最新更新日:2024/04/26
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【6年生】総合 羽黒探訪記2

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<羽黒の戦いの結末と野呂塚>
 前回は、『羽黒の戦い』が始まるところまでをお話しましたね。当時の五条川は今よりもう少し南を流れていたそうで、八幡林は五条川の北側に広がっていました。八幡林に軍を進めた羽柴(豊臣)秀吉側の武将、森長可(もりながよし)はとても強いことで有名で、『鬼武蔵(おにむさし)』とよばれていました。これに対して五条川南に進軍して来ていた徳川家康方の酒井忠次(さかいただつぐ)もまた、『徳川四天王(とくがわしてんのう)』の一人に数えられる、とても有名な武将でした。

今から300年ほど前に書かれた『落穂集』では、1584年3月16日、五条川をはさんで向かいあった両軍は、互いにはげしく鉄砲を撃ち合ったとあります。酒井軍の強れつな砲撃を受けひるんだ森軍の様子を見て、酒井らの徳川軍が一気に五条川を渡り、森軍に突撃します。徳川軍の攻撃を止めることができなかった森軍はそのまま犬山城まで逃げました。

森長可軍の隊長のひとりであった野呂助左衛門(のろすけざえもん)はこの敗戦をとてもくやしがり、子の助三郎(すけさぶろう)とともに本隊から分かれて引き返し、現在の東部中学校のあたりまで追い上げてきていた徳川軍に向かって突っこみ、はげしい戦いの後に親子ともども戦死したと伝わっています。江南市に古くから伝わる『武功夜話』という本には、1m以上の長さの刀を軽々とふるい、徳川軍に対して力戦し続けた野呂助左衛門の最後の姿がえがかれています。
『八幡林』からふみきりを渡って東へ少し進んだところに大きな石碑(せきひ)があります。この石碑は『野呂塚』とよばれています。徳川軍と最後まで戦い戦死してしまった野呂親子を慰霊(いれい=亡くなった方をまつりなぐさめること)するため、おおよそ100年ほど前、皆さんと同じように羽黒小学校で学んだ羽黒青年会の方たちによって整備されたものなのですよ。

次回は、羽黒駅から南へちょっと歩いたところに建つ『小弓の庄』についてお話します。
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