先生方の進歩とこれからの課題

中学校で授業アドバイスを行ってきました。学校全体の授業参観と社会科の授業研究でした。

さすがにこの時期になると3年生はよく集中しています。1年生も集中している姿をよく見ることができました。2年生は、一見するとよい状態なのですが以前と比べて集中が落ちる場面を多く目にしました。時期的な問題もあるのかもしれませんが惰性のようなものを感じました。3年生に向かって学習・生活の両面で自覚を促すことが必要かもしれません。
学校全体として授業者が以前と比べてしゃべりすぎる傾向がありました。子どもたちは基本的に教師との関係がよく、話をよく聞いてくれます。聞いてくれるのでついついしゃべりすぎてしまうのです。先生が解説してくれるので、子どもが積極的に発言しなくなる可能性があります。

2年生の数学で、子どもに問いかけても反応が返ってこない場面がありました。反応がないので授業者が説明をしてしまうのですが、子ども同士に相談させるといったことをして、言葉を出させる場面をつくることが必要です。穴埋め形式で証明を完成させる場面では、説明と正解の提示が一体化しています。見通しを共有したところで、ちょっと時間を取って自分で埋めさせ、まわりと確認するといった時間を取ることも必要でしょう。今まで学習した図形に関する性質を黒板に貼ってありました。こういう工夫ができているので、あとは子どもたち全員が自分で正確にたどり着けることを意識してほしいと思います。

別の2年生の数学で、板書に課題を感じる場面がありました。
黒板には証明の解答だけが書かれていましたが、どうやってこの三角形に注目したのか、これに関して知っている知識は何か、何が言えれば証明はできるかといった、問題解決のアプローチや戦略がどこにも残っていないのです。子どもたちとのやり取りで取り上げたのであったとしても、証明のどこにそれが活かされているのかわかるようにする必要があります。板書しなくても、写した証明に対して子どもにかきこませるといったことをさせたいところです。

2年生の国語の授業でのことです。子どもたちは授業者の話を静かに聞いていました。まわりと相談する場面になると急にテンションが上がります。受け身の状態で子どもたちは積極的に参加できずに、我慢していたようです。また、その活動のゴールや目標が明確でなければ、相談するといっても互いの考えを評価したり、深めたりすることはできません。相手の言葉を真剣に聞く必要がいなく、言いっぱなしになってしまいます。どうしてもテンションが上がりやすくなってしまうのです。

2年生の社会科で、地理の穴埋め問題の解答をしている場面がありました。一つひとつ授業者が子どもに解答を聞きながら正解を示すのですが、地図帳等を使えばできるはずの問題です。子ども同士で、根拠となるものを示しあって確認させるだけでいいと思います。全体では、意見が分かれた問題があるかどうかを確認して、その問題だけみんなで取り組めばいいのです。穴埋め問題を否定はしませんが、答がわかればそれで満足する子どもが多くなります。どうやって答を見つけるかという過程を大切にしてほしいと思いました。

2年生の英語の”reading”の場面です。授業者は早く読むことを評価として活動させます。そのため、発音はどうしても雑になります。早口言葉を覚えているようなものです。言葉として発しているわけではありません。文の一部を変えただけで、対応できなくなります。この学校以外でも、その活動が「話す」「聞く」読む」「書く」の4技能のどこをねらっているのかわからない英語の授業をよく目にします。自分が中高等学校時代に受けた授業を深く考えずに再現しているようにも見えます。子どもたちが英語の4技能を身につけるために、どのような活動が必要かをもっと考える必要があると思います。

3年生のベテランの英語では、”listening”でまわりと相談する時間をとっていました。聞き取れたことを確認し合ってからもう一度聞くことで、だんだん聞き取れるようになっていきます。子どもたちは集中して楽しそうに参加していました。
この日は“stop 〜ing”と”stop to 〜”の違いの学習でしたが、まだ言葉による説明が中心でした。”I am walking.” ”I see a garbage.” “I stop walking.”といった”situation”で”stop 〜ing”を押さえ、”I stopped to pick up the garbage.”と説明するといった方法もあります。毎回、授業に工夫をされている先生です。こういった”situation”の工夫もして見てほしいと思いました。

1年生の英語で若手の先生が、”picture card”を使った授業に挑戦背していました。主語や動詞、目的語にあたる”picture card”をそれぞれ複数ペアに与えて、一方が自分の選んだ”picture card”を英語の語順に並べて相手に示します。その”picture card”を見ながら、英語にするのです。子どもたちは楽しそうに取り組んでいるのですが、うまく”picture card”を並べられなくて活動が上手く進んでいかないペアもあります。困った時に助けになるものが必要です。「黒板にどこにどのようなものが入るかがわかるような例を提示しておく」「”picture card”を並べた例をプリントにして配る。ペアそれぞれにバディをつくり、困った時はバディがそのプリントを元に助ける」といった工夫が必要だったように思います。授業者はこの授業の課題に自ら気づいていました。こういった新しい方法に果敢にチャレンジし子どもたちの姿から修正しようとする姿勢は立派です。
子どもの席をグループ隊形から元に戻したときに、すぐにはテンションが下がりませんでした。しかし、子どもとの関係がしっかりとできているので、笑顔ですばやく子どもを集中させることができます。
この授業でも、”reading”の評価が速さになっていました。べつの指標を考えたいところでした。

1年生の別の若手の英語では、目的をはっきりさせたフラッシュカードの使い方をしていました。読む練習なので、最初に授業者が発音して読みを確認した後は、子どもだけで読ませます。子どもは詰まりますが、読もうとしているので当然のことです。繰り返すうちにちゃんと読めるようになっていきます。子どもに適度なストレスを与えることが大切です。
ちょっとしたことですが、こういった細かなことを意識して授業を改善し続けています。4月と比べると、ずいぶん進歩しているように思いました。

1年生の若手の国語では、子どもたちが落ち着いて文法の課題に取り組んでいました。文の主語を見つける課題です。ペンを置かせてから、子どもとやり取りしながら解説をします。ここで、子どもたちに文節に分けることを指示して答えさせました。その後に、主語は「誰が」「何が」にあたる文節と用語の定義を再確認して、主語を答えさせます。これでは、子どもは主語の見つけ方を教わっているだけです。考え方の順序が逆です。用語の定義からどうすれば主語を見つけられるか、まず課題に取り組む前に考えさせるべきでしょう。課題を解くことを通じて考えさせたいのであれば、答を聞いたり、作業を指示したりするのではなく、どうやって見つけたかを発表させて共有させるべきでしょう。
答えの出し方を授業者が教える授業になっていました。

1年生の別の国語では、子どもたちに興味を持ってもらおうと三大美人の話をしていました。しかし、これはこの日の授業に直接関係のあることはありません。子どもたちのテンションが上がるだけで、本題に入ると集中力は落ちてしまいます。少なくとも国語のどのような力と関係するのかを考える必要があります。三大美人と国語の作品との関係や引用などの例から、美人について考えさせえるといった活動が必要になるでしょう。
説明文の「原動力とは何か?」について考えさせる場面で、子どもは何を答えていいかよくわかっていないようでした。先ほどの場面と違って、子どもが重く感じられます。ここで考えなくても、このあと授業者が説明をしてくれることを知っているので、自分で考えることに価値を見いだしていないのです。

1年生の理科は、圧力の実験の考察場面でした。スポンジの向きを変えてどれだけへこむかを測定したのですが、沈むことが何を意味しているのかが押さえられていません。強く押すとたくさんへこむ。重たいものを載せるとたくさんへこむといった沈むことが何を意味するのかを事前にきちんと実験するなどして押さえる必要があります。
同じ重さのものを載せれば同じだけ沈むことを押さえておくことで、設置面積の違いで沈み方が違うことが明確になってくるのです。向きを変えても、スポンジの重さ自体は変わらないことを意識させておくことが必要です。しかし、そういった場面があったようには思えませんでした。
一部の班のデータがおかしかったようですが、そのことその班に聞いても答えようがありません。再現して検討するすべがないのです。授業者はうまくいかなったとそのデータを排除しましたが、それでは子どもたちにとって何も学びはありません。実験のデータがおかしいと感じた時にどうすべきかというのも大切なことです。ちょっとやり直す余裕がほしいものです。やり直してみれば、単なるミスなのか何か原因があるのかがわかります。そういったことも実験を通じて経験させたいことなのです。教師が、このデータを排除してしまったことで、実験から考えるのではなく先生の求める答探しの授業になってしまったのです。

1年生の理科で、子ども同士がかかわる場面がほしい授業がありました。子どもを一人発言させてすぐに評価し、授業者が説明してしまっているのです。フックの法則を「ばねの伸びは……」と言葉で説明して、教科書のその用語に線を引くように指示します。言葉でわかるのであれば、教科書を読めばすみます。「ばねの伸び」もきちんとどこのことを示しているのか、ばねの長さとの違いも含めてきちんと理解させる必要があります。実物を見ながら実感させたいところでした。教師が言葉で説明するだけの授業にならないようにしたいものです。

社会科の授業研究はとても学びの多いものでした。これについては次回の日記で。

子どもたちの学習意欲を感じるエピソードを聞く

私立の中高等学校で授業アドバイスを行ってきました。この日も先生方と一緒に子どもたちの様子を参加しました。どの先生も真剣に子どもたちの様子から学ぼうとしていただけました。また、自身の課題について質問をしてくださる方もあります。先生方の中によりよい授業をしたいという思いが高まっているのを感じます。とてもうれしいことです。

子どもたちが落ち着いて授業に集中している姿をいたるところで見ることができます。例年と比べてもとてもよい状態で、どの先生も子どもたちのよさを実感されています。いつも言っていることですが、この子どもたちのよい姿を引き出したのは、先生方の力が大きいのです。子どもたちを受容し授業を工夫する先生方が増えています。先生方一人ひとりの意識が変わることで子どもたちの姿も変わっていくのです。

今まで予習をしてくる子どもはほとんどいなかったが、教科書を読んできたとうれしそうに報告する子どもが増えてきたというお話も聞きました。今まで教師が説明していたのを子どもたち自身で教科書を元に考えさせるようにしたところ、子どもたちの意欲が変わってきたというのです。その先生自身も今まで以上に授業が楽しくなったとおっしゃっています。子どもたちと先生が互いによい影響をおよぼし合っているのです。

冬休み明けの英語科の課題実力テストについて、面白い話を聞くことができました。課題の長文を元に質問に答える問題で、解答は日本語でも英語でもよいとしたそうです。わざわざ英語で答える子どもはほとんどいないだろうと思っていたが、かなりの子どもが英語での解答に挑戦していたそうです。設問は課題そのままではなかったのですが、先生が思っていた以上に解答できていたようです。試験が終わってから気づいたそうですが、課題の解説・解答を配るのを忘れたいたそうです。しかし、子どもたちはそのことにだれも疑問をはさまなかったようです。いい課題に真剣に取り組んでなかったのかとも思えますが、決してそうでないことは試験の結果を見ればわかります。先生の示す正解を求めるのではなく、自分で学習して答を見つけることが当然になっているようです。自分で考え理解することがこの学校の英語学習の基本となっているのです。英語の学習に対する意欲も非常に高くなったようです。英語検定の受験者数が例年の数倍になっているそうです。
この他にも、子どもたちと英語にまつわる面白いエピソードをいくつか聞くことができました。ある先生が子どもを呼び出したのですが、たまたま2人とも同姓だったそうです。一人しか来ないので、「もう一人は?」とたずねたところ、「The other ○○君は……」と答えたそうです。日本人にはなかなか正しく使えない”the other”をちゃんと使えています。試験に出る知識としてではなく、言葉として理解できています。
こんな子どももいるそうです。「先生、今から俺ら10分間英語だけでしゃべるから、先生もなんか英語でしゃべってよ」と言うのです。先生が英語でしゃべると、うんうんうなりながら英語でしゃべろうとします。その子どもは決して英語が得意というわけではありません。でも、自分たちは英語がしゃべるようになっている、しゃべりたいという気持ちがいっぱいなのです。こんな意欲的な子どもが育っているのはとてもうれしいことです。
先生からでてきた言葉は、「うちの子どもたちはすごい!」です。先生方は優秀な学生だった方ばかりです。中堅の高等学校では、自分の高校時代と比べて子どもたちが劣って見えて見下してしまうことがよくあります。しかし、子どもたちの潜在能力・可能性は決して低くはないのです。その潜在能力を顕在化させることが教師のつとめと言っていいかもしれません。そのことに先生が気づいている言葉です。
この子どもたちの英語への意欲向上に大きな役割を果たしているのが、GDMという英語教授法です。これまで、中学校の学習内容を再構成して基礎固めをしていましたが、高等学校の内容を教科書も使いながらGDMの手法で学習するという新しいフェーズに入ってきました。これまでは、既存のGDMのカリキュラムをベースにできたのですが、これからは未知の世界です。先生方にとってはこれまで以上に教材研究に多くのエネルギーが必要です。学校英語でのGDMの第一人者が先生方の熱意にほだされ、手弁当でカリキュラムの作成や指導・アドバイスをしてくれています。この日も、朝から授業を見てその場ですぐにアドバイスをしてくださったそうです。そのアドバイスを受けて修正することで、次の授業では大きく改善されたようです。
英語の先生方は授業研究に多くの時間を費やしています。その時間をつくるのにとても苦労しています。ここまでやってこられたのは、チームで一緒に考え作業を分担しているからです。こういったチームワークが他の教科でも見られるようになることを期待したいと思います。

さて、一つ気になるのが、非常勤講師の先生です。子どもたちの姿が他の授業と比較しても、今一つよくない傾向があります。時間の制約があり先生方と情報交換したり、研修に参加したりできない方が多いのです。そのため、この学校で今起こりつつある変化について共有できていないのです。子どもたちにとって先生側の事情は関係ありません。一方的な講義や、板書を写すだけの授業は、自分たちが活躍できる授業と比べればつまらないものに見えます。ある授業では、両手を前に大きく伸ばしてうつぶせに寝ている子どもが何人もいました。普通子どもは、見つからないように気を使って眠ります。露骨な態度をとっているのは、「寝たくならない授業をして」という先生へのメッセージなのです。このメッセージを受け取ってほしいのですが、なかなか難しいところがあります。今後の課題の一つです。

この日で、ほとんどの先生方と一度は一緒に校内を回ることができました。先生方が授業の改善に挑戦するようになって、教科や個別の授業ごとに課題も見えてきているように思います。次回からは、いくつかの授業をじっくり見て先生方と一緒に授業について考える時間を取りたいと思います。いよいよ次のステップに進む時が来たようです。これから学校全体にどのような変化が起こってくるかとても楽しみです。

完成度の高い授業だからこそ授業観の違いが明らかになる

先日、愛される学校づくり研究会の例会が開かれました。2月6日(土)開催の「愛される学校づくりフォーラム2016 in東京」前の最後の会です。

この日は午前の部、午後の部それぞれの進行イメージの確認を行いました。
午前の部は「愛される学校づくり“公開”研究会」となっています。テーマごとに4人の会員が提案を行い、指定された登壇者と話し合いを行うというものです。
この日は提案者が簡単な提案を行い、それをもとにこの日の参加者から選ばれた登壇者と議論しました。このまま本番にしてもよいくらい面白い話し合いになりましたが、当日は提案も進行もこの日とは異なるものになると思われます。予定調和には絶対ならないというのがこのフォーラムの面白いところです。私は、「『授業の見方』を高めるには」というテーマで提案しますが、この日の議論を受けて、当日の話し合いをより面白くするようなものにしようと考えています。きっと登壇者の皆さんが盛り上げてくれると思います。登壇者もワクワクするようなライブ感を楽しみたいと思います。

午後の部は「楽しく、手軽に授業改善しよう」で、2つの模擬授業をそれぞれ異なった視点で検討しようというものです。この日は、当日とは異なる授業者による模擬授業をもとに、2種類のツールを活用して検討を行いました。
模擬授業は初任者指導員をされている会員が授業者です。単に初任者の授業を見て指導するだけでなく、自身が実際に師範授業をして見せている方です。まだまだ現役の方です。
模擬授業は小学校低学年の詩の授業です。学習用語を中心に、詩の読み取りのための視点を意識したものです。題材は高木あきこさんの「ぞうの かくれんぼ」です。この日のめあてを「詩を深く読むための○○○○を手に入れよう」と提示します。穴をあけることで、「何だろう?」と子ども役に興味を持たせます。上手なやり方だと思います。実際の子どもではないのでよくわかりませんが、「深く読む」とはどういうことか子どもたちが理解できるのかが少し気になります。最初に読んだ時と、授業を終わった時で詩がどのように違って感じるかを子どもたちに確認することで、「深く読めたね」と評価して、深く読むこととはどういうことかを教えるというやり方もあると思います。

空欄に入るのは「ものさし」です。この言葉もちょっと気になりました。「ものさし」とは何か基準があってそれの量を測るものです。比較するために使われるものです。低学年ですから上手い言葉が思いつきませんが、「どうぐ」の方がよいようにも思いました。
「この詩にまとまりがある」と簡単に説明して、「連」という学習用語を示します。1行空きでまとまりをとらえさせます。この詩が何連あるかと問いかけます。子ども役は1行空きを頼りに8連と答えますが、「よく見ると8連じゃない」と返します。さて、「よく見ると」と言われても「連」の定義が曖昧です。まとまりとは何かわかりません。「7連と考えると自然」という言葉が出てきますが、「自然」とはどういう意味でしょうか?相手が大人だからこういう言葉を使ったのかもしれませんが、子どもにとってはとても曖昧な表現です。「ヒント」という言葉も使います。これは授業者の求める答探しにつながる言葉です。「句読点に注目して連に気をつけろ」と言われても、授業者が言わせたいことはこれだなと予想するだけで、本質的に「連」とは何かはわかりません。3番目のまとまりの最後は読点で終わっています。だから次のまとまりとつながるので、一つの連とした方が自然だというのが授業者の説明です。そう言われて納得する子どもは素直かもしれませんが、思考しているわけではありません。授業者の答を受け入れているだけです。少なくとも、「連」を再定義しなければ、「連」とは何かは混乱してしまいます。では、なぜ作者はわざわざ1行あけたのでしょうか?そのことに疑問を持たない子どもでは困るのです。授業者は、そのことについて後で触れます。しかし、ここで疑問として明確にしておかなければ、常に授業者から説明されることを受け入れるだけの子どもになってしまいます。

子ども役に会話の部分を見つけさせる作業をさせて、できたら前に持って来るように指示をする場面がありました。できた子どもを評価することは悪いことではありませんが、前に持って来させることはあまり勧めません。並んで待っている間、子どもたちがだれたり、友だちの邪魔をして集中を乱したりします。よほどの実力者でなければ、その間に学級全体の様子を見ることはできなくなってしまいます。今回は時間がなかったせいもありますが、途中で終わり、全員できたかを確認できませんでした。これでは常に作業の速い子ども、できる子どものみが評価されることになってしまいます。○をつけるなら、何とか全員に○をつけることを考えたいところです。

「会話文」と「地の文」についての説明場面です。ここで子ども役に会話でない文を何というか問いかけます。「地の文」と答えた子ども役がほめられます。過去に学習したことであれば知識を問うことは復習ですので悪いことではありません。しかし、まだ学習していないことであれば、知識のある子どもだけがほめられます。こういった点も私には気になりました。

何度も出てきている表現を問いかけます。「ぞうさん」という発言に対して、「でてくるね」と授業者が評価し、それから子どもたちに同意の挙手を求めます。ちょっとしたことですが、先に授業者が評価してしまうと子どもの判断にバイアスがかかってしまいます。意図的に誘導したいのでなければ、子どもたちの判断を先にするとよいでしょう。
授業者は1連の「ぞうさんと ぞうさんと」と6連の「ぞうさんとぞうさんの」を取り上げましょうと言います。ここを取り上げることは大切なのですが、常に授業者が指示します。せっかく学習用語を元に読み取りを深めたいのですから、「対比」を先に定義してから、「対比」を探させたいところです。いろいろな対比が使われていますから、それぞれについて、どんな効果があるか子どもたちの言葉で言わせたいところです。
授業者は「対比」の説明を「比べること」としていました。それでは「比較」です。対比は、比べることで違いを強調する、明確にすることです。読み取りのための用語としては、「強調」されること、することという言葉が必要でしょう。「ぞう」「ぞうさん」の違いを対比として授業者は説明しますが、「対比」の説明を「比べること」としたのですから、そこから「違い」を見つけることとつなげておく必要があったと思います。その上で、その「違い」がどのような効果をもたらすかといったことを考えたかったところです。

授業者は繰り返しているところを取り上げて「反復」と用語を説明し、強調していると解説します。強調は子どもから出させたいところです。「うろ うろ うろ」を隠れているところを探していることの強調と説明し、「はなが じゃま」「みみが じゃま」「おしりが じゃま」の反復を、指名した子ども役に動作化させます。指名された方の動作に対して、授業者が補足して助けます。詩にそった動作化なのですから、子どもたちに確認したいところです。

「・・・も、・・・も、・・・も、」と「も」が3つあるのは、何を強調しているのかを隣と相談させます。まだ発言していない人で答えてほしいと言うのですが、なかなか手が挙がりません。授業者が常に正解かどうかを判断するので、子ども役は無意識に間違えたくないと思っているように見えました。大人だからこそ手が挙がらないのでしょう。
「隠れるところがないことを強調している、だから行を空けている」と、「連」を考える時の一つのまとまりなのに行を空けていることの説明をここでしました。時間がなかったからだと思いますが、こういった場合は、行を空けたもの、行を空けてないもの、2つを見比べることで子どもの気づきを引き出すとよかったでしょう。

授業後、子ども役から、詩の奥深さを学んだという声を聞くことができました。とても楽しかった、勉強になったということです。たしかに、この詩の深い読み取りはできたように思います。しかし、それは授業者によって気づかされたのであって、子ども自身が授業者の言うところの「ものさし」を使って見つけたわけではありません。読み取れたと思っていますが、読み取った結果を与えられているように感じました。とはいえ、これが授業者のねらいだったようにも思います。小学校の低学年が自分たちでそれほど深く読み取れることは期待できない。授業者が誘導しても、詩の面白さ、読み取りの奥深さを感じ、興味を持ってもらうことがまず先だ。そのための道具として、学習用語を意識させたい。使えるのはこれからだ。そのような主張に思えます。
ここで私が述べたことは、低学年の子どもでも自分で考えることができる、考えさせたいと思った時、授業をどうすればいいのかと考えたことです。授業者の、まず教えて面白さを体験させることが先と考える授業観との違いが現れているのです。

検討会では、学習用語を使いながら明快に詩を読み取っていることや、子どもとのやり取り、さり気ないICT機器の使い方など、この授業の素晴らしいところがたくさん指摘されます。授業者の目指すところを達成するという意味では、完成度が高い授業だったということです。だからこそ、授業観の違いがはっきりとし、この授業で多くのことを考え学べたように思います。どこを目指すかによって、授業のありようは大きく変わります。授業者と私の最終ゴールが大きく違うとは思いません。そこへの道筋、ステップが違うのです。しっかりと考えられた授業であるからこそ、その違いが明確に見えてくるのです。
フォーラム当日は、同じようにレベルの高い授業が2つ提案されます。そこでどのようなことを学べるのか、今からとても楽しみです。参加予定の皆さんにも大いに期待していただきたいと思います。
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