子どもたちの考えをどう深めたいのか

前回の日記の続きです。

小学校高学年のグループの模擬授業は家族について考えるものでした。
授業者は最初に家族といえばだれを思い出すかを問いかけます。隣同士で少し話をさせて、どちらが発表するかをじゃんけんで決めさせますが、じゃんけんはあまり意味のあることではありません。無用にテンションを上げることにつながります。
この日の資料は、母親の入院に際して家事に追われて大変な自分を想像していた主人公が、家族の助け合いで想像していたことが起こらなかったことから、家族の在り方に気づき成長するという、子どもの作文をもとにしたものです。

授業者は「(家族の中で)家事をたくさんしてくれる人?」と問いかけ、「おかあさん」「おばあちゃん」という発言が出た後、資料を読み始めました。話の内容を意識しての発問です。個別の家庭の事情もありますのでこういった発問には注意が必要です。何人にも聞かずにすぐに先に進めたのはよかったと思います。
授業者は子ども役に指示して、事前に配った資料を手で持たせて読む姿勢をつくらせます。一方、授業者は自分の手元の資料を見て読んでいるため、子ども役の様子をあまり見ていませんでした。子ども役と授業者の視線がからまないことが気になります。道徳では、資料を持たせずに子どもの顔を上げさせ、授業者が子どもの反応を見ながら読むほうがよいでしょう。
授業者は途中で読むのを止めると、ポイントとなる「不安」という言葉に○をつけさせます。資料や教科書をもとに個で考える場合に、視点を意識させるのに有効な方法です。しかし、道徳で内容把握をさせたい時には、あまりお勧めしません。道徳では、内容把握はできるだけ早く全体で済ませて、自分のこととして考えさせるための活動に時間をかけたいからです。「不安」を板書して、全体に問いかけながら授業者が説明した方がよいと思います。
授業者は、「家事は何?」「思い浮かぶものは?」と問いかけます。子どもたちの手元に資料があるので、結末が気になる子どもは問いかけを無視して先を読んでしまいます。全員を参加させるには、資料を裏返しにさせるといった明快な指示が必要です。私が、道徳では資料を配らずに範読した方がよいと思う理由の一つです。

意図的指名で子ども役に答えさせながら板書をしていきます。続いて、出てきた家事を誰が主にやっているかを問いかけます。ていねいに進めていきますが、子どもたちが考える場面ではないのでもっとテンポよく進めたいところでした。
ここで、先ほど○をつけた「不安」に注目させて何が不安か問いかけます。資料を見て探すように言いますが、これは道徳です。国語や社会であれば本文や資料に即して客観的に考えることが大切になりますが、道徳では自分のこととして考えることが求められます。資料を読み込むことよりも、主観的に考えることの方が重要です。
子ども役からは「自分の時間が無くなる」という答が出てきます。授業者が「何で?」と問い返すと「家事」と返ってきます。この後、「上手にできるか?」といった家事についての不安が出てきます。授業者は「私って、最初不安だったのは家事だよね」と「最初」という言葉を足して話します。無意識かもしれませんが誘導しています。子ども役から家事のことしか出ないのは、資料から読み取らせようとしたからです。資料の途中で止めているので、そこまでからしか読み取りませんから、主人公の変化や気づきはわかりません。ここは、これ以上問いかけずに、資料の続きを読んだ方がよかったかもしれません。また、「いつも家事をやってくれる人が入院したら、君たちはどう?不安になる?」と自分のこととして考えさせると家事の不安以外も出てきたと思います。

授業者は、子ども役を揺さぶるために「家事を完璧にやってくれるロボットがいれば大丈夫?」と返しました。子ども役からは、それだけでは足りないということが出てきます。「何が?」と問い返すと子ども役は困ります。挙手で「支え」という発言が出てきました。授業者は「支えって何?何がいれば安心できるの」と指名して問いかけます。指名された子ども役は何を答えればよいのかわからなかったようです。言葉が出てきません。授業者は「今、安心して生活するために必要なものは?」と質問を変えます。そこで、「家族」とつぶやいてくれた子ども役がいます。授業者は思わずガッツポーズをして赤で家族と板書します。模擬授業で仲のよい先生たちが子ども役だったせいもあるとは思いますが、自分が期待した答が出てきたということがわかってしまいます。道徳が答探しの授業になってしまいました。

資料の後半は、主人公が、家族が助け合うことやそのことの自分にとっての意味に気づくという内容です。この後読んでいくのですが、子どもたちにここまで考えさせたのであればその必要なかったかもしれません。「どうして家族がいると安心なの?」と考えを深めていけばよかったでしょう。
資料の残りを読み終わった後、「家族はどんなことで支えてくれるの」と問いかけます。すぐに挙手をした子ども役を指名しますが、ここは子どもたちに考えさせたいところです。少し考える時間を取るべきでしょう。子ども役からは自分がしてもらうことがばかりが出てきます。自分ができることへと考えを深めていくことが必要だったと思います。
子どもたちに与えた資料は、「最期に伝えておきたい言葉がある。」というところで終わっています。それに続く言葉を考えさせます。子ども役からは「ありがとう」「一緒にいてくれてありがとう」といった感謝の言葉が続きます。ここで実際に作者が何を書いたかの正解は言いませんでした。よい対応だと思います。最後に、家族への気持ちを書かせて終わりました。

この授業では「家族のありがたさを再認識させて、感謝させる」ことで終わっていましたが、そこから「家族の一員として自分はどうあるべきなのかを考える」ことが大切だと思います。「自分も他の家族にとってかけがいのない一員である」「自分が他の家族に助けられていると同じように、自分も他の家族の助けになりたい」といった気持ちを引き出すことができればよかったと思います。

この続きは次回の日記で。

何を考えさせたいのかをはっきりさせる

夏休みに開かれた、市の少経験者研修でのことです。

この研修は、2、3年目の先生を対象に行われるものです。道徳の授業づくりがテーマです。午前中に3つのグループごとに代表が行う模擬授業の指導案を検討し、午後に互いに模擬授業を見合って検討するというものです。

小学校の低・中学年のグループの模擬授業は、雨上がりの公園のベンチに泥のついた靴のままで登って紙飛行機で遊んだ子どもが、後から来てそのベンチに座った小さな女の子の服が泥に汚れたのを見てはっとするという内容の資料をもとにしたものです。
授業者は資料を配って、範読をします。落ち着いて読み上げるのですが、特にその時の子どもの気持ちを強調したりはしません。道徳では、子どもが主人公や登場人物の気持ちと同化することが大切です。範読しながら、「紙飛行機は高いところからの方がよく飛ぶもんねえ」「よく飛んだら楽しいよね」といった言葉を足したり、話しかけたりするとよいでしょう。読み終ると登場人物の絵を黒板に貼って内容の確認を行います。「この男の子誰だったか?」と問いかけます。子ども役は資料を見て確認します。子ども役になりきっていたのかもしれませんが、漫然と聞いていてもなかなか記憶には残りません。資料が手元にあることで安心して聞き流しやすくなるので、資料を渡さず、教師が範読しながら都度内容を確認していくとよいと思います。

授業者は子ども役が答えるたびにあらかじめ用意した紙を貼っていきます。あらかじめ紙を用意してあるというのは、答が決まっている、教師が知っているということです。この場面は明らかに正解があるので違和感はないかもしれませんが、教師の求める正解探しを刷り込んでいくことにつながる可能性があります。他の子どもたちにも確認をしてから、手書きで板書するとよいでしょう。
子どもに対して紙飛行機を飛ばした経験などを聞いて、絵を見せながら楽しそうだねと話の内容を子どもたちに引き寄せようとしますが、先ほど述べたように範読と同時に行った方が話に入り込ませやすいと思います。
主人公の2人がはっとした絵を見せて、「なんではっとしたの?」と問いかけます。子ども役はまわりの子どもとつぶやきますが、授業者はその様子を見ています。隣同士で相談させるのか、つぶやきを拾って広げるのかはっきりさせたいところでした。

しばらくしてから、挙手に頼らず指名します。「汚しちゃったから、困った人がいるんだなあと気づいた」という答に対して、他の子どもに「○○さん、誰が困ったの?」と聞きます。他の子どもにつなぐのはよいのですが、指名する前に全体に対して問いかけて、全員の課題にしておく必要があります。自分が指名されないと他人事だと思ってしまうからです。
「女の子」という答にたいして、何で困ったのと問い返しますが、これは内容の把握です。「泥がついた」「お尻に泥がついたらどんな気持ちになる」とやりとりが続きますが、この授業で何を子どもに考えさせるのかがずれているように思います。主人公たちがした行為がよいか悪いかではなく、「泥がついた靴で乗ったらあとから来た人が困ることはわかるよね。どうして、やっちゃったのかな?」と、このようなことにならないためにどうすればよいかを考えさせる必要があります。そのためには、主人公たちは悪気がなかったにもかかわらず、他の人の迷惑になる行動をしてしまったことを早く押さえなければなりません。この授業では、「後の人のことを考える」「ベンチは座るところだから乗ってはいけない」といったところに論点が行ってしまいましたが、「悪気がないのに他の人に迷惑を掛けてしまうことがないようにするためには、どうすればよいのか?」を問いかけて、子どもたちなりの言葉から、自分の行為の結果を想像することが大切であることを共有するとよかったと思います。

子ども役の言葉を受容して、つなげようとしていましたが、何をつなげる、どこを深めるかがはっきりしていなかったのが残念でした。道徳では「何がいけないことか」いう善悪だけでなく、「そういったことをしてしまわないために何が必要なのか」を考えさせることが大切です。このことを意識していただくようにアドバイスしました、

この続きは次回の日記で。

必然性を実感させることが重要(長文)

1学期末に小学校で行われた現職教育で授業アドバイスを行ってきました。

初任者の授業で、2年生の算数の「かさ」調べでした。
子どもたちは授業始めの挨拶が終るとすぐにだれてしまいます。授業者はそのことに気にせず、2本のペットボトルに赤い水を入れたものを子どもたちに見せます。今子どもたちに集中してほしい場面だと伝えることが必要です。
1年生の時にペットボトルで水の量を測ったことを確認した後、「問題です」と言ってこの水の量のことを何と言うかを問いかけます。これでは何を答えてよいかよくわかりません。1/5ほどの挙手があり、指名された子どもは「2リットル」と答えます。授業者は「1年生で習った、この水の量だよ」と言い返して、次の子どもを指名します。次の子どもは「ミリメートル」と答えます。困った授業者は「ヒント、『か』がつきます」と子どもたちにヒントを言います。これでは単なるクイズです。算数の用語と概念を結びつけるという発想がありません。子どもたちにとって、算数は一問一答で答える教科になってしまいます。「長さ」の概念を復習してから、「じゃあ、水の量は何て言うんだっけ?」というようにして、概念をきちんと押さえていくことが大切です。
「かさ」と答えた子どもは、アクセントが「傘」になっていました。授業者はすぐに「それでは傘になってしまう」といって、アクセントを修正します。ここまで、子どもの発言を一度も受容せずに、修正しようとする発言を返しています。自分の求める正解を要求していることになっています。これでは、子どもたちは、教師の求める答探しをするようになっていきます。どんな答であれ、まずは受容することから始めほしいと思います。
その後、すぐに「かさ」を全員で言わせて次に進みました。子どもたちから「かさ」という用語がすぐに出てこなかったのですから、「かさ」の概念が確実に理解されているのかを確認する場面が必要だったと思います。

授業者が、青い水の入った大きなペットボトルを取り出すと、子どものテンションが上がります。「さあ、問題です」と言ってどちらの水が多いかをたずね、挙手で確認をします。ほぼ全員が青い方に手を挙げます。赤の水の小さいペットボトルを1本足してもう一度比べさせます。次は、大きいペットボトル、その次は小さいペットボトルと交互に足して、その都度どちらが多くなったかを確認します。子どもたちは楽しそうに手を挙げますが、意見は大きく分かれません。授業者は子どもたちの反応を「ほう」と言って、そのまま受け止めます。自分の想定内であれば受容はできています。子どもが楽しくやり取りに参加していますが、ここまでは何か根拠を持って考えているわけではありません。そのため、どうしてもテンションは上がってしまいます。
ここで授業者は、「大きいペットボトルに入っている水と小さいペットボトルに入っている水とどちらがどれだけ多いか比べていきます」と課題を提示しました。子どもたちは、落ち着いて聞いています。中には「よしっ」とガッツポーズをしてやる気を見せる子どももいます。テンションが上がってもすぐに下がるのは、子どもたちの授業規律がよいということです。しかし、この課題は子どもたちにとって必然性のあるものではありません。どちらがどれだけ多いのかを調べるのは何のためでしょうか。ペットボトルの容積を比べることで、総量を計算して求めたり、比較したりできることは、大人にとっては当たり前のことですが、子どもたちにとっては自明なことではありません。せっかく子どもたちが興味を持ったのですから、「どちらが多いかどうすればわかる?」と問いかけて考えさせることが必要でしょう。子どもたちから、それぞれのペットボトルに入る水の量を調べればよいということが出て、初めて子どもたちの課題となるのです。その点を考えると、青色のペットボトルと赤色のペットボトルのどちらの水が多いか、意見が分かれるような組み合わせをつくっておくことが大切です。意見が分かれることで必然性ができるからです。この点を工夫するとよかったでしょう。また、冒頭に「かさ」という用語を復習しておきながら、この言葉をその後、まとめまで使っていません。これでは「かさ」という用語を、子どもたちが概念を理解して使えるようになっていきません。形式的に言葉を覚えさせているだけなのです。

子どもたちは、指示に従ってノートを広げ、めあてを写し、写し終ると「書けました」と声を出します。授業者は「書き終わったら、鉛筆を筆箱にしまいます」と指示を出します。この時期であれば、こういった指示は不必要になっているはずです。毎回同じように指示を出していれば、子どもたちは指示したことしかやらなくなります。受け身な子どもを育てていることに気づいてほしいと思います。
子どもたちの書くスピードの差が大きいことが気になります。授業者が早く書くことを求めていないことがわかります。書き終ったと判断して授業者は、「鉛筆を置きましょう」と指示しますが、先ほどは「筆箱にしまう」と言っていました。こういうことも子どもが混乱する要因です。ルールがあるならば統一しておくことが大切です。一部の子どもが「置きました」と返しますが、全員ではありませんし、置いていない子どももいます。それでも授業者はそのことには触れずに、顔を上げるように指示します。今度も「上げました」の声が上がりますが、そう言っているのに顔を上げていない子どもがたくさんいます。めあてを全員で読ませますが、ノートを見ていている子ども、まだ書いている子どもが目につきます。いろいろなことが形式的になっていて徹底されず、全員が参加できていないことが気になりました。
めあてを読ませた後、授業者が説明を始めますが子どもたちは一気に集中が落ちます。頭が一斉に動き始めました。これも、指示されたことだけ行動するという姿勢の現れでしょう。

「どちらがどれだけ多いかを調べるためにどういうものを使えばいいか」と問いかけ、隣同士で話させます。これも、かなり誘導的な問いかけです。「どうすればいいのか?」から、「どんな道具を使えばいいのか?」に変わっています。思考させることなしに、授業者が勝手に次のステップに進んでいるのです。子どもたちは思いついた答を言うだけで、考えが深まることはありません。
最初の段階で、長さでの学習を思い出させ、長さを測ったことを確認しておくことが大切です。定規を使って長さを測ると何がよかったのかを整理しておいて、「かさ」の時はどうすればよいのかと、考えさせるのです。過去のやり方をもとに考えるといった課題解決の手段を教えるよい機会だったのです。

机間指導で子どもたちが話しているところに割り込んで、授業者が話を聞きます。当然子どもは授業者に向かってしゃべります。もし聞くのであれば、子ども同士の話をじゃましないように、聞く側の子どもの横でしゃがんで同じ頭の高さにするべきでしょう。机間指導では、まずは子ども同士が聞き合えているのかを確認して、かかわれていないようであれば聞き合うことを促すことが基本になります。
子どもたちが少しざわついてきました。雑談になってきているのでしょう。授業者は「拍手一発」と声をかけます。すると子どもたちは一斉に拍手をして黙ります。しかし、身体をごそごそしたり、頭を触ったりと落ち着かない子どもが目立ちます。このルーティーンは拍手をしていったん黙ればそれでよいのだと子どもたちは認識しているようです。

手を挙げた子どもを列で3人指名します。最初の子どもの答は「計量カップ」でした。次の2人は隣同士です。一人目は「青色のペットボトル」隣の子どもは「青色のペットボトルと『同じ大きさの』ペットボトル」と答えました。授業者は「ああ、同じのね」と復唱しましたが、はっきりと「同じ大きさの」を足したことを強調し、焦点化して価値付けしたいところでした。「同じ大きさ」という言葉が「基準」という算数・数学の見方・考え方につながるからです。また、発表者に対して、なぜそれがよいと思ったのか、どう使うのかは問い返しません。何を話し合ったのか、他の子どもたちに同じかどうかを問いかけることも必要でしょう。根拠や過程を大切にしてほしいと思います。

授業者は用意していた1リットルの計量カップを取り出し、赤い水の入ったペットボトルと並べて示し、「計量カップとこれでOK?」と問いかけます。子どもからは、「よさそう」「青い方が入るかわからない」といった声が上がってきます。授業者は子どもの反応を見て隣ともう一度考えるように指示しました。子どもたちは話をしていますが、内容はバラバラです。何を問われているのかよくわかっていないのです。互いにかかわれるようになってくると、子どもたちはどんな発問に対してもとりあえず活動します。しかし、何が問われているかがはっきりしていなければ、何も考えは深まりません。
この場面は、問いが、最初の「何を使えばよいか?」から計量カップとペットボトルで「どちらがどれだけ多いのかが測れるかどうか?」に変わったのでしょうか。それとも、ペットボトルの水の量を計量カップでどうやって測るかを問いかけているのでしょうか。何も言葉を足さなかったのですから、最初の問いのままなのでしょうか。よくわかりません。何が課題なのかをきちんと焦点化して問いかける必要があります。また、このままでは、先ほど出てきた「同じ大きさのペットボトル」という発言も消えていってしまいます。「同じ大きさ」を使って焦点化するとよかったでしょう。「同じ大きさの青いペットボトルって言ったけど、どういうこと?」「赤いペットボトルじゃダメ?」「他のものでは?」と返しながら、基準となるものがあれば比べられることを押さえたいところでした。実際に、ペットボトルでやって見せて、その差がペットボトルちょうど1本分にならないと正確に差をつかめないことから、計量カップに目盛りがあることのよさに気づかせるといった展開ができると面白いでしょう。

子どもたちの活動を止めて、「どうすればいい?」と聞くと、素早く一人の子どもが手を挙げました。授業者はすかさず指名しますが、子どもたちはよくしゃべっていたのですから、挙手が増えるまでもう少し待ってもよいでしょう。または、「どんなことを話した?」と挙手に頼らず指名してもよかったと思います。指名された子どもは「コップ何杯かでやる」と答えます。授業者が「コップ?」と軽く復唱すると、子どもは「うん」と答え、「同じ大きさのやつ」と付け加えました。授業者は子どもの発言を受容して、「同じだったらいいのかな?」と全体に問いかけます。子どもたちの何人かはうなずきます。子どもたちは、差がどれだけかを測ることを課題として意識できていないので、何を授業者が求めているのかよくわかっていないようです。
授業者は赤い水の入っているペットボトルをもう1本出し、2本のペットボトルを持って「これとこれでいい?同じだよと」と再び問いかけます。子どもたちはそういうことじゃないと声を上げます。一人の子どもが「青い水の入ったペットボトルを赤い水の入っているペットボトルと同じ大きさのペットボトルに何杯か入れる」と答えますが、授業者はすぐに「もう少し詳しく調べて。どれだけ、どれだけだよ」「そのためには何かが必要だよ」と返します。子どもの発言はとてもよいものだったのに、完全に無視してしまいました。目盛りがあること以上に本質的な考えだっただけにもったいことをしました。授業者は一足飛びに自分の考える目盛りのあるものを使うことにもっていこうとしていますが、子どもの思考とはギャップがあります。子どもにとって目盛りの必然性はないのです。子どもの思考過程を意識することが大切です。
次に指名した子どもは「同じ大きさのカップに入れて・・・」と答えます。「同じカップ?でも、どれだけ?」と問い返しますが「できるだけ大きいカップ・・・」という答です。授業者と子どもはずれたままです。困った授業者は「さあヒント出そうか?」と言って「どれだけ。教科書にもありましたね。どれだけを調べるためには何かありましたね」と続けます。計量カップを見せて目盛りを指さし、子どもから「目盛り」という言葉を引き出します。子どもから「目盛り」と出てくると、待ってましたとばかり「目盛りがある物を使えばいい」と説明を始めました。子どもは目盛りの必要性がないまま、授業者の誘導に従って、計量カップについている線が「目盛り」を答えただけでした。
授業者は準備していた計量カップを2つ出して、「これでどう?」と問いかけます。子どもからはそれでは足りないという言葉が出てきます。授業者はそう言うと思ったと計量カップを5つ並べて見せました。
計量カップにペットボトルの水を入れて見せます。子どもたちは興奮気味です。それぞれの色ごとにペットボトルに水を入れて比べますが、半端は出ません。青色の水が4リットル、赤色の水が3リットルです。計量カップ4杯と3杯で目盛りがある必然性がありませんでした。これでは、小さいペットボトルで比較しても何も困らなかったはずです。

授業者は計量カップと言っていながら、「これを升と言います」と説明します。子どもたちが疑問を持たないのが不思議です。そして「量を測るのに単位が必要です」と言ってから、長さの単位の復習をします。唐突に単位が出てきます。ここまでの活動からは単位の必然性がありません。
子どもを指名すると「何センチとか何ミリ」と答え、その子どもは他の子どもに同意を求めます。賛成ばかりで反対の声は上がりません。一般にはこれでも通じますが、算数の授業ですからきちんと「センチメートル」「ミリメートル」と訂正する必要があります。基本単位のメートルを押さえてほしいと思います。
続いて、かさの単位を知っている子どもを指名して答えさせます。単なる知識を問うことに意味はありません。これは授業者が教えればよいのです。
リットルを使う練習で計量カップを指で指しながら一つ二つと順番に数えるように「1リットル」「2リットル」と言わせます。序数を使って基数を数えるというのは、できれば避けたいところです。ここでは、「計量カップが2つだから2リットル」とした方がよいと思います。

リットルの記号を教えて、簡単に書く練習をしたあと、色々な容器に入った水のかさを測らせます。水がこぼれてもいいように用意したトレーの中で測るように注意をしますが、であれば子どもたちに「何を注意する?」問いかけて言わせたいところです。
子どもたちに計測の結果を確認した後、1リットルの計量カップに入った水を持たせます。子どもたちに重かったかどうかを問いかけますが、かさを重さに代えてしまってはおかしくなります。これが1リットルのかさだと覚えておくように言いますが、容積が質量(重量)に変わってしまいます。容器そのもので量を理解させることが必要です。
量の実感を持たせるためにいろいろな国の容器をスライドで見せます。大きさの違うものを見せますが、スライドは実寸ではないので、4リットルと言われてそうかと思うだけです。量の実感を持たせるためには、計量カップ以外の1リットルの物を用意して、そこに水1リットルを入れて同じかさだと理解させるような活動が必要でしょう。
最期に、「水などのかさは1リットルがいくつ分あるかで表わします」とまとめのスライドを見せて終わります。まとめは、できれば子どもたちにさせたいところですが、このまとめではその意味もあまりなさそうです。
比べるためには、基準となるもの(単位)が必要なことを子どもたちまとめさせて、その単位がかさ(容積)ではリットルであることを押さえるとよいでしょう。

結局、単位や目盛りの必然性を子どもたちが実感することのない授業になっていました。子どもたちに量を実感されるところも弱かったように思います。算数・数学的な見方・考え方は何かを意識して、それを子どもたちにとって必然性のあるものにする授業を目指してほしいと思います。
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