学校の変化の兆しを感じる

昨日は、小学校で現職教育に参加し、授業研究の合間に若手教師と一緒に学校全体の授業を参観しました。小学校では学級担任は学級に拘束されている時間が多く、1時間とはいえなかなか授業参観の時間を取ることはできません。教務主任は若手の教師が授業参観する時間をつくるために、担任のかわりにいくつも授業に入ってくれました。若手に勉強する機会を与えようという姿勢に感心しました。

教務主任の働きかけの影響もあるのでしょう。子どもたちへの指示が徹底できて、授業規律が保たれている学級が増えているように感じました。指示が徹底できるということは、子どもたち全員をよく見ているということでもあります。そのような学級では子どもと教師の間に良好な人間関係が築かれているように思いました。

今回、特に若手の授業で感心したのは子どもたちの挙手が少ない場面での対応でした。以前は挙手した子どもの誰かをすぐに指名していたのですが、ペアやまわりの子どもと相談するように指示します。するとほとんどの子どもが話し合います。子どもたちはまわりと相談することに慣れているようです。考えを持っているのに自信がなかったりしたのでしょう。このことは、まだ一問一答や「正解」という言葉を教師が発したりすることが多いことも関係しているように思います。
もう一度問いかけるとかなりの数の子どもの手が挙がります。ここで挙手指名してもいいのですが、できれば友だちとしっかり話し合っていた子どもを指名して答えさせたいところです。自信がなくて答えられないようであれば、「しっかり聞いていたね。どんなことを話していたか聞かせてくれる」と答でなくその過程を聞いてあげるといいでしょう。なかなか挙手できない子どもにも発言の機会を与え、自信をつけさせることを意識してほしいと思います。最初に手を挙げた子どもが指名させる機会を逃して不満持つようであれば、何人かに聞いた後、「○○さんは最初に手を挙げてくれたけれど、同じ考え?」と最後に確認すればいいでしょう。「すごいね、すぐにわかったんだ」とほめれば納得すると思います。

算数の授業で気になる場面がありました。授業の最初に子どもたちにめあてを写させるのですが、「あまりのある割り算」という言葉がありました。子どもが写し終わると授業者は導入の問題を提示しました。ここで、「あまり」という言葉が問題です。「あまり」はこの時間に初めて出てくる言葉です。それをめあてとして出されても子どもは理解できません。めあてを理解できないのにそのまま写させるようなことを続けると、めあてが形式的なものになってしまいます。導入部分で「あまり」が出てきた時に示すべきだと思います。後で授業者と話をしたところ、本人もどちらにするか悩んでいたようです。めあてを最初に明確にしておきたいのであれば、「『あまりのある割り算』って初めの言葉だね。この授業が終わるときにみんなが『あまりのある割り算』を説明できるようになろう」というような言葉を補うとよいことをお話ししました。

調べ学習に向けての説明をしている場面がありました。歴史と関係の深い地元の街道について調べるものです。子どもたちが集中して聴けるように机を片付けて黒板の前に椅子を丸く並べて座らせていました。そのこともあって子どもたちはとても集中していました。ところが、数人が教科書を見て何か話しています。今回の調べ学習に直接関係のない話とは思えません。後で授業者にたずねたところ、どうしたものか判断に迷い、あえて注意をせずに見守っていたということです。対応をどうするかは別にしてちゃんと気づけています。この授業者に限らず、若手の授業で気になる子どもの様子について話をすると、みなその場面のことをしっかりと把握していました。子どもを見ることができています。まずは、子どものことに気づいていなければ話になりません。基本ができてきています。
この例のように授業に関係ありそうなことを話しているようであれば、すぐに注意をするのではなく、「なにか話しているね。どんなことを話していたか聞かせてくれる」と全員に共有させるとよいでしょう。私的な話を公的なものに変えるのです。みんなに話せないようであれば、それは子ども自身が私的なものだと認めたわけですから、「じゃあ、話の続きは後にしようね」と言えばいいのです。その場で取り上げる価値のあるものであれば、「じゃあ、今の意見についてみんなで考えてみよう」、この場で取り上げるのはふさわしくないと判断すれば、「なるほど、これは後からみんなで考えることにしようね。じゃあ先生の話を続けるね」というように対応すればよいと思います。子どもの私的活動はすぐに注意をするのではなく、公的なものとして取り上げるべきことなのか、私的なものとして止めるべきことなのかを判断して対応することが大切で。

私的な言葉を公的にするという場面が他の教室でありました。子どものつぶやきを授業者がうまく拾ったのですが、それを言い直して伝えたのです。公的なものにしたのはいいのですが、子どもの言葉とは違ったものになっていました。つぶやいた本人は教師に聞いてもらえたとは思うのですが、教師が言い直してしまえば自分の言葉が公的にみんなに伝わったと思いません。私的に教師とかかわったことに留まるのです。子どもの言葉をそのまま復唱するか、「今いいこと言ってくれたね。もう一度みんなに聞かせてくれるかな。みんな、○○さんの話を聞こう」というように、本人の手で公的なものにさせるといった対応をするとよいでしょう。

全体的に教師が子どもの言葉を受け止めることはできているのですが、その言葉を他の子どもにつなげることができていません。「同じ意見の人」と挙手を求めるのですが、その子どもたちにもう一度発言を求めることはしません。子どもも、友だちに聞いてもらう。友だちに伝えるという意識を持っていません。発言して教師が受け止めてくれればそれで満足です。一問一答をやめて、何人も指名する。「今の意見、なるほどと思った人いる」「ああ、いるね。○○さんの考えが伝わったね」「□□さん、どこでなるほどと思った」というように、考えが他者に伝わったかどうか、どのように伝わったかを意識させるような教師の働きかけが必要です。また、子どもの聞く態度を評価することをもっと積極的にして、子ども同士のかかわり合いをうながすようことを大切にしてほしいと思います。

もう一つ、活動の目標や評価の具体的な基準がはっきりしないことが気になりました。子どもへの活動の指示が明確でわかりやすいので、子どもがしっかり活動できている場面をたくさん目にします。ところが、自己判断できる評価の基準が示されていないので、子どもたちは活動して満足しています。たとえばペアで相手に伝える場面であれば、伝わったかどうかを確認して評価する場面が必要です。活動主義になっているのです。一つ間違えば、「活動あって学びなし」の状態になってしまいます。
6年間を通じてどのような子どもの姿を目指すのか。この学年では、この教科では、この単元では、この時間では、この場面ではと、常に目標を明確にし、そして個の活動場面では子ども自身が自己評価できるような基準を伝えることが大切です。個の活動では教師が一人ひとり全員を評価することはできません。子ども自身が「やった」「できた」と自己評価できることが自己有用感につながっていくのです。

いくつかの課題がありますが、それはクリアした課題があるからこそ見えてくるものです。今年度最後の訪問でしたが、この先この学校が大きく変化していく兆しを感じることができました。

授業研究と、若手の先生方との懇談については次回の日記で。
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