野口芳宏先生から心地よい刺激を受ける

今年度第5回の教師力アップセミナーは野口芳宏先生の講演と道徳の授業の実践発表でした。

午前の部は、宮沢賢治の「やまなし」の模擬授業をもとにして、野口流の国語授業のつくり方をたっぷりと教えていただきました。
「間違いは正さなければいけない。間違いをした子どもを落ち込ませるのではなく、間違いを知って正すことで成長したことを喜べばいい」「判断は誰でもできるが根拠が大切」といった素晴らしい言葉が次々と野口先生の口から語られます。
「一人ひとりの子どもが相手にされることが大切」という言葉に、野口先生の授業の底に流れる全員参加の考え方が現れています。「やまなし」であれば、舞台となっているのは「朝か昼か夜か」といったことを子どもたちに発問し、全員の考えを確認しなければ情景をきちんとイメージできているかどうかわからないということです。実際に参加した先生方でも答が違っていたことが印象的でした。

さて、今回取り上げた「やまなし」は40年以上にわたって光村図書の小学校6年生の教科書に掲載されていますが、難解な教材として定評があります。難解ですがこれだけ長い期間にわたって採用されているということは、それだけの魅力のある教材だということでしょう。「理屈の世界ではわけがわからない」と野口先生はおっしゃいます。この教材は、宮沢賢治の素晴らしい表現からイメージを描かせること中心にあつかいたいという提案です。
文学作品は、「内容と形式の調和」であり、その本質は美の追究であるとおっしゃいます。「内容美」は「理(知的価値)」「相(イメージ、様子……)」「情(感情理解)」、形式美は「体(構成、構造)」「律(リズム)」「語」からなるという整理の視点はなるほど納得するものがあります。心にとめておきたいことです。

「否定は大切」ということも野口先生の一貫した主張です。世の中の流れが否定ではなく、肯定、ほめることを大切にする方向に流れても、安易にそれに迎合しない野口先生の姿は凛としています。私自身、否定をしない、肯定的な表現をすることが大切だと考えています。しかし、野口先生の言う「否定することで次に進める。新たなものを得ることができる」という「否定の生産性」を間違いだとは思いません。その通りだと思います。私が大切にしたいのは、他者に否定されるのではなく、自分自身で間違いに気づけることです。だからこそ、野口先生と同じように根拠を明確にして、子どもが考える授業を大切にしたいのです。客観性のある議論をすることで、結論を一方的に受け入れるのではなく、自身で修正して正しい結論にたどり着いてほしいのです。
子どもは「不備」「不足」「不十分」の「三不」というのも、いかにも野口先生らしい言葉ですが、この子どもの中に潜在している「三不」をレントゲンのように浮き上がらせるのが「発問」だというのも、すばらしい「発問」のとらえ方です。

授業づくりについて話されます。「まずは『素材研究』。一人の大人として作品と向き合う。その上で一人の教師として『教材研究』。その先に授業者として『指導法』を考える」というのもいかにも野口先生です。特に「素材研究」を一番にするべきだというのは、まったくその通りだと思います。これは数学でも同様です。例えば関数の学習をするのに、「関数とは何であるのか?」「一次関数とは?」といった数学としての根本がわかっていなければ、本質を外した授業になってしまいます。その上で、教科書は何を、どこをねらっているのか「教材研究」していくのです。

全体の様子を描写する「括叙」(抽象的)に対して、個々の様子を描写する「細叙」(具体的)により、イメージ化ができる。最近は教えることが流行っているが、こういったことを教えることが大切であるというのも野口先生らしいのですが、何を教えて、何を考えさせるのかという選別が大切だと思います。基本知識は教えるか調べるかありません。そういったことまで子どもたち気づかせようとしている授業を野口先生は見たのでしょうか。今言われている授業のあり方は、野口先生のものと大きく乖離しているようには思えないのですが、どうでしょうか?

読み取りを進めるのに、「川の深さは何mだろうか?」「カニの大きさは何cmくらい?」と「数値」を問うのも、野口先生がよく使われる方法です。漠然と浅い深いといったことではなく、数値で答えようとすると根拠となるものを本文からしっかり探さなければいけません。子どもたちに深い読みをさせるための有効な方法です。
また、「ねむらない」と「ねむれない」の違いや、「遠めがねのような両方の目をあらんかぎりのばして」とあるその行動の裏にある感情を問うといったことも、非常に参考になる発問のあり方でした。

細部を読み進んだ後、題名が「やまなし」なのはなぜかを問います。「かわせみ」でも「かに」でもない。その理由を考えることが、この作品が何を言いたいのかを考え読み解くことになるという考えです。この授業の構成にはなるほどと思いました。「題名」の理由を考えるというのはよくあるやり方なのですが、私の中では、一読した後に問いかけ、作品全体を大掴みさせてから細部に入るという流れしかありませんでした。このように最後に作品全体をとらえるための発問にしたことは、とても新鮮に感じられました。
「やまなし」という難解な教材のあつかい方を通じて、国語授業のつくり方について、多くのことに気づき、学ぶことができました。

午後は、運営委員の学校の若手教員の道徳授業(道徳の授業撮影参照)のビデオをもとに、道徳の授業の視点を深める時間を取り、それを受けた形で、野口先生から道徳の教科化に伴う指導要領の改訂に関連してお話しいただきました。「考える道徳」「議論する道徳」に対してのお話も伺えました。第1回授業深掘りセミナーでも話題になったところ(第1回授業深掘りセミナー(その1)参照)ですが、まだまだ試行錯誤が続いていくのだろうと思いました。
それよりも道徳に関連して印象に残っているのは、懇親会で野口先生に質問させていただいたことに対するお答でした。「道徳でこういった行為はよくないというような話をする時、子どもの親がそういった行為をしていることもある。子どもが親を否定することにつながらないかと二の足を踏むことがあるがどう考えればよいか?」という質問でした。野口先生は、「元徳」という言葉を出されました。「徳の中で最も根本となるもの」という意味ですが、その「元徳」の一つは「親を敬う・大切にする」ことだというのです。だから、何があっても「親を敬う・大切にする」ことは忘れてはいけない。そう教えるというのです。今の時代、この考え方にすべての人が賛成するとは思えません。しかし、その言葉に野口先生のぶれない強さを感じました。おいくつになられても心地よい刺激を与えてくださる野口先生です。今年もとても素晴らしい、幸せな時間を共にすることができました。感謝です。
12月に第2回「教育と笑いの会」でお会いできるのが今からとても楽しみです。

ゼミでの学生の姿から考える

授業深掘りセミナーの後の会場で、玉置ゼミが開かれました。せっかくですので、少しゼミの様子を見学させていただきました。授業と学び研究所の小西克哉所長からの就活と最近の大学生気質についての話、フェローの神戸和敏先生の模擬授業でした。

小西所長の話は、学びの本質に迫るものでした。学びは一生涯続くもので、学び続けることができる人を企業は求めている。学ぶことを楽しめることが大切である。「学力」は「楽力」に通ずる。また就職は、自分がその企業で仕事をすることを通じてどのようになりたいかを思い描けなければうまくいかない。こういった主旨の話でした。
教員志望がほとんどで、一般的な就職活動には縁のない学生たちなので、どのような反応をするのか興味がありましたが、だれもが真摯な態度で話を聞いていました。素直に学ぼうという姿勢は好感が持てました。

神戸先生の1時間の模擬授業は2部構成でした。後半は次回の授業深掘りセミナーで行う模擬授業を試しに行うものです。前半は、なんと落語をアニメ化したものを見せました。「時そば」です。最初はなぜ落語を見せるのかその意図がわかりませんでした。アマチュアの域を超える落語家の玉置先生のゼミの学生にしては意外なことに、あまり「時そば」を知らないようでした。
神戸先生は「時そば」を見せ終わった後に、そばがいくらだったかを問いかけました。「16文にきまってらあ」という言葉の意味がわかっているかの確認です。「二八そば」から「16文」ということに気づいている学生は少なかったようです。どうやら神戸先生は、日常に潜む数や数学的な視点に気づく感性を持ってもらいたいことを伝えるのに、「時そば」を選んだようです。
落ちの「今何刻でぇ」「四つでさぁ」というところも、よくわかっていなかったようです。江戸時代の時刻が0時を「九つ」として、半日を2時間ごとに(正確には日の出を暁六つ、日の入りを暮れ六つとして計算)、「八つ」「七つ」「六つ」「五つ」「四つ」としていたことを知らないと、「九つ」より少し早かったために「四つ」で大失敗したということがわかりません。こういったお話を楽しむためにも、数の感覚が大切です。教師として、幅広い視点を持つこと、算数・数学を教えるためには日常に潜んでいる算数・数学的なものを見つける、見つけようとする姿勢が大切なことを伝えられました。「時そば」を当たり前のように楽しんでいた私には、このような教材として利用することは思いもつきませんでした。神戸先生の教材を見つける感覚に脱帽です。

後半の模擬授業については、次回の授業深掘りセミナーでのお楽しみにして、その時の学生たちの姿から感じたことを少し述べたいと思います。
非情に素直に課題に取り組みます。しかし、ある事柄の持つ特性や属性を分析したり、そのことをもとに推論したりするといった力が今一つです。日ごろから、身の回りのことを「なぜそうなっているのだろうか?」「他にはないのだろうか?」と原因や必然性を論理的に解釈しようとすることをしていないようです。答を出せた学生も、どうやって考えたのか、論理的に筋道立てて説明することが上手くできません。たまたまであったにせよ、そこにある必然性を見つけようとする姿勢が大切なのですが、そういう習慣はついていないようです。先ほどの「時そば」で感じたことと一致します。
このことは彼らのだけの問題ではありません。多くの小学校の先生の算数の授業で感じるのがこれなのです。解き方を知っていてそれを教えるだけの授業が多いのです。「なぜそうやると解けるのか?」「他にやり方はないのか?」「その必然性は?」といった視点が授業に欠落しているのです。解き方を教えるのは塾に任せて(塾に失礼ですね)、解き方を見つける力を子どもたちにつけてほしいのです。それが、算数・数学で目指したい力です。
そのためには、先生方がきちんとその問題の本質を理解して、論理的に解き方を説明できることが必要です。その上で、直接教えるのではなく、子どもたち自身で気づけるような授業構成をすることが求められるのです。
この日の神戸先生の模擬授業からは学生たちにそのことを気づかせたいという思いがあふれていました。これは、神戸先生の算数・数学の授業に共通する思いでもあります。
ゼミ生のみなさんには、これから教壇に立つまで、立ってからもこのことをいつも自身に問い続けてほしいと思います。

人数は減っても、エネルギーは変わらない体育大会

学校評議員をしている中学校の体育大会を観戦してきました。この学校も10年ほど前と比べるとずいぶん子どもたちの数が減ってきました。各学年3学級で、目の前の子どもたちの観客席がずいぶんこぢんまりとしていました。以前は視野に入りきらないほど広がっていたことを思うと隔世の感があります。
子どもたちの数が少なくても、運動場にあふれる熱気は以前とは変わりません。いや密度は増していると言ってもいいでしょう。その理由の一つは子どもたちの観戦の態度にあります。自分たちの仲間が出場していなくても、一生懸命声援や拍手をしています。自分には関係ないとまわりとむだ話をしている子どもがいません。どの学年もとても素晴らしい姿でした。
子どもたちの数が減ったこともあるでしょうが、プログラムを順調に消化し、かなり早く午前の部が終わりました。しかし、午後一番には保護者の方も楽しみにしているクラスマス(ゲーム)がありますので、休憩時間を長くとって開始は予定通りということでした。あたりまえのことかもしれませんが、大切な視点です。午後の部までは見ることができませんでしたが、子どもたちはきっとすばらしい姿を見せてくれたことでしょう。

校舎の様子を見に行くと、2階へと続く階段の壁に大きな模造紙が何枚も貼ってありました。学年主任の手作りの個性のある学年の子どもたちへのメッセージです。月ごとに子どもたちの成長をほめ、そのことを喜び、次への期待を綴った、想いのあふれるものです。厳しい指導をされることもありますが、子どもたちにとても慕われている先生です。この先生が主任を務めると、やんちゃな学年も入学時に幼かった学年も必ず立派に育って卒業していきます。その秘密の一つがわかったような気がしました。この学年の子どもたちもきっと大きく成長して、卒業式にはこの先生を大泣きさせてくれることでしょう。その姿を見るまではこの学校にかかわっていたいと思わせてくれる掲示でした。
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