学ぶことの多かった1日(その1)(長文)

昨日は中学校で4つの授業のアドバイスをおこなってきました。

1つ目は、友だちをテーマにした道徳の授業でした。
用意された資料は、罪を犯したらしい人物とその3人の友人の話です。3人がそれぞれ「逃がしてやる」「自首を勧めるが、聞き入れなければ見逃す」「自首を勧めるが、聞き入れなければ警察に通報する」という対応を考えるというものです。
子どもたちの笑顔が気持ちのよい学級でした。授業者が資料を音読する間、実に真剣に聞いていました。授業者と子どもの関係がよい証拠です。資料を音読後、3人の対応について指名で聞いていきました。資料を読み取れていたかの確認と、全体での共有のためでしょう。子どもは資料を見ながら答えていました。もちろんある程度頭の中には入っていたのでしょうが、子どもが資料の世界にまだ入りきっていないということでもあります。国語の時間のように客観的にとらえる必要はありません。道徳ではできるだけ早く自分の問題としてとらえることが大切です。資料を読みながら、立ち止まって一人ひとりの対応を強調したり、子どもに問いかけたりすることで教師が整理して伝えてよいのです。資料を読み取るのが目的ではなく、子どもの考えるための手段だからです(道徳で大切にしたい問いかけ参照)。

最初の課題は、自分ならどうするかというものです。「どの人物の考えに近いか」と「その理由」をワークシートに書き、自分の名前を書いた付箋紙を人物ごとに黒板の指定された場所に貼りつけました。
授業者は続いてグループで自分の考えを発表するように指示しました。子どもたちは素早くグループで考えを発表します。子どもたちの体はやや立ち気味で、テンションも次第に上がってきました。この場面は発表することが主目的になっているため、子どもたちにとって聞くことの意味があまりないことが理由でしょう。次のグループ活動がどうなるか気になります。
グループの活動終了後、「逃がしてやる」という1名しかいなかった意見をまず聞きました。発表を聞いて子どもたちから反応があります。「すげぇ」と言った子どももいました。ここは、反応した子どもたちに意見を聞きたいところです。しかし、授業者は、次の「自首を勧めるが、聞き入れなければ見逃す」という意見の子どもを指名しました。予め進め方を決めているとどうしてもそれに縛られる傾向があります。子どもの反応に柔軟に対応することができるようになりたいものです。次の発表では、「友だちとして」という言葉使われました。これはキーワードとして使える言葉です。どの子どもも「友だちとして」こうするべきだと考えているはずです。ですから、子どもの意見に対して「友だちとして」どう思ったか問い返していくことで、互いの考えがつながり深まるはずです。また、「グループの話し合いで意見が変わった」という言葉もありました。これも、その理由を問い返したいところです。しかし、授業者は何人かを指名し、同じ意見の人を挙手でつなぐだけで深くは切り込みませんでした。

次に、3人の登場人物について共通のものは何かをグループで話し合いました。今度はグループで結論を出す必要がありますから、子どもたちは額を寄せ合って話し合っています。テンションも先ほどのグループ活動ほど上がりません。よい姿でした。しかし、子どもたちは、「自分たち」の考えではなく「3人の登場人物」の考えに共通なものを考えるので冷静です。道徳では、自分に引き寄せて考えることが大切です。この場面で子どもは課題と距離を置いてしまいました。登場人物ではなく、「自分たちに」共通とすればもう少し様子は変わっていたかもしれません。
子どもたちの発表は、整理された言葉が続きます。ところがある子どもがうまく発表できません。いろいろなレベルのことが一緒になってしまい、話が同じところをぐるぐる回っています。自分の気持ちと登場人物の気持ちがごちゃごちゃになっているようにも見えました。ここは教師が問い返し、整理しながら、子どもの思いを明確にして、学級全体で共有したかったところです。この意見を突破口にして再び自分たちの問題として考えさせることができたように思います。あとで聞いたところ、この子どもは人間関係で苦しんでいた時期があったそうです。そのために、自分の思いが強く出てしまったようです。なるほどと思いました。

最後は、自分にとって「親友」とは何かを書かせて終わりました。時間がないため、このことについては話し合うことはできませんでした。先ほどの場面で、少し距離を置いて見ていたので、なかなか自分の言葉が出てこなかったのではないかと思います。また、「親友」という言葉はここで初めて出てきた言葉です。子どもたちが唐突に思ったかもしれません。この課題を意識するのなら、子どもたちの中から「親友」という言葉を引き出しておく必要があったように思います。

授業者には、優等生的な答ではなく、子どもの本音がでてくるような展開を意識してほしいことを伝えました。そのためには、揺さぶることが必要です。この授業であれば、罪を犯した友人の立場で見ることが有効だと思います。「じゃあ、罪を犯した友だちは、どう思うかな?」と問いかけることで、相手のことを「思っている」というのが、相手から「どう思われたいか」の裏返しになっていることもあると気づかせることができるかもしれません。考えを受容するだけでなく、ときには物わかりの悪い人間や反道徳的人間を演じることも大切です。

実はこの授業中に、別のドラマがありました。最近になって登校できるようになった子どもがいました。窓際の席に座っていますが、授業には全く参加しません。時々周りに見せつけるように顔を教室の内側に向けてあくびをします。最初のグループ活動の時に、授業者が机を寄せて参加するように促しました。しかし課題に取り組んでいないので発表できる状態ではありません。そのままじっとしていました。グループ活動が終わると、今度は身体を窓の方に向け、とうとう机にふせってしまいました。
次のグループ活動のときです。今度の課題は共通のものは何かを考えるというものです。少し離れているのでよくわかりませんが、グループの子どもは意見を聞こうと話しかけたようです。どのようなやり取りがあったのかわかりませんが、とても素敵な笑顔が浮かびました。それを見ている他の子どもたちも全員笑顔です。グループ活動の間、体を前に向けて他の友だちの話をよい表情で聞いていました。
グループ活動が終わったあと、また面白くないという表情になり、しばらくしてふせってしまいました。この子どものことだけを考えれば、グループの形のまま発表に移った方がよかったのかもしれません。ところが、説明が混乱した子どもの発言に反応しました。まわりの子どもが反応したのにつられたのかもしれません。耳に入った内容が何かしら心に引っ掛かったのかもしれません。顔を挙げて発表者の方に体を向け、まわりの子どもと同じように笑う場面もありました。子どもたちの持つ力を見せつけられました。学校に出てくるということは、居場所を求めているということです。わざとらしいあくびといった態度は、自分の存在に気づいてほしい、かかわりたいという気持ちの表れのようです。教師が自分との1対1ではなく、グループにつなげるようにしたことがきっかけとなって、友だちとかかわることができ、笑顔が引き出せました。今後も友だちとつながる経験を少しずつ重ねて、学級の中に居場所ができていくことを願います。

2つ目は英語の授業でした。教師経験1年目の講師の方です。
とにかく少しでも多くの子どもに授業に参加してもらいたい。その気持ちが最初の10分間に現れていました。この単元で取り上げる表現が日本語の歌詞となっている曲を準備し、その曲名をヒントから考えさせたり、歌を聞かせたりと子どもの興味を引く工夫をしていました。しかし、これは学習と直接関係のない活動で、しかも無責任に発言できるため一部の子どものテンションがどんどん上がっていきます。よく観察すると、授業者の思いとは裏腹に、このテンションについていけない子どもが白けて、表情がどんどん悪くなり、視線もだんだん下がっていきます。この10分間はかえって逆効果になっていました。一部の元気な子どもだけで授業が進んでしまうと、それ以外の子どもの気持ちが授業者と離れてしまいます。子どもとの人円関係が苦しくなっているのを感じました(テンションを上げすぎないテンションが上がる理由参照)。

授業が進むにつれてそれが明確になっていきます。コーラスリーディングでもまったく口を開かない子どもがたくさんいます。個別に注意したいが、そこで時間を使うと進まなくなるので我慢しよう。常に笑顔をつくっているのですが、その裏にある苦しい気持ちが痛いほど伝わってきます。
「速く読めるようになろう」「意味を理解しながら読もう」・・・。目標は提示されるのですが、どうすればできるようになるかはわかりません。読めない子どもに「速く読め」と言ってもどうしようもありません。「意味を理解しながら」といっても確認する手段もありません。子どもからすれば「やれ」と言われるだけで、できるようになる見通しがありません。参加できない子が多いのも当然なのです。
「速く読めるようになろう」「意味を理解しながら読もう」と何度も読む練習をした後は、覚えているかどうか、教師の示す日本語を英訳して書くことでチェックしました。これも問題です。「読める」ことを目標とした活動の後のチェックが「書ける」では、一生懸命に練習してもその成果が現れません。努力が評価につながっていかないのでやる気がなくなってしまいます。
個人で速読の練習をして、どこまで読めたか自分にチェックさせます。それをペアで確認させます。進歩していたらほめるように促しますが、見せない子どもがたくさんいます。それは当然です。何もかかわっていない友だちにチェックされるのは嫌に決まっています。試験の結果を見せろと言っているようなものです。速く読めるように友だちが助けてくれていて初めてペアでの評価が成り立つのです。
全体での練習で、2度答えさせたあと「みんなよくできました」と評価しました。確かに少し声が大きくなったのです。しかし、口が開いていない子どもがたくさんいます。それなのに、「みんな」と言ってしまえば、その子たちは、自分は「みんな」に入っていない、先生の目に私は入っていない。そう思うのです。参加できない子どもたちとの溝はますます深まっていきます。
また、居眠りをしている子どもを元気のいい子どもが名指しで非難する場面がありました。それを受けて授業者は、「眠たいけど頑張ろう」と、指摘を追認するような発言をしました。子どもたちは先生が元気のいい子どもの側に立っている。そう感じます。子ども同士の関係も悪くなっていきます。少なくとも、非難めいた口調をたしなめることは必要です。

授業者に子どもたちにどうなってほしいのかをまずたずねました。授業に参加してほしいと思っているが、わからない子が参加できない。わからない子どもが多いため、個別対応するにも時間が足りない。しかし、以前よりも参加する子が少し増えたように思う。そう答えてくれました。自分でもよくわかっているのです。そんな中で笑顔だけは忘れないようにしていることがどれほどつらいことか、痛いほど伝わってきます。「以前よりも増えた」も大きな落とし穴です。元気のいい子どもの発言ばかりを受け止めているので、その子たちが勢いを増しているのです。そのため、参加している子どもが増えているように感じてしまったのです。その陰でより深く沈んでいる子どもが増えているのです。
厳しいですが、このことを指摘しました。講師ということもあり、一人で抱え込んでいたのだと思います。この状況を急に変えることは難しいことです。しかし、子どもに寄り添い、一人ひとりを大切にしようとしていることを伝えながら、全員が参加できる、わかる、できるようになるためのスモールステップを意識した課題を設定して、少しでも多くの子どもを認める場面をつくってほしいと思います。熱心で力のある同僚もたくさんいます。具体的にどうすればいかのアドバイスをしていただけるようにお願いしました。

この学級のようすは、この授業だけのことなのか気になりました。授業後、担任とそのことを少し話しました。するとわざわざ時間をとって「どういうことかもう少し聞きたい」と話をしに来てくれました。
子どもたちの人間関係がよくない、一部の攻撃性の強い子どもが場の雰囲気を支配している。これは、この授業以外でも思い当たる節があるそうです。この学級は年度当初からコミュニケーションが苦手な子どもが多かったようです。給食の時間でもあまり話をしなかったということです。一方、時間にルーズだったり、規律を守れない傾向もあったりしたようです。規律を守れない子どもを叱ったりする場面も多かったようです。担任は小学校経験が長く、子どもとの人間関係をつくることはとてもうまい方です。子どもと1対1ではうまくコミュニケーションもとれています。小学校では1日中学級の子どもと接することができるので、一人ひとりと関係をつくれていれば、全体をコントロールすることはそれほど難しいことではありません。しかし、中学校では勝手が違います。意図的に子ども同士をつなぎ、人間関係をつくることを意識しなければなりません。遅刻してきた子どもを叱るにも、それなりの工夫が必要です(規律を守れなかった子どもの指導参照)。このようなことを少しアドバイスさせていただきました。わざわざ時間を取って話をしに来てくれるような方です。きっと自分なりの工夫で学級をよい方向にもっていってくれることと思います。

この日は、とても学ぶことの多い1日でした。この続きは「学ぶことの多かった1日(その2)(長文)」で・・・。
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