子どもの姿と教師のかかわり方の関係について考える

先週末は中学校で授業アドバイスと数学の授業研究に参加してきました。

1年生と2年生を中心に校内を参観しました。
2年生は子ども同士の関係のよさを感じる場面がたくさんありました。特に印象に残ったのが、暗幕を雑に引っぱってカーテンレールから落としてしまった子どもを教師が注意した場面でした。授業者はちょっと厳しく注意をしています。その時、他の子どもたちの視線がその子に向いているのです。非難するような目ではありません。大丈夫かなと心配するような、温かな視線なのです。こういう場面では、自分には関係のないことだと手遊びしたり、よそ事をしたりしている子どもが目立つものですが、そのような子どもはいませんでした。失敗した子どもが暗幕をたたんでいる時に、そばの子どもが手伝ってくれました。「ごめん、ありがとう」という声が聞こえました。授業者もたたみ終った子どもに「ありがとう」と声をかけていました。厳しくしかったからこそ、この「ありがとう」の一言が効いてきます。授業者はその後、その子どもと一緒に暗幕を取り付けたそうです。教室の雰囲気のよい理由がわかったように思いました。
英語でのペア活動でも、相手の読みのチェックをとても真剣にやっていました。子ども同士がしっかりかかわれるようになってきたように思います。その一方で、教師が一方的に説明をしている場面では、子どもの姿が分かれます。うれしそうに反応しながら聞く子がいますが、集中力を失くして顔が上がらない子ども目立つのです。反応してくれる子どもがいるためつい見落としがちですが、参加していない子どもを意識してほしいと思います。この学年の子どもたちは、充分にかかわり合えるので、できるだけそれを活かすようにしてほしいと思いました。

1年生は、前回と比べると授業に参加できない子どもの絶対数は少ないように思いました。しかし、欠席者も目立ちました。簡単に評価を下すことができません。気になるのはうまくかかわり合えない子どもとそれに対するまわりの子どもの対応です。まわりと相談することや、グループでの活動も積極的に行える子どもたちでも、かかわり合いが苦手だと思われる子どもには、ちょっと声をかけて反応がないと無視してしまうのです。一人席の子どもが教科書を忘れていました。そこで、教師が斜め前に座っている子どもの座席を横に持ってきて見せてもらえるようにしました。教科書を差し出され、少しうれしそうな反応がありました。全くかかわれないというわけではないのです。ところが、別の時間にその学級のグループ活動の様子を見たところ、他のグループは積極的に活動しているのですが、その子どものいるグループだけまったくと言っていいほどかかわり合いがありません。似た傾向は他の学級でも見られました。友だちとかかわることが苦手な子どもがいることだけが問題ではなさそうです。その他の子どものかかわり方にも問題があるように思います。グループ活動などは、よくかかわれているように見えるのですが、どうも表面的な気がするのです。聞いているようで聞いていないというか、テンションがすぐに上がる傾向があるのです。基本的なコミュニケーションに関して、欠けていることがあるように思います。それに加えて、小学校ではミュニケーションが苦手な子どもに対して、教師が手厚くかかわっていたのではないかと想像します。そうであれば、子どもたちはその子に関しては、教師に任せておけばいいと思ってしまい、積極的にかかわろうとしなくなるからです。ソーシャルスキル・トレーニングや特に構成的なグループ・エンカウンターを日常的に取り入れることが必要に思えました。
また、教師が指名した子どもの発言を聞いている時に、かなりの子どもが他人事のようにしています。教師が自分を見ている時の姿はいいのですが、黒板に向かっている時や、他の子どもに視線がいっている時には、集中力が薄れてしまいます。どの授業でもそうかというと、これが教師によって態度が大きく変わります。以前から感じていた、教師を見て態度を変える傾向がまだ改善されていません。教師が授業規律を徹底することを意識できているかどうかとの関係も大きいように思いました。どこまで学年として足並みをそろえられるかが課題のように思いました。

1年生の英語の授業ではヒアリングの進め方を工夫していました。1度聞いた後、子どもたちに聞き取れたことを単語一つでもよいので、発表させます。中には意見が分かれることもあります。その上で、もう一度聞かせます。先ほどよりも集中力が上がっているのを感じます。友だちの意見を参考に何とか聞き取ろうという姿勢が見えるのです。どうしても聞き取れない部分は、そこだけを何度も聞かせたり、最後は授業者が少しゆっくりと話したりと対応しています。ヒアリングが難しいのは、シチュエーションの絵などは用意されていますが、基本は音だけなので実際の会話より情報量が少ないのです。そこで、絵を指さしながら誰がしゃべっているのかを伝えるといったことをするとよいのではと、アドバイスをしました。毎回授業に何らかの工夫が見られます。一つひとつは小さいことでも、着実に力をつけることにつながっていると感じました。

3年生の社会科の授業は、消費税の増税について考えさせるものでした。子どもたちは授業に積極的に参加してくれます。所得税や相続税、入湯税などいくつかの税を取り上げます。その税がどのようなものかを子どもたちに問いました。早く進めたかったのか、それともしっかりと押さえたかったのかがはっきりしない場面でした。早く進めたければ、一部の子どもに説明させるよりも、授業者がポイントを絞って説明した方が効率的です。そうでないのなら、子どもたち調べさせるなど全員が参加できるようにする必要があります。授業のねらいと活動の関係をはっきりさせると、授業にムダがなく、一番大切な活動に時間をかけることができます。

1年生の理科で音の伝わり方の実験の場面を見ました。糸電話や音叉を使って実験をします。実験をすることで何を知るかという目的が子どもたちにシャープになっていませんでした。何と何を比べれば、どのようなことを確かめれば、何を知ることができるのか。それがはっきりしていないので、子どもたちは楽しそうに指示された実験をしているのですが、その結果をもとに考えることをしません。すぐにテンションが上がってしまいました。実験を通じて何を考えるのかを明確にしておくことが大切です。

2年生の理科は真空放電の実験と考察でした。気になったのが、放電が起こるためにはどの程度真空にしなければいけないのかを問う場面でした。子どもたちは知識がないのでやってみなければわかりません。教科書や資料集で調べるのであれば、全員に見つけさせることが必要です。そのどちらでもなく、資料から見つけた子どもを指名して、その数値をもとに授業を進めました。気体の圧力と密度の関係も明確にしないまま、1気圧と比較をして進めます。この場面で理科として大切なことは何だったのでしょうか。電子が飛ぶためには抵抗となるものがあるとダメなことなのでしょうか。それとも単に真空であることが放電の条件であることを知ることなのでしょうか。また、そのことを知るための理科的なアプローチは何だったのでしょうか。残念ながら私が見た場面からはそのことが伝わりませんでした。授業規律はしっかりとしてきたので、教科としてどうであるかが余計に気になるのです。

3年生の数学は相似の学習でした。証明問題を穴埋めで解かせていました。証明の書き形を学ぶには穴埋めというのも有効な方法だと思います。しかし、なぜその角が等しいことを示す必要があるのかといったこと理解できなければ、指示に従って等しいものを探すだけです。正解はわかったが証明はわからないということになってしまいます。証明の最初の1行を書くまでに、数学的なものの見方・考え方があるのです。まず、自分たちはどのような知識を持っているのか。今まで学習したことを使えそうなアプローチは何か。穴埋めを始める前にそのことを全体で共有しておいてほしいのです。教師は基本的に答を知っています。だからこそ、答を知らない子どもがどうすればそこにいたることができるのかを明確にしておいてほしいのです。それが、数学の教材研究なのです。

授業研究については明日の日記で。
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