非日常を日常に変える役割

ありがたいことに、今年もたくさんの学校や教育委員会からお声をかけていただき、授業アドバイスや講演、研修のお手伝いをさせていただいています。この時期はなかなかご希望にそえなくて、日程の調整をお願することもあり、恐縮しています。
お仕事をさせていただく際に心がけているのが、できるだけ具体的にお話をすることです。ご存知の方も多いと思いますが、学校からの講演だけの依頼は原則としてお断りしています。授業を見せていただくことを引き受ける条件にしています。実際に目にした子どもたちの姿を元に話したいからです。

具体的な場面を例に話をしても、講演の場合はどこか他人事のようにとらえられているように感じることがあります。ある授業場面を例に話していても、当の本人が全く自分のことだと気づいていないこともあります。一方授業について具体的なアドバイスをする場合、逃れようがない事実を元にその方の授業について話すことになりますので他人事にはなりません。素直に受け止めることができる人であれば、個人の成長にはこれが一番効果的に思えます。講演であっても、自分の問題だととらえてもらえれば同じように効果があるはずです。もちろん伝わるように話しているか、内容が適切かといった話し手の力量の問題はありますが、受け手の問題の方が大きいように思います。逆に素直な方であれば講演だろうが授業アドバイスだろうが、必ず成長につながっていきます。個人差はありますが、素直な先生は間違いなく力をつけていきます。

では、学校全体を見たときに向上的な変容が見られるかどうかの要因はなんでしょうか。同じように訪問しても、なかなか変化が見られない学校もあれば、数回の訪問で進歩を感じられる学校もあります。その違いを生むのは、教務主任クラスのリーダー層の発信力のように思います。
講演であれば全員が聞いています。しかし、それでよしとするのではなく、その内容を自分の言葉で整理し、目の前の状況に合わせて必要な部分を何度も再発信をする。咀嚼したことを、実際の授業の具体的な場面に即してアドバイスをする。個別の授業アドバイスであれば、アドバイスの中で学校全体に共通するものがあれば、それをまとめて他の先生に伝える。アドバイスを受けた先生に、勉強になったことをまとめてみんなに伝えるように働きかける。アドバイスを受けて変容したことをこまめに評価し、全体に知らせる。こういったことをしているかどうかが大きいのです。講演や授業アドバイスは非日常です。そこで得たことを日常に変えていくことが求められるのです。

私ごとき者の講演やアドバイスで全体がよい方向へ変わっていく学校は、間違いなく非日常を日常に変えていく役割を果たしている先生がいらっしゃいます。逆にそのような方がいれば、私のような非日常は単なるきっかけに過ぎないのかもしれません。このような先生がいるからこそ、多くの学校で進歩している手ごたえを感じさせていただいているのです。このような出会いに恵まれていることに感謝する今日この頃です。

Dr.横山から学ぶ

先日、本年度第2回の教師力アップセミナーに参加してきました。山形大学医学部看護学科教授横山浩之先生の講演です。Dr.横山の登壇は3回目です。前回までは、個々の場面での対応が中心でしたが、今回は「通常学級にいる特別支援が必要な子どもに対応できる授業とは」というテーマで、具体的な授業のあり方についてのお話でした。
以前の講演でDr.横山から学んだことは、特別支援教育にとどまらず、通常の授業、学級経営を考える大きなヒントになりました。Dr.横山から学んだペアレントトレーニングの考え方が、私の子どもへの接し方の基本となっています。

最初に、ある子どもの事例を話されました。親の虐待が疑われる子どもです。甘えるところがない状況です。母親役が学校に必要だということです。その子どもが学校を休んだ後、教室に行きたくないというのです。理由は友だちが休んだ理由を聞くからだというのです。友だちがあなたのことを「好き」→「心配」→「聞く」ということだと説明すると安心して教室に戻ったそうです。好きだから、愛しているからとる行動が理解できないのです。愛情を受けていないということです。
よい行動をほめて強化するのがペアレントトレーニングの基本ですが、こういう子どもはほめられていることを理解できないことが多いようです。この子どもの場合はビー玉に興味を示したので、ビー玉を与えることでよい行動を強化したそうです。次第に母親役である先生に駄々をこねるようになってきました。不適応行動が増えたように思えます。状況が悪くなったように見えますが、そうではないのです。この子どもの場合、人を信じることができるのが目標です。愛着形成が必要なのです。そういう意味では、母親役の先生に心を許したのですから、よい状況になってきたのです。表面的な行動でとらえるのではなく、その原因を考えることが大切なのです。
子どもたちをほめて強化し伸ばすというペアレントトレーニングの考え方を学級経営に活かす方法としてクラス会議が紹介されました。クラス会議でルールを決めて、できたことの報告会をするのです。できなかった子どもを糾弾するのではありません。ほめるきっかけ、場面をつくり、意図的にほめてよい行動を広げる。教師の姿勢の基本だと思います。

授業を考えるにあたって、まず記録をとることの重要性を説かれました。「ICレコーダーやビデオに記録を取って客観的に振り返ることで改善点が見える」という当たり前のことなのですが、これを実践するのはなかなか難しいものがあります。自身の至らなさと直面するのは厳しいものがあるからです。Dr.横山自身、初めておこなう講義では3回振り返るそうです。他者に勧めるからには、自分もきちんとやるという姿勢は見習わなければいけません。

子どもに伝えるのに、「ことばをけずる」「ひとめでわかる工夫をする」ことが大切だと言われます。子どもの視線の移動に気を配るといったことなど、すべて特別支援に限らず、授業の基本でもあります。そのことをあえて言わなければいけないということが、学校現場の現状でしょう。新年度が始まって3か月近くが過ぎようとしています。学校に出かけていって、こういった基本的なことを指摘することがまだまだ多いことが残念です。

学級経営を個別指導に優先させるということも話されました。その通りだと思います。特別支援に限らず、気になる子どもを優先させるのではなく、大多数である普通の子どもを第一に考えるのが基本です。普通の子どもがまず安心して暮らせる学級をつくらないと、全体が崩壊していくからです。
発達障害を疑われる子どもがたくさんいるという学級は、実は不適切な扱いを受けている子どもがその中に混ざっている可能性があるという話も、なるほどと思いました。発達障害は高々10%と言われています。それ以上の数が疑われるときには注意が必要ということです。正しい対応というのはどういうことなのでしょうか。Dr.横山が実際におこなった授業ビデオを元に解説されました。

授業を見るプロとしてDr.横山の授業はどう見えたでしょうか。
実に教科書通りの授業なのです。たとえば、机間指導していても常に全体に目を配っています。努力している、よい行動を見つけると、すうっと寄ってほめます。「ずれないでしっかりかいているね」「最後の『。』も書いているね」と具体的にほめます。もちろん常に笑顔です。できる子への対応も忘れていません。「他の言葉もできるかな。あいているところに書いてごらん」「自分から勉強しているね。立派!」こういう言葉をかけます。決してネガティブな言葉は使いません。教師が近づくとほめてもらえるのなら、子どもは安心して作業を続けます。ところが、実際にはこの逆の場面を多く見ます。教師がいつも子どもの悪いところ指摘していると、教師が近づくと子どもに緊張が走るのです。机間指導の時の子どもの姿を見るだけで、その教師の日ごろの子どもへの接し方がわかるのです。
最初から失敗させるとやる気を失くします。そこで、書く場面では、なぞることから始めました。まずは、成功させほめるところから出発するのです。
指示も1度に1つです。それも、できるだけ短い言葉でするようにしています。子どもたちの短期記憶の負荷をできるだけ少なくするということです。指示を繰り返すにしても同じ言葉を使います。子どもが理解していないなと感じると、言葉を変える教師がいます。理解が遅い子どもは一生懸命理解しようとしているのに、違う言葉で説明されると追いつきません。かえって混乱するのです。適切な言葉に絞り込むことが大切です。そのために、教材研究は欠かせないのです。
基本がしっかりできていると感じる先生の学級では、発達障害の子どもが目立たない理由があらためてわかった気がしました。

ソーシャルスキルトレーニングついてもお話がありました。特別支援を必要とする子どもとその子どもを取り囲む子どもたちにとって、ソーシャルスキルはとても重要だと思っています。Dr.横山もその重要性をおっしゃっていましたが、特別の時間だけやっても効果が薄いということです。日常的におこなわないと定着しないということが研究でわかっているそうです。簡単なものでいいので、毎日取り組むことが大切なのです。Dr.横山がつくった、そのための教材「マンガでわかるよのなかのルール」を紹介されました。

参加者の質問に答える中で、幼保と小中の連携の必要を話されました。最初の事例でもわかるように、保護者の情報を知ることは子どもたちと接するうえでも重要なことです。しかし、小中の教師にとって、このことはそれほど簡単ではありません。保護者と接する機会が圧倒的に少ないのです。その点、幼保では子どものお迎えなどがあるため、かなりの頻度で保護者と接します。信頼に足る情報を持っていると思われます。連携の必要性を改めて納得できました。

医者であるにもかかわらず、どうしてこのような授業技術を身につけられたのか興味を持ちました。お聞きしたところ自分でもよくわからないということです。ただ、亡くなられたお父様が指導主事だったということが影響しているかもしれないということでした。実家に教育書がたくさんあって、それを参考にされたこと、また、子どものころに教育に関することを耳にする機会があったことなどが関係しているかもしれないということです。

今回の講演は、前回までの講演の知識を前提としているので、初めてDr.横山の話を聞かれた方には、ペアレントトレーニングなど、もう少し詳しく聞きたい部分もあったかもしれません。ぜひご自分で勉強していただければと思います。そういった知識がなかったとしても、とてもわかりやすく役に立つものだったと思います。特別支援教育とかまえる必要はありません。授業の基本をきちんと押さえることが、特別支援を必要とする子どもへの有効な対応であることをあらためて確認できました。とても中身の濃いお話をありがとうございました。

子どもとかかわるということ

学校で教育実習生に出会う季節になりました。真剣な目で授業を見つめる姿からやる気が伝わってきます。この中から、これからの学校現場を支えてくれる人材が育ってくれることを期待しています。彼らについていろいろなことが耳に入ってきます。その中で、難しい問題だと感じるのが、子どもとのかかわり方です。

定期考査の終わったあとです。成績が振るわなくて落ち込んでいた子どもが教育実習生に勉強を教えてほしいといってきました。特定の問題を教えてくれというのではなく、定期的にいろいろな教科の勉強を見てほしいというのです。教育実習生は子どもに頼られたのでうれしくてしょうがありません。早速指導の先生に許可を求めました。先生は、「自分の教科ならばともかく他の教科を教えるということは、どういうことだと思う」とそれぞれの先生の教え方や考え方がわかってもいないのに勝手に担当以外の人間が教えることの問題を伝えました。「実習期間が終わっても、教えてほしいといったらどうする?その子どもが、あなたがいなくなったから成績が下がったと言ったらどうするの。責任を取れるの?」と問いかけました。大切なことはどう行動すればよいかを子どもに考えさせ、行動をうながすことです。それも指導の先生と相談しての上です。子どもが教えてほしいと言ったのは、教育実習生に甘えたかっただけだということを、指導の先生はよくわかっていました。事前に相談してくれてよかった。もし、勝手に教え始めたらその後始末が大変だった。そう語っていました。

教育実習生は何も責任を取ることができません。子どもと深くかかわることは避けなければいけません。裏を返せば、教師は子どもに対して常に責任を持って接しているということです。今回のことで、この教育実習生はこのことを学んでくれたでしょうか。
教師を目指す学生ですから、子どもと触れ合いたいと思うのは当然です。だからこそ、将来しっかりと子どもと触れ合うために、今学ぶべきことは何かを考えてほしいのです。それは、ままごとのように、無責任に子どもとかかわり合う体験をすることではありません。教師が何を考え、どのように子どもと接しているのか、その背中から学ぶことです。
彼らが学校現場で多くのことを学び、何年かの後、立派な教師となった姿を見せてくれることを楽しみにしています。

教師が頑張ること

「今年の1年生は例年よりも学習に対してやる気がある。私たちも頑張ろう」という声がある学校から聞こえてきました。先生方もやる気を出しているのはよいことだと言えそうな気もしますが、何かしっくりきません。「子どもたちのやる気がなければ教師は頑張れないのか?」「そもそも子どものやる気のあるなしで教師のやることが変わるのか?」そんなことを考えました。

子どものやる気がなければ、やる気を引き出すために頑張って工夫する。教師の仕事とはそもそもそういうものです。そういう工夫をしなくても、最初からやる気があるのならそれはとてもよいことです。そうであれば、子どもたちをより伸ばすために次の工夫を頑張ってすれればいいのです。常に子どもたちの状況に応じて、必要なことをするだけです。もちろん子どもが意欲的だと教師も確かにやる気がアップすることは理解できます。そのやる気で何を頑張るかが実はよくわからないのです。

子どもの授業に対する集中力が高ければ、同じ授業でもより学力がつくことは容易に想像できます。そこに教師が頑張る要素は感じられません。子どもが意欲的なので演習量を増やすことができるのかもしれません。これも教師の頑張りを必要とすることではありません。やる気があるから宿題の量を増やしてもこなしてくれるかもしれません。ここで頑張るのは宿題の印刷なのか、それとも宿題のチェックなのでしょうか。子どもが頑張ることはいくらでも想像できるのですが、教師が今まで以上に頑張ることはなかなか見えないのです。子どものやる気に対して、量的な面で子どもを頑張らせることを教師の頑張りに置き換えているのであれば、それは違うように思います。

もし教師が頑張るべきことがあるのなら、子どものやる気を活かす授業を工夫することのように思います。子どもが集中して考えてくれるからこそ、より力のつく課題を考える。これは量的な発想とは次元の違うものです。教師が頑張らなければできることはでありません。また、ちょっと頑張ったからといってすぐに見つかるものでもありません。

子どものやる気に応えようという気持ちは決して悪いことではありません。しかし、安直に量的な面で子どもを頑張らせることに走るのではなく、やる気を活かすような課題を工夫するといった質的な面で応えてほしいと思います。

ホームページから学校経営の姿勢を知る

ある市の研修の講座の担当者からメールをいただきました。その担当者の所属は、私が5年間授業アドバイスをしている学校でした。今年度はまだおじゃましていないので、今どんなようすなのだろうとホームページを覗いてみると、そこには子どもたちの笑顔があふれていました。特別な日ではなく、日々の学校生活の中での光景です。うれしくなって、気がつけば今年度のすべての記事をチェックしていました。1日に何度も更新されているので結構な量ですが、写真が中心なのでそれほど時間はかかりません。アクセス数もかなりの数です。私が見ても楽しいのですから保護者ならなおのことでしょう。

この学校に初めておじゃました時のことを今でも覚えています。朝から1日中学校を回って授業を参観しましたが、笑顔には1つか2つしか出会えませんでした。子どもも先生も難しい顔、厳しい顔をしています。笑顔のない、俗にいう荒れた学校でした。そんな学校が今では子どもも教師も笑顔にあふれています。偶然のシャッターチャンスに頼っていては、これほどのたくさんの笑顔は撮れません。明るい学校に変わったことがよくわかります。先生方の努力が実を結んだのです。

子どもたちの姿だけでなく、校長の式辞やメッセージもたくさんあります。オープンスクールでは、事前に見どころも紹介しています。訪問していなくても学校のようすが手に取るようにわかります。昨年の9月にリニューアルしてから半年余りで素晴らしホームページになっていました。
これだけ短期間で充実したホームページをつくり上げることができたのは、担当者をはじめ、校長や多くの先生方の努力があったのはもちろんですが、某有名校のホームページを参考にしたことも大きいようです。よいと思うものはためらわず取り入れる。そんな学校経営の姿勢が伝わってきます。昨日の日記(他校の取り組みをどう見るか)に書いたように、他校のよい取り組みを積極的に取り入れることで、スピード感のある学校経営が可能になります。妙に自校の独自性にこだわるより、いろいろな学校のよい取り組みを取り入れることで、よほど個性的な学校に生まれ変わると思います。

ホームページは学校経営のための大きな武器であると同時に、そこから学校経営の姿勢も読み取れるものだとあらためて気づかされました。7月にこの学校でおこなわれる市の算数数学教育研究会の授業研究に参加します。子どもたちと先生のどんな笑顔に出会えるか今からとても楽しみです。

他校の取り組みをどう見るか

研究指定校でなくても、新しい取り組みをしている学校がたくさんあります。よい取り組みであれば、他校の保護者は自分の学校でもと願い、学校関係者は自校でもやれそうなことであればやってみようと思う。そこに矛盾はないようなのですが、保護者と学校関係者では若干とらえ方が違うようなのです。

以前は学校の取り組みを他の学校の保護者が知ることはほとんどありませんでした。ところがネットの発達で状況が変わってきました。ホームページを見ればその学校がどのようなことに取り組んでいるのかすぐにわかります。ある方が教育長時代に「保護者はホームページを通じて校長比べをしている」とおっしゃっていたことを思い出します。市町を超えて、面白い学校のホームページを見ている方が増えてきているように思います。毎日のアクセス数が保護者の数を超えている学校もあります。電子メールなどを使っての保護者同士の情報交換もあたりまえのことです。さて、こうなってくると「よい取り組みを我が校でも」というプレッシャーが学校にかかってくることになります。これは学校にとってよいことのように思います。学校側だけで考えるより、保護者からこうしてほしいと言ってもらえた方が、同じ土俵で学校運営を考えることもでき、協力体制がとりやすくなるように思えるからです。何もすべて取り入れる必要はありません。学校ごとに状況は異なるのですから、取り入れるべきは取り入れ、無理なことであれば無理といえばいいのです。要はしっかりと説明責任を果たせばよいことです。ところが、なかなかそうはいかないようです。学校には慣性力が大きく働くので変化への抵抗が未だに強いのかもしれません。保護者や外部からの圧力で変わることへの抵抗感があるのかもしれません。

どうやら後者の方が要素として大きいのではないかと最近は思うようになりました。というのは、よい取り組みを自ら取り入れようとする学校が増えているように感じるからです。ある学校で見た取り組みをよその学校でも目にすることがよくあります。よい取り組みがあれば紹介してくださいということもよくお願いされます。今の時代、学校は変わらなくてはいけなという意識は高くなっているのです。
では、外部の圧力で変わることへの抵抗感があるというのはどういうことなのでしょうか。私がこう感じる理由は、冗談交じりで「○○さん(いろいろと新しいことに挑戦している校長)、もう少しのんびりやってよ」といったことを聞くからです。研究指定校にはどんどん先進的に取り組むように言う教育長でも、自主的な取り組みに対して、市町全体のバランスを考えてほしいということをにおわせることもあります。
自分たち主導で変わることはいいのですが、外部からのプレッシャーはどうも好ましくないようです。外部の圧力で変われば、どんどん要求が増えてくる。理不尽なものも出てくるのではないか。そう考えるのかもしれません。確かに、マスコミの情報や中途半端な知識で流行の教育法を取り入れてほしいといった要求があることもあります。その学校にとっては取り入れ難いことでもきちんと説明して、代替案を示せば間違いなく納得していただけます。取り敢えず意見を聞いて試してみて、その結果を一緒にきちんと検証してもよいでしょう。保護者をうまく巻き込み、協力体制をつくれば、学校としてもメリットが多いはずです。

新しい取り組みが成果を上げ、取り入れる学校がどんどん広がっていくことはとてもよいことです。学校が自ら取り入れるのか、保護者からの願いで取り入れるのかといったことはどうでもよいことのように思います。それは単なるきっかけであり、いずれにしても保護者の合意を得、巻き込みながら進めていくことが求められるはずです。新しい取り組みを応援し合い、互いに参考にしながらすべての学校がよりよい方向に向かっていくことを願います。

子どもは教師を見透かしている

昨日仕事でお会いした方から面白い話をお聞きしました。
その方は小学校の早い段階で、授業でほとんど発言しなくなったそうです。その理由を聞くと次のようなものでした。

授業で先生の質問に対して、先生の求める答を言わなければならないというプレッシャーがある。たとえ先生が間違いと言わなくても、表情から「ああ、先生のほしい答じゃなかったんだ」とわかる。その表情を見ると何も言えなくなってしまう。

先生は間違いと否定せず、子どもが安心して発言できるようにしているつもりなのでしょうが、子どもには見抜かれているようです。どんな発言に対しても、いつも笑顔でうなずくことの大切さがわかります。子どもの間違いを含む多様な発言を楽しむ、喜ぶ姿勢が求められるということです。

また、このようなことも話されました。

授業参観や他の先生が見に来るようなときは、いつもは指名しない子どもにも発言の機会を与える。ああ、今日は特別なんだなと思う。いろいろな子どもの意見を聞くことはいいことだけど、普段はめんどくさい、進むのにじゃまだと先生が思っていることがよくわかる。そんな特別なときでも、いつも何を言っているのかよくわからなくなる子はやっぱり指名しない。先生は、その子が授業のじゃまになると思っていると感じた。

どうでしょう。何も反論できません。こうして子どもは教師を信頼しなくなっていくのです。学校の勉強は嫌いだったと言われる理由がよくわかります。この方が特別なのではありません。どの子も同じように感じていたようです。
教師は子どもには自分の思惑はわからないと高を括っているのかもしれませんが、子どもは教師のことを見透かしているのです。あたりまえのことですが、子どもだからと見くびらず誠実に対応することがとても大切なのです。子どもにとって保護者以外に接する大人は教師以外ほとんどいません。その大人の代表が子どもに見透かされるような態度をとっていては、大人全体や社会が子どもの信頼を失くしてしまいます。
子どもは私たちが思う以上にちゃんと教師を見ている、気持ちを見抜いていることを忘れてはいけません。このあたりまえのことを改めて気づかせていただきました。

最近の授業アドバイスへの思い

子どもが全員聞く体制になってから話をしましょう。
友だちが発言しているのに板書を写している子どもには、書くのをやめてしっかり聞くように指導しましょう。
黒板を見て話をしない。子どもを見て話をしましょう。
子どもが作業しているときは、しっかりその様子を見ましょう。
子どもの発言はきちんと評価しましょう。
子どもの発言は、笑顔で受容しましょう。

これはこの1月あまりの授業アドバイスの内容です。新人か若手へのアドバイスに思えますが、実はそうでもないのです。ベテランでもこのようなことがきちんとできない人が目立つのです。これはどういうことなのでしょうか。基本的なことができていないままに経験年数だけが増えたのでしょうか。これは私の想像ですが、経験の中で話術といった授業技術をそれなりに身につけてきたので、こういった基本をきちんとしなくても、とりあえず子どもが席についておとなしく授業を受けてくれるようになったからではないでしょうか。指示一つとっても、きちんと確認するには少し待つ必要があります。限られた時間の中できるだけ早く授業を進めたい。そういう気持ちが、その少しを待てなくしているのです。4月5月の時期は基本的な学習規律を確立する時です。ここを雑にすると、今はよくてもちょっとしたことですぐほころびが出ます。ベテランでも例外ではありません。たまたま今まではうまくいっていたとしても、今年は崩れるかもしれないのです。
この傾向は、学校がそれなりに落ち着いているところで目立ちます。子どもたちに手がかかる学校では、こういった基本をおろそかにするとすぐに授業は成立しなくなります。手は抜けません。時間をかけて立て直した学校でも、喉元過ぎて熱さを忘れてしまっていることもあります。
基本的なことをきちんとしておかないと、教室の雰囲気はじわじわと緩んできます。学校全体が落ち着かなくなるのは突然ではありません。その前兆として、あたりまえのようにできていた基本的なことができなくなってきます。子どもがあたりまえのことができなくなるその裏には、教師が基本的なことに手を抜いているという事実があるのです。

私のアドバイスは先生方の耳に届いたでしょうか。そんなこと気にしなくても、ここの子どもたちは大丈夫。いざとなればちょっと締めればなんとかなる。そんなことを思われていないことを祈るばかりです。

家庭での子どもの居場所づくりを考える

「子どもの居場所をつくる」ということがよく言われます。安心して過ごせる場所があることは、子どもが安定した精神状態で暮らすためにはとても大切なことです。当然のことながら、学校にも家庭にも居場所があることが望まれます。学校では、不登校対策という側面も含めて子どもの人間関係をつくることや子どもの自己有用感を高めることを意識するようになってきました。授業で子どもの発言や反応を受容し、たとえ不正解でもポジティブに評価して子どもが安心して参加できることを目指す教師も増えてきました。一方家庭ではどうでしょうか?

私が思春期の子育てについて講演をするとき必ずお願いするのが、家庭での居場所をつくるために子どもの自己有用感を高めることです。
子どもがよい成績を取ると「よい成績でうれしい」とほめる。成績が悪かったり、失敗したりした時に、「あなたはダメだ」と叱る。一つ間違えると、親の期待に応えることが愛情を得られる手段だと考え、子どもはプレッシャーを感じます。自己実現が親の期待に応えることになってしまうと、期待に応えられない自分を否定的にとらえてしまいます。「頑張れ」という励ましもかえって子どもを苦しめることにつながります。大切なのは、「何があっても、あなたを大切に思っている、愛している」と伝えることです。間違いや失敗を指摘し、叱ることはとても重要です。しかし、子どもの人格そのものを否定してはいけません。何があってもその子どもの味方であるというメッセージを送ってほしいのです。

子どもに家族の一員であること実感させることも大切です。そのためには家族の中で自分の役割があることが大切です。最近ではあまり聞かなくなりましたが、「あなたの仕事は勉強だよ」というのは、勉強でしか評価しないというプレッシャーにしかなりません。風呂掃除1回につきいくらというのも、間違っています。自分の行為がお金という価値に置き換わってしまうからです。家族のために役立っているという自己有用感にはつながりません。サボっても家族が困るとは考えません。お金がもらえないだけなのです。
食べ終わったあとの食器を流しまで持っていくことでもいいのです。それに対して、「助かるわ、ありがとう」と感謝の気持ちを伝えることが大切なのです。家族の一員として自分が役に立っているという自己有用感が必要なのです。

また、保護者に求められるのは子どものよき聞き手になることです。もうそろそろ大人に近づいたのだから「自分で考えなさい」と突き放すのも、まだまだ子どもだから「こうしなさい」と指示するのもちょっと違います。子どもの言葉をしっかり受け止め、「どうしようかな」と一緒に考える姿勢が必要です。叱るときも「あなたの・・・がいけない」とYOUメッセージではなく、「あなたのしたこと残念、悲しい」とIメッセージで伝えるようにすることを意識することが大切です。

こういったことをお話しするのですが、ありがたいことにとてもよい反応・評価をいただけます。しかし、これは私が伝えるまで保護者の方が意識してこなかったことなのでしょうか。もしそうだとすればこれは問題です。学校は家庭に子どもの居場所があることを願っているはずです。であれば、そのための働きかけをするべきではないでしょうか。家庭の問題だから学校がかかわることではないと考えているのでしょうか。「子どもの居場所をつくってあげてください」とただお願いすれば、それでよいと思っているのでしょうか。
私は、子どもの居場所をつくるための具体的な方法を伝えることの大切さを先輩から学びました。まだ子どももいない私でしたが、担任として保護者の方にここで述べたようなことを、失礼を承知でお願いしてきました。

家庭と連携して子どもを育てるとよく言います。であれば、学校として子育てを応援するためのことをもっと意識してもよいのではないでしょか。子どもとの会話のきっかけになる話題の提供。親が子どもを認め、ほめるために、一人ひとりのよいところを通知表や通信で伝える。こういうことが求められると思います。
ホームページで子どもたちの頑張りやよさを発信する。校長通信や学級通信を使って、固有名詞で子どものよいところを紹介する。学級担任だけでなく教科担任や部活動の顧問が、子どもたち一人ひとりの「いいとこ見つけ」をして、それを一人ひとりに印刷して配る。保護者面談で、子どものよいところをたくさん伝える。具体的な方法はたくさんあると思います。
学校での居場所だけでなく、子どもたちの家庭での居場所づくりを学校にもっと意識してほしいと思います。

読み物資料を活かした道徳授業を考える

先週末、本年度第1回の教師力アップセミナーに参加してきました。貝塚市立木島小学校長川崎雅也先生の「共感・感動で心をはぐくむ」というタイトルの読み物資料を活かした道徳授業のお話でした。

川崎先生の、「心は具体的な行動によって見える」という考え方は大いに納得できるものでした。登場人物の行動からその心に迫るという手法は、読み物資料を活かすための大切な視点だと思います。
 川崎先生の考える道徳授業の流れは、「ストーリーの把握」「登場人物の心を考える」「道徳的問題点とその変化を考える」、最後に「生き方を考えることにつなげる」というものです。読み物資料を活用する基本は、主人公(登場人物)があることをきっかけに生き方(ありよう)が変わる場面を中心にその心の変化を深く掘り下げることにあります。そのためには、「ストーリーの把握」「登場人物の心を考える」といった資料の読み取りの部分はできるだけ時間をかけず、主人公の変化を考えることに時間を使うということを強く主張されました。しかし実際には、まるで国語の授業のように読み取りに時間をかけ、肝心の主人公の変化を深く考える時間がほんのわずかしかない授業に多く出会います。深読みすれば、子どもたちに深く考えさせることができないので、そこに時間をかけてもすぐに終わってしまうからなのかもしれません。

川崎先生は、この主人公の気持ちが変化する場面でかかわる登場人物を助言者と呼んでおられました。この助言者とのかかわりを通じて、主人公の気持ちを問いかけ、子どもの考えを深めていきます。この時、子どもの考えは、大きく3つに分類できます。
1つは、自分の行動の反省(過去)、次に他者(助言者)への気持ち(現在)、3つ目が次の行動(未来)です。特に最後の「次の行動を考える」ことが、子どもたちに自分がどう生きるかを考えさせることにつながる一番大切な部分です。子どもたちにそこまで考えさせなければ、道徳の授業としては薄いものになってしまいます。
また、子どもたちに深く考えさせるためには、映像でなく読み物であることが大切だと言われます。読み物は書かれていないことを想像するよさがあります。登場人物の表情が書かれていないからこそ、子どもたちはその時どんな表情をしていたのか考えます。これが絵やビデオであれば、顔が見えてしまえば終わりです。子どもによって異なる考えも生まれません。リアルなだけにかえって表面的になってしまうのです。読み物資料の「書かれていない姿が見える」よさを活かそうと意識して授業をつくることが大切であると感じました。

川崎先生は読み物資料のよさを活かしながら、子どもたちの考えを深める場面を見事に模擬授業で示してくださいました。どんな意見も「いいですね」とほめしっかり受容します。順番に指名しながら時には、「えー、○○じゃないの」と突っ込んで、より多くのものを引き出します。受けと切り返しの技術の素晴らしさに感心しました。ほめることで、どの子も安心して発言できる雰囲気がつくられます。順番に指名することで次は自分の番だとプレッシャーをかけ子どもたちに考えざるを得ない状況をつくります。たくさんの考えを聞かせることで、一人ひとりの考えを深めていきます。ここぞというところでは、教師が説明するのではなく切り返すことで、子どもたちの言葉で考えを深めていきます。教師が迫ることで、まさに「主人公の着ぐるみを着て」考えさせる授業になっていました。

川崎先生の見事な模擬授業に、この授業を実践したいと思う若手の教師も数多くいると思います。しかし、ほとんどは子どもたちの考えをこれほど深めることはできないのではないかと思います。この授業を成立させている要因は、授業者の資料に対する深い読みとその上での子どもへの切り返しの技術です。子どもの発言を受け止めて次の子どもを指名するのか、切り返すのか。切り返すのなら何を問いかけるのか。その判断と返しの言葉は、はたで見ているよりもはるかに高度なものだからです。
川崎先生は、教師と子どもとの1対1のやり取りをもとに授業を進めていきます。そのため、教師の力量が大きく問われます。経験の浅い教師にはハードルが高いのではないでしょうか。こういう場合は、子ども同士をつなぐことを意識するとよいと思います。「同じように思った人いる?」とつなげば、子どもが考えを足してくれます。「今の考えを聞いてあなたはどう思った」と問いかければ考えが深まっていきます。教師がうまく切り返せなくても、つなぐこと意識すれば子どもたちで深めていくことは可能だと思います。こんなことを考えました。

また、「主人公の気持ちを深く考えることで子どもたち自身の生き方を考えさせる」というのが道徳としてのねらいなのですが、時として、他人事になってしまい自分に引き寄せられない子どももいるかもしれないと思いました。このことをたまたま参加していた知り合いの校長に話したところ、資料を使う前にそのテーマに関したことを子どもに問いかけておき、最後にもう一度同じことを問いかけることで自分に引き寄せることができるのではないかと教えていただけました。なるほどと思いました。こういう進め方もよいかもしれません。

川崎先生が提案された道徳の授業のあり方が非常にレベルの高いものだっただけに、講演の間、ずっといろいろなことを考え続けました。読み物資料を使った道徳の授業に私が長い間感じていた疑問の多くを解決していただけました。本当に有意義な時間でした。川崎先生、ありがとうございました。

授業参観での保護者の様子を考える

中学校での授業参観での保護者の様子がいくつかの学校のホームページで話題になっていました。廊下でおしゃべりをしてうるさいというのです。保護者に訴えるだけでなく、何らかの手立てが必要だとの意見も多くあります。先日訪問した学校でも、先生方の話題になっていました。どこの学校でも問題となっているようです。このことについて少し考えてみたいと思います。

小学校ではこのようなことはあまり話題になりません。子どもは自分の保護者に来てほしい、見てほしいと思っています。子どもの期待に応えるためにも保護者は教室に入って授業をしっかり見ようとします。また、子どもが活躍する場面が小学校は多いので、自分の子どもの活躍場面を見ようと集中して参観します。授業の内容も保護者に十分わかるものなので、余裕を持って参加することができます。
裏を返せば、中学校はこの条件を満たしていないということです。
思春期の子どもたちは保護者が来ると恥ずかしいから来ないでと言います。
一方通行の講義形式の授業では、保護者にとって興味のない、よくわからない教科の話を聞かされる時間がほとんどです。子どもたちも、一部の子どもが発言するだけで、あとは受け身で板書を写しているだけです。保護者が見たいと願う、子どもの活躍の場面はほとんどないのです。
教室に入らずに廊下でつい世間話をしてしまうのもむべなるかなという気がします。

では、どうすればいいのでしょうか。
子どもが来ないでと言うのを変えるのはなかなか難しいことです。教師が「君たちの授業での姿は素晴らしい。この素晴らしさを知ってもらおう」とできるだけ具体的に子どもたちのよい姿をほめ、その姿を見てもらいたいことを伝える。一方、保護者も「みんなの・・・している姿がすてきだったね。あなたも・・・を頑張っていたね」と、参観後できるだけ具体的にほめる。このとき、自分の子どもだけでなく、学級全体もほめるとよいでしょう。友だちと比較して悪い点を指摘するのではなく、両方をほめるようにします。この時期の子どもは友だちとの関係がとても大切です。共にほめられることで見られることに肯定的な気持ちになれるのです。こういうことを地道に続けていく以外によい方法はなかなか思いつきません。もちろん、子どもたちのよい姿が授業中に見られることが前提ですが・・・。

2つ目の問題はどうでしょうか。授業の内容がわからないという点については、簡単な授業紹介や、授業の見どころを印刷して配るという対応をしているところもあります。教師が工夫しているところ、授業の内容をわかりやすく解説するなどしているのですが、はたから見ているとどうも効果はあまり感じられません。保護者は授業を受けに来ているわけでも、授業そのものを見に来ているわけでもありません。学校評価の一環で授業評価をするのならともかく、日ごろの授業参観では子どもたちの姿を見に来ているのです。保護者に伝えるべきなのは、授業のどの場面で、どのような子どもたちの素敵な姿が見られるのかではないでしょうか。授業参観で問われるのは、毎日の授業で、子どもたちのどのような姿が見られること目指しているのかだと思います。
しかし、学校として授業で目指している子どもの姿が、保護者の受けてきた授業と異なっている場合などは、外から見ただけではなかなか理解することができません。なぜこのような姿を目指しているか理解されないこともあるでしょう。日ごろから学校が目指す子どもの姿をホームページなどで発信して理解してもらうことが大切です。授業参観の時に、目指している子どもの姿と、そのために学校としてどのような工夫をしているのかについてミニ講演をしてもいいかもしれません。学校で取り組んでいる授業のよさを伝える一番簡単な方法は、保護者に生徒役になってもらい模擬授業をすることかもしれません。
実際に保護者対象に授業をした学校もあります。総合的な学習が導入された時に、その目指すものがどういうものかミニ講演をした例もあります。学校と保護者の見たい子どもの姿を共有する方法はたくさんあるのではないでしょうか。

授業参観で大切なことは、子どもの姿を通じて保護者と学校が理解し合うことだと思います。保護者と学校の見たい子どもの姿が一致すれば、その姿を見ようと積極的に参加してくれるのではないでしょうか。私はそのように考えています。

「フォロー」という言葉を使わない理由

発言や行動など、子どもが外化した時には必ずポジティブに評価することをお願いしています。たとえ、間違えた発言であっても、「なるほど、そう考えたんだ」と受容し、認めることが大切です。よい行動をほめて強化することや、子どもの失敗をポジティブにとらえて認めるといったことを、「フォロー」という言葉で表現される方がいらっしゃいます。耳にする機会も増えてきたように思います。しかし、私はこの「フォロー」という言葉を使わないようにしています。それに代わる言葉を持っていませんので、子どもの発言や行動を「受容する」「認める」というように具体的に伝えています。特に「受容する」「受け止める」という表現をよく使うようにしています。教師の行動としては同じなのですから、どんな言葉でもよいように思われるかもしれませんが、あえてそうしています。このことについて少し述べたいと思います。

一番気になるのが「フォロー」という言葉が、私にはやや上から目線のように感じることです。「フォローした」という言い方には「してあげた」という気持ちが付随しているように思うのです。間違えた発言に「なるほど、そう考えたんだ。○○さんの考えが聞けてうれしいな」といった言葉を返すことを「フォロー」と表現すると、間違えた発言だけれど子どもが傷つかないように気を使ってあげた。そのように感じるのです。一方、同じ対応でも、子どもを「受容した」「認めた」と表現すると同じ目線で子どもの存在を抱きかかえるように受け止めているように感じるのです。
教師はいつも目下の子どもを相手にしているため、無意識のうちに上から目線で接してしまうことがあるように思います。同じ対応に見えても、目線の高さは微妙な言葉の調子や表情の違いなどで伝わるように感じます。

どのような気持ちで接するかは子どもとの関係においてとても大切だと思います。「フォロー」という言葉を用語として正しくない、「フォロー」という言葉を使われる方が上から目線だと言っているわけではありません。「フォロー」という言葉に感じるニュアンスも人によって違うと思います。ただ、先生方に自然に子どもと同じ目線の高さを意識してもらいたい、子どもを受け止めるという姿勢を持ってもらいたい。そんな私の思いを「受容する」という表現に込めているのです。そして、いや何よりも自分自身が受容する気持ちを忘れないように、自戒の気持ちを込めて使っているのです。私が「フォロー」という言葉を使わない理由です。

塾での子どもの姿の変化に考える

先日、塾の経営者とお話する機会がありました。難関大学を目指す高校生対象の塾です。
最近は以前とは生徒の授業に対する考え方が変わってきたということを聞きました。受験には直接関係はないが、教科の内容に付随して視野を広げるような話をしても、反応が薄いというのです。というか、ムダな話はいいから早く試験に出ることを教えてくれという態度なのです。問題の考え方、アプローチの仕方といったことよりも、解き方そのものを知りたがる、知識を広げることよりも、試験に出ることだけをムダなく覚えようとする。そういう傾向が年々強くなっているというのです。

この話には少なからぬショックを受けました。この塾の対象となっている生徒は、学ぶことに前向きで、たとえ受験勉強といえども興味関心を持って取り組んでいたという印象があったからです。受験に必要な情報をお金で買う。そういう消費者的な態度が学力の上位の生徒にも広がってきているということです。では、学力をつけ、自らを高めるために学ぶという層はどこにいったのでしょうか。
試験に出ることだけを覚えればいいという傾向は、推薦入試の増加とも関係しているように思えます。推薦入試での進学を考えている生徒は、学校での定期試験での成績が重要になります。定期試験はその時授業で習った狭い範囲から出題されますので、塾などで対策を立てることで点数を取ることが容易になります。塾に期待するものは、即効性のある定期試験対策になるわけです。

小中学校では子どもたちが興味関心を持ち、自ら学ぶことを大切にした授業に変えていこうという試みが広がっています。また、そうしないと授業が成り立たないという背景もあります。大学も学生にどのような力をつけたのか社会から問われるようになり、授業評価を導入したりして講義の質を変えようとしています。ところが、多くの高等学校はいまだに出口の大学受験を自らの評価としています。希望の大学にできるだけ楽をして効率的に入りたいという生徒の消費者的な態度と相まって、そこでは本来の学ぶということがおざなりにされているのです。推薦入試も受験対策に追われることなく、自ら興味関心を持って意欲的に学ぶ人材を大切にしたいというのが本来の趣旨だと思うのですが、どうもそのようには機能していないようです。入試の内容が変われば高等学校も変わるとよく言われますが、AO入試などの昨今の大学側の入試改革もあまり効果は表れていないようです。

根本的な解決の方法が私にあるわけではありませんが、少なくとも高等学校の教師が子どもたちのこの状態に危機感持つことが必要だと思います。最も身近に接する教師が何とかしようと思わないことには何も変わりません。
かつて教壇に立っていた時、私は子どもたちから見れば自分の思いを繰り返し話す暑苦しい教師だったに違いありません。私が話すことが子どもたちによい影響を与えていたという自信はありません。今なら、もっとうまい方法を考えることもできたでしょう。しかし、そういう思いもなく子どもたちに接するよりは、まだましだったのではないかと思っています。
危機感を持っていても打つ手がないのかもしれません。しかし、子どもたちに学ぶことの大切さを伝えようと努力し工夫を続けることで、ほんの少しかもしれませんが、この状況を変えることができるのではないでしょうか。これは、高等学校に限らず、どの学校にでも当てはまることです。教師が、目指す姿を明確に持って日々子どもたちと接すれば、きっとその姿を見ることができる。そう私は信じています。

いろいろな場面での姿を知ることの大切さを実感する

先日の新卒対象の企業研修の後に懇親会とカラオケの2次会があり、私も参加させていただきました。まる1日の研修でしたので、一人ひとりの個性やよさをかなり把握することができたと思っていたのですが、懇親会や特に2次会でまた別の面にたくさん気づきました。研修ではぐいぐいとグループをリードしていた人が、2次会ではちょっと控えめでそれでも笑顔で場を盛り上げようとしていたり、逆に研修の時はおとなしく見えていた人が、積極的に場を作ってみんなが楽しめるように動いたりする姿を見ることができました。こういう場が得意ではないように見える人も、場の雰囲気を壊さないように自分にできるやり方で上手に参加していました。彼らのよいところをたくさん発見すると同時に、人の姿は場面によって変わることをあらためて感じました。

教師時代は教室で見せる姿と部活動や家庭での姿が異なることはよくわかっていたはずなのですが、研修や授業といった特定の場面でしか接することがなくなって、いつの間にかそのことを忘れていたようです。また、研修中と2次会での印象の差が大きかった人は、後日話を聞くとその日の午前中は体調が悪かったそうです。今回は2次会でその差に気づくことができましたが、もしこういう機会がなければ第一印象が変わることはまずなかったでしょう。第一印象で人を判断することがとても危険だということがよくわかります。人の姿は、場面でもその日の体調によっても変わります。人が見せる姿は常に一面でしかないことを肝に銘じておく必要があります。

このことは、教師にとっては特に大切なことだと思います。授業中の姿一つとっても、教科や授業者によっても大きく変わります。授業研究で自分の授業とは違った子どもの姿を見て驚いたという感想もよく聞きます。部活動や家庭ではなおさらでしょう。学級担任が時間をつくって、自分の授業以外での子どもの姿を見たり、部活動のようすみたりすることはとても大切です。教科担任の先生や部活動の顧問、保護者から子どもの姿を教えてもらうことも、日常的におこなう必要があります。小学校の先生は中学校や高校と違って、学級の子どもに触れる時間が多いため、子どものいろいろな姿を知っています。それでも、いやそれだからこそ、自分の印象に縛られずに、他の視点での子どもの姿を知る努力をしてほしいと思います。
いろいろな場面での子どもたちの姿を知ることの大切さを実感させていただきました。

「自主か強制か」で考える

教師に対して保護者から宿題を出してほしいという要望が上がることがあります。中学校では、毎週課題を課している学校も多いのではないでしょうか。その一方で、学習は自主的にやるものなので、子どもたちに強制的な宿題や課題を出さずに、自分で計画的に学習させるべきだという意見もあります。学校や学年によっては両者の間で熱い議論が交わされることもあるようです。最近身近でもそういう話を聞くことがありました。

自主的に学習するようになるのが理想ですが、ほっておいても自主的に学習する習慣はつきません。どうしても、宿題などで強制する必要があります。しかし、宿題をすることが学習であり、宿題をやったから十分と思うようになる心配があります。学習塾に通っている子どもの中には、勉強は塾でやっているからと家庭ではほとんど学習しない者もたくさんいるようです。自主的に勉強しないのですから、学年が上がっていくにしたがって宿題や課題が増やされることになります。塾だって宿題を課したりします。そうなると宿題や課題をこなすことで精一杯になり、自主的に学習する時間すら無くなってしまいます。悪循環です。学習は課せられたものを受け身でこなすものだと体にしみついてしまい、高校生になっても課題だ、補習だと強制されなければ学習しない子どもができあがるのです。理想とは程遠いことになります。
自主性を重んじる方は、だから宿題や課題を課すことはよくないと言うわけです。しかし、そういってほっておいたり、自分で学習しなさいと言ったりするだけでは、自主的に学習するようにはなりません。ほっておいてもする子はする。個人の問題だと言ってしまうのはあまりにも無責任です。宿題や課題に代わる方法が提示されなければいけません。ほっておいてもする子はなぜ自主的に学習するのでしょう。目的や目標が明確にあるからでしょうか。それとも学習そのものが楽しいからでしょうか。わかる、できるから楽しいのでしょうか。それとも、評価されることがうれしいのでしょうか。こういう仮説を立てながら、そのための方法を具体的にする必要があります。目的意識を持たせるための手立てはとっているのか。授業で学習が楽しくなるような課題を与えているのか。子どもたちに力をつけて問題を解けるようにしているのか。子どもたちの努力や頑張りをほめているのか。そういうことが問われるのです。

自主か強制か、いずれにしても究極は自主的にやれることです。とりあえず目先を何とかするために強制しても、自主というゴールにたどり着く道筋をきちんと見すえないと全く違うところに行ってしまいます。自主という理想を言うだけで歩き出さなければ、いつまでたってもゴールにたどり着くことはできません。自主か強制かという問題に限らず、ゴールにはどうやってたどり着くかという見通しを明確に示した議論が必要なのです。

介護に携わる方から学ぶ

昨日、介護に携わっている方とお話をする機会がありました。そこで、「いろいろな施設をまわったがその施設が一番自分にあう」といってくださる利用者が多いということを聞きました。「○○(施設名)だから、行く」。そう言ってもらえる施設だということです。学校も同じですね。「行かなければならないから行く」のではなく、「行きたいから行く」。そうありたいものです。
どうして、そう言っていただけるのか聞いてみると、雰囲気がよいということでした。笑顔がとても多い施設なのです。もう少し具体的に聞くと、職員と利用者だけでなく、利用者同士の関係もよいということです。新しく来られた方に対しても、利用者の方が積極的に声をかけてくださるというのです。なるほど、納得させられます。こういう話を聞くと、この雰囲気がどのようにしてつくられているのか気になります。さらに聞くと、利用者同士の相性なども考慮して座席も決めるなど、人間関係にとても配慮しているそうです。もう一つは、ムードメーカーになる職員の存在でした。この方は、「○○さんすごい」「すばらしい」「○○さんきれいだね」と、とにかく利用者をほめるのだそうです。介護施設の利用者は家族の世話になることが多く、家庭では肩身の狭い思いをしているのだと思います。だからこそ、ほめられることはとても力づけられることに違いありません。この方に、「どうして、ほめようと思ったのですか。教えてもらったのですか?」とたずねてみました。すると、「いろいろやってみて、利用者さんが一番笑顔になるのはほめたときだったから」という答でした。これには感動しました。「利用者さんの笑顔が見たい」という思いで接することで、「利用者から学ぶ」ことができるのです。この姿勢であれば、利用者に選ばれる、愛される施設になるのもうなずけます。

ここでの話は、学級経営や授業にもつながることです。介護の職員を教師に、利用者を子どもに置き換えるとよくわかります。教師と子どもだけでなく、子ども同士の関係をよくする。認め、ほめることで子どもたちに自己有用感を与える。目指す子どもの姿を明確にして、その姿が見られるように工夫し、子どもの姿から教師も学ぶ。異業種とはいえ、その構図はとてもよく似ていました。介護も教育も「人を前向きにする」という意味では同じなのです。

この日お話を聞いた方は、どなたも介護の仕事に対して誇りと熱い思いを持っておられました。こういう方々に介護の現場は支えられているのだと実感しました。学校現場も同じですね。素敵な方々からとても大切なことを学ぶことができました。ありがとうございました。
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