子どもの発言つなぐことを考える

子どもの発言をつなぐことがよくわからない、うまくできないということを聞きます。子どもの発言をつなぐことの意味と、その方法について少し考えてみたいと思います。

「他の考えはない?」と子どもの考えを次々に発表させてもつながりません。指名された子どもは自分の考えを発表して満足します。友だちの考えが自分と同じ考えだと、「言われた」と残念がります。「他の考えはない?」と聞かれるのでもう発表できないからです。友だちと自分の考えが違えば発表するチャンスがあります。そうとわかれば、友だちの話を聞くことよりも、自分の考えを発表することに気がいってしまいます。友だちの発表が終わるや否やすぐに挙手します。一方、自分の考えが持てない、よくわかっていない子どもはどうでしょう。友だちの考えを何とか理解しようとしても、理解する前に次々に違う意見が出てくるのでついていけなくなります。一見活発に見えても、子どもたちが互いの考えを理解し、深めてはいないのです。

では、どのようにすればいいのでしょうか。基本は同じ考えを大切にすることです(同じ考えを大切にする参照)。このとき、結論と根拠を意識するとつなぎやすくなります。

「○○だと思います」
「なるほど。どこでそう思ったの?」
「△△と書いてあるからです」
「なるほど。同じように○○だと思った人いる?」
「私も、○○だと思います」
「あなたは、どこでそう思ったの?」
「□□と書いてあるからです」
「なるほど。違うところをあげてくれたね」
・・・

同じ結論の子どもをつないで、その根拠を問うています。複数の根拠を挙げることで考えを深めていきます。
また、

「○○だと思います」
「なるほど。どこでそう思ったの?」
「△△と書いてあるからです」
「なるほど、△△と書いてあるから○○と思ったんだ。どう、△△からどんなことが言えそう?」
「私は、△△から◎◎だと考えました」
「なるほど、△△から◎◎とも考えられるんだ。みんなどう思う」
・・・

根拠となるものをつないでいます。同じことを根拠にしても違う見方をすることで考えを広げることができます

このようにつないでいくことで、考えを持てていなかった子どもも、「一つの結論についてその根拠を何度も提示される」「ある根拠となるものにこだわって話が進んでいく」ので、じっくり考えることができ理解しやすくなります。

「同じ」を意識してつないだ後に、「違い」を意識して他の考えを聞いていきます。先ほどの考えと「どこが違う」「なぜ違う」ということを意識して発表させます。

「じゃあ、○○とはちょっと違う考えだという人いる?」
「私は▽▽だと思います」
「なるほど、▽▽なんだ。それって○○とどこが違うの」
・・・

「私は▽▽だと思います」
「なるほど、▽▽なんだ。どこでそう考えたの?」
「◇◇と書いてあるからです」
「なるほど。さっきは、△△だから○○と考えたんだよね。じゃあ、△△と▽▽を比べてみようか」
・・・

「違い」を意識することで対立点が明確になり、話し合いが深まります。

このように、結論や根拠をつなぐことで、友だちの考えや意見に対してその根拠を意識し、自分の考えと比較するようになっていきます。友だちの考えや意見とかかわり合った発言を求められるので、自然と友だちの発言をしっかり聞くようになっていきます。自分の考えを持てなかった子どもも、発言と発言に関連があるのでじっくりと考えることができます。同じ考えの子ども、違う考えの子ども、自分の考えを持てない子ども、それぞれが互いの考えを共有していくことができます。子どもの発言をつなげるとはこういうことなのです。つなげることで、子ども同士が互いに影響し合い、考えを広げ深めることができるのです。

教師の説明は「無批判」で受け入れられる

友だちがせっかくよい意見を発表しているのに、教師の方を向いたままの子どもの姿をよく見かけます。こういう学級の多くは、子どもの発言の後、教師が正解・不正解を判断したり、子どもの発表をわかりやすく説明し直したりしています。子どもからすれば、不正解であれば聞いても無駄です。正解であれば教師が必ずもう一度わかりやすく説明するのですから、不十分な友だちの発言はやはり聞く必要はありません。教師がどのように判断するか、どういう説明をするか、それをしっかり見定めることの方が大切になります。自分が発表して教師に評価してもらうことに意味があって、友だちの発言を聞く意味はないのです。とはいえ、教師の話をきちんと聞くのであれば正しい知識は身につくからよいのでは、という考えもあります。どのように考えればよいのでしょうか。

教師の説明を中心に授業を進めることの問題は、教師の説明は「無批判」で受け入れられことです。子どもたちは、「教師は正しことを言う、だから教師の説明を理解すればいい」、そう考えているからです。同じことを話しても、友だちの言葉は正しいかどうかわかりません。無批判では受け入れません。ここが大切なのです。正しいかどうかの判断を教師がすれば、子どもたちはその判断を放棄してしまいす。考えなくなってしまうのです。このことが、将来にわたってどれほどマイナスになるか容易に想像がつくと思います。情報からその内容が正しいかどうか、自分にとってプラスになるのかといったことを判断する力がなければ社会に出た時に困ってしまいます。考える力、判断力をつけるために、教師ができるだけ説明しない、正解・不正解を判断しないことが大切になるのです。子どもの言葉で授業をつくることが大切である理由の一つです。

子どもが友だちの話を聞く必然をつくる(友だちの発言を聞く意欲を高める参照)。わからない子どもに寄り添って授業を進める(子どもの言葉で授業をつくるときに注意したいこと参照)。こういうことを大切にする必要があります。また、わざと間違えたりして、「教師が必ずしも正しいことを言うとは限らない」と子どもを揺さぶることも有効です。大切なこと、押さえたいことは、教師ではなく子どもが言う授業が理想です。子どもたちが結論や正解を効率よく学習しようとするのではなく、自分たちで間違いを修正し、足りないところを補いながら結論にたどり着く。そんな、過程を大切にした、子どもたちが考える授業を目指してほしいと思います。

うれしい報告

先日中学校で、学校訪問で代表授業をする3人の授業アドバイスをしました。その学校の教務主任から、授業者の感想と学校訪問での授業の報告が学校訪問の記録とともに送られてきました。アドバイスをした側としては、どのように受け取られたのか、彼らの授業にどのような変化があったかは知りたいところです。とてもうれしいことです。とはいえ、アドバイスを受けた側からすれば、手間もかかることですし、私の方からお願いできるようなことではありません。また、たとえ教務主任だからといっても、このようなことを先生方にお願いすることはそれほど簡単なことでないはずです。日ごろから、彼らに授業改善のアドバイスをしている、そしてそのことを彼らが肯定的にとらえている。教務主任が言うことは、自分たちにとってプラスになる。そう思うからこそ従ってくれるのです。

そのことは、3人の報告からも見てとれます。

その後何を意識して授業に臨んだかを報告してくれた教師は、

・子どもの様子をよく観察する
教室の斜め前から、子どもたちを見るとようすがよくわかります。今の時間が全員に有効なのかそうでないのか、理解できていない子がどれくらいいるのかなど、子どもの様子から知ることができます。まだうまく対応ができませんが、子どもが思った姿にならないときに、自分の言動を振り返ってみようと思います。

・しゃべりすぎない
どうしても、頭の中にある授業構成にそって子どもたちを動かそうとしてしまい、その結果、発言や発表の内容も知らず知らずのうちにこちらが誘導してしまいます。今は、過剰な説明はしないように心がけ、子どもたちに判断するように問いかけようとしていますが、反応がいまいちで、確認の仕方や意見の求め方にまだまだ戸惑いがあります。しかし、受け身の授業ではなく、全員が参加する(考える)授業をつくっていくためには、このことがとても重要であると感じています。いつか、「正誤の判断は子ども」ができる授業したいと思っています。

・評価を適切に
「ほめ言葉が少ない」と言われ授業を振り返ってみると、確かにほめていませんでした。一方的な授業をしていると、子どもをほめる場面が生まれません。まず、子どもが活躍できる場面を増やし、どんどんほめていきたいと思いました。また、何をどう頑張ればいいのかわかるようなほめ方を心がけることも気をつけたいことです。ほめ言葉のバリエーションを増やし、ほめられることを見つけるセンサーを磨き、これからもたくさん子ども達をほめていきたいと思いました。

このようなことを書いてくれました。前向きであることがよくわかります。

また、別の教師は学校訪問の授業を詳しく振り返り、子どもがとてもおもしろい考えを発表してくれた場面について、こんな言葉を残してくれました。

私もあせってしまい「すごい発見だね」という声がけしかできませんでした。生徒の言葉でつなぐことの難しさ、すぐにできることではないので、生徒の言葉をつないで生かせられるような授業作りをたくさんしていこうと思います。

ここにも、自分の授業を素直に振り返り、前向きに取り組もうとしている教師の姿があります。

もう1人の授業者も、授業検討会での同僚の意見を素直に受け止め、

自分では肩に力が入りすぎていたなと反省しました。どうしても「本時のねらい」を達成しなくてはという思いが強すぎました。しかし、よい勉強になりました。

と書いています。

彼らの資質はもちろんですが、教務主任始め、管理職や同僚の方がこういう前向きな気持ちになるようなかかわりをしているということです。この学校がよい方向に向かっている原動力がわかったように思います。この報告を受けて、私自身もとても前向きな気持ちになりました。ありがとうございました。

小学校で授業アドバイス

昨日は小学校で授業アドバイスと授業研究の助言をおこなってきました。

午前中2時間を使って全学級を参観させていただきました。事前に授業の流れや意識していることの資料もつくっていだき、充実した時間となりました。これだけ準備をいただいたにもかかわらず、少しの時間しか参観できなかったことが残念で、申し訳なく思いました。

全体的に授業規律を意識されている先生が多く、子どもたちは落ち着いていると感じました。しかし、子どもたちの表情や動きがやや硬いことが気になりました。教師の笑顔が少ないことと関係がありそうです。また、子どもの発表や行動に対してポジティブな評価が少ないことも影響しているように思われます。指示をする時、徹底させようという気持ちが強いためか、教師の表情も硬くなりがちです。そのため、子どもたちも指示されると瞬間緊張します。しかし、子どもたちが動き始めると教師が安心して次の行動に移るので、子どもたちの緊張も緩んでしまい、全員が指示に従えない場面も目にします。
そうではなく、笑顔で指示を出す。全員が指示に従うまで見守る。少し時間はかかりますが、こういうやり方にも挑戦してほしいと思いました。
早く動けた子どもは待たされることになりますので、「○○さん、速いね」とほめ、教師が認めていることを伝えます。最後の一人が指示に従ったときにその子にうなずいて見せて、笑顔で「全員○○できたね」と確認します。全員ができているのを確認しないで進んでいくと、自分が指示に従わなくても授業に影響がないと考えるからです。一方、指示に従わないと授業が進まなければ、自分の行動がみんなに影響することを知ります、教師が自分を待っていてくれることを知ります。自己有用感が出てくるのです。遅い子を待っていると時間がかかるからと「○○さんがまだだよ」と注意をしてネガティブな気持ちにさせるより、積極的に指示に従おうとさせていくことの方が結果としては速く指示が徹底するようになります。
指示が徹底されるまでの時間を速くしたければ、「何秒でできるかな」と時間を意識させればよいのです。「5、4、3、2、1」とカウントダウンするという方法もありますが、これはできて初めて評価されます。もちろん意図的に「にー、いーち」とカウントを遅くして必ず達成させることもできますが、カウントアップにすると、「○○秒でできたね。次は何秒でできるかな」「今日は△△秒だね。この前より速くなったね。進歩したね」と子どもたちの進歩を評価できます。この方法であれば目標も持たせやすく、子どもの努力を評価しやすいのです。

1年生の授業で、子どもたちがとても集中する瞬間を見ました。指名された子どもが正解を言った後、授業者がしばらく黙って様子を見たのです。子どもたちに緊張が走りました。「えっ、間違っていた?」「じゃ、答は?」、子どもたちが考えようとしていることがよくわかりました。すぐに教師が、正解、不正解を判断する。期待した答でなければ次の子どもを指名する。こういうやり方でなく、子どもが理解し、判断するための時間を与えることのよさがわかる場面でした。

特別支援学級では、授業者が子どもたちをとても温かく受け止めていました。笑顔を絶やさず、常に子どもを受容しているので子どもたちが安心してそこにいることができます。今年初めて特別支援を受け持った先生とは思えませんでした。
一人の子どもが足をバタバタさせて興奮状態になりました。どう対応するのだろうと心配になったのですが、にこやかに子どもを見つめ、落ち着くのを待ってから、子どもを自分に引き寄せました。落ち着くように声を掛けたり、体を押さえたりしそうな場面なのですが、ちゃんと待つことができていました。とてもよい対応を見せてもらいました。

子どもたちの表情や動きが硬いと言いましたが、子どもたちの潜在的な力を感じさせる場面も目にしました。子どもたちに個人追究させたあと、グループで考えさせる場面です。グループになるように指示があった後、行き詰まっていた子どもはすぐにグループでの活動に入りました。わかりたいという意欲が高まっていたのです。とてもよい姿でした。全体での友だちの説明も食い入るように聞いています。グループ活動に全員が参加することで、自分の課題となっていたのです。
おしかったのは、全体追究の場面で「説明できる人」と問いかけたことです。4人しか手が挙がりませんでした。あれだけしっかり話し合っていたのにです。あとで授業者にどうして4人しか手が挙がらなかったか聞いてみました。「自信がない、間違えて失敗したくない」とちゃんとわかっています。次からは、「どんなことを話した」「どこで困っていた」と問いかけてくれることと思います。
また、指名した子どもが説明しているときに、授業者も子どもと同様に発表者に注意を向けてしまいました。大切なのは、その説明を他の子どもが理解しているか、どこで反応したかをしっかり見ることです。説明にうなずいている子どもがいたのですが、その子どもを活かすことができませんでした。
1人目の説明を子どもたちが理解できていないようすなので、次の子を指名しました。教師が子どもに代わって説明をしないことはとても評価できます。しかし、ここも気をつけたいところなのです。子どもたちは1人目の説明を理解しようとしています。そこで続けて次の子どもを指名した時、違った考えが出てくるかもしれません。こうなると、聞いている子どもたちは混乱します。こういう場面は、「○○さんの説明で納得した人」と問いかけ、「どこで納得したか説明してくれる」と発表させる、「○○さんの考えを説明してくれる人」「助けてくれる人」と問いかける、というように、発表者の考えをつながなければ、子どもたちの理解は進んでいきません。
とはいえ、授業者が、子どもの活動、子どもの言葉をとても大切にしていることはよくわかります。子どもたちもそれに応えてよい姿を見せてくれました。次回訪問する時には子どもも教師もより成長した姿を見せてくれることと思います。

授業研究は2年目の教師の算数の授業でした。1年生の繰り上がりのある足し算でした。
授業を見てびっくりしました。以前見た同じ教師かと我が目を疑いました。まず子どもをよく見ています。板書しながらも、何度も振り返って子どもを見ています。指示の時も、子どもが全員うなずいているかよく見て確認しています。「早く手を挙げた○○さん」と言って指名するなど、子どもの行動に対してポジティブな評価をしようとしています。実物投影機を使って、子どもにブロックを操作しながら説明させる場面では、子どもの説明に余計な助けをせず、そのまま復唱します。教師が復唱することで、言葉が途切れていた子どもも安心して言葉を続けます。以前であれば、ここで授業者が自分で説明するところですが、続けて子どもを指名します。前の子どもと違う言葉が出てきたときに、「○○ははじめてできた」「新しい」といった言葉で、つけ足されたことポジティブに評価しています。子どもから加数のブロックを「分ける」という言葉が出るたびに必ず復唱して、意図的に印象付けようとしています。子どもから正解が出ても、正解という言葉は使いません。そのかわり、続けて子どもを指名します。「みんなそれでいい」と問いかけ、子どもたちがしっかりうなずいたのを確認して進めていきます。子どもに対して「ありがとう」という言葉も自然に出ます。子どもたちは落ち着いて授業に参加していました。また、9+3の計算で、「9に1をたして10、10に2をたして12」と話形を使って説明させる場面で、指名した子どもが「9に3をたして12」と答えてしまいました。授業者は一瞬凍りかけましたが、「9+3を計算してくれたんだね」と言って、問題の式の後に12と答を書きました。「そうじゃなくて、・・・」と修正しようとするところですが、しっかりと受容をしました。
以前はこういったことは、ほとんどできていませんでした。いったい何がこの先生をここまで変えたのかとても興味を持ちました。授業後、真っ先に聞いたところ、今回の授業研究に先立って、先輩方、特に教務主任にそれこそつきっきりでアドバイスをしていただいたということでした。この授業を見て一番感激し、喜んでいたのが教務主任だったことがなるほどとうなずけました。

もちろん課題もたくさんありました。いつも言っていることですが、授業がよくなればなるほど、課題もはっきり見えてくるからです。
何人か理解の遅い子どもがいました。彼らにも納得させようと頑張るのですが、少し時間を取られすぎました。個にかかわりすぎると全体を把握できなくなります。隣には面倒見のよい子を意図的に配置していたのですから、教師が常にかかわるのではなく、子ども同士のかかわりに少し任せて、全体のようすを見ることにもエネルギーを割くとよかったでしょう。
「9に3をたして12」への対応も、もうひと工夫ほしいところでした。フォローしたあと次の子どもを指名しましたが、最初に答えた子どもは、どうやら自分の答が教師の期待したものでなかったと気づいたようです。表情がさえませんでした。「12の10はどうやってつくったの?」「9に何をたして10になったの?」というような問い返しをして、この子自身に答えさせてほしいところでした。
また、教科の面でも、10の補数の押さえが弱い、子どもの思考の順番をきちんと押さえて進めていなかったなどの反省がいくつかありました。

教材研究に関しては、経験を積みながら日々学んでいけば力をつけることができます。しかし、子どもたちに向き合う姿勢は経験を積めば身につくものではありません。2年目でこのような姿勢を身につけたことは、とても素晴らしいことです。基本となる姿勢のよさが光る授業でした。

協議会では、この授業のよかったころをしっかりと挙げていただけました。教科面についても経験豊かな先輩から貴重な意見が出てきました。皆さんがこの授業から多くのことを学べたことと思います。

協議会終了後、無理を言って希望する方と個別にアドバイスする時間を設けていただきました。全員の方が希望していただいたと聞きとてもうれしく思いました。ところが、私が時間の配分をきちんとしなかったため、一部の先生にはせっかく希望いただいたのにお話する時間を取ることができませんでした。とても残念で、また申し訳ないことをしてしまいした。次回はこのようなことがないように、注意をしたいと思います。
たくさんの授業を見て、たくさん話をさせていただいた、充実した1日でした。多くの前向きな先生方と話ができたことに感謝です。次回の訪問が今から楽しみです。

中学校で授業アドバイス

昨日は、中学校で授業見学と授業アドバイスをおこなってきました。

廊下から授業を見ていて学年のようすの違いがおもしろく感じられました。
3年生はどの学級も授業に集中していました。進路意識も高まっているのでしょう。問題を解いたり、まとめたりといった個人作業でも非常によく集中していました。廊下から授業を見ている私たちに気づいても、すぐに自分の作業に戻ります。わからなければ男女を問わずまわりの友だちに聞くこともできます。子どもたちがよく育っているのがわかります。社会の授業では、最後に授業者が話をしている場面で、子どもがとても柔らかい表情でしっかり聞いている姿を見ることができました。この学校が目指している子どもの姿がよくわかる場面でした。

2年生は合唱コンクールをひかえての、担任による話し合いなどの事前の活動を見ましたが、学級による子どもたちのようすの差が大きいことに気づきました。私たちの姿に気づいて次々にこちらに注意を向け、それがなかなかおさまらない学級。一部の子どもだけが集中を失くしてこちらにずっと注意を向けている学級。すぐにおさまる学級。いろいろでした。中でもある学級の子どもたちは私たちにほとんど注意を向けず、自分の作業、友だちの話、担任の話に集中していました。しかも、硬い表情ではなく柔らかい表情でです。友だちと話し合う場面では、一生懸命自分の思いを友だちに説明しています。聞く側も身を乗り出して聞いています。自分の思いをしっかり受け止めてもらえた女生徒は、真っ先に手を挙げてみんなに話をしました。学級全体に安心感があふれています。いつまでもその場にいたいと思わせてくれる素敵な学級でした。ここにも、この学校が目指す子どもの姿がありました。

1年生は、良くも悪くも教師が何を求めるかでした。教師が話している場面でもほとんどの学級は子どもが板書を写していました。作業中に教師が補足説明をしても聞いていない子がたくさんいます。子どもたちの動きはバラバラな学級がほとんどです。表情も乏しく感じます。ところがある学級の社会の授業では、笑顔でしかも集中して授業者の話を聞いています。全く違う姿です。授業者は自分の言葉を子どもが理解できたか表情を見ながらじっくり間をとっています。教師の説明で子どもが受け身になりやすい場面ですが、ちゃんとコミュニケーションが取れています。後で授業者に聞いたところ、「この子どもたちは板書するとすぐに写そうとします。そこで、じっくり聞いて考えてもらいたいので板書せずに話をしました」ということでした。子どもに求める姿がはっきりしています。子どもは教師が求める姿を見せます。この学級の子どもが特別ではないのです。教師によって見せる姿を変えるのです。どのような姿を子どもに求めるか、もう1度学年全体で話し合ってほしいと思いました。

このほかにも素敵な子どもと先生の姿を見ることができました。
2年生の英語の時間、どのような内容かはよくわかりませんが、カードを使ったグループでの活動場面でした。一人の女生徒が仲間に入れずにじっとしています。この子はやりたくないのだろうか。気になって観察しているとちょっとカードに手を触れました。が、すぐに離します。どうやら、参加はしたいのだが内容がわからない、きっかけがつかめない、そんな感じです。少し間をおいて授業者がこの子に気づきました。すぐにその場へ行き少し話をして、隣の子どもにも声をかけました。そのあと、すぐに2人はペアで活動を始めました。子どもの困ったにうまく寄り添い、子ども同士をつないだ教師の動きでした。

3年生の数学の時間です。授業の開始から参加できない女生徒が一人いました。この子はやる気がないのだろうか。いつ授業に参加できるのだろうか。気になります。最初の復習の間は集中できていませんでした。しかし、次の練習の時に隣の男子の手元をちらちら見ています。どうやらその男子が解き終わったのでしょう。教えてくれるように頼んで説明をしてもらいました。その後は、教師の説明もしっかり聞いて、授業に参加し始めました。やる気はあったのですが、わからない、わかるきっかけがなかっただけだったようです。

子どもたちが授業に参加しないのは、やる気がないからだとは限りません。やる気がないと頭から決めてかからずに、子どもが参加できるきっかけ、手立てを考える必要があります。子どもの人間関係ができていれば、友だちとかかわる時間を与えるだけでも変わります。このことをあらためて気づかせてくれる場面でした。

授業アドバイスは経験3年目と2年目の数学の授業でした。1つは、3年の平行線で区切られた三角形の辺、線分の比の問題の練習。もう1つは1年の方程式の文章題への応用でした。
おもしろいことに2人の抱える課題はほとんど同じでした。授業がわかった子どもの視点で進んでいることです。比の問題では、わかった子に○:○=○:○という式を発表させて、それが成り立つことを確認し解いていきます。解答としてはそれでよいかもしれません。しかし、数学の問題を解けるようになることは、解答に納得することではありません。自分で解くためには、どの線分とどの線分に注目すればよいかを見つけることが1番大切です。この部分がすっぽり抜け落ちているのです。答案には書かれませんが、値がわかっている線分と求める線分で対応を見つける作業が最初にあるのです。同様のことが方程式の応用でもありました。食塩水の濃度の問題で、この塩の量とこの塩の量が等しいという説明からスタートしているのです。問題の中で等しいものを見つけなければ方程式は使えません。逆に等しい関係が見つかるから方程式が使えるのです。ここを意識して問題に取り組まなければ解けるようにはなりません。「濃度の問題は、・・・」「速さの問題は・・・」といった言葉を使うことも気になります。パターンで覚えなさいと言っているようなものです。これでは見たことのない問題は解けません。バリエーションが劇的に増える高校の数学ではつまずいてしまいます。

ところが、どちらの学級も子どもたちは実によい動きをします。問題を解くとき、わからない子どもは自分から友だちのノートを覗きこんだり、「ぜんぜんわからん」と聞いたりします。わからないことを隠したりしません。実によい姿勢です。いたるところで子どもがかかわり合っています。授業者が、子ども同士相談することを肯定的にとらえている証拠です。にもかかわらず、発表場面では、「できた人」と聞いてしまうのです。するとあまり手が挙がりません。かなりの数の子どもたちが解いているのにです。結局、挙手した子を指名して授業が進んでいってしまうのです。何ともったいないことでしょう。2人に聞いてみました。

「なぜ、手が上がらないのかな?」
「自分の答えに自信がないから」
「間違って、認めてもらえなかったら嫌だから」

うれしいことに、ちゃんとわかっています。そこに気づければ授業を変えることができます。

「どこで困ったか、教えてくれる?」
「何をやったか聞かせて?」
「どんなことを相談した?」
「だれの話でわかった?」
・・・

相談できる子どもたちなのですから、その内容を共有化すればいいのです。子どもたちの「困った」に寄り添えばいいだけです。友だちに「わからない」と言える子どもを育てるという、一番難しいところをクリアできているのです。ここからはそれほど難しくありません。きっと授業が変わってくれることと思います。

また、2年目の教師の板書は1年目よりも進化しています。色チョークを使ったり、式と式の間を埋める言葉が書かれたりするようになっています。次のステップは、何を強調するか、どんな言葉で行間を埋めるかです。式と式の間に書かれていた言葉は、「100倍」といった、何をしたかでした。目的と根拠がないのです。

「分数は計算が面倒だ」→「何がじゃま」→「分母」→「分母がなければいいな」→「分母とおなじ数を掛ければ消える」→「掛けていいの?」→「『方程式』は『両辺』に『同じ』ものを掛けてもいい」→「これは『方程式』だから『両辺』を100倍しよう」

こういう思考が働いています。これをどこかに残すのです。いつもこんなことを書く必要はありません。しかし、このことを全員が自分のものとするまでは、何らかの形で残さなければいけないのです。何をしたかしか残さなければ、「分数は分母を払う」と機械的に覚えてしまいます。式の変形で分母を勝手にはらったり、一方の辺にしか分数がなければその辺にしか数をかけなかったりといった間違いにつながります。こういうことを意識した板書に変わってほしいのです。

長時間の話になりましたが、まだ若い教科主任も、研修担当の先生もずっとつき合ってくれました。また、授業アドバイスに先立って、教務主任と研修担当の先生とも、彼ら若手をどう育てるかについて1時間ほど話をすることができました。若手を育てることにこれだけのエネルギーを使ってくれる学校はそれほど多くはありません。このような学校に勤務できる幸せを彼らもわかってくれると思います。まだまだこれからの先生方です。きっと、新しい1歩を踏み出してくれることと思います。

この日も、子どもたちと先生方の素敵な姿に出会え、とてもよい時間を過ごすことができました。いつものことですが、またたくさんのことを学ぶことができました。子どもたちと先生方に感謝です。

公開授業で考える

昨日は、フューチャースクールの公開授業に出かけました。1学期の終わりに授業を見せていただき、夏休みにお話をさせていただいた小学校です。ICT以前の学習規律について2学期は意識されたと聞いていました。今回どのような変化があるか楽しみでした。

各学年1学級ずつ1時間の公開でした。研究の性格上、1人1端末を活かすことが求められます。実はこのことが授業をつくる上で大きな制約になっていました。まだまだタブレット端末の機能、ソフトの完成度が低いからです。その中での授業づくりは厳しいものがあったと想像します。残念ながら、どの授業もその教科、単元のねらいを達成することとICTの活用が連動していないように感じました。ICTを活用しなければならないため授業のねらいがおかしくなっていると感じるものもあれば、ICTを活用する必然性を感じない場面もたくさんありました。象徴的なことがありました。電子黒板を使っての子どもの発表場面です。突然電子黒板の調子がおかしくなりました。授業者はしばらく復旧に努めましたが、「そんなときは、これを使って」と黒板に貼った写真を利用して発表するように指示しました。用意周到です。トラブルに慣れているようです。さて、この後どうなったかというと、私の目には電子黒板を使わなくてもこれで十分に思えました。電子黒板を使う必然性がなかったということです。

学習規律については、立て直すまではいっていませんでした。意識したのは2学期になってからですから時間が足りません。しかし、意識続けることで来年度には必ず結果が出るはずです。変化がないからといってあきらめないでほしいと思います。

また、「ICTを利活用した協働学習」ということがテーマとしてあげられていましたが、ICT以前に「協働学習」について根本的に先生方が学ぶ必要があるように感じました。1台のパソコンを前にグループの子どもたちが顔を寄せて作業しています。子どもたちに笑顔が見られ、一見学習が成立しているように見えます。しかし、どうもキーボードを操作する子どもが主導権を握る傾向にあります。子どもたちからでる指摘も、個々に思いついたことを言うレベルで、それがグループ全体に共有化され検討される場面はまずありません。1台のパソコンを使って、グループで1つのものをつくるこの形態では、「協同学習」を成立させることは難しいのは確かです(機器やソフトの問題もとても大きい)。しかし、そもそも発表やまとめることが目的化し、協同作業の結果はどういうものになればいいのかというゴールが不明確で、互いの意見を検討し判断するための根拠を持たないまま作業が進んでいるのです。「協働学習」を進めるにおいて、ICTのあるなしにかかわらず注意しなければならないことです。ICTがあれば「協働学習」が成立するわけではありません。ICTがなくても立派に「協働学習」が成立する子どもたちと教師であって初めてICTが活きるのです。

授業公開後の実践発表では、ICTは「協働学習」に有効であるとのことでしたが、「ここに気をつける」「こうすればうまくいく」という具体的なものは提示されませんでした。公開授業からICTの活用が有効な場面を見つけることが私はできませんでしたので、根拠が明確に示されなかったことは残念に思いました。

全体講演は岐阜聖徳大学教授石原一彦先生の「未来の扉を開くフューチャースクール」でした。その中でICTが学習の道具から学習環境へと変化していくということが示されました。その通りだと思います。教室の中に従来の黒板に加えて電子黒板や実物投影装置が、子どもたちの手元にノートや教科書に加えて(代わって?)タブレット端末を通じてデジタル教科書やネット環境が提供されるようになることは間違いないでしょう。しかし、残念なことにここでもその環境を具体的に活かす方法については語られませんでした。あるフューチャースクールでは資料集を買わなくなったそうです。その事実に対しても、今までの資料集を捨てるに至る根拠は示されませんでした。ネットは目的を持って調べるときにはとても有効です。しかし、あまりに多くの情報の中には、信憑性のないゴミのようなものもたくさんあります。情報選択能力がなければ使いこなせません。資料集という限られた世界の中から情報を収集選択するという経験も前段階として重要に思われます。また、資料集を読むという行為も子どもの学びにとってはとても大切なことです。単純にネット環境で代替できるものではないように思います。フューチャースクールは名前の通り、これからの学校の姿を模索する事業です。だからこそ、その環境だけでなく、その環境を活かすために必要なことを示す必要があるはずです。
今回の公開授業と講演からはフューチャースクールの姿は私には見えてきませんでした。

このように書くと、この学校での研究は意味のないもののように思えるかもしれません。そうではないのです。今までICTを特別に研究していなかったごく普通の学校に未来の環境(主にハードですが)を持ちこんだ時に何が起こるかを先生方が身を持って示してくれたのです。当り前のことですが、どんなに素晴らしい環境があっても、それだけで授業が成立するわけではありません。学ぶ姿勢を持った子ども、教科知識と指導技術を持った教師があって初めてその環境が活かされるのです。あらためて、そのことを教えてくれました。また、この学校で使われているハードもソフトも、以前教育ソフトの開発に携わっていたものからすれば、とても教育のことがわかっている方が開発したものとは思えません。そのことは、先生方が身を持って感じているはずです。その不満や問題点をどんどん挙げることが、フューチャースクールに求められる真の環境をつくることにつながっていきます。フューチャースクール事業は3年目の今年で終わりです。予算的には苦しいものがあると思います。しかし、ここで止まらずに進み続けることを期待します。

この学校の子どもたちと先生方は、新しい環境に適応するために多くのエネルギーを割いてきました。その労が報われるのはこれからです。ICTを使わなければいけないという頸木から解放されて、もう一度授業の根本を見直してください。ICTにとらわれずもう一度目指す授業の姿を描き直してください。まず授業を成立させる基礎基本をしっかり押さえてください。必要な場面でICTを利用できるスキルは子どもも先生も身についています。本当に必要とされる場面、活かされる場面に絞って使えば、ICTは大きな力を発揮するはずです。それこそが、フューチャースクールだと思います。

公開授業と全体会の間、とても多くのことを考えました。日本の教育の未来の姿を考えるとてもよい機会となりました。ありがとうございました。これまでの先生方の努力に敬意を表するとともに、これからに大きく期待したいと思います。

若い教師と一緒に授業を見ることにこだわる理由

ここ数年、初任者や若手の授業アドバイスを頼まれることが増えてきています。アドバイスを頼まれたときに、彼らの授業を見せてもらう前に、一緒に他の先生の授業を見る機会をできるだけ持てるようにお願いしています。なぜこのことにこだわるのか、その理由を少し述べたいと思います。

経験の浅い教師の授業アドバイスをしていて、彼らが授業の場面を再現できないことに気づきました。「この場面で子どもがこういったよね。そのとき、あなたはどういったか覚えている?」「あなたの発問に対して、○○さんが反応したんだけどどんな反応だった?」と問いかけても、かなりの確率で覚えていないのです。そういう場面があったことはなんとなく覚えているのですが、子どもがどういう状況であったか、それに対して自分が何を言ったか、子どもがどういう反応をしたか再現できないのです。力のある教師だとどの場面を聞いても、そのときの状況から自分の発言・対応の意図まで完璧に再現できます。アドバイスをする立場から言えばこの差はとてつもなく大きいのです。
「この場面では、・・・だから・・・こう対応すべき」と説明しても、自分の中で場面を明確に再現できなければ実感を伴いません。また、場面認識と対応は連動します。「子どもが混乱した」「子どもの集中力が切れた」場面だったからこうすべきだと対応をいくら教えても、実際にそのことを認識できないのであれば活かすことはできません。せっかく授業を見て具体的な場面でアドバイスをしようとしても、これでは本を読むことと変わらないのです。

そこで、一緒に授業を見ることにしたのです。具体的には子どもたちのようすを見て、今、子どもに何が起こっているのか考えさせたり、解説したりするのです。

「今、子どもたちは集中している?」
「集中していない子どもはいる?」
「あの子はわからなくて手遊びしているんだろうか、それともできてしまったからだろうか?」
「今、あの子が笑顔になったけど、どうしてだと思う?」
「あの子は顔が上がらないけど、いつ上がると思う?」
・・・

子どもたちの見せる姿から、実に多くの情報が入ってくることに気づかせます。こうすることで、自分の授業ではどうなのか気になりだすのです。よく「子どもを見なさい」とアドバイスしますが、具体的に何をどう見るかを伝えないと、漫然と眺めているだけなのです。(子どもの「何」を見る参照)
少なくとも一度この経験をした後であれば、子どもがどういう状況かを以前よりは確実に意識することができます。自分の授業を振り返ったときにその状況を再現できなくても、こういう状況だったと伝えれば、授業を見た経験から「ああ、ああいう場面だったんだな」とある程度具体的に想像ができるのです。互いに共通の場面認識ができるので、アドバイスが理解されやすくなります。また、子どもたちのようすが気になりだせば、よい場面に出合えば再現できるように意識しますし、気になる場面があれば修正しようとするようになります。毎日の授業の中で自然に工夫をするようになります。

若い教師はいい授業を見たことがない、あこがれる教師、目標とする教師を持っていないと言われます。たしかにこれはとても大切な視点ですが、よい授業を見たり、憧れるような教師に出会ったりする機会をつくることは現実的になかなか難しいことでもあります。しかし、授業中の子どもたちのようすを客観的に見る機会はいくらでもつくることができます。意識することで、毎日接する子どもたちから多くのことを学べます。優れた教師から学ぶ以外にも、目の前の子どもから学ぶという方法もあるのです。一緒に授業を見るというのはそのことに気づいてもらうきっかけでもあるのです。若い教師と一緒に授業を見ることに私がこだわるのは、このような理由があるからなのです。

愛される学校づくり研究会に参加

先週末は愛される学校づくり研究会に参加してきました。今回は、前半に私の方から「最近の授業参観、指導から思うこと」と題して、お話をさせていただきました。
初任者、若手の授業を見て感じること、校内の研修をうまく活かして学校を変えるポイント、あとトピック的なことを話題にしました。ほとんどはこの日記で触れてきたことですが、事例から共通して感じることまとめてみました。

初任者に共通して感じることに、アドバイスを素直に受け入れる姿勢を見せるのですが、なかなかそれを実行に移せないことがあります。指摘されていることに具体的なイメージが持てていないからなのでしょうか。自分が受けてきた授業以外に手本とすべき授業を持っていないのかもしれません。また、子どもの視点でしか授業を見てこなかったため、よい授業の評価がずれているのかもしれません。子どもたちに「うける」授業を目指しているように感じる教師に多く出会います。よい授業を見ることとその授業のどこがよいかを知らせることが必要に思えます。そうであれば、初任者指導の中にこのような要素をしっかり入れることが求められます。あこがれの教師、授業像が持てるようなプログラムが必要なのです。

それに対して、経験年数3年目くらいの教師はぐっと伸びる率が高くなります。伸びる方の条件は、指摘を「素直」に受け入れて実行できることです。「素直」に受け入れて実行するということは、性格が「素直」ということもあるのですが、自分の授業の課題が見えていて、それなりに悩んでいることが要因として大きいように感じます。壁にぶつかり具体的にどうすればいいのか困っているため、指摘されたことをとりあえず試してみようするのです。3年経っても変わらない方は、自分ではとりあえず授業はできていると思っている、問題を感じていない方です。指摘されても必然性、緊急性を感じないために、それよりは部活動や、生活指導などの目先の仕事にエネルギーを使ってしまうのです。目指すべき授業像が明確でないため、自分のいたらなさに気づけないのです。個人で持てないのですから、組織として全員が共通して持てるようにしていかないとこういう方は変化していきません。学校として目指す授業像の具体化と共有が大切になるのです。

このような点からも、学校の研修体制はとても大切になります。効果的な研修を進めるためには戦略性が求められます。まず何を変えるべきかを明確にし、そのための何をするのかのステップを明らかにするのです。管理職や教務主任が明確な方向性を持って継続的に研修を進めていくことが必要だということです。とりあえず年何回かの研修のコマを埋めていくといった発想では、学校はよくなってはいきません。系統的、継続的な研修で、学校の進歩が見える形にしていかなければ、先生方の意欲も続きません。うまくいく学校に共通しているのが、管理職や教務主任が先生方の授業をよく見ていることです。リーダーが実態を知り、先生方の変容をポジティブに評価し先生方の進歩を見える化することが基本になります。

トピックとして、3つのことを話しました。
小規模校では、教師が個別指導に頑張りすぎてしまうこと。指示が通るので、指示が増えてしまい子どもの自主性が損なわれてしまうこと。これらのことは、少人数授業にもつながること。
若手だけではなく、ベテランの先生こそちょっとしたことで大きく進歩すること。
TTに関連して、最低限その日の授業のポイントや子どもの何を見るかを事前に共有しておいてほしいこと。また、子どもから出てほしい意見や考え、間違いが出なかったら、T2が役者になって子どもの代わりに発言するといった役割を明確にしてほしいこと。

後半は、来年予定されているフォーラムの午前の企画についての打ち合わせをおこないました。今回の企画は、校務の情報化を会員による寸劇で紹介しようというものです。言うのは簡単ですが、どのようなものにしていけばよいか手探り状態です。「できるかしら」としり込みしそうな企画ですが、さすがこの会のメンバーは違います。皆さん前向きに取り組もうとされます。当日は5つのグループに分かれての発表の予定ですが、それぞれの個性が感じられるおもしろい発表になることと思います。常に何か新しいことをやらなければ気のすまない某先生の思惑通りにことが進んでいくようにも見えますが、さて、この先どんなドラマが待っているのか!? 楽しみでもあり、ちょっとドキドキでもあります。当事者でなければ味わえない刺激に満ちた会です。このような会のメンバーであることに感謝です。

今、この記事をアップしようとしたころ、会員のメーリングリストに、今回の感想をブログにアップしたとの報告がありました。早速読ませていただきました。このように感想をいただけるのは、とてもありがたく、うれしいことです。具体的でありませんでしたが、私の考えに反論したいことがあったようにも書かれていました。ますますうれしくなりました。次回お会いしたときにこの話を聞かせていただくのがとても楽しみです。意見をいただければ必ず学びにつながります。このような反応をいただけるのもこの会の素晴らしいところです。学びを豊かにしてくれるメンバーと出会える素敵な会です。

子どもの言葉で授業をつくるときに注意したいこと

子どもの言葉で授業をつくるということがよく言われます。子どもの言葉足らずの発言を問い返し、整理し、つないでいくことで共有化し、深め、誰もがわかる授業を目指していきます。ここで注意してほしいことは、「わかった」子どもを中心に進めすぎないということです。このことについて少し述べたいと思います。

まず「わかった」子どもを中心にした授業を考えてみましょう。
多くの場合、「わかった」子どもを指名して答を発表させます。聞いている子どもは、自分と同じ答えであればとりあえず安心します。違った答えだとちょっと不安になります。ここで教師が「正解」と言ってしまえば、違った答えの子どもは間違えたので修正しようとします。正解だった子どもたちは、正解だったので自分の出番はとりあえず終わったと考えます。引き続き教師が説明をしてしまえば、正解だった子どもの集中力は下がっていきます。
そこで、子どもの言葉で授業をつくろうとするのであれば、「誰か説明してくれるかな?」と子どもたちに問いかけることになります。正解だった子どもの役割が出てきます。彼らの参加意欲はあがっていきます。また、友だちの説明は教師の説明と違って正しいかどうかわかりません。教師の説明を正しいと信じて無批判に聞くのと違って、より考えて聞くことになります。これは子どもの言葉で授業をつくるよさです。しかし、間違えた子どもにとっては、教師の説明が友だちの説明に変わっただけです。受け身の状態が続きます。
意図的に「今の説明で納得した人」と問いかけ、友だちの話を聞いてわかった子どもを活躍させることが必要になります。しかし、正しい説明を理解して初めて積極的に参加できるのです。このやり方でも、わかるまではやはり受け身の状態が続くのです。

では、正解が出たときに「正解」と言わなければどうでしょうか。同じ答えであっても違っていても、子どもの緊張状態は続きます。間違った答の子どもにも発言の機会はあります。互いに根拠を述べさせながら、ときどき「今の説明で考えが変わった人」と問いかけることで、子どもたち自身で根拠を持って正解にたどり着けます。これで十分に思えます。

しかし、自分の考えや結論を持てなかった子どもはどうでしょうか? わかった子どもの説明は、往々にしてわからない子どもがつまずいている部分を飛び越えた説明になりがちです。わからない子どもはそのギャップをなかなか埋めることができません。理解しようとしてもその足場がないため「わからない」状態が続いていきます。話についていけないために、途中で集中力が切れてしまうのです。「わかる」側から話が進むと、「わからない」側は自分がわかる話になるまで受け身の状態が続いてしまうのです。そうならないためには、「わからない」子どもの側から授業を進める必要があります。(「わからないところ」から始める参照)
「わからない」から出発することで、「わからない」子どもが受け身にならずに最初から参加することができるのです。「わかっている」子どもの役割も正解を「答える、説明する」のではなく、友だちがわかるのを「助ける」ことになります。一つレベルが上がるのです。

子どもたちが全員、自分の答や考えを持てているのかどうかといった状況によって、授業をどう進めるかは変わってきます。少なくとも、手がついていない子どもがいるような状態では、「わからない」子どもを中心に進めることを考えてほしいと思います。

「鍛える」と「学び合い」

「鍛える」という言葉を聞いて思い浮かぶのが野口芳宏先生です。「教師の読み以上の授業はできない」という言葉からもわかるように、鍛える側の教師にも学ぶ姿勢を厳しく求められる方です。「学び合い」の対極にあるように評されることもあります。子ども同士で学び合う授業では、子どもの言葉をつないで考えを深めていくことが教師の大きな仕事になります。「鍛える」と縁遠いように思われています。最近ある中学校がこの「鍛える」と「学び合い」をつないで「鍛える学び合う学び」を提唱しました。「鍛える」、「学び合い」をそれぞれ意識している方、双方ともに違和感を感じるかもしれません。しかし、以前から私は両者が互いに対極にあるとは思っていませんでした。むしろ互いに必要とされる要素は変わらないと思ってきました。この学校の思いとは異なるものかもしれませんが、私の考えを少し述べたいと思います。

「鍛える」というのは教師が一方的に教え込むことではありません。大切なのは、子どもに考えさせ、向上的な変容をはかることです。しかし、教師が課題を提示して「考えろ」で子どもが考えるわけではありません。子どもの意見を重ねていけば、考えが「深まる」わけではありません。野口先生の言葉を借りれば、子どもが考えるための教材の準備、課題の提示といった「計画の論理」、子どもの反応、意見、考えに対してどう対応するかという「状況の論理」が必要になります。

一方「学び合い」でも、ことは同じです。子どもがたちが学ぶための課題がいい加減なものであれば、一生懸命話し合っても何も身につきません。互いに聞き合う姿勢が身についていても(これだって、教師がしっかり指導し、鍛えなければ身につきません)、学びは少ないのです。「・・・について」という課題だけで子どもがしっかりと学ぶ授業に出会ったこともあります。しかし、それまでに色々な場面で「・・・について」考え、学ぶためにはどうすればよいか、どのようなことが大切なのか、教師が直接指導や活動の評価をしたり、子ども同士で互いに評価し合ったりすることで鍛えているからこそ、抽象的な課題でも子どもたちは学び合えるのです。
「学び合い」を意識した授業をたくさん見ていますが、子ども同士の関係がよく、互いに聞き合うことができていても、教師の教材研究不足で課題がいい加減だったり、何を学ぶのかがはっきりしなかったりで、野口先生のおっしゃる「活動あって学びなし」という状態であることが多いのです。子どもが「学ぶ」ためには教師の提示する課題はとても重要です。しかし、「学び合い」では、まず子どもたちの人間関係をつくり、「学ぶ姿勢」「学び方」を身につけさせることが基本となります。その基本ができたところで止まってしまっていることが多いのです。その次の段階である、子どもたちにより質の高い「学び」を求めることは、「鍛える」ということとつながるのです。子どもたちが学ぶための状況のつくり方、ステップが違うだけなのです。
「一人残らず」学びに参加することを学び合いでは大切にしますが、野口先生も、「○か×か?」自分の立場をはっきりさせるために全員に書かせる、小刻みにノートに書かせるといったことで全員が学習に主体的に参加させることをとても大切にされています。子どもが学ぶ主体であることには変わりありません。
「学び合い」では、子どもの考えをどう受け止め、他の子どもにどうつなぐか、返すかといったことが大切になります。たとえ子ども同士で考えを深めるのであっても、教師の働きかけは絶対必要なのです(これを否定する学び合いを提唱される方がいますが、それについてはまた別の機会に)。たとえ子ども同士の「学び合い」であっても、授業を成立させるための重要な要素が教師であることは間違いないのです。野口先生の「状況の論理」と大きな違いを感じません。せいぜい、教師が強く迫ることをするのか、できるだけ子ども自身が聞き合うようにするかの程度の差だと思います(この違いが大きいと言われればそうかもしれませんが、教師の判断力がとても大切であることは認めていただけると思います)。「鍛える」であろうが「学び合い」であろうが教科力、教材把握力といった教師の力量が大切であることは変わりないのです。教師も鍛えられなければならないのです。

「学び合い」は比較的経験の浅い教師でも、適切な課題を準備できればそれなりの授業になっていきます。ある意味形だからです。ある程度のつなぎができれば、子どもたちで考えを深めていくこともできます。しかし、子どもたちが大きく飛躍するような課題をつくりだす、子どもたちの気づきや学びを大きくジャンプさせるためには高い教科力が求められます。ここからは、本当に長く地道な積み重ねが必要なのです。

学び合いを進めたある教育長の言葉が思い出されます。

子ども同士の関係がよく、互いに聞き合う、落ち着いた教室をつくることがゴールではない。最低保障だ。ここまでは、名人でなくてもできる。

だれしも野口先生のような名人になれるわけではありません。しかし、目指すことはできます。そのゴールは、子どもたちに「学ぶ力」をつけることと、その結果である「学力」をつけることができる教師となることです。そのために何が必要かを「鍛える」と「学び合い」の2つの言葉が教えてくれるように思います。

子どもに自信を持たせる!?

授業中に子どもの挙手が少ない。特定の子どもしか発言しないというときによく先生方から聞かれる言葉が、「子どもに自信を持たせる」です。自分の考えや答を持っているのに挙手・発言ができないのは子どもに自信がないためだと考えているからです。その根底には、間違えて恥ずかしい思いをしたくないという子どもの気持ちがあります。教師は子どもの発言を引き出すためには「自信を持たせる」ことを意識すればよいのでしょうか。このことについて考えてみたいと思います。

自信を持たせるために、あらかじめ机間指導で○をつけたり、「よい考えだから発表してね」と教師が働きかけるといったかかわりが求められます。(子どもの挙手を増やすには参照)
ここで考えてほしいことは、だれもが発言できるようにするためには、全員が○にならなればいけないということです。もし、○がもらえない子どもがいれば、やはりその子は発言できません。ほとんどの子どもの手が挙がっているのですから、傷はより深くなります。また、○をもらって挙手して答を言えても、その理由を問われると言葉に詰まってしまうことがあります。せっかく正解しても、ダメだったと自信をなくすことにつながります。こういったことを忘れないでほしいのです。
もう一つ注意しなければいけないのは、正解しか発表されなくなってしまうことです。ますます自信がなければ発言できなくなってしまいます。間違いが発表されることで考えが深まることもあります。異なる答えが出てどちらが正しいか話し合うことで学び合えます。間違いが発表されることは大切なことなのです。

ここで少し発想を変えてみてください。「自信を持たせる」のではなく、「自信がなく」ても発言できるようにするのです。教師が正解を求めない。間違いでも「なるほど」と認めて、子ども自身で間違いを修正する機会を与える。発言すればかならずポジティブに評価されて終わる。間違いをもとにより深く考える。こういう経験を積ませ、間違いは恥ずかしいことではないと気づかせるのです。(子どもの発言を引き出すには参照)
とはいえ、自分の考えを持てなかったり、まったくわからなければやはり発言はできません。ペアやグループで友だちの考えを聞いて、その中から自分が納得する考えを選び自分のものとしていく。「わからないから教えて」と友だちに聞く。こういう活動も必要です。(子どもの発言量を増やす参照)
また、「わかったこと」を聞くのではなく、「わからないこと」「困っていること」を聞くということも大切です。こうすれば、わからない子どもが発言しやすくなります。子どもの「困った感」に寄り添うことができます。しかし、「わからないこと」「困っていること」と聞いても発言するのには勇気がいります。「わからないこと」をバカにしない学級の雰囲気が必要です。また、教師は首をかしげたといった子どものようすをとらえ、「今、首をかしげてくれたね。反応してくれたね。ありがとう。何か困ったことない」と問いかけ、挙手できない子どもが発言するきっかけをつくるような働きかけも意識しなければなりません。(子どもに寄り添う「わからないところ」から始める参照)

「子どもに自信を持たせる」ことは大切なことですが、すべての子どもに自信を持たせることは簡単なことではありません。「自信がなく」ても発言できる、参加できる、学べるような働きかけも意識していただけたらと思います。

小学校で授業アドバイス(長文)

昨日は小学校で、授業アドバイスと授業研究での助言をおこなってきました。初任者、2年目、3年目の教師の授業でした。

初任者の授業は、2年生の算数でした。かけ算の定義、何のいくつ分をもとに式をつくり、その計算を足し算を使って求める場面でした。例題は箱を4つを重ねた高さを求める問題でした。そこで、実際にティッシュペーパーの箱を持ってきて子どもたちに見せることで問題把握させようとしました。しかし、箱の高さはどの部分か、箱を重ねて求めるのはどこかを示すだけで、すぐにかけ算の式を書くように指示しました。かけ算になることは確認していません。教科書が例題に箱を選んでいる理由は、箱を操作することでかけ算が足し算で計算ができることを理解しやすいからです。その意味をわかっていませんでした。子どもたちに指示をするときに式だけであることを強調しました。式を書けば答を書きたくなります。九九をすでに知っている子、計算方法を意識せずに答がわかる子もいます。多くの子どもが既に答を出していました。子どもたちに式で止める必然性がないからです。続いて説明もなしに足し算で計算するように指示します。何で足し算なければならないのか、何を足し算すればいいのかわからない子どもがたくさんいました。
箱を操作しながら、1つの高さの4つ分が求める高さになることを押さえる。1つずつ積み重ねながら高さを足していけば求められることに気づかせる。子どもたちとこういうやり取りが必要だったのです。結局、子どもたちは指示に従って作業するだけで思考がうながされる場面はありませんでした。
子どもたちが答を発表した後、授業者はさかんに「どうして」とたずねます。しかし、根拠となるものを意識する場面がなかったためうまく答えられません。かけ算の定義から2つの要素、何の(同じものが)いくつ分(いくつある)を明確にすることが必要だときちんと押さえられていなかったからです。
決定的だったのは、式でかけ算の順序が違っていた子どもの発表があったときです。教師がどちらがよいか問いかけたときに、ある子どもが順番を入れ替えても答が同じだからどちらでもよいと答えました。子どもの中から「答は違う」という声もありました。子どもたちは混乱し始めました。授業者はその声を無視して「先生はどちらかに決めてほしい」と返しました。「どちらでもよい」といった子どもは結果的に自分の意見が否定されたのでその後授業に参加しません。他の子どもも入れ替えても答が同じなのか違うのか、そもそもなぜこのことを考えなければいけないのかわかりません。しかも、教師が一方的に説明しだしたのでついていけずに、結局最後まで集中は戻りませんでした。

授業後のアドバイスでは、まず子どもたちどうなってほしいのかをたずねました。授業者は、「しゃべる」と答えました。それはどういうことか、具体的に聞いていってもなかなかシャープにはなっていきません。「どのような場面」で、「どのようなこと」を、「だれ」と「どのよう」にしゃべるかを具体的にイメージできていないのです。ただ、ばくぜんと思いついたにすぎないのです。したがって、授業中にそのような場面をつくる手段・方法は考えられません。思うだけで実現はしないのです。また、「なるほど」と受容する、できている子を「ほめて」よい行動を広げるといったこともするのですが、たまたま目についたとき、思い出したときにするだけで、常に意識してできているわけではありません。彼なり勉強はしているのでしょうが、それは「つまみ食い」状態であることを指摘しました。いろいろとやってみることもよいのですが、とりあえず何か一つのことを決めてそれを徹底するようにお願いしました。ありがたいことに、大変素直に受け止めてくれたようです。まだまだこれからの先生です。あせらずに、じっくりと授業に向き合ってほしいと思います。

3年目の先生の授業は、5年生の算数の分数の大小の授業でした。授業から伝わってくるのは子どもたちに考えさせたいという思いです。できるだけ子どもの発言で授業を進めていこうとしていました。とても好感が持てるものです。目指すものが明確なので問題点もはっきりします。一人の子どもの発言を教師が理解し説明し、わかったか子どもに聞きます。不十分であれば他の子どもを指名して説明させる。教師が子どもの発言をしっかり受け止めているので、参加意欲の高い子どもがたくさんいます。しかし、子どもたちを見ていると友だちの発言をあまり聞いていません。教師を見ています。また子どもの発言は、前の発言とつながるものではなく、自分の考えが多いことも気になりました。わからない子どもが考えて解決していくというよりも、手を変え品を変え説得されているといった感じでした。
これは、わかっている子を中心に授業が進んでいるからです。しかも順番に指名された子どもしか発言しません。ここで発言できるのは、わかった子どもだけです。わからない子どもはわかるまで発言のチャンスがありません。自分がわかる説明に出会うまで受け身の状態が続きます。すぐにわかればいいのですが、わからない時間が続くと集中力が切れてしまいます。一方すぐにわかった子どもは、自分はわかっているので聞く必要はありません。自分の意見を発表すればもう出番はありません。集中力が切れやすい状態です。

授業後のアドバイスではそのことを指摘しました。事実を指摘されると、すぐにその問題を理解します。どうすればよいか考えようとします。ともすると、うまくいかない言い訳を考えようとするのですが、この先生は自分の問題にしっかりと向き合う姿勢を持っています。この先生は伸びると直感しました。具体的な方法として、「困っていることはないか」とわからない子どもに寄り添うこと。出てきた困ったことを他の子どもと共有すること。「みんなで解決しよう」「助けよう」と学級の全体の問題にすることを示しました。「わかった」から出発するのではなく、「わからない」から出発するのです。できる子どもも自分がわかればいいのではなく、友だちがわかるように説明するという役割を与えることでより真剣に課題に向かいます。正解を出すことはできるがなぜそうなるか説明できない、いわゆる「できるけど、わかっていない」子どもにとってもそのことに気づくよい機会となります。また、まわりと相談したり、グループで話し合う場面をつくることでわからない子どもが積極的にかかわり考える機会をつくることができます。半分くらいの子どもがわかっていれば、まわりと相談させることでほとんどの子どもが理解できるようになります。ねらいが明確であれば、そのための方法を見つけることはそれほど難しいことではありません。この先生なら、きっと自分のスタイルを見つけることと思います。
また、「どうやって分数の大小を見分ける」という問いに「数直線を使う」という子どもの意見がありました。授業者はそのことを板書したのですが、それがどういうことかは全体で確認・共有しませんでした。数直線で説明しようとした子どもがいましたが、うまくいきませんでした。数直線の活用をしっかり押さえていなかったためです。逆にこのことを押さえておけば、考えるヒントにもなっていたはずです。
実は授業者も数直線をきちんと意識できていなかったので、この子どもの考えをうまく修正して活かすことができませんでした。そのことについても、自らの教材研究不足を素直に認めていました。この素直な姿勢が教師を伸ばす原動力だと思います。
この先生の成長がとても楽しみになりました。

授業研究は2年目の先生の授業でした。1年生の算数、3項の引き算でした。授業者と子どもとの関係はよいと感じました。話を聞く前や、一斉に声を出す場面など要所要所で全体がしっかりと集中します。子どもたちを上手にほめて動かしています。そういうよい場面があるため、逆に教師が話す場面や友だちの話を聞く場面では、集中力が落ちることが目立ちます。授業者がその場面での子どもの姿をどうしたいか意識していないことが原因です。基本はできているのですから、意識するだけのことなのです。
課題は、10個から、3個を取り出し、また2個を取り出す事象を式10−3−2で表し、その計算の順序を考えるものでした。前時に式の計算は左から順にやると押さえています。この授業では、考える根拠をどこに置くかが明確になっていなかったために混乱してしまいました。何が定義か規則なのかが不明確だったのです。もし、式は左から計算するということを規則として考えるのなら、この規則からどのような式になるかを考えさせる。そうではなく、事象の順番に式を書くということを規則にするのなら、この事象を表す式はこう書くと定義して、どういう計算すればよいか考えさせる。どちらかに方向性を決めておく必要があります。そこがはっきりしないまま子どもたちに理由を問うので、根拠が揺れる場当たり的な説明になってしまいました。よくわからないが、最後は結局式は左から計算するのものだと教え込むことになっていました。そうであるのなら、最初から教え込んだ方がかえってすっきりしたかもしれません。また、3+2を先に計算して10から引くといったことを答えた子どもいました。想定はしていたのですが、授業者はうまく説明する自信がなく無視することに決めていました。無視をするにしても、「すごいね、これは2年生でやるから今考えないでおこう」というように、うまく認めてあげる必要があったと思います。
この子どもは、与えられた式を計算したのではなく、問題の事象を考えることで別の解き方をしているのです。ですから、「式を教えて」と問えば、3+2=5、10−5=2が出てくるはずです。時間があればその意味を確認する。時間がなければ、「別の式でも求められるんだね」とすれば、問題なく活かせたのです。

検討会での意見の多くは子どもたちの理解のようすでした。それぞれの子どもに何が起こっていか、先生方はとてもよい雰囲気で意見を交換しています。グループからの発表は教材や授業の進め方についてのものが多く、子どもたちのやり取りやつなぎの問題についてはあまり触れられませんでした。そこで、私からは子どもたちのテンションが上がる場面はどのようなものだったか、そしてその理由が考えなくてもよい場面だったからということ。ほめてうまく子どもたちとの関係をつくっているが、意識していない場面はゆるんでしまうことをまず話させていただきました。そして、子どもたちのつなぎ方を具体的な場面をもとにいくつか説明しました。後半は、算数において根拠となるものは何かを意識すること、何が定義で、何がそこから導き出された結果かをしっかり教材研究してほしいことをお願いしました。

この日は、教務主任や指導員の方が私の話を聞きながら授業参観をしてくださいました。授業アドバイスの場面も一緒に参加されます。少しでも学ぼうとする姿勢はとても素晴らしいものでした。また、ベテランの方が個人的に学校の現状に関しての自分の考えと前向きに頑張っていきたいという思いを語ってくださいました。とてもうれしいことです。
授業研究や授業アドバイスを少しおこなったからといって学校がすぐに変わるわけではありません。しかし、先生方やリーダーの方が積極的に改善しようとする姿勢を持つことで、確実によい方向に変わっていきます。今回の訪問がそのきっかけになってくれればと思います。私も落ち着いて授業を見ることで、たくさんのことを考えるきっかけをいただきました。ありがとうございました。

会議に参加して考える

先日は授業力アップの研修会についての会議に参加しました。10年続いた研修会の次の10年の方向性とそれをもとにした研修の進め方についてです。

参加者はスタッフとして研修会を支えてこられた方です。10年の流れの中で初期のメンバーは立場が変わり、スタッフとして仕事をすることがなかなか難しくなってきました。そこを支えてくれたのがこの日多くを占めていた若手・中堅の方々でした。まだ確固とした自信が持てない中で、一生懸命に参加者へのアドバイスやコメントもしてくれました。彼ら自身が学びたい、進歩したいという強い思いを持っていますが、そこをこらえてスタッフとして会を下支えしてくれています。しかし、インプットよりアウトプットの方が多くては精神的に続きません。次の10年は、かかわる人みんなが学べることを大切にした、学習会の要素が強いものに変えていくことが提案されました。この方向性はとてもよいものだと思います。学びたい思いの強い方が集まっていますので、皆さんに受け入れらるものでした。

続いて来年早々におこなう会の内容について提案がされました。提案以外にも、進め方については色々な方法が考えられます。なぜこの進め方なのか、参加者に提案者の意図がなかなか伝わりません。そこで、「目的は何か」、「そのために参加者がどうなることが必要か」、「そのための手立ては何か」、こういったことを提案者に聞き返しました。「参加者が再レベルアップする」という目的に対して、「参加者の今までの授業・授業観をこわす」ことが必要という説明がされました。「こわす」という象徴的な言葉だったため、そのための具体的な手立てについては厳しく迫るイメージで議論が進んでいってしまいました。模擬授業を先にすることで「こわす」か、先に指導案の検討をすることで「こわすか」という選択になったところで、次のような意見が出されました。

「事前に指導案の検討をして授業についての考えを深めてからの方が模擬授業の質があがり、それに対して指摘し合う方がよりよい学びができる」

「こわす」ための手段として何が有効かという視点ではなく、より効果がある進め方という視点での意見です。事前に他者の考えを聞いて自分の考えを修正してからおこなった方がよりよいところから出発ができるし、失敗も少なく指摘も受け入れやすいというやさしい考えです。この意見に会場全体が救われました。実は提案者の思いもこれに近いものでした。ところが「こわす」という言葉にこだわって話を進めたため、それ以外の視点が議論から失くなってしまっていたのです。「こわす」という、わかりやすいが参加者に厳しい視点から、もっと早くに離れることが必要だったということです。

考えを明確にし議論を円滑に進めるためには、端的な言葉で表現し焦点化することは大切ですが、少し離れた視点で議論全体を見る必要もあります。焦点化と拡散のバランスが大切なのです。授業でもいえることです。このことに気づかせてくれた意見でした。とても勉強になりました。ありがとうございました。

最後の素敵な意見を取り入れることで、2日間の学習会はきっと和やかで学びの多いものになることと思います。楽しみな会がまた一つ増えました。

子どもとの関係がよいことで満足しない

いろいろな学校を訪問して感じるのは、受容的な態度で接することで子どもとよい関係をつくっている教師が増えていることです。子どもは教師の説明をしっかり聞きますし、当然指示もよく通ります。教師にとって、とても居心地のよい教室になっていきます。注意してほしいのはここがゴールではないということです。このことについて少し考えてみたいと思います。

子どもが説明を集中して聞いてくれるので、教師の説明が増える傾向があります。指示が通るので、失敗しないようにていねいに、細かいことまで指示して動かそうとするようになります。子どもは教師の話をよく聞けば理解できるのでそれで満足しますし、指示にきちんと従えばうまくいくので、指示を待つようになります。受け身になっていくのです。
いやいや、教師との関係がよいので積極的に発言しようとするようになる、積極的に挙手するようになると言われるかもしれません。確かに教師のことが好きで、発言をポジティブに評価してもらえるので、指名されようと積極的になります。しかし、往々にして自分が発言することばかりに気がいってしまい、友だちの発言をきちんと聞かなかったり、自分が発言することで満足して、その後は集中力をなくすうようになったりします。(テンションを上げすぎない参照)
また、教師が発言者に問い返したりして考えを深めていく場面で、これは2人の問題で自分とは関係ないと無視するといった態度を見ることもあります。しかし、次の発言のチャンスがくれば、すぐに手を挙げます。友だちの話を聞いて理解することよりも、自分が指名され発言することの方が大切なのです。友だちとのかかわりがうすくなっていくのです。
作業中にわからないことがあればすぐに教師に聞こうとします。その間は教師を独占することができるからです。答がでると、すぐに「これでいい?」と正解かどうかの確認を求めるのも同様の理由です。ほめてもらうことへの期待もあります。自分でじっくり考えたり、友だちと相談したりするといった姿勢が育たないのです。
子どもとの関係がよいことで満足しているとこのような危険があるのです。

しっかりと聞けるからこそ、教師の説明を減らして子どもに問いかけることをし、考えることをうながす。指示を減らすことで、自分で考え、判断することを学ばせる。ときには失敗させることで、より大きな学びにつなげる(失敗から学ぶためには参照)。子どもの発言を他の子どもにつなぐことで関係をつくり、友だちに認められ、評価される喜びを経験させる(挙手の様子から何がわかる参照)。
教師に頼らず自分で考える、判断して行動するように仕向けたり、子ども同士のかかわり合いの場面を増やして関係をつくったりすることが求められるのです。

子どもとよい関係をつくるのは、教師の基本です。これができていないと何もうまくはいきません。しかし、でき上がった子どもとの関係の心地よさに満足してそこにとどまっていてはいけません。まだまだ途中なのです。、子どもたちの成長のために次のステージを目指してほしいと思います。

模擬授業で多くを学ぶ(長文)

昨日は中学校で現職教育の講師を務めました。今年度2回目です。担当の教務主任には、講演以外の内容での実施をお願いしました。授業を見ての研修が望ましいのですが、あいにくその日は定期考査です。そこで、どなたかに模擬授業をお願いして、私が解説するという形を提案しました。研修まで時間のない中でのお願いだったので難しいかと思っていたのですが、教務主任が自ら授業者をかってでてくれました。この学校では模擬授業自体ほとんど経験のある方がいらっしゃいません。初めての試みなので指名した方にプレッシャーがかかってはいけないと考えられてのことでしょう。教務主任のこの姿勢はとても立派だと感心しました。

模擬授業は数学です。開始前に、私から少し模擬授業について説明しました。先生方に数学の得意な方とたずねてみたところ、数名しかいません。これはきっとうまくいくと思いました。子どもたちと同じ目線で参加することができるからです。授業者にこの授業のねらいをうかがったところ、「考える」がキーワードでした。このことを意識して開始しました。

導入で授業者は「日記をつけたことがある人」と聞きました。2名しか手が挙がりません。指名して、いつつけていたかを聞きました。このとき授業者は発言を受容的に受け止めます。ちょっと硬い雰囲気が柔らかくなりました。そこで、もう一度たずねると今度はほとんどの人の手が挙がりました。たくさんの人がつけたことがあるねとコメントして、この授業の課題を配りました。課題は、姉と妹が異なった日から日記をつけ始めているときに、姉のつけた日数が妹の□倍になるのは何日後かというものです。2分ほどの導入で、テンポのよいものでした。しかし、最初は手を挙げなかったのに、次に聞かれたときにたくさん手が挙がったことをどうとらえるかが問題です。その理由を2人の方に聞いてみました。1人は、「挙手して答えることを求められているのかよくわからなかった」。もう1人は「恥ずかしかった」ということです。前者については、挙手して指名されたのを見て発問の意図がわかった、後者はそのやり取りを見てこれなら大丈夫と安心したということです。実際の授業でも起こりうる場面です。ここで、後から手を挙げた人を指名しないと、子どもたちは、友だちの発言ややり取りを見て発問の意図を理解できた、安心して発言できそうになったのに、最初に参加しなければ後からは参加できないと感じてしまいます。せっかく友だちの発言を聞くことのよさを感じるきっかけができたのにそれが無駄になってしまいます。ここは、「たくさん手を挙げてくれてうれしいな。もう少し聞いてみようか」ともう何人か指名してもよかったところです。

課題のプリントを配った後、「読むのがうまそうな○○さん」と指名して音読してもらいました。「たまたま」ではなく、「あなた」だから指名したというのは、指名された側のやる気を引き出し、自己有用感を感じさせます。これに限らず授業者は、子ども役の発言や行動に対して受容的な態度をとっています。実際の授業でも子どもとの関係はきっと良好だと思います。
さて、音読をしているときの子ども役はほぼ全員がプリントに集中していました。全員やや前傾姿勢で集中しています。ところが、仕事で目が疲れていたのでしょう、1人の方だけは目を押さえてプリントに集中していませんでした。授業者は子ども役と同様にプリントに集中していたためそのことに気づいていません。集中していない子どもを注意しろということではありません。子どもに活動をさせているときにその様子を見ることが大切なのです。今教室で何が起こっているか、常にそのことを把握するように意識するのです。実際の授業では、このあとその子どもの集中力が戻るかどうかを注意することになります。その状況に応じて次の対応を考えるのです。教師は教科書の文章やプリントの内容は頭に入っているはずです。一字一句目で追わなくても、ちらちらと見るだけで大丈夫です。子どもたちを見ることを第一にするのです。

読み終わった後、「問題の意味はわかりますか」と課題を理解したかを問いました。「質問がある人」と聞いてもだれも手を挙げません。そこで次に進みました。しかし、「わかりますか」と聞かれれば、わかるのが前提です。質問がある人と聞かれても、手を挙げて聞くのは勇気がいります。誰も手を挙げないから先に進む。これは教師のいいわけ、アリバイ作りなのです。
このときの子ども役の動きは少し乱れていました。ちょっと落ち着かないようすの人、小首をかしげる人、気になる動きがありました。ここは、「困ったことはないですか」と聞き、動きのある人に「どう、何か困ったことない」と声をかけることや、「・・・と書いてあるけれど、どういうことか説明できる」と具体的に確認することが大切です。課題を全員がしっかり把握できずに進んでしまうと、この時点でもうついていけない子どもが出てしまうのです。把握できたかどうかを確認するための発問もあらかじめ用意しておくことが必要です。

続いて、□倍の□にどんな数字を入れようということになります。最初に指名された子ども役は「20」と答えました。まわりから笑いがもれますが、バカにした笑いではありません。しかし、授業者は、しっかりと笑顔でその答えを受け止めフォローします。続いて指名された子ども役は「3」倍、次は「2」倍と答えます。その時には笑いは起きませんでした。3人指名した後、授業者は、「20」倍という数字を考えてみることはとても意味のあることだと説明しました。数学的にはこの数字のときには答が負になるため、より深い追究につながるからです。さすがにこの教材のことをよくわかっています。しかし、子ども役はその価値にはまだ気づいていないようです。「ふーん」といった感じで聞いています。具体的な話ではないし、教師からの一方的な説明だからです。
授業者は黒板に「20」、「3」、「2」と書きます。そのとき、一人ひとりと目を合わせて確認しながら書きました。「20」と答えた子どもにはしっかりとうなずいて見せています。笑われた子ども役が安心できるとてもよいやり取りでした。
その子ども役に聞いてみました。何で笑われたのかよくわからなったが、授業者がちゃんと板書して取り上げてくれたので安心したということでした。

ここで問題なのは、この一連のやり取が教師と当事者だけで進んでいたことです。「20」で子どもたちが笑いました。その理由は何だったのでしょうか。「普通は2とか3だろう」、「そんな数のはずはない」、中には「そんな数では答が出ないだろう」と推理している子がいるかもしれません。教師が判断するのではなく、子どもに聞いてみると違った展開になったかもしれません。
「そんな数のはずはない」と子どもが言えば、「みんなそう思う」と返し、異論がなければ「本当にそうか、確かめてみなければいけないね」と押さえる。「答がない」という言葉が出れば、その推論を聞いてみる。こうすることで、「20」が子どもたちの課題になります。教師が「20」の価値を説明しなくても、子どもたちが「20」のときはどうだろうと考えて課題に取り組むことで、自分たちでその価値に気づくはずです。
「20」ではなく、「3」と答えたときに聞いてもよかったかもしれません。「3はおかしくないの?」と聞き、「3」と「20」の違いを明確にすることで、課題をより深く考えるきっかけにできます。

まずは、「2」の場合で考えることにしました。できる人と聞くと何人かの手が挙がります。「すごいね」とほめ、考え方も書くように指示をしました。できた子どもに次の指示を与えることが大切です。しかし、いくつかのやりが出てくるので、授業者としては当然それを比較したいと考えているはずです。ただ解くのではなく「できるだけたくさんのやり方を見つけてね」という課題にした方がよいでしょう。あとで「色々なやり方があるね」と展開した時に、そう言ってくれれば別のやり方も考えたのにと思われずに済みます。

子ども役が課題に挑戦し始めました。すぐにあちこちでまわりと相談する姿が見られます。先生同士の人間関係がよいことがわかります。課題もよかったのでしょう。解きたいという意欲の表れでもあります。その間、授業者は机間指導をしています。ヒントを与えたり、子どもたちがどんな解き方をしているかを把握したりしています。取りあげたいやり方をしている子ども役を2人指名して黒板に書かせました。黒板を見ながら自分と比較している、ヒントにして解こうとしている、ずっと2人で聞き合っている、一切誰ともかかわらず黒板も見ないで解いている、実に様々な姿がありました。しかし、授業者は机間指導で子どもたちの間に埋もれているために、このようすに気づけませんでした。授業者は2人を指名した段階で次のシナリオができています。この時点で子どもたちのようすは授業の展開に大きな影響がないので意識されないのです。時間の関係で模擬授業はここまでにしました。

このあと、板書した子どもに前で説明させる、他の子どもに説明させるといった方法がありますが、いずれにしても板書の内容を理解しようと見ていた子どもとここで初めて見た子どもでは理解度が違います。そのギャップを埋めることは実はなかなか大変です。特に自分で解くことにこだわっていた子どもは、いきなり違う解き方を説明されても戸惑います。また、板書は考えた結果です。考え方の糸口や発想はそこには現れません。ここをどう明確にして共有するかが問われるところです。

ここで少し違った展開の仕方を考えてみました。
一番熱心に聞き合っていた子ども役に、何を話していたのか聞いてみました。「考え方を書いてと先生に言われたので、式を書かなければいけないと思って聞きました」ということです。その結果はどうだったと聞くと、後ろの方に聞いてわかったということでした。とても面白い話です。教師の「考え方」という言葉が子ども役には「式」に変わっています。授業者は式で書くことを求めていたわけではありません。微妙にずれているのです。このずれを起点に授業を進めるのです。いくつかの流れが考えられます。

「最初はどうやったの」と聞き、それを共有して上で、「それで、○○さんからどんなことを聞いたの」と、式にたどり着いた過程をみんなで共有する。

「なるほど、式なら考え方がわかるんだ。それってどういうこと」と聞きながら式を使うときと使わない場合を比較しながら2つのやり方を共有していく。

「式なら考え方がわかるんだ。なるほどね。じゃあ、式以外に考え方がわかる方法はないの?」と揺さぶり、言葉の説明、表や図で考え方を示すことを導く。

いずれにしても、これが正解というわけでもなければ、これらを組み合わせることも可能です。ポイントは子どもの考えや発想をもとに深めたり、広げたりするということです。私も事前に何を話していたか聞いていません。だから他の子ども役と同じように真剣に聞き、理解できないこと、聞き洩らしたことを聞き返します。そうすることで学級の全員が理解し共有できるのです。子どもたちのようすを観察していて、何を考えていたか、何を話していたか聞きたいと思った子どもに「教えて」「聞かせて」とたずねる。そこから、展開するという方法もあるのです。(事前に子どもの考えを知ることの落とし穴参照)

わずか1時間ほどの模擬授業でしたが、「授業の基本であるコミュニケーションがしっかりしていたこと」、また「教材がきちんと練られたものでかつそれを授業者が理解していたこと」、そして、「子ども役の先生方がこんな学級だったら本当にいいなと思う、とても素敵な雰囲気をつくりだしていたこと」が、とてもよい学びを生み出してくれました。特に子ども役の先生方の、明るく素直な反応、互いに積極的にかかわろうとする姿勢はとても素晴らしいものでした。私の話に対しても前回以上に反応していただき、とても気持ちよく進めることができました。感謝です。

研修終了後、校長・教頭・教務主任と長時間にわたってお話をさせていただきました。学校をよくしていきたいという思いがひしひしと感じられます。とても充実した時間を過ごさせていただきました。特に教務主任は、皆さんとより近い立場から、今後どのような働きかけや取り組みをしていけばこの学校の授業がよい方向に変わっていくのかを真剣に考えておられました。
私が年に1度や2度出かけたくらいでは学校がよくなるわけはありません。日常の先生方の変わろうという思いと取り組みがあって、初めて向上的変容をするのです。今日見せていただいた先生方の姿と管理職・主任の姿勢があればこの学校はきっとよい方向に変わっていくと思います。次回訪問の機会があれば、必ず新たな姿が見られることでしょう。皆さんのおかげで本当によい学びができました。ありがとうございました。

意欲・関心を練習量で評価する?

相対評価から絶対評価に移行したころから、子どもの意欲・関心を練習量で評価することが増えてきたように聞きます。たとえば、漢字の練習を何回やったか、算数の計算ドリルを何回やったか、その量で評価をするのです。確かにたくさん練習をする子どもは意欲があると言えるのですが、本当にそれでよいのでしょうか?

練習は何のためにするのでしょうか。もちろん、定着のためです。その目的を忘れて手段のみに目をうばわれてしまうと本末転倒です。往々にして、すでに定着している子どもほどたくさん練習をするというおかしなことになってしまいます。漢字をしっかり覚えた子どもがその漢字を何回も練習することや、計算ができる子どもが同じ計算を何回もやるのは無駄な努力です。そんなことより、新しい漢字を覚えたり、新しい問題に挑戦したりする方が意味があります。一方、定着していない子どもは、練習量だけを評価すると何回書いたから、やったから勉強したと考えるようになってしまいます。結果を問わない姿勢では学力はつきません。練習量はあくまでも手段の評価でしかないことを忘れてはいけません。

目標へ向かっての結果と到達するための手段を明確にし、個人の進歩を意識する必要があります。たとえば、漢字は今まで学習したことで試験をしなければいけないということはありません。ちょっと手間かもしれませんが、あらかじめ漢字の出題範囲をいくつかに分け、範囲ごとに小テストをつくっておき、合格すれば次のテストに挑戦するという方法もあります。小テストに合格していくことが目標になります。そして、そのためにどれだけ練習したか残させるのです。意欲・関心はどの漢字を練習したかにかかわらず、練習量で評価することができます。また、合格した絶対数は少なくても、2学期は1学期よりたくさん合格したのであれば、個人内の進歩は評価できます。このことを意欲・関心として評価してもよいのです。個人内相対評価は絶対評価と違うと考える方もいらっしゃるかもしれませんが、伸びたということは意欲・関心があると考えてよいはずです。
算数であれば、たとえば一定時間にどれだけできたかの数を目標にすることと、ドリルの練習量を連動させることで同じように評価できると思います。

教科にかかわらず、子どもたちが進歩を実感できるような目標とその達成のための手段・方法を明確にして子どもたち提示することが大切です。結果につながる努力は子どもたちの意欲を高めることにつながります。結果と手段の双方を常に評価することが大切です。評価のための評価でなく、子どもたちが成長するための評価を意識し、工夫してほしいと思います。

野口芳宏先生から学ぶ

本年度第4回の教師力アップセミナーは、野口芳宏先生の講演でした。11年連続のご登壇です。一本筋の通ったぶれないお話の中に、毎年新しい気づき、学びがあります。

午前の講演は具体的な教材をもとに、教材内容と教科内容、子どもの向上的変容、学力形成の判定などについてお話しされました。聴衆に若い先生が増えたことをお伝えしたせいでしょうか、いつも以上にわかりやすい例をもとにお話しいただけました。

国語の授業では教材文を通じてどんな国語の力をつけるのかが問われますが、そのことを算数の足し算の例をもとに、教材内容、教科内容という言葉を使って説明されました。野口先生は短い言葉(用語)で端的に表すことで、考え方や概念をとてもすっきりと明確にされます。算数・数学で、用語を定義し概念を明確にしていくことと同じです。国語の授業は算数・数学と同様に論理的でなければいけないという私の思いを見事に具現化していただけるのが野口先生です。

学力形成の判定を次のように整理されました。

1 入手・獲得
2 訂正・修正
3 深化・統合
4 上達・進歩
5 反復・定着
6 活用・応用

教師がこの言葉を意識し、授業の各場面を評価することで、間違いなく子どもたちに力がつくと思います。

かな表記を漢字に変え読字力をつける。「姿を変える」を「変身」と言い換えることにより抽象度を高め、思考力のもととなる語彙を増やす。ともすれば、できるだけやさしく言い換えよう、わかりやすく説明しようとしがちな私たちに対して、学力形成のためにはチャンスを活かして子どもを鍛えるという姿勢とその具体的な方法にはとても説得力があります。子どもたちを「鍛える」者としての教師のありようを常に具体的に示していただけます。

午後の最初は、2年目の教師の道徳の授業ビデオをもとに会場の方と学び合おうというものでした。授業のハイライトシーンを視聴後まわりと話し合っていただき、その意見を全体で共有しました。指名された方はどなたも授業をポジティブに評価され、その上で自分なりの考えや改善案を具体的に話されました。参加者のレベルの高さがうかがえます。
最後に野口先生にコメントをいただきました。まず、ビデオで省略されていた最後の説話を聞かせてくれというリクエストです。授業者の学生時代の体験の話でした。そのあと、参加者に授業ビデオと今の説話のどちらがよかったかを問いました。圧倒的に説話です。それを受けて、授業ビデオの部分は職業的に話していた。一方説話は私的な話だ。表情も違う。教育には2つの側面がある。伝達と感化だ。伝達は忘れさられ剥がれていくが、感化は内面化され消えていかない。こう話されました。
まいりました。いかに伝えるか、理解させるか、そのためのスキルをどうするか。私のアドバイスも、まず目先の授業を改善するためにこういった話になりがちです。感化するとは、そういった技術の問題ではなく教師自身の在り方、内面の問題です。ここに踏み込むことは、相手に迫ることであり、それと同時に自分自身もどうであるか問われることです。それを臆することなく言う、求めることができる野口先生のすごさに圧倒されます。私のしているアドバイスが野口先生の前では薄っぺらなものに思えてきます。もちろん、私とて教師の根本部分を問うことをしないわけではありません。しかし、野口先生のように自らのありようを持って示せているかというと、とても比らぶべくもありません。またひとつ大切なことを教わった気がします。

最後の講演は、皇室についての考えをお話しされました。色々と異論のある微妙な問題ですが、臆することなく自らの考えを伝える姿勢には背筋が伸びます。講演後、先生のお話の中で私の知識とずれていたことに関してお話しさせていただきましたが、しっかりと聞く耳を持っていただけました。謙虚な姿勢には頭が下がります。

この日、一聴衆として野口先生の話に引き込まれていたのですが、その理由を考えてみました。たとえば、私が講演をするときは自分のリズムやテンポに聴衆を合わせようと意図的に声の大きさや間をコントロールします。動的です。それに対して野口先生にはそういう意図的な動きは全く感じられません。実に自然に話されるのですが、いつの間にか引き込まれているのです。目の動きは自然に聴衆のようすを追っています。聞き手が話を飲み込めた、どういうことだろうと興味・関心を持った、その瞬間に次の言葉が発せられるのです。野口先生にこのことをお聞きしても、意識はされていないそうです。当り前のように相手に合わすことができているのです。名人の名人たる所以です。

今回も野口先生から多くのことを学ぶことができました。そばにいて同じ空気を吸っているだけでも何か学べる気がします。感化力のある方とはこういうものなのでしょう。ありがたいことに、来年のお約束もいただけました。次回お会いする時が今から楽しみです。

中学校の授業研究でアドバイス

昨日は中学校で、数学の授業研究のアドバイスをしてきました。今回は、若手の先生3人に子どもたちのようすから何がわかるかを解説しながら授業を見学しました。

TTでおこなわれた、1年生の1元1次方程式の活用の最初の時間でした。T1は以前と比べてずいぶん柔らかい雰囲気をつくることができるようになっていました。そのせいか、子どもたちは授業者ととてもよい関係で、実に素直に自分たちの気持ちを態度で表現していました。おかげで、子どもたちの動きから授業の課題が明確になってきます。学ぶことの多い授業でした。

最初に小テストで方程式の解き方を確認します。すぐに全員が集中していたのですが、できた子どもたちは、何もすることがないので集中を切らしていました。落ち着いていてじっと待っていますが、何かを考えているわけではありません。手遊びを始めている子もいます。テスト形式にこだわると、このような弊害があります。そのデメリットを越えるメリットがないのであれば、テスト形式にこだわらず、まわりと相談したり確認し合ったりを許す、練習問題形式の方がよいように思います。
答え合わせは、式の変形の1行ごとを子どもに言わせるのですが、残念ながら子どもたちは発表者の方を見ません。子どもたちの関係はできているのですが、発表をすぐに授業者が板書するので、そちらの方がわかりやすいからです。また、変形の結果だけを問われているので、友だちの言葉を聞く必然性もあまりありません。子どもたちは自分にとって聞く価値のあるものしか聞かないのです。なぜ先にカッコを外すのか、なぜ同類項をまとめるかといった、一つひとつの手順の意味、価値を問うといったことをしなければ、教師の板書を写せば済むのです。逆に手順の確認だけであれば。早いテンポで進めないと、考える必要の無いところで無意味に時間が消費されます。

最初の課題は、3か所穴のあいたレシートから、買った商品の単価を求めるというものでした。教科書の例題は同様のレシートから、問題を文章化してそれを解くというものです。この例題の前にまずこの課題に挑戦するという流れです。
子どもたちは、黒板に貼られたレシートを見て大いに興味を持ちます。集中力が上がりました。授業者が黒板にリンゴ1個の値段を求めようと書くと、全員が集中して写していました。課題は写すというルールがある意味徹底しているのでしょう。

「こういう問題を解くときに最初に何をする」という問いかけで「図を書く」を子どもから引き出しました。先ず図を書いて問題把握をするということです。ここで図を授業者が書きました。今度は子どもたちの動きはバラバラでした。授業者が書くリンゴの絵を1つずつ写す生徒、じっと図を見ながら切りのいいところで写す生徒、写さずにじっと図を見ている生徒、実に様々です。
この場面は図を写すことにはあまり意味はありません。そもそも図を書くことが最初の一手であれば、自分で書けなければ問題を解くことができないわけです。であれば、自分で図が書けることの方が大切になります。この場面の扱いはもう少し変わったものになるはずです。
教科書の例題がレシートと文章から構成されていることの意味をもう少し考えるべきだったのかもしれません。レシートは実は表構造になっています。教科書は文章と表を行き来することで問題を把握したり、その構造を理解させたりすることを意識しています。この文章題を解くには図よりもレシートの方が整理されていてわかりやすかったはずです。レシートだけで問題を考えるのであれば、あえて図に頼らない方がよかったのです。また、穴が3つあるのに単価をだけを問うことは唐突です。「3つの穴をどうやって埋めよう」とレシートから何がわかるかを考えさせた方が課題としては自然だったように思います。

子どもたちに、ペアで解き方を考えさせたとき、うまくかかわれているペアと2人ともお手上げで話し合えないペアに分かれました。さっさと解決したペアは手持ちぶさたです。ペア活動は逃げられない関係です。ペアにこだわる必然がないのであれば、まわりと相談させた方が、活動が停滞しにくくなります。

子どもたちの考えを発表させていく中で突然xを使った方程式が出てきました。塾等で予習している子どもは、前の発言と関係なしにいきなり本命の方程式を発表してしまう可能性があります。授業者としては前の発言につないでくれると思っていたのですが予想外だったようです。ここで、方程式の「6xがわかる人」と聞いてしまいました。ここで「わかる」と聞いてしまったので、「わからなければいけない」「わからないとダメ」という負の感情が起きてしまいます。突然で理解出なかった子どもは、ここから心理的についていけなくなります。一方、わかっている子にとってはもう聞く必要のないことです。うまく子ども同士をつなぐことができなくなって、テンポが悪くなってしまいました。「わかった人」ではなく「困っている人」と問いかけ、「困っている人」を「わかった人」が助けるようにして進めていくとつながっていったと思います。

授業者は予定した次の例題にいくことをあきらめ、立式の説明が終わった後、少し時間をかけて方程式を解かせました。今回の授業は立式できることがねらいなので、方程式を解くことはいったん止めるか、全体ですぐに解いて、次の例題に移るという判断もあったと思います。

授業検討会は、司会者がどうすればより学びの多いものになるか色々と試行錯誤していることがよくわかりました。各グループの発表をつなげる工夫から、ふだんの授業でもうまく子どもをつないでいることが伝わってきます。
今回、授業が予定した流れの通りに進まなかったこともあり、先生方の話し合いは、教材部分にかなり深入りしていました。そんな中でも、子どもたちが集中した場面とその理由は何か、子どもたちに聞くのか板書を写すのかどちらを求めるのか、ペア活動でかかわれなかった子どもたちにどういう支援をすればよかったのか、全体での場では自分たちの言葉ではなく、教科書の記述のようなかたい言葉で話そうとするためなかなか気軽に話せないといった、子どもの動きに関することがたくさんでてきたことは、日ごろの授業で子どもを大切にしていることの現れです。先生方のレベルの高さがうかがえます。

子どもたちに「わかった」と聞かないこと、「困ったこと」を聞いて困り感を共有することが安心して話せる授業につながるなど、時間の中でできるだけアドバイスさせていただきました。

授業後、授業者2人と話をさせていただきました。私が指摘するまでもなくT1の授業者はこの授業の課題に気づいていました。しっかり成長しています。ただ、うまく対応できずに修正できなかったのです。これからは受けの技術を磨いていく必要があります。そのためには、子どもの視点で教材や発問を見るということが大切です。子どもはどこでつまずくだろうか、何が壁になるだろうか、発問に対してどのようなことを考えるだろうか。こういったことを事前にしっかり考えることが教師の引き出しを増やし、受けの技術につながっていくのです。また、教科書の記述の意味をしっかりと考えておくことも大切です。もう一度教科の内容をしっかり勉強し直す時であることも伝えました。
もう一つ伝えたのが、できる子どもが退屈しだしていることの危険性です。学級を崩すのは、大抵はこういう子どもたちです。今は人間関係がよいので大きな心配はありませんが、一つ崩れだすと一気に崩壊する危険性もあります。より高い課題に挑戦し、できる子どもと困っている子どもをつなぎながら、一人ひとりが進歩していくような授業を目指してほしいとお話しました。
何年にもわたってつきあってきた先生です。着実に進歩していることをとてもうれしく思いました。これからの課題は、時間をかけてクリアしていくものです。休まずに一歩ずつ前進してほしいと思います。

研修を担当している教務主任が、先生方のよりよい学びを常に目指していることが色々な場面で伝わってきます。自分のなすべきことを常に意識しているその姿は、他の先生方にきっとよい影響を与えてくれることと思います。この日も本当に学びの多い1日でした。先生方に感謝です。

グループ活動の後の発表

グループでの活動は集中していたのに、全体での発表になると子どもたちの集中力が切れることがあります。最初はしっかり聞いていたのに、次第に集中力がなくなる。自分たちのグループの発表が終わると、集中力が途切れてしまう。こんな場面にもよく出会います。グループ活動の後の発表はどのようにすればよいのかを考えてみたいと思います。

多くの方が、グループの代表を事前に決め(させ)て順番に発表させているようです。このとき、発表の準備をグループ全体で手伝っているところはよいのですが、発表者が一人で準備していることがよくあります。次の発表予定のグループが準備に追われ、発表を聞いていないこともあります。また、次々発表させるだけで、発表に対する子どもたちの考えを聞くこともなく、最後に教師がまとめて終わっていることもよくあります。似たような発表が続き、聞く側の集中力がなくなってしまう場面に当り前のように出会います。

私は、グループ活動では、結論を無理にグループでまとめない方がよいと思っています。みんなの助けを借りて「自分の答」を見つけることが大切だからです。また、修学旅行のグループ行動を決めるといった場合であれば、自分が行きたくないからといって拒否できませんが、課題の答であれば自分の考えを曲げてみんなに従う必要はないからです。
たとえグループで考えをまとめる必要があっても、発表者をあらかじめ指定する必要はありません。「自分たちの考えをだれかに発表してもらうからね」と、誰もが発表者となる可能性を与えた方がよいのです。グループとして発表の準備が必要であれば、だれが指名されても困らないようにみんなですればいいのです。

基本的に発表は個人への指名でおこないます。結論やその課程を聞くことになりますが、発表が終わってすぐ次の発表に移るのではなく、学級全体でその考えを共有し、評価し深めることが必要です。

「同じような答になった人(グループ)はいる」
「いるね、じゃあ○○さんの(グループの)考え聞かせてくれる」
・・・
「今のみんなの考えを聞いて納得した人(考えが変わった人)いる?」
「いるね、どこでそう考えたか聞かせてくれる」
・・・
「じゃあ、自分(たち)はちょっと違うという人(グループ)はいるかな?」
・・・・

このように、同じ考え、違った考えをつなぎながら、それぞれの考えやグループでの話し合いを共有して考えを深めていくのです。
こうすれば、各グループを順番に発表させる必要はありません。他のグループの人の発表を聞いて、「あっ、自分たちと違う。自分たちの考えを言いたい」と思った子どもも、順番を待ってイライラしなくなります。また、順番に発表するうちに前の発表が記憶から薄れ、関連する意見が出てもつながらないといったこともおこりません。
意見がつながらなくなったら、まだ発表していないグループの子どもに、「あなたたちはどんなことを話した(考えた)のか聞かせて」とたずねればいいのです。そこからまたつなぎ始めます。こうして、全部のグループの考えを引き出すのです。

また、子どもが発表するたびにその意見を板書する方もいますが、子ども同士がつながっているうちは、できれば板書を我慢して聞くことに集中させてほしいと思います。子どもたちの発表がひと段落してから板書しても遅くありません。

あらかじめ発表者を決めておかないと、指名しても答えられないと心配をする方もいますが、そんなときは、「ちょっと、グループの人、助けてあげて」と仲間に助けさせればよいのです。また、なかなか自分の意見が持てない子どもには、「みんなでどんなことを話したか聞かせてくれる」と問いかけ、「じゃあ、その中で一番納得した(なるほどと思った)意見はどれ?」と聞くことで、自分の考えを持たせるのです。そして、「なるほど、・・・が○○さんの意見(考え)だね。ちゃんと(よく)考えたね」と評価するのです。

集中してグループ活動に取り組んだあとの子どもたちは、友だちの考えを聞くことに意欲的です。その意欲を活かすためにも、順番に発表することにこだわらず、発言をつなぎながら、全体で共有し、より深く考えさせるような工夫をしてほしいと思います。

グループ活動の人数

授業にグループ活動を取り入れる先生が増えています。そのときの人数や配置について質問されることもよくあります。これが絶対に正解というものはないと思いますが、私の考えを少し述べたいと思います。

適正な人数を考えるときに、グループ活動で何をねらっているのかが問題だと思います。早く正解を見つけさせるのであれば、各グループに優秀な子どもを分散してその子の意見を聞くのに適切な人数を考えればいいわけです。子どもたちがまわりの助けを借りながら自分の答えを見つけることをねらうのであれば、話はまた変わります。
私は後者の考え方です。そして、グループの子どもたち全員が互いにかかわり合うことを大切にしたいと思います。

「自分の答えを見つける」という視点であれば、発言する、教えることよりも聞くことが大切になります。相手を説得するのではなく、相手の意見を理解し自分の考えを深めることが主となります。説得しようとするとどうしても声が大きくなります。大きな声は全体のテンションを上げることにつながり、落ち着いて話を聞く雰囲気がなくなっていきます。聞くことを大切にするのであれば、子どもたちのテンションが上がらないように注意するべきです。そのためには子ども同士の距離は近い方がよいのです。距離があると、どうしても声が大きくなります。額を寄せ合って、落ち着いて聞き合うためには机が近い方がよいのです。また、困った時に「助けて」「教えて」と聞けることを大切にし、グループの全員がかかわり合えることを意識すると、一人ひとりが他のメンバーと接していることも重要になります。だれにでも、すぐに聞くことができるからです。人数はあまり多くない方がよいのです。
それだけではありません。人数が多くなるとどうしてもグループの中にまた小グループができます。こうなるとグループの全員がかかわり合うことがどんどん難しくなります。子ども同士の人間関係をつくる視点からも、グループ内の誰とでもかかわり合うことは大切にしなければなりません。特定の子どもとだけの関係になることは避けたいところです。小グループになるのなら、最初からそのグループで活動すればいいのです。
実際、6人のグループでの活動を見ると、端の2人と他の4人または両端の3人ずつに分かれて話している場面によく出会います。5人のグループでも端の1人が孤立していることがよくあります。7人以上であれば、3つの小グループに分かれることもあります。
これらのことを考えると人数は4人以下がよいということになります。4人以下であれば、互いの距離が近く、誰もが必ず他の子どもと接しているからです。

もちろん4人でも1人と3人、2人と2人に分かれることはよくあります。1人と3人に分かれている場合、自分1人で考えたいために他の3人とかかわろうとしていない子でも、すぐそばで話し合われているので、その内容は耳に入ってきます。必要があれば、かかわりやすい状態です。また、うまくかかわれなくて1人が孤立しているときでも、話し合っている子どもとの距離が近いので、教師が互いにかかわるように働きかけることがしやすいように思います。
では、2人と2人に分かれる場合はどうでしょう。2人のかかわり合いはつながりが強いので、これを崩して4人のかかわりにするのは難しいものがあります。そこで、あえて男子2人、女子2人で構成して、男子同士、女子同士に分かれやすくするという考えがあります。ここで、男女を市松模様にすると、斜めでつながるので、2人ずつの話が交差してかかわりやすくなります。また、男子同士、女子同士どちらかしかつながっていなくても、目の前を言葉がいきかうので、残りの2人もかかわりやすくなります。また、男女で話し合う機会が増えるので、男子と女子の関係がよくなるというメリットもあります。これは思春期を迎えた中学生や小学校の高学年ではとてもありがたいことです。
一方、3人のグループは1人と2人に分かれた場合、1人がかかわろうとするときに2人の間に割って入ることになります。2人のかかわりは強いものなので、うまくその中に入っていけないことが多いようです。その点4人のグループの場合は、他は3人なので、その中の1人が孤立している子どもとかかわり合い、残りの2人とつないでくれることがよくあります。

色々な意見や考え方があると思いますが、私は以上のような理由で、グループは4人の市松模様での活動を基本とするのがよいと考えています。もちろん、これが絶対的な正解だと主張する気は毛頭ありません。グループ活動で何をねらうかを明確にし、子どもたちのようすをよく観察して、皆さんの学校、授業に最適な人数を見つけていただけたらと思います。
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