学習規律の次にくるもの(長文)

昨日は、研究指定を受けている中学校を訪問しました。午前中2時間、廊下から子どもたちの様子を見せていただき、午後は授業研究に参加してきました。

前回訪問時、一部の子どもが教室から出ていったりして落ち着かなかった2年生からまず参観しました。今回の第一印象は、子どもたちが落ち着いているということです。最初に見た社会科の授業では、授業者は子どもたちが授業を受ける準備ができるまで開始を待っていました。準備ができたあと授業者が笑顔になったことが印象的でした。授業中に「ありがとう」の言葉も何度も聞かれました。意識していることがよくわかります。指示をした後に子どもたちに確認をした時も、笑顔をつくっていました。授業者は授業で子どもたちに望む姿を「協力して課題を進める」といった具体的な言葉で伝えようとしています。子どもたちが落ち着いていた理由がわかったような気がしました。私が見ていた時には確認ができませんでしたが、この後の評価が大切になります。ただ、「いいよ」とほめたり、「ありがとう」を言ったりするのではなく、「ここがいい」、「○○してくれてありがとう」と何が評価されたか具体的に伝えることが必要です。こうすることで、よい行動が学級に広がります。
前で突っ伏している男子生徒がいました。授業者は優しく起きるようにうながします。いったん起きたものの、すぐにまた倒れてしまいました。そのとき、隣の席の女生徒がその子の肩を軽くたたきました。すると、その男子生徒は起き上がり笑顔を見せました。とてもよい場面でした。少なくとも私が見ている間、その男子生徒はずっとと起きていました。

この授業に限らず、2年生は以前と比べてずいぶん落ち着いていました。先生方が力で押さえようとせずに、子どもたちとじっくり向き合ってきたという印象でした。指示が通るまで待てる方が増えていたようにも思いました。
全体的に見ても、学校の雰囲気はずいぶん柔らかくなったように思います。初めて訪問した時と比べて、先生方のテンションもずいぶん落ち着いたようです。学校全体で意識して取り組んでいることが増えているように感じました。子どもたちがよく集中している場面にもたくさん出合います。だからこそ、課題も多く見つかったように思います。

一つは、先生がしゃべりすぎることです。子どもたちが集中して聞いてくれるので、ついついあれも言っておこうとなってしまいます。しかし、子どもたちの集中力は受け身では長く続きません。集中が切れた場面は必ずと言っていいほど先生がしゃべっている時なのです。また、グループ活動で机間指導をしている時や全体で説明をしている途中に質問が投げかけられると、多くの先生がその場でその子どもに対して答えてしまっています。しかし、本当に大切なことであれば、全員で考えることが必要です。その子どもだけのために時間が使われることは避けるべきです。このような時は、その質問が全体で共有すべきものかをまず判断します。全体で考えるべきものであれば、まず全員がその質問を共有する必要があります。グループ活動であればいったん活動を止めたうえで、「今、○○さんがいいこと言ってくれたんだけど、みんなに教えてくれる」と全員に対して伝えさせます。その上で、「同じような疑問を持った人いる?」と子ども同士をつなぎ、「どうすればいいかなあ」「誰か助けてくれる?」と子どもたちの課題として考えさせます。焦点化した後、「じゃあ、グループで考えてくれる」ともう一度グループに戻してもいいでしょう。
もし、子どもの質問が全体で取り上げるようなものでなければ、「グループの人に聞いてごらん」とグループの仲間につなげる。全体で説明している時であれば、「あとでね」と笑顔でスルーして、個人活動の時に簡単に答える。そういう対応が必要です。
次のような場面がありました。

数学の時間にお釣りを表わす式1000−x×6(円)という答えに対して、「x×6−1000じゃダメ」と聞いた子どもがいました。授業者はこの子どもに間違いを気づかせようと一生懸命に説明をします。まわりの子どもも「違うよ」と勝手に話しだします。しかし、多くの子どもは何が問題になっているかもよくわからない状態で、置いてきぼりです。その子どものまわりと先生だけで授業が進んでいます。思わぬ時間を使ってしまいました。
この子どもの間違いは、中学校の数学というよりは小学校の算数の問題です。時間をかけたくないところです。もし、個人作業の時間がすぐ後にあれば、「じゃあ、あとで説明するね」とその場はスルーしてもいいでしょう。しかし、ほとんどの子どもがわかっているのに、たとえ少しの時間でも放っておかれるのはつらいものがあります。授業者はその場でその子に対して簡単に説明をしてすぐに終わらせたいと思ったのでしょうが、うまくいきませんでした。たとえすぐに終わりそうであっても、全体の問題にすることが必要です。
まず、「x×6−1000じゃダメ」という子どもの言葉を全員で共有します。その上で、みんなが説得するのではなく、その子どもが納得するような展開を目指します。「同じ答を書いた人いない」とまず聞いてみます。もしいれば、「同じ答だった人いるね、あなたはどう」と聞いてみます。正しい答を理解できていればきっと自分の間違いをどう修正したか話してくれます。「なるほど、あなたは最初・・・と考えたけれど、・・・だとわかったんだ。よく考えたね」とほめ、「どう、今の説明で納得した」と最初に聞いた子どもに返します。納得したようであれば、「○○さんの説明をしっかり理解したんだね。すごい」とほめ、「△△さんの説明がよかったんだね。ありがとう」と両者をほめます。もし、同じ間違いがなかったり、うまく納得させることができなかったりすれば、「○○さんが納得するように助けてくれる」と全体に問いかければいいのです。授業者は間違えた子どもに働きかけるのではなく、わかっている子どもに働きかけるのです。わからなかった子どもに迫って説得するのではなく、その子が納得するのをまわりが助けるようにうながすのです。こうすることで、学級全体の課題となり、たとえ簡単な内容であっても取り組む意味が出てくるのです。

「つなぐ」という言葉は使われますが、具体的にどのような場面でどうすることなのか、まだしっかりと意識されていないように感じました。
英語の授業でペアの会話を発表する場面がありました。授業者はその発表をしっかり聞いているのですが、視線はそのペアから動きません。一方、子どもたちの視線は定まっていません。下を向いていたり、ぼうっと前を向いていたり、集中していません。発表はそのペアの問題で自分たちには関係ない。そう思っているのです。授業者は他の子どもを見ていないのでそのことに気づけていません。
発表に対して、他の子どもがかかわる必然性がないと子ども同士はつながりません。決められた文をペアで会話するのであれば、その会話のどこがよかったのかを他の子どもたちに問うということが必要になります。その際評価する視点を明確にしておかなければいけません。これは、ペアが意識すべき目標と一致します。また、会話がペアのオリジナルのものであるならば、その内容を聞き取ることを意識させなければいけません。ただ「よかった」ではいけません。「どんなかこと話していた?」「なんて言っていた?」「わからなかったことない?」と子どもたちに問いかけ、それに対する答は発表者にさせます。また、発表者にどうやって文をつくったかを問いかけることで、文をつくる方法を共有することも大切です。発言をつなごうとすることも大切ですが、つなげることを意識した課題、活動を工夫しておかなければうまくつながらないことを知ってほしいと思います。

個人作業とグループ活動の時間を切り分ける傾向が目立ちます。このことも少し考えてみる必要があります。個人の考えを持たないと、グループで自分の考えを言えない。そう考えているために、個人作業の時間をグループ活動の前に確保していることが多いのです。その気持ちは理解できるのですが、手のつかない子どもにとってはどうでしょうか。個人作業の時間に手つかずのままフリーズしてしまえば、課題に対する意欲を失くしてしまいます。中には個人作業の時間であっても、まわりの子どもに聞いたり相談したりしている子どももいます。わかりたいと思っていれば、自然に起こる行動です。反対に自分で考えようとしているのに、無理やり教えられたりするのは子どものやる気をそぎます。個人作業とグループ活動の時間を切り分けるかどうかは微妙なところがあるのです。
数学の時間に個人で問題を解いている場面です。授業者はグループになって答を確かめ合うように指示しました。ところが、子どもたちの動きは鈍いのです。なかなかグループになりません。グループになっても自分で問題を解き続けている子どもがほとんどでした。子どもたちはその時点でグループになることよりも自分で解きたいと思っていたのです。個人で問題に真剣に取り組んでいる姿からそのことがわかります。集中していたのです。この場面でグループにした理由は何でしょう。一部の子どもの手が止まっていたからでしょうか。それとも時間がなくなって次に進みたかったからでしょうか。手が止まっていた子どもは既に問題が解けた子どもなのでしょうか、それとも手のつかなかった子どもなのでしょうか。子どもたちが集中して取り組んでいるのならもう少し時間をあげてもいいのではないか。いろいろな考えが頭をめぐります。しかし、実はそれほど難しく考えなくてもいいのです。作業をグループ化することで多くの問題が解決できるのです。具体的にはグループにして個人作業をさせればいいのです。わからなければ友だちに聞いてもいい、見せてもらってもいい。聞かれないのに教えてはダメ。こういうルールで作業をさせるのです。自分で解きたい子どもは、自分で解き続けます。わからない子どもは、解けた子どもに聞くことができます。もし、誰も解き終わってなくても、途中の式を見せてもらう、覗き見ることができます。固まってしまわなくてもいいのです。個人作業のグループ化という選択肢を持つことで随分と授業の幅が広がるのです。

また、できるようにするための活動が意識されていないことも気になりました。どうしてもわかった人、できた人の発表で授業が進んでいきます。わからない子どもは受け身で聞いているしかありません。
英語のヒアリングの場面です。子どもたちに答を確認しても聞き取れなかった子どもは何とも答えようがありません。意見が違っても議論のしようがありません。答を聞くのではなく、何と言っていたか英文そのものを確認する必要があります。何人かの子どもたちに確認した後、「じゃあもう一度聞いてみようか」とその英文を聞くのです。聞き取れなかった子どもも、あらかじめ英文を予想できていますから、聞き取りやすくなります。英文そのものを確認できた後、その内容を吟味します。聞き取った英文を根拠にできるので、話し合うこともできます。
ヒアリングは聞き取ることと聞き取った英文を理解するという2段階があります。もちろん、この2つの段階は明確に分離できない部分もあります。ある程度理解できなければ聞き取ることもできないからです。しかし、手がつかなかった子どもも、この2つの段階を分けて示すことで、参加できるようになるのです。こういうことを意識して授業を組み立ててほしいのです。
数学の連立方程式の解法の場面です。代入法で解いた後、授業者は何か思い浮かぶことがないかと問いかけました。子どもからは答が返ってきません。授業者としては加減法を思い浮かべてほしかったのですが、子どもたちは何を答えてよいかわからなかったようです。この問いかけでは、思い浮かばなければ子どもたちはどうすればよいかわかりません。子どもたちが考える手がかりのある問いかけであることが大切です。連立方程式を解くためには、文字を減らせば(消去すれば)1元方程式に帰着できること。減らす方法に代入法と加減法があること。この2点を常に問いかけていれば、「思い浮かぶ」可能性は高くなるでしょう。ストレートに「連立方程式を解くとき何を考えた」と「連立方程式を解く」をキーワードとした問いかけにすれば、自然に出てくるかもしれません。「いつも何を考えた」と問題を解くときの考え方を問いかけてもいいでしょう。「今までどんなことを考えた」と問いかければ、自然に教科書やノートをめくる子どもが出てくるでしょう。その行動をとらえて、「おっ、教科書(ノート)を調べている人がいるね」と評価し、他の子どもに広げれば、「どんなことが見つかった」と問いかけることで子どもたちから引き出すことができます。子どもたちが考える、できるための足場を意識して授業を組み立てる、意識した問いかけをする。こういうことが大切なのです。

ちょっと話はそれるのですが、3年生で面白い場面がありました。理科の時間の最後に章末問題をやるように指示が出ました。この時、子どもたちの動きが遅いのです。教科書をすぐに開かない子ども、教科書をパラパラとめくってちっとも取り掛からない子どもが多いのです。ちょうど同じ時間帯で英語の授業でワークシートの問題を解くように指示する場面がありました。授業者は愛知県の入試問題であると説明していました。子どもたちはすぐに鉛筆を持って問題に取り組みました。面白い違いです。「愛知県の入試問題」という言葉に反応したのでしょうか。教科書を開かなくても「ワークシート」だからすぐに取りかかれたからでしょうか。それとも、それまでの内容がよくわかっていたから「できそう」と意欲的になっていたからでしょうか。その場面しか見ていない私には判断のしようがありませんが、明らかな違いがありました。それぞれの子どもたちの姿をつくり出した要因が何かは、授業者であればきっとわかると思います。その要因を意識することができれば授業はよい方向に変わっていくはずです。こういう視点も持ってほしいと思います。

いろいろと指摘しましたが、教室の様子が変わってきたからこそ課題がより明確になってきているのです。学習規律が守られるようになったからこそ、教科の問題が浮き上がってきます。授業での課題の質が問われるようになってくるのです。教材研究の深さが求められてきます。ここからは教科部会での学び合いがとても大切になってきます。自分たちの教科で常に問いかけ続けるべきは何か。大切にすべき活動は何か。共通の課題意識を持って授業に臨み、そこでの気づきを共有していくことが求められます。研究発表まではあまり時間がありません。それまでにすべての課題がクリアされることはないでしょう。それでいいのです。研究をきっかけに、互いに学び合う風土、体制をつくることができればそれで十分です。研究発表を花々しく打ち上げて、それで終わってしまうのなら何の意味もありません。地味でいい、地道に互いに学び続ける土壌をつくることができれば、それが最高の成果なのです。この学校にはそのことを求めたいと思います。

授業研究については日を改めて(体育の授業で考える参照)。

公開授業と青少年健全育成会議で考える(長文)

先週末は学校評議員をしている中学校の青少年健全育成会議に参加しました。学校公開日でもあったので、会議に先立ち3時間目の授業の後半と、4時間目の授業を参観しました。

学び合いを大切にしている市の学校ですが、子どもたちの話を聞く姿勢が気になりました。どの学級でも、教師が説明している時に顔を上げていない、他のことをしている子どもが見受けられます。英語のコーラスリーディングなどでも、注意されない程度に口は開けるのですが、しっかり参加していない子どもが目立ちます。友だちの発表を聞く姿も今一つ集中していないように感じました。これが3時間目の様子でしたが、どこに原因があるかよくわかりませんでした。4時間目はこのことを意識して参観しました。社会科の授業の導入部分で、やはり子どもたちの聞く姿勢がバラバラでした。この方の授業はよく知っていますが、いつもはもっと集中した姿が見られるはずです。疑問に思いつつ他の授業を見た後にもう一度見てみると、今度は全く違った姿でした。子どもたちがそれぞれの意見を発表する場面ですが非常に集中していました。ただ、発表ごとに授業者が板書しながらコメントをするので、子どもたちの視線は発表者であったり、最初から授業者の方を向いていたりとちょっとばらついていました。
国語で作文を発表し、そのよいところを発表する場面でした。子どもたちが集中していることがよくわかりますが、姿勢がばらついていました。顔を上げずに一生懸命メモしている子どもと、発表者を見ている子どもと両方いるのです。発表者を見ている子どもはメモを取る気がないので、漫然と聞いているのでしょうか。ちょっと気になります。発表が終わって整理する時間が少し取られました。先ほどメモを取っていなかった子どもたちは、みな素晴らしい集中力を見せます。それこそ鉛筆の先から煙が出るほどの速さで書いています。漫然とではなく、頭の中で整理しながら集中して聞いていたことがよくわかります。このような素晴らしい場面を見ることもできました。
また、理科で有性生殖と無性生殖について子どもたちが意見を発表した後、教師がまとめをしている場面です。子どもから出た意見は間違っていたのですが、そのことを教師が説明しました。ところが、子どもたちの反応はいま一つです。あまりしっかり聞いていません。時間がなかったので子どもたち自身に修正させなかったことが原因かもしれません。子どもが説明を納得する時間がないためついていけなかったのかもしれません。しかし、黒板に書かれた表を教師が書き直すと子どもたちはノートに写しだしました。先ほどの社会科の授業でも最後に教師がまとめを書くと、話を聞かずに写している姿が目立ちました。

これらの姿から感じたことは、良きにつけ悪しきにつけ、子どもたちは興味がある、聞く意味があることにはとてもよい姿を見せますが、そうでなければ集中力を失くすということです。また、教師のまとめは説明を聞くことよりも意味がある、そう思っているようです。これをどう評価したらよいのでしょうか。

このような場面も気になりました。英語の授業中に顔を上げず声を出していない生徒がいました。授業者は歩きながらその子どもに近づき、手で注意をしました。このこと自体をそれほど大きなことではないかもしれませんが、そのときの表情が気になったのです。無表情なのです。この日見た授業の多くは教師の表情が薄いように感じました。個性の差はあると思うのですが、教師の笑顔が少ないのです。その結果子どもの表情も硬いのです。もちろん、この日は授業公開日で教師も子どもも緊張していたということはあるのでしょうが。
唯一笑顔が多かった保健の授業は、子どもの言葉に授業者が反応してよい雰囲気に見えるのですが、テンションが上がり気味です。あまり考えずに答えられる発問なので、子どもたちは無責任に反応していたのではないかと思えました。授業者は反応してくれる子どもたちにばかり目がいって、その陰で参加せずに集中力を失くしている子どもがいることに気づいてないようでした。

たまたま見た2つの数学の授業はともに、子どもの様子を見ていないと感じました。黒板を見て話す。教科書を見ながら話す。そんな場面を目にしました。子どもも集中して聞いてはいません。教師がそのことを求めていないからでしょう。
子どもが説明をしても、そのよさをきちんと評価しません。グループで説明を確認し合うのですが、それでは数学の力はつきません。考え方の数学的な価値や再現性といったメタな知識に高める活動がないのです。数学とはどういう教科なのか、そのことを授業者が意識していないのが残念です。私が数学の専門家なので余計にそのように感じるのでしょうか。解き方を学んでも数学の力はつかないと考える私は間違っている。そう思わせるほど、解き方を教えるだけの数学の授業に出合いすぎます。

全体的に子ども同士をつなげようとする教師の姿が見られません。子どもの意見を一つひとつきちんと受け止めるのですが、最後は教師がまとめてしまう授業が多いように思います。そして、教師の笑顔が以前よりも少なくなっている。そのように感じました。集中力のばらつきは子どもたちの問題というよりも教師の問題。もっと言うと、「学び合いの形」は意識しても、それを通じてどのような子どもを育てたいのかという「目指す子どもの姿」を意識していないという教師の姿の現れのように思いました。

青少年健全育成会議は2部構成です。通常の会議の後に、子どもたちと一緒に全体会をおこないます。そこでのメインは地域の大人と子どもたちが一緒に参加する活動です。最初は生徒会が中心となって「コンビニへ行こう」というゲームをおこないます。リーダーが示した商品の字数と同じ数の人数でグループをつくるというものです。2回目は3学年から最低1人ずつ集まってグループをつくる、最後は地域の方も含めてつくる。そういう趣向です。リーダーの声に合わせて声を出すのですが、なかなか声が出ません。一部の子どもは大きな声を出してくれるのですが、なかなか全体には広がりません。既定の人数のグループをつくれずにいる小グループがいくつかできたのですが、その子たちが互いに移動して一緒になって新しいグループをつくらなかったのが妙に気になりました。以前は、このような場面で自然に動けていたように記憶しているからです。
最後の地域の方を含めたグループづくりでは、私をはじめ何人かの方が子どもたちから声をかけられずにいました。しかし、そのことに気づいて声をかけてくれる子どもがいました。私に声をかけてくれたのは女生徒でしたが、その笑顔がとても素敵でした。

後半はこのグループでの活動です。教頭が進行役を務めました。最初は地域の方への簡単なインタビューです。私のグループはシャイな子どもが多かったのか、一部の子どもだけが話しかけてきました。しかし、そのやり取りを他の子どもはしっかり聞いていました。1グループが10人ほどと多かったので、全員が上手くかかわれないのは仕方がないことかもしれません。
メインテーマは防災についてです。非常時に何を持ち出すか、用意されたリストを元にグループで考えるという活動でした。リストにはあえて不要そうなものが入っていたり、水が抜けていたりと、考えるための仕掛けがされています。進め方も、中間に発表を入れてその結果を受けてもう1度グループでまとめるという、よく考えられたものでした。ただ、私の立場でいえば積極的に仕切るのか、それとも子どもたちに任せながら時々口をはさむべきなのか、とてもかかわり方が難しいと思いました。事前に指示があればとも思いますが、一般の地域の方にかかわり方を指示するのが難しいこともよくわかります。私は、観察者に徹することにしました。自分の考えを言う子どもはいるのですが、なかなかその意見がつながりません。また、私以外にいた地域の方が主張した「保険証」は素直にリストに加えます。しかし、中間発表の時、その方が盛んに「保険証」を発表するように子どもたちに働きかけても、だれも動きませんでした。その方はなぜ発表しないのか不思議がっていました。シャイだと思っていたようです。中間発表ではその理由も聞かれます。子どもたちは「保険証」の必要を自分では納得していなかったことがその原因ではないかと感じました。少なくともこのグループの子どもたちは、人の意見を聞くし受け入れることはします。しかし、反対したり付け加えたりと深くかかわることをしません。微妙な距離感を保っています。今の子どもたちの特性なのでしょうか。とても興味深くその様子を見せていただきました。

私たちがグループ活動をしているときの先生方の様子が気になりました。全体を見ている方、仲のいい(?)先生同士で話をしている方、グループの様子を回りながら覗いている方、いろいろです。どう動くべきだと言いいたいわけではないのです。ここでも先生方の表情が気になったのです。進行役の教頭は別にして、笑顔が少ないのです。興味のなさそうな表情、無表情、チェックをしているような目。見守っていると感じられなかったのです。唯一、どちらかといえば指導が厳しいと評判の学年主任が、笑顔でグループの間をまめに回って声をかけていたのが印象的でした。生徒指導を意識している方に共通するのが日ごろから子どもたちと関係をつくっておこうという、このような姿なのです。

最後に、地域の防災リーダーの方から、非常持ち出しのことも含めて、防災について話を聞きました。グループで考えたこともあってか、私のまわりの子どもはとても集中して聞いていました。だからこそ、全体の様子が気になります。話している方には失礼ですが、立ち上がって見回しました。ほとんどの子どもは顔を上げて集中して聞いています。しかし、目線が下がっている子どもも若干います。隣同士でずっとしゃべっている子どもがいたと教えてくれた地域の方がいました。そのまわりの子どもはちゃんと聞いているのですが、「聞こうよ」とは声をかけなかったそうです。そのことを残念に思っておられたようです。地域の方は声をかけるかどうか迷ったことと思います。地域フェスティバルなどでは、積極的に子どもに声をかけ、時には厳しく指導される方です。声をかけづらい何かがあったのでしょう。

子どもたちの素晴らしい姿ととともに、今の子どもたちが抱えているものに少し気づく機会をいただけました。

授業参観中に、たまたま出会った校長に声をかけました。子どもたちの様子が気になったので、そのことについて意見を聞きたかったからです。少し話した後、困ったように話を中断されて教室に戻られました。このことについてメールをいただきました。
4月の公開日にあらためて実感した課題(授業中の保護者の私語の多さ)に、いろいろな策を打って当日を迎えていたそうです。そういえば、当日も、放送で校長が直接保護者に訴えかけておられました。そのことに気づかず私が廊下で話しかけてしまい、さぞかし困ったことだと思います。わざわざお詫びのメールまでいただき、申し訳ないことをしました。
どの学校でも授業参観の際の保護者の私語には困っていることに、あらためて気づかされました。

半日あまりでしたが、子どもたちの様子からいろいろなことを学ぶことができました。今回子どもたちの様子から気づいた課題の多くは、教師が子どもたちに何を求めるかの問題のように思います。市全体で取り組んでいても、授業を通じて子どもたちに求める姿を共有することはとても難しいのだとあらためて感じました。また、子どもたちと直接触れ合うことで、彼らが人間関係で微妙なバランスを保とうとしているようだと気づけました。このような学びの機会を得られたことに感謝します。ありがとうございました。

Dr.横山から学ぶ

先日、本年度第2回の教師力アップセミナーに参加してきました。山形大学医学部看護学科教授横山浩之先生の講演です。Dr.横山の登壇は3回目です。前回までは、個々の場面での対応が中心でしたが、今回は「通常学級にいる特別支援が必要な子どもに対応できる授業とは」というテーマで、具体的な授業のあり方についてのお話でした。
以前の講演でDr.横山から学んだことは、特別支援教育にとどまらず、通常の授業、学級経営を考える大きなヒントになりました。Dr.横山から学んだペアレントトレーニングの考え方が、私の子どもへの接し方の基本となっています。

最初に、ある子どもの事例を話されました。親の虐待が疑われる子どもです。甘えるところがない状況です。母親役が学校に必要だということです。その子どもが学校を休んだ後、教室に行きたくないというのです。理由は友だちが休んだ理由を聞くからだというのです。友だちがあなたのことを「好き」→「心配」→「聞く」ということだと説明すると安心して教室に戻ったそうです。好きだから、愛しているからとる行動が理解できないのです。愛情を受けていないということです。
よい行動をほめて強化するのがペアレントトレーニングの基本ですが、こういう子どもはほめられていることを理解できないことが多いようです。この子どもの場合はビー玉に興味を示したので、ビー玉を与えることでよい行動を強化したそうです。次第に母親役である先生に駄々をこねるようになってきました。不適応行動が増えたように思えます。状況が悪くなったように見えますが、そうではないのです。この子どもの場合、人を信じることができるのが目標です。愛着形成が必要なのです。そういう意味では、母親役の先生に心を許したのですから、よい状況になってきたのです。表面的な行動でとらえるのではなく、その原因を考えることが大切なのです。
子どもたちをほめて強化し伸ばすというペアレントトレーニングの考え方を学級経営に活かす方法としてクラス会議が紹介されました。クラス会議でルールを決めて、できたことの報告会をするのです。できなかった子どもを糾弾するのではありません。ほめるきっかけ、場面をつくり、意図的にほめてよい行動を広げる。教師の姿勢の基本だと思います。

授業を考えるにあたって、まず記録をとることの重要性を説かれました。「ICレコーダーやビデオに記録を取って客観的に振り返ることで改善点が見える」という当たり前のことなのですが、これを実践するのはなかなか難しいものがあります。自身の至らなさと直面するのは厳しいものがあるからです。Dr.横山自身、初めておこなう講義では3回振り返るそうです。他者に勧めるからには、自分もきちんとやるという姿勢は見習わなければいけません。

子どもに伝えるのに、「ことばをけずる」「ひとめでわかる工夫をする」ことが大切だと言われます。子どもの視線の移動に気を配るといったことなど、すべて特別支援に限らず、授業の基本でもあります。そのことをあえて言わなければいけないということが、学校現場の現状でしょう。新年度が始まって3か月近くが過ぎようとしています。学校に出かけていって、こういった基本的なことを指摘することがまだまだ多いことが残念です。

学級経営を個別指導に優先させるということも話されました。その通りだと思います。特別支援に限らず、気になる子どもを優先させるのではなく、大多数である普通の子どもを第一に考えるのが基本です。普通の子どもがまず安心して暮らせる学級をつくらないと、全体が崩壊していくからです。
発達障害を疑われる子どもがたくさんいるという学級は、実は不適切な扱いを受けている子どもがその中に混ざっている可能性があるという話も、なるほどと思いました。発達障害は高々10%と言われています。それ以上の数が疑われるときには注意が必要ということです。正しい対応というのはどういうことなのでしょうか。Dr.横山が実際におこなった授業ビデオを元に解説されました。

授業を見るプロとしてDr.横山の授業はどう見えたでしょうか。
実に教科書通りの授業なのです。たとえば、机間指導していても常に全体に目を配っています。努力している、よい行動を見つけると、すうっと寄ってほめます。「ずれないでしっかりかいているね」「最後の『。』も書いているね」と具体的にほめます。もちろん常に笑顔です。できる子への対応も忘れていません。「他の言葉もできるかな。あいているところに書いてごらん」「自分から勉強しているね。立派!」こういう言葉をかけます。決してネガティブな言葉は使いません。教師が近づくとほめてもらえるのなら、子どもは安心して作業を続けます。ところが、実際にはこの逆の場面を多く見ます。教師がいつも子どもの悪いところ指摘していると、教師が近づくと子どもに緊張が走るのです。机間指導の時の子どもの姿を見るだけで、その教師の日ごろの子どもへの接し方がわかるのです。
最初から失敗させるとやる気を失くします。そこで、書く場面では、なぞることから始めました。まずは、成功させほめるところから出発するのです。
指示も1度に1つです。それも、できるだけ短い言葉でするようにしています。子どもたちの短期記憶の負荷をできるだけ少なくするということです。指示を繰り返すにしても同じ言葉を使います。子どもが理解していないなと感じると、言葉を変える教師がいます。理解が遅い子どもは一生懸命理解しようとしているのに、違う言葉で説明されると追いつきません。かえって混乱するのです。適切な言葉に絞り込むことが大切です。そのために、教材研究は欠かせないのです。
基本がしっかりできていると感じる先生の学級では、発達障害の子どもが目立たない理由があらためてわかった気がしました。

ソーシャルスキルトレーニングついてもお話がありました。特別支援を必要とする子どもとその子どもを取り囲む子どもたちにとって、ソーシャルスキルはとても重要だと思っています。Dr.横山もその重要性をおっしゃっていましたが、特別の時間だけやっても効果が薄いということです。日常的におこなわないと定着しないということが研究でわかっているそうです。簡単なものでいいので、毎日取り組むことが大切なのです。Dr.横山がつくった、そのための教材「マンガでわかるよのなかのルール」を紹介されました。

参加者の質問に答える中で、幼保と小中の連携の必要を話されました。最初の事例でもわかるように、保護者の情報を知ることは子どもたちと接するうえでも重要なことです。しかし、小中の教師にとって、このことはそれほど簡単ではありません。保護者と接する機会が圧倒的に少ないのです。その点、幼保では子どものお迎えなどがあるため、かなりの頻度で保護者と接します。信頼に足る情報を持っていると思われます。連携の必要性を改めて納得できました。

医者であるにもかかわらず、どうしてこのような授業技術を身につけられたのか興味を持ちました。お聞きしたところ自分でもよくわからないということです。ただ、亡くなられたお父様が指導主事だったということが影響しているかもしれないということでした。実家に教育書がたくさんあって、それを参考にされたこと、また、子どものころに教育に関することを耳にする機会があったことなどが関係しているかもしれないということです。

今回の講演は、前回までの講演の知識を前提としているので、初めてDr.横山の話を聞かれた方には、ペアレントトレーニングなど、もう少し詳しく聞きたい部分もあったかもしれません。ぜひご自分で勉強していただければと思います。そういった知識がなかったとしても、とてもわかりやすく役に立つものだったと思います。特別支援教育とかまえる必要はありません。授業の基本をきちんと押さえることが、特別支援を必要とする子どもへの有効な対応であることをあらためて確認できました。とても中身の濃いお話をありがとうございました。

小中一貫校で現職教育(長文)

昨日は、市の中心部にある小中一貫校の現職教育で講演をおこなってきました。今年度4回訪問する予定です。この日は中学校を中心として授業を見せていただいた後、授業研究でした。

子どもたちがとても柔らかい表情をしているのが印象的です。小学生は安心感が、中学生は優しさがあふれています。廊下ですれ違う子どもたちに笑顔が多いのが印象的でした。小中一貫校なので小学生と中学生が日常的に触れ合うことがその要因でしょうか。小中一貫校のよさを感じました。
1学年1学級で、中学校は1フロアに全学年が、小学校は1年生〜3年生、4年生〜6年生がそれぞれ1フロアという構成です。異学年が日常的に交流しやすいのは、落ち着いた学校ではとてもよいことです。

この日見た総合的な学習の時間では、子どもたちが笑顔で先生と話している姿を見ることができました。先生と子どもたちの関係のよさが感じられます。ところが教科の授業では、子どもたちの笑顔があまり見られません。集中力も今一つです。社会科の時間のことです。熱帯雨林に見られる植物を教科書から拾い出す作業を授業者が指示しました。教科書を一読してノートに書けば終わりなのですが、どうも動きが鈍いのです。答を聞いたところ数人しか手が挙がりません。指名された子どもは「常緑広葉樹」と答えます。授業者は「そうだね」と板書して常緑広葉樹の説明をします。半数以上の子どもがノートに常緑広葉樹と写していました。常緑広葉樹という言葉は試験に出ても、常緑広葉樹はどういうものか試験では問われないのでしょう。言葉で説明されても具体的にはよくわからないので、聞いてもムダと思っているのかもしれません。せめて写真を見せる。できればいくつかの典型的な植物を見せて、どれが常緑広葉樹か説明をもとに選ばせるといった活動をしてほしいと思います。また、教科書を見ればすぐにわかることで数人しか手が挙がらないのは、わかっているけれど挙手することに意味を見いだしていないのかもしれません。授業者が板書してから写す子どもが大半というのは、正解だとわかってから安心してノートをつくりたいのかもしれません。この場面にこの学校の状況が如実に表れていると思います。
友だちの意見を聞くより、正解と言った後の教師の説明を聞く。教師の説明を聞くより板書を写す。自分で調べるより結果を聞く。考えるより答を覚える。教師が一方的な説明して子どもにわかりなさいと説得する。子どもは教師がまとめた板書をしっかり写して勉強した気になる。それで試験には対応できる。そんな姿が浮かんできます。
子どもたちと教師の関係は悪くないので、一部の子どもは教師とかかわろうとします。そのとき、学級全体で共有すべき内容であれば、全体に広げて全員でかかわるべきなのですが、一部の子どもと教師だけで話が進みます。その間他の子どもは自分には全く関係ないという顔をしています。子どもたちの様子から感じたのは、授業で人間関係がつくられていないことです。この学校の子どもたちの人間関係は決して悪くないのだと思います。ただ、授業以外の場面でつくられた人間関係は、気の合う子ども同士の関係、小集団を中心としたものになりやすい傾向があります。授業でつくられる人間関係は、気が合う合わないにかかわらず誰とでもかかわれるものです。どの子にも居場所を保証するものです。これが、安心して暮らせる学級づくりの基盤、生徒指導の基本となるものなのです。

授業研究は1年生の国語の授業でした。授業者の笑顔がたくさん見られました。子どもとの関係もよさそうです。授業は作品を読んで面白いと思ったところをグループで交流する場面でした。1時間の授業のほとんどがグループでの活動でした。一見すると子どもたちが活発に活動しているように見えるのですが、違和感があります。グループ活動の間子どもがうなずく姿を見ないのです。子どもたちはワークシートを見ながら自分が面白いと思ったところを発表します。聞き手は友だちの発表をほぼそのままワークシートに書き込みます。ワークシートにはメモとなっているのですが、メモではなくちゃんと文章で書き留めようとしています。自分で情報を整理することはしていないのです。したがって誰も顔を上げません。目から口、耳から手へと頭を経由せずに活動しているのです。
発表が終わったあと、友だちと同じ考え、違う考えを話し合う場面では、子どもたちのテンションが上がり気味になります。面白いと思うことに根拠を求めるのは難しいことです。個人の感覚に頼るところが多いからです。したがって考えるというよりも感想を述べることになります。国語というよりもエンカウンター的な活動になるのです。そのため、テンションが上がり気味になっているのです。
最後に友だちの考えを受けてもう一度面白さについて自分の考えを書く場面では、子どもたちはどんどん書き進めていました。しかし、友だちの感想から、伏線に気づいた、気づかなかったといった新たな作品の読みの発見がなければ、個人が感じる面白さが変わるわけではありません。面白さを客観的にとらえる視点を明示していなければ、好きなことを何でも言えばいいことになります。だからストレスなく書き進めることができるのです。これでは、考えを深めたとは言えないのです。
国語の授業としては、作品を正しく読み解き、その読み解いた内容を根拠として考える課題とする必要があります。授業者の思いはとてもよくわかりますが、課題をもう少し工夫する必要があるでしょう。

全体で授業検討をする代わりに、私の講演ということでしたので、最初に研究授業について少し話をさせていただきました。
主にグループ活動に関してコメントさせていただきました。子どもたちが互いを見あっていなかった事実を元に、子どもたちが聞きあう関係をつくることや課題の大切さを話しました。
グループを回っているとき、その場で教師が説明する場面がありました。グループでの問題であれば、そのグループの子どもたちで考えるようにうながし、教師がその場を離れる必要があります。学級全体で考えるべきことであれば、その場でミニ授業をするのではなく、一旦活動を止めて、全体の問題として共有する必要があります。このことも伝えました。
授業者は子どもたちが考える授業を目指していたようですが、意識せずにそれと反対のことをしている場面がありました。友だちに自分の考えを発表できない子どもに対して、授業者はいい意見だから友だちに話すよううながします。それでも動かないので、「先生が線を引いたところだけでも読んで」と続けました。「先生が線を引いた」ということは、先生の価値判断です。そこを読めというのは教師のよいと思うことを発表しろということになります。教師が基準になっているのです。最後に、全体で発表させる場面でも「いい人が何人かいる」と宣言した後で2人を指名しました。発表の後、拍手がすぐに起こりました。子どもたちはその発表内容のどこに拍手をしたのでしょうか。教師が「いい人」といったのだから無批判に拍手したのでしょうか。少なくともどこがよかったのかを子どもたちが共有する必要があります。拍手をした人に「どこがよかった」と確認すべきでしょう。また、「いい人が何人かいる」という言い方は、それ以外のほとんどはよくないということです。何をもって判断しているかわからないのに、ダメ出しされているのです。こうなると、子どもたちは教師が求めるものが何かを探るようになります。教師の反応を見て「あっ、外した」と思う子どもが育ってしまうのです。子どもたちに、「いいと思った人、その理由を教えて」と根拠を求め、発表のよさを全体で共有する。こういう活動が、子ども自身が考えるために必要なのです。子どもたちが、教師の求める答さがしをしないように気をつけてほしいとお話しました。

この学校の研究テーマは「多様な考えを引き出す発問の工夫」なのですが、私の講演は失礼とは思いつつ「子どもたちの発言を引き出すために」と、その前段階のお話にしました。まず子どもたちが安心して発言してくれなければ、発問を工夫しても仕方がないからです。
安心して話せる環境づくりには、まず子どもが否定されないことが大切です。笑顔を絶やさず、子どもたちをチェックする目ではなく、育てる・伸ばす目で見てほしいこと。答がわからない子どもが参加できる工夫をすること。たとえ間違えても最後は必ずまわりからほめてもらって終わるようにすること。特にほめて育てることをお話しました。
ほめるにはほめられることを子どもがしなければなりません。ほめる場面をつくることが必要です。子どもに外化を求めることが重要になるのです。うなずくだけでも、首をかしげるだけでもいいのです。子どもの反応をとらえてポジティブに評価することが大切です。
認め、ほめることは、まず相手をしっかり受け止めることから始まります。その第一歩が聞くことです。教師も子どもも聞く力が求められます。特に教師の話ではなく、友だちの話を聞く姿勢を子どもたちにつくることが大切です。「○○さんの話をみんなで聞こう」と、話す側ではなく聞く側を主体として指名する。聞くことに価値を持たせるために、聞く姿勢をほめる。友だちの意見に対してどう思ったかを聞く。こういう工夫が必要になります。
本当に基本的なことばかりを話しましたが、皆さんとてもよく反応してくださいました。この市で何校も現職教育でお話をしているのですが、このような反応してくださるところは稀です。なかなか自分のスタイルを変えようとしない先生が多く、話をしてもあまり手ごたえを感じないことが多いのです。前向きに聞いていただけたことは、とてもうれしいことです。

授業者からは、自分が担任している学級では子どもとの関係ができているので、子どもが安心して参加できる授業ができそうなのだが、他の学級ではうまくいく自信がない。どうすればいいのかという質問が出ました。常に笑顔で子どもたちを否定せずに受け止めていけば大丈夫であることを伝えました。

また、音楽の先生からは、「わかった人と聞いてはいけな」と聞いたが、自分は「わかった人、わからなかった人」と聞いている。子どもたちは「わからない」と手を挙げてくれるのだが、この聞き方はいけないのかと質問されました。笑顔の素敵な先生です。わからないと手を挙げられるのは、安心して「わからない」と言える雰囲気をつくっているということです。そうであれば、全く問題がない事を伝えました。もし、それだけはっきりと子どもがわからないと言ってくれるのなら、わからなかった子どもの立場を強くするやり方があることを伝えました。「わかった人、わからなかった人が納得できるように説明をして」「わからなかった人、簡単にわかったらダメだよ。納得できるまで、何度も説明させよう」というように、挑発するのです。

この市の中学校では、授業を見せることになかなか積極的になっていいただけません。廊下から子どもの様子を見せていただくのがやっとです。ところがこの学校では、教室に入ってじっくり見させていただけます。また、校長が一緒に授業を見てくれることはまずないのですが、1日同行して私の話を聞いてくださいました。先生方の反応といい、この学校の授業改善への意欲を感じました。先生方と子どもたちにどのような変化が起こるか、次回の訪問がとても楽しみです。

教師の意欲が子どもを変える(長文)

昨日は中学校で授業アドバイスをおこなってきました。5月に訪問した時とどのような変化がみられるか楽しみでした。

3年生は安定した状態でした。どの授業でも安定しているのですが、授業者によって子どもの姿勢の違いが以前よりも現れてきました。どの学年でもそうですが、真剣に考えている、話に集中しているときは前のめりになって聞きます。教師の話を軽く聞くときは、体は後ろに反ります。映画の鑑賞をしている時のようです。聞いてないわけではないのですが、集中度が違うのです。課題が子どものものになっていないと、聞く必然性がありません。説明を聞くにもこのような違いがでてくるのです。こういう違いが3年生でも見られるようになってきました。また、参加意欲の低い子どもが目立つようになってきました。学級の中に居場所はあるのですが、授業の内容についていけないのです。どのようにして彼らを授業に参加させるかが課題でしょう。

2年生は、4月のリセットがうまくいったように思えます。落ち着いて授業に参加していました。問題練習などでは、全員集中して取り組みます。授業者によって差はありましたが、おおむねよい状態だったように思います。

今回は意識的に1年生の授業をたくさん見ました。以前は同じ学級でも授業者による差が大きかったのですが、それがどうなっているか気になったのです。学年主任とも1時間一緒に回ったのですが、授業者による差がずいぶん減っていたのです。行事等を通じて子どもが変わったのかとも思ったのですが、それだけではなさそうです。先生方が子どもを受け止めること、指示を徹底させること、集中させることを意識していることがよくわかりました。子どもたちは落ち着いて授業に参加しています。テンションが上がりすぎる場面はほとんど見られませんでした。作業なども意欲的に取り組みます。個別の先生の変化というより、学年全体が変わってきたと感じました。これは、学年主任が学年として授業にどう取り組むかを先生方としっかり共有しているということだと思います。まだ若い、今年初めて学年主任になった先生ですが、立派にその務めを果たしています。また、週案などでこの学校の授業の進め方に対して疑問などを伝える先生に対して、教務主任は学校としての考え方やねらいを個別に説明しているそうです。校務主任は学年担当として適切なアドバイスをしているようです。目立ちませんが、こういうバックアップ体制がとれていることもこの学年がよい方向へ変わっていることの理由だと思います。
とはいえ、まだまだ課題はあります。教師の一方的な説明が続くと、集中力が落ちる場面が目につきました。教師が説明するにしても、子どもたちへ問いかけ、反応を求めることが必要でしょう。また、教師と子どもの関係はできつつありますが、授業の中で子ども同士がかかわる場面が少ないことが気になります。子ども同士の人間関係は良好ですから、このことを活かす授業展開を考えるといいでしょう。学年主任にはこのことを伝えました。

初任者の数学の授業です。子どもたちにプリントを持ってこさせてチェックしていました。当然のことですが、子どもたちが席を立って教師のところへ動き始めると全体の集中力が落ちてきます。しかし、授業者はそのことに気づきません。教室全体を見ることができないのです。少人数での授業ですから、教師が子どもたちの間を回って、全員に○つけをすればいいだけのことです。
面白い場面がありました。みんなが問題をやっている間、両手を上げて伸びをしたりして、取り組まない生徒がいました。隣の座席の子がプリントをチェックしてもらって戻ってくると、待っていたように話しかけます。問題に取り組まない子どもは、誰から見てもやっていないことがわかる態度を取っていました。相手をしてほしいのです。本当はわかりたいのです。そうでなければやっているふりをします。しかも、話しかけるのは、友だちが課題を終わるまでちゃんと待っているのです。ちゃんと気づかっています。人間関係は悪くないのです。学習面で友だちとつなげるようにすれば、きっと参加できるようになると思います。とはいえ、初任者にこれを求めることは酷のようにも思いました。本人にはあえてこのことを伝えませんでした。
伝えなかったもう一つの理由は、どうも授業者は数学的なものの見方・考え方をほとんど授業の中で触れていないと感じたからです。板書等を見てもそのことがわかります。教科書もきちんと読めていないと思います。そうだとすると、数学の教師としてはまずそこからでしょう。ちょっと厳しかったかもしれませんが、今扱っている無理数に関して、いろいろと質問をしてみました。情報科学が専攻だったということで、数学の知識はほとんどありません。まったくと言っていいほど答えることができませんでした。数学の知識がないまま中学校の数学教師になる方は珍しくありません。問題は自分が数学の知識がない状態だということを認識していないということです。認識できれば、教材研究に真剣に取り組み、教科書の「てにをは」にもこだわるようになります。問題を解ければ数学を教えられるという勘違い。自分は数学ができるという思い上がり。このことに気づいてくれたのであれば幸いです。

国語の初任者は、自分の授業をある程度客観的に振り返ることができます。いろいろと質問もしてくれますし、課題意識も持っています。よい姿勢です。
授業の流れについての相談を受けたのですが、そこで感じたのは教師目線で授業の流れがつくられているということです。教師が何をするかという視点です。本時の目標を達成するためには、子どもはどんな課題に取り組めばよいのか、活動をすればよいのか。課題に対して子どもたちはどんな反応を示すだろうか。こういった子ども目線で授業の流れをとらえ直すことが必要です。このことを伝えました。次回訪問時にはどのような変化を見せてくれるか楽しみです。

理科の初任者は、子どもを見るということがまだよくわかっていないようでした。実験で参加しない子どもがいるといったことには気づくのですが、どうしてそうなるのかをつかんではいないのです。複数の指示を一度にします。確認もしません。聞いていた私も、整理するのに時間がかかります。しかし、指示が終わるとすぐに作業に入らせます。
今回1時間、一緒に授業を見て回りました。子どもの何を見るのか、どうしてそうなるのか、といった視点で授業の解説をしました。子どもの見方が変わったと言ってくれました。うれしいことです。問題はどのように変わったかということです。次回訪問時に、進歩した姿を見せてくれることを期待します。

この日はたくさんの先生がアドバイスを聞きに来てくれました。ふと気づくと、ほとんどが1年生に所属する先生方です。先生方のこの姿勢が子どもたちのよい変化につながっているように感じました。

双子葉と単子葉植物の維管束の観察の授業です。授業者は子どもが集中して聞けるように板書を極力控えていました。子どもたちはよく話を聞いています。グループでの観察では、顕微鏡は1台です。顕微鏡を見ていない子どもはすることがなくて遊んでしまいがちです。しかし、何かに気づいたので、グループの友だちに顕微鏡を覗くようにうながす姿が見られたりもしました。以前よりもかかわりが出てきています。しばらくしてからもう一度授業を見ると、今度は互いにしゃべりながら見あっています。この違いは何でしょう。実は子どもたちが気づいたことを一度発表させて、そのことをもう一度確認させていたのです。漠然と観察するのではなく、意識的に観察するので子どもたちが集中します。「見つかった?」「どこ?」とかかわり合いも生まれるのです。授業者は素直に私のアドバイスを受け止めてくれたようです。子どもたちの変化に手ごたえも感じているようでした。私と話をしている時によい笑顔がたくさん見られました。
今回の授業であれば、最初の観察の時間をあえて短めにしてもよかったもしれません。余った時間を、「じゃあこの2つの植物の違いがわかったけど、ほかの植物はどうなのだろうか?」と問いかけ、いろいろな植物の維管束の写真を見せるのです。2つのパターンしかないことに気づかせて、それぞれどんな植物か、対応する植物の写真を見つけさせる課題を与えます。双子葉と単子葉で違うことを発見する過程を通じて、理科的なものの見方・考え方を身につけさせる。こんな展開もありそうだと伝えました。授業者は、前向きにとらえてくれたようです。よりよい授業に向けて、また進歩を見せてくれるでしょう。

5年目の教師の数学の授業は、子どもをしっかり受け止め、認めているので、子どもたちが安心して授業に参加しています。ゆったりと落ち着いた時間が教室に流れています。子どもの答に対して、子どもたちが「いいです」と反応するのを、「いいと思います」に変えさせていました。柔らかい言葉にしたかったようです。生徒指導の担当だからこそ、何を言っても大丈夫、先生は聞いてくれるという安心感をもとに、子どもたちと信頼関係をつくることの大切さがよくわかっているのでしょう。一つ気になったのが、確認場面で子どもの手が全員挙がったら、そのまま進んでいたことです。全員の手が挙がっていても、確認のために何人かは指名して発言させるとよいでしょう。低位の子どもを活躍させるチャンスでもあります。
授業者は、この雰囲気を壊さずに活動量を増やしたいと考えていました。定着問題などをいつもノートに書くのではなく、順番にどんどん指名して答えさせるといった活動を入れることを提案しました。練習問題ですので根拠を聞く必要はあまりありません。詰まった時、難しかった時に立ち止まって振り返ればいいのです。テンポよく何人も指名していく。「正解」と言わずに最低数人に応えさせる。答えられなかったら、とばして次に行く。その後で必ず戻って正解を言わせる。こういう活動と、じっくりと考える場面のメリハリをつけることを話しました。授業者は納得してくれたようです。どのような授業を見せてくれるか次回が楽しみです。

ある英語の先生は、子どもたちの作業のスピードに差が出てきたことにどう対応するか相談してくれました。具体的には、板書を写すスピードが違うので遅い子どもを待っていると時間がなくなるというのです。もちろん、早くできた子どもには次の課題を与えてあるのですが、ますます差がついてしまうのが悩みの種のようです。
直接の回答になりませんが、遅い理由を考えることをお話しました。たとえば単語のスペルがわかっていないので、1字1字書いていて遅いのであれば、単語をすらすら書けるようにするための手立てを考えることが必要です。小テストをするのか、単語を書くことを宿題にするのか。方法は色々です。また、本当に子どもが写すことに意味があるのかを考えることも必要です。書かせる意味のあることに絞り、それ以外は印刷してもいいのです。このようなことを話しました。

5年目の英語の先生の授業は子どもたちが意欲的に参加する授業です。授業者も手ごたえを感じています。11月の学校訪問時の代表授業者ですが、今からそれに向けてどのように子どもたちを鍛えるかを考えているようです。積極的な態度を頼もしく思いました。
この先生に限りませんが、英語の授業に対しては、子どもが常に教師の発声をおうむ返しに繰り返すことが気になりました。目から口、耳から口と頭を使わずに単純に言い返しているのです。これでは、九官鳥の訓練です。言語として英語が身につくとは思えません。もう一工夫ほしいところです。たとえば、主語を表す絵カード、動詞を表すもの、目的語を表すものを用意して、英語の語順で黒板に貼ります。それを見て全員で英語をいうのです。「私」「運動する・演奏する」「ピアノ」の絵カードで ”I play the piano.”。 「あなた」「運動する・演奏する」「テニス」で ”You play tennis.” という具合です。situationを英語で表現することへの橋渡しとなります。

この日もたくさんの授業を見て、いろいろなことに気づくことができました。教師が意図的にかかわることで、わずかな期間で子どもたちはどんどん変化していきます。学年全体で同じ方向に向かえば相乗効果が期待できます。このことを実感できました。
毎月訪問している学校ですので、子どもたちの変化を細かく知ることができます。このような機会をいただいていることに心から感謝します。子どもたちが、今後どのような変容を見せてくれるかとても楽しみです。

現職教育の打ち合わせ

昨日は、中学校で現職教育の打ち合わせをおこなってきました。言語活動の充実をテーマにこれまで年2回ずつ2年にわたって研修をおこなってきました。今年度はどのように進めたらよいかを考えるために、午前中の授業を廊下から見させていただきました。

昨年まで教師主導の説明中心の授業スタイルからなかなか抜け出せていませんでしたが、どのように変化しているか楽しみでした。最初の1時間校内の授業を参観した時には、最後まで教師の声しか聞くことができませんでした。英語を含めてどの教科も子どもの声は聞こえてきません。唯一国語の音読が数人あっただけです。先生方は休まず話しつづけます。先生方のテンションの高い声が廊下にいても頭に響きます。子どもたちはよく耐えていると感心します。唖然としました。明らかに退化しています。気を取り直して次の時間もう一度校内を回りましたが、似たような状態です。家庭科の実習で、ミシンの順番を待っている子どもが友だちとムダ話をしてさわがしかったのと、英語のALTの授業で子どものテンションが異様なことになった時が、唯一子どもの声が聞こえた時でした。ALTは子どもが反応しないのでテンションを上げて話します。授業者は子どもが理解できるようにするために、ALTとかかわったり、子どもたちをサポートしたりしません。ゲームを開始するにあたって、子どもたちが動かないのでグループを回ってじゃんけんをするのだと動作で伝えます。ここからです、子どもたちのテンションがおかしくなったのは。じゃんけんに異様に興奮します。今まで受け身でよくわからなかったが、何をすればいいのかわかり活動できるのでテンションが上がってしまったのです。本来の英語を理解し、英語でコミュニケーションをとるという活動とは全く違う活動で盛り上がるのです。この後は廊下の反対側にいても子どもたちのキャーキャーという声が聞こえてきます。このような状況が頻繁になれば、ちょっとしたことをきっかけに学級が崩れてくるのではと心配になりました。

総じて教師と子どもの関係は悪くはありません。授業のじゃまをするような子どもはいません。教師は、子どもが静かに座っていればいい。子どもの活動はノート取ることでいい。子どもの集中力がなくなったら、教師がテンションを上げれば戻るはずだ。そう思っているようでした。残念ながら、今年度の研究目標「言語活動の更なる充実」はお題目以下の状態です。誰も言語活動など望んでいないのです。この状態で言語活動に関する講演をしても意味がありません。教務主任と相談して、今回は今の子どもたちの姿をどう思うか、グループで互いに聞き合ってもらうことにしました。その中で、今の子どもたちの姿を先生方はどう思っているのか。よいと思っているのか、それとも問題はあると思っているが具体的にどうすればよいかわかっていないだけなのか。そのあたりの本音を聞くことができればと思っています。それを元に、今後の研修の進め方を考えることしました。教務主任にはこの方向で当日の現職教育の詳細を決めるようにお願いしました。なかなか困った状態ですが、そのことに学校全体が早く気づいてくれることを願っています。

若手教師の進歩に感動(長文)

先週末は小学校へおじゃましました。昨年度は5回訪問していますが、今年度は初めてでした。10日後に学校訪問を控え、代表授業する若手の先生へのアドバイスと学校全体の様子を見せていただくことが主な目的です。

TTによる5年生の算数、合同な図形の授業でした。授業者は子どもたちに常に笑顔で接しています。誰もが安心して授業に参加しています。
辺を示すのにただDEというのではなく、辺DEといった子どもに対して「辺をつけてくれた」と算数的なよさを笑顔で評価しました。この場面に限らず子どもが外化すれば必ず笑顔でほめます。以前は、ただ「いいね」ということが多かったのですが、かならずどこがいいのか具体的に示すようになっています。簡単なことのようですが、日ごろから意識していないとなかなかできることではありません。友だちの発言にわかったという反応が少ないと、「うなずいたり、笑顔をつくるだけでもいいからわかったことを伝えて」と反応をうながします。どのような姿を目指しているのかしっかりと伝えています。また、2つの図形で対応するものを示す課題で、先走って次の図形で答えた子どもがいました。それでもまずその答を確認して、次の図形をやってくれたんだと受け止めました。このような決して否定しない態度が教室に安心感をつくります。
授業者の説明が短くなっていることにも気づきました。授業を通じて同じ言葉を使うように意識しています。言葉を精選していることがよくわかります。以前は子どもの反応がよくないと、言葉を重ねたり、別の言葉で説明をしたりしていました。言葉を少なくするのは言葉を多くすることよりも難しいことです。言葉が多くなるのは実は整理されていないことが多いのです。事前に教材研究をしっかりして、いろいろな道筋を考え、その上で授業に臨んでいるので、言葉を精選できているのです。
授業者の声は以前と比べて格段に低くなりました。子どもたちの声も低めです。それでも、全員ちゃんと聞けています。柔らかい表情で、体を前に傾けて真剣に聞いています。素晴らしい集中力です。途中で知らされるまで、てっきり授業者が担任している学級だと思っていました。実は隣の学級だったのです。この学級の担任もとてもよい学級経営をしていることがわかります。きっと学年としてのチームワークも素晴らしいのでしょう。
T2の動きもとても印象に残りました。T1が子どもとのやり取りに専念できるように、子どもの発言を黒板で確認したり、板書したりします。決して出過ぎず、授業がスムーズに流れるように意識しています。目立たないですが、授業の流れがしっかり共有できているからこそできるサポートです。聞けば、前日も遅くまで2人で打ち合わせをしていたそうです。TTの授業では、T2が机間指導以外ではじっとしていたり、支援を必要とする子どもにかかりきりになったりということが多いように思います。今回のようなT1を自然にサポートするという発想はとても大切だと思います。
対応する辺や角を発表する時に、聞いている子どもの視線が気になりました。T2が発言を黒板の図をなぞって確認するので子どもたちが黒板に目をやります。こういった動きがないときはちゃんと発言者を見ています。ところが、そんな中でも黒板を見ずにずっと発言者を見ている子どもがいます。どういう子どもかと思って見ていましたが、どうやら算数が苦手な子どものようです。まず、友だちの発言を理解しなければいけないので、そちらに専念しているのです。聞きながらその内容を黒板で確認することは、もう1段階上の力を要求されるのかもしれません。最初の内は、まず発言を全員で聞いたあと、子どもたちに復唱させるとよいでしょう。その時、T1が子どもたちを見ることに専念できるように、T2が子どもたちの発言に合わせて黒板の図で確認する。こういうステップを踏むことで、低位の子どもも理解しやすくなると思います。
指名されてうまく答えられない子どもがいました。授業者は「助けて」と他の子どもを指名して前で説明させます。説明後、わかったかどうかを最初の子どもに確認しました。「わかった」と答えるのを聞いてから、「あなたの説明で友だちがわかった。素晴らしい」と説明した子どもをほめました。なかなかの対応です。ただ、理解できなかった子どもは評価されていません。「助ける」という言葉を使われていますが、「助ける」子どもが活躍して「助けられた」子どもは活躍できていません。そういう意味では助けられていないのです。ここは、「どう、○○さんの説明で納得した」と確認し、できれば本人に自分の言葉で説明させます。説明できたら、「素晴らしい。きちんと説明できたね。よく聞いて理解したね。助けてもらえてよかったね」とまず助けられた子どもをほめるのです。「助けてもらえたから活躍できた、ほめられた」と、助けられることをポジティブにとらえられるようにするのです。その上で説明した子どもを「助けてくれて、ありがとう」とほめるのです。
質問に対して挙手が3分の1くらいの時がありました。ここでどうするかと興味を持って見ました。授業者はすぐに指名せずに、まわりと相談させます。子どもたちはとてもよい表情で聞き合っています。活発に活動しているのですが、決して騒がしくなりません。ほどよいテンションです。子どもたちが集中していることがよくわかります。このあと、再度問いかけたところ、挙手の数は大きく増えていました。
合同な図形は対応する辺の長さや角の大きさが等しいことに気づかせる場面で、低位の子どもを指名しました。そばにいた教務主任がどうなるかドキドキしていました。「どうやって合同な図形を見つける」という質問に対して、「長さ」と答えました。「長さ。何の?」「辺の長さ」と続きます。ここで、全体に「辺の長さ」を使って見つけられるか問います。かなりの数の手が挙がりました。発言した子どもは認められたと感じたのでしょうか、「パッと見つかる」と声を上げます。授業者が「パッと見つかる」を取り上げ、辺の長さが「同じ」につなげていきました。授業者は、「辺」「角」「同じ」といった言葉の何れかが出れば何とかできると思っていたので、あえて低位の子どもを活躍させるために指名したようです。この子どもはこの後の練習問題も積極的に取り組んでいました。授業の最後のまとめの時に、首が折れるのではないかと心配するほど大きくうなずいているのが印象的でした。
この合同な図形の性質を気づかせる展開について授業者は悩んでいたようです。一つ流れとして、「合同」という算数の用語を子どもの日常の言葉に戻すことを示しました。授業の最初に合同の定義の確認をしています。その時の言葉を思い出せます。たとえば「今、合同な図形の勉強をしているけど、合同ってなんだっけ」と問いかけ、「ぴったり重なる」「同じ」といった言葉を引き出します。「ぴったり重なる」であれば、「どこが」と返したり、紙を使ってわざと違うところを重ねたりして、「辺」や「角」という言葉を引き出します。「同じ」であれば、「何が?」と返すことで、「辺」や「角」を「同じ」とつなげ、「辺の何が同じ?」「角の何が同じ?」ともう一度聞き返すことで、「辺の長さが同じ」「角の大きさが同じ」というゴールにもっていくのです。定義に戻るというのは、算数ではとても大切な考え方です。この時、覚えさせた定義を言わせるだけでなく、定義する段階で出てきた子どもの日常的な言葉をたくさん出させるのです。こうすることで具体的なイメージが広がります。そこを出発点にして焦点化します。焦点化する時にはできるだけ少ないキーワードで追い込むことが大切です。ここでは、「同じ」という言葉をキーワードにしています。もう一つのキーワード「対応」を使うことでも同様に展開できます。
「2つの四角形は合同です。対応する頂点、辺、角をいいましょう」という練習問題を全体で取り組む場面です。授業者はいきなり、対応するものを見つけ始めました。問題の図は上下をひっくり返しています。この対応を見つけることは図形の認識力が弱い子どもにはハードルが高いように思います。まず、「合同だって、本当?右の図は下が小さくなっているよ」と揺さぶり、「ひっくり返っている」といった言葉を引き出しておいてから、「じゃあ、対応するものが言えるかな?」と問題に取り組むとよいでしょう。授業者は低位の子どもでも手が挙げやすいように「一つでもいいから」と言葉を足します。ほぼ全員の手が挙がります。指名して答えさせるのですが、何人かが答えた時には低位の子どもの手は下がってしまいました。一人が答えるたびに見つかったものが黒板に映された図に書き込まれていきます。自分と同じ答えが言われてしまったので、発表できなくなったのです。さびしそうな表情が気になりました。授業者はこの前の問題が「全部いいましょう」だったので、何が見つかったか見つからないのかをはっきりさせようと書き込んだのです。しかし、この問題は「全部」がありません。とにかく見つければいいということです。黒板に書き込むことをせずに、テンポよくどんどん言わせればいいのです。同じものが出ても気にしなくていいのです。こうしてどの子も対応関係がつかめた段階で、手元のワークシートでできるだけたくさん見つけるよう指示すればよかったと思います。授業者は、「全部」がこの問題にはなかったことを意識してはいませんでした。教科書を読み込むことの大切さと難しさにあらためて気づいてくれたと思います。
いくつか指摘すべき点があったとはいえ、子どもたちが誰一人として最後まで集中を切らさなかったことは驚異的です。今年度見た授業の中で最高の子どもの姿でした。今まで見た何百何千という授業の中でもトップクラスの姿だったと思います。私だけでなく、一緒に参観していた校長、教頭、教務主任も終始笑顔でした。子どもたちだけでなく、参観者も笑顔にする授業です。自校のこのような子どもの姿をきっと誇りに思っていただけたことでしょう。この学校を初めて訪問してから1年ほどです。わずかの期間でこのような素晴らしい子どもの姿を見ることができて、とても幸せでした。授業者は本当に素直に努力をし続けたのだと思います。T2の先生の協力も不可欠だったでしょう。そして何より教務主任が時に厳しく継続的に指導してこられた結果だと思います。そのことは、この後、学校全体を見て強く思いました。

ベテランも若手も、昨年度からの先生はどなたも子どもとの関係を意識していました。子どもをよく見て、発言や反応をしっかりと受け止めようとしています。多少の差はありますが、どの学級も子どもたちの表情が柔らかくしっかりと集中していました。目指す姿が共有されつつあります。このことは自然にできることではありません。中心となって働きかける存在がいたことがよくわかります。
一方、先生方の授業がよい方向に変わってきたため、新しく赴任された先生方の学級の子どもたちの集中力のなさが余計に目立ってしまいました。
子どもたちをチェックする目で見ている先生の学級では、先生が前に立って指示をすると子どもたちに緊張が走ります。ピシッとよい姿勢になってもそれは集中ではなく緊張だということがわかります。先生が移動するとたちまち緊張が弛んでしまうからです。先生方の力がないのではありません。指導力は間違いなくあります。目指す子どもたちの姿がこの学校が目指すものと少しずれているのです。そこが修正されればすぐに変わることができると思います。

夏休みの現職教育では、模擬授業をベースにした授業研究をおこなう予定です。この学校では初めての試みですが、グループを活用したものにすることになりました。グループで話し合うことで先生方の目指す子どもの姿を共有することをねらってのことです。授業者もできるだけ若手でいこうということになりました。初めての試みなので、すこしでも皆さんが意見を言いやすいようにと考えてのことです。どのような授業を見せてくれるのでしょうか。どのような子ども役でしょうか。先生方はどのような意見を聞かせてくれるのでしょうか。今からとても楽しみです。

若手の合同な図形の授業を見てから2日以上たちますが、その余韻が今でも残っています。先生方の成長に立ち会える喜びをあらためて感じています。このような機会を得られたことに心から感謝します。

思わぬところで「3シーン授業検討法」に出会う

前回の日記の続きです(小規模校で授業アドバイス参照)。授業研究は今年異動してこられた先生の授業でした。4年生の国語です。今回の授業検討は3シーン授業検討法でおこなわれました。教務主任の会議でたまたま紹介され、早速取り入れようとされたようです。教務主任の意欲には頭が下がります。(私たちの研究会で提唱しているものだと後で知ってかなり焦ったようですが・・・)

授業は登場人物の気持ちを読み取ることが課題です。本文の記述を根拠にして読み取ることを個人作業で進めます。授業者の指示で子どもがすぐに取り掛かります。気持ちを表すところに、人物ごとに色を変えて線を引き、その時の気持ちをその横に書き込みます。驚いたのが線を引いたところと関連する箇所を線で結んでいたことです。これはかなりレベルの高いことです。どうやって鍛えたのか興味のあるところです。子どもたちは1つ2つ見つけただけで満足せずに、どんどん探しつづけます。予定した時間になってもまだ終わらない子どもがいたため、授業者は少し時間を延長しました。
発表はできるだけ子どもたちだけで進めようとしています。授業者は黒板に貼った教科書の拡大コピーに線を引いて子どもの意見を書き込むだけです。発表が終わると子どもたちは、「賛成」「つけたし」「反対」をハンドサインで示し、発表者がそれを見て次の発表者を指名します。子どもたちは一生懸命発表するのですが、友だちの話をあまり真剣には聞いていません。自分で気づいたことを発表したいばかりです。友だちの発表が終わる前からハンドサインを出す子どももいます。「どう思いますか」と問いかけているのですが、発表は自分の考えを言うだけです。反対のサインを出す子どもは、発表者の意見に対して反対なのではなく、自分は別の場所に線を引いたので、それを発表したいから反対したのです。子どもたちの相互指名で進んでいきますが、つながらない発言が続き、同じところをぐるぐる回るだけで考えはちっとも深まりません。授業者は自分が誘導してはいけないと強く思うあまり、意見をつなげるような働きかけをしません。主人公の気持ちが一番大きく変わったところが発表された時、とうとう「ごめんなさいね」と言って介入し、そこを焦点化しました。「ごめんなさいね」という言葉に、子どもだけで進めなければという呪縛を感じました。
授業が終わる少し前に、疑問に思ったことを発表するよう問いかけました。子どもたちからは、家族に応援されたくらいで心に絡みついていた思いがほどけるのか。ラストという言葉がこんなに誇らしく聞こえたのははじめてだった理由がわからない。といった疑問が出され授業が終了しました。

先生方は授業中に心が動いたところを付箋紙に時刻と共にメモしています。検討会の会場の入り口に時刻を刻んだ模造紙が掲示してあり、事前に各自で付箋紙をそこに貼っておきます。検討会を始める時点で3シーンが選ばれているわけです。スムーズに進めるために参考になるやり方です。今回選ばれたのは、子どもたちが個人作業に入る前後、子どもが考えを発表する場面、子どもの疑問を聞く場面でした。
まずビデオで該当のシーンを見た後、付箋に書かれた意見を聞いていきます。参加者が3シーン授業検討法の経験がないので、今回は私がコーディネータ役をしました。
最初のシーンでは、気持ちを考える場面が広すぎるので焦点化しにくいのではないか、子どもの作業時間が長かったのではないか、子どもがしっかり作業ができていたがどの程度経験があったのかといった意見が出ました。主人公の気持ちが変化した場面に絞ればいいという考えに対して、授業者としては気持ちを表す言葉と対比する場所を見つけさせたかったので、変化する前後のまとまった範囲を考えさせたということでした。また、このような気持ちを表しているところを本文から抜き出し関連するところを結ぶという活動は、この単元の3つの場面でおこない、今回が3回目でした。初めての時は、みんなが気づいた「ゆううつ」という言葉を使って、授業者がていねいに一つひとつの作業を子どもたちと一緒におこなったそうです。1回目より2回目、2回目よりも今回と、子どもたちはたくさん見つけるようになったようです。全体で一緒にやってみることと、個別に経験を積むことが大切だということがわかります。

2つ目のシーンでは、子どもたちがしっかり発表するが、考えが深まっていかないことが話題となりました。この点は授業者もずっと悩んでいたようです。全体で話し合いましたが、なかなかこれはといった対応は出てきません。しかし、どうすればよいかみんなが考えることでこの授業だけでなく学校全体の課題として共有できたように思います。ある授業をきっかけに見つかった共通の課題を次回のテーマとすることで継続性のある授業研究になっていくと思います。
今回は検討会終了後、私の方からこのことに関連してお話させていただきました。
子どもに任せていても考えは深まっていきません。最初は教師が子ども同士をつなぐことで、考えを深める経験を積ませる必要があります。経験を積めば、子どもたちでつなぎ、深めていくことができるようになります。
同じ意見の(同じ所に線を引いた)人を何人か指名し、次にその意見を聞いてどう思ったか、賛成か反対か、なるほどと思ったかを問いかけます。こうすることで、違う考えの(違う所に線を引いた)人も話し合いに参加でき、聞く必然性が出てきます。違う考えを出させたければ、友だちの意見に対してどう思ったかを聞いたうえで、「じゃあ、あなたはどう思ったの」と問いかければいいのです。
子どもたちがたくさん見つけたので発表したいというのであれば、早い段階で個人作業を止め、グループにするといいでしょう。すべてを個人で見つける必要はありません。グループで聞き合い、なるほどと思えば自分のものに足すようにすればいいのです。こうすることで、発表したい気持ちも満足させることができますし、短い時間で考えるための共通の土台をつくることもできます。ここで、「気持ちが一番変化したところ」「大きく変化したところ」はどこだろうと問いかけることで、考えがぐんと深まるはずです。単に見つけたことを発表するのではなく、それを元にした活動を課題とするのです。

3つ目のシーンでは、授業の最後に疑問を聞いたのはなぜか、このようによい疑問が出るのならもっと早くに聞いてそこを話し合えばいいのではないかということが話題となりました。授業者は、机間指導の時に「ラストという言葉がこんなに誇らしく聞こえたのははじめてだった理由がわからない」という疑問を持っている子どもをみつけたようです。次の時間で取り上げるため、どうしても最後に出させたかったということです。子どもの疑問をもとに考えるというのは、よい方法なのですが、いくつか出てきた場合、全部取り上げるのか、一部をだけを取り上げるのか、誰がそれを選ぶのかといった問題があります。今回でいえば、出てきた疑問をすべて同じ時間かけることは難しいように思いました。教師が意図的に焦点化することも必要だと思いました。
このとき、「家族に応援されたくらいで心に絡みついていた思いがほどけるのか」といった疑問については注意が必要でしょう。「私だったらどう思う」という道徳的な話になってしまいがちな疑問だからです。作者がそう言っているのだからそのことを云々しても読み取りとしては意味がありません。「思いがほどけた」ことから出発して、作者は何を理由にしているのか、どこでそれが語られているかといったところを焦点化する必要があります。このことを私からはお話させていただきました。

今回3シーン授業検討法で授業検討をおこなっていただきましたが、早く焦点化できるので短い時間で深く話し合うことができることが確認できました。充実した検討会になったと思います。

検討会終了後に授業者とお話しました。子どもだけでつないで深めていくことが大切なので、教師は指示や介入はしていけないと強く思っているようです。子どもを指名するだけでつながり、深まる授業を見ることもあるのでしょう。しかし、そのような授業でも最初からできているわけではありません。子どもたちを教え、指導していくことでできるようになるのです。教師が答を言う必要はありません。「もう少し詳しく聞かせてくれる」「今、首をかしげてくれた人がいるね。それってどういうこと」と意図的に子どもをつなぐことで、子どもから考えを引き出すのです。教師がどのようにかかわればいいかを考えるようにお願いしました。
また、作者の表現にこだわりたいこともお話しました。「ぱっとすなぼこりが上がる」「ザクッという音とすなぼこりのあと、・・・」「とうめいな空気の中に、・・・」といった表現が主人公の気持ちを表しています。学年が進むにつれて情景描写で感情を表現する作品が増えてきます。今回そのことを指導するかどうかは別にして、子どもから出てきた時にどう対応するかは考えておく必要があります。

目指す子どもの姿がはっきりしている授業でした。だからこそ、その姿と現実の子どもの姿のギャップが明確になり、課題がはっきりと見えます。「子どもの考えを深めるにはどうすればいいのか」といった、漠然として抽象的な言葉に終始する話し合いになりやすい課題も、授業の場面に即して具体的に考えることができます。参加した先生方みなさんにとって学びの多い検討会だったように思います。もちろん私にとってもです。このような機会をいただけたことに感謝します。

小規模校で授業アドバイス

昨日は昨年度より訪問している小規模校で授業アドバイスと授業研究に参加してきました。今年度最初の訪問です。子どもたちがどのように変化しているか楽しみでした。

1年生は、国語の授業でした。授業者は表情が柔らかく、子どもたちに対してよくうなずき受容します。子どもとの関係は良好です。
子どもたちは授業者の問いかけに、挙手をせずに発言したり、逆に指示などがわからなくなるとすぐに聞こうとしたりします。このあたりの学習規律をきちんとする必要があります。全体にかかわる内容であれば、いったん止めて挙手させてからもう一度全員に向かって話させます。個人的な問題であれば、あとから聞くからと話すのをやめさせます。挙手する時に異様にテンションが上がることも、このことと関係がありそうです。
誰かが指名されるといったんテンションは下がります。授業者は発表者だけを見てしまうので子どもたちが友だちの話を聞いてないことがあまり気にならないようです。子どもたちは聞いてはいませんが、待つことはできます。昨年度に初めて訪問した時に感じた小規模校の特徴が出ているように思いました。授業者が子どもたちを見て、聞くことをうながす。聞いたことを評価する。友だちの意見とつながるような発言を求める。こういうことが必要でしょう。
授業者には子どもの発言や聞く態度などを笑顔で評価することをお願いしました。

2年生は、国語の授業です。子どもたちに指示を出す場面でした。授業者はていねいに説明するのですが、少しくどくなりすぎでした。子どもたちの集中力が落ちています。それよりも作業に入りたいのです。作業に入ると子どもたちは集中して取り組んでいます。指示をできるだけ簡潔にし、確認は授業者が説明を繰り返すことではなく子どもたちに聞くことですればよいでしょう。確認して答えられなければ、他の子どもに助けさせればよいのです。このことをお願いしました。
授業者からは、支援の必要な子どもの対応について相談されました。授業中には気にならなかったのですが、休み時間などに子ども同士でトラブルになるようです。危険なことやルール違反などをしたときに、友だちに注意され、そのことが原因で気持ちが高ぶってしまったりするようです。注意する方も、慣れた相手なので口調が強くなることもあるようです。ソーシャルスキルのトレーニングを少し取り入れることを提案しました。紙芝居や絵に言葉を入れて、その言葉を聞いて相手がどう感じるか気づかせるようなものです。互いの言葉が変わることで、関係が落ち着くように思います。
また、支援員がついているのですが、頼りすぎる傾向があるのでかかわるタイミングについても聞かれました。一つの基準はまわりの子どもに迷惑がかかりそうであればかかわるということです。子どもたちは直接迷惑がかからなくても、いけない行動があるとチラチラと気にし始めることもあるようです。そうであれば、子どもたちがその子どものことを気にし始めたときにかかわるようにするとよいでしょう。気になっても先生が対応してくれることを知れば、気にしなくてもよくなります。関係が改善されます。優しくもなれると思います。このようなことをお話しました。

3年生は算数です。新任の先生でした。授業を見てびっくりしました。400+700の計算を4+7で14、その後ろに0を2つつけて1400と子どもが説明するのです。ここでどのように教師がかかわるかと思うと、それで正解とします。教科書は100円が4と7あると考えるようになっています。勝手におかしなことを教えているのです。これでは話になりません。どうしたものか悩んでしまいました。
アドバイスの時に、授業者の今の状態を聞いたところ「学校にはだいぶ慣れた」と答えました。そこで、この日の授業の準備をいつしたかと聞いたところ、昨晩ということでした。今の状態では教壇に立つ資格がないと厳しく注意しました。小学校の算数の内容も正しく理解できていないのに「少し慣れた」と雑な教材研究で授業に臨むようでは話にならないのです。指導のどこがいけないのか具体的に説明した上で、再び問いかけました。「分数の割り算で分子と分母ひっくり返して掛ければいいことの説明ができるか」。答は「できません」でした。素直に答えてくれて、正直ホッとしました。自分ができないことを素直に認めることができれば大丈夫です。自分が未熟であることを認識したなら、子どもたちと一緒に成長すればいいのです。わからなければ同僚の先生方に素直に教えてもらえばいいのです。自分のいたらなさ素直に認めることで教壇に立つ資格ができたと伝えました。私は日常的にそばにいて助けることはできません。教務主任や管理職の先生にフォローをお願いしました

5年生は、国語の授業でした。説明文の段落を構成ごとに分ける活動です。子どもをしっかり見て、受容していました。子どもとの関係も良好です。ただ、どうしても発言者を見すぎる傾向があります。発言者だけでなく全体を見ることができるとよいでしょう。
グループで作業をしているときに、活動をうながすような問いかけをしました。これはよいかかわりでしたが、子どもがその問いかけの答を授業者に話し出しました。授業者はていねいに子どもの言葉を受けていましたが、ミニ授業になってしまいした。ここはグループの子どもにつないでほしいところです。
グループごとに段落分けの理由の発表をするのですが、子どもの集中度が高くありません。ただ説明を聞かされてもよく理解できないからです。ここは、まず互いの結果を比較して、もし違いがあれば、違っている文がどちらの段落に入るかを考えます。もし一致すればそのまま進んでもいいし、境界の文がどちらに入るかを念のため確認してもいいかもしれません。この時、「設定」、・・・、「まとめ」といった用語の定義を明確にして、定義を元に根拠を話し合うとよいでしょう。

6年生は社会科の歴史の授業でした。「聖武天皇が古墳でなく大仏をつくったのはなぜか」という子どもから出た疑問を考える場面でした。子どもたちは自身の課題だからでしょうか、一生懸命調べていました。調べる途中で出てきた疑問を子どもが授業者に聞いたところ、授業者はそれを説明していました。こういう時には、グループ(1つしかありませんが)の問題として全員で考えさせたいところです。子ども同士のかかわりをうながすことが大切です。全体での追究では、授業者がまとめる方向に引っ張っていくことが気になりました。もちろんそういうことも必要なのですが、少しずつ子ども自身で考えを整理しまとめていけるようにかかわり方を考えることが大切です。

1学年1学級なので、子どもたちの関係は変わらないはずなのですが、担任が変わったことや子どもたちの成長によって、微妙な変化があります。その変化を校長がしっかり把握していました。それに応じて必要なアドバイスも的確に出せます。子どもたちをよく見ることができる小規模校のよさを感じました。
授業研究については日を改めて(思わぬところで「3シーン授業検討法」に出会う参照)。

研究指定校で授業アドバイス(長文)

昨日は視聴覚関係の研究指定を受けている小学校で3人の先生の授業アドバイスをおこなってきました。共通していたのが、子どもを受容しようとする態度です。どの授業も子どもと教師との関係は良好でした。

1年生の国語の授業は、形や色、様子などを元に石に名前をつけ、その理由を言うという活動でした。授業者は子どもをよく見ていて、子どもの状況に柔軟に対応する力がありました。
たとえば、教科書の写真から好きなものを選んで名前をつけさせ、その理由を言えるようにした後の発表場面でのことです。名前を発表させた後、同じような名前をつけた子どもをつなぎます。ここで、「わけを言って」と理由を求めました。ところが、子どもは自分のつけた名前を言いたくてしょうがありません。指名された子どもは、理由ではなく名前を発表します。それでも授業者は子どもを否定しません。しっかりと受容して、黒板に書き加えます。次の子どもを指名する前にわけを言うように再度指示をしますが、先ほどの子どもが名前を言ったので、やはり名前を言ってしまいます。似たやり取りを何度か繰り返した時点で授業者は理由を聞くことをあきらめて、「別の石で練習しよう」とリセットしました。ここでデジタル教科書の「石の名前は(  )です。(  )からです。」という話型のページを提示します。子どもを指名したときに、空欄を指さすことで、子どもに発表すべきことを意識させました。名前を言わせた後、理由の欄を指さすことで子どもたちはちゃんと理由を発表してくれました。見事な切り替えでした。この話型のページは、ペアで発表し合うときに利用しようと予定していたものですが、とっさにこの場面で利用したのです。素早く表示を切り替えることができるデジタル教科書のよさがいきていました。
子どもが写真ではなく実際の石を使って活動する時のために、表面の質感を意識させる場面を用意していました。教科書の写真の中からつるつるした石を選んで名前をつけさせたのです。黒い石なので「くろくん」といった、色に注目した名前が続きます。しかし授業者は無理やり誘導しようとはしません。あくまでも、子どもから自然に出るのを待っています。「つるちゃん?」と表面がつるつるであることに注目して名前をつけた子どもが発表してくれたので、用意していたつるつるの石を子どもに見せました。今回たまたま発表する子どもがいましたが、いなければいないでそのまま進めるつもりのようでした。せっかく準備したので無理にでも使いたくなるところですが、そこを柔軟に対応しようとする姿勢は見事です。
発問の後、集中していない子どもがいました。ところが、隣の子どもが声をかけた後、勢いよく挙手しました。この子を指名してみたいなと私が考えていたところ、授業者はすかさず指名しました。同じように子どもを見ていたのでしょう。また、子どもの集中力が切れて、テンションが上がりかけた場面がありました。これ以上テンションが上がると収拾がつかなくなりそうだと思った時、授業者は子どもたちに声をかけ姿勢を正させました。まるで私の心を見透かしているようでした。外から見ている私と同様に冷静に子どもたちの状況を判断しているのです。
学習規律に関しても、ルールをうまく作って対応しています。プリントを配るときに、「プリントをもらったら何をしますか」と問いかけます。もう定着してきたからいいだろうと教師が弛む時期ですが、ちゃんと確認しています。ルールを子どもたちに徹底させることを意識しています。「聞く姿勢」「話す姿勢」といった言葉で、子どもがすぐに姿勢を正せるように指導しています。
また、1人支援の必要な子どもがいました。授業に関係ないことを突然話したり、立ち歩いたりします。授業者は過度に意識せずに、他の子どもの迷惑にならない範囲であればある程度自由にさせています。限界が近づいたと思えば、その子どものそばに行って、それとなく接して落ち着かせます。立ち歩けばそばによって自分の手の届く範囲にとどめておきます。他の子どもたちは、その子どもが自分たちのじゃまになるようなことはないので悪感情を持ちません。優しく接してくれるようです。この対応もなかなかのものです。
カードに自分の選んだ石の絵を描かせ、色をつけ、考えた名前を書く活動でのことです。指示はカード配る前にしています。ちゃんと基本を押さえています。黒板に「えをかく」→「いろをつける」→「なまえをかく」と指示を書きました。しかし、カードが配られて作業を始めようとした時、カードのどこに何を書けばいいのか混乱する子どもがいました。ここは、実物投影機を使って実際のカードを見せながら指示をするか、黒板にカードの絵を描いて指示をするべきだったでしょう。このことを私が指摘するまでもなく自分で気づいていました。自分の授業を冷静にとらえています。
同じ石を選んだ子ども同士をつなぎながら発表を進めるのですが、その石を選ばなかった子どもは発言の機会がないので、次第に集中力を失くします。その石を選ばなかった子どもに対して、その場で「名前を考えてみて」と参加できるように働きかけたり、理由を説明できなかった子どもがいたときに、「助けて」と代わりに説明させ、本人に確認したりしていました。このようなつなぎ方をもっと使えば子どもたちの集中力がもう少し持続したかもしれません。
ペアで、自分のつけた名前とそのわけを発表し合いました。こういった場面では聞く側の役割を明確にする必要があります。低学年なので、言っていることがわかったら「うなずく」、「サインを出す」というレベルでもいいでしょう。話型を意識させるために、「私の考えた名前は」・・・「です」、「そのわけは」・・・「からです」の形でちゃんと言えたかどうかチェックさせてもよいでしょう。
ここに書かなかった素晴らしい場面はまだまだたくさんあります。授業技術と判断力がとても素晴らしい先生でした。まだ教職10年目くらいの方です。この先生が今後どのような進歩していくのかとても楽しみです。

2年生の国語は2年目の先生でした。漢字の同じ部分に注目させて、部首やつくり、漢字の成り立ちにつなげる教材です。授業者は今まで習った漢字を仲間分けするという導入を考えました。しかし、自分でも今一つしっくりいっていなかったようです。今まで習った漢字を使うという発想はなかなかよかったのですが、子どもが混乱する漢字が多く混じっていたのです。日と目、口などは口を同じ形として仲間と言えないこともありません。どう説明してよいか授業者自身も悩んでいたのです。この後学習する、部首やつくりにつなげていくことを考えれば、混乱しないような例で仲間分けをすべきだったと思います。辺やつくりといった漢字の構成要素を意識した部分で仲間分けをするのです。授業者の用意した漢字では、「石」と「名」が同じ仲間となっていたのですが、これも問題があります。「石」の口は口の形をしていますが体の口ではありません。石を表す象形です。「名」の口は体の口です。ですから部首も異なります。「石」と「口」です。漢字の構成要素として同じもので仲間分けをするべきです。教科書の例ではすべてそうなっています。こういう教材研究が少し不足していたようです。教科書を点で見るのではなく、学年間のつながりも意識した、線で見ることもしてほしいと思いました。
導入の仲間分けがすっきりしていなかったことが授業者の表情にも表れていました。かたいのです。おそらく日ごろはもっと柔らかい表情で子どもと接していることと思います。
もう一つ気になったことがハンドサインです。子どもがほぼ全員挙手をする中で、数人手が挙がりません。ところが、発表の後「いいです」と全員ハンドサインを出すのです。手が挙がらなかった子どもの一部は自信がなかっただけなのかもしれませんが、いつも最後にハンドサインを出す子どもなどは、本当にわかっていたのか不安です。ハンドサインは慎重に使ってほしいと思います。(「意味のある確認をする」「ほとんどの子が挙手するとき」参照)
学習規律はかなりよいのですが、わかった子ども、挙手した子どもと教師だけで授業が進むので、参加できない子どもの集中力が持ちません。困っている子ども、わかっていない子どもを参加させる工夫が必要です。(「子どもの言葉で授業をつくるときに注意したいこと」参照)
またペアをうまく活用する方法がよくわからないと質問してくれました。こういう課題を持っていることはとてもよいことです。ペアは相手意識が大切なので、一方がしゃべって、片方が聞くだけといった活動ではいけません。相手がしゃべったことに対して受け手が反応する。その反応に対してもう一度何かをしゃべる。こういう活動であれば、最初に一方的に話して終わりということはありません。相手の反応を受け止める必要があるからです。会話が一往復半するような活動を心がけるとよいでしょう。また、互いの考えを伝えあうような活動では、ペアの人の意見を発表させたりすることで聞く役割を明確にするという方法もあります。(「ペア活動の特性を意識する」参照)

4年生の社会は、放置自転車が禁止される理由を考える活動でした。デジタル教科書で放置自転車を整理している写真を写します。しかし、このとき子どもたちの手元の教科書も広げられています。かなりの数の子どもがスクリーンではなく手元の教科書を見ています。子どもたちの顔を上げることをねらうのであれば、教科書は閉じておいた方がいいでしょう。
ここで、デジタル教科書の写真を使いましたが、この学校のすぐそばに駅があります。その駅の様子を写真にとって映すといった工夫があってもよいと思いました。どこか知らないところの写真よりもはるかにリアリティが増すからです。デジタル機器のよさの1つに、身近なものを簡単に教材化できることがあります。自分たちの身の周りから題材を選ぶことでリアリティのある教材をつくることができるのです。
子どもたちに発表させる場面では、「なるほど」「いい意見だね」と受け止め評価します。子どもとの関係はよさそうです。しかし、「すばらしい意見だ」と評価をしてもどうしてすばらしいのか、その基準は不明確です。これでは子どもは教師の求める答を手探りしていくだけです。「先生はどこがすばらしいと思ったかわかる?」と問いかけるなどして、価値を共有化することが必要です。
授業者はうなずきながら発表を聞いていますが、その表情は少しかたいままです。発表者をしっかり見ているのですが、他の子どもたちの様子は目に入っていません。子どもたちも友だちの発言をしっかり聞こうとはしていません。また、発表が終わるとすぐに言葉を足しながら説明をします。1人発表するとその3倍は説明をしているのです。子どもたちは発表したことには満足している様子ですが、ほめられても表情があまり変わらないことが気になりました。意見を言っても結局教師が自分の言葉で説明するので、認められたと感じられないからでしょう。
発表が続くとだんだん挙手が減っていきます。それとともに子どもたちの集中力も下がっていきます。子ども同士の意見がつながることがないので、聞く意欲も高まりません。子ども同士のかかわりを意識することが求められます。

主に3人の授業しか見ませんでしたが、この学校に共通なこととして、教師の笑顔や子どもたちをポジティブに評価することが少ないことが挙げられそうです。子どもは発表することには意欲的ですが、わかった子どもと教師で授業が進むため、わからない子どもは参加できず、集中力が続きません。また、一問一答が基本なので、子ども同士の考えがつながることがなく、子どもは教師の求める答探しをすることになってしまう。こんなことも言えそうです。

校長とはこの日の授業のことや研究の進め方についていろいろ話すことができました。校長として決断することもあったようです。この学校の状況が悪いわけではありません。課題が明確に存在するということはそれをどう解決していくかを考えればよいのです。どうすればうまくいくのか、うまくいかないのか。そのことを明らかにすれば立派な研究になると思います。これからの動きがどうなるか楽しみです。今後もできるだけのお手伝いをさせていただきたいと思っています。

若手教師の進歩を感じる(長文)

昨日は小学校で若手への授業アドバイスをおこなってきました。前回の訪問から2週間も経っていませんが、子どもたちへの指示はずいぶん徹底できていました。どの先生も前回のアドバイスを意識して授業に臨んでいます。また、今回私がアドバイスしようと思ったことと先生方の課題意識が一致していたのには感心しました。子どもたちをしっかり見ることができているようです。

2年生の体育の授業では、集合から準備運動まで子どもたちだけで進めていました。なかなかできないことです。その間授業者は授業の準備をしていました。体育が苦手と思われる子どもがときどき手を抜いています。準備運動も終わりに近づくころに、授業者が戻ってきました。横の方から子どもたちの様子を見始めると、先ほどの子どもがしっかりと体を動かし始めます。他の子どもたちも明らかに集中度が上がりました。面白い場面です。また、活動の説明の場面でも似たようなことがありました。1グループは授業者のまわりに集まり、もう1グループは実演をさせるために縦に長く伸びています。近くのグループはしっかり集中して聞いていますが、もう1つのグループは明らかに集中度が低いのです。それも授業者から遠いほど。授業者の目が届くかどうかが子どもたちの集中度に大きく影響することがわかります。
準備運動のランニングでは、授業者は先頭を走っています。体育館の中なので、小さな円になりますが、授業者は何度も後ろを振り返りながら子どもたちを見ています。子どもたちを見ることを意識していることがよくわかります。だからこそ、見ていない時の集中度が落ちるのです。子どもたちだけで活動する時に、互いに注意をさせるという方法を取ったこともあるようですか、長続きしなかったようです。発想を変えて、しっかりできている子どもを評価することをアドバイスしました。子どもたちに、頑張った子どもを発表させるのです。見学者にその役割を与えてもよいでしょう。
また、授業者はこの日の活動量が少なかったことを反省していました。待っている時間が長かったのです。活動量を増やすためには体を動かす以外の活動を意識するとよいことを話しました(体育で大切にしたい活動参照)。

社会科の授業でのことです。社会見学に向けて、その施設で何を聞くかを考える場面です。授業者は、まず「何を知りたいか?」と問いかけました。何を言ってもよいのですから子どもたちが積極的に発言してくれそうです。ところが子どもたちは戸惑っています。漠然と「何を知りたいか?」では答えようがないのです。授業者はすぐに「何を知らないか?」と発問を変えたのですが、次に指名した子どもが「知りたいこと」を発表してしまい、うまくリセットできませんでした。子どもの様子に気づいて発問を変えたことはよい判断だったのですが、まず、変更を徹底させるべきだったでしょう。いったん挙手をやめさせて、発問し直すのです。
子どもたちに考えさせるためには、そのための足場になるものは何かを意識する必要があります。今回の場合、「知りたいこと」が明確になるには、「知らないこと」が何かがわかることが必要です。「知らないこと」を知るためには、「知っていること」が何かを明確にする必要があります。具体的には見学する複数の施設について、「何を知っている?」と知っていることを出させます。施設によって知っていることの違いもありますから、知らないことが浮き上がってきます。そこを足場にして、「じゃあ、知らないことは何?」と知らないことをたくさん取り上げます。ここで、「何を知りたい?」と続ければ、今度は選んだ理由を問うこともできます。その上で、施設の方に聞きたいことをグループで決めさせるというステップを踏むことになります。学年によっても違いますが、「聞きたいこと」の前に「聞かなくてもわかること」を入れてもよいでしょう。事前に施設のパンフレットを手に入れておいてそれを見せる。インターネットで調べる。聞かなくてもわかることを聞く必要はありません。裏を返せば、調べてもわからないことは聞くしかない、わからないから聞きたいとなるのです。常にこのステップを指示する必要はありません。子どもたちが経験を積んでくれば、自分たちでこのステップを踏むようになります。こういう考え方を身につけさせることが大切になります。
また、子どもたちにこの一連の活動のゴールが見えていないことも気になりました。教師が出す一つひとつの課題に取り組みますが、それがどこに向かっているかはっきりしていないのです。ミステリーツアーです。見学した後、わかったことを発表することをしっかり意識させておくことが必要です。聞いた人に、「あっ、知らなかった」「勉強になった」と言わせようといった子ども目線の目標も先に与えておきます。そうすれば、聞くことを決める段階で、「このことを聞けば、勉強になったと言ってもらえそう」といった根拠を持って考えることができます。子どもたちが経験を積めば、この目標を自分で設定することもできるようになります。

国語の授業で、インタビューの時にどんなことが大切かを発表している場面がありました。授業者は椅子に座って指名していきます。穏やかな表情で発表者を見て、うなずきながら発言を聞いています。板書もしません。そのため、子どもたちは聞くことに集中します。発言者の方を向いて聞けている子どももたくさんいます。子どものテンションを上げすぎないことを意識していることがよくわかる授業でした。意識して授業をしているので次の課題も明確になります。
落ち着いた雰囲気で進んでいくのですが、意見を発表できない子どもは次第に集中力を失くします。授業者もこのことには気づいています。子どもをつなぐことが必要なのですが、具体的どのようにすればいいのかがよくわからないようです。このような時は、子どもの発表に対して「同じような意見の人はいる?」と同じ意見の人を確認し、何人か指名します。自信のない子どもも友だちが発表した後なので、話しやすくなります。発表しなくても、手を挙げるだけで受け身の時間が減ります。「今の意見になるほどと思った人いる?」と問いかけることで、考えを持てていない子どもも参加できます。「どこでなるほどと思った」と問いかければ、発言につなげることもできます。
また、授業者は発表者をずっと見ています。発表者はどうしても教師に向かって発言するようになります。教師も他の子どもの様子を見ることができません。耳を発表者の方に向けてうなずきながら聞くようにすれば、全体を見ることができます。この他にも、うなずきながら首を振るなどの工夫をすれば発表者に聞いていることを伝えながら全体を見ることができます。教師が発表者を見続けないので、みんなの方を向いて話すことを意識させやすくなります。教師が全体を見ることで、他の子どもたちの反応をとらえることもできます。うなずいている子ども、首をかしげる子どもがいれば、「うなずいてくれたけど、どういうこと?」「首をかしげていたね。何かわからないことあった?」と発言をつなぐきっかけになります。
1人、面白い発言をする子どもがいました。まわりの子どもたちが揶揄するような態度を見せます。どうやらその子どもは思いが多すぎて整理できず、説明が回りくどくなるようです。だらだらと言葉が続くので、よいことを言っていても子どもたちにはよくわからないのです。発表した子どもは、授業者がしっかり聞いてくれるので満足するのですが、子ども同士がつながっていきません。この場合、いったん発表させた後、もう一度ゆっくりと説明させるとよいでしょう。今度は途中で止めながら「言っていることがわかった?」と整理しながら発表させることでまわりが理解してやすくなります。「○○さんの言いたいことを代わりに説明できる人いるかな」と他の子どもに言わせてもよいでしょう。自分の考えを友だちが説明するのを聞くことで、どのように説明すれば伝わるのかを知ることができます。このとき、「あなたの言いたかったことはこういうこと?」と本人に確認をすることを忘れないようにします。

別の授業で、子どもたちが礼状を書いている場面がありました。気になったのが、礼状を書くにあたっての目標は何か、そのためにどういうことを意識しているのかが明確になっているかどうかです。ひょっとしたらノートなどにまとめられていたのかもしれませんが、私が見ている範囲では、何かを参考にしている様子はありませんでした。ある学級では、「ていねいに」「最後までうめる」といった目標を黒板に書いているのですが、これは物理的なものです。内容に関する目標が必要です。読んでくれた人がどう思うといった、相手を意識したものが求められるのです。そして、その目標を達成するための要素を整理し、まとめておく必要があります。教科書には載っているのでしょうが、子どもたちが意識している様子はあまりありませんでした。何も見ずに黙々と書いているのです。

ある算数の授業で気になったことは、わかった子どもの発言や教師の説明だけで授業が進んでいくことです。わからない子どもはなかなか参加できません。板書も結果だけしか残っておらず、考え方が残っていないのです。わからない子どもが参加できる、わからない子どもがわかるようになる活動が意識されていないのです。答や手順を示せば子どもがわかるわけではありません。わかるためのステップがあるのです。そのことを意識してほしいと思いました。

3年目の教師の算数の授業はとても素晴らしい雰囲気で進んでいました。教師も子ども笑顔にあふれ、やる気が感じられるものでした。教師が体全体で子どもを受容していることが大きな要因でしょう。板書も色チョークをうまく使ってポイントがわかりやすくなっています。そういう授業でも、集中力を失くしたり、再び取り戻したりと変化の激しい子どもが何人かいることが気になります。よく見ていると、各場面で最初の発言や説明は集中していますが、そのあと一気に集中力が落ちるのです。どうやらよくできる子どものようです。一度聞いて理解して、もう聞く必要がないのです。授業者もよくできる子どもにどのような課題を与えればよいか悩んでいるようでした。きちんと自分の授業の課題を見つけているのはとても素晴らしいことです。
できる子どもに対しては、「他の説明を考える」「みんながわかる説明をする」「友だちの考えをみんながわかるように説明する」といったことを課題とするよいことを話しました。特に、教師ではなく「みんな」がわかるということは、子どもの視点を大きく変えてくれます。自分が解ければいいという考えを変えて、友だちにわかってもらおう、友だちを理解しようという態度を育てることで、学級の人間関係も変わってくるはずです。次は、彼らが1時間集中し続ける授業を目指してくれることと思います。

若手の教師が授業参観する時間をつくるために、教務主任が代わりに授業をしてくれました。素晴らしい姿勢です。その際自分の授業も見てくれるよう頼まれました。その向上心にも頭が下がります。
社会科の授業でした。パッカー車の写真を見せて疑問に思ったことをドンドン発表させます。子どもたちの発言を「いい疑問だね」と受容します。ベテランらしい見事な授業技術で進めていきます。子どもに出させた15の疑問の中で「1番素晴らしい疑問」は何かを問います。最初は列指名でつぎつぎ発表させ、その上で今度は、挙手で理由と共に発表させます。先にいろいろな考えがあることを確認しているので、理由を聞く必然性もでてきます。こういう進め方が自然にできるのは素晴らしいと思いました。
しかし、飛び込み授業なのですから、授業者の価値基準を子どもたちは知りません。授業者の言う「いい」疑問がどのようなものかはわかりません。「素晴らしい疑問」とはなんでしょう。このことを明確にする必要があります。つきつめれば、社会科の授業で子どもたちに身につけさせたい力はどのようなものかをはっきりさせることが求められます。この授業で身につけさせたいことは、その中のどれでしょうか。その力を身につけさせるために何を「いい」「素晴らしい」と価値づけるのでしょうか。授業者にこのようなことを伝えたところ、とても素直にかつ前向きに受け止めてもらえました。ベテランだからこそもっと授業が上手くなりたいのです。私の若手へのアドバイスを自分のことのように一生懸命聞いてくれます。このような教務主任ですから、この学校の授業力はきっと上がっていくことと思います。

先生方からは、たくさんの疑問や悩みを聞くことができました。どの先生も前向きに授業に取り組んでいることがよくわかります。わずかな時間に学級の様子が変わっていることからもそのことが伝わってきます。学習規律が確立してきたので、今回は教科の内容について多く話すことができました。先生方の進歩の速さをとてもうれしく思いました。
また、教育実習生がこの日1日、私と一緒に授業を見学し、授業の見方が変わったと感想を述べてくれました。これもうれしいことです。よい実習となることを願っています。

次回は全員の先生の授業を見せていただけます。どのようなことが学べるのか、また若手の教師がどのような成長を見せてくれるのか。今からとても楽しみです。

子どもとかかわるということ

学校で教育実習生に出会う季節になりました。真剣な目で授業を見つめる姿からやる気が伝わってきます。この中から、これからの学校現場を支えてくれる人材が育ってくれることを期待しています。彼らについていろいろなことが耳に入ってきます。その中で、難しい問題だと感じるのが、子どもとのかかわり方です。

定期考査の終わったあとです。成績が振るわなくて落ち込んでいた子どもが教育実習生に勉強を教えてほしいといってきました。特定の問題を教えてくれというのではなく、定期的にいろいろな教科の勉強を見てほしいというのです。教育実習生は子どもに頼られたのでうれしくてしょうがありません。早速指導の先生に許可を求めました。先生は、「自分の教科ならばともかく他の教科を教えるということは、どういうことだと思う」とそれぞれの先生の教え方や考え方がわかってもいないのに勝手に担当以外の人間が教えることの問題を伝えました。「実習期間が終わっても、教えてほしいといったらどうする?その子どもが、あなたがいなくなったから成績が下がったと言ったらどうするの。責任を取れるの?」と問いかけました。大切なことはどう行動すればよいかを子どもに考えさせ、行動をうながすことです。それも指導の先生と相談しての上です。子どもが教えてほしいと言ったのは、教育実習生に甘えたかっただけだということを、指導の先生はよくわかっていました。事前に相談してくれてよかった。もし、勝手に教え始めたらその後始末が大変だった。そう語っていました。

教育実習生は何も責任を取ることができません。子どもと深くかかわることは避けなければいけません。裏を返せば、教師は子どもに対して常に責任を持って接しているということです。今回のことで、この教育実習生はこのことを学んでくれたでしょうか。
教師を目指す学生ですから、子どもと触れ合いたいと思うのは当然です。だからこそ、将来しっかりと子どもと触れ合うために、今学ぶべきことは何かを考えてほしいのです。それは、ままごとのように、無責任に子どもとかかわり合う体験をすることではありません。教師が何を考え、どのように子どもと接しているのか、その背中から学ぶことです。
彼らが学校現場で多くのことを学び、何年かの後、立派な教師となった姿を見せてくれることを楽しみにしています。

授業研究から学ぶ

前回の日記の続きです(子どもたちの変化を見る参照)。授業研究は1年生の英語と2年生の数学でした。ともに1学級を2つに分割した少人数授業でした。

私が主に見たのは、3年目の先生の英語の授業でした。大勢の参加者がいる中で子どもたちはやや緊張気味でしたが、柔らかい表情で集中して授業に参加していました。この雰囲気をつくっていたのが授業者の笑顔です。終始笑顔を絶やさず、発言を復唱してしっかり受け止めるので、子どもたちも安心して授業に集中できるのです。
前半に ”This is 〜.” を ”Is this 〜?” と疑問文にする文法的説明を教師主導でおこないました。子どもたちは10数分の間、受け身の状態にもかかわらず集中力を切らさずに聞いていました。これはすごいことですが、その間子どもの活動がない事は問題です。教師と子どもたちの人間関係がよいときに落ちる落とし穴です。子どもが集中して聞いてくれるので教師はついしゃべりすぎるのです。子どもの活動量を増やすことを大切にしてほしいと思います。
“Is this your 〜?” と問いかけることで、授業者が一部を隠した絵が何の絵か当てるクイズをおこないます。こういうクイズ形式の課題は子どもたちの興味を引くのにはよいのですが、当てることが目的になりやすいという問題があります。この表現を使わずに単語だけで答える生徒がいました。授業者はこの表現を使うように指示して言い直させました。正しい指導です。しかし、これが子ども同士のペア活動だとなかなか修正できません。本来の目的とずれた活動になる危険性があります。またこの練習は名詞部分を置き換えるだけのものです。situation として単純なので、次の対話文の布石として、thisと that 、my と your を入れ替えるような situation に変えるべきでしょう。
主の活動は、事前に子どもたち一人ひとりがそれぞれ好きな色を塗ったペンや本のカードをランダムに配り、“Is this your 〜?”を使って持ち主を見つけるものです。本人の物であったときと違うときで対話文の流れが変わるように工夫されています。”Yes, it is.” ”No, it isn’t.” 終わってしまうとyes か no かを聞けばいいだけです。相手に話すことが目的化します。しかしこの授業では、”Yes, it is. That’s my pen.” “Here you are.” “Thank you.” “You’re welcome.” という流れと、”No, it isn’t.” “I’m sorry.” “That’s OK.” という2つの流れがあるために、相手の答をしっかり聞くことが求められます。この種の活動は子どもが自分のパートを話すことばかりに意識がいき、ムダにテンションが上がることが多いのですが、声も大きくならず、落ち着いた状態で進みました。とてもよい姿でした。
検討会で子どもの声がもっと大きくなってほしいといった意見が出ましたが、通常ペアで話をする時に声が大きいということは会話が成立していない時です。互いに相手を説得しようとしている時やけんかになっている時に声が大きくなります。この学校で子どものテンションが上がりやすい原因が見えたような気がしました。
子どもたちは集中して真剣に取り組んでいましたが、対話中に黒板をちらちら見る姿が目につきました。2つの流れの対話文が、自然なものとして身についていないのです。困った時のために意図的に対話文を残しておいたのかもしれませんが、あえて黒板に残さないという選択もあったでしょう。対話文をしっかりと自分のものにする時間がもう少し必要だったのかもしれません。そういう意味で、前半の教師の説明とクイズに時間を取られすぎたということが言えるでしょう。
教師と子どもの関係がしっかりできている、学習規律がしっかりしているからこそよい意味で課題がたくさん見つかった学びの多い授業でした。

数学は連立方程式の導入部分を「さっさ立て」を使っておこなうというものでした。釣った魚を一方のボックスには2匹ずつ、もう一方のボックスには1匹ずつ入れたとき、どちらに入れたかはわからないが、全部で何回入れたかでそれぞれの数を当てるという問題です。どうやって見つけるかという課題にグループで取り組んでいる場面を見ました。塾などで学習している子どもがいるグループでは、これから学習する連立方程式で解いています。表を使っているグループや奇数、偶数の関係を使っているグループもありますが、手のつかないグループもあります。この時、授業者はわからなければ席を立って他のグループに聞きに行ってもいいという指示を出しました。いろいろな考えがあるとは思いますが、これをすると今あるグループを壊すことにつながります。グループを使うねらいの一つに、課題を解決する過程で聞き合い相談することで、たまたまグループになった者同士が互いに学びあえる人間関係をつくることがあります。これが授業でつくる人間関係です。この授業に限ったことでなく、学校全体でグループのあり方を一度振り返ってみてほしいと思います。
子どもたちが発表した後、授業者はいろいろなやり方があったがどれを使いたいかと子どもたちに問いかけました。ほとんどの子どもが「方程式を利用する」に挙手しました。連立方程式で解いたグループもありますが、このやり方でいつも解けることを確認したわけではありません。1元方程式で解いたグループがあったかどうかを私は確認できていませんが、連立方程式との違いが押さえられているとも思えません。「さっさ立て」だけを考えるのであれば、小学校の算数の方がはるかに簡単で速いはずです。子どもたちが方程式と言ったのは、数学の授業だから答は方程式のはずだ。教師の求める答は方程式だろう。そう考えたからです。自分で考えよう、自分の考えを持とうというのではなく、教師の求める答を探すことをしているのです。この日の課題は、一つの問題を考えるのにもいろいろなアプローチがあることと、それぞれのよさを知るためのものです。数学は解き方の手順を覚える教科ではなく、問題をどうとらえ、どのように解決していくかその考え方を身につける教科です。子どもたちの答が「方程式を利用する」では、この1時間の授業はあまり意味を持たないものだったことになります。授業の進め方だけでなく、もう一度教科のあり方から振り返ってほしいと思います。

検討会では、子どもたちの事実に焦点を当てた気づきが発表されました。とてもよいことです。しかし互いの学びを深めるためには、「子どもの学びがいつ深まったのか」「学びが成立していたのはどの場面か」「子どもが学びから離れた場面はどこか」といった視点を明確にして話し合うことが必要です。このことをもう少し意識できるとよいと思いました。その上で、どのような手立てが有効なのかを話し合えるとより多くのことが学べることと思います。

検討会の最後は教科指導員がコメントをします。学校訪問でのこの地区のスタイルです。英語の教科指導員のコメントを聞かせていただきましたが、的確な指摘でどれもなるほどと納得させるものでした。しかし、当然のことながら教科指導員ですので教科の視点から授業を見ています。もちろん他教科の者にとっても有意義な話ではあるのですが、中学校では教科を超えたところにスポットを当てたいところです。教科指導員のコメントは教科部会を中心におこない、全体ではもう少し違った形での進め方を考えた方がよいのではと思います。この地区の学校訪問に数多く立ち会っているのですが、教科指導員のコメントがよければよいほどその思いを強くします。

教育委員会の方から、前回訪問時より子どもたちの表情や学級の雰囲気がよくなっているとのコメントがありました。そのような印象を持っていただけたことをとてもうれしく思いました。先生方が意識をしている証拠です。学校をよくしようと素直に取り組む先生がとても多いことがよくわかります。授業が成立するための基本ができつつあります。だからこそ新たな課題がたくさん見つかってきます。それぞれの課題に真摯に取り組むことで、着実に成果が上がってくるはずです。今後の学校の変化が本当に楽しみです。

子どもたちの変化を見る

昨日は中学校の学校訪問に同席しました。研究指定を受けている学校で、午前中は公開授業、午後からは授業研究でした。
前回訪問から1月あまりの時間が経っています。子どもたちの変化の様子が気になります。

3年生は、以前と同じく人間関係のよさが感じられる場面が多くありました。子どもたちの笑顔もたくさん見られたように思います。
前回授業研究をされた英語の先生の授業です。飲み物や食べ物を勧める文を中心としたグループで会話文をつくるという、前回と同じような場面で、子どもたちのテンションが落ち着いていたことに気づきました。習っていない文も自分たちで調べながらつくろうとしています。いろいろな飲み物や食べ物がたくさん例として用意されています。その場面を直接見た訳ではないのですが、おそらく子どもたちは例から選べるので、会話の中身をつくることに時間をかけずに、英文をつくることに集中できていたのではないかと想像します。自分でつくれない文があるとまだ先生に質問する子どももいますが、授業者は自分で調べるように促していました。明らかに前回の授業研究が活かされていることがわかります。「アレルギーがあるから食べられない」というような文を自分たちで調べて発表してくれたグループもあったそうです。授業者も手ごたえを感じていました。
また、社会科の人口ピラミッドをもとに人口問題を考える授業で、ある子どもが「老人の医療費をカットすれば、老人の数も減る」といったことを発表しました。ちょっと怖い発言です。授業者はそれでも、まず受け止めて、「・・・してきた人たちだけど、それでもカットする」と返しました。子どもは「しない」と自分で発言を訂正しました。教師が否定するのではなく、その子ども自身に訂正させたのはとてもよい判断です。次は、授業者が直接返すのではなく、他の子どもにつないで、友だちの意見で考えを修正することを目指してほしいと思います。友だちの考えを受け入れて考えを変えたことを評価することで子ども同士の関係もよりよいものにすることができます。
また、このような倫理的にちょっとと思うような考えが発表できるというのは実は素晴らしいことです。受けねらいというわけでなくこのような発表ができるというのは、安心して発表できる学級だということです。教師を含め学級の人間関係もちゃんとできているということです。授業者は「子どもたちがまとめを『ガリガリ』書いてくれる。たくさん、しかもていねいな字で」とうれしそうに話してくれました。ありがとうという言葉をたくさん使うように心がけてきたそうです。子どもたちがしっかり応えてくれるようになったと語ってくれました。
お二人ともベテランです。にもかかわらず、他者のアドバイスを受け入れるその姿勢は、見習うべきものです。いつも言うことですが、ベテランだからこそちょっとしたことを意識するだけで授業が大きく進化するのです。お二人の笑顔がとても印象に残りました。

3年生に共通することですが、グループ活動でかかわれない子どもが依然見受けられます。またそれとは別に、授業のじゃまはしないのだが参加しない子どもが各学級で目立つようになってきました。授業内容がわからない、ついていくことをあきらめた。そのように見えます。このような子どもが目立つようになるのが中間考査の終わった時点というのは、少し早いように思います。授業だけで何とかしようとするのは難しいかもしれません。個別に1・2年生の復習、やり直しの課題を与えるといった対応が必要でしょう。

1年生は、子ども同士の関係もよく、よい雰囲気で授業が進んでいきます。前回の訪問時と比べて子どもの表情が柔らかくなっているのが印象的でした。聞く体制ができるまで待ってから話すので、子どもたちの集中力もなかなかのものです。ただ緊張感が薄れたのか、集中するまでに少し時間がかかるように感じます。柔らかさが緩さにつながっているのかもしれません。このよい雰囲気を残しつつ、素早く切り替えができると素晴らしいと思います。
また、このよい人間関係が学級活動や行事でつくられているのではないかと感じさせる場面がありました。グループ活動やペア活動で作業が終わった、活動が止まったときに、授業と関係ない雑談をしている姿が目につくのです。友だちと和んでいるといってもよいかもしれません。日常の班活動と同じメンバーがグループになっていることと関係があるように思います。授業中、特定の友だちとだけでなく、学級のだれとでかかわり合えるようにすることを意識してほしいと思います。

昨年度授業アドバイスをした若手は以前よりしっかり子どもたちを見ていました。投げかける言葉も細かいところまで意識しています。子どもたちがしっかりと集中して授業に参加していることが廊下の反対側からも見て取れます。指摘されたことを素直に実行し続けていることが、子どもの姿からよくわかります。この教師に限らず、子どもたちが授業に真剣に取り組むようになってくると教科としての課題や活動内容が問題になります。この時間、この教材を通じて子どもたちにつけたい力は何かについて、もっともっと明確にする必要があると思います。ねらいが明確になれば、自然と評価も明確になります。授業が終わった時点での子どもの姿、振り返りの内容で授業がどうであったかよくわかります。そこには次の授業の改善へのヒントがあります。毎日地道に繰り返すことで教科力がついてきます。同じ教科の仲間で学び合うことで向上するところでもあります。全体での授業研究と平行して力を入れてほしいところです。

2年生は、ごく一部ですが、授業中に教室から出て行くような生徒がいるため学年全体が落ち着かないと感じました。先生方は怒鳴ったり、力で押さえたりしようとはしていません。そのため、教室の雰囲気が決定的に悪くなるような事態にはなっていません。先生たちがチームワークで頑張っていることがよくわかります。子どもたちも集中して課題に取り組むなど場面場面でよい姿を見せてくれます。とはいえ、どうしても集中力が続かないと感じることが多くなります。特に教師が説明して子どもが受け身になるような場面では、顕著です。こういう場面で授業の内容に直接関係ないことで子どもが声を出します。彼らも息を抜きたいのでしょう。高めのテンションで教師に声をかけます。子どもっぽい行動ですが、教師と関係が悪くないので起こる行動です。ここで無視をすると、エスカレートしていくことを知っているのでしょう、教師はその言葉に反応します。こういうことをきっかけに学級全体のテンションがおかしくなっていきます。こういった光景が目につくのです。また、教師の方からムダな話を振ることもあります。子どもの目先を変えて集中力を回復させたいという思いでしょう。しかし、一度上がったテンションを下げるのは難しいことです。この学年に限らず、この学校の生徒はテンションが上がりやすい傾向があります。テンションを上げることよりも、積極的に取り組める活動を増やすことで集中力を持続させるようにするとよいでしょう。テンションを上げ気味の生徒に対しては、ちょっと落ち着いた瞬間をとらえて「おっ、落ち着いたね。いいよ」とほめる、ペアレンタルトレーニングの手法が有効でしょう。

今回授業を参観して学校全体で感じたことは、個人での作業にこだわりすぎることです。まず個人で作業をしてから、グループやペアの活動に入るという形を取っているのです。自分の考えがなければグループ活動でも積極的に参加できないからという理由も想像がつきます。しかし、個人作業の段階で手がつかない子どもはその時間のうちに集中力を失くしてしまう恐れもあります(個人作業にこだわりすぎない参照)。
授業を見ていると、友だちの手元を見たり、相談を始めたりしています。子どもたちは、自分から相談できるようになっています。であれば、「どうしてもわからなければまわりの人に聞いてもいいよ」と相談することを許可したり、最初からグループの隊形で個人作業を始めて、相談しやすくしたりすることも視野に入れた方がよいと思います。

グループ活動では、子どもが考えるために必要な知識や情報は何かが意識されていない課題が多いように感じました。一部のグループが行き詰って活動が止まっているときに、教師がヒントを出しに行ったりしていますが、そうすると、結局安直に教師を頼るようになってしまいます。必要な知識や情報が意識されていれば、グループ活動に入る前に、見通しを持たせておくこともできます。途中で一旦活動をやめて、どのように取り組んでいるか過程を共有することで、必要な知識や情報を整理することもできます(グループ間格差をどうする参照)。
また、特定の子ども(班長?)が場を仕切っているように感じることがよくあります。わかっている子がこうだと一方的に教えている、説明している場面が目につきます。「わかれ」という説得型の活動です。そうではなく、「教えて」と聞く方が主体となって「わかろう」とする、納得型の活動を目指すことが必要です。「わからせる」ことではなく「わかろうとする」ことにより大きな価値を見出すのです。うまく説明できた、教えることができたということよりも、友だちの説明で理解できた、わかったことを高く評価するのです。

子どもが学び合うための土台が少しずつできてきたように感じます。土台をより強固なものにすると同時に、その上に何を立てるかという教科の課題や目標が問われるフェイズになってきました。これからが、本当に先生方が知恵を絞り工夫をするときです。学校のこの後の変化が楽しみです。

授業研究については日を改めて(授業研究から学ぶ)。

教科、分野の「見方や考え方」を明確にする

各教科で身につけさせたい力に、その教科における「見方や考え方」があります。授業を見ていて、その「見方や考え方」を意識した発問や活動になっていないと感じることがよくあります。教科の「見方や考え方」とはどのようなものか明確にして教材研究する必要があります。

たとえば理科の実験で身につけさせたい科学的な見方や考え方はどのようなものでしょうか。知りたいこと、疑問を解決するためには、どのような実験をおこなえばよいのか考える。仮説があれば、どのような結果が出るか予想する。結果から何が言えるか、言えないか考察する。その結果新たな疑問が見つかれば、その疑問を解決するためにどんな実験をすればいいのか考える。こういったものです。
地理的な見方や考え方であれば、国や地方の人々の生活や活動を地形、気候、時には歴史的な背景と関連付けて考えるといったことです。

その上で、教材を通じてこのような「見方や考え方」を身につけるために、どんな発問や活動が必要かを考えることが必要です。これらは、教材ごとに異なるのではなく、その教科、分野ごとにある程度共通のものにできるはずです。
一部の例ですが、理科の実験であれば、「どんな実験をすればこのことが確かめられる」「このほかにどんな実験をすればいい」、地理であれば、「どうしてこの地方ではこのような生活をしているのだろう」「同じような地理的条件のところに共通するものはなんだろう」、また数学であれば、「いつも成り立つの」「どうすればそのことが言える」「成り立たないのはどんなとき」、国語であれば、「本文のどこに書いてあるの」「この表現で筆者が伝えたいことは何」といった発問とそれに伴う活動です。

各教科の授業を通じていろいろな「見方や考え方」を身につけさせることが求められています。まず教科、分野ごとに身につけさせたい「見方や考え方」は何かを明確にし、それを身につけるための発問や活動を具体化してほしいと思います。教科、分野を通じて軸となる発問や活動ができることで、教材研究もよりスムーズに進むようになると思います。

「チェックする目」から「育てる目」へ

私が教師時代に生活指導を担当していた時期があります。女子のスカートの丈、靴下、男子の制服のボタン、生徒とすれ違うときには必ず服装をチェックしていました。もちろんルール違反がれば指摘をして直させます。私の姿を廊下の端で見つけると隠れる生徒もいました。いつの間にか私の目は、生徒を「チェックする目」になっていました。

学校を訪問して、笑顔が少ないと感じることがあります。その場合、かなりの確率で教師の子どもたちを見る目が、この「チェックする目」になっているのです。別の言い方をすれば、「悪いとこみつけ」です。規律を守れていない、できていない子どもを注意しようとする姿勢です。「チェックする目」はどうしても表情がかたくなります。教師の表情がかたければ、子どもたちも笑顔になりません。
「できない子どもを減らすのではなく、できる子どもを増やす」という発想を持ってほしいと思います。できる子どもを増やそうとすると子どもをほめることになります。できた子ども、できている子どもをポジティブに評価することで、他の子どももほめられようとまねをしてよい行動が広がっていきます。ほめることが、できる子どもを増やすのです。

学級の規律でいえば、できていない子どもより、できる子どもの方が多いはずです。たくさんの子どもをほめる機会があります。たとえできていなかったとしても、できるようになればほめることができます。できる子どもを増やそうとすれば、自然に多くの子どもがほめられ、学級の雰囲気がよくなっていきます。一方、できない子どもを減らそうとすると、特定の子どもばかり注意されることになります。できるようになるまで、集中的に注意をされることになります。できる子どもも友だちが注意をされる場面を見せられるのであまりよい気持ちにはなりません。学級の雰囲気が悪くなります。

「できない子どもを減らすのではなく、できる子どもを増やす」という発想で、子どもたちのできていないところを「チェックする目」から、できているところを見つけて「育てる目」に変えてほしいと思います。

教師が頑張ること

「今年の1年生は例年よりも学習に対してやる気がある。私たちも頑張ろう」という声がある学校から聞こえてきました。先生方もやる気を出しているのはよいことだと言えそうな気もしますが、何かしっくりきません。「子どもたちのやる気がなければ教師は頑張れないのか?」「そもそも子どものやる気のあるなしで教師のやることが変わるのか?」そんなことを考えました。

子どものやる気がなければ、やる気を引き出すために頑張って工夫する。教師の仕事とはそもそもそういうものです。そういう工夫をしなくても、最初からやる気があるのならそれはとてもよいことです。そうであれば、子どもたちをより伸ばすために次の工夫を頑張ってすれればいいのです。常に子どもたちの状況に応じて、必要なことをするだけです。もちろん子どもが意欲的だと教師も確かにやる気がアップすることは理解できます。そのやる気で何を頑張るかが実はよくわからないのです。

子どもの授業に対する集中力が高ければ、同じ授業でもより学力がつくことは容易に想像できます。そこに教師が頑張る要素は感じられません。子どもが意欲的なので演習量を増やすことができるのかもしれません。これも教師の頑張りを必要とすることではありません。やる気があるから宿題の量を増やしてもこなしてくれるかもしれません。ここで頑張るのは宿題の印刷なのか、それとも宿題のチェックなのでしょうか。子どもが頑張ることはいくらでも想像できるのですが、教師が今まで以上に頑張ることはなかなか見えないのです。子どものやる気に対して、量的な面で子どもを頑張らせることを教師の頑張りに置き換えているのであれば、それは違うように思います。

もし教師が頑張るべきことがあるのなら、子どものやる気を活かす授業を工夫することのように思います。子どもが集中して考えてくれるからこそ、より力のつく課題を考える。これは量的な発想とは次元の違うものです。教師が頑張らなければできることはでありません。また、ちょっと頑張ったからといってすぐに見つかるものでもありません。

子どものやる気に応えようという気持ちは決して悪いことではありません。しかし、安直に量的な面で子どもを頑張らせることに走るのではなく、やる気を活かすような課題を工夫するといった質的な面で応えてほしいと思います。

小学校で授業アドバイス

先週末は小学校で授業アドバイスをおこなってきました。今年度4回訪問させていただくことになりました。20代の若手を中心におこないます。

今回は空き時間の方と一緒に解説も交えて授業を参観しました。共通していたのは次のようなことでした。

・指示がまだ通っていないのに次の場面に進む。
・作業中に追加の指示をするので、徹底しない。
・友だちの意見を聞くことを意識させていない。
・作業が早く終わった子どもへの指示が予め用意されていない。
・一つひとつの場面で、子どもにどうあってほしいか意識できていない。
・挙手指名だけで進むので、わかった子どもしか参加できない。
・一問一答が多い。
・子どもの外化を評価しない。
・ほめる言葉が少ない。
・・・

授業規律がまだ十分に確立していないようでした。子どもたちも落ち着いていますので、今の時期であれば教師が意識をすればまだ簡単に改善できます。子どもをほめることで授業規律をつくるようお願いしました。

いくつかの面白い場面や気になる場面がありました。
授業中に前の席の子どもが身を乗り出して水槽を見ています。時々先生の方を見ます。授業者はそれに気づきました。ここで、すぐに注意をするかと思いました。この先生は、できていないことをチェックする視点で子どもたちを見ていたからです。しかし、何も言わずにその子どものそばに行きました。授業者の顔が笑顔になりました。飼育していた蝶が羽化していたのです。子どもはそのことを伝えたかったのでしょう。しかし、声を出して授業を中断するわけにはいきません。そこで先生に気づいてほしいとサインを送っていたのでしょう。授業者の笑顔がその子どもにはとてもうれしいものだったに違いありません。
授業者は中断しようかどうか少し悩みましたが、列ごとに素早く見るように指示をしました。私たちが授業を見ているので、あまり中断させたくなかったのでしょう。早く席に戻るように指示をします。「ちゃんと見えた?よかったね」「じゃあ、席に戻ろうか」と、まず見ることができたかを確認してあげてから、戻るように指示をする。こうすることで子どもたちも納得してもう少し素早く動けたかもしれません。
この先生には笑顔を増やすことと同時に、「できない子どもを減らそうとするのではなく、できる子どもを増やそうとする」ことをお願いしました。私の言いたいことはすぐに理解していただけました。とてもよい感覚を持っている方です。本人もきっと子どもをもっとポジティブな視点で見たいと思っていたのでしょう。
その日あった道徳の時間で意識して笑顔をつくってみたところ、子どもたちがとても集中してくれた。余裕を持つことができて、授業時間が短く感じられた。あとで、こう報告してくれました。すぐに実行する、とても素直な方です。よい手ごたえを得てくれたことをとてもうれしく思いました。

他の地区からこの学校に移ってこられた先生がいました。とても柔らかい表情でうなずき、子どもたちをとてもよくほめます。以前勤務されていたところは、生活指導面で大変な時期があった学校だったようです。その学校はそれを乗り越える過程で子どもたちを受容することを大切にしてきたのでしょう。この先生の姿はそのことの現れのように思いました。
子どもが発言する場面では、子どもをしっかりと見ながら話を聞きます。しかし、発言者だけを見ていて、他の子どもを見ることはしていません。子どもたちも先生を見ていて発言者を見ていません。子ども同士をつなぐことを意識して、学級全体を見るようにお願いしました。子どもたちとの関係をしっかりつくることができる方なので、視点を変えればすぐにできるようになると思います。

子どもたちが積極的に参加している国語の授業がありました。説明文の構成を考える場面で子どもたちが自分の考えを発表します。一生懸命考えたのでしょう。しっかりと友だちの発表を聞いています。授業者も、同じ考えの子どもがいるか確認をしているので、指名されなかった子どもも認められたと感じているのか集中力を切らしません。いくつかの考えが出てきました。どれが正しいのだろうと、子どもたちは真剣です。ここで授業者は説明を始めました。「・・・だから、これは・・・でなければいけない。だから、これは×」と一つの考えに大きく×をつけました。子どもたちの中から何ともいえない空気が漂ってきます。一緒に授業を見ていた先生は、一言「悲しい」とつぶやきました。子どもの気持ちになっての言葉でしょう。とてもよい感覚を持っている方です。説明が続くにつれて、今まで集中していた子どもの意欲がみるみる下がっていきました。ネガティブな評価は子どもたちの意欲を低下させることがよくわかります。
時間がかかるかもしれませんが、考えの異なる点を焦点化しながら子どもたちに説明させ、自分たちで結論を出させるようにしたいところです。友だちの説明を聞いてなるほどと思えば考えを変えてもいい。考えを変えたことを評価すれば、間違えていた子どもも決してネガティブな気持ちにはなりません。とはいえ、このような進め方は決して簡単ではありません。次の課題でしょう。

6年生の社会科で、遣唐使に関する川柳をつくる授業がありました。なかなか挑戦的な試みです。つくった川柳をグループで1つに絞り黒板に書かせます。書き終わったところで時間がなくなってしましました。川柳をつくらせたねらいを授業者にたずねると、出てきたキーとなる言葉を子どもたちに問い返しながら、知識の確認をしたかったようです。この授業は学年で共通に取り組んでいるようでした。よいチームワークだと思います。
川柳をつくるには遣唐使に関する知識が必要で、それを教える時間とつくる時間が必要なので時間が足りなくなった。どうすればよかったのかと質問をいただきました。ポイントは、知識は原則「教える」か「調べる」かしかないということです。どちらを選ぶかの判断が大切です。川柳をつくるのは子どもが主体の作業です。教師主体の「教える」ではなく子どもが主体となる「調べる」作業と一体化することで時間を節約することができます。ここで大切となるのは調べる必然性を、川柳をつくる作業の中に組み込むことです。たとえば、「教科書や資料集にある用語を必ず入れるように」といった条件をつくるのです。評価の基準も「用語をうまく使っていて、なるほどと納得できるもの」というように用語を意識したものにします。グループで一つに決めるということはせずに、「たくさん集める」「自分が一番いいと思ったものを選ぶ」「自分が選んだものに使われている用語を説明できるようにする」といったものにすることで、知識の獲得と川柳が結びつくと思います。発表も個人でおこないながら「同じ用語を使った人」とつなげていき、その用語がどこにあるか他の子どもに調べさせたりすることで全員が参加することが可能になります。このような展開を考えました。私にとっても学びの多い授業でした。

以前この市の他の小学校でも授業アドバイスをさせていただいたことがあります。その学校でも、初めて授業を見たときに基礎的なことができていないと感じる部分が多くありました。しかしその後、みるみる進歩していきました。先生方がとても素直で前向きだったことが印象に残っています。この学校の先生方もその点は全く同じでした。この市の先生方の特徴なのかもしれません。きっと同じように大きな進歩を見せてくれることと思います。次回の訪問が今からとても楽しみです。

いつものことながら、授業から大いに学ぶ(長文)

昨日の続きです。印象に残った授業がいくつかありました。
3年生の数学で、53×47を(50+3)(50−3)と和と差の積に直して計算する問題の答を発表する場面でした。指名された子どもが黒板に(53−3)(47+3)と書いてわからなくなってしまいました。授業者は誰か助けてくれないかと子どもたちに声をかけますが、反応がありません。子どもに助けを求めるのはよい対応なのですが、この場合どうすれば助けられるのか、答がわかっている子どもも戸惑っていたのだと思います。「助ける」が難しいときは、「気持ちをわかる」という問いかけが有効です。「○○さんがこの式を書いた気持ちわかるかな」と問いかければ、「50をつくりたかった」といった言葉が出てきたのではないかと思います。このキーとなる50を考えることで、正しい答を導くことができたのではないでしょうか。
授業者は誰に助けてほしいか聞きました。子どもに逆指名させようというわけです。これはかなり酷な判断を強いることになります。絶対大丈夫と思える友だちしか指名できません。そうでなければ、自分が指名した友だちに恥をかかせることになります。苦渋の判断は「先生」でした。子どもの気持ちがよくわかります。授業者は「先生は困るな・・・」と結局自分で指名しました。この時点で指名された子どもは「助ける」のではなく「正解を発表する」ことは想像できます。ここは「(50+3)ってどういうこと?」とか「(50+3)はいくつ?」「(50−3)は?」と問い返してあげるといった対応をしたかったところです。おそらく授業者は思いつかなったのでしょう。
案の定、指名された子どもは正解を板書し、「・・・すると、いい感じの数(字)になって・・・」としっかり説明しました。教師はよい説明をしてくれたのに子どもの反応が薄いことが不満でした。「よければ拍手するんだよ」と子どもたちに言います。この言い方では、教師がこの説明は拍手に値するから拍手をしろという強要になります。まばらな拍手が起こりました。なぜ子どもが拍手しなかったのかを考える必要があります。「助けて」という問いかけに、「正解」を説明したのでずれを感じたのかもしれません。それとも、説明がよくわからなかったのかもしれません。拍手をしない子どもたちに、「どう、納得した」「なるほどと思った」「どこがわからない」と問いかける必要があります。この拍手というのは、注意しなければいけない行為です。自分の確固たる意志のもとに拍手をさせないと、なんとなくみんながするからと考えなしに拍手するようになります。拍手をしたら必ず、その理由を問いかけないと、無責任な行為となります。「たくさん拍手してくれたね。理由を聞かせてくれる。○○さん」「よかったから」「どこがよかったの?」と迫ることで、しっかり自分で判断するようになります。拍手された方も形式的でなく、ちゃんと評価されたと感じます。こういった問いかけなしに拍手をするのであれば、しない方がましです。「いわんや、強要をや」です。
結局、最初の子どもの板書は虚しく残されたままで、だれにも助けてもらうことはできませんでした。心の中に何が残ったでしょうか。授業者の思いとは裏腹に冷たい授業になってしまいました。救いは、最初の子どもが席に戻った時に隣の生徒がすぐに身を乗り出して、説明していたことです。その光景は子どもたちの人間関係のよさを教えてくれました。
拍手の後、授業者は「いい感じの数」を取り上げました。ここからが数学です。どう展開するかと期待しましたが、あっさり次の問題に進んでしまいました。「いい感じの数ってどんな数」「いつもそうなるの」「どういうとき」と数学の授業の決まり文句で問いかけることで、2数のかけ算は必ず2乗の差にできること、2数の平均が「いい感じの数」になれば簡単に計算できることに行き着きます。感覚的な言葉をより明確な数学の言葉に昇華させる。常に成り立つことなのか、特別な場合だけなのか考える。数学的なものの見方・考え方を育てるよい機会でした。数学の授業に共通する問いかけをまだしっかり持っていないようでした。
笑顔で接する姿に、子どもたちを受容し活躍させたいという授業観が伝わってきます。このことは大いに評価できます。この授業観にそった授業を展開するための技術を身につけてほしいと思います。一方数学の教師としては、もう一度数学とはどういう教科なのかを問い直してほしいと思います。これからに期待したいところです。

教職2年目の社会の授業は、交通機関の発達を考える授業でした。導入で子どもに「どこへ行きたい?」と問いかけます。無責任に答えられる質問なので、どんどん声が上がります。子どものテンションは一気に上がります。いつものことなのでしょう。テンションを上げていく生徒がいる一方で、冷めた表情の子どもが目立ちます。特に女生徒が多いようです。時間をかければかけるほど状況は悪くなるのですが、5分以上も意味のないやり取りを続けます。一部の子どもがはしゃぐことが楽しい授業だと錯覚しているのです。主発問などは子どもが考えるような工夫をしています。こういうムダを切り詰めればじっくり考える時間をたくさん取ることができるのですが、残念です。こういう授業観を崩すのはなかなか難しいことです。
それに対して、ベテランの授業は対照的でした。ルネサンスの3大発明と当時の事件との関係を問います。「活版印刷は何と関係ありそう」という質問に、何人も声が上がります。子どもたちは「宗教改革」とつぶやきますが、決してテンションは上がりません。テンションを上げなくても、教師が取り上げてくれることを知っています。また、必ず理由を聞かれることも知っています。活発ではあるが、落ち着いて全員が参加する授業でした。

3年生の社会で挑戦的な授業に出合いました。太平洋戦争で「いつ戦争をやめれば原爆は投下されなかったか」という課題でした。子どもたちは考えることができるのだろうかと思って見ていましたが、しっかりと友だちと考えを伝えあっています。どんな考えが出るだろうと思って発表の場面を見ていました。「開戦時」「ポツダム宣言」以外にもいろいろな考えが発表されます。「レイテ沖海戦」が出てきたのにはびっくりしました。私の想像を超えていました。なかなかしっかりした根拠を述べてくれました。説明を聞きながら資料集のレイテ沖海戦のところを見ている子どももいます。発表の後、「同じところの人」と聞いたところ数人の手が挙がりました。その子どもの意見も聞きたいところですが時間が足りませんでした。黒板には整理しやすいように時間軸が引いてあり、開戦と終戦が書き込まれています。理由を書く欄もあります。しかし、あえて板書しませんでした。ここはしっかり友だちの話を聞いて考えてほしいと思ったからでしょう。子どもたちに考える力をつけようとしていることがよくわかります。少しずつ子どもが育ってきている手ごたえを感じます。今回は、なかなか全員がすぐに自分の考えを持てないような課題です。ここは途中でいったん発表させ、いくつかの考えを焦点化してから再度考えさせるとよかったかもしれません。そうすることで考えを持てなかった子どもに手がかりを与えられますし、持てた子どもも友だちの考えと比較しながらより深く考えることができるからです。授業者にはこのことを伝えました。少しでもよい授業がしたいという授業者の思いが伝わりました。どのように進歩していくか今年もっとも楽しみにしている先生の一人です。

理科の葉緑体の観察の授業でした。授業者は葉緑体の説明をした後、実験の説明に入ります。顕微鏡を使ってオオカナダモを400倍で観察すると葉緑体が見えることを伝えて観察にはいりました。子どもたちは机を移動してグループになり顕微鏡の準備をします。しかし、どうにも動きが遅いのです。理由はわかります。意欲がわかないのです。観察する前からその結果はわかっています。観察から新たな何かを見つける、知ることはありません。教科書や資料集に載っている写真を見ることと何ら変わりないのです。
「葉っぱは緑だけれど、中まで全部緑?本当?」と問いかけ、「どうすれば正しいかわかる?」と予想から実験や観察を考える。「観察していくつのことに気づけるかな」と課題を与え、「みんなが見つけたことから何が言えるかな?」と問いかける。このような理科的なものの見方や考え方を意識した展開を考えてほしいところです。授業者もちゃんとそのことに気づいて反省していました。自分で気づく力があるから大丈夫です。毎日の授業を大切にし続ければきっと大きく進歩することでしょう。

2年生の酸化銅の実験でした。子どもたちの様子が落ち着きません。雑然としているのです。4人グループですが2人ずつ横一列に並んでいます。その間には水詮があります。2+2に分離しているのです。実験器具は一方に置いてあります。当然のことながら実験器具のない方の生徒の集中力がありません。多くは女子生徒でしたが、授業に関係のないムダな話をしています。教室全体に緊張感がありません。実験の注意や指示はどこにも書いてありません。おそらくワークシートか実験ノートのようなものを使っているのでしょう。しかし、子どもたちはそれをしっかり見ながらやっているようには見えません。「事故が起こってもおかしくありませんね」と同行していた先生にこえをかけようとした時です。「熱っ」という女子の声が聞こえました。試験管の熱した側をうっかり持ってしまったのです。授業者はそれを見て「熱いに決まっている」と言っただけでした。今度は反対側を持って試験管の中の酸化銅を取り出そうとします。ところが中身をだそうと試験管の先を机にあてたところ、試験管が滑って熱いところをつかんでしまいました。思わず試験管を放り出しました。試験管に残っていた酸化銅が床にこぼれました。試験管を放り出したのでよかったですが、割ってはいけないとしっかり持てばやけどをするところでした。授業者は雑巾で床をきれいにするように指示をしました。女生徒は2人で床を拭きます。その指示を出したすぐあと、実験をやめて前を向くように全体に伝えました。全員が前を向いてから、まだ掃除をしている2人に席につくように指示しました。ちょっと驚きです。今年初めて教壇に立つ講師ですが、それにしてもなんと冷たい対応でしょう。そのことに気づかないのでしょうか。ちょっと悲しくなりました。直接話す時間は取れませんでしたが、準備室にいた先輩にこのことを伝え指導をお願いしました。講師の場合、初任者のような研修の機会はほとんどありません。安全に配慮の必要な教科は特に何らかの指導や研修の機会を設けることが必要だと強く感じました。

英語の授業で面白い場面に出合いました。T1とT2が教室の前後でペアの会話をチェックしていたのですが、子どもたちの様子が大きく違っていたのです。T2のところでは、子どものテンションが上がってうるさいくらいです。とにかく声を出すことしか意識していません。一方、T1の方では子どもは教師にきちんと聞いてもらおうと集中して取り組んでいます。どこが違うのでしょうか。T1は柔らかい表情で子どもたちの一言一言にうなずいています。先生がちゃんと聞いていることが子どもたち伝わります。教師が子どもを見る、受け止めることの大切さがよくわかる場面でした。このT1の机間指導も特徴があります。歩きながら何度も後ろを振り向くのです。死角をなくす。子どもたち全員を見る。そのことを徹底しているのです。5年目の教師ですが、ベテランでもなかなかできないことです。若手の成長を見ることができることはとてもうれしいことです。

1年生の英語で、thisとthatを学習する場面でした。ボールなどを使いながら、”This is my ball.” ”That is your ball.”とsituationを英語で表現します。日本語で”this”は「これ」、”that”は「あれ」などとは説明しません。子ども自身に気づかせようとしています。とてもよい指導だと思います。一人の生徒が「わかった」と言いました。「近いときが”this”だ」という説明にみんな納得です。子どもの集中度がぐっと上がりました。とてもよい場面でした。しかし、英語の授業としては、日本語で説明させるよりsituationごとに正しく言えるか確認するにとどめた方がよかったかもしれません。それを見せることで他の子どもにも自力で理解する機会を与えることができるからです。残念だったのは、”this”と”that”の違いがわかった後、教師がボールを持って”This is my ball.”といった後、子どもたちにも”This is my ball.”と言わせたことです。ここは”That is your ball.”と言わせたいところです。とはいえ、英語を日本語に直して理解するのではなくsituationで理解させようとする姿勢は立派だと思います。聞けば、GDMの講座に参加したりもしているそうです。学ぶ意欲のある方です。今後に期待したいと思います。

毎月訪問している学校ですが、毎回学ぶことがたくさんあります。いつものことですが、授業は奥深いことをあらためて感じさせられます。このような機会を得られることに、感謝です。

授業参観で面白い場面に出会う

昨日は中学校で授業参観とアドバイスをさせていただきました。中間試験も終わり、校外行事等を控えて子どもたちが浮つきやすい時期です。ゴールデンウイークのころと比べて子どもたちがどう変わっているかとても楽しみでした。

3年生はさすがに落ち着いているのですが、授業によっては一部の生徒の集中力が落ちていたり、意欲が感じられなかったりする光景を目にしました。もう少し後から頑張ればいいと考えているのでしょうか。それとも、ついていけなくなっているのでしょうか。一時的なものならよいのですが、今後どのように変わっていくのか気になるところです。

2年生は4月のころの、1年生のような新鮮な気持ちで授業に向かっている姿は見られなくなっていました。新しい先生にも慣れて授業によって見せる姿が変わってきています。教師が一方的に説明する授業では、明らかに聞いていない、集中力を失くしている子どもが目立ちました。説明の多い先生はテンションが上がりやすく、テンションが上がると子どもが見えなくなります。そのことも関係しているのでしょう。

1年生ですが、面白い場面にいくつか出会いました。
子どもたちが板書を写さず先生の話を聞いている場面を目にしました。今何をするべき時かきちんと伝わっていると感心しました。ところが集中力の変化が激しいのです。全員顔をしっかり上げて聞いていたかと思うと、下を向いたりボーっと視線が泳いだりします。その理由はすぐにわかりました。先生が黒板の方を向いて話すと集中力が下がるのです。似たような傾向は説明中心の授業に多く見られました。外からであればこのことはよくわかりますが、授業者は死角で起こることなので気づきにくく、見過ごされやすいことです。子どもたちのこの行動はちょっと気になります。目立つほどに切りかわるのは、教師の顔色をうかがう傾向があるのかもしれません。もしそうであれば、教師の見ていないところでトラブルを起こしやすい可能性があります。

異なる3つの学級での書写の時間です。黒板には何も書かれていないのでどのような指示があったのかはわかりませんが、子どもたちは淡々と書きつづけています。集中力が続かない子どもも出てきます。子どもたちの書に向かう姿勢はばらついています。明確な目標や途中での評価がないと、なかなか集中は維持できません。ところが1つの学級は非常に集中度が高いのです。たまたま授業の前半だからなのだろうと思ってようすを見ていると、案の定集中力を失くす子どもが出てきます。最初はそろっていた子どもたちの姿勢がバラバラになっていきます。他の学級と同じ状態になるかと思っていると、スーッと集中力が戻っていくのです。気がつくと最初の状態に戻っています。これはすごいことです。試験の成績もよい学級ということですが、これはこれでちょっと怖い気もします。先ほどの場面などとあわせて考えると、やはり教師の顔色をうかがっている可能性があります。いや、それはちゃんと空気が読めているのだからいいという考えもあります。否定はしません。しかし、教師の働きかけや影響下で育ってきた結果でないとすると、何かあった時に教師がコントロールできない可能性があります。この学級がこの後どうなっていく気になるところです。次回の訪問時には集中して見てみたいと思います。

また、ある学級で授業による子どもの姿の違いに面白いものがありました。担任の授業ではほぼ全員が挙手します。答えやすい問題だったのかもしれませんが、どの子も笑顔で参加しています。次の授業では、同じく多くの子どもがわかっているはずなのに挙手は数人です。とはいえ、先ほどの授業ほどではないにせよ、それほど表情は悪くありませんでした。ところが3つ目の授業は、子どもたちの表情も悪いのです。面白くなさそうで集中していません。この違いは何でしょう。担任の授業では、人間関係ができているので子どもは安心して参加しています。次の授業は、おそらく挙手して発言することに安心感がないのです。教師が正解不正解を判断する一問一答式であることが影響していそうです。3つ目は教師が一方的に説明している場面だったので、受け身の時間が長いことが原因でしょう。ここで気になるのは、このような姿の違いに授業者は気づけないことです。3つ目の授業でも子どもたちは表面的には落ち着いています。比べてみなければ、特に問題と感じない可能性が高いのです。早目に修正していかないと学級経営、学年経営に支障をきたすことになります。

多くの先生が入れかわっても、「子どもたちを活躍させよう」「できるだけ受け身にさせないようにしよう」という授業を目指す先生がまだまだ多い学校です。そういう授業が一定数あると、説明中心の授業は子どもにとってなかなか受け入れられないものです。説明中心のスタイルでやってきた先生にとっては、今までやれたことが上手くいかない、やりにくいと感じる学校です。この日一緒に回った先生の一人もそのように感じていました。しかし、難しく考える必要はありません。

・子どもに身につけさせたい知識と考えさせたいことを明確に分ける。
・知識は教えるか調べさせる。
・考えさせたいことは教師が説明するのではなく、できるだけ子どもの発言で進める。
・その時間をつくるために、子どもから出てきたことを教師が再度説明しない、まとめようとしない。
・子どもが安心して発言できるように、正解不正解の判断を教師がしない。間違えても本人に修正させる。
・子どもの「うなずく」「首をかしげる」「つぶやく」といった反応をとらえて、「いまうなずいてくれたね。どういうことかな。聞かせてくれる」というように発言につなげる。

こういうことを意識すればいいのです。子どもたちはそういう授業に対する慣れがあるので、ある程度経験のある教師であれば、その気にさえなれば意外とできるものです。要は挑戦してみようとすることが大切なのです。

前回訪問時の現職教育では、子どもの発言の途中で板書をしないといった基本的なことを話しました。うれしいことにその時話したことを意識して取り組んでいるという言葉を何人もの先生から聞くことができました。素直で前向きな先生方です。授業による子どもたちのブレがよい方に揃っていくことが期待できそうです。

個々の授業で感じたことは明日にでも。
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