子どもたちの変化を見る

昨日は中学校の学校訪問に同席しました。研究指定を受けている学校で、午前中は公開授業、午後からは授業研究でした。
前回訪問から1月あまりの時間が経っています。子どもたちの変化の様子が気になります。

3年生は、以前と同じく人間関係のよさが感じられる場面が多くありました。子どもたちの笑顔もたくさん見られたように思います。
前回授業研究をされた英語の先生の授業です。飲み物や食べ物を勧める文を中心としたグループで会話文をつくるという、前回と同じような場面で、子どもたちのテンションが落ち着いていたことに気づきました。習っていない文も自分たちで調べながらつくろうとしています。いろいろな飲み物や食べ物がたくさん例として用意されています。その場面を直接見た訳ではないのですが、おそらく子どもたちは例から選べるので、会話の中身をつくることに時間をかけずに、英文をつくることに集中できていたのではないかと想像します。自分でつくれない文があるとまだ先生に質問する子どももいますが、授業者は自分で調べるように促していました。明らかに前回の授業研究が活かされていることがわかります。「アレルギーがあるから食べられない」というような文を自分たちで調べて発表してくれたグループもあったそうです。授業者も手ごたえを感じていました。
また、社会科の人口ピラミッドをもとに人口問題を考える授業で、ある子どもが「老人の医療費をカットすれば、老人の数も減る」といったことを発表しました。ちょっと怖い発言です。授業者はそれでも、まず受け止めて、「・・・してきた人たちだけど、それでもカットする」と返しました。子どもは「しない」と自分で発言を訂正しました。教師が否定するのではなく、その子ども自身に訂正させたのはとてもよい判断です。次は、授業者が直接返すのではなく、他の子どもにつないで、友だちの意見で考えを修正することを目指してほしいと思います。友だちの考えを受け入れて考えを変えたことを評価することで子ども同士の関係もよりよいものにすることができます。
また、このような倫理的にちょっとと思うような考えが発表できるというのは実は素晴らしいことです。受けねらいというわけでなくこのような発表ができるというのは、安心して発表できる学級だということです。教師を含め学級の人間関係もちゃんとできているということです。授業者は「子どもたちがまとめを『ガリガリ』書いてくれる。たくさん、しかもていねいな字で」とうれしそうに話してくれました。ありがとうという言葉をたくさん使うように心がけてきたそうです。子どもたちがしっかり応えてくれるようになったと語ってくれました。
お二人ともベテランです。にもかかわらず、他者のアドバイスを受け入れるその姿勢は、見習うべきものです。いつも言うことですが、ベテランだからこそちょっとしたことを意識するだけで授業が大きく進化するのです。お二人の笑顔がとても印象に残りました。

3年生に共通することですが、グループ活動でかかわれない子どもが依然見受けられます。またそれとは別に、授業のじゃまはしないのだが参加しない子どもが各学級で目立つようになってきました。授業内容がわからない、ついていくことをあきらめた。そのように見えます。このような子どもが目立つようになるのが中間考査の終わった時点というのは、少し早いように思います。授業だけで何とかしようとするのは難しいかもしれません。個別に1・2年生の復習、やり直しの課題を与えるといった対応が必要でしょう。

1年生は、子ども同士の関係もよく、よい雰囲気で授業が進んでいきます。前回の訪問時と比べて子どもの表情が柔らかくなっているのが印象的でした。聞く体制ができるまで待ってから話すので、子どもたちの集中力もなかなかのものです。ただ緊張感が薄れたのか、集中するまでに少し時間がかかるように感じます。柔らかさが緩さにつながっているのかもしれません。このよい雰囲気を残しつつ、素早く切り替えができると素晴らしいと思います。
また、このよい人間関係が学級活動や行事でつくられているのではないかと感じさせる場面がありました。グループ活動やペア活動で作業が終わった、活動が止まったときに、授業と関係ない雑談をしている姿が目につくのです。友だちと和んでいるといってもよいかもしれません。日常の班活動と同じメンバーがグループになっていることと関係があるように思います。授業中、特定の友だちとだけでなく、学級のだれとでかかわり合えるようにすることを意識してほしいと思います。

昨年度授業アドバイスをした若手は以前よりしっかり子どもたちを見ていました。投げかける言葉も細かいところまで意識しています。子どもたちがしっかりと集中して授業に参加していることが廊下の反対側からも見て取れます。指摘されたことを素直に実行し続けていることが、子どもの姿からよくわかります。この教師に限らず、子どもたちが授業に真剣に取り組むようになってくると教科としての課題や活動内容が問題になります。この時間、この教材を通じて子どもたちにつけたい力は何かについて、もっともっと明確にする必要があると思います。ねらいが明確になれば、自然と評価も明確になります。授業が終わった時点での子どもの姿、振り返りの内容で授業がどうであったかよくわかります。そこには次の授業の改善へのヒントがあります。毎日地道に繰り返すことで教科力がついてきます。同じ教科の仲間で学び合うことで向上するところでもあります。全体での授業研究と平行して力を入れてほしいところです。

2年生は、ごく一部ですが、授業中に教室から出て行くような生徒がいるため学年全体が落ち着かないと感じました。先生方は怒鳴ったり、力で押さえたりしようとはしていません。そのため、教室の雰囲気が決定的に悪くなるような事態にはなっていません。先生たちがチームワークで頑張っていることがよくわかります。子どもたちも集中して課題に取り組むなど場面場面でよい姿を見せてくれます。とはいえ、どうしても集中力が続かないと感じることが多くなります。特に教師が説明して子どもが受け身になるような場面では、顕著です。こういう場面で授業の内容に直接関係ないことで子どもが声を出します。彼らも息を抜きたいのでしょう。高めのテンションで教師に声をかけます。子どもっぽい行動ですが、教師と関係が悪くないので起こる行動です。ここで無視をすると、エスカレートしていくことを知っているのでしょう、教師はその言葉に反応します。こういうことをきっかけに学級全体のテンションがおかしくなっていきます。こういった光景が目につくのです。また、教師の方からムダな話を振ることもあります。子どもの目先を変えて集中力を回復させたいという思いでしょう。しかし、一度上がったテンションを下げるのは難しいことです。この学年に限らず、この学校の生徒はテンションが上がりやすい傾向があります。テンションを上げることよりも、積極的に取り組める活動を増やすことで集中力を持続させるようにするとよいでしょう。テンションを上げ気味の生徒に対しては、ちょっと落ち着いた瞬間をとらえて「おっ、落ち着いたね。いいよ」とほめる、ペアレンタルトレーニングの手法が有効でしょう。

今回授業を参観して学校全体で感じたことは、個人での作業にこだわりすぎることです。まず個人で作業をしてから、グループやペアの活動に入るという形を取っているのです。自分の考えがなければグループ活動でも積極的に参加できないからという理由も想像がつきます。しかし、個人作業の段階で手がつかない子どもはその時間のうちに集中力を失くしてしまう恐れもあります(個人作業にこだわりすぎない参照)。
授業を見ていると、友だちの手元を見たり、相談を始めたりしています。子どもたちは、自分から相談できるようになっています。であれば、「どうしてもわからなければまわりの人に聞いてもいいよ」と相談することを許可したり、最初からグループの隊形で個人作業を始めて、相談しやすくしたりすることも視野に入れた方がよいと思います。

グループ活動では、子どもが考えるために必要な知識や情報は何かが意識されていない課題が多いように感じました。一部のグループが行き詰って活動が止まっているときに、教師がヒントを出しに行ったりしていますが、そうすると、結局安直に教師を頼るようになってしまいます。必要な知識や情報が意識されていれば、グループ活動に入る前に、見通しを持たせておくこともできます。途中で一旦活動をやめて、どのように取り組んでいるか過程を共有することで、必要な知識や情報を整理することもできます(グループ間格差をどうする参照)。
また、特定の子ども(班長?)が場を仕切っているように感じることがよくあります。わかっている子がこうだと一方的に教えている、説明している場面が目につきます。「わかれ」という説得型の活動です。そうではなく、「教えて」と聞く方が主体となって「わかろう」とする、納得型の活動を目指すことが必要です。「わからせる」ことではなく「わかろうとする」ことにより大きな価値を見出すのです。うまく説明できた、教えることができたということよりも、友だちの説明で理解できた、わかったことを高く評価するのです。

子どもが学び合うための土台が少しずつできてきたように感じます。土台をより強固なものにすると同時に、その上に何を立てるかという教科の課題や目標が問われるフェイズになってきました。これからが、本当に先生方が知恵を絞り工夫をするときです。学校のこの後の変化が楽しみです。

授業研究については日を改めて(授業研究から学ぶ)。

小学校で授業アドバイス

先週末は小学校で授業アドバイスをおこなってきました。今年度4回訪問させていただくことになりました。20代の若手を中心におこないます。

今回は空き時間の方と一緒に解説も交えて授業を参観しました。共通していたのは次のようなことでした。

・指示がまだ通っていないのに次の場面に進む。
・作業中に追加の指示をするので、徹底しない。
・友だちの意見を聞くことを意識させていない。
・作業が早く終わった子どもへの指示が予め用意されていない。
・一つひとつの場面で、子どもにどうあってほしいか意識できていない。
・挙手指名だけで進むので、わかった子どもしか参加できない。
・一問一答が多い。
・子どもの外化を評価しない。
・ほめる言葉が少ない。
・・・

授業規律がまだ十分に確立していないようでした。子どもたちも落ち着いていますので、今の時期であれば教師が意識をすればまだ簡単に改善できます。子どもをほめることで授業規律をつくるようお願いしました。

いくつかの面白い場面や気になる場面がありました。
授業中に前の席の子どもが身を乗り出して水槽を見ています。時々先生の方を見ます。授業者はそれに気づきました。ここで、すぐに注意をするかと思いました。この先生は、できていないことをチェックする視点で子どもたちを見ていたからです。しかし、何も言わずにその子どものそばに行きました。授業者の顔が笑顔になりました。飼育していた蝶が羽化していたのです。子どもはそのことを伝えたかったのでしょう。しかし、声を出して授業を中断するわけにはいきません。そこで先生に気づいてほしいとサインを送っていたのでしょう。授業者の笑顔がその子どもにはとてもうれしいものだったに違いありません。
授業者は中断しようかどうか少し悩みましたが、列ごとに素早く見るように指示をしました。私たちが授業を見ているので、あまり中断させたくなかったのでしょう。早く席に戻るように指示をします。「ちゃんと見えた?よかったね」「じゃあ、席に戻ろうか」と、まず見ることができたかを確認してあげてから、戻るように指示をする。こうすることで子どもたちも納得してもう少し素早く動けたかもしれません。
この先生には笑顔を増やすことと同時に、「できない子どもを減らそうとするのではなく、できる子どもを増やそうとする」ことをお願いしました。私の言いたいことはすぐに理解していただけました。とてもよい感覚を持っている方です。本人もきっと子どもをもっとポジティブな視点で見たいと思っていたのでしょう。
その日あった道徳の時間で意識して笑顔をつくってみたところ、子どもたちがとても集中してくれた。余裕を持つことができて、授業時間が短く感じられた。あとで、こう報告してくれました。すぐに実行する、とても素直な方です。よい手ごたえを得てくれたことをとてもうれしく思いました。

他の地区からこの学校に移ってこられた先生がいました。とても柔らかい表情でうなずき、子どもたちをとてもよくほめます。以前勤務されていたところは、生活指導面で大変な時期があった学校だったようです。その学校はそれを乗り越える過程で子どもたちを受容することを大切にしてきたのでしょう。この先生の姿はそのことの現れのように思いました。
子どもが発言する場面では、子どもをしっかりと見ながら話を聞きます。しかし、発言者だけを見ていて、他の子どもを見ることはしていません。子どもたちも先生を見ていて発言者を見ていません。子ども同士をつなぐことを意識して、学級全体を見るようにお願いしました。子どもたちとの関係をしっかりつくることができる方なので、視点を変えればすぐにできるようになると思います。

子どもたちが積極的に参加している国語の授業がありました。説明文の構成を考える場面で子どもたちが自分の考えを発表します。一生懸命考えたのでしょう。しっかりと友だちの発表を聞いています。授業者も、同じ考えの子どもがいるか確認をしているので、指名されなかった子どもも認められたと感じているのか集中力を切らしません。いくつかの考えが出てきました。どれが正しいのだろうと、子どもたちは真剣です。ここで授業者は説明を始めました。「・・・だから、これは・・・でなければいけない。だから、これは×」と一つの考えに大きく×をつけました。子どもたちの中から何ともいえない空気が漂ってきます。一緒に授業を見ていた先生は、一言「悲しい」とつぶやきました。子どもの気持ちになっての言葉でしょう。とてもよい感覚を持っている方です。説明が続くにつれて、今まで集中していた子どもの意欲がみるみる下がっていきました。ネガティブな評価は子どもたちの意欲を低下させることがよくわかります。
時間がかかるかもしれませんが、考えの異なる点を焦点化しながら子どもたちに説明させ、自分たちで結論を出させるようにしたいところです。友だちの説明を聞いてなるほどと思えば考えを変えてもいい。考えを変えたことを評価すれば、間違えていた子どもも決してネガティブな気持ちにはなりません。とはいえ、このような進め方は決して簡単ではありません。次の課題でしょう。

6年生の社会科で、遣唐使に関する川柳をつくる授業がありました。なかなか挑戦的な試みです。つくった川柳をグループで1つに絞り黒板に書かせます。書き終わったところで時間がなくなってしましました。川柳をつくらせたねらいを授業者にたずねると、出てきたキーとなる言葉を子どもたちに問い返しながら、知識の確認をしたかったようです。この授業は学年で共通に取り組んでいるようでした。よいチームワークだと思います。
川柳をつくるには遣唐使に関する知識が必要で、それを教える時間とつくる時間が必要なので時間が足りなくなった。どうすればよかったのかと質問をいただきました。ポイントは、知識は原則「教える」か「調べる」かしかないということです。どちらを選ぶかの判断が大切です。川柳をつくるのは子どもが主体の作業です。教師主体の「教える」ではなく子どもが主体となる「調べる」作業と一体化することで時間を節約することができます。ここで大切となるのは調べる必然性を、川柳をつくる作業の中に組み込むことです。たとえば、「教科書や資料集にある用語を必ず入れるように」といった条件をつくるのです。評価の基準も「用語をうまく使っていて、なるほどと納得できるもの」というように用語を意識したものにします。グループで一つに決めるということはせずに、「たくさん集める」「自分が一番いいと思ったものを選ぶ」「自分が選んだものに使われている用語を説明できるようにする」といったものにすることで、知識の獲得と川柳が結びつくと思います。発表も個人でおこないながら「同じ用語を使った人」とつなげていき、その用語がどこにあるか他の子どもに調べさせたりすることで全員が参加することが可能になります。このような展開を考えました。私にとっても学びの多い授業でした。

以前この市の他の小学校でも授業アドバイスをさせていただいたことがあります。その学校でも、初めて授業を見たときに基礎的なことができていないと感じる部分が多くありました。しかしその後、みるみる進歩していきました。先生方がとても素直で前向きだったことが印象に残っています。この学校の先生方もその点は全く同じでした。この市の先生方の特徴なのかもしれません。きっと同じように大きな進歩を見せてくれることと思います。次回の訪問が今からとても楽しみです。

いつものことながら、授業から大いに学ぶ(長文)

昨日の続きです。印象に残った授業がいくつかありました。
3年生の数学で、53×47を(50+3)(50−3)と和と差の積に直して計算する問題の答を発表する場面でした。指名された子どもが黒板に(53−3)(47+3)と書いてわからなくなってしまいました。授業者は誰か助けてくれないかと子どもたちに声をかけますが、反応がありません。子どもに助けを求めるのはよい対応なのですが、この場合どうすれば助けられるのか、答がわかっている子どもも戸惑っていたのだと思います。「助ける」が難しいときは、「気持ちをわかる」という問いかけが有効です。「○○さんがこの式を書いた気持ちわかるかな」と問いかければ、「50をつくりたかった」といった言葉が出てきたのではないかと思います。このキーとなる50を考えることで、正しい答を導くことができたのではないでしょうか。
授業者は誰に助けてほしいか聞きました。子どもに逆指名させようというわけです。これはかなり酷な判断を強いることになります。絶対大丈夫と思える友だちしか指名できません。そうでなければ、自分が指名した友だちに恥をかかせることになります。苦渋の判断は「先生」でした。子どもの気持ちがよくわかります。授業者は「先生は困るな・・・」と結局自分で指名しました。この時点で指名された子どもは「助ける」のではなく「正解を発表する」ことは想像できます。ここは「(50+3)ってどういうこと?」とか「(50+3)はいくつ?」「(50−3)は?」と問い返してあげるといった対応をしたかったところです。おそらく授業者は思いつかなったのでしょう。
案の定、指名された子どもは正解を板書し、「・・・すると、いい感じの数(字)になって・・・」としっかり説明しました。教師はよい説明をしてくれたのに子どもの反応が薄いことが不満でした。「よければ拍手するんだよ」と子どもたちに言います。この言い方では、教師がこの説明は拍手に値するから拍手をしろという強要になります。まばらな拍手が起こりました。なぜ子どもが拍手しなかったのかを考える必要があります。「助けて」という問いかけに、「正解」を説明したのでずれを感じたのかもしれません。それとも、説明がよくわからなかったのかもしれません。拍手をしない子どもたちに、「どう、納得した」「なるほどと思った」「どこがわからない」と問いかける必要があります。この拍手というのは、注意しなければいけない行為です。自分の確固たる意志のもとに拍手をさせないと、なんとなくみんながするからと考えなしに拍手するようになります。拍手をしたら必ず、その理由を問いかけないと、無責任な行為となります。「たくさん拍手してくれたね。理由を聞かせてくれる。○○さん」「よかったから」「どこがよかったの?」と迫ることで、しっかり自分で判断するようになります。拍手された方も形式的でなく、ちゃんと評価されたと感じます。こういった問いかけなしに拍手をするのであれば、しない方がましです。「いわんや、強要をや」です。
結局、最初の子どもの板書は虚しく残されたままで、だれにも助けてもらうことはできませんでした。心の中に何が残ったでしょうか。授業者の思いとは裏腹に冷たい授業になってしまいました。救いは、最初の子どもが席に戻った時に隣の生徒がすぐに身を乗り出して、説明していたことです。その光景は子どもたちの人間関係のよさを教えてくれました。
拍手の後、授業者は「いい感じの数」を取り上げました。ここからが数学です。どう展開するかと期待しましたが、あっさり次の問題に進んでしまいました。「いい感じの数ってどんな数」「いつもそうなるの」「どういうとき」と数学の授業の決まり文句で問いかけることで、2数のかけ算は必ず2乗の差にできること、2数の平均が「いい感じの数」になれば簡単に計算できることに行き着きます。感覚的な言葉をより明確な数学の言葉に昇華させる。常に成り立つことなのか、特別な場合だけなのか考える。数学的なものの見方・考え方を育てるよい機会でした。数学の授業に共通する問いかけをまだしっかり持っていないようでした。
笑顔で接する姿に、子どもたちを受容し活躍させたいという授業観が伝わってきます。このことは大いに評価できます。この授業観にそった授業を展開するための技術を身につけてほしいと思います。一方数学の教師としては、もう一度数学とはどういう教科なのかを問い直してほしいと思います。これからに期待したいところです。

教職2年目の社会の授業は、交通機関の発達を考える授業でした。導入で子どもに「どこへ行きたい?」と問いかけます。無責任に答えられる質問なので、どんどん声が上がります。子どものテンションは一気に上がります。いつものことなのでしょう。テンションを上げていく生徒がいる一方で、冷めた表情の子どもが目立ちます。特に女生徒が多いようです。時間をかければかけるほど状況は悪くなるのですが、5分以上も意味のないやり取りを続けます。一部の子どもがはしゃぐことが楽しい授業だと錯覚しているのです。主発問などは子どもが考えるような工夫をしています。こういうムダを切り詰めればじっくり考える時間をたくさん取ることができるのですが、残念です。こういう授業観を崩すのはなかなか難しいことです。
それに対して、ベテランの授業は対照的でした。ルネサンスの3大発明と当時の事件との関係を問います。「活版印刷は何と関係ありそう」という質問に、何人も声が上がります。子どもたちは「宗教改革」とつぶやきますが、決してテンションは上がりません。テンションを上げなくても、教師が取り上げてくれることを知っています。また、必ず理由を聞かれることも知っています。活発ではあるが、落ち着いて全員が参加する授業でした。

3年生の社会で挑戦的な授業に出合いました。太平洋戦争で「いつ戦争をやめれば原爆は投下されなかったか」という課題でした。子どもたちは考えることができるのだろうかと思って見ていましたが、しっかりと友だちと考えを伝えあっています。どんな考えが出るだろうと思って発表の場面を見ていました。「開戦時」「ポツダム宣言」以外にもいろいろな考えが発表されます。「レイテ沖海戦」が出てきたのにはびっくりしました。私の想像を超えていました。なかなかしっかりした根拠を述べてくれました。説明を聞きながら資料集のレイテ沖海戦のところを見ている子どももいます。発表の後、「同じところの人」と聞いたところ数人の手が挙がりました。その子どもの意見も聞きたいところですが時間が足りませんでした。黒板には整理しやすいように時間軸が引いてあり、開戦と終戦が書き込まれています。理由を書く欄もあります。しかし、あえて板書しませんでした。ここはしっかり友だちの話を聞いて考えてほしいと思ったからでしょう。子どもたちに考える力をつけようとしていることがよくわかります。少しずつ子どもが育ってきている手ごたえを感じます。今回は、なかなか全員がすぐに自分の考えを持てないような課題です。ここは途中でいったん発表させ、いくつかの考えを焦点化してから再度考えさせるとよかったかもしれません。そうすることで考えを持てなかった子どもに手がかりを与えられますし、持てた子どもも友だちの考えと比較しながらより深く考えることができるからです。授業者にはこのことを伝えました。少しでもよい授業がしたいという授業者の思いが伝わりました。どのように進歩していくか今年もっとも楽しみにしている先生の一人です。

理科の葉緑体の観察の授業でした。授業者は葉緑体の説明をした後、実験の説明に入ります。顕微鏡を使ってオオカナダモを400倍で観察すると葉緑体が見えることを伝えて観察にはいりました。子どもたちは机を移動してグループになり顕微鏡の準備をします。しかし、どうにも動きが遅いのです。理由はわかります。意欲がわかないのです。観察する前からその結果はわかっています。観察から新たな何かを見つける、知ることはありません。教科書や資料集に載っている写真を見ることと何ら変わりないのです。
「葉っぱは緑だけれど、中まで全部緑?本当?」と問いかけ、「どうすれば正しいかわかる?」と予想から実験や観察を考える。「観察していくつのことに気づけるかな」と課題を与え、「みんなが見つけたことから何が言えるかな?」と問いかける。このような理科的なものの見方や考え方を意識した展開を考えてほしいところです。授業者もちゃんとそのことに気づいて反省していました。自分で気づく力があるから大丈夫です。毎日の授業を大切にし続ければきっと大きく進歩することでしょう。

2年生の酸化銅の実験でした。子どもたちの様子が落ち着きません。雑然としているのです。4人グループですが2人ずつ横一列に並んでいます。その間には水詮があります。2+2に分離しているのです。実験器具は一方に置いてあります。当然のことながら実験器具のない方の生徒の集中力がありません。多くは女子生徒でしたが、授業に関係のないムダな話をしています。教室全体に緊張感がありません。実験の注意や指示はどこにも書いてありません。おそらくワークシートか実験ノートのようなものを使っているのでしょう。しかし、子どもたちはそれをしっかり見ながらやっているようには見えません。「事故が起こってもおかしくありませんね」と同行していた先生にこえをかけようとした時です。「熱っ」という女子の声が聞こえました。試験管の熱した側をうっかり持ってしまったのです。授業者はそれを見て「熱いに決まっている」と言っただけでした。今度は反対側を持って試験管の中の酸化銅を取り出そうとします。ところが中身をだそうと試験管の先を机にあてたところ、試験管が滑って熱いところをつかんでしまいました。思わず試験管を放り出しました。試験管に残っていた酸化銅が床にこぼれました。試験管を放り出したのでよかったですが、割ってはいけないとしっかり持てばやけどをするところでした。授業者は雑巾で床をきれいにするように指示をしました。女生徒は2人で床を拭きます。その指示を出したすぐあと、実験をやめて前を向くように全体に伝えました。全員が前を向いてから、まだ掃除をしている2人に席につくように指示しました。ちょっと驚きです。今年初めて教壇に立つ講師ですが、それにしてもなんと冷たい対応でしょう。そのことに気づかないのでしょうか。ちょっと悲しくなりました。直接話す時間は取れませんでしたが、準備室にいた先輩にこのことを伝え指導をお願いしました。講師の場合、初任者のような研修の機会はほとんどありません。安全に配慮の必要な教科は特に何らかの指導や研修の機会を設けることが必要だと強く感じました。

英語の授業で面白い場面に出合いました。T1とT2が教室の前後でペアの会話をチェックしていたのですが、子どもたちの様子が大きく違っていたのです。T2のところでは、子どものテンションが上がってうるさいくらいです。とにかく声を出すことしか意識していません。一方、T1の方では子どもは教師にきちんと聞いてもらおうと集中して取り組んでいます。どこが違うのでしょうか。T1は柔らかい表情で子どもたちの一言一言にうなずいています。先生がちゃんと聞いていることが子どもたち伝わります。教師が子どもを見る、受け止めることの大切さがよくわかる場面でした。このT1の机間指導も特徴があります。歩きながら何度も後ろを振り向くのです。死角をなくす。子どもたち全員を見る。そのことを徹底しているのです。5年目の教師ですが、ベテランでもなかなかできないことです。若手の成長を見ることができることはとてもうれしいことです。

1年生の英語で、thisとthatを学習する場面でした。ボールなどを使いながら、”This is my ball.” ”That is your ball.”とsituationを英語で表現します。日本語で”this”は「これ」、”that”は「あれ」などとは説明しません。子ども自身に気づかせようとしています。とてもよい指導だと思います。一人の生徒が「わかった」と言いました。「近いときが”this”だ」という説明にみんな納得です。子どもの集中度がぐっと上がりました。とてもよい場面でした。しかし、英語の授業としては、日本語で説明させるよりsituationごとに正しく言えるか確認するにとどめた方がよかったかもしれません。それを見せることで他の子どもにも自力で理解する機会を与えることができるからです。残念だったのは、”this”と”that”の違いがわかった後、教師がボールを持って”This is my ball.”といった後、子どもたちにも”This is my ball.”と言わせたことです。ここは”That is your ball.”と言わせたいところです。とはいえ、英語を日本語に直して理解するのではなくsituationで理解させようとする姿勢は立派だと思います。聞けば、GDMの講座に参加したりもしているそうです。学ぶ意欲のある方です。今後に期待したいと思います。

毎月訪問している学校ですが、毎回学ぶことがたくさんあります。いつものことですが、授業は奥深いことをあらためて感じさせられます。このような機会を得られることに、感謝です。

授業参観で面白い場面に出会う

昨日は中学校で授業参観とアドバイスをさせていただきました。中間試験も終わり、校外行事等を控えて子どもたちが浮つきやすい時期です。ゴールデンウイークのころと比べて子どもたちがどう変わっているかとても楽しみでした。

3年生はさすがに落ち着いているのですが、授業によっては一部の生徒の集中力が落ちていたり、意欲が感じられなかったりする光景を目にしました。もう少し後から頑張ればいいと考えているのでしょうか。それとも、ついていけなくなっているのでしょうか。一時的なものならよいのですが、今後どのように変わっていくのか気になるところです。

2年生は4月のころの、1年生のような新鮮な気持ちで授業に向かっている姿は見られなくなっていました。新しい先生にも慣れて授業によって見せる姿が変わってきています。教師が一方的に説明する授業では、明らかに聞いていない、集中力を失くしている子どもが目立ちました。説明の多い先生はテンションが上がりやすく、テンションが上がると子どもが見えなくなります。そのことも関係しているのでしょう。

1年生ですが、面白い場面にいくつか出会いました。
子どもたちが板書を写さず先生の話を聞いている場面を目にしました。今何をするべき時かきちんと伝わっていると感心しました。ところが集中力の変化が激しいのです。全員顔をしっかり上げて聞いていたかと思うと、下を向いたりボーっと視線が泳いだりします。その理由はすぐにわかりました。先生が黒板の方を向いて話すと集中力が下がるのです。似たような傾向は説明中心の授業に多く見られました。外からであればこのことはよくわかりますが、授業者は死角で起こることなので気づきにくく、見過ごされやすいことです。子どもたちのこの行動はちょっと気になります。目立つほどに切りかわるのは、教師の顔色をうかがう傾向があるのかもしれません。もしそうであれば、教師の見ていないところでトラブルを起こしやすい可能性があります。

異なる3つの学級での書写の時間です。黒板には何も書かれていないのでどのような指示があったのかはわかりませんが、子どもたちは淡々と書きつづけています。集中力が続かない子どもも出てきます。子どもたちの書に向かう姿勢はばらついています。明確な目標や途中での評価がないと、なかなか集中は維持できません。ところが1つの学級は非常に集中度が高いのです。たまたま授業の前半だからなのだろうと思ってようすを見ていると、案の定集中力を失くす子どもが出てきます。最初はそろっていた子どもたちの姿勢がバラバラになっていきます。他の学級と同じ状態になるかと思っていると、スーッと集中力が戻っていくのです。気がつくと最初の状態に戻っています。これはすごいことです。試験の成績もよい学級ということですが、これはこれでちょっと怖い気もします。先ほどの場面などとあわせて考えると、やはり教師の顔色をうかがっている可能性があります。いや、それはちゃんと空気が読めているのだからいいという考えもあります。否定はしません。しかし、教師の働きかけや影響下で育ってきた結果でないとすると、何かあった時に教師がコントロールできない可能性があります。この学級がこの後どうなっていく気になるところです。次回の訪問時には集中して見てみたいと思います。

また、ある学級で授業による子どもの姿の違いに面白いものがありました。担任の授業ではほぼ全員が挙手します。答えやすい問題だったのかもしれませんが、どの子も笑顔で参加しています。次の授業では、同じく多くの子どもがわかっているはずなのに挙手は数人です。とはいえ、先ほどの授業ほどではないにせよ、それほど表情は悪くありませんでした。ところが3つ目の授業は、子どもたちの表情も悪いのです。面白くなさそうで集中していません。この違いは何でしょう。担任の授業では、人間関係ができているので子どもは安心して参加しています。次の授業は、おそらく挙手して発言することに安心感がないのです。教師が正解不正解を判断する一問一答式であることが影響していそうです。3つ目は教師が一方的に説明している場面だったので、受け身の時間が長いことが原因でしょう。ここで気になるのは、このような姿の違いに授業者は気づけないことです。3つ目の授業でも子どもたちは表面的には落ち着いています。比べてみなければ、特に問題と感じない可能性が高いのです。早目に修正していかないと学級経営、学年経営に支障をきたすことになります。

多くの先生が入れかわっても、「子どもたちを活躍させよう」「できるだけ受け身にさせないようにしよう」という授業を目指す先生がまだまだ多い学校です。そういう授業が一定数あると、説明中心の授業は子どもにとってなかなか受け入れられないものです。説明中心のスタイルでやってきた先生にとっては、今までやれたことが上手くいかない、やりにくいと感じる学校です。この日一緒に回った先生の一人もそのように感じていました。しかし、難しく考える必要はありません。

・子どもに身につけさせたい知識と考えさせたいことを明確に分ける。
・知識は教えるか調べさせる。
・考えさせたいことは教師が説明するのではなく、できるだけ子どもの発言で進める。
・その時間をつくるために、子どもから出てきたことを教師が再度説明しない、まとめようとしない。
・子どもが安心して発言できるように、正解不正解の判断を教師がしない。間違えても本人に修正させる。
・子どもの「うなずく」「首をかしげる」「つぶやく」といった反応をとらえて、「いまうなずいてくれたね。どういうことかな。聞かせてくれる」というように発言につなげる。

こういうことを意識すればいいのです。子どもたちはそういう授業に対する慣れがあるので、ある程度経験のある教師であれば、その気にさえなれば意外とできるものです。要は挑戦してみようとすることが大切なのです。

前回訪問時の現職教育では、子どもの発言の途中で板書をしないといった基本的なことを話しました。うれしいことにその時話したことを意識して取り組んでいるという言葉を何人もの先生から聞くことができました。素直で前向きな先生方です。授業による子どもたちのブレがよい方に揃っていくことが期待できそうです。

個々の授業で感じたことは明日にでも。

文部科学省で審査員を務める

昨日は文部科学省に「学校の総合マネジメントの強化に関する調査研究」の審査員としておじゃましました。応募者の説明を聞き、質疑応答を終日おこなったのですが、とてもよい経験をさせていただきました。

感心したのが審査員に対する準備です。筆記用具や付箋、メモ用紙も机上に用意されています。付箋はサイズの違うものが、筆記用具も色違いのボールペン、鉛筆に消しゴムもあります。こういったことは当たり前のことで特筆すべきことではないのかもしれませんが、相手意識を持った対応だと思いました。見習いたいことです。

審査の内容については詳しく書けませんが、学校マネジメントといっても、本当にいろいろな視点、切り口があるのだと思いました。また、応募者の属性によっても受ける印象が異なることも面白く感じました。大学の研究者はその調査研究に対しての思い入れが強く感じられます。シンクタンク系はクールで、その必要性を論理的に伝えようとします。企画書としては後者の方がわかりやすいのですが、前者も訴えるものがあり、どちらがよい、悪いというものではありません。研究者の世界にもいろいろなスタイルがあるということです。
他の審査員の方の質問やコメントも私にはない視点がたくさん含まれていて、とても勉強になりました。

この審査を通じて感じたのは、文部科学省の思いです。この調査研究が現場の学校マネジメントの強化に役立つかどうかを一番に考えています。そこには自分たちが指導して学校を変えてやるといった上から目線ではなく、現場の役に立つという支援の姿勢が感じられました。担当者の方も、学校現場の大変さを知っている、知ろうとしていることが言動の端々から伝わります。私が現場の教員であったときに感じた文部省のイメージとは全く異なる姿です。組織として感じることと個人の印象の違いなのかもしれませんが、実際に私がお会いする文部科学省の方々に共通する印象です。現場の先生方の文部科学省に対するイメージは、今でも私が感じていたような「上から押しつけてくる」といったものだと思います。このギャップが埋まってほしいと思いました。

この日1日、いろいろなことを考え学ばせていただくことができました。このような機会を得られたことに感謝です。

中学校で講演

昨日は中学校で講演をおこなってきました。学級経営を中心にこの時期チェックすべきことをお話しする予定でした。講演に先立ち学校全体の授業の様子を1時間参観させていただきました。

全体の印象は目指すべき授業規律を教師が具体的に意識できていないということでした。教師が黒板に向かって話す。子どもが板書を写しているのに話していたり、教科書を開くように指示しても全員がまだ開いていないのに指名したりといった場面を目にしました。子どもの話を聞く姿勢も気になりました。教師の方をしっかり見ている生徒が少なく、体が反っている子ども、取り敢えず体は起きているが教師の方を向いていない子どもが目立ちます。いわんや友だちの方を向いて話を聞いている姿はほぼ皆無です。子どもたちが話を聞くことに価値を見出していないことがよくわかります。一問一答形式で授業が進み、子どもが答えた後、すぐに教師が説明し、続いて板書します。最終的に板書を写せば困らないのですから、聞くことに意味がないのです。
先生方にやる気がない、いい加減というのではありません。どなたも一生懸命に授業に臨んでいることは伝わります。しかし、目指す子どもの姿が曖昧なまま授業を進めてしまっているのです。漠然と子どもが話を聞いてくれることを意識はしているのですが、子どもがどのような姿になっていればよいのかが明確になっていないのです。

今年度「生徒が主体的に活躍できる場を保障し、存在感や自己肯定感を育てる」ことを目標とされたそうですが、目標を達成する手立てもまだ共有化できていないと感じました。
そこで、講演は当初予定していた「この時期にチェックすべきこと」についての話を減らして、子どもが活躍できる場をどうつくるか、自己肯定感をどう育てるかについての基本的な部分をより多く話させていただきました。

まず第一歩は、安心して暮らせる学級をつくることです。その基本は学習・生活規律が守られていることです。そして、子どもが教師からも仲間からも認められことです。ここで気をつけなければいけないのは、教師が話して聞かせば規律が確立する、注意をすれば守られるようになるわけではないことです。ほんの少しでもできたことを認め、一人でもできればそれをチャンスととらえ広げる。足りないところを指摘するのではなく、進歩をほめる。こういう姿勢で臨むことが必要になります。また、教師だけでなく、友だちに認められる場面をつくることも大切です。
認められる場面をつくるには、子どもが外化してくれなければ話になりません。そのためには外化をうながすと同時に、外化したことに対してポジティブに評価することが必要です。常に、「わかった人」と問いかけられれば、わかった子どもしか答えられません。わからない子どもが発言できるような工夫が必要です。「困った人いない?」とわからない子どもに寄り添うことや、「今の○○さんの意見を聞いて、なるほどと思った人」と、わからなくてもちゃんと聞いていれば参加できるような問いかけが大切です。また、子どもが意を決して発言しても、誰も聞いていない、評価されなければ否定されたと感じます。まずは、子どもの発言をしっかり受け止めて、受容する雰囲気を学級全体につくる必要があります。子どもの発言に、教師が笑顔で「なるほど」とうなずく。指名する時も、「○○さん答えて」ではなく、「○○さんの考えをみんなで聞こう」と友だちの考えを聞くことをうながし、仲間が聞いてくれる環境をつくる。こういうことが大切になります。

時間の関係もあり、基本となることだけに絞りましたが、こういったことを意識するだけで子どもたちの表情は変わっていくはずです。まずは教室に安心感が生まれることを期待しています。

講演終了後、教頭と懇談する時間をいただけました。授業参観の時に同行いただいたのですが、その際に私が指摘したことに関することや講演の内容を具体化するための視点などをたくさん質問いただきました。また、担当教科が国語ということで、国語の授業の進め方についてもお話することができました。いろいろな研究会や研修に積極的に参加されている方です。私にとっても参考となる話をたくさん聞かせていただきました。今年度の異動で赴任されたのですが、この学校に新しい刺激を与えてくださることと思います。

次回訪問時に、学校にどのような変化が起こっているかとても楽しみです。学校の中に教師の笑顔も子どもの笑顔も増えていることを願っています。

授業参観と現職教育

先週末、中学校で授業参観と現職教育でお話をさせていただきました。その前の週にも訪問した学校です(子どもたちの姿から多くのことに気づく参照)。

前回と大きく印象が変わることはありませんでしたが、授業者による子どもの姿の差がより大きくなっていたように感じました。この時期は、子どもたちは新鮮な気持ちで授業にのぞんでいるため、教師が身につけてほしい授業規律を意識して指導すると定着しやすい時です。そのため、わずか1週間あまりでも教師の意識の違いが子どもの姿の差となってあらわれていました。

若手の1年生の英語の授業です。子どもたちが素晴らしい姿勢で教科書を読んでいました。教科書の角度までそろっています。このことにこだわっているのがよくわかります。子どもたち全員にきちんと口を開けて読んでほしいという授業者の気持ちがうかがえます。授業者は自分の教科書を見てはいますが、必ず目を上げて子どものようすを見ています。子どもたちをしっかり見ているからこそ、徹底できているのです。

社会科の授業で机をコの字にして子ども同士に意見を言わせていました。授業者が子ども同士が互いを見ながら聞き合ってほしいと考えていることがよく伝わりました。この教室ではコの字にすると真ん中の間隔が狭く、教師が中に入ることができません。そこで授業者は自分の目線を下げて子どもの視線から外れるようにしていました。その上で、友だちを見ていない子どもには友だちを見るように、目線や手で指示をしています。子どもたちは互いを意識して聞きあえるようになりつつあります。意見に賛成の人は拍手するように指導していました。このとき、拍手しない子どもがいました。その中の一人を指名して、その理由を聞きました。友だちの説明の中の「ファシズム」という言葉がわからないということです。そこで授業者は、「説明できる人」と問いかけ、挙手した子どもに説明をさせました。わからない子どもとわかっている子どもをつなげようとするよい場面でした。
ここで、「ファシズムがわからない人、ほかにもいる?」とわからない子ども同士をつなぐことで、より多くの子どもが授業に参加しやすくなります。その上で「助けてくれる人」とつなぎたかったところです。また、ファシズムの説明をした子どもは、教科書(資料集?)を読み上げました。そうであるならば、「どこに書いてある」と聞き、わからない子ども自身に読んで理解させるようにするとよいでしょう。こうすることで、どうやって知識を得ればよいかがわかりますし、受け身で聞くより理解しやすくなります。その上で、「どう、ファシズムがわかった?」と確認し、まだわからないようであればどこがわからないかをたずね、また子ども同士で解決させるのです。
とはいえ、わからない子どもを大切にしよう、子ども同士をつなげようという意識があるので、授業は確実によくなっていくと思います。

学級活動の時間でも、授業者の差はあらわれます。子どもたちに任せていても、教師が子どもを見ているかどうかは大きな影響があります。教師が何も言わなくても、子どもたちを笑顔で見ているだけで集中力が違います。この時期、子どもが育つまでの間は教師が見守ることがとても大切なことがよくわります。
1年生全体の部活動の人数調整の場面で、直接指導をしていないときもずっと笑顔の若手の教師がいました。簡単なようでなかなかできることではありません。目に入る姿がいつも笑顔であれば、子どもたちはその教師が自分たちを笑顔で受け止めていると感じます。教師が自分たちを受容していると感じ、安心と信頼感を持ちます。実はその教師は学年の生活指導担当です。若い生活指導の教師は、力で押さえようとする傾向が強いのですが、それでは反発を生んでしまいます。まず笑顔で受容しているからこそ、いざというときの指導に従ってくれるのです。このことをわかっているからこそ、意識して笑顔でいたのだと思います。

現職教育は、校務主任の道徳の模擬授業を研修主任がコーディネートして、この学校で大切にしているものを伝える試みでした。授業者は意図的によくない場面もつくり、コーディネータは参加者の気づきを拾い上げていきます。息の合った展開でした。道徳の教科内容ではなく、子どもを見ることにスポットを当てた研修となりました。生徒役の先生も、最初はぎこちなかったのですが、次第に集中しなかったり、おしゃべりをしたりして生徒の気持ちになって参加してくれました。答えられない生徒役に対して、授業者は否定せずにしっかりと受け止めてくれます。感想を聞いたところ、「受容してもらえると安心する」と答えてくれました。この学校で目指していることを肌で感じていただけたのではないでしょうか。おしゃべりをしていた生徒に対しての指導も、一律に注意するのではなく、状況をまず見極めたうえで対応することなども示していただけました。

最後に私の方から、この学校が目指しているものとそのために今の時期に大切にすべきことをお話させていただきました。
この学校で見られる「子どもが笑顔で集中する姿」というのは、なかなか他の学校では見られないものです。そのためには、子どもをしっかりと受容し、子どものよい姿を認めること。できないことを指摘するのではなくできたことをほめること。ほめるためには、そのような姿が見られるような活動をする必要があることなどを、前回と今回見たよい場面を例にして伝えました。具体的な例をこの学校の先生方の授業場面で伝えることができるのはとても素晴らしいことです。研究指定を受けたときに校長がおっしゃっていた「新しい伝統をつくる」ことができつつあるのだと思います。
今年この学校に赴任した方にとっては、この学校が目指すものを言葉で聞くだけでなく模擬授業でも見ることができて、とてもわかりやすかったのではないかと思います。皆さんがとても真剣に参加されているのがよくわかりました。この時期にこのような現職教育を企画した教務主任は立派だと思います。新しく異動して来た方が戸惑うことが多いことを予想した上で予定に組み込んでいたのです。その細かい内容は前回私が訪問した時の学校全体の様子をもとに企画されました。急なお願いにもかかわらず快く模擬授業を引き受け見事にこなした校務主任とそのよさを引き出した研修主任。ベテランだからこその力を見せてくれました。
人事的に厳しい状況ですが、新しい力を加えてよりよい伝統をつくり続けくれるものと期待しています。次回訪問時に子どもたちがどのような姿を見せてくれるのか、とても楽しみです。
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