子どもが教師の求める答探しをする道徳(長文)

市の少経験者研修で講師を務めました。午前中は小学校と中学校のチームに分かれ、道徳の授業の指導案を検討し、午後は互いが子ども役になって代表者が模擬授業をするというものです。

小学校の模擬授業は、「星への手紙」という教材を使ったものでした。筋ジストロフィーにかかった子どもが、生きる気力を失くし食事もとらなかったが、母親の涙にこれ以上悲しませたくないと思って一口スープを飲み、その時母親が今まで見たこともないほどの喜びようを見せたことで、こんな自分でも頑張って生きることで人の役に立つことができると思う話です。

授業者は、なかなか上手にアイスブレークをします。自分はグーを出すと宣言して子ども役とじゃんけんをしてパーを出させます。そして、その手をそのまま精一杯上に挙げさせます。この姿勢が挙手の姿勢であることを伝え、一人一回はこの姿勢を取ってほしいと伝えました。

最初に授業者は「みなさん、生まれてきてよかったことはありますか?」と質問をします。あるという人が全員です。確認して、タイトルを示し、「今の質問が何の質問だったのかなと頭に入れておくといいかな」といって次に進みました。今ひとつねらいがよくわかりません。他者を喜ばせるということを意識するのであれば、どんな時に生まれてきてよかったと思ったかをちょっと聞いてみたいところでした。
子ども役に3分間時間を与えて資料を黙読させます。実際の授業では子どもの読む速度に差があるので、早く読み終わった子どもがごそごそする危険があります。また、この後、内容の確認を子どもに発言させてすると、読み取りの力に差があるため、思いのほか時間がかかってしまうので注意が必要です。
授業者は机間指導をしますが、この場合何を見るのでしょうか。授業者の視線が定まりません。ここは、全体を見ながら内容が理解できなくて困っている子どもがいないか、早く読み終って手持ちぶさたの子どもがいないかといったことを見て、都度必要な対応をするべき場面だと思います。
全員が読み終ったのを確認し、早く読めた人は素晴らしいとほめて次に進みます。ここが早く読めたことを評価すべき場面であるかはちょっと疑問です。道徳の性格上、じっくりと前に戻ったりしながら読むことの方が大切に思います。ちょっと気になるところです。
ここで、資料の注釈をもとに筋ジストロフィーの説明を簡単にします。このことが必要だと思うのなら、最初に説明をしてから読ませた方がよいでしょう。ムダにつまずかせる必要はありません。話の内容を少しでも早く理解させることが大切です。

話の内容を資料にそって確認していきます。資料の文の「食べなくなった」のはどんな気持ちでしょうかと問いかけます。手元に資料があるので、子ども役のほとんどは顔が上がりません。少し間をおいて、「こうじゃないかなと思う人?」と挙手を求めます。手が挙がるのは一人です。授業者はすかさず指名します。子ども役が本当に考えているのであれば、もう少し時間を取る必要があります。少ない挙手で進めることは注意が必要です。
「自分なんかいなくなればいい」という答に、授業者は「いいですね」と返します。この言葉は、子どもの考えを客観的に評価していることになるので、実際の子どもであればこれが正解なのかと思ってしまいます。そうではなく、子どもたちをその時の主人公の気持ちに寄り添わせることが必要です。「なるほどね」と受容はしても、よい悪いの評価はしない方がよいでしょう。他の意見を聞きますが、「死んでしまいたい」という発言に、「同じように思った人?」とつなぎます。ここで突然、「同じように思った人」とつなぐと、これが先生の答かと思ってしまうかもしれません。なかなか難しいところです。こういう手法を使うのであれば、常に同じように思った人とつないでいる必要があると思います。
授業者は多くの子ども役の手が挙がったことを確認して、自分の言葉でまとめます。子ども役から一度も出てこなかった「絶望」といった言葉が足されていきます。こういったことも、授業者の求める答があると感じてしまう要因です。子どもたちが主人公の気持ちに入っていくのではなく、距離を取って客観的に考えてしまう可能性が増えます。

お母さんのつくったスープを飲む時の気持ちを問いかけます。子ども役の手がなかなか挙がりません。本当に答えにくかったのか、子ども役になりきっていたためなのかわかりませんが、ちょっと重い雰囲気になっています。授業者は目が合った子ども役に「言えそうですね」と声をかけました。こういった指名の仕方はなかなかのものです。「幸せな気持ち」という答に、「ああ、幸せな気持ち」と受容し、ちょっと間をおいて「確かにそうですね」と続けました。授業者からするとズレた答だったと思いますが、受容したのは立派だと思います。ただ、表情がかたいので、子どもだったら「外した」と思ったかもしれません。こういう時はいつも以上に笑顔と明るい声が必要なのです。
「お母さんが苦しんでいるのは見たくない」という発言に対して、他に似たような言葉でもいいのでと発言をつなごうとしますが。傍から見ていると、どうしてもこの方向に誘導したいという意図を感じてしまいます。子どもたちはこういうことには敏感です。まわりと聞き合うといったことをして、もう少し子どもたちを自由にしゃべらせたいところでした。
続いて「頑なだった、依怙地だった気持ちがほどけるような気持ち」という意見が出てきます。ちょっと子どもらしくない意見ですが、「さすがですね」と評価します。この意見はかなり客観的で、他人事として冷静に見ています。「本当?ずっと死にたいと思っていたのに、そんな簡単に気持ちがほどける?」と揺さぶるといったやり方もあったかもしれません。

主人公の気持ちが、「死にたいと思った時」と「スープを飲んだ時」とで変化したかどうかを問いかけます。全員が変化した方に挙手した後、授業者は場面ごとの板書を使って、ここでは悪かった、ここでよくなったと主人公の気持ちを「よい」「悪い」で評価します。この言葉はあまり適切ではありません。せめて、「落ち込んでいた」「暗い」「上昇した」「明るい」といった柔らかい表現にしたいところです。人は苦しい時、暗くなる時もあります。それを「悪い」と決めつけるのはそういった状態になった時に子どもたちを追い詰めることにつながります。日ごろからそういうことを意識して言葉を使うことが必要だと思います。

看護師さんも駆けつけて、お母さんと同じように涙を流して喜んだ時に主人公はどんなことを感じたかを問います。こういった質問の答えは本文に書かれています。その答を確認するのであれば、単なる国語の読み取りです。ここで子どもたち自身の気持ちに迫りたいのか、それとも確認だけなのかで進め方が変わるでしょう。前者であれば客観的な答に対して、「本当にそんなこと思える?」といった揺さぶりをすることが必要ですし、後者であれば時間をかけずに授業者が本文で確認してしまえばいいのです。
授業者は「頑張って生きよう」という答を受けてすぐに、最初の気持ちと比較して変化したことを指摘します。他の子どもたちとつなぐことをせずに、すぐに自分の言いたことにもっていきました。続いてでた、「いろいろな人に心配をかけたことを後悔している」という意見には何もコメントがありません。子ども役がなかなか積極的に参加でできない原因がこんなところにあるように思います。
「自分が人を喜ばせることができる」という本文の記述に即したことが出てこないので、授業者はその部分を読んで、大事だと思ったところに線を引くように指示します。大事という言葉を使うことで、国語的な読解の授業になっています。また、授業者の求める答探しになってしまいました。
「他の人の役に立つ」という言葉が子ども役から出てくるとすぐに板書をします。別の子ども役が本文に即した発言をしたので、そこを見てみましょうと本文を確認します。完全に国語の授業になってきました。

授業者は主人公の気持ちの変化を、板書を使って確認します。続いて、この主人公が書いた詩を見せます。その詩には空欄があり、そこに言葉を入れることが課題です。すべて同じ言葉が入ると伝えて、となりと相談させます。これも答探しです。子どもたちが冷静に取り組むようなものではなく、自分に引き寄せさせることが必要です。
授業者は子ども役に対して「答が出たと思うけれど」と問いかけます。「答」という言葉を使います。せめて、「考えがまとまったと思うけれども」といった表現をしたいところです。
すぐに全員の手が挙がります。「プレゼントしよう」という答を復唱して板書します。続いて「他に違う意見が出たよという人?」と聞くと挙手が2人です。この状態ですぐに指名しましたが、ここは全員の手が挙がっていたのになぜ減ってしまったのか疑問に思うべきところです。「他の人は、同じ意見だったの?」と確認することが必要だったと思います。
「分けてあげよう」「伝えよう」「与えよう」と発言が続いた後、授業者は「このような答、みんな同じような意見ですね」とまとめます。授業者が同じようだと判断しています。この場面に限らず、子どもたちの意見をすべて授業者が判断しています。そうではなく、子どもたち自身が友だちの意見を聞いて考えを深めていき、自分で価値を判断していく過程が必要です。

「主人公がどう思ってこの詩をつくったのか」と問いかけます。一度先ほど子ども役が考えた空欄に入る言葉を確認して、今度は「みなさんなら」という言葉を足しました。「プレゼントしよう」と答えた子ども役を指名して「なんでプレゼントしようと思いました?」と問いかけます。子どもたちに迫るために「主観的」な答を求めていたのか、「客観的」な答の説明を求めたいたのかちょっと曖昧でした。前者であればこの状況ではかなり難しいと思います。ここまで客観的に答を見つけようとしていたからです。子どもに迫るにも、その前提となる状況をつくれていないのです。子ども役は「喜びをだれかにあげたいという思いがこの人にはあるんだろうなと思いました」と答えます。やはり「この人には」と客観的な答になっていました。先ほど空欄に入る言葉を発表した子ども役を次々に指名します。長い説明を一気に話した方がいます。長い説明を一気に話されるとついていけない子どもがたくさんいます。もう一度発表させ、途中で止めて全体に確認しながら聞き直すことが必要です。
授業者は扱いに困ったのか、「なかなか説得力がありますね」と受けました。他の子ども役が「なるほど」と納得したのならともかく、説得という言葉はおよそこういった場面にふさわしくない言葉です。どれが正しいか判断したり、誰かの意見に集約したりするものではないからです。子ども役の発言は客観的な説明が続きます。授業者は「みんなが言ってくれたことは正解です」とまとめます。どうしても、答探しになってしまいます。道徳に限らず、子どもの考えを「正解」かどうかで評価する授業は、教師の求める答を子どもが探る授業になってしまいます。このことを意識して、「正解」と授業者が判断することをできるだけしないように意識してほしいと思いました。
結局、授業者がこの子は「人に喜び分けてあげることで生きようと思っている」とまとめて、板書をしました。

「これはこの子の場合です。皆さんは生まれてきて、家族に喜んでもらったことありますか?」と問いかけます。「生まれてきて」という言葉を使いますが、小学生にはあまりに大きすぎる問いかけです。「みなさんが喜んでもらったら生きる意味があるんではないか」と続けますが、価値の押し付けになっています。というか、そもそも「生きる意味があるかどうか」などと子どもが考えているとは思えませんし、そう考えるように迫ってもいません。
子ども役からは「テストで100点を取った」「お手伝いをしたとこ」「けがが治った時」「誕生日」といった意見が出ます。子どもが「喜ばせる」ことを意識しすぎると、親が喜ぶことが自分の存在価値になり、それができないと自己否定につながることがあります。この授業のねらいとはずれるかもしれませんが、親を喜ばせることではなく、子どもが生きているだけで親はうれしいことを伝えたいところです。

最後に「生まれてきたよかったか?」と最初の質問に戻ります。最初に手を挙げた以上にしっかりと手を挙げるように伝えます。価値の強要です。辛い思いをしている子どもがこの中にいたらどうなるでしょうか。無理やり周りに合わせることになります。ちょっと手を挙げるのが遅い子ども役がいたので、それではダメと否定して、もう一度全体で手を挙げさせます。授業者が子どもに同調圧力をかけています。
最期まで、授業者の価値観を押し付ける授業になっていました。

この授業者は、復唱や、受容の言葉をかけることができます。少経験者としては、なかなか立派だと思います。しかし、子どもの考えをすべて自分で評価して、自分の価値観に誘導しようとしています。子どもの考えをつなぐという発想がありません。子ども自身が考え、子ども自らで判断していく力を育てることが大切です。子どもが授業者の求める正解探しをしない授業を目指してほしいと思います。

この続きは次回の日記で。
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