いつものことながら、授業から大いに学ぶ(長文)

昨日の続きです。印象に残った授業がいくつかありました。
3年生の数学で、53×47を(50+3)(50−3)と和と差の積に直して計算する問題の答を発表する場面でした。指名された子どもが黒板に(53−3)(47+3)と書いてわからなくなってしまいました。授業者は誰か助けてくれないかと子どもたちに声をかけますが、反応がありません。子どもに助けを求めるのはよい対応なのですが、この場合どうすれば助けられるのか、答がわかっている子どもも戸惑っていたのだと思います。「助ける」が難しいときは、「気持ちをわかる」という問いかけが有効です。「○○さんがこの式を書いた気持ちわかるかな」と問いかければ、「50をつくりたかった」といった言葉が出てきたのではないかと思います。このキーとなる50を考えることで、正しい答を導くことができたのではないでしょうか。
授業者は誰に助けてほしいか聞きました。子どもに逆指名させようというわけです。これはかなり酷な判断を強いることになります。絶対大丈夫と思える友だちしか指名できません。そうでなければ、自分が指名した友だちに恥をかかせることになります。苦渋の判断は「先生」でした。子どもの気持ちがよくわかります。授業者は「先生は困るな・・・」と結局自分で指名しました。この時点で指名された子どもは「助ける」のではなく「正解を発表する」ことは想像できます。ここは「(50+3)ってどういうこと?」とか「(50+3)はいくつ?」「(50−3)は?」と問い返してあげるといった対応をしたかったところです。おそらく授業者は思いつかなったのでしょう。
案の定、指名された子どもは正解を板書し、「・・・すると、いい感じの数(字)になって・・・」としっかり説明しました。教師はよい説明をしてくれたのに子どもの反応が薄いことが不満でした。「よければ拍手するんだよ」と子どもたちに言います。この言い方では、教師がこの説明は拍手に値するから拍手をしろという強要になります。まばらな拍手が起こりました。なぜ子どもが拍手しなかったのかを考える必要があります。「助けて」という問いかけに、「正解」を説明したのでずれを感じたのかもしれません。それとも、説明がよくわからなかったのかもしれません。拍手をしない子どもたちに、「どう、納得した」「なるほどと思った」「どこがわからない」と問いかける必要があります。この拍手というのは、注意しなければいけない行為です。自分の確固たる意志のもとに拍手をさせないと、なんとなくみんながするからと考えなしに拍手するようになります。拍手をしたら必ず、その理由を問いかけないと、無責任な行為となります。「たくさん拍手してくれたね。理由を聞かせてくれる。○○さん」「よかったから」「どこがよかったの?」と迫ることで、しっかり自分で判断するようになります。拍手された方も形式的でなく、ちゃんと評価されたと感じます。こういった問いかけなしに拍手をするのであれば、しない方がましです。「いわんや、強要をや」です。
結局、最初の子どもの板書は虚しく残されたままで、だれにも助けてもらうことはできませんでした。心の中に何が残ったでしょうか。授業者の思いとは裏腹に冷たい授業になってしまいました。救いは、最初の子どもが席に戻った時に隣の生徒がすぐに身を乗り出して、説明していたことです。その光景は子どもたちの人間関係のよさを教えてくれました。
拍手の後、授業者は「いい感じの数」を取り上げました。ここからが数学です。どう展開するかと期待しましたが、あっさり次の問題に進んでしまいました。「いい感じの数ってどんな数」「いつもそうなるの」「どういうとき」と数学の授業の決まり文句で問いかけることで、2数のかけ算は必ず2乗の差にできること、2数の平均が「いい感じの数」になれば簡単に計算できることに行き着きます。感覚的な言葉をより明確な数学の言葉に昇華させる。常に成り立つことなのか、特別な場合だけなのか考える。数学的なものの見方・考え方を育てるよい機会でした。数学の授業に共通する問いかけをまだしっかり持っていないようでした。
笑顔で接する姿に、子どもたちを受容し活躍させたいという授業観が伝わってきます。このことは大いに評価できます。この授業観にそった授業を展開するための技術を身につけてほしいと思います。一方数学の教師としては、もう一度数学とはどういう教科なのかを問い直してほしいと思います。これからに期待したいところです。

教職2年目の社会の授業は、交通機関の発達を考える授業でした。導入で子どもに「どこへ行きたい?」と問いかけます。無責任に答えられる質問なので、どんどん声が上がります。子どものテンションは一気に上がります。いつものことなのでしょう。テンションを上げていく生徒がいる一方で、冷めた表情の子どもが目立ちます。特に女生徒が多いようです。時間をかければかけるほど状況は悪くなるのですが、5分以上も意味のないやり取りを続けます。一部の子どもがはしゃぐことが楽しい授業だと錯覚しているのです。主発問などは子どもが考えるような工夫をしています。こういうムダを切り詰めればじっくり考える時間をたくさん取ることができるのですが、残念です。こういう授業観を崩すのはなかなか難しいことです。
それに対して、ベテランの授業は対照的でした。ルネサンスの3大発明と当時の事件との関係を問います。「活版印刷は何と関係ありそう」という質問に、何人も声が上がります。子どもたちは「宗教改革」とつぶやきますが、決してテンションは上がりません。テンションを上げなくても、教師が取り上げてくれることを知っています。また、必ず理由を聞かれることも知っています。活発ではあるが、落ち着いて全員が参加する授業でした。

3年生の社会で挑戦的な授業に出合いました。太平洋戦争で「いつ戦争をやめれば原爆は投下されなかったか」という課題でした。子どもたちは考えることができるのだろうかと思って見ていましたが、しっかりと友だちと考えを伝えあっています。どんな考えが出るだろうと思って発表の場面を見ていました。「開戦時」「ポツダム宣言」以外にもいろいろな考えが発表されます。「レイテ沖海戦」が出てきたのにはびっくりしました。私の想像を超えていました。なかなかしっかりした根拠を述べてくれました。説明を聞きながら資料集のレイテ沖海戦のところを見ている子どももいます。発表の後、「同じところの人」と聞いたところ数人の手が挙がりました。その子どもの意見も聞きたいところですが時間が足りませんでした。黒板には整理しやすいように時間軸が引いてあり、開戦と終戦が書き込まれています。理由を書く欄もあります。しかし、あえて板書しませんでした。ここはしっかり友だちの話を聞いて考えてほしいと思ったからでしょう。子どもたちに考える力をつけようとしていることがよくわかります。少しずつ子どもが育ってきている手ごたえを感じます。今回は、なかなか全員がすぐに自分の考えを持てないような課題です。ここは途中でいったん発表させ、いくつかの考えを焦点化してから再度考えさせるとよかったかもしれません。そうすることで考えを持てなかった子どもに手がかりを与えられますし、持てた子どもも友だちの考えと比較しながらより深く考えることができるからです。授業者にはこのことを伝えました。少しでもよい授業がしたいという授業者の思いが伝わりました。どのように進歩していくか今年もっとも楽しみにしている先生の一人です。

理科の葉緑体の観察の授業でした。授業者は葉緑体の説明をした後、実験の説明に入ります。顕微鏡を使ってオオカナダモを400倍で観察すると葉緑体が見えることを伝えて観察にはいりました。子どもたちは机を移動してグループになり顕微鏡の準備をします。しかし、どうにも動きが遅いのです。理由はわかります。意欲がわかないのです。観察する前からその結果はわかっています。観察から新たな何かを見つける、知ることはありません。教科書や資料集に載っている写真を見ることと何ら変わりないのです。
「葉っぱは緑だけれど、中まで全部緑?本当?」と問いかけ、「どうすれば正しいかわかる?」と予想から実験や観察を考える。「観察していくつのことに気づけるかな」と課題を与え、「みんなが見つけたことから何が言えるかな?」と問いかける。このような理科的なものの見方や考え方を意識した展開を考えてほしいところです。授業者もちゃんとそのことに気づいて反省していました。自分で気づく力があるから大丈夫です。毎日の授業を大切にし続ければきっと大きく進歩することでしょう。

2年生の酸化銅の実験でした。子どもたちの様子が落ち着きません。雑然としているのです。4人グループですが2人ずつ横一列に並んでいます。その間には水詮があります。2+2に分離しているのです。実験器具は一方に置いてあります。当然のことながら実験器具のない方の生徒の集中力がありません。多くは女子生徒でしたが、授業に関係のないムダな話をしています。教室全体に緊張感がありません。実験の注意や指示はどこにも書いてありません。おそらくワークシートか実験ノートのようなものを使っているのでしょう。しかし、子どもたちはそれをしっかり見ながらやっているようには見えません。「事故が起こってもおかしくありませんね」と同行していた先生にこえをかけようとした時です。「熱っ」という女子の声が聞こえました。試験管の熱した側をうっかり持ってしまったのです。授業者はそれを見て「熱いに決まっている」と言っただけでした。今度は反対側を持って試験管の中の酸化銅を取り出そうとします。ところが中身をだそうと試験管の先を机にあてたところ、試験管が滑って熱いところをつかんでしまいました。思わず試験管を放り出しました。試験管に残っていた酸化銅が床にこぼれました。試験管を放り出したのでよかったですが、割ってはいけないとしっかり持てばやけどをするところでした。授業者は雑巾で床をきれいにするように指示をしました。女生徒は2人で床を拭きます。その指示を出したすぐあと、実験をやめて前を向くように全体に伝えました。全員が前を向いてから、まだ掃除をしている2人に席につくように指示しました。ちょっと驚きです。今年初めて教壇に立つ講師ですが、それにしてもなんと冷たい対応でしょう。そのことに気づかないのでしょうか。ちょっと悲しくなりました。直接話す時間は取れませんでしたが、準備室にいた先輩にこのことを伝え指導をお願いしました。講師の場合、初任者のような研修の機会はほとんどありません。安全に配慮の必要な教科は特に何らかの指導や研修の機会を設けることが必要だと強く感じました。

英語の授業で面白い場面に出合いました。T1とT2が教室の前後でペアの会話をチェックしていたのですが、子どもたちの様子が大きく違っていたのです。T2のところでは、子どものテンションが上がってうるさいくらいです。とにかく声を出すことしか意識していません。一方、T1の方では子どもは教師にきちんと聞いてもらおうと集中して取り組んでいます。どこが違うのでしょうか。T1は柔らかい表情で子どもたちの一言一言にうなずいています。先生がちゃんと聞いていることが子どもたち伝わります。教師が子どもを見る、受け止めることの大切さがよくわかる場面でした。このT1の机間指導も特徴があります。歩きながら何度も後ろを振り向くのです。死角をなくす。子どもたち全員を見る。そのことを徹底しているのです。5年目の教師ですが、ベテランでもなかなかできないことです。若手の成長を見ることができることはとてもうれしいことです。

1年生の英語で、thisとthatを学習する場面でした。ボールなどを使いながら、”This is my ball.” ”That is your ball.”とsituationを英語で表現します。日本語で”this”は「これ」、”that”は「あれ」などとは説明しません。子ども自身に気づかせようとしています。とてもよい指導だと思います。一人の生徒が「わかった」と言いました。「近いときが”this”だ」という説明にみんな納得です。子どもの集中度がぐっと上がりました。とてもよい場面でした。しかし、英語の授業としては、日本語で説明させるよりsituationごとに正しく言えるか確認するにとどめた方がよかったかもしれません。それを見せることで他の子どもにも自力で理解する機会を与えることができるからです。残念だったのは、”this”と”that”の違いがわかった後、教師がボールを持って”This is my ball.”といった後、子どもたちにも”This is my ball.”と言わせたことです。ここは”That is your ball.”と言わせたいところです。とはいえ、英語を日本語に直して理解するのではなくsituationで理解させようとする姿勢は立派だと思います。聞けば、GDMの講座に参加したりもしているそうです。学ぶ意欲のある方です。今後に期待したいと思います。

毎月訪問している学校ですが、毎回学ぶことがたくさんあります。いつものことですが、授業は奥深いことをあらためて感じさせられます。このような機会を得られることに、感謝です。
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