青少年健全育成会議で考える

先週末に、学校評議員をしている中学校区の青少年健全育成会議に参加させていただきました。

いくつかのグループに分かれ、それぞれの地区での子どもたちの様子の情報交換をする時間がありました。私はこの市の住人ではないので、もっぱら皆さんのお話を聞く側でした。その中で印象的だったのが、親が子どもに無関心な家庭についての話でした。
子どもたちがお菓子を買ってその場で食べ散らかしている。その子たちの話を聞くと、親から食費としていくばくかの小遣いをもらって、そのお金でお菓子を買って食べているというのです。子どもの食事に親が関与しないのです。また、問題行動を起こした子どもの多くは、家族で一緒に食事をしたことがないということも話題になりました。そういう家庭のあることはもちろん知っていますが、具体的に聞かされると、やはり重いものがあります。そのような家庭で育った子どもが必ずこうなるなどと軽々しく口にすることはできません。しかし、苦しい、悲しい思いをすることは他の子どもと比べて多くなることでしょう。子どもは親を選べません。そのような子どもたちにまわりにいる私たちは何ができるのでしょうか。関心を持つことや声をかけることはできますが、親の代わりとなることはできません。地域の大人としてできることは何なのか、難しい問いを投げかけられました。私が発言できるようなことは何もなかったのですが、このことがしばらく頭から離れませんでした。

そのような子どもたちでも、学校には通っています。学校という場でどれだけ居場所をつくることができるのか、自分が掛け替えのない大切なものだと感じる機会を与えることができるのかが問われているように思いました。「あなたがいてくれてよかった」というメッセージを子どもたち一人ひとりに伝えることも、学校の大切な役割なのだと改めて思います。
多くの大人が愛情を持って地域の子どもたちを見守っていますが、その接点も限られています。そのような接点をつくることが地域と学校の連携なのかもしれません。地域の大人たちが子どもの活躍できる場を用意する。学校がその場へ多くの子どもたちを誘う。このようなことが求められているように思います。
私たちの力で個々の家庭を変えることなどはできることではありません。だからこそ、些細なことでいいので、子どもたちに寄り添い支えるために何ができるかを考えなければならないと強く思いました。

私立中高一貫校の校長とお話

私立の中高一貫校の校長と授業改善に関するお話をしてきました。

積極的に学校改革を進めている方です。まずは挨拶をきちんとするといった日常生活の基本から手をつけられたそうです。以前に訪問した時と比べて、すれ違う子どもたちがきちんと挨拶をしてくれます。表情も心なしか穏やかになったように感じられます。校長の特別授業などでも、子どもたちの聞く姿勢がよくなっているそうです。そこで、来年度は改革の力点を授業改善に移したいと考えられ、今回私がお話をさせていただくことになりました。

子どもたちが受け身でなく、自ら学ぶような授業に変えていきたい。子どもたちが興味を持って活動するようにしたい。ICTも積極的に活用したい。そういう校長のビジョン(思い)に共感する中堅・若手もいるようです。お話をうかがって、ポイントは大きく2つあるように思いました。
1つは、この校長のビジョンをどのように学校全体で共有するか。もう1つは、そのような授業を実現するための具体的な方策をどのようにして身につけるかです。
1つ目に関しては、言葉だけでは一人ひとりのイメージするものがずれる可能性があります。できるだけ具体的な授業、子どもの姿で共有しなければなりません。そのためには、まず校内で少しでも目指す姿を実現することが必要になります。このことは2つ目とも関連してきます。幸いにも校長のビジョンに共感する教員がいますので、まず彼らを中心に授業改善を進めます。そして、その授業をもとに学校全体でビジョンを共有し、具体的な方法も合わせて学び合うようにするのです。

公立の学校と比べて教員の異動が少ない私立です。長期的な視点に立って計画を立てることができます。上手くいくようになれば、それを維持することはさほど難しくありません。慣性力が強いのです。逆に、このことは変化させるためには大きな力が必要だということです。異動が少ないということは、変わろうとしない方を簡単に排除できないということでもあります。改革を成功させるためには、目指すものを全員にしっかりと浸透させるために大きなエネルギーが必要なのです。
この学校と今後どのような形でかかわるかは未知数ですが、私立だからこその授業改善の方法を提案できればと思っています。

道徳の模擬授業から多くを学ぶ

先日、愛される学校づくり研究会に参加してきました。前半はICTを活用した授業検討法の研究です。今回は会員による道徳の模擬授業をもとに授業検討を行いました。

「二通の手紙」という読み物教材です。随所に授業者の工夫がありました。道徳では資料を読み取ったあとが勝負です。子どもたちに資料を読ませて内容を理解させるよりも、教師が範読して進める方が効率的です。とはいえ、そこそこの長さの教材であればそれでも時間がかかります。授業者は、登場人物の関係をわかりやすく板書し、だれのことか板書を指さしながら読みます。そして、必要ないところは思い切って端折り、ポイントとなるところは詳しく説明します。軽重をつけて短い時間で内容を理解させました。話の骨子は次のようなものです。

動物園でずっと働いていて、退職後も再雇用された元さんは、入園時間を過ぎてやってきた姉弟を規則を破って入園させます。子どもたちが閉園時間になっても見つからず、騒動になります。無事に見つかるのですが、その後元さんのもとに二通の手紙が届きます。一通は子どもたちの母親からの感謝の手紙、もう一通は解雇通知です。その手紙を読んで、晴れ晴れとした表情で元さんは退職しました。

最初の課題は、元さんの気持ちを想像して書かせるものです。子ども役の間を回り、声かけをしながら○をつけます。「おお、疑問があるんだ」「価値観ねぇ」と他の子ども役に聞こえるように声に出します。ここでは、できるだけ多様な意見を出させたいところです。いろいろな視点をわざと聞かせることで、子どもたちの考えを広げます。書き終った後、全員に起立させます。まず全員を動かし参加させるのです。友だちの意見を聞いて、同じ意見、近い考えの人は座ります。このやり方には引っかかるものがあります。似たような意見を一つのものとしてしまうと、一人ひとりの考えの微妙な違いが消されてしまうからです。中には似た意見であっても、ここが違うと発表してくれる子ども役もいます。この進め方をどう評価すべきか悩みながら見ていました。全員が座った後、発表しなかった子どもに、みんなの意見を聞いて感じたことを問いかけます。同じ意見で発言できなかった子どもにもちゃんと参加する機会を設けています。この場面は、いろいろな意見を聞きながら考えを深めたいというよりも、代表的な意見を素早く出させることで子どもたちの考えを早く焦点化したかったということです。ここでは時間をかけずに、次の課題に早く向かわせたかったのです。つまり、この課題はまだ主たる課題ではなかったということです。

授業者は「二通の手紙」の二の横線を一本消して「一通の手紙」としました。「なるほど、こういうことか」と感心しました。「もし、母親からの感謝の手紙がなくて、解雇通知だけでも元さんは晴れ晴れとした顔になっただろうか」と問いかけます。○か×か書かせます。予想通り子ども役の意見は大きく分かれました。見事に揺さぶられたのです。授業者は、母親からの感謝の手紙に寄り添った意見が子どもたちから多く出るので、このような発問を考えたそうです。こうすることで一気に子どもたちは深く考えるのです。

資料は、この事件の何年かのち、元さんの部下だった佐々木さんが、自分の部下が入園時間を少し過ぎてやってきた高校生を入れてあげようとしたのを止めたところから始まっています。授業者は、佐々木さんが高校生を入園させなかった理由を、最後に想像させました。この問いであれば、子どもたちは「佐々木さん」とは言っても自分に置き換えて考えるでしょう。道徳のねらいである、自分に引き寄せて考えさせる問いになっていると思います。授業者は「心に汗をかく」という言葉で、道徳の授業を語っていました。心に汗を書かせるためには、心が動かなければなりません。「一通の手紙」だったらという問いかけが、まさに「心に汗をかかせる」発問でした。

この資料は、規則を守ることの大切さを強調したいがために、佐々木さんが規則を守らせる場面を無理に入れているようにも感じました。子どもたちに、自分により引き付けて考えさせたいのなら、「あなたが佐々木さんなら部下を止めるか」という発問もあったように思います。また、「一通の手紙」を母親からの感謝の手紙だけにするというのも、あるかもしれません。
いずれにしても、読み物資料を使った道徳の授業のあり方を考えさせてくれるとても面白い授業でした。

授業検討会は、授業検討法を考えるためのものだったので、時間の関係もあり深く話し合うことができませんでした。もし、純粋に授業検討を行えば、とても多くのことを学べたと思います。ちょっと残念でした。皆さんが授業を見て興味を持った場面は、○つけでの声かけの仕方、全員を起立させた場面、「一通の手紙」としたところなど、どれもポイントとなるところばかりでした。ICTを活用した授業検討法の可能性を確信することができました。この検討法に興味のある方は、ぜひ「愛される学校づくりフォーラム2014 in京都」にご参加ください。

後半は、フォーラムの前半「劇で語る! 校務の情報化 パート2」のシナリオの検討でした。関西地区の現状を聞かせてもらい、より参加される皆さんにとって有意義な内容にしようとブラッシュアップを続けています。こちらも楽しみにしていただける内容だと思います。

互いにたくさんのことを学び合い、学んだことを多くの方に対して発信している研究会です。この日もたくさんの収穫のあった研究会でした。

「教師力アップセミナー」の来年度講師選定

先日、教師力アップセミナーの運営委員会で来年での講師の選定を行いました。

話題になるのはどのような内容が今の学校現場で求められているかです。例えば算数に関連して、素晴らしい教材や課題を活かした授業を紹介することで、参加された方に勉強になったと思ってもらえても、その方々の毎日の授業がよくなるのか。それよりも、教科書をどのように活用して授業を作っていくのか、そういう基本を押さえることが大切ではないのか。そのようなことが話されました。ある程度の力がある教師であれば、素晴らし授業から学んだことを自分の授業に活かすことができます。しかし、教科書の何がポイントかもよくわからない少経験者がそのような授業に接してもそのよさを自分の授業に取り入れることはまずできません。真似をしても失敗するだけです。いやそれどころか、自分には無理だと最初からあきらめてしまうかもしれません。野中信行氏の言うところの「ごちそう授業」と「味噌汁、ご飯の授業」です。今回算数では、「教科書をベースに毎日の授業をどのようにしてつくっていけばいいのか」という視点でお話しいただける方をお願いしようということになりました。

また、学級経営の筋道や子どもたちとの人間関係づくり、授業での子どもたちとの接し方など、教師としての基本的な部分を底上げするような講演をたくさん企画しました。もちろんごちそう授業も用意しています。これから手分けしての講演依頼が続きます。お願いする先生方からよい返事がいただけることを願っています。
来年度の講師陣については2月にはご報告できると思います。ご期待ください。

コミュニケーションにおける「聞く力」をテーマに介護関係者向け研修を行う

先週末に、介護関係者向けのコミュニケーションに関する研修をおこなってきました。今回は、「聞く力」がテーマです。いつものように、実際の場面に即して一緒に考えていただくことで、互いに学びを深めていこうというものです。

前回の復習もかねて、笑顔で接することと合わせてうなずくことを大切にしてほしいことを伝えました。うなずくことは相手のことを受容しているというメッセージです。「あなたの言うことを聞いています」「あなたのことを見ています」「あなたのことを受けて止めています」「それでいいんですよ」といったことを伝えてくれます。相手に物を頼まれた時、相手が行動に不安を覚えてこちらを見た時、相手が名前を間違えて呼んだ時、このような場面でどのように対応すればよいか考えていただきました。

コミュニケーションは互いに伝え合うことが基本です。相手に自分のことを理解させようという姿勢では互いにぶつかり合ってしまいます。互いに相手を理解しようとすることからスタートします。聞くことから始まるのです。聞くことは、相手を受容し、理解しようとする行為です。相手が受容してくれるからこそ、安心してこちらも話すことができるのです。
ここで注意をしなければいけないのが、相手の「言ったこと」を理解するだけでは不十分だということです。相手の「伝えたいこと」「望むこと」を正しく理解することが大切なのです。そのためには、単に話を聞くだけではなく、相手の表情や視線、姿勢など全身からの情報を、五感を駆使して読み取る姿勢が求められます。

コミュニケーションで相手の伝えたいことと受け取ったことがずれてしまうことがよくあります。その原因の一つが、自分にとっての常識が相手にとっても常識とは限らないことです。よく例に挙げられますが、目玉焼きは塩をかけるのか醤油なのか、それともソースなのか。半熟か中まで火を通すのか。片面を焼くだけかひっくり返して焼くのか、それとも水を入れてふたをして蒸すのか。人によって常識は異なります。しかし、目玉焼きを作って頼む時には、ここまで細かい指示はしません。自分にとって当たり前のことは情報として与えないのです。確認しないままにことを進めると大きな齟齬が出てきてしまいます。すれ違った後で議論しても水掛け論です。想像力を働かせて、確認すべきことをきちんと押さえることが必要です。
確認をする時は、いきなり質問しないように注意する必要があります。質問することは「疑問」を持っているということでもあります。相手に自分が「否定」されたと感じさせることにつながります。まず相手の言ったことをそのまま「復唱」することで「ちゃんと聞いていますよ」と伝えることが大切です。この時、相手の言葉を勝手に自分の言葉で置き換えないように注意しましょう。特に言い間違えた時にはそれを勝手に修正しないように気をつけます。言葉を置き換えられると、それは自分が言った言葉でなくなります。特に言い間違えた時には、間違いを指摘されたことになるので、ネガティブな気持ちになります。自分が受容されていないと感じてしまうのです。では、どうすればいいのでしょう。そういう時でも受容の言葉「なるほど」を頭につけると、とても復唱しやすくなります。「なるほど」は肯定も否定もしません。相手の言っていることを受け止めていることを伝える言葉だからです。「なるほど・・・ですね」と復唱すると、自分の言葉を客観的に聞くことができるの、自分で言葉を足したり、修正したりできるのです。復唱する時に、「なるほど」という言葉をつける習慣をつけるとよいでしょう。

相手の言った言葉の確認や詳しく聞き直すために問い返すことがあります。この時、「なぜ(Why)」はできるだけ使わない方がよいと言われます。それは、「なぜ」で聞かれるときちんとした理由を求められているように感じるからです。何度も「なぜ」と聞かれると、相手から詰問されているように感じます。そのことを避けるためには、「どういうことですか」と聞き返すとよいでしょう。この聞き方は、何を言っても答えになるので言いやすいのです。すぐに求める回答を得ることができないかもしれませんが、何度もやりとりすればいいのです。言葉のキャッチボールをすることで、コミュニケーションがとれるようになっていくのです。また、「・・・ですか?」「○○と△△のどちらですか?」と相手に寄り添って想像して問いかけることも有効です。気持ちをわかろうとしてくれていると感じてもらうことが大切です。

今回は相手の伝えたいことを正しく理解するためのスキルについて具体的な例をもとに、皆さんと一緒に考えさせていただきました。いつものように、皆さんから出てくる疑問や答にハッとさせられることがありました。よい勉強をさせていただいていることに感謝です。

考えるべき課題が明確になっていく(長文)

昨日は中学校で授業アドバイスをしてきました。定期試験も終わり、保護者面談が終了したところです。この時期の子どもたちの様子がどのようなものか楽しみです。

学校全体としてはとても落ち着いていますが、2年生と1年生の子どもたちの様子がとても興味深いものでした。どちらも、子どもたちが授業によって見せる姿が違うのですが、その違いに特徴があります。2年生は、落ち着いて授業を受けるのですが、教師の説明を聞いてもよくわからなかったりすると話を聞かずに、まわりの子と相談する傾向があります。ある意味正しい判断です。授業に前向きであることと子ども同士の人間関係よいことの現れでもあります。とはいえ、決していい状況とは言えません。教師が一方的に説明することを止めて、相談している内容を全体で共有させて、子どもたちで課題を解決するような動きを取り入れたいところです。
一方の1年生は、教師が子どもたちにこうあってほしいと願う姿が明確な授業では、素直にそのような姿を見せます。顔を上げて教師を見て話しを聞いてほしいと思えば、そのようになります。ところが、教師が子どもに望むものを明確にしていないと、子どもたちは適当に自分で判断をします。話を聞くのに、下を向いていたり、板書を写しながらであったりするのです。授業規律を含めて、こうあってほしいという姿を学年全体で共有することが大切になります。また、わかりたいという思いはあるのですが、授業の途中で力が尽きる子どもが目立ちます。まわりの助けを借りながらでも、できた、やったという達成感を味あわせるようにすることが求められます。

若手を中心に授業アドバイスを行いました。
初任者の3年生の数学は、相似の活用の場面でした。以前と比べて、子どもたちとの対話を意識しているのですが、1人に発表させてすぐに説明をしてしまいます。また、どうしても1対1の関係になり、他の子どもにつなぐことはまだできません。また、数学の授業としては、この学習で何が大切か、どこがポイントかがはっきりしないものでした。授業者自身がこのことをきちんと整理できていないことがその理由です。教材研究をしっかりしてほしいと思います。子どもたちの意識が答を求めることに向かっていることも気になります。子どもたちの説明を聞いても根拠を明確にして説明しよういう気持ちが感じられません。授業者も、子どもの中途半端な説明に対して物わかりのよい教師となって、言葉を勝手に足します。根拠を明確にするための問いかけもしません。そのため、子どもたちは友だちの説明や答案に対して興味を示しません。2人の異なる解答を板書させている場面でも、どのようなことが書かれているのか見ようとはしません。よそ事をしているのです。授業者の解説を聞いて、補足された板書を写せば事足りるからです。指名されなければ直接授業に参加する必然性がないということです。
子どもたちを参加させる授業の進め方を工夫すること、教材研究をしっかりすることが求められます。

初任者の2年生の国語の授業は、子どもとの人間関係が気になりました。学級によっては、一部の子どもが指示に従えないようです。どのように注意をすればいいのか困っているように感じました。指示を徹底させようと、「3、2、1」とカウントダウンをするのですが、なかなか素早く動いてはくれません。指示を徹底する方法としては、カウントダウンはあまり勧めません。カウントダウンでは、できたかできないかのチェックになってしまいます。一度できれば、次からはできなかったというネガティブな評価か、現状維持です。ポジティブを意識するのならカウントアップの方が有効です。「何秒でできた」という評価を通じて、「次は○秒でできるといいね」「何秒進歩した」というように進歩で評価できます。子どもたちをポジティブに見ることができるのです。
「私と同じスピードで板書してね」と素早く書くことを促しますが、授業者が板書を始めても、子どもはまだペンも持っていません。授業者は子どもたちを見ないで板書しています。これでは、効果がありません。まず子どもたちが筆記の準備をしたことを確認してからスタートする必要があります。素早く書いている子どもを評価しなければ、指示しただけでは動きません。指示に対する評価をもっと意識する必要があります。
授業規律の徹底に関連して、Iメッセージを使った子どもへの注意の仕方を紹介しました。あなたの行動が私(I)にとって困ったものであることを伝えるという方法です。上手くいくという保証はありませんが、子どもたちとの関係がある程度できていれば、有効だと思います。
子どもたちとうまくいっているように見える学級にも落とし穴があります。活発に発言してくれる子どもの影で、参加しようとしない子どもが目立つようになっているのです。授業を妨害するような行動はとりませんが、授業者と積極的な子どもとのやり取りを横目に我関せずの状態になっているのです。「今の意見に対してどう思う?納得した?」というように、挙手しない子どもに参加を促す、わからなくても聞いていれば参加できる場面をつくる、そういうことが必要なります。全員を参加させたいという教師の姿勢を明確に伝えることが大切です。
また、国語の授業としては、課題の必然性を意識してほしいと思いました。説明文の単元でしたが、説明文であれば、筆者の主張・考えを正しく理解することが授業のゴールになります。筆者は自分の考えを正しく理解してもらうために、根拠や具体例を述べます。この段落で、何をねらってどのようなことを述べているのかという視点を与えれば、課題は自然と明確になってくるはずです。こういう視点を明確にして授業を組み立ててほしいのです。
笑顔は意識しているのですが、対応に困った時などはそのことが表情に出てしまいます。少し余裕を失くしているのかもしれません。冬休みにリフレッシュして、余裕を取り戻してほしいと思います。

初任者の体育の授業は1年生のマット運動でした。気になったのが、子どもが自分の順番以外の時に遊んでいたり、集中していなかったりすることです。開脚前転に挑戦しているのですが、ただ連続して実技をしているだけです。いったん活動を止めてその場で説明を始めます。子どもの視線が授業者に向く前に話しはじめます。説明が終わりさあ活動かと思ったところ、また説明が始まりました。活動することに意識がいった子どもは、集中力が切れます。すぐに説明が終わるかと思ったのですが、しばらく説明が続きます。一部の子どもの集中力は戻らないままでした。「勢いをつける」「手をしっかりとつく」といったポイントをいくつか説明したのですが、その確認はされませんでした。子どもたちの実技に対して、ポイントがきちんとできているかどうかはどこでも評価されません。明らかに上達した思える子どもが少ないことと関係があるように思います。互いに見あって、どこよいか、どこが上手くいっていないか聞き合うことが大切です。ただ活動すればよいという発想では上達しません。
集合の時の子どもたちの姿勢がバラバラなのも気になります。集合時にはどのような姿であってほしいかが明確でないということです。求める姿をちゃんと伝えないと、そのようにはなりません。そもそも、子どもたちに求めていないことが問題なのです。
体育の教師として子どもたちにどのような姿を求めるのかをもう一度自分に問いかけてほしいと思います。

講師の体育の授業は、2年生のハンドボールでした。4対3の練習でしたが、遠目に見ても子どもたちの視野が広く、コート全体を上手に使っているのがわかります。中学2年生としてはかなりレベルが高いと思いました。ハンドボール部が何人もいるのかと思ったのですが、1人しかいないということです。ちょっと驚きました。声をかけ合うことやアイコンタクトがしっかりできていて、パスがよく通ります。子ども同士の関係がよいことの現れでしょうか。授業者に確認したところ、指示は、「まずゴールをねらい、だめならパスをする」というものでした。その前の時間は3対2で、ポストを使ったプレーを練習したそうです。一つひとつの練習に対して、ポイントを絞ってきちんと身につけさせていると感じました。4つのゴールに分かれて練習をしていましたが、授業者はどこのプレーもきちんと見えるポジションで、全体をよく見ていました。話をして、子どもたちの様子をよく把握していると感じました。集団競技以外でも、子ども同士のかかわり合いを大切にするようにお願いしました。

2年目の先生の社会科の授業は、課題の工夫がみられるものでした。この学校の社会科はどの先生も課題や進め方に工夫をしています。そのよい影響が若手にも見られます。この日の授業の導入は、雪国に住みたいか、住みたくないかという質問でした。無責任に答えられるので、どうしてもテンションが上がり気味です。たとえ理由を聞いても、それは個人的なものなので、議論としてはかみ合いません。このような導入をするのであれば、短時間で終わらせる必要があります。意味なくテンションは上げない方がよいのです。このことを意識することで、様子はずいぶんと変わると思います。より根拠を意識したものにしたいのなら、「友人に雪国住むのを勧めるか、それともやめるように説得するか」といったものにすればよいでしょう。客観的な理由が求められるからです。「深く考えさせたい」「掘り下げたい」のであれば、雪国の市長になって人口増加のための施策を考えるというのも一つです。子どもが「考える」ことを意識して授業を組み立ててほしいと思います。

中堅の先生の国語の授業は、1年生の古文でした。明るく、子どもたちをよく受容できる先生です。ちょうど文法の場面でしたが、中学校では子どもたちにほとんど知識がありません。係助詞の説明をするのですが、活用形のことすらよくわかりません。どうしても一方的な説明になってしまいます。知識を教えたい気持ちはわかるのですが、今の時点で最小限伝えるべきことは何かを考えて、絞り込むことも大切でしょう。
説明中に1人の子どもが手を挙げずに質問しました。私にはその内容がよくわかりませんでしたが、授業者はそれに答えました。おそらく、他の子どもも私と同じ状態だったでしょう。もし、全体に説明すべき内容であれば、その質問内容を全体で共有する必要があります。個人的に答えればすむのであれば、後で個別に対応すればいいのです(「公的」か「私的」か判断する参照)。ちょっと気になる場面でした。
古文では音読が大切です。授業者はそのことしっかりと意識していました。授業者は口をしっかりあけて読むことを第一のポイントとしていたようです。範読もそのことを意識しています。しかし、教科書に目がいったまま、子どもたちの口元をしっかりとは見ていませんでした。ここは、目指す姿(口をしっかりあけている)を見つけて、ほめることをしたい場面です。評価することで子どもたちも意識をするようになります。目指す姿がしっかりとあっても評価と一体とならなければ実現はできないのです。

中堅の先生の理科の授業は、光の屈折の実験でした。授業者は子どもたちをしっかり受け止めながら授業を進めていました。半円柱のガラスを使った実験の後、直方体ガラスを使って光の進み方を実験します。ここでは時間がないため記録を取らずに光の進み方の観察だけするよう指示しましたが、その前に屈折や全反射についての実験をしているので、それを活かしたいところでした。前の実験でわかったことを使って、どのように光が進むか予想をさせるのです。その後に実験をすれば、予想が当たった、外れたことについてもう一度じっくり考えるはずです。理科は、実験からわかった性質や法則を、現実を予想したり、期待した動きをするものを作ったりすることに役立てる教科です。そういう理科のよさや面白さを体験させることができたはずの場面でした。次の機会にはそのような課題を与えてほしいと思います・

5年目の先生の数学の授業は、定期試験の結果が悪かった学級でした。そのことを意識して観察したのですが、授業者と子どもの関係は良好です。どの子どもわかろうと話をしっかり聞いています。友だちと相談もできます。ただ、力のない子どもが教師の説明の途中であきらめてしまうのが目につきます。また、授業者もわからせたいと思うあまり、一方的に説明する時間が増えているようにも感じました。ここは、あえて子どもたちでわかるための時間を多めにとる必要があるように思いました。子どもが友だちの発表をあまり真剣に聞かないことも気になりました。発表に対して授業者がすぐに説明をするようになってきていることと無関係ではないでしょう。
子どもが習熟するための時間も少ないように思いました。教師の説明が増えるということは、考える、習熟するといった子どもの活動の時間を奪うことにつながります。悪循環にならい内に断ち切ることが必要だと感じました。

3年目の先生の数学の授業は、円の接線の場面でした。円の接線の定義と性質の因果関係がはっきりしません。よく整理できていないままに授業に臨んだようでした。
このことについて授業者は、「教材研究の時間が取れなくて不十分な状態で授業をしてしまった。子どもたちに申し訳ないことをした」と語りました。言い訳をせずに「申し訳ないことをした」という言葉が出てきたのは好感が持てます。教材研究ができなかったことはほめられたことではありませんが、子どもに対する姿勢は評価できます。
今、困っていることを聞いたところ、「子どもの発言が減ってきた」ということを挙げました。その理由を聞いたところ、「子どもが自信を失くしている」というのです。先ほどの学級だけでなく、1年生全体の数学の試験の結果が悪いこともその一因のようです。「子どもが勉強していない」といった理由であれば、叱ろうと思っていたのですが、そうではありません。子どもたちに自信を持たせなければいけない。それは教師の責任である。そう思ってくれているのです。教師としての力が足りなければつければいいのです。子どもに自信をつけるために必要と思えることをやればいいだけです。どれが正解かわかりませんが、世間ではいろいろな試みがされています。わからなければ聞けばいいのです。しかし、子どもたちのせいにしてしまえばそれで終わりです。教師の問題だと思うところから始まるのです。真剣に考えていることが表情からも伝わってきます。成長していることを強く感じました。
1年生の担当者で知恵を絞って、子どもたちに自信をつけさせるための手立てを考えてくれることと思います。先ほどの5年目の先生もそうですが、皆さん子どもたちに真剣に向かい合ってくれています。力を合わせればきっとよい解決策は浮かんでくることと思います。私も、自分がやってきた方法をいくつかお伝えしておきました。

1年生の数学の問題は、おそらく数学だけの問題ではないと思います。授業についていけない子どもが増えてきている。それに伴い学級でも孤立し始めている。その危険を感じています。教師によって態度が異なるということは、教師側が変われば済むことです。極論すれば、2年生になった時に担任や教科担当者が変われば解決してしまうことかもしれません。しかし、学力の問題は待ったなしです。単に勉強をさせるという発想ではなく、先ほどの3年目の数学教師が言っていた、「自信が持てる」ということとその一つ前の段階、「自信がなくても参加できる」授業をどのようにして実現するか。それと並行して、学力的に苦しい子どもが学習に前向きに取り組めるようにするために、授業以外の場面でどのような手立てを講じるか。これらのことが課題となっているように思います。いろいろと困難はあるでしょうが、学校全体で力を合わせて乗り切ってほしいと思います。

小学校でPTAに講演

小学校のPTA対象に「子どもたちをどう育む‐メンタルケアとネットの問題について‐」と題して講演を行ってきました。今年4回訪問して授業アドバイスを行った学校です。

収容人数60人ほどの会議室が満席でした。参加されたのはお母さん方ばかりでしたが、皆さんとてもよく反応して下さり、とても話しやすい雰囲気でした。
最初にお子さんのよいところ10個以上書いていただきました。真剣に取り組んでいただけます。なかなかペンが止まりません。ある程度動きが止まった時点で、まわりと見せ合うようにお願いしました。よいところなので、気軽に見せ合うことができます。全体の雰囲気が和やかになりました。挙手で確認したところ10以上書けた方はあまり多くはありません。意外にいいところが書けないことに気づいていただけたようです。

いじめる子、いじめられる子を例に、子どもたちが自己有用感を持てていない苦しさを伝えました。自分が人に必要とされている、自分が自分を認めることができることはとても大切です。学校、家庭、…どこかに居場所がある子どもは崩れません。そのことをまず知ってほしいと思います。家庭での役割を持たせることは、家族の一員として必要とされていることを伝えることです。報酬を対価とせずに、「ありがとう。あなたがいて助かる」というメッセージを伝えることが大切です。

親が子どもに向き合う姿勢として、いかによい聞き手になるかを意識してもらいたいと思います。まずは無条件にあなたを認めていることを伝えるのです。そのために、どんな言葉でも否定せずに受容することが大切です。親が結論を与えるのではなく、一緒に考えて子どもに判断させることを心がけるのです。親の価値観を一方的に押し付けないようにしてほしいと思います。子どもを他者と比較せずに、その子の進歩を認めてほめる。このことを心がけるようお願いしました。

言葉には強い力があります。言霊という言葉があるくらいです。「わがままな子」というレッテルを貼ってしまうと、本当に「わがままな子」になってしまいます。子どもの行動には理由があります。その理由を考えるようにしてほしいと思います。子どもがキレル時は、言葉が切れる時です。自分の気持ちを伝える言葉を持たせてあげることが大切です。子どもにたくさんの言葉を使って語りかけるようにしたいものです。

Iメッセージを大切にすることもお願いしました。あなたがいてうれしい、あなたが私の子どもでよかった。こんなメッセージを日ごろから送り続けてほしいと思います。叱るときも、その行為を叱るのであって、決して人格を否定しないようにお願いしました。

よい子であることを求めすぎないということも強くお願いしました。よい子は親の期待に応えたいと考えます。自己実現が親の期待に応えることになってしまうと、親の愛情は自分がよい子であることによって得られると思うようになります。よい子と言われて育った子は、今更悪い子になれない、苦しいのです。うまくいかないストレスの発散の方法を知らないのです。「あなたは、いい子だからお母さんはうれしい。愛している」といったメッセージを送らないように注意してほしいと思います。よい子という評価は、一つ間違えると「よい子になれ」という強迫なのです。

最後に、ネットの問題について少し次時間を取ってお話ししました。今やネットのトラブルは小学生にまで下りてきています。
携帯ゲーム機などがネットにつながり、小学生が犯罪の被害者にも、加害者にもなっている。時代の変化が早いためついていけない。誰にも相談できずに直接警察に相談に来る子が目立つ。まわりの大人に相談できる関係が大切である。
こんなことをお話ししました。日ごろから無条件に子どもを認めてあげることが、困ったことを相談できるためにも大切です。このことを改めてお願いして講演を終わらせていただきました。

講演終了後、PTAの広報部の方とお話する時間をいただけました。ここでは、ネットのトラブルについていくつか質問をいただきました。この種の情報は保護者より子どもの方が進んでいることは間違いありません。保護者の情報交換の場が必要であることを痛感しました。この地区でも是非そのような試みが広がることを期待します。

アンケートの結果は好評だったようで、一安心です。近くの小学校からも参加者があったのですが、その学校は学級崩壊が目立っているようです。アンケートにぜひその学校でも講演をお願いできたらと書かれていました。おそらくは、保護者への講演のことだけでなく、学級の立て直しのことも頭にあるのでしょう。たまたまその学校の校長と知り合いなので複雑な思いです。よい形でかかわることができるように少し動いてみようかと思います。

5時間目の学校の様子を教務主任と見させていただきました。授業の上手いベテランの学級で子どもたちが印刷物を後ろに配るときに、「ありがとう」と言っていたのが印象に残ります。よいと思うことはすぐに取り入れる柔軟さに感心しました。ただ、子どもたちが相手と目線を合わしていないのが残念でした。子どもたちがきちんとコンタクトを取りながら「ありがとう」を言えるようになればとても素晴らしいと思います。
若手の学級で少し気になることがありました。私のアドバイスを忠実に実行しているのですが、教室が今一つ落ち着きません。2人くらい行動の遅い子どもがいます。その子どもに素早い行動をうながすのですが、なかなか聞きません。あえて無視しているようにも見えます。また、できる子どもだと思いますが1人だけ体を横に向けて、後ろと話をしたりと授業規律を乱すようなことをします。とはいえ、限度を超えるようなことはしないので、授業者も注意をしません(できません)。苦労をしているなと感じました。Iメッセージでのしかり方を伝えておけばよかったかもしれません。「○○さんが横向いていると先生が話しにくいんだけれど」と自分(I)が困っていることを伝えるのです。行動の遅い子どもにも同様の対応をするといいかもしれません。うまくいく保証はありませんが、挑戦する価値があると思います。よい方向に変化することを願っています。

この日もとても充実した時間を過ごすことができました。教務主任からは来年度に向けた思いも聞くことができました。このようなエネルギーがあれば、きっとこれからも学校がよい方向に変わっていくことと思います。また訪問できる機会があれば幸いです。

養護教諭の授業から学ぶ

養護教諭の研修会で、授業研究に参加してきました。単元は、小学校2年生の「ぼく・わたしの誕生(命の学習)」です。担任とのTTで行われました。
夏休みに講演をさせていただき、それに続いて今度は実際の授業をもとに皆さんと一緒に考えようという企画です。

授業者は若手の養護教諭です。この授業に向けて他の学級でも事前に授業をして臨んだようです。授業の導入は赤ちゃんになる前は何だったかを問うことから始まります。すぐに卵と正解を言う子どもがいます。ここのやり取りは担任にお願いしていました。担任はベテランで、優しい笑顔が印象的な方でした。3択で進めます。「じゃあ誰かが卵って言ったから、1番は卵」と受けました。なかなか見事です。クイズですから子どもたちのテンションは上がります。正解の発表から養護教諭の出番です。卵という意外な答えに子どもたちは「え〜」とテンションが上がります。続いて卵の大きさを問います。学習していない知識を問うことばかりです。何か根拠をもとに考えることでもありません。無責任に参加できるのでテンションが上がっていくのは当然です。チョークで黒板に点を打って、この大きさだと示します。実際に紙に鉛筆で点を打たせてその小ささを実感させます。こういうところはよく考えられていると思いました。子どもたちのテンションが上がりすぎた時は、担任が介入してくれます。担任の声が聞こえると、子どもたちはすぐに落ち着きます。日ごろからよい授業規律を作っているのでしょう。

ここで、この日のめあてが示されます。「ぼく・わたしがうまれてくるまでのようすをしろう」です。このめあてに違和感を覚えます。この時間は知識を得ることが目的なのでしょうか。実はそうではありません。家族への感謝の気持ちを持ってもらい、メッセージを書くことです。授業者はそれをストレートにめあてにすると展開が見えてしまうので、悩んだ末にこのようにしたそうです。
子どもとやり取りしながら、黒板に赤ちゃんが生まれるまでの成長の様子を示していきます。授業者は、どの子もきちんと固有名詞で呼びかけます。お腹の中の赤ちゃんの大きさを考えさせると、とてつもない大きさを示すことどももいます。担任は生まれてくる赤ちゃんの大きさを考えるようフォローを入れて、根拠をもって考えるように誘導します。参加できていない子がいればそれとなく近づいて声をかけています。よいサポートをしてくれます。
へその緒の役割を聞く場面でした。手が挙がる子どもは数人です。指名した子どもが答えた後、「どうですか」とみんなにたずねます。「いいです」と声が返ってきます。こんなおかしなことはありません。子どもが発表したのは知識です。知っていなければ、いいかどうかの判断はできません。とすれば、これだけ多くの子どもが知っていたのに、手を挙げなかったということです。それとも、無責任に「いいです」と言ったのかもしれません。また、知らなかった子どもは、参加しようがありません。この話型はどうやらこの学校の統一ルールのようです。すべての場面で否定するわけではありませんが、少なくともこのような場面ではナンセンスです。再考してもらいたいと思いました。

子どもに知識を問うて、答えさせるという場面が延々と続きます。知識のない子ども、答えられない子どもの集中力は下がります。自分で考え?るように指示すれば、無責任に想像するしかありませんから、テンションが上がります。この繰り返しになってしまいました。

赤ちゃんがさかさまになって生まれる理由を聞きます。「手足が引っかからないため」と答えてくれました。授業者は「それもあるかもしれない」と受けて、他にないか聞きました。子どもを否定しないように対応したつもりなのかもしれませんが、授業者が求めていた答ではないことはすぐにわかります。こういう場面が続くと、子どもたちは教師の求める答探しをするようになってしまいます。意識して気をつけたいところです。

赤ちゃんの人形を見せます。子どもたちのテンションは上がります。ここで、担任が「あとで抱いてもらう」とフォローします。後で触ることができるとわかることで落ち着きます。また、何か課題があるのかと考えて、話を集中して聞くようになります。
最近弟が生まれた子どもがいます。当然赤ちゃんに関する知識をたくさん持っています。積極的に発言してくれます。そうであれば、授業者が説明することをもっと減らして、「○○さんに教えてもらおうか」というようにして、子どもを活躍させて進めるように切りかえてもよかったのかもしれません。
赤ちゃんの首がすわらないことと抱き方を関連して説明します。続いて、子どもに赤ちゃんの人形を順番に抱かせます。予想通り、テンションがマックスになりました。なぜなら、赤ちゃんの人形を抱く目的が示されていないからです。順番を待つ子ども、終わった子どもの役割はありません。まさに、活動だけの場面だからです。「赤ちゃんの首が折れてしまわないように抱けるかな」「上手に次の人に渡せるかな」「だれが上手く抱いているかよく見ていていてね」というように、目標や評価を明確に与える必要があります。
子どもたちの感想を聞きます。「重たかった」ばかりです。当然です。子どもたちに親の視点をきちんと与えていないからです。気をつけることをきちんと与えて、親はいつもそのことに気づかいながら、重たい赤ちゃんを抱いている。その気持ちを問わなければ意味のない活動です。

妊婦体験も代表の子どもにさせます。消しゴムを拾わせて、物を拾うのも大変なことを知らせます。そこから、まわりの大人たちも妊婦を思いやっていたことに気づかせなければいけません。でなければ、この日の授業者の本当のねらいに近づかないのです。

友人に書いてもらった、母親から子どもへの手紙を朗読します。子どもたちはこの話を聞く意味がわかりません。赤ちゃんがお腹の中にいた時の気持ち、生まれた時の家族の喜びを伝えるのですが、子どもたちにとっては他人事です。BGMまでかけているのですが、その演出も子どもたちには伝わらないのです。

自分の誕生に関しての感想や感謝の気持ちを書かせるという、本時の本当のねらいの活動に行き着くまでに、大半の時間を使ってしまいました。
「ぼくは、私は家族みんなから(   )ている」という穴埋めを考えさせます。今までほとんど、誕生と赤ちゃんに関する知識の伝達ばかりです。先ほど知らない人の気持ちを聞かされただけで、突然このようなことを聞かれても戸惑います。そのような視点はこの授業で、今初めてでてきたのです。
ある子どもが「愛されている」と答えてくれます。ここでもまた、「どうですか」です。この答に対して「いいです」は全くそぐいません。いいかどうかではないのです。その子しかわからないことだからです。これでは、この問いの意味が全くなくなります。ここは、本当は「どういう時に感じる」と聞き返すべきところなのです。しかし、そう返してもおそらく子どもは困ってしまうでしょう。自分の家族を振り返って答えたのではなく、授業者の求める答を想像して答えたと思われるからです。

最後におうちの人にメッセージカードを書かせます。ここで、多くの子どもたちは手がつきません。何を書いていいかわからないのです。当然です、今まで家族のことを考える場面が一つもなかったからです。担任が「考えたこと」「感じたこと」とフォローを入れますが、家族のことを考えたり感じたりはしていません。どのようなことが書かれるかは想像がつきます。
何人かに発表させますが、この日授業で知ったことが発表されます。「愛されているんですね」といった言葉が出てきますが、それを「言え」と指示されていると感じたから書いたのでしょう。具体的にどのような時、どのような場面で感じたかは語られないからです。

授業者はねらいを達成するためにどのような活動をしなければいけないかを明確にできていなかったのです。このことがよくわかります。参加者にとって学びの多い授業でした。

授業検討会で、授業者は本当のねらいと、子どもに示したねらいのずれをどうすべきだったのかということと、最後のメッセージを書く場面で子どもたちの手が動かなかったことを話題にしました。そこに気づけることが素晴らしいと思いました。また、参加者からは、養護教諭の専門性を活かすにはどのようにすればよいのかが話題になりました。その他にも、たくさんの意見が出ました。このような授業研究の機会が今まであまりなかったそうです。皆さんの学びたいという気持ちがとても伝わる検討会でした。
めあてについては、「妊婦やまわりの人の気持ちを考える」といったものにすれば、自分の親に置き換えて考えやすかったのではないかと思います。また、養護教諭の専門性に関しては、どこまで小学2年生に伝えるかは別にして、出産にはいろいろな危険が伴うことを伝えることが専門性を活かすことにつながると思いました。そのような危険があるけれどもあなたたちを産んだ。まわりの人もそれを支えた。どうしてだろう。そんな切り口から迫ってもよかったかもしれません。
最後に授業者から私に質問がありました。今日の授業のねらいから考えれば、どのような導入を私なら考えるかというものです。その場での思いつきですが、「みんな、赤ちゃんの時や、お母さんのお腹の中にいた時のこと覚えている?」と言った問いかけから、「じゃあ、今日はその時みんなはどんな風だったか、お母さんやまわりの人はどんな気持ちでどんな風にあなたたちと接していたか考えてみよう」として、知識はできるだけ簡単に伝えて、母親やまわりの人がどんな気持ちで、どのように接していたかについて時間を使いたいとお答えしました。

私自身養護教諭の授業を見るのは初めての経験でした。TTのあり方も含め、いつもの授業以上にいろいろなことを考えるきっかけになりました。来年以降もこのような場を設けるということでした。とてもよいことだと思います。またお手伝いさせていただけることを楽しみにしています。

どの子どもも参加できたグループ活動

昨日の日記の続きです。

研究授業は若手の英語の授業です。1年生の代名詞の使い方の練習の授業でした。
子どもたちはとてもよい表情で授業に参加します。授業者と子どもたち、子ども同士が、日ごろからとてもよい関係であることを感じさせます。
前回訪問時に私がお話したことを自分なりにアレンジして実行しています。主語を表わす絵カード、述部を表わす絵カードを準備して、その組み合わせで ”I play tennis.” “He plays tennis.”と文を作って全体で言わせます。授業者の言ったことをそのまま言うのでも、カードに書かれた文字を読むのでもありません。子どもが絵の表わしていることを表現しようと英文を作るのです。当然要求レベルは上がります。子どもたちは考えて声に出すのですが、自信のない子もいます。ついていけなくて口が開かない子どももいます。問題はここではありません。この後、すぐに次の文を作らせていたことが問題なのです。1回だけでは、わからない子は全く参加できません。全員の口が開くまで、何度も言わせてほしいのです。同じ文を、みんなの声がそろうまで何度も言わせるのです。友だちの声を聞くことで理解することを経験させるのです。大切なのは活動ではなく、全員が身につけることです。
この場面で、最初から代名詞を使って表現させたことが引っかかりました。”Ms.○○ plays tennis.” ”She plays tennis.”というように、最初は固有名詞で表現して、それを代名詞で言い換えさせると英語における代名詞の使い方をより理解させることができます。そういう ”situation” を大切にしてほしいと思います。

グループでの最初の活動は、グループごとに用意されたカードをめくって、そのカードが表す動詞を使って全員が英文を作るものです。何人か苦しい子どもがいます。他の子どもたちは辛抱強く待ってくれますが、なかなか声を出すことができません。まわりの子どもの言葉をまねして何とか進んでいきましたが、自分から助けを求めることはできません。表情もさえません。とは言え、全体的には子どもたちは頭を寄せ合いながらよい表情で取り組みます。カードを机の真ん中に積んでいることも、子どもたちの体が近づくことに影響しているかもしれません。
活動終了後、どのグループが頑張っていたか、No.1はどこと授業者が評価します。一部のグループだけを評価するのかと思ったのですが、数グループに順位をつけた後、残りのグループも「じっくり取り組んでいた」「助け合っていた」というように、具体的によいところを評価しました。丁寧な対応です。子どもたちをしっかり見ていることが伝わります。子どもたちの表情がよい理由がわかった気がしました。

次に芸能人の写真を見せて、”Who is this? Do you know her?” と知っているかどうか挙手で聞きます。子どもたちの手が挙がりません。手の挙がらない子どもを指して、”He doesn’t know her.” ”She doesn’t know her.” と全体に対して伝えます。こういったやり取りを何人かの芸能人の写真で行い、 “she” と “her”、”he” と “him” の関係を理解させます。やり方としてはよいのですが、この関係を理解するのに必要のない、だれがだれの妹であるといった情報も簡単な英語で授業者が伝えます。確かに英語のコミュニケーションとしては意味があるのですが、この場面で押さえるべきこととしては、ノイズになってしまいます。シンプルな例で、ねらいとなるものをきちんと理解し、身につけさせることが大切です。テンポを上げて、すぐに口から出てくるようになるまで、何度も練習することが大切です。活動の密度がちょっと薄いのが気になりました。

ここで、初めての試みとして、バディを利用したグループ活動を行いました。前回の私のアドバイスをヒントに、授業者と英語科、研修部が知恵を絞って考えた新しい活動です。子どもたちがどのような姿を見せてくれるか、とても楽しみです。
具体的には、ペアで相手の持っている情報を英語でたずねて、その情報をもとにその人が誰かを当てるという活動です。それぞれにバディ(相棒)がいます。バディは、困った時に助ける役です。質問側のバディは質問の答も記録します。バディとの対話は日本語を使うことが許されます。答える側の情報は用意された封筒に入っていて、それにもとづいて答えます。最後に、対話を聞いていてよかったところをそれぞれのバディがメモします。

子どもたちに情報の入った封筒を渡します。授業者は、“Don’t open.” 「まだ、開けちゃダメ」とすぐに日本語で言い直します。せっかく英語を使っているのですから、すぐに日本語にせずに、何度かジェスチャを交えて子どもに少しでも自力で理解させたいところです。
子どもたちは、とても楽しそうに課題に取り組みます。英語でのグループ活動が楽しいものになっていることがよくわかります。先ほど気になった子どもの様子はどうでしょうか。答える側になった時、どうしていいかわかりません。そこで、助けを求めるようにバディの子を見るのです。バディやペアの組み合わせはすべて男女です。バディの子はそれまでぼうっとしていたのですが、そのことに気づいて何とか助けようとします。苦しいながらもなんとか進んでいきます。表情が笑顔になっていきます。自分のバディが答える時には、助けてあげることはできません。しかし、体をバディの方に傾けて手元をずっと覗いています。対話の内容を知ろうとしているのです。
もう一人の気になる子どもは、バディが優秀なのでしょう。つきっきりで、一言一言どういえばいいのか伝えてもらっています。たどたどしながらも、教えてもらうことで、なんとかクリアしていました。
最初のグループ活動と比べても、どのグループも集中度が高いことが印象的です。最初のグループ活動は、友だちが話す時は正しいかどうかちゃんと聞いているのですが、役割としては ”one of them” です。自分でなければいけないということはないので、他の友だちに任せておけばいいという気持ちもあります。今回のグループ活動は、それぞれに明確な役割があるので、集中度が高いのです。
子どもたちの、対話を聞いていると ”his” と “him” が混乱する間違いがかなりあります。三人称単数現在の ”s” もよく落ちています。しかし、それを自分たちでなかなか修正できていません。英語の活動としては、ここは何とかしなければいけないところです。1回終わったところで止めて、どんなことを助けてもらったかを聞いて、間違いを共有する方法があります。教師が「こんな間違いがあったから気をつけよう」とはっきり指摘してもよいかもしれません。
役割を交代する時、課題の入った封筒をもらいます。その時少しテンションが上がります。緊張から解放されているのかもしれません。しかし、活動が始まればすぐに落ち着きます。とてもよい状態でした。
よいところを伝え合う場面でも、子どもたちはとてもうれしそうにしています。どの子どもも参加できたグループ活動でした。

最後に答える役の子どもを前に一人出して、全体で取り組みます。挙手によって質問して、答えるのですが、一部の子どもしか参加できません。こういう場面はもう少し工夫をする必要があります。”His favorite animal is cats.” といった、質問の答に対して全員で “Oh, I see. His favorite animal is cats.” と答える。授業者が ”Is his favorite animal dogs?” “What is his favorite animal?” といったことを、全体に問いかけて答えさせる。このような、友だちの発言を聞くことが参加につながる活動を入れ込むことが必要でしょう。

授業検討会は子どもたちの事実について多くのことが語られるよいものでした。自信がない子どもが参加できていたこと、子ども同士がかかわれていたことがたくさん報告されました。先生方が評価に困っていたのが、できない子どもは助けてもらいながらやっていたが、バディが言った単語をそのまま繰り返しているだけだった。これで学力がつくのかということです。確かにその通りです。これで学力がつくとは言えません。では、他にどのような方法があるのでしょうか。できない子どもが参加して学力がつく方法があるのならそれをぜひ共有して、みんなで実践すればいいのです。このことを先生方にお話ししました。彼らが、授業に参加することさえできない状況から、一歩進んで授業に参加できた。このことをまず評価してほしいと思います。佐藤学氏がよく使われる、有名な「一人ひとりの背伸びとジャンプ」という言葉があります。今回は、授業に参加するという「背伸び」ができたと評価したいところです。できる子たちも、友だちに教えることでいつも以上に多くのことを学べたと思います。
もう一つ話題になったのが、子どもたちが間違えたままそれを修正できずに進んでいたグループがあったことです。このことの原因の一つが、代名詞の使い方が定着していなかったことです。この活動で必要とする使い方を、もっと全体で練習しておく必要があったと思います。この活動は定着というより、活用です。密度の濃い、定着のための訓練も必要だったということです。

今回も非常に挑戦的な授業研究でした。私自身たくさんのことを学ばせていただきました。毎回、授業者と教科、研修部それぞれが力を合わせて授業をつくり上げています。研究とはこうありたいと思います。授業研究で互いに学んだことがどう全体に広がっていくか、次回がとても楽しみです。

この日は懇親会を催していただき、楽しい時間を過ごすことができました。たくさんの先生とお話することができました。授業に前向きな方がたくさんいらっしゃいます。授業談義に花が咲きます。素直に自分の授業を振り返って、改善しようという意欲を見せてくれます。このような学校とかかわらせていただくことで、私も多くのことを学ぶことができ、元気をいただくことができます。皆さんに感謝です。

授業の課題が明確になっていく

中学校の現職教育に参加してきました。今年度4回目の訪問で、3回目の授業研究です。毎回質の高い提案授業なので、この日もとても楽しみでした。

授業研究の前に、学校全体の様子を2時間見せていただきました。先生方に子どもを受容しようとする姿勢が見られだけでなく、柔らかい雰囲気の中でしっかりと授業規律ができている学級も増えています。指名されて答に詰まった子どもを、まわりの子どもが助ける姿も目にします。

一方、指示の徹底ができていない場面も前回同様まだ目につきました。多いのが、子どもに顔を上げるように指示しても、待ちきれなくて全員の顔が上がっていないのにしゃべることです。中学校は進度が気になるので、なかなか待てないのもわかります。であれば素早い行動をうながすことが大切です。顔を上げて教師の話を聞くことは、授業規律として一番注意したいところです。

また、子どもの発言に正解といった言葉を返す授業はほとんどないのですが、1人指名してすぐにそれを引き継いで教師が話すことが多く見られます。一問一答形式になっているのです。「今の意見と同じ人」と問いかける場面は多く見るのですが、そこで終わらずに、同じ意見の子どもを指名して、発表させたいところです。何人か同じ意見の人を発表させ、納得したかどうかを他の意見の子どもに問いかけるのです。そうでなければ、子どもたちが友だちの意見を聞く意味がありません。つなぐことは難しいように思いますが、同じ意見、その意見を聞いて考えがどう変わったか、変わらなかったのか、その理由などを聞くことを意識すれば、それほど苦労せずにつながっていくと思います。大切なのは、何を話してもバカにされないという安心感、間違えても笑い飛ばせるおおらかさのある教室にすることです。

子どもの外化や活動を評価する場面もまだ少なく思いました。教師ができるだけ具体的にポジティブな評価をすることが大切です。また、自己有用感を持たせるためには、子どもが自己評価できることも重要です。活動のゴール、目標を子どもにわかる形で伝えることが大切です。行動だけを指示するのではなく、評価基準を具体的にして示すのです。例えば、音読であれば、ただ音読するのではなく、「主人公は誰か」「主人公の気持ちが変わった場面はどこか」といった目標を明確にするだけで、子どもの動きは変わっていきます。

子どものつぶやき拾うことを意識している方もいらっしゃいます。このこと自体はよいことなのですが、つぶやいた子どもと2人の世界に入ってしまうことが気になりました。価値のある発言であれば、全体で共有する必要があります。「今いいこと言ってくれたね。みんなにもう一度聞かせてくれる。みんな○○さんの考えを聞こう」と全体向けて発言させるのです。もし、個人的なことであればその場で答える必要はありません。にっこり笑ってうなずくだけでよいのです。聞いていることを伝えておいて、必要であればあとで個人的に話をすればいいのです。

作業の準備態勢ができてから教師が話す場面も気になります。印刷物を配れば、読みたくなります。そこに課題が書いてあれば取り組もうとします。そこで、教師が説明をしても集中させるのは難しいものがあります。説明するのに印刷物を見せる必要があるのなら、実物投影機などを使います。先に説明をすることで、印刷物が配られたらすぐに作業に入れるようにするのです。同様のことが、グループ活動にも言えます。グループの形にしてから説明を始めるのではなく、指示をしてからグループの形にするのです。グループになって上がった子どもたちのやる気、集中力を削がないためです。

ICTの活用で、机の上に置いたパソコンを操作しながらしゃべっている場面が気になりました。手元のパソコンを見ているために、子どもを見ることができないのです。せめて、ワイヤレスマウスを準備すれば、子どもを見る機会がずいぶん増えます。こういった工夫を大切にしてほしいと思います。

理科の天体の動きとその見え方の時間で、太陽や地球役にした子どもを動かして考えさせる場面がありました。しかし、天体役に指示を出したり、他の子どもたちを見やすい位置に移動させたりで、何を見ればいいのか、何をしようとしているのか、再度子どもに確認することがありませんでした。子どもたちは、天体役を楽しそうに見ていますが、その目的をあまり意識はできていませんでした。

国語の授業で登場人物の気持ちを読み取る場面でした。なぜその人物の気持ちを読み取ることが課題なのかがわかりません。物語を読むとはどういうことなのかを明確にして、課題に必然性を持たせたいところです。授業者は、読み取るための方法を意識していました。わからない子どもに、わかるための手段を提供することは大切です。気持ちは何でわかるかを問いかけ、「表情でわかる」を引き出しました。こういう姿勢はよいのですが、いつも表情で表現されているとは限りません。今までの経験をもとに、「思ったといった言葉で直接表現される」「表情や様子といった人物の外見で表現される」「人物の取った行動で表現される」「まわりの情景描写で表現される」というように、きちんと整理をしておくことが大切です。

いろいろと気になることはたくさんあるのですが、それは確実によい変化があらわれている証拠でもあります。できることが増えれば、できないことがよりはっきりと浮かび上がるからです。課題が明確になるのです。変化に個人差がありますが、学校全体としてよい方向に変わりつつあるのです。授業研究がよいきっかけとなって、変化を促しています。今回の授業研究もその期待を裏切らないものでした。

授業研究については明日の日記で。

新たな一歩を踏み出そうとした数学の授業

中学校で授業アドバイスを行ってきました。授業者は他府県で2年間勤めた後、愛知県に来られて3年目の先生です。2年ぶりに授業を見せていただきました。3年生の数学で、幾何ツールを使った重心の授業でした。

授業者は、今回の課題で初めて幾何ツールを活用した授業に挑戦しました。指導案を見る限り、コンピュータを活用した授業にまだ慣れていないと感じました。そのことを事前に校長にお伝えしたところ、「普通の授業ならもう安心して任せられる。だから今回は、あえて挑戦させたかった」ということでした。

授業の第一印象は先生も子どもも笑顔が多いということでした。指示もきちんと通ります。子ども同士の関係も良好で、友だちと相談する姿がよく見られます。授業規律も人間関係もしっかりとできています。日ごろから、基本的なことがしっかりできていることがよくわかります。この日の授業は、教科面に集中してアドバイスすることにしました。

最初に紙で作った三角形のある点P(重心)にコンパスの針を刺して回転させます。クルクルと回ります。この点がどんな点かがこの日の課題です。「どんな点」という言葉は明確ではありません。この言葉を使うのなら、より明確な言葉に変えていく活動が必要です。しかし、考えるための材料が全くありません。「どのような性質があるのか」「どうやれば見つけることができるのか」といったところに視点をもっていきたいのですが、全く手がかりがありません。子どもの中から「実はどこでも回る」というつぶやきが出てきました。とてもよいつぶやきです。本来なら、他の点ではうまくいかないことを確かめて、クルクル回る点の秘密を知ろうと進めたいところです。しかし、この「クルクル回る」を追究しても、数学としてはうまく扱えません。「クルクル回る」という物理的な性質を条件として重心を導き出そうというのは、中学生ではまず無理だからです。この導入は数学的につなげることはとても難しいのです。

考えやすいようにと、二等辺三角形でまず考えます。なぜ二等辺三角形だと考えやすいのでしょうか?そのことには全く触れられません。点Pについて一切の情報がないのですから、おかしな話です。「一般ではよくわからない時には特殊な場合を考えて見通しを持つ」というメタな考え方を過去の授業で経験しているのでしょうか。もし、そうならその場面を思い出させることが必要です。そういった経験がないのなら、そのことに気づかせる活動が必要です。二等辺三角形にこだわらず、幾何ツールで「自由に変形させて、手が出ない」「意図的に動かしたら何かに気づいた」といった経験をすることが必要なのです。

「頂点を底面と平行に動かすと、点Pも平行に動く」「点Pを底辺と垂直に動かすと点Pも垂直に動く」「頂点を底辺の中点から底辺と垂直に動かすと点Pもその垂線上にある」「点Pをまっすぐ(直線上を)動かすと、点Pもまっすぐ(直線と平行な直線上を)動く」といった気づきを子どもから引き出し、そのように動かした理由を聞いて、そのことを価値づけするのです。結論だけに注目しては、数学的なものの見方・考え方は身につきません。
点Pと頂点を結びたい。3つの頂点と結びたい。長さを測りたい。子どもからいろんな欲求が出てきます。そこで、考えを広げ、思考を深めるのです。頂点と点Pを結ぶと必ず底辺の中点を通ることに気づきます。点Pが中線を一定の比(2:1)に分けることに気づきます。3つの頂点と点Pを結んだ子どもは、すべて中線になっていることに気づくかもしれません。数学の授業としては、ここからです。やっと課題が見つかったのです。3つの中線が1点で交わること。どちらかから、他の性質が成り立つこと。こういったことを課題として数学的な探求をするのです。

授業者は二等辺三角形で頂点と点Pを結び、底辺との交点をDとした二等辺三角形を電子黒板に提示します。これも天下りです。また、点を結ぶことと延長することは、別の発想です。その必然性を考える必要があります。続いて、線分ADがどんな線分か考えさせます。考えるといっても、根拠がありません。見た目での想像でしかありません。しかし「考えて」と言います。数学としては違和感のある言葉です。子どもにたちに実際に幾何ツールを使って「調べさせたい」ところです。
子どもからは、「垂直二等分線」「中点と頂点を結んだ線」「二等分線」「線対称の線」といった言葉が出ます。授業者はそのまま進んだり、自分で「∠BACの」二等分線と足したりします。物わかりのよすぎる先生です。「二等辺三角形」の線対称の「軸」とは修正しませんでした。授業者は数学的な言葉に非常に鈍感です。主語がよく抜けます。数学ではありえないことです。「二等分線」と子どもが言ったら、「何の?」「どこの?」と問い返すことが必要です。教師が意識していないので、子どもも用語をきちんと使えません。1年生からしっかりと育てることが大切です。
子どもから言葉を引き出してから、幾何ツールで確かめました。全体で進めるのなら、「考えて」の前に、「どこを調べたい」「何を測りたい」と子どもに問いかけてから測るべきでしょう。「○○が言えそうだね」「予想がつくね」と「予想」であることを強調し、「予想」は確かめなければいけないと、次の活動につなげるのです。

「ADがどんな線か考えよう」と個別のパソコンで、どれが成り立つかを確認させようとします。課題が「点Pがどういう点か」から「ADはどんな線か」に変わっています。子どもたちは、その関連が今ひとつわかっていないようです。初めてのソフトの利用で戸惑う子どももいますが、まわりの子どもが助けています。戦略的に動かす子どももいますが、思いつきで動かしている子どもが目立ちます。本来はグループで探求させたいのですが、パソコンの配置が横にずらりと並んでいるのでグループ活動がやりにくいのです。環境面のハンディがあったことが残念です。
全体で何が言えそうで、何がダメかを確認します。指名した子どもに、ダメなことがわかるように頂点を動かすように指示します。感覚的にダメで終わりますが。1つでいいので測定して、否定すべきでしょう。「いつも」「絶対」成り立つは、1つでも反例をあげればいいことを押さえたいところです。

画面を見て、気づくことがないかと子どもたちに問います。点Pが中点を2:1に分けることを言わせたいのですが、ただ画面を見て気づくのなら、幾何ツールはいりません。黒板に図を貼っても同じです。子どもたちにどのような活動をさせて、どんな力をつけたいのかが、明確になっていません。
3つの頂点と点Pを結んだ図を指示に従って動かし、気づくことをワークシートに書かせます。このことにも違和感があります。自由に動かせるから幾何ツールです。自由に動かすことで発見があるのです。
全体で、気づいたことを発表させます。「頂点と点Pを結んだ線がすべて中線になっている」「点Pは中線を2:1に分けている」といったことが出てきます。これらの性質の因果関係は明確ではありません。条件や定義が明確ではないからです。「どうやったら作れる?」といった発問で、条件や定義を意識することができますが、もう時間がありません。
1人だけ中線で分けられた6つの三角形の面積が等しいと言った子どもがいました。どうやって気づいたのかは問いません。3つの線分が中線になっていることから気づいたのかもしれません。なんとなくかもしれません。そのことを確認せずに、幾何ツールで面積を測りました。
結局最後まで、根拠が語られることのない授業でした。ここまでを15分以内で終わり、出てきた課題を追究することに時間を使うべきでしょう。気づいたことから課題をつくり、それを追究することが数学では大切なのです。

厳しいことをたくさん書きましたが、授業者は数学の教師として大きな一歩を踏み出そうとしています。最初からうまくいくわけはありません。挑戦し続けることで初めてできるようになるのです。授業の基本は、本当によくできていました。2年前に指摘されたことを愚直にやり続けてきたことがよくわかります。そのことを本当にうれしく思いました。

授業アドバイスの後、何人かの若手の授業を見せていただきました。
挙手した子どもだけで進む授業が目につきました。一見すると子どもをよくほめているように見えますが、「いいですね」「素晴らしい」と抽象的にほめているだけなので、子どもにとってリアリティがなくなっている方もいました。子どもの方を向いているのですが、視線が子どもに落ちない方もいます。子どもが作業している時に、作業を止めずにしゃべる方も目立ちます。
机間指導をしても、本当に支援が必要な子どものところにいかず、自分から教師に声をかける子どもとばかり話している先生もいました。上手くかかわれる子どもとだけ関係をつくっています。こういう先生の学級は崩れやすい傾向があります。要注意です。

先ほどの数学の授業者のように、基本がしっかりとできている先生もいる反面、基本がまだ徹底できていない方もいます。このギャップを学校としてどう埋めていくかが大きな課題でしょう。互いに授業を見せあって学ぶような機会をもっとつくる必要あるのかもしれません。

小学校で授業研究(長文)

小学校の現職教育に参加しました。今年度2回目の訪問です。

授業研究に先立って全学級の様子を参観しました。全体的に感じるのが、授業規律がまだ確立できていないことです。作業が終わった時には鉛筆を置いて姿勢を正すように指示します。しかし、全員が姿勢を正さないままに教師は話し始めてしまいます。友だちの話を聞く姿勢もできていません。発表を聞く子どもたちの視線はなかなか安定しません。また、せっかく子どもが友だちの話を聞こうとしていても、教師が板書することで、子どもの視線を奪ってしまいます。一方、教師の視線も子どもたちの上を流れていきます。子どもたちに視線を送ることができません(視線を送る参照)。机間指導も、漫然と歩いているだけで何を指導するのか明確に感じられません。まわりを見ながら歩くだけなので、全体を見ることはできません。教師の死角で起こっていることに気づくことができないのです。
子どもたちの作業中に追加の指示や説明が目立ちます。なかなかきちんと止めることができません。教師が子どもたちの集中を乱すのです。
子どもの発言や活動に対する評価も、あまりありません。「いいです」以外の評価を聞くことはほとんどありませんでした。
挙手した子どもだけを指名して授業が進むので、わかる子、発言できる子どもしか参加できません。子どもたちは、教師がまとめてくれることを知っているので、それを写せば困りません。友だちの発言を聞くことの必然性がないのです。同じ考えの子どもを発言させる。それを聞いて納得したかどうかを確認し、その根拠を聞く。納得しなかった子どもに、納得したか再度聞く。納得できない子どもに、どこが納得できないのかをたずねる。このような活動が必要です。また、まとめは、常に教師がするのではなく、子どもにまとめさせ、板書が必要であれば子どもの言葉をそのまま使う。こういった工夫が必要です。
子どもはまじめに作業に取り組みます。板書も写します。しかし、先生の話は聞きません。子どもの作業をする姿と、教師が一方的にしゃべる姿を見ることがほとんどでした。
基本的な授業技術が身についていないように感じます。必要性を感じていないのかもしれません。学校全体で取り組むべき基本を具体的にして共有することが大切です。
その点でキーとなるのは教務主任です。授業参観に同行した教務主任は、私の指摘に納得して同意はするのですが、「今日はたまたま」という言葉を何度も使いました。しかし、では普段は具体的にどうなのかは一度も語られませんでした。残念ながらこの言葉を聞く限り、教務主任主導での改善はあまり期待できません。なぜなら日ごろから授業を見ていて「たまたま」と言うのなら、具体的にそうではない場面を伝えることができるはずです。「たまたま」という言葉の裏には、本当は「できていることもある」「できているはず」が隠れています。これは事実を認めたくない、言い訳の気持ちです。自分の意志で、改善のための具体的な行動を起こすとは思えないのです。
とはいえ、以前に訪問した時と比べて表情のかたい先生が減ったように感じます。子どもを受容しようとする意識がでてきたようです。管理職やリーダーに求められるのは、その次のステップを具体化することです。
また、算数では手順を教えて確認するだけの授業が目立ちました。子どもが思考する場面がないのです。これでは算数は解き方を覚える教科になってしまいます。教科の学習の基本は何かもしっかり共有してほしいところです。
もう一つ気になったのが、実物投影機を使わないことです。この学校はフューチャースクールでICT環境は整っています。タブレットを使わないまでも、実物投影機を使った方がよさそうな場面がたくさんありました。しかし、ほとんどの教師が使わないのです。

授業研究は2年目の先生の国語の授業でした。5年生の「大造じいさんとガン」の話のあらすじをつかむ場面でした。
授業者は少々緊張気味でしたが、笑顔を絶やさないように意識していました。子どもを受容しようという意識を感じます。前回通読した感想をたずねます。「長い」「感動した」といった言葉が出てきましたが、授業者は「感動した」だけを拾いました。こういうことが続くと、子どもは授業者が求めることを言おうとするようになります。無視されたということはその言葉は不正解です。子どもは挙手をして発言することを避けるようになります。不正解で恥をかくリスクがあるからです。それでも発言したければ、挙手せずにつぶやきます。この場面では、「長い」もきちんと拾うべきだったのです。「長い」はあらすじにつなぐことができる言葉です。長いからこそ、あらすじを追って整理する意味があるのです。
前時の復習の場面で、挙手しない子どもが多いことが気になります。中にはノートを開く子どもがいるのですが、そのことを取り上げません。挙手した子どもだけで進みます。ノートを開いている子どもを評価し、挙手していないのにノートを開かない子どもに参加を促すことが大切です。
この日の授業のめあては「大造じいさんとガンの話のあらすじをつかもう」です。
板書を写すのに「素早く、ていねいに」と指示します。評価の視点が具体的になっています。しかし、実際にどうだったかは評価しません。「○○さん、早いね」「△△さん、ていねいに書けたね」と評価しなければ定着しません。
机間指導しながら、「書けた人は自分の好きな場面を読んでください」と追加の指示をします。作業を止めずに指示しても通りません。「まだ、書いている人」と時間が来ても延長してしまいました。手を挙げたのは2人だけです。しかし、教科者を読んでいるのはほんの数人です。指示されたことにあまり意味があると思えないこともあり、ほとんどの子どもが無視したのです。この間、子どもの集中力は下がり、ざわつきます。最初の「素早く」という指示が全く意味を成しません。
気持ちの変化をとらえるために、2つの段落で、それぞれ大造じいさんの気持ちに線を引かせます。ここで、ただ気持ちに線を引いて、それを発表するだけでは意味がありません。どのようにして見つけたか、何に注目するのかといったメタを意識する必要があります。小学校の低学年では、「思った」「考えた」と直接的表現から見つけます。学年が上がると、「表情」「行動」といったもので表現されるようになります。高学年になると、「情景描写」で表現されるようになります。天気、色、音といったものが何度も出てくると、その変化が読み解くカギになります。そういうことを意識して読むことが必要になります。過去にどんなことに注目したか復習してから始める。発表をただ板書するのではなく、「どのような言葉」「どのような表現」に注目したかを明確にして整理する。そういう場面が必要になります。しかし、授業者は、そのどちらもせずに、ただ発表させるだけです。そして、大造じいさんの残雪に対する気持ちに点数をつけるように求めます。子どもたちは反応できません。当然です。基準がないからです。基準がないからわからないと話している子どももいます。なかなか答えてくれませんが、1人が点数を言うと、今度はテンションが上がります。一つの例が基準となると言いやすくなります。しかも、根拠は必要ありません。無責任に考えられるので、テンションが上がりだすのです。
続いて次の場面に移ります。せめて、今発表した気持ちがどう変わるか、対比することを意識して線を引かせたいところです。例えば「たかが鳥」という言葉に対する表現はあるかと問うのです。こういう視点を意識して文を読む訓練が必要なのです。
授業者は、点数をつけることで、大造じいさんの残雪に対する気持ちの変化をわかりやすく意識させたいと思ったのでしょう。再び点数をつけて、点数が上がったことを根拠に気持ちが変わったことを説明しはじめました。感覚的に点数をつけて、それを根拠に説明しても読解力はつきません。素直に本文の表現を対比することで明確にすることができたはずです。国語として大切な活動は何かを考える必要があります。
続いて、大造じいさんがガンを捕まえようとした3つの方法に名前をつけるように指示します。この活動の意味がわかりません。名前をつけることよりも、大造じいさんの気持ちの変化とこの3回の挑戦の関係の方が大切です。そのことをしっかりと押さえる必要があります。必然性が必要なのです。また、授業者は3つの方法と言っただけで、具体的に確認しませんでした。これも要注意です。3つを全員が納得してから取りかかる必要があるのです。
子どもたちを3つにグループに分けて、それぞれにとらえ方を割り振り、名前をつけさせます。各自に渡した短冊に書かせて、黒板に並べて貼ります。
ここで、子どもたちにあらすじを書くように指示します。「えーっ」という声が上がります。当然でしょう。一つひとつ指示に従って作業しただけで、あらすじについては何も考えていません。そもそもあらすじとは何かということがきちんと定義されていません。「大造じいさんとガンは・・・お話しです」と文頭と文末を指定し、大造じいさんの残雪に対する初めの気持ちと終わりの気持ち、3つの方法を入れることを条件にします。なぜ、あらすじにこのことが必要なのでしょうか。これがわからなければこの活動に意味はありません。
国語の授業としては???が並ぶものでした。

授業検討はグループを活用した「3+1」で行いました。この授業をつくるにあたって、指導案の検討を全体で行い、模擬授業も事前に行ったそうです。参加者も、自分たちの授業として見ていたように思います。そのためか、模擬授業時点ではなかった、気持ちに点数をつけるがかなり話題になったようです。
今回、この市内の大学の学生も20人ほど参加しました。教員志望の学生に少しでも現場で学ばせたいという試みです。そのため、1グループの人数が多く、全員が意見を言うだけで、じっくり話し合って考えを深める時間を取ることができませんでした。気づいたことをあらかじめ付箋紙にまとめ、全員で模造紙にグルーピングするといった方法をとる必要があったように思います。
皆さんからでてきた意見は、どれもなるほどと思うものでした。私からは、皆さんから出てこなかった視点から、2点お話をさせていただきました。1つは授業の進め方にについて、全員参加を意識してほしいこと、もう1つは国語の授業として、教材を超えて共通な見方・考え方、メタな視点を意識してほしいことです。

今回の授業研究では、授業の準備段階から皆さんが前向きにかかわってくれていました。とてもよいことです。今後意識してほしいことは、授業改善の方向性です。中途半端にいろいろと手を出すのではなく、ポイントを絞って取り組む必要があります。本当に基本的なことでいいのです。まずは、全員が同じように取り組むことで、次のステップが見えてくるのです。授業改善のスモールステップを意識してほしいと思います。
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