中学校と高等学校の情報交換を考える

小中連携が強く言われるようになり、小学校と中学校の情報交換も盛んになっています。また、中学校と高等学校でも連絡会議を持つことは珍しくなくなってきています。ところが、中学校と高等学校の情報交換にはまだまだ壁があるように思います。どういうことかというと、受験があるため、本人にとって不利になる情報はなかなか高等学校側に明らかにされないということです。

たとえば、対人関係に不安があったり、神経症などが原因で集団の中で学習ができない子どもがいます。通常の入学試験では、中学校からの情報がなければそのことには気づくことはできません。学力的に問題がなければまず合格するはずです。しかし、その情報が高等学校側に伝わらないため、進学してからの対応が後手に回ってしまうことがよくあるのです。問題が発生してからあらためて中学校に問い合わせ、はじめて中学校時代の情報が手に入ることが普通です。高等学校では、授業に出席できなければ単位を認められないことが一般的です。中学校とはかなり事情は違います。せっかく入学したのに、結局進路変更を余儀なくさせられることがよくあるのです。

入学試験に不利になる情報を伝えることは、本人の利益を損なうからできないということはよくわかります。また、環境が変わることによって、中学校ではうまく適応できなかった子どもが、問題なく過ごせることもよくあります。しかし、それと同じくらい高等学校でも不適応を起こすことがあります。そのリスクをきちんと本人・保護者と確認し、その上で進路を決定する必要があります。そして、合格したら、本人・保護者に納得してもらった上で、中学校での状況を高等学校に正しく伝えることが大切です。高等学校も引き受けた子どもを大切にすることは中学校と変わりません。互いに信頼し合い情報を交換することが子どものためにも必要なことなのです。

また、これは私の経験ですが、地元の中学校との連絡会で、気になる何人かの子どもの情報を中学校側にうかがったところ、「別に変わったところがない」の一言で終わったことがあります。残念ながら、その内の何人かは後に問題行動がありました。中学校時には本当に何もなかったのかもしれませんが、もう少し情報がもらえれば対処があったかと思わないでもありません。私たちが信頼していただいてなかったのかもしれませんが・・・。

子どもの個人情報の交換は微妙な問題がありますが、正しく伝えあうことが子どもにとってもよい結果をもたらすものだと思います。子どもを大切に思う気持ちに変わりはないはずです。この点で一致している限り信頼関係を築きあえると思います。子どものためにも、中学校と高等学校の壁を失くして、スムーズな情報交換ができるようになってほしいと思います。

授業者では見られない子どもの姿を見る

授業者の立場で子どもを見るときは、全体を見ることが大切になります、しかし、授業研究などで、第三者の立場で授業を見るときは、ふだんと違った見方ができます。それは、授業者では見られない子どもの姿を見ることです。

たとえば、特定の子どもの変化を追い続けることは授業者には難しいことです。そこで、授業に集中していない子どもを見つけるとその子どものようすをしばらく追い続けます。1時間中集中できない子どもはまれです。たいていはどこかの場面で授業に参加します。そのきっかけが何かを見るのです。多くの場合は、教師の説明から子どもの活動に移るときなど、場面が変わるときです。同じ状況が続くと集中力が切れやすくなり、状況を変えると集中力が戻るということに気づかされます。集中できない子どもを見つけたら注意するのではなく、場面に変化をつければよいことを学べるのです。教師の話は集中しなくても、友だちとの相談は積極的にする。問題を解いているときは、途中で投げ出していても解説になると聞く、解答だけは一生懸命写す。こういう集中がもどるときを見ることで、子どもについて多くのことが学べます。

また、授業中は次々指名していったり、発言を受けて説明したりするため、発言した子どものその後の状態を見続けることはなかなかできません。これを見ることからも、多くのことを学べます。たとえば、私がよく目にする発言後のようすには、大体次のようなパターンがあります。

発言後、次の発言者の話を真剣に聞いている。
これは、子どもの発言を「○○さんの考えと・・・」と教師がつないでいるときによく見ます。

うれしそうな表情、満足そうな表情をしている。
これは、教師が発言をポジティブに評価した時によく見られます。また、多くの挙手があったときに指名してもらえたときも満足した表情になります。しかし、このあと挙手、指名が続くときに、自分の出番は終わったと興味を失くしていることもよくあります。

発言後、あまり変化がない。
これは、比較的だれでも答えられるような質問に対して正解した場合によくあります。挙手ではなく順番に次々に指名しているときや、教師が「正解」としか評価せずにそのまますぐ説明を始めるときにこの傾向が強いようです。

発言後、顔が上がらない、意欲を失くしてしまう。
これは、不正解だったり、教師に評価してもらえなかったり、ネガティブな評価をされたりしたときによく見られます。多くの場合、次の場面に移るまでこの状態が続きます。ひどい時には、その後ずっとこの状態が続くこともあります。

このようなことから、教師が子どもの発言をポジティブに評価する、つなぐといったことの大切さに気づけます。

授業を見学するチャンスがあったときは、漫然と教室全体を眺めるのではなく、授業者では見ない、見られない子どもを意識して見てほしいと思います。そうすることで、より多くのことを学べるはずです。次に授業を見る機会には、ぜひこのことを意識してください。

「協働」という言葉を考える

「協働学習」や「地域との協働」のように、「協働」という言葉がよく使われるようになりました。しかし、ただ共同で何かをしているだけ、一方的にお願いをする、されているだけのようにしか見えないことがよくあります。「協働」という言葉に出会うたびに、どのような思いを込めて使わるているのか考えずにはいられません。

学習の場面で使われるのであれば、かかわり合うことにより一人ではできないことができる。一人では気づけないことに気づく。一人で学べなかったことが学べる。このような視点があるのかどうかです。課題や活動が一人ひとりに何をもたらすかを意識して「協働」という言葉が使われているかが気になるのです。このことを明確に意識せずに、ただグループ活動をさせている。まわりと相談させている。このような、ただ一緒に何かをしているだけのことを「協働」という言葉でくくってほしくないのです。

地域との「協働」のように、立場が違うものが一つのことを協力して成し遂げようとするのであれば、互いに対等の立場で話ができる関係である。互いに目的・目標を共有している。互いに知恵を持ちより、自分ができること、自分にしかできないことをやろうとしている。このようなものになっているかどうかです。「協働」とは名ばかりで、こちらが助けてほしいことを一方的にお願いするだけ、ひどいときは、「子どものため」という一言でその目的や趣旨を詳しく説明もせずに、協力しないのは子どものことを考えていないことだと脅迫しているようにしか見えないこともあります。お願いされる方からすれば、ただで使える労働力としか見られてないのかと言いたくなります。「協働」という言葉を使うのであれば、少なくとも何をするか具体的に計画する段階から一緒に考えるべきです。

とりあえず「協働」という耳当たりのよい言葉を使っておけばいいという発想ではなく、「協働」という言葉にどのような思いを込めるのか、意識をして使ってほしいと思います。

昔の同僚と会う

先日、高校教員時代の同僚と食事をする機会がありました。今は管理職となっていますが、当時と変わらず授業のことを楽しそうに話す姿に、彼の教師としての原点を感じました。

管理職ですので、保護者からの苦情やトラブル対応も結構大変なようです。その話しぶりからすると、どちらかというと保護者より教師の方に苦労しているようでした。教師が保護者とコミュニケーションをうまく取れないことが原因のようですが、管理職が注意をすれば改善されるというわけでもないので、ストレスがたまるようです。本人が自分でそのことに気づくことが一番よいのですが、これはなかなか難しいことです。自分と保護者とのやり取りを第三者の視点で観察するのが近道ですが、ビデオに撮っておくというわけにもなかなかいきません。ロールプレーイングによる研修が増えてきているのもうなづけます。

自分の授業を生徒に評価させるなど、授業をよくすることにこだわりを持っている教師ですから、他の教師の授業のことも気なるようです。しかし、根本的に授業感が違うとなかなか話もかみ合わないということです。高校ではよくあることなのですが、学校が目指す子どもの姿が不明確で共有されていないことがその原因の一つのようです。進学率を上げるといった表面的なものを価値基準の中心に置くことが多い、高校の問題点だと思います。

初任を対象の研修会の授業検討会で、初任者たちが抽象的にほめ合うばかりで、授業者の解釈間違いや正しい解釈につながる子どもの発言をとりあげなかったことがとても気になったようです。水を向けても食いついてこず、日ごろは温厚な彼もさすがに厳しい言葉になったようです。互いにほめ合うだけで、深く議論しないのは最近の若者の特徴だと感じているようでした。たしかに、私もそのように感じる場面があります。これは、日ごろの授業検討会でも言えることのように思います。互いによいところを指摘し合うのはいいのですが、それで終わっては深まりません。たとえば、「子どもが活発に発言してよかったと思います」に対して、「それは具体的にどのような場面ですか」「他の先生はその場面をどのように感じましたか」「子どもが活発に発言した理由は何でしょう」・・・と、切り返していくことが大切です。授業と同じですね。

3時間あまり楽しく話をさせていただきましたが、高校の管理職の抱えている課題も色々と見えました。一番感じたのは、このような話を気軽する相手が管理職にはいないということです。彼のストレスが私と話したことで少しでも軽くなってくれればよいのですが。

学業にかかる費用を考えさせる

子どもにはお金のことを話さない家庭が多いのではないでしょうか。学校の集金もほとんどが振込で、子どもが自分の学業にかかる費用を意識することはあまりないように感じます。せいぜい学用品を自分の小遣いで買う時ぐらいなのではないでしょうか。少なくとも高校進学までには、自分の学業にかかる費用を考えさせる必要があると思います。義務教育が終われば、自らの意志と負担で学生生活を送るという自覚を持つべきなのです。高校授業料の無償化で、このあたりのことがますます曖昧になっているように思います。

学校運営にかかわる費用を児童生徒の人数で割ってみると、驚くほど高額であることに気づきます。教師の給与だけを考えても、その額の大きさがわかることと思います。1人当たりの年間の費用はほとんどの場合、保護者が払っている年間の税金を上回っているはずです。それだけ公費が教育に投下されているのです。
一方、それだけ社会が費用を負担しているにもかかわらず、保護者の負担もかなりのものになるはずです。学用品や、体操服、修学旅行の積立金などばかになりません。
こういった金額を子どもたちに示して、自分たちが学ぶ意味を考えてさせてほしいのです。子どもは保護者や社会の庇護を受けています。それを当たり前のことのように考えすぎているように思います。感謝しろと言っているのではありません、自覚してほしいのです。
「勉強しなくて困るのは自分だ」ということは間違いではないのですが、個人の問題だけではないのです。家庭や社会の問題でもあるのです。
奨学金の手続きのとき、「誰がお金を借りるのか」と確認すると、驚くことに「親」と応える子どもがたくさんいます。こういう子たちは自分が学ぶために、自分が借金するのだという自覚がないのです。

学校や家庭で学業にかかる費用を話題にしてみてください。学業にかかる費用を考えることを、自分たちが学ぶ理由や意味を問い直すきっかけにしてほしいと思います。

PTAのHPに注目

学校HP(ホームページ)が変化してきている話(学校HPの変化参照)を以前しましたが、最近注目しているのがある中学校PTAのページです。

「PTAの部屋」という学校HPから見ることができるブログ形式のものですが、今までは教頭が随時更新をしていたそうです。ところが、今年度学校HPがリニューアルされ、学校の思いが明確な形で発信されるようになったことに刺激されてか、PTAで更新をしたいと要望があったそうです。それを受けて更新・内容をすべてお任せすることになったようです。学校HPの中に入っているようにみえますが、まったくの独立サイトのようです。
とはいえ、学校HPと連動しているサイトの運営をPTAに完全に任せることには、勇気がいります。単なる連絡掲示板のようになってしまうのか、それとも学校とうまく連携がとれたものになるのか、どのようなものになるか注目していました。

ふたを開けてみれば、学校の発信と連動して、保護者の視点でそれどう受け止めているか、どうあろうとしているかが発信されています。学校の発信をただ受けて理解しているだけではなく、それを我が事として考え、深め、こうありたいと発信しているのです。

これも1歩進んだ学校HPのあり方だと思います。学校の発信に対して保護者がどう感じ、どう応えようとしているかが伝えられることで、学校の思いが多くの方により深く理解され、また学校側もそれに応えようとより一層の努力をすることでしょう。学校の発信とPTAの発信がうまく共鳴し合い、学校にかかわる人たちを色々な方向から包み込むようにして、学校の教育活動に巻き込んでいくように思えます。

PTAにサイトの運営を任せればうまくいくというものではないでしょう。サイトを運営する役員の方の個人的な力量の問題もあるでしょう。しかし、学校側が伝えたいこと、伝えるべきことを明確に発信してれば、どの学校でも起こりえることでもあります。
学校の発信の質の変化が学校にかかわる人たちにも変化を促していくように思います。この学校で起こっているようなことが、他の学校でも起こってくると思います。新しい学校とPTAのかかわり方の形として、しばらくこのサイトから目が離せません。

長瀬拓也先生から学ぶ

本年度第1回目の教師力アップセミナーは、中津川市立蛭川中学校の長瀬拓也先生の講演でした。会場を大口町立大口中学校へ移しての初めてのセミナーということで、運営上のいろいろな課題もありましたが、多くの方の協力で無事に終えることができました。

長瀬先生は教職9年目という、まだ若手と言ってもよい方です。今回の講演は「教師の成長」にスポットをあてたものでした。若い先生とお話をしていると、すぐに使える How to を求められることが多く、またそれに応えようとしていたのですが、成長するための方法、アプローチを一緒に考えることが必要だと気づかせていただきました。
失礼な言い方かもしれませんが、お話を聞きながら長瀬先生は「発展途上人」だと思いました。自分を見つめ、自分が成長するために必要な行動をとり、日々前へ向かって進んでいる。その勢いを感じました。この先5年、10年とどのように変貌していくかとても楽しみな方でした。

年齢の近い方から「共感を持って聞くことができた」「自分の教師としてのこれからの生き方の参考になった」という感想を聞くことができました。私のように年齢を重ねたものにとっても、自分の原点はどこにあるか見直すよい機会でした。
私の成長のキーワードを振り返ってみると「見る」ということでしょうか。自分の目で見た授業やできごとからいかに多くのことを「学ぶ」か、そしてそれを自分の言葉でどのように整理し「語る」かが私の成長の原点であると再認識できました。
話は少しそれますが、かつて私はよい授業を見ることが成長への近道だと考え、よい授業を見ることにこだわっていました。しかし、よい授業にこだわるのではなく、目の前の授業から何を学べるかが大切だと思うようになりました。たとえ未熟な新任の授業でも、子どもの事実と、その原因、授業者の思いとの関係などを見つけようとすることではまた違ったものが得られるからです。このことに気づいてからは授業を見ることからの学びが豊かになったように思います。私が学校から講演をお願いされるとき、たとえ廊下からでもよいから授業を見せていただくことを条件にしている理由がここにあります。

若手の先生方に、目先の問題解決ばかりでなく、いかにして教師として成長していくかを一緒に考えることをもっと意識しなければいけない。このことに気づけた、私にとってとても有意義なお話でした。また、自分の成長のキーワードが「見る」であることを意識できたことで、今後、若手の先生に「見る」ということと教師の「成長」とを結びつけて伝えることができるようにも思います。充実した時間を過ごせたことを長瀬先生に感謝します。

解いた問題量と成績は比例する!?

「解いた問題量と成績は比例する」ということを言う教師がいます。私はこのようなことは絶対に言いません。逆にこのことを強く主張する教師を信用するなとも言っています。

解いた問題量が0に近い子どもが問題に挑戦すればまず間違いなく成績は上がると思います。しかし、あるところで頭打ちになってきます。理由はいくつかありますが、やみくもに問題を解いて身につく力は限られていること、学習時間に限界があるため1日あたりの解く量には限界があることが主なものです。

問題を解いて、知識や解き方のパターンを「覚える」という学習では、結局記憶量を増やすということです。覚えても忘れることは当然ありますが、単純にたくさん覚えればそれだけたくさん忘れるわけで、効率は漸減していきます。知識を有機的につなげ、より上位の概念で統合するといったことをしていかないと効率は上がりませんし、活用することもできません。ただ解けばいいというものではないのです。運動を例にすればわかると思いますが、練習量は大切な要素ですが、その内容も問われます。工夫はとても大切なことです。また、1日当たりに可能な練習量にも限界があります。そのため効率的な練習が求められるのです。

とはいえ、問題をたくさん解くことを否定しているわけではありません。ただそれだけでは到達できる場所は限られているのです。小中学校では求められる知識や力はそれほど高いものではありません。問題量だけでもクリアできることが多いのも事実です。しかし、高校ぐらいの内容になってくるとそうはいきません。高校になって勉強がやりきれない、時間が足りないと学習面の悩みを訴える子どもの多くは、覚える、問題を解くことのくり返しで学習していることが多いのです。
逆に中学校では求められる知識は相対的に少ないので、単に問題を解く、解ければよいという学習から、自分で知識を整理し、メタな考え方を身につけるような学習へと質を変えていくだけの余裕があるはずです。早い時期に質の転換をはかるべきなのです。
また効率的に問題を解くという視点では、すべての問題を解くのではなく、どの問題を解けばいいか考えることも大切です。数学などでは、たくさん解くのではなく、深く解くという考え方もあります。1つの問題を徹底して考えることで、何十問、何百問を解くこと以上に力がつくこともあります。

「たくさん問題を解きなさい」というのは教師にとって安直な指導です。教師は問題を準備するなどの環境面さえ整えれば、あとは勉強ができないのは、問題を解かなかった子どもが悪いという言い訳をしているようなものです。授業を通じて、どのように学習すればよいのか、また問題とどのように向かい、そのことをどうやって活かすかをきちんと指導しなければなりません。もちろん学習には個人の能力や特性によって適した学習方法は異なります。だからこそ、自分で見つけろではなく、それを見つけるための方法論やアプローチを示してほしいのです。

私は高校教師として中学時代トップクラスの学力だったはずの子どもたちが伸び悩む姿をたくさん見てきました。その多くが、解いた問題(勉強)量と成績が比例すると信じ、学習の質を変えることに気づけなかったことが原因のように思います。彼らの学習の質を変えることができなかったことが今でも悔やまれます。なまじ中学校で成功体験を積んでいたことが災いしたのかもしれません。

「解いた問題量と成績は比例する」というのは一面では正しいことです。しかし、安直にこのことだけを子どもに強いないようにしてほしいのです。「解いた問題量で成績を上げる」という成功体験から早く子どもを解放してほしいのです。

私が、「解いた問題量と成績は比例する」と決して言わないのはこういう理由からなのです。

保護者の授業を見る目

学校公開日などで保護者へのアンケートをどのように実施するかということは、学校ごとに工夫がされています。先日の研究会でも話題になったのですが、特に授業についてのアンケートをどう考えるかは悩ましい問題です。

・そもそも保護者は自分の子どもしか見ていない、信頼に足る意見が得られるのか。
・アンケート(評価)項目を工夫することで、有意義な情報となる。
・アンケート(評価)項目を保護者と一緒につくることで、保護者の視点がわかるし、学校側の視点も伝えることができる。
・保護者のアンケート結果と、ふだん校長が授業を見て感じているものとのずれは少ない。保護者に授業を見る目はある。
・自由記述欄に書かれたことが、保護者の言いたいことだ。それをきちんと受け止め対応していくことで保護者の信頼や理解が得られる。
・・・

いろいろな考えがありますが、学校の一番の根っこである授業に関して、保護者とのコミュニケーションを否定的にとらえることは、マイナスのように思います。
確かに、保護者の興味は自分の子どもが中心でしょうが、少し意識を変えていただければ授業を見る目は十分に信頼できるものになると思います。

昨年度PTAで講演したときに世話役だった方から先日届いたメールに、授業参観の話がありました。
今までは授業参観は自分の子どもの授業態度ばかり見ていたが、今回は「どんな授業の進め方をしているのか?」「子どもたちはどんな反応をしているのか?」と自分の子ども以外の態度まで気にして、まるで先生を審査するように見たそうです。先生によって本当にいろいろで、ベテランだから授業の進め方が上手というわけでもないと思ったそうです。
実際にこの方の感想が的を射たものであるかどうかははっきりとは言えませんが、授業の進め方、他の子どもの態度に注目したという時点で、かなり信頼に足る、聞く価値のあるものだと思います。
この方は、私の講演後ときどきこの日記を見て、子育ての参考にしていただいているそうで、とてもうれしく思っています。この日記を通じて、授業を見る視点を意識されたことが授業参観の仕方を変えるきっかけになったのだと思います。

授業で何が大切なのか、何を大切にしているのか。どこを見るべきなのか、どこを見てほしいのか。このことがきちんと保護者に伝わっていれば、授業のアンケートはとても有効なものになると思います。学校が目指す授業をポジティブに評価していただけ、先生方が元気になるはずです。学校HP(ホームページ)で、授業のよい場面やその解説を毎日のように発信している学校があります。こういう学校は間違いなく保護者の授業評価を意識しているはずです。保護者の授業を見る目を肥やした上での授業アンケート(評価)がどのようになるのかとても楽しみです。

若者から教えられる

昨日、仕事を手伝っていだくことになったアルバイトの学生さんと打合せをおこないました。今年大学に進学されたばかりの方で、大学受験のことについて少し雑談をしました。
非常に優秀な方ですが、ほんのわずかな差で第1希望の大学は不合格でした。その話を聞いて私は来年もう一度挑戦すればいいのにと思ったのですが、話を聞いてなるほどと納得しました。そして同時にとても感心したのです。

彼は、「浪人してもすることがないように勉強した」のだそうです。あとから、あれをやっておけばよかったと後悔することがないように、できることとはすべてやったのです。その上での結果なので、悔いはないというのです。とてもすがすがしい気持ちになりました。どれだけの人がこのようなことを言えるのでしょうか。

私が教員時代に同僚が受験勉強について生徒を叱咤する次のような言葉を思い出しました。私が大嫌いな考え方です。

「自分はもう少し勉強していればもっといい大学に入れていた。後悔している。だから、君たちは後悔しないようにもっと勉強しなさい」

彼らは、世間的にはよいといわれる大学を卒業しています。その彼らがもっといいという学校は、本当にもう少し勉強していればいけたのでしょうか。「もう少し勉強してれば」などという言葉は自分の能力や才能という問題から目をそむけた、自分に都合のいい言い訳です。努力できるのも立派な才能です。「もう少し勉強できなかった」のは、それだけのものだったのです。また、勉強時間に比例して伸びるというのはあるレベルまでです。才能の問題だけではなく、勉強の仕方の工夫など多くの壁があります。そのことを考えさせずに、ただ勉強しろというのは、誰にでも言える無責任なアドバイスなのです。

それと比べて彼の言葉の何と立派なことか。また、彼は「もし浪人するなら、勉強のやり方そのものを変えなければいけない」とも言っていました。やりきってダメだったのだからやり方を変えなければいけないと冷静に自分の学習を分析しています。やりきったからこそ言える言葉でもあります。

私自身、彼のようにやりきったと言えるだけのことをしてきたのかと聞かれると、とても自信を持って答えられそうもありません。まだ若い彼から大切なことを教えられた気分です。
これからしばらく仕事でかかわれることをとてもうれしく思います。若い彼からたくさんのことを学べそうな予感があります。彼との出会いに感謝です。反対に私が彼に何か少しでも与えることができればよいのですが・・・。

ベテランと若手のずれ

あるベテランからこんな話を聞きました。今年度その先生の副担任になったのは新卒の常勤講師でした。「朝と帰りのS.T.(短学活)の時間、教室を見に来ていいよ」と伝えたのですが、その先生は学級開き直後のL.T.(学級活動)の時間を1度参観しただけで、その後1度も担任の学級経営を見にこようとはしませんでした。1年間で1番大切な時期の学級経営を見ることは勉強になるのに、盗む気がないのか。出張の時には代わりにS.T.に行ってもらうことになるのに、その時困ると思わないのか。と若手の行動が理解できないようでした。これ以上言っても強制になるし、それも嫌だからもう自分からは積極的にかかわらないと決めたそうです。

若手からは直接話を聞いていないので、想像でしかありえませんが、初めての授業で手いっぱいで、精神的に余裕がなかったのかもしれません。そもそもS.T.は自分の生徒としての経験から単なる連絡であって大切なものとは思っていなかったのかもしれません。いずれにしても、ベテランから学べる貴重なチャンスを失くしてしまったようです。
自分のことを振り返ってみると、新任のとき、副担任をしている学級のS.T.を私から見せていただくようにお願いし、また年度の途中からは半分任せていただけました。後の私の学級経営の基本となることを学ぶことのできた1年間でした。当時は私のように、みな自分から盗みにいっていたように思います。最近の傾向でしょうか、若手が盗もうとしないという話をベテランからよく聞きます(「盗む」という文化がなくなってきている?参照)。また、S.T.が学級経営にとってとても大切であることを知らないのは仕方ないにしても、ベテランがわざわざ水を向けたことには意味があるはずだと思う想像力のなさも、問題かもしれません。

では、若手だけの問題でしょうか。勉強しに来なさいというのおこがましい気がして言いにくいかもしれませんが、ベテランも4月のS.T.はとても大切な時期だから、観にきたらと、誘う理由を明確にしてより強く言えば事態は変わったかもしれません。もっと強く働きかけることが必要になっていると思います。

このようなずれを、個人レベルで修正するのは人間関係のこともあり、なかなか難しいように思います。大切なのは、学年主任や教務主任、管理職が意識して対応することです。今回のようなS.T.の参観に限らず、若手にはベテランから具体的にどのようなことを学ぶとよいかを伝え、ベテランにはあなたのここが素晴らしいから若手に学ぶように言ったと伝え、気持ちよく対応してもらう。学年や職員の打ち合わせの場で、たとえば今回の例であれば、「この時期のS.T.はとても大切です。担任の経験のない方は是非ベテランの学級経営を学ぶようにしてください。ベテランの方も出し惜しみせずに若手に学ぶ機会を与えてください」とベテランと若手の交流を促し、互いに学び合う雰囲気を学校につくる。このようなことが大切になります。

ベテランは「若手が盗みにこない」、若手は「先輩が教えてくれない」。互いにこんな言葉を発しています。このようなずれを少しでも減らすために、管理職やリーダーの方が意識して働きかけ、先生同士が学び合う雰囲気をつくってほしいと思います。

学校の役割を考える

「学校の役割は、 子どもたちが、大人になったときに、生涯ちゃんとお金を稼げる人 に育てあげることです。その為には、社会で必要とされる 資格や 技術をしっかり身に付けることです」。この言葉がある校長のブログで書かれていました。もちろんこれが学校の役割のすべてということではなく、たまたま全国学力・学習状況調査の実施に関連して書かれていたことです。今、大阪では学校改革のキーワードとして、「ユーザー視点」という言葉が使われていますが、それに通じるものがあります。学校現場をまわっていると、自分の子どもの視点からだけで、全体のことを考えない意見を言われる保護者に出会うこともあります。「ユーザー視点」ということでいえば、これも認めるべきことなのでしょうか。

これからの日本の社会構造を考えれば、「生涯ちゃんとお金を稼げる」というのは、教育だけで何とかなる問題だけではありません。お金を稼ぐためには「資格や技術を身につける」という発想もちょっと単純すぎるような気がします。経済の発展が減速している状況では、なかなか職に就けない人も出てきます。構造的な問題です。パイの数より人の数の方が多いのです。資格や技術を身につけることは、ひところはやった言葉の勝ち組になる手段であり、その影には必ず負け組ができてしまいます。確かにユーザーという視点では勝ち組になることが大事に思えるのも理解できますが、校長という立場では、勝ち組になるというような発想ではなく、もう少し広い視点で学校の役割を語ってほしいと思いました。

少なくとも税金を投じておこなわれている公的な義務教育では、社会のためという視点が大切だと思います。私たちの社会をより良い形で持続していくための大切な担い手を育てるという役割が、常に第一であってほしいと思うのです。稼ぐことが一番の目的である企業も、社会に貢献する対価として利益を得ています。そうでなければ、暴力団との区別がなくなってしまいます。私は子どもたちに「社会の役に立つことで稼ぐ」という意識を持った人間になってほしいと思います。そのために、「役に立つ」「認められる」という経験がとても大切になります。自己有用感をもつことは子どもの学習や働くことへの原動力にもつながります。人の役に立つ、人から認められる経験を積むことを学校の役割として意識してほしいと思います。

学校HPの変化

学校HP(ホームページ)の発信を見ていると、この何年間でいくつかの変化があったように思います。
以前は、入学式や卒業式、体育大会などの行事や特別なことだけが記事になっていました。それも行事が終わってから何日か経ってやっと更新されるという状態です。しかし、学校用のHPシステムやブログの普及で簡単に記事が更新できるようになってから、学校HPもほぼ毎日更新することが当り前になってきました。それに伴い、記事の内容も、特別なことでなく毎日の子どもたちや学校のようすが中心になってきました。
そして、最近になって、ただ日常の姿を記事にしているのではなく、学校が伝えたいものを意識して記事にしていると感じることが増えてきました。HPが学校公報として機能し始めたということでしょう。

この視点でHPを考えると、学校が伝えたいことが明確であることが大切になってきます。明確であれば、記事もシャープになります。
子どもが真剣に学んでいることを伝えたいのであれば、必然的に授業中の記事が増えます。子ども同士のかかわり合いを大切にしているのであれば、子ども同士が話し合っている場面が記事になるでしょう。HPの記事から自然に学校が目標としているものが伝わるようになってきます。
また、もう一歩進んで、子どもや学校のようすから伝わればいいというだけでなく、積極的に学校が目指すものはこういうものです、この活動にはこういうねらいがあるのですと、明確な記事として載せる学校も出てきました。これは、学校にとってはとても厳しいことです。なぜなら、目指すものを明確にしている以上、本当に実現できているかという目で見られることになるからです。「学校はこのように、子ども同士が互いにかかわりながら学ぶことを目指しています」と記事にすれば、学校公開日のときには、子どもがそうなっているのかを参観者はチェックします。できていなければ、当然厳しい評価となって返ってきます。それでも記事にするということは、必ず実現するという強い意志の表れでもあります。このことは、外部だけでなく内部にとっても意味があります。職員がこの記事を読めば、自分が実現できていなければ外部から厳しい評価をされるというプレッシャーがかかります。逆に、達成できている具体例として記事に取り上げられれば、やる気につながります。校長が職員会議で経営目標について語るよりよほど効果があります。
こういう記事が多い学校は、HPを学校経営の道具として意識しているということです。

先週、何校かで靴がきちんと下駄箱に入れられている写真が紹介されていました。「本校は子どもたちが落ち着いています」と言うよりも、よほど雄弁に語ってくれます。子どもや学校のようすで伝えるということがよくわかっている学校だと思います。記事にしたいがとても記事にできない状態の学校もあるかもしれません。「今はこの状態ですが、1年後にはキチンとなるようにします」と宣言できれば素晴らしいと思います。
また、年度初めの学力テストについてもその意味をきちんと説明している学校がいくつかありました。この時期におこなう意味、何を調べる、何に活かすのかが書かれていました。この記事を読めば、なるほどそういうことかと納得し、きちんとそいうことを伝える学校の姿勢に信頼を寄せると思います。当然読んだ方は、テストの結果はどうだったのか、結果を受けて具体的にどのような対応をするのか興味を持たれるはずです。ただテストをおこないましたという記事との違いです。読まれた方の疑問や関心にきちんと応えるという意志があってはじめて載せられる記事だと思います。

HPが学校に根付き、進化してきています。HPを学校経営の道具としてうまく使う学校が増えてきました。HPがまさに学校の顔となりつつあります。学校の顔としてどうあるべきか意識することで、学校経営もシャープになるはずです。こんな視点で学校HPを見るのも楽しいものです。

新年度の学校HPは要注目

新年度になっての楽しみに学校のHPがどのように変わるかということがあります。校長や担当が変わった学校でなくても、新年度から新しい企画が始まる学校もあります。デザインが変わる場合もあれば、記事の視点が変わる場合もあります。

私が注目するのは校長のメッセージです。なぜなら、そこには校長が何を大切にしたいのか、この記事を通じて誰がどうなることをねらっているのか、といった校長の経営姿勢がはっきりと表れるからです。学校のHPを武器にしようとしているのか、それともお荷物と感じているのかも校長のメッセージを見ればすぐにわかります。

また、日々更新をしている学校などは、誰が記事を書いているのかも注目します。校長がほとんど一人で記事を書いている、HP担当が中心となって書いている、学年やグループの担当が分担して書いている、全員が当番で書いている、すぐにはわからない学校もありますがこの違いも学校の状況やHPに対する考え方が表れていておもしろいものです。

記事の内容も、学校ごとに個性があります。行事が中心の学校、授業のようすが多い学校、部活動や授業以外での子どものようすが多い学校、それに対するコメントも事実を中心にする学校、行事や授業への思いや内容、解説といったメッセージ性の強い学校。どれが正解というわけではなく、HPをどのような道具としてとらえているかの違いでしょう。

今までは、学校の変化は外部からはなかなか気づくことはできませんでしたが、最近は変化の兆しをHPから知ることができます。学校が変わるときは、まずHPの内容が変わるのです。だから私は新年度の学校のHPに注目するのです。
校長が変わっても今までと同じように更新されるのだろうか、新しく赴任した校長はどのような方針でHPを利用しようとするのだろうか・・・。この時期の学校のHPを見る楽しみは尽きません。

生徒指導面で学校がよくなるためのポイント

いわゆる生徒指導面で困難校と呼ばれる学校とかかわらせていただくことが過去何度かありました。こういった学校がよい方向に変わっていく姿からたくさんのことを学ばせていただきました。私が学んだ、学校がよくなっていくためのポイントを少し書かせていただきたいと思います。

・校長のリーダーシップ
教師集団がやろうと思ったことを思い切ってやれるようにする。責任は私が取るから信じたことをやってくださいという姿勢をはっきり示す。

校長がこうしろとトップダウンで指示をして徹底させるというやり方もありますが、教師集団が納得していなければ意味がありません。苦しい時ほど受け身では何ともなりません。校長の思いをきちんと伝えた上で、教師集団がどうしていくか自分たちで考えることが大切になります。そのためには、教師同士が互いの考えを伝え合う、聞き合う必要があります。また、校長が責任を取るためには、きちんと相談や報告をしてもらう必要があります。校内での情報の共有化と切り離せません。

・チームワーク
学校内で起きる問題を個人の問題とせずに、チームで解決にあたる。

学級内で起こった問題を学級担任や教科担任の問題として個人で解決しようとすることがよくあります。また、まわりが教師個人の問題だと批判することもあります。そうではなく学年の、学校の問題として互いに協力し合わなければ決して解決はしません。日ごろから、相談できる、助け合える関係を作ることが大切です。問題に対しては、常に複数で解決にあたる体制が求められます。

・目標とする子どもの姿の具体化
目標を具体的な子ども姿で表すことで、教師が取るべき行動を明確にする。

抽象的な目標では、そのためのアプローチが明確になりません。具体的な目標に向かうことでなすべきことが見えてきます。ある学校では、「授業中に生徒が一人も寝ない」という目標を掲げていました。レベルが低いと思われますか? この目標を達成するには、授業の内容を変えたり、子どもとの人間関係をつくったりとたくさんのことが必要になります。一つひとつのことをきちんやりきることで、はじめて達成されます。このように具体的な目標を達成するためになすべきことをやりきれば、他の面でも間違いなく学校はよくなっているはずです。

・普通の生徒との関係づくり
まず、普通の生徒たちとよい関係をつくり、安心して生活が送れる教室をつくる。

教師が問題生徒に関わってばかりいては、それ以外の大多数の生徒がほったらかしにされます。教師に対する信頼も薄れますし、その原因となる問題生徒に対してもネガティブな感情を持ちます。子どもたちを認め受容することを通じて、きちんと授業規律をつくり上げていくことが大切になります。授業規律を乱す行為に関しては毅然とした態度も必要です。しかし、決して子どもの人格を否定することがないようにしなければなりません。

・授業重視
子どもたちの学校生活のほとんどを占める授業を、子どもたちにとって楽しく充実したものにする。

生徒指導上問題を起こす生徒は学校や学級の中に居場所がないことが多くあります。どんな子どもも参加できる授業を目指すことは生徒指導上もとても大切なことです。人は周りから認められると「自分はここにいていいのだ」と思えるようになります。そのためには、まず、一人ひとりを受容し、認める授業にする必要があります。その延長上に、「わからない」「できない」という子どもが、「わかりたい」「できるようになりたい」、「わかった」「できた」となる授業があります。これが、楽しく充実した授業の基本です。

・保護者、地域との連携
保護者や地域に学校のことをしっかりと伝え理解してもらう。その上で協力しあう関係をつくる。

学校だけでは子どもを育てることはできません。とはいえ、一方的に協力をお願いしても聞いてもらえるわけではありません。学校の目指すところ、子どもたちの姿を伝えるだけでなく、困っていることも素直に伝えて、初めて学校のことを理解してもらえます。その上で、一緒に考える姿勢で相談し、協力を願えば、必ず保護者や地域は応えてくれます。子どもを育てる仲間、応援団になってもらえば、子どもたちを第三者の視点で批判的に見るのではなく、どう育てるかという当事者の視点で見てもらえるようにもなります。

今年度、たまたま知り合いの校長が生徒指導面で困難な学校に赴任されました。この方が赴任先で最初に職員に伝えたことを知る機会がありました。私がここに書いた内容とほとんどずれがありません。私が学んだことが間違いなかったと意を強くすると同時にこの学校がきっとよい方向に変わっていくと確信しました。この後、学校がどのように変わったか、お話を聞かせてもらうことがとても楽しみです。

子どもの学力を上げるには

子どもの学力を上げるにはどうしたらよいのかと質問される機会がありました。どの立場で考えるかによっても答は違うと思いますが、このことについて少し考えてみたいと思います。

「子どもが自分で学びたい、力をつけたいと思って勉強する」ことが基本になることは間違いないと思います。問題はどうすればそうなるかということです。

学びたいと思うためには、学ぶことが楽しいと思うことが大切です。興味・関心を持たせるような題材を準備するなどの工夫が求められます。

力をつけたいと思うためには、力をつけることが自分にとってどのようなメリットがあるかが明確になることが大切です。しかし、このことは一つ間違えると学習の本質を誤ってしまうことにもなりかねません。学年が進むにつれて、いい学校に入りたい、将来就職に有利になるといった発想も目にするようになります。このような感覚を決して否定はしませんが、このことは、効率的に結果を求める姿勢につながる恐れがあります。試験に出るから覚える、出ないから覚えない、途中の課程はいいから早く答が知りたいといった誤った効率主義に陥ってしまえば、本当の力はつきません。また、効率を求めるようになると、結果がでないとすぐにやる気を失います。
では、どんなメリットが明確になればいいのでしょうか。自分が進歩した、進化したと感じること、「自己有用感」だと私は考えます。そのためには、子ども自身が進歩したと実感できるような評価の仕組みが必要になります。努力の結果が目に見えやすいように、できるだけ細かく目標を設定し、スモールステップで評価することが有効です。評価のサイクルを小刻みにすることで、進歩を早く実感できるようにもなります。

一方、子どもが学びたい、力をつけたいと思っても、どうすれば力がつくのかその方法がわからなければ何ともなりません。どのように勉強すればよいのか、何を頑張ればよいのか具体的にすることが大切です。単にこの問題をやりなさいという指示ではなく、いくつかの選択肢を与えるなど、自分で何をするか考えさせるような工夫も必要になります。このとき、何ができるようになる、何を目標にするかが明確になっていると、自分のやったことと成果の関係をきちんと評価できるので、学習意欲を高めることができます。先ほど述べたようにスモールステップで評価すれば、何ができて何ができていないのかを細かくチェックできるので、努力するべきことを明確にすることができます。

今まで述べたことは、子どもの学習意欲、目標・評価、学習方法の問題といってもよいと思います。意欲があるから結果が出ることもあれば、結果が出たから、興味・関心をもち意欲につながることもあります。単独の問題ではなく、互いに影響しあう問題です。どこかに偏るのではなく、バランスよくそれぞれを意識した取り組みをすることで子どもの学力は上がっていくと思います。

若手が育つということ

先週末、昨年度アドバイスをさせていただいた小学校の校長と若手6人の先生と食事をする機会をいただきました。初めて会ったときは、自信の無さや迷いがいろいろな面で感じられましたが、1年経ってそういったものがずいぶん影を潜め、かわりに言葉や表情から自信が感じられるようになりました。この1年間をやりきった充実感と自分が成長したという手ごたえがその自信の裏付けになっているようです。新年度もこのままやればうまくやっていけるというのではなく、失敗があっても前向きに取り組むことできっとなんとかできるという自信なのでしょう。そこには、子どもからも同僚からも学ぼうとする謙虚さが感じられます。まさに伸び盛りの若者らしい姿です。

会話の端々から、彼らがこの1年を振り返り、新年度のスタートをどのようにしようかいろいろと考えていることが伝わります。互いに気軽にそのことを話し合っていました。いろいろな学校で若手を見ていますが、意外と孤独で同僚に相談することもできなかったりします。この学校では、一緒に教材研究をしたり、アドバイスもみんなで聞き合うようにしたりしましたが、そのことが、彼らが気軽に相談できる雰囲気作りに役立ったのかもしれません。

彼らがこの1年間で大きな成長をした背景には校長の存在があります。今年度は学校の研修を若手中心のものとすることで、若手が互いに学び合い成長することをまず目標としました。そして、その結果ベテランにもよい影響がでることをねらいました。若手を同じフォーラムに参加させることで話をするきっかけとしたり、今回のような機会を設けたりして、互いの人間関係をつくることも意識されていました。彼らが学校の変革への基点となるようにこの1年間育てようとしたのです。
新年度も新人が何名か配属されるようですが、何かあったら彼らに相談するようにと校長は話をされたようです。新人の悩みを自分の経験をもとにきっとうまく受け止めてくれることと思います。

校長の期待に応えてみな大きな成長を遂げてくれました。人事異動で校長は新年度から現場を離れることになりましたが、彼らがきっと学校をよい方向へと進める原動力になってくれると信じておられました。まだまだやり残したこと、やりたかったことがあるとは思いますが、思いを託すに足る若手を育てたことには満足されているようでした。この校長の姿から管理職のあり方を学ばせていただきました。
1年間、彼らの成長に立ち会えたことと彼らを支えた校長の姿を見せていただけたことは私にとっても大きな学びにつながりました。ありがとうございました。
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