自分の番だとプレッシャーをかけ子どもたちに考えざるを得ない状況をつくります。たくさんの考えを聞かせることで、一人ひとりの考えを深めていきます。ここぞというところでは、教師が説明するのではなく切り返すことで、子どもたちの言葉で考えを深めていきます。教師が迫ることで、まさに「主人公の着ぐるみを着て」考えさせる授業になっていました。

川崎先生の見事な模擬授業に、この授業を実践したいと思う若手の教師も数多くいると思います。しかし、ほとんどは子どもたちの考えをこれほど深めることはできないのではないかと思います。この授業を成立させている要因は、授業者の資料に対する深い読みとその上での子どもへの切り返しの技術です。子どもの発言を受け止めて次の子どもを指名するのか、切り返すのか。切り返すのなら何を問いかけるのか。その判断と返しの言葉は、はたで見ているよりもはるかに高度なものだからです。
川崎先生は、教師と子どもとの1対1のやり取りをもとに授業を進めていきます。そのため、教師の力量が大きく問われます。経験の浅い教師にはハードルが高いのではないでしょうか。こういう場合は、子ども同士をつなぐことを意識するとよいと思います。「同じように思った人いる?」とつなげば、子どもが考えを足してくれます。「今の考えを聞いてあなたはどう思った」と問いかければ考えが深まっていきます。教師がうまく切り返せなくても、つなぐこと意識すれば子どもたちで深めていくことは可能だと思います。こんなことを考えました。

また、「主人公の気持ちを深く考えることで子どもたち自身の生き方を考えさせる」というのが道徳としてのねらいなのですが、時として、他人事になってしまい自分に引き寄せられない子どももいるかもしれないと思いました。このことをたまたま参加していた知り合いの校長に話したところ、資料を使う前にそのテーマに関したことを子どもに問いかけておき、最後にもう一度同じことを問いかけることで自分に引き寄せることができるのではないかと教えていただけました。なるほどと思いました。こういう進め方もよいかもしれません。

川崎先生が提案された道徳の授業のあり方が非常にレベルの高いものだっただけに、講演の間、ずっといろいろなことを考え続けました。読み物資料を使った道徳の授業に私が長い間感じていた疑問の多くを解決していただけました。本当に有意義な時間でした。川崎先生、ありがとうございました。

授業参観での保護者の様子を考える

中学校での授業参観での保護者の様子がいくつかの学校のホームページで話題になっていました。廊下でおしゃべりをしてうるさいというのです。保護者に訴えるだけでなく、何らかの手立てが必要だとの意見も多くあります。先日訪問した学校でも、先生方の話題になっていました。どこの学校でも問題となっているようです。このことについて少し考えてみたいと思います。

小学校ではこのようなことはあまり話題になりません。子どもは自分の保護者に来てほしい、見てほしいと思っています。子どもの期待に応えるためにも保護者は教室に入って授業をしっかり見ようとします。また、子どもが活躍する場面が小学校は多いので、自分の子どもの活躍場面を見ようと集中して参観します。授業の内容も保護者に十分わかるものなので、余裕を持って参加することができます。
裏を返せば、中学校はこの条件を満たしていないということです。
思春期の子どもたちは保護者が来ると恥ずかしいから来ないでと言います。
一方通行の講義形式の授業では、保護者にとって興味のない、よくわからない教科の話を聞かされる時間がほとんどです。子どもたちも、一部の子どもが発言するだけで、あとは受け身で板書を写しているだけです。保護者が見たいと願う、子どもの活躍の場面はほとんどないのです。
教室に入らずに廊下でつい世間話をしてしまうのもむべなるかなという気がします。

では、どうすればいいのでしょうか。
子どもが来ないでと言うのを変えるのはなかなか難しいことです。教師が「君たちの授業での姿は素晴らしい。この素晴らしさを知ってもらおう」とできるだけ具体的に子どもたちのよい姿をほめ、その姿を見てもらいたいことを伝える。一方、保護者も「みんなの・・・している姿がすてきだったね。あなたも・・・を頑張っていたね」と、参観後できるだけ具体的にほめる。このとき、自分の子どもだけでなく、学級全体もほめるとよいでしょう。友だちと比較して悪い点を指摘するのではなく、両方をほめるようにします。この時期の子どもは友だちとの関係がとても大切です。共にほめられることで見られることに肯定的な気持ちになれるのです。こういうことを地道に続けていく以外によい方法はなかなか思いつきません。もちろん、子どもたちのよい姿が授業中に見られることが前提ですが・・・。

2つ目の問題はどうでしょうか。授業の内容がわからないという点については、簡単な授業紹介や、授業の見どころを印刷して配るという対応をしているところもあります。教師が工夫しているところ、授業の内容をわかりやすく解説するなどしているのですが、はたから見ているとどうも効果はあまり感じられません。保護者は授業を受けに来ているわけでも、授業そのものを見に来ているわけでもありません。学校評価の一環で授業評価をするのならともかく、日ごろの授業参観では子どもたちの姿を見に来ているのです。保護者に伝えるべきなのは、授業のどの場面で、どのような子どもたちの素敵な姿が見られるのかではないでしょうか。授業参観で問われるのは、毎日の授業で、子どもたちのどのような姿が見られること目指しているのかだと思います。
しかし、学校として授業で目指している子どもの姿が、保護者の受けてきた授業と異なっている場合などは、外から見ただけではなかなか理解することができません。なぜこのような姿を目指しているか理解されないこともあるでしょう。日ごろから学校が目指す子どもの姿をホームページなどで発信して理解してもらうことが大切です。授業参観の時に、目指している子どもの姿と、そのために学校としてどのような工夫をしているのかについてミニ講演をしてもいいかもしれません。学校で取り組んでいる授業のよさを伝える一番簡単な方法は、保護者に生徒役になってもらい模擬授業をすることかもしれません。
実際に保護者対象に授業をした学校もあります。総合的な学習が導入された時に、その目指すものがどういうものかミニ講演をした例もあります。学校と保護者の見たい子どもの姿を共有する方法はたくさんあるのではないでしょうか。

授業参観で大切なことは、子どもの姿を通じて保護者と学校が理解し合うことだと思います。保護者と学校の見たい子どもの姿が一致すれば、その姿を見ようと積極的に参加してくれるのではないでしょうか。私はそのように考えています。
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