研究発表会の季節が近づく

秋分も過ぎ、秋らしい日が増えてきました。研究発表会の案内が届いてきます。秋は研究発表会の季節でもあります。私がかかわらせていただいている学校でも、この秋に研究発表会を開くところがいくつかあります。どのような発表になるのか、案内を見ながら思いを巡らします。
どの学校も研究を通じて得たことがあると思います。授業公開する学校では、素晴らしい子どもの姿が見られ、その姿はどのようにしてつくられたのか参加者に明らかになるようなものであれば素晴らしいと思っています。

発表会によっては、「こんなにいい学校になりました。どうぞ見てください」という成果だけが目について、何がこの学校のよさをつくり出したのかよく伝わらないことがあります。「こんなことをやりました」とやったことだけをたくさん伝えられ、一つひとつがどのように有効だったのか、どこに改善点があったのかがわからないこともあります。参加された方が、自分の学校に取り入れようとした時に知りたいと思うことを伝える努力が必要です。時には、実際に行った改善策などよりも、それを学校全体に広めるためにどのような体制をつくったのか、先生方の関係をどう作り上げたのかといったことを発表する方が、参加者には参考になることもあると思います。
講演をお願いされた学校に対して、講演の代わりに研修主任や何人かの先生方とのパネルディスカッション(座談会?)を提案することがよくあります。それは、「どんなことが学校を変えるきっかけになったのか」「うまくいくためのポイントは何か」といった参加者が知りたいと思うことを私が代わって聞き出すことの方が、私の拙い講演よりもよほど参加者の役に立つことだと思うからです。

私のアドバイスは、学校によってかなり異なっていると思います。もちろん子どもと教師の関係、授業規律の問題など、共通してお話することもありますが、基本的にそれぞれの学校が目指すところによってアドバイスの内容は大きく違います。発表会に参加される方やその所属する学校も、それぞれ目指すものや状況は異なります。「どのような課題があり何を目指したのか」「どのような学校にとって有効なことか」が端的に伝わることが大切だと思います。そうすることで、参加者が研究のどこを参考にすればいいのかがよくわかるからです。「やっと、ここまでです」「まだまだこんな課題があります」「こうするとうまくいきません」「こんな失敗をしました」といったことを隠さず伝える方が参加者にとっては有益なこともあると思います。

研究発表会は、自分たちの研究の成果を発表する大切な場です。だからこそ、「こんな成果が出ました」「こんなに頑張りました」と多くの方に知ってもらいたい、伝えたいという気持ちが前面に出ます。しかし、研究で得たことをできるだけ多くの学校に役立ててもらうことこそが本当に大切なことだと思います。参加者の立場に立って、「何をどう伝えれば、より自分たちの研究を活かしてもらえのるか」という視点を発表に加えてほしいと思います。

この秋、いくつかの研究発表会に参加する予定です。そこでどのようなことを学べるのか今からとても楽しみです。

体育大会で子どもたちの成長をみる

先週末は学校評議員を務めている学校の体育大会に、来賓として参加させていただきました。
いつものことですが、子どもたちがどのような成長を見せてくれるかとても楽しみです。

開会式では、子どもたちの視線が印象的でした。しっかりと壇上を見つめています。端の列の子どもたちが体を自然に内側に向けているのに気づきます。とても素晴らしい姿勢です。
例年、聞く姿勢や集団行動面で差があるので、1年生がどの集団かすぐにわかるのですが、今年はよく見ないとわかりませんでした。かろうじて体の大きさの違いでわかる程度です。学年の差が縮まったようにおもいます。というか、高いところで揃ってきたという感じです。
何人も交代で話が続くので集中力が切れやすいのですが、最後までしっかりと保てていました。中でも校長の話の時の集中力はとても高いものでした。校長の話ということもありますが、やはり指導力も大きいと思いました。受け身の状態を変えるために、子どもたちに声を出させます。大きな声が出せるようになってから、「次は挨拶をします」と宣言し、子どもに心の準備をさせます。とてもよい挨拶になるのは当然です。こういうことが自然にできるのは流石です。集団に対する指導の上手さは、専門教科が体育であるからかもしれません。よい勉強をさせていただきました。

一方、係の子どもたちですが、今年は特にやらされている感が少ないように思いました。しっかり指導されてきちんとやっているというより、自分で一生懸命考えてやっているという雰囲気です。ただ、国旗掲揚や進行の係は、旗を揚げることやアナウンスに意識がいってしまい、自分たちが見られているという意識があまりありませんでした。公的な場であることを意識し、背筋を伸ばして美しい姿をつくろうとしてほしいところでした。最近はそこまでは指導しないのかなと思いましたが、聞けば今年は、教師の口出しをできるだけ減らし、子どもたちに考えさせ自分たちでつくる大会を意識させたそうです。いろいろな意味で納得できる話でした。
子どもたちの係の中でとても印象に残っているのが、トラックの審判です。1レースごとに違反がないか旗を揚げて知らせるのですが、例年は旗を揚げる時に顔が下がったままの子どもが目立ちます。無理もありません。暑い中、選手の足元を見ながら淡々と旗を揚げ続ける仕事です。モチベーションを維持するだけでも大変です。しかし、今年の審判は、どの子どもも背筋を伸ばし、顔を上げ、肘を伸ばしてまっすぐに旗を揚げます。とても気持ちのよい姿でした。見ていて感心しました。大会を支える地味な仕事ですが、自分に与えられた大切な仕事としてとらえていることがよくわかりました。

体育大会では競技している子どもではなく、観戦している子どもたちの様子を見るのが私の常です。昨年は、自分の学級の友だちが参加している時だけ集中して、他の学年の競技の時にはまわりとおしゃべりしているような姿も目につきましたが、今年は違います。どの学年もどの競技でもしっかりと観戦し、声援をおくっています。
スタートの準備の笛が鳴ると、運動場全体に緊張がみなぎります。該当学年でなくても全員の視線がスタートラインに集中しています。昨年と比べて大きく進歩していました。

クラスマス(ゲーム)で、とても素晴らしい姿を見ることができました。全員が運動場の正面に座り各学級の演技を見るのですが、午前は1、2年生だけで3年生の演技はありません。その3年生が各学級の演技の見せどころで自然に拍手をするのです。それにつられて各学年からも大きな拍手が起こります。自分たちの出番がないところで、見る姿勢で下級生を引っぱっていました。これが最上級生ということなのでしょう。

時間の関係で、午前中で失礼しましたが、子どもたちの成長した姿をたくさん見ることができ、とても幸せな時間を過ごせました。いろいろ指導したいこともあるでしょうが、その気持ちを抑え、先生方が子どもたちに多くを任せ、考えさせたことが成長の原動力のように思いました。先生方に見守られて子どもたちが生き生きと頑張っていました。この日の空のように、さわやかな気持ちで学校を後にしました。

子どもたちの姿から、数学との出会いを思い出す

先日、児童館のサマーナイトスクールへボランティアとして参加しました。算数・数学自由研究作品コンクールへ応募する子どもたちへのアドバイスをするというものです。立体図形に関して面白いことをしている子どもがいると聞き、興味を持ち参加させていただきました。

驚いたことに8名もの中学生が参加していました。数学に興味を持っている子どもがこれほどいることをとてもうれしく思いました。アドバイスをする大人も6人と多く、個別の対応が可能でした。
私がアドバイスさせてもらった中学3年生は、立方体を、各面を底面とする合同な6つの四角推に分割し、それを裏返して(元の立方体の面と四角推の底面を重ねる)できる立体が菱形多面体(合同なひし形で構成される多面体)になることに気づいたそうです。これがおもしろくて、同様のことを他の正多面体でもできないかと、模型を作って試したということです。結論から言うと菱面多面体は現れなかったのですが、このような姿勢はとても素晴らしいと思いました。数学的には、できない理由やできるための条件を示して証明できるとよいのですが、そこまでを求めるのはちょっと酷でしょう。高校生になって空間図形や三角関数を学習し道具を手に入れた時に、このことを思い出して挑戦してくれることを期待します。今回のことをきっかけにして、多次元空間や内積空間など、本格的に数学に興味を持ってくれたらとてもうれしく思います。
本題のコンクールへのレポートは、最初の立方体と菱形多面体の関係をきっかけに他の正多面体ではどうなのか興味を持ったこと。模型をつくることで確かめてみたこと。その結果わかったことと予想したことまでをできるだけわかりやすい写真をつけて書くようにアドバイスしました。彼がレポートを書くための参考になれば幸いです。

ここで子どもたちが挑戦していた内容は、大人や専門家からみれば数学的には大した意味がないと思われることかもしれません。しかし、こうしたことがきっかけとなって数学の世界に興味を持ち、知識の海に漕ぎ出そうとしてくれるかもしれません。実際、彼らが興味を持ったことを突き詰めていけば、必ず数学的に意味のある課題にたどり着くことに気づきます。子どもたちにそのような機会を与えるという意味でも、このような場をつくることはとても意味のあることだと思います。
子どもたちの姿から、私自身が数学に出会うきっかけとなった小学生や中学生の頃のいくつかの出来事とその時の気持ちを久しぶりに思い出すことができました。子どものころのように純粋に数学と向き合う時間をつくりたい。そのような気持ちにさせられました。昔の自分と出会うきっかけをつくってくれた子どもたちと企画者に感謝です。

今の私の学びの原点

ありがたいことに、研修や講演などでお話しさせていただく内容や対象の範囲が増えてきています。親御さん向けの子育てに関するものや、企業の社員研修、介護関係者向けの研修なども依頼されます。これらの研修を通じて私自身が学ばせていただくことはとても多いように思います。授業に関することでも、日ごろあまり接点がない栄養教諭や養護教諭の方を対象にするものは、いつも以上に学ぶことが多いと感じます。
私自身、数学以外に専門と呼べるような知識や技量があるわけではありません。その数学とて、数学者を名乗るには程遠いレベルです。そんな私だからこそ、他者から学ぶしかありません。授業についていえば、多くの素晴らしい先生の授業づくりのお手伝いをし、その授業を見せていただき、一緒に考えたことが今の私の基礎にあります。そうやって学んだことを私の言葉で皆さんに伝えているだけです。

自分自身が経験したことがないようなことについても、依頼をされれば原則お引き受けすることにしています。野口芳宏先生がよくおっしゃる、「『はい』か『Yes』しかない」を身近で実践されている方が多いため、いつの間にかその影響を受けてしまっているようです。そのため無謀とも思える仕事を引き受けてしまうこともあります。そのような時は、相手の方に教えてもらう、聞きだすことで何とか対応していきます。この経験がとても貴重なものです。必ずと言っていいほど自分自身の世界が広がるのを感じます。学ぶとはこういうことなのだと実感できます。教師時代、先輩や同僚からたくさんのことを学びましたが、一番多くを教えてくれたのは子どもたちだったように思います。いつも、子どもの「わからーん」という言葉をきっかけに、教師として大切なことを学んできように思います。子どもたちの「わからない」と向き合うことは、自分自身の「わからない」と向き合うことと同じです。「わからないことは、相手から引き出そう。教えてもらおう」という今の私の考え方はそこから始まったように思います。

意外に思われる方があるかもしれませんが、一方的に話すことの多い講演や講義は実はあまり好きではありません。なかなか機会がないのですが、一つのテーマを何回かに分けて一緒に考えながらじっくり進める授業がやはり一番性に合っているように思います。今回、月1回の研修を半年ほど引き受けることになりました。一貫したテーマで連続して行えるので、講義ではなく授業に近い形で行なえそうです。授業することを通じて学ぶことが今の私の原点であることを再確認させていただけそうです。
参加した皆さんからどのような考えが出てくるでしょうか。私も含め互いにかかわり合うことでどのように深まっていくのでしょうか。とても楽しみです。

学び合いを中心とする授業づくりを考える

先週末、本年度第3回の教師力アップセミナーに参加してきました。三重大学教育学部教授岡野昇先生の「身体技法を通したワークショップ形式による学び合いを中心とする授業づくり」でした。

子どもを見ることが大切だと言われますが、子どもを見る視点を変えることで教師に見える子どもの姿は変わってきます。まずそのことからお話が始まりました。子どもを変えるのではなくその環境を変える、子どもを見るのではなくその関係を見るという発想はとても共感できました。
失敗を「笑わない学級」ではなくて、失敗を「笑いとばせる学級」という言葉もとても納得のできるものでした。授業は失敗や間違いから出発していくもので、それらが価値のあるものだという考えがその根底にあります。参加された先生方は自分の学級で具体的にどのようにしていこうと考えられたでしょうか。また、「許せないラインを明確にすること(明確なルールの設定)」ということを強調されていたことも流石でした。学級づくりの一番の基本、「安心・安全」につながることです。

私たちが持っている以下のようなパラダイムについて、

・学校は楽しい(学校観)
・失敗を笑わない学級(学級観)
・主体的に取り組む学習(学習観)
・自分の力でやりとげる子ども(子ども観)
・一人ひとりを大切にする指導(指導観)

「解す」「触れる」「委ねる」「任せる」「察する」「引き出す」というキーワードをもとに、身体的活動を通じて見直しました。

「解す」に関連して
人は失敗を笑うもの、失敗を楽しむことから始めればいい。できないことに挑戦する子どもをつくることが大切。失敗から出発して「理」を「解き解す」ことが理解。失敗を笑い合える、許し合える関係を学級につくることが求められる。

物理的な距離の持つ意味
子どもとの物理的な距離感も大切。距離が離れると関係性が薄れる。教室の後ろと教室の前では赤の他人の距離(公衆距離)になってしまう。だからコの字の机の配置、4人(互いに程よい距離を保てる人数)でのグループ活動。教師は子どものそばに行くことで子どもとつながることを大切にしてほしい。

「触れる」に関連して
「触れる」は「見る」「聞く」「触る」などと違って、双方向的である(主体と客体を入れ替えることができる)。私が机に触れる。⇔机が私に触れる。この相互に立場(主体と客体)が入れ替わる関係が大切。「教える」「教えられる」という相互主体(相互依存)の関係を重視する必要がある。他者とだけでなく、学ぶ対象(モノ)や自己においても双方向性が大切である。問題は、どのようにして双方向性をつくり出すかが問題。

「委ねる」に関連して
「助ける(力を上げる)力」と「助けを求める(力をもらう)力」が必要。一人ではできない課題であること、かかわらざるを得ない状況をつくることが、双方向の関係をつくる。学習の定着率は他者に教えることが一番高い。できる子どもは教えることで、実は大きな利益を得ている。この互恵の関係が大切。

「任せる」に関連して
「問題のない」学校・学級であろうとするのではなく、「問題を共有できる」学校・学級であってほしい。互いに問題を引き受けることが大切。そのためには、しっかりとした軸(ビジョン)を共有できていることが必要。

「察する」に関連して
コミュニケーションは、言語:非言語=3:7と言われる。相手の気持ちを察すること、受け容れる気持ちを持つことが大切。「他者の声を聴く」「聴き合う関係」が重要。大きな声で言い直させるよりは、聴き取ろうとすることを大切にしたい。テンションを下げ、「しなやかさ」と「集中」を重視する。

「引き出す」に関連して
「選手の力を引き出し、目標を達背する手助けをする」というコーチングの考え方はまさに教師の仕事そのもの。引き出すとは、「きく」こと。「聴くこと(同調して話させる)」「訊くこと(怪しい部分を訊ねる)」。そして、「タイミング(関心のあるその時に伝える)」「気づかせる(自分で見つけさせる)」「信じる(フランクな関係をつくる、絶対味方であることを伝える)」が大切。

パラダイムを次のように変えるべきではないかという岡野先生の主張が、ワークショップや具体例を通じて実感することができました。

・学校は楽しい(学校観)
→安心して落ち着いて学べる場

・失敗を笑わない学級(学級観)
→失敗を笑いあえる(許し合える)学級

・主体的に取り組む学習(学習観)
→受動的(客体的)=積極的受動性(聴く・訊く)+能動的(主体的)な相互主体(相互依存)の学習

・自分の力でやりとげる子ども(子ども観)
→仲間の力を借りて背伸びする、ジャンプする子ども

・一人ひとりを大切にする指導(指導観)
→関係を変えることによる、一人ひとりが大切にされる指導

そのためには、

・まずは教師が聴くこと(受容)から始める。
・聴き合う関係を丁寧につくる
・わからなさを授業の真ん中に置く

ことの3つを毎日心がけてほしいというお話は、全く同感です。
また、「わからなさを伝える」「聞かれたらわかるまで伝える(逃げない)」という2つのルールは学び合いの基本です。最後にこのことを強調されました。

岡野先生のお話は、参加者に方向性を示していただけたと同時に、教室で具体的にどう実践していくかという課題を突きつけるものでもありました。私にとっても自分の考えを整理し見直すとてもよい機会となりました。岡野先生、ありがとうございました。

学習とはどういうことか伝えてほしい

昔からあることなのかもしれませんか、子どもたちが学習するとはどういうことかよくわかっていないと感じることが増えています。
たとえば問題を解くときに、どこから手をつけていいかわからない、何をやればいいのだろうかと悩み考える時間が必要です。この時間が学力をつけるためにとても大切な時間です。しかし、答を知ることが目的の人にとっては全くムダな時間です。解答を見るか聞けばいいからです。たとえば宿題の計算ドリルを提出することを考えれば、解答を見てそのまま写すのが一番簡単で早い方法です。当然のことながら計算力は全くつきません。これは極端な例ですが、似たようなことをしているのです。
試験で点を取るためには、解き方のパターンや試験に出そうな知識をだけを覚えておけばいい。悩むのは時間のムダだ。多くの子どもたちが、そのように考えているように見えます。授業でも、友だちの説明と自分の考えを比べながら聞くよりも、絶対正しことを言うはずの教師の答を待つ方がムダがない。いや、そもそも自分でいろいろ考えるより、最初から正しい答を覚えた方が早いと考えているふしがあります。しかも、その教師の説明を聞くより、板書された正解を写すことを優先します。
ネットの普及で、知識や情報も簡単に手に入ります。わからない問題もネット上で質問すれば誰かがピンポイントで答えてくれたりします。聞くことが悪いことではありませんが、自分で考えずに答を知っても、その問題を考える過程で身につくはずの力がつかないことが問題のです。

学習は答探しではありません。知識を身につけるだけでもありません。身につけた知識を使って、問題を解決する。問題解決の経験を、問題を解決するためにはどのようなアプローチをすればいいかといったメタな知識に変えていく。知識を知恵に変えていく過程です。その過程を省いては意味がないのです。

たとえ正解にいたらなくても時間をかけて悩み考えることに価値がある。その過程そのものが学習であること。悩み考えたからこそ、答がわかる、理解できたことに喜びを感じること。先生方には、問題を出して、その答を教える、説明することよりも、こういったことを伝える、経験させることを大切にしてほしいと思います。

授業力向上への道のりを考える

この夏休みの間に、研修や研究会で20回ほど模擬授業を見せていただきました。少経験者から達人級までいろいろでした。学校の通常の授業研究ではこれほどを幅広い層の授業に出会うことはありません。達人級は管理職となってしまい、子ども相手の授業をする機会がないことが多いからです。模擬授業とはいえ、達人級と少経験者の授業を比べる機会を得て授業力向上への道のりについて考えました。

少経験者と達人級の授業とではその質に大きな差があるのは当然です。しかし、少経験者でもこれはと思う授業には、達人級の授業と共通点があることに気づきます。何かというと、目指す授業の姿、子どもの姿がはっきりしていることです。実際にその姿が実現されているかどうかの精度には差がありますが、例外なく授業から目指すものが伝わるのです。

たとえば、子どもの言葉を活かしたいという先生は、当然子どもに発言させようとします。うまく引き出せなくても、引き出そうと努力します。子どもから出た言葉を何とか他の子どもにつなごうとします。達人級との差は、「対応力」「受け」の技術の差です。
子どもに興味・関心を持たせたいという先生は、課題や発問に工夫をします。その課題や発問が授業のねらいにうまくつながっていないこともよくありますが、子どもを惹きつけようとする姿勢が見られます。達人級との差は子どもが興味・関心を持つために必要な条件を知っているか、その具体例をどれだけ持っているかという「知識」「経験」の差です。

この差が大きいと言ってしまえばそれまでですが、達人級も初めは目指す姿を実現したいという思いからスタートしたはずです。そのことにあらためて気づけたのです。経験があればだれでも達人級になれるわけではありません。目指す姿があって、それに向かって経験を積むから進歩していくのです。目指す子どもの姿があるから、その姿が見られるかどうか真剣に子どもたちを見ます。毎日の授業が学びにつながるのです。子どもたちの姿から足りないことに気づくから、学ぼうとするのです。
目指す姿が明確でないまま経験を積んでも、自分の授業を評価する基準がないため何がよいのかどこを直せばいいのか気づくことができません。ただ経験しただけで、その経験が積み上がっていかないのです。
目指す姿が明確だからこそ、それを実現するための、課題や発問をつくる力といった「授業の構成力」や子どもへの対応力、受けや切り返しといった「授業技術」が身につくのです。

少経験者に対して、どんな授業を目指すかという問いをよく発します。これに対して、だらだらと抽象的な言葉が続き明確に答えられない方がいます。自分の目指す授業が明確になっていないことがわかります。一方、「子どもが自分で考える授業」といった短い言葉で答えてくれる方もいます。とても明確です。明確になっていれば、「それは具体的に子どものどんな姿でわかるのか」「この授業では具体的にはどの場面で、どうなっていればいいのか」と問いかければいいのです。このことを毎時間繰り返して自分に問いかければ、間違いなく授業力は向上するはずです。
また、「○○先生のような授業」という答もあります。先日お会いした若い先生は、セミナーで出会った講師の先生の模擬授業を見て、こんな授業がしたいと憧れて、以来その先生の著書を読み、講演を聞く機会があれば参加しているそうです。「憧れる」ことは、目指す姿が明確になることでもあります。自分の中に「基準となる教師像」があるということはとても素晴らしいことです。若い方には、名人や達人と呼ばれる方の(模擬)授業を見る機会をたくさん持ってほしいと思います。「憧れる」ことが授業力向上への近道だからです。

若い先生でも、ぜひ多くの先生方にも見てもらいたいという授業をされる方もあります。出会った時から、そのような授業をしていたわけではありません。会うたびに少しずつ成長していて、気づけばそのような素晴らしい授業になっていたのです。目指す姿が明確だからこそです。毎日ほんのわずかでも成長していれば、1年間で驚くほどの成長も可能なのが、教師の世界です。
毎年多くの先生方と出会います。どの先生も名人や達人と呼ばれるようになる可能性を秘めています。そこにたどり着くかどうかは、そこを目指すかどうかです。名人や達人を目指すというと大げさかもしれませんが、目指す授業や子どもの姿を明確にしてほしいのです。そのことが授業力向上への第一歩だからです。

11年続いた研修会で考える

先週末は授業力アップの研修会に、オブザーバーとして参加させていただきました。市の有志の先生方が主催するものです。10年続いた研修会をリニューアルして、「わかる・できる」授業づくり学習会として再出発しました。以前の授業技術を中心としたものから、より授業の根本から学び合っていくものへ進化させようという思いが伝わります。また、一回の研修で終わりではなく、秋にもフォローの研修会が用意されています。学んだことを実践すれば必ず疑問点が出てきます。それを解消するとともに継続的に学んでいくことを大切にしようということだと思います。今回の参加者は3年目から5年目が中心です。日々の授業での課題が見えてくる時期です。その課題を解決するきっかけになることも願っての、「わかる・できる」授業づくりだと理解しました。

プログラムの最初は講演です。授業中への子どもへの対応(キャッチ・アンド・レスポンス)についてのお話が中心でした。参加者の聞く姿勢が気になります。聞いてはいるのですが、どうも受け身です。体が前のめりになっている方が少ないのです。昨年の研修会でも感じたのですが、知ろうとする姿勢は感じるのですが、考えようという空気が薄いのです。参加者はその情報を理解し消化しようというよりは、講義をノートに写しておく学生のような態度です。そのことに気づいた講師は、この日使ったスライドはホームページにアップすることを伝えました。それでも、講師の先生が考えることを投げかけている場面でも、スライドをメモしている姿が見られました。投げかけられた課題が、切実なものとして感じられていないのかもしれません。考えること、外化することをうながすために、ペアやグループワークを講演の中に組み込まれます。活動をすることで明らかに表情に変化が見られますが、全体での共有場面ではやはり重たくなるのです。自分の考えを言えばいいのですが、どうも正解を言わなければと思っているように感じられます。彼らの授業が、日ごろ子どもに正解を求めているものである裏返しのように感じます。
子どもの言葉をどのように受け止め、どのように切り返すか。このことが「わかる・できる」授業づくりにどうつながるかを理解できていないことが、会場の雰囲気を重たくしている原因であるように感じました。
また、わからない子どもや間違えた子どもへの対応を考える場面でとても気になることがありました。どうやって子どもに正解させるか、考えを修正するかに意識が集中して、その子どもをポジティブに評価するような働きかけが出てこないのです。わからない、できない子どもに対して寄り添う視点が感じられないのです。講師の先生は「愛ある授業」ということを提唱されている方ですが、その部分が参加者と共有されていないようです。講演終了後、講師の先生とそのようなことをお話ししました。

続いては、授業技術についての2つの講座です。昨年までは、かなりの時間を割いていたものですが、今回は非常にコンパクトにまとめられていました。まずは、入り口を経験してもらい、実際に使ってみることで、そのよさと難しさを知ってもらうことにねらいを絞っているのでしょう。よさを知れば、もっとうまくなりたいと思いますし、難しさを知れば課題意識を持ちます。そこでフォロー研修を行うことで、よりよく学べるようにしようということでしょう。
そうなると、短い時間で何を伝えるかです。時間がないので、どうしてもすぐにできるようになるための How to に時間を割いてしまいます。しかし、だからこそ、この授業技術が「わかる・できる」授業にどうつながるかを実感してもらう必要があります。こういう講座は授業と同じです。このことを学習することにどんな意味があるかがわからなければ(必然性)、意欲は高まりません。指示に従って活動するだけでは学びは多くはないのです。
1つ目の講座は、この授業技術についてある程度知っていることが前提で組み立てられていました。たった一人ですが、この授業技術を聞いたことがない方も参加されていました。この方を起立させました。また、この授業技術を知っているが使ったことがない方も続いて起立させました。かなりの数になります。このことを確認した後、着席させました。ここで、この授業技術のポイントについて、復習という意味でワークシートの空欄を埋めさせる作業をさせました。参加者からすればアンフェアな進め方です。知識は知らなければ答えることはできません。知らない人にとっては気持ちがネガティブになる進め方です。もし参加者から出力させたいのなら、余計なことは聞かずにいきなり作業に入ればいいのです。ただし、「わからなければまわりの人に聞いてください」とするのです。まわりとかかわりながら、全員が正解となることを目指すのです。知らない人が、ただ答を聞くだけでなくその意味もたずねれば、より意味のある活動になります。ポジティブになることを意識した組み立てが大切です。
2つの講座に共通して感じたことは、2つの授業技術のよさを伝えることも技術を伝えることも中途半端に終わったことです。フォロー研修があるのであれば、よりこの授業技術のよさを伝えることを重視し、技術に関しては一番基本的なことだけに絞って、残りは自ら学んでもらうことを意識した方がよいように思いました。
とはいえ、参加者はグループでの活動もあったので、雰囲気が柔らかくなり表情もよくなってきました。午後からの研修が楽しみです。

午後は3つの講座から2つを選択するものです。「全員参加させるためのアイデア」という講座が目新しいものとして私の気を引きました。授業に全員参加させ、全員を評価するアイデアの紹介です。評価について参加者に問いかけます。評価と評定が混乱しているような回答が多いようです。評価は子どもたちの現状を正しく理解し次の指導を考えるためのものです。その視点をまず押さえたことはとてもよいと思いました。
参加者を子ども役として具体的な場面で評価方法を紹介していきます。とてもわかりやすいと思いました。
今回の例は「知識が身についているのか」の確認や「全員を参加させる」ための活動が中心でした。だれでも使いやすい、わかりやすいものに絞っています。すぐにやってみようと思えることは大切です。ここで気をつけてほしいことが、評価してできていないことがわかっても、その時にどういう指導をするのかが明確になっていないと困ってしまうということです。常に評価と指導は一緒に考えておく必要があることをもう少し伝えておきたいところでした。
参加者に、全員を評価する方法を具体的に考えてもらう場面がありました。その様子を見ていたのですが、なかなか意見が出てきません。フラッシュカードを使って、列指名するという意見があるグループで話されました。そこで、「その列以外の子どもはどうでしょうか」と投げかけてみました。すぐに答えが出てきません。日ごろ全員を参加させることをあまり意識していないことがわかります。もちろん、いい意見を出してくださる方もいますが、残念ながら少数でした。
この講座でも、具体例の紹介だけでなく、当たり前のことですが、「全員を評価する」「全員を参加させる」ことの意味を再確認する必要があったように思います。日ごろ意識されていないということは、まず強く意識させる動機づけが必要なのです。
他の講座でも、同様の傾向を感じました。この1日の研修が「わかる・できる」授業にどうつながるかを最初に明確にする必要があったように思います。

私が日ごろから実践を通じて学ばせていただいている中学校の先生も、オブザーバーとして参加していました。講座の実習場面を通じて、フラッシュカードの使い方に関してとてもよいことを学ばせていただきました。単に定着だけでなく、そこから考えることにつなげる方法です。デジタルではない紙のよさを改めて確認することをできました。ありがとうございました。

最後に午前に引き続いて、同じ講師の先生の講演がありました。さすがだと感じたのは、午前の参加者の様子から、講演内容を修正されたことです。教師のありよう、教師は何を目指すのかといった根本的な部分について、自身のライフヒストリーを通じて熱く語られました。午前中とはトーンもテンションも違います。実習を通じて雰囲気が変わってきたこともあってか、聞く姿勢が違います。体が前に傾いている方が一気に増えました。この先生からはめったに聞くことがない厳しい口調での言葉もありました。これは、参加者の様子からこのような言い方をした方が伝わるのだろうという判断があってのことでしょう。みなさんがその言葉をしっかり受け止めていることがよくわかります。子どもに学ぶことを求める教師だからこそ、自身も学ばなければならない。積極的に学ぶ姿勢があって初めて子どもの前に教師として立てることを強く訴えられました。めったに見られない姿だからこそ、その思いの強さを感じることができました。参加者にもきっと伝わったことを思います。

今回は10年続いた研修会の11年目として、新しい一歩を踏み出したものでした。授業技術中心から、もっと広く授業の根本的なあり方まで考えるものへと進化しようとしていることがよくわかります。今回は多くの生みの苦しみを味わったことと思います。だからこそ、次のステージへとステップアップできるのです。中心メンバーも10年経てばそれだけ歳を取ります。若いスタッフがどんどん増えて、この研修会がさらに10年、20年と続いてほしいと思います。私自身、毎回多くのことを学ぶ機会を得ています。スッタフや参加者の皆さんに感謝です。
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