学習規律の次にくるもの(長文)

昨日は、研究指定を受けている中学校を訪問しました。午前中2時間、廊下から子どもたちの様子を見せていただき、午後は授業研究に参加してきました。

前回訪問時、一部の子どもが教室から出ていったりして落ち着かなかった2年生からまず参観しました。今回の第一印象は、子どもたちが落ち着いているということです。最初に見た社会科の授業では、授業者は子どもたちが授業を受ける準備ができるまで開始を待っていました。準備ができたあと授業者が笑顔になったことが印象的でした。授業中に「ありがとう」の言葉も何度も聞かれました。意識していることがよくわかります。指示をした後に子どもたちに確認をした時も、笑顔をつくっていました。授業者は授業で子どもたちに望む姿を「協力して課題を進める」といった具体的な言葉で伝えようとしています。子どもたちが落ち着いていた理由がわかったような気がしました。私が見ていた時には確認ができませんでしたが、この後の評価が大切になります。ただ、「いいよ」とほめたり、「ありがとう」を言ったりするのではなく、「ここがいい」、「○○してくれてありがとう」と何が評価されたか具体的に伝えることが必要です。こうすることで、よい行動が学級に広がります。
前で突っ伏している男子生徒がいました。授業者は優しく起きるようにうながします。いったん起きたものの、すぐにまた倒れてしまいました。そのとき、隣の席の女生徒がその子の肩を軽くたたきました。すると、その男子生徒は起き上がり笑顔を見せました。とてもよい場面でした。少なくとも私が見ている間、その男子生徒はずっとと起きていました。

この授業に限らず、2年生は以前と比べてずいぶん落ち着いていました。先生方が力で押さえようとせずに、子どもたちとじっくり向き合ってきたという印象でした。指示が通るまで待てる方が増えていたようにも思いました。
全体的に見ても、学校の雰囲気はずいぶん柔らかくなったように思います。初めて訪問した時と比べて、先生方のテンションもずいぶん落ち着いたようです。学校全体で意識して取り組んでいることが増えているように感じました。子どもたちがよく集中している場面にもたくさん出合います。だからこそ、課題も多く見つかったように思います。

一つは、先生がしゃべりすぎることです。子どもたちが集中して聞いてくれるので、ついついあれも言っておこうとなってしまいます。しかし、子どもたちの集中力は受け身では長く続きません。集中が切れた場面は必ずと言っていいほど先生がしゃべっている時なのです。また、グループ活動で机間指導をしている時や全体で説明をしている途中に質問が投げかけられると、多くの先生がその場でその子どもに対して答えてしまっています。しかし、本当に大切なことであれば、全員で考えることが必要です。その子どもだけのために時間が使われることは避けるべきです。このような時は、その質問が全体で共有すべきものかをまず判断します。全体で考えるべきものであれば、まず全員がその質問を共有する必要があります。グループ活動であればいったん活動を止めたうえで、「今、○○さんがいいこと言ってくれたんだけど、みんなに教えてくれる」と全員に対して伝えさせます。その上で、「同じような疑問を持った人いる?」と子ども同士をつなぎ、「どうすればいいかなあ」「誰か助けてくれる?」と子どもたちの課題として考えさせます。焦点化した後、「じゃあ、グループで考えてくれる」ともう一度グループに戻してもいいでしょう。
もし、子どもの質問が全体で取り上げるようなものでなければ、「グループの人に聞いてごらん」とグループの仲間につなげる。全体で説明している時であれば、「あとでね」と笑顔でスルーして、個人活動の時に簡単に答える。そういう対応が必要です。
次のような場面がありました。

数学の時間にお釣りを表わす式1000−x×6(円)という答えに対して、「x×6−1000じゃダメ」と聞いた子どもがいました。授業者はこの子どもに間違いを気づかせようと一生懸命に説明をします。まわりの子どもも「違うよ」と勝手に話しだします。しかし、多くの子どもは何が問題になっているかもよくわからない状態で、置いてきぼりです。その子どものまわりと先生だけで授業が進んでいます。思わぬ時間を使ってしまいました。
この子どもの間違いは、中学校の数学というよりは小学校の算数の問題です。時間をかけたくないところです。もし、個人作業の時間がすぐ後にあれば、「じゃあ、あとで説明するね」とその場はスルーしてもいいでしょう。しかし、ほとんどの子どもがわかっているのに、たとえ少しの時間でも放っておかれるのはつらいものがあります。授業者はその場でその子に対して簡単に説明をしてすぐに終わらせたいと思ったのでしょうが、うまくいきませんでした。たとえすぐに終わりそうであっても、全体の問題にすることが必要です。
まず、「x×6−1000じゃダメ」という子どもの言葉を全員で共有します。その上で、みんなが説得するのではなく、その子どもが納得するような展開を目指します。「同じ答を書いた人いない」とまず聞いてみます。もしいれば、「同じ答だった人いるね、あなたはどう」と聞いてみます。正しい答を理解できていればきっと自分の間違いをどう修正したか話してくれます。「なるほど、あなたは最初・・・と考えたけれど、・・・だとわかったんだ。よく考えたね」とほめ、「どう、今の説明で納得した」と最初に聞いた子どもに返します。納得したようであれば、「○○さんの説明をしっかり理解したんだね。すごい」とほめ、「△△さんの説明がよかったんだね。ありがとう」と両者をほめます。もし、同じ間違いがなかったり、うまく納得させることができなかったりすれば、「○○さんが納得するように助けてくれる」と全体に問いかければいいのです。授業者は間違えた子どもに働きかけるのではなく、わかっている子どもに働きかけるのです。わからなかった子どもに迫って説得するのではなく、その子が納得するのをまわりが助けるようにうながすのです。こうすることで、学級全体の課題となり、たとえ簡単な内容であっても取り組む意味が出てくるのです。

「つなぐ」という言葉は使われますが、具体的にどのような場面でどうすることなのか、まだしっかりと意識されていないように感じました。
英語の授業でペアの会話を発表する場面がありました。授業者はその発表をしっかり聞いているのですが、視線はそのペアから動きません。一方、子どもたちの視線は定まっていません。下を向いていたり、ぼうっと前を向いていたり、集中していません。発表はそのペアの問題で自分たちには関係ない。そう思っているのです。授業者は他の子どもを見ていないのでそのことに気づけていません。
発表に対して、他の子どもがかかわる必然性がないと子ども同士はつながりません。決められた文をペアで会話するのであれば、その会話のどこがよかったのかを他の子どもたちに問うということが必要になります。その際評価する視点を明確にしておかなければいけません。これは、ペアが意識すべき目標と一致します。また、会話がペアのオリジナルのものであるならば、その内容を聞き取ることを意識させなければいけません。ただ「よかった」ではいけません。「どんなかこと話していた?」「なんて言っていた?」「わからなかったことない?」と子どもたちに問いかけ、それに対する答は発表者にさせます。また、発表者にどうやって文をつくったかを問いかけることで、文をつくる方法を共有することも大切です。発言をつなごうとすることも大切ですが、つなげることを意識した課題、活動を工夫しておかなければうまくつながらないことを知ってほしいと思います。

個人作業とグループ活動の時間を切り分ける傾向が目立ちます。このことも少し考えてみる必要があります。個人の考えを持たないと、グループで自分の考えを言えない。そう考えているために、個人作業の時間をグループ活動の前に確保していることが多いのです。その気持ちは理解できるのですが、手のつかない子どもにとってはどうでしょうか。個人作業の時間に手つかずのままフリーズしてしまえば、課題に対する意欲を失くしてしまいます。中には個人作業の時間であっても、まわりの子どもに聞いたり相談したりしている子どももいます。わかりたいと思っていれば、自然に起こる行動です。反対に自分で考えようとしているのに、無理やり教えられたりするのは子どものやる気をそぎます。個人作業とグループ活動の時間を切り分けるかどうかは微妙なところがあるのです。
数学の時間に個人で問題を解いている場面です。授業者はグループになって答を確かめ合うように指示しました。ところが、子どもたちの動きは鈍いのです。なかなかグループになりません。グループになっても自分で問題を解き続けている子どもがほとんどでした。子どもたちはその時点でグループになることよりも自分で解きたいと思っていたのです。個人で問題に真剣に取り組んでいる姿からそのことがわかります。集中していたのです。この場面でグループにした理由は何でしょう。一部の子どもの手が止まっていたからでしょうか。それとも時間がなくなって次に進みたかったからでしょうか。手が止まっていた子どもは既に問題が解けた子どもなのでしょうか、それとも手のつかなかった子どもなのでしょうか。子どもたちが集中して取り組んでいるのならもう少し時間をあげてもいいのではないか。いろいろな考えが頭をめぐります。しかし、実はそれほど難しく考えなくてもいいのです。作業をグループ化することで多くの問題が解決できるのです。具体的にはグループにして個人作業をさせればいいのです。わからなければ友だちに聞いてもいい、見せてもらってもいい。聞かれないのに教えてはダメ。こういうルールで作業をさせるのです。自分で解きたい子どもは、自分で解き続けます。わからない子どもは、解けた子どもに聞くことができます。もし、誰も解き終わってなくても、途中の式を見せてもらう、覗き見ることができます。固まってしまわなくてもいいのです。個人作業のグループ化という選択肢を持つことで随分と授業の幅が広がるのです。

また、できるようにするための活動が意識されていないことも気になりました。どうしてもわかった人、できた人の発表で授業が進んでいきます。わからない子どもは受け身で聞いているしかありません。
英語のヒアリングの場面です。子どもたちに答を確認しても聞き取れなかった子どもは何とも答えようがありません。意見が違っても議論のしようがありません。答を聞くのではなく、何と言っていたか英文そのものを確認する必要があります。何人かの子どもたちに確認した後、「じゃあもう一度聞いてみようか」とその英文を聞くのです。聞き取れなかった子どもも、あらかじめ英文を予想できていますから、聞き取りやすくなります。英文そのものを確認できた後、その内容を吟味します。聞き取った英文を根拠にできるので、話し合うこともできます。
ヒアリングは聞き取ることと聞き取った英文を理解するという2段階があります。もちろん、この2つの段階は明確に分離できない部分もあります。ある程度理解できなければ聞き取ることもできないからです。しかし、手がつかなかった子どもも、この2つの段階を分けて示すことで、参加できるようになるのです。こういうことを意識して授業を組み立ててほしいのです。
数学の連立方程式の解法の場面です。代入法で解いた後、授業者は何か思い浮かぶことがないかと問いかけました。子どもからは答が返ってきません。授業者としては加減法を思い浮かべてほしかったのですが、子どもたちは何を答えてよいかわからなかったようです。この問いかけでは、思い浮かばなければ子どもたちはどうすればよいかわかりません。子どもたちが考える手がかりのある問いかけであることが大切です。連立方程式を解くためには、文字を減らせば(消去すれば)1元方程式に帰着できること。減らす方法に代入法と加減法があること。この2点を常に問いかけていれば、「思い浮かぶ」可能性は高くなるでしょう。ストレートに「連立方程式を解くとき何を考えた」と「連立方程式を解く」をキーワードとした問いかけにすれば、自然に出てくるかもしれません。「いつも何を考えた」と問題を解くときの考え方を問いかけてもいいでしょう。「今までどんなことを考えた」と問いかければ、自然に教科書やノートをめくる子どもが出てくるでしょう。その行動をとらえて、「おっ、教科書(ノート)を調べている人がいるね」と評価し、他の子どもに広げれば、「どんなことが見つかった」と問いかけることで子どもたちから引き出すことができます。子どもたちが考える、できるための足場を意識して授業を組み立てる、意識した問いかけをする。こういうことが大切なのです。

ちょっと話はそれるのですが、3年生で面白い場面がありました。理科の時間の最後に章末問題をやるように指示が出ました。この時、子どもたちの動きが遅いのです。教科書をすぐに開かない子ども、教科書をパラパラとめくってちっとも取り掛からない子どもが多いのです。ちょうど同じ時間帯で英語の授業でワークシートの問題を解くように指示する場面がありました。授業者は愛知県の入試問題であると説明していました。子どもたちはすぐに鉛筆を持って問題に取り組みました。面白い違いです。「愛知県の入試問題」という言葉に反応したのでしょうか。教科書を開かなくても「ワークシート」だからすぐに取りかかれたからでしょうか。それとも、それまでの内容がよくわかっていたから「できそう」と意欲的になっていたからでしょうか。その場面しか見ていない私には判断のしようがありませんが、明らかな違いがありました。それぞれの子どもたちの姿をつくり出した要因が何かは、授業者であればきっとわかると思います。その要因を意識することができれば授業はよい方向に変わっていくはずです。こういう視点も持ってほしいと思います。

いろいろと指摘しましたが、教室の様子が変わってきたからこそ課題がより明確になってきているのです。学習規律が守られるようになったからこそ、教科の問題が浮き上がってきます。授業での課題の質が問われるようになってくるのです。教材研究の深さが求められてきます。ここからは教科部会での学び合いがとても大切になってきます。自分たちの教科で常に問いかけ続けるべきは何か。大切にすべき活動は何か。共通の課題意識を持って授業に臨み、そこでの気づきを共有していくことが求められます。研究発表まではあまり時間がありません。それまでにすべての課題がクリアされることはないでしょう。それでいいのです。研究をきっかけに、互いに学び合う風土、体制をつくることができればそれで十分です。研究発表を花々しく打ち上げて、それで終わってしまうのなら何の意味もありません。地味でいい、地道に互いに学び続ける土壌をつくることができれば、それが最高の成果なのです。この学校にはそのことを求めたいと思います。

授業研究については日を改めて(体育の授業で考える参照)。
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