ともに生きる

ちょっといい話

   お前は体が弱いから

 小学校低学年でガンを患って以来、えらい病弱になった。元々体は弱かったけど、ここ数年は年を重ねていくごとに弱っていくような感じだった。ちょっとした事で熱を出したり、それが悪化して肺炎になったり……。今年は入院もした。それくらい弱かった。
 ある冬の日、学校から帰ってきて夕飯を食べた後。ゴロゴロしていたらチョコレートが食べたくなったので近所のスーパーに買いに行こうとした。だが両親は「寒いからダメだ」と言った。私は「それくらいいいだろう」と思った。いくら体が弱いとはいえ、近所のスーパーくらいいいだろうと思ったのだ。しばらく反論していたが、父親は、私が先月入院した話をもってきた。「そうやって寒い時に外出するから肺炎になってお前は1週間も入院したじゃないか」と……。わたしはチョコレートが買いに行けないとか、お菓子が食べられないとかそういうのじゃなくて、自分の身体の弱さで行動を制限される事が悔しかった。父に「お前は体が弱いから」、そう言われる事が悔しくて悲しくて、情けない事にわたしは泣いてしまった。そのまま布団に行って泣きながら眠った。
 数日後。昼食をつくるためにキッチンへ。戸棚の下にある引きだしにパスタがあったので開けると、そこには板チョコレートが何枚も入っていた。祖母に理由を聞くと「お父さんとお母さんが、夜の寒い時にチョコレート食べたいって言い出したら、いつでも食べられるようにって買ってきたんだよ。ばあちゃんも最初見た時はびっくりした」と笑いながら話していた。
 父と母は、私がどうしてもチョコレートが食べたくて泣いたんだと思ったらしい。何枚もの板チョコを見て、私は泣きそうになった。もう自分の身体の弱さを自覚してわがままを言わないようにしようと思った。

今日のお話 ー2月27日(月)ー

   アルフレッド・アドラーの名言・格言

  どうしたらみんなを喜ばすことができるかを、

  毎日考えるようにしなさい。

  そうすれば憂鬱な気持など、

  吹き飛んでしまいます。

  反対に自分のことばかり考えていたら、

  どんどん不幸になってしまいますよ。

ちょっといい話

   私は6人家族、4人しかいないじゃないか。あとの2人は?

 私のお母さんは、生まれつき少しみんなと違っていて、背中に「できもの」みたいなものがあります。そこを押したりすると、全部の神経と繋がっているらしく、死んでしまうそうです。今は普通に暮らしていますが、生まれたときは、「3才まで生きられるかわからない」と言われていたそうです。
 お母さんは、26才で、私を産みました。弟が1人いて4才差です。でも、ほんとは、もう2人、いるはずでした。私と2才差で、双子でした。でも、妊娠して3ヶ月で流産してしまいました。そのときの辛さは、残念ながら2才だった私にはわかりませんでした。この事を知ったのは3年前、小学校4年生のときです。そのときは、「へぇ」としか思いませんでした。でも、今、2人のことを考えると、とても辛くなります。ふと思うんです。「こんな悪い子が生まれるくらいなら、あの双子が生きててほしかった」と……。「双子が生きてたら私は今どうなんだろ、何をしてるんだろ」と。「男だったかな、女だったかな、もしかしてめっちゃにてる」と。親には強がってて言えないのですが、やっぱり逢ってみたかったです。「おねぇちゃん」という元気な声が聞きたかったです。
 でも、こんなこと考えてたら何も進みません。だから、私、決めたんです。私、亡くなってしまった双子の分まで、「3人分を生きる」と。生きる、こう決めてから、変わったんです。何事にも全力で、取り組むようになりました。おかげで、受験も成功し、偏差値60、倍率6倍の都立中学にいけました。辛いことはたくさんあります。でも、「3人よれば文殊の知恵」で乗り越えています。

今日のお話 ー2月24日(金)ー

   アルフレッド・アドラーの名言・格言

  大切なことは共感すること。

  共感とは、

  相手の目で見、

  相手の耳で聞き、

  相手の心で感じることだ。

ちょっといい話

   さんがにち 

 高校生1年になってすぐ、母が肺がんで入院した。親父と相談の結果、告知はしなかった。夏が過ぎ、秋が過ぎ、病気の劇的な進行とともに母も「もうこの病気は治らないことに気づき始めた」と思う。
 そして年末、危篤状態になった。でも12月30日、意識を取り戻した。

母:今日は何月何日?
俺:12月30日だよ。
母:そうかい、ウチはねぇ、この町で3代愛されてきた八百屋だよ。
俺:うん、そうだね。
母:だからね、町の人に迷惑かけちゃいけないんだ。
俺:どういう意味だい?
母:せめて「さんがにち」が明けるまで、不幸は出しちゃいけない。あた
  しなんかのためにみんなに正月早々やな思いをさせちゃいけない。

 そう言ったきり、母は年が明けて1月4日の明け方まで眠り続け、そして旅立って逝きました。我ながら「すげぇ母親を持ったもんだ」と誇らしかった。やっぱね、もう、だめ、と思った時には母のことを思い出します。そうすると、まぁ、なんとかなる、うん。

今日のお話 ー2月21日(火)ー

   アルフレッド・アドラーの名言・格言

  判断に迷ったら、

  より多くの人間に貢献できる方を選べばいい。

  自分よりも仲間たち、

  仲間たちよりも社会全体。

  この判断基準で大きく間違うことは、まずないだろう。

ちょっといい話

   ごめんね 

 私がまだ小学2年の頃、継母が父の後妻として一緒に住むことになった。何だか馴染めなくて、いつまで経っても「お母さん」と呼べないでいた。そんなぎくしゃくした関係だったけど、継母が私のために一生懸命だったことはよくわかってた。小学校4年になった夏休み、継母の提案で二人で川に遊びに行った。気が進まなかったけど、断る理由もなくしぶしぶついていった。川に着くと私は、継母のことを放ったらかしで川に浸かって遊んだ。水と戯れてた時、急に深みにはまって溺れて息が出来なくなった。すごく苦しかった。でもそのうちだんだん苦しくなくなってきて、意識が飛んだ。
 気が付くと、私は病院のベッドで寝ていた。「一時心臓が止まって危なかったんだよ」と父が言った。ベッドの傍に、継母はいなかった。私は父に「あの人は」と訊いた。父は一呼吸置いてゆっくりとした口調で教えてくれた。「私が溺れた時に継母が服のまま飛び込んで私を助けてくれ、そのまま力尽きて下流まで流された。その後救助されたものの、今も意識が戻らないのだ」と……。私は次の日に継母のいる病室に行った。継母は機械に囲まれて、いっぱい管をつけられていた。彼女は、そのまま我が家に戻ってくることなく…。
 葬儀が終わって母の遺品を整理してたら、鍵のついた日記が出てきた。私は父と一緒に何とかか鍵を探し当てて、日記を読んだ。そこには私との関係に悩む継母の苦悩など、私のことばかり書いてあった。ずっと読み進めていくと最後のほうの日記に「ちょっとはにかみ屋さんだけどとてもいい子。あの子なら、命かけてでも守れる自信がある。○○ちゃんを私に託してくれた△△(実母の名前)さん、本当にありがとうございます。」
 継母は、あの日記を書いた数日後に命と引き換えに私を守ってくれた。いつだってとても優しい目で私を見てくれていた。そんな気持ちはちゃんと伝わってきてたのに、私はあの人に何一つしなかった。愛情をもらいっぱなしでそれに答えなかった。私は愛情どころかあの人の命まで奪ってしまった。日記を読んではじめて、私は「お母さん」と大声で叫びながら錯乱状態になり、声が出なくなるまで「ごめんね、ごめんね」と言って泣いた。ぐしゃぐしゃになって泣いても、後悔ばかりで気持ちは晴れなかった。
 年月が過ぎても、私は未だに「母」に対して申し訳ない気持ちでいっぱいだ。数十年経った今でも夏になるたびに思い出す。

城東中学校を育てる会 −2月20日(月)−

 10時から「城東中学校を育てる会」を開催しました。
 有識者、児童委員、同窓会、保護者それぞれの代表の方に来校していただきました。
 授業参観や学校紹介、現況報告、情報交換等を行いました。情報交換では、「前期学校評価アンケート結果」を使い、意見交換をしました。
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今日のお話 ー2月20日(月)ー

   アルフレッド・アドラーの名言・格言

  苦しみから抜け出す方法はたった1つ。

  他の人を喜ばせることだ。

  「自分に何ができるか」を考え、

  それを実行すればよい。

ちょっといい話

   携帯 

 俺は母親が嫌いだ。大嫌いだ。おせっかいなとこが嫌いだ。何よりも子どもを一番に考えるとこが嫌いだ。大学に入り、一人暮しを始めて2年も経つ俺を、赤ちゃんみたいに心配するとこが嫌いだ。今まで付き合った彼女より、誰よりも俺を心配してくるとこが嫌いだ。金が無くなって「もっと金を送れ!」と言って、結局送ってくるくせに、渋るとこが嫌いだ。「こんな家に生まれてこなければよかった」と言うと電話越しに本気で泣くとこが嫌いだ。
 俺は母親が嫌いだ。とにかく嫌いだ。そんな母親がこの間死んだ。毎日のように俺を心配してかけてくる電話がただただウザくて、俺は携帯の電源を切っていた。だから、通夜にも行けなかった。死因は働き過ぎでの過労と、電話が繋がらない俺を心配して体調を崩したからだった。
 俺は母親が嫌いだ。自分の給料の倍以上の仕送りをするために、働き過ぎるとこが嫌いだ。こんな俺のために死んだ母親が嫌いだ。50年近くの人生の半分を俺に費やしたとこが嫌いだ。死ぬ直前まで、俺の声を聞きたがっていたとこが嫌いだ。
 俺が毎日2chに入り浸っているとも知らず、死ぬまで働いた母親が嫌いだ。今日をもって、俺は2chを引退する。嫌いだった母親にしてあげれなかった親孝行を今更だがしたい。
 受け止めれない程の愛をくれた母親の為に頑張って生きていきたい。

今日のお話 ー2月17日(金)ー

   アルフレッド・アドラーの名言・格言

  「みんなが私を嫌っている」、

  「今回駄目だったから次も駄目だ」

  という思い込みは、

  冷静に立証すれば消えていく。

ちょっといい話

   カーチャン 

○ うんと小さい頃「大きくなったらカーチャンと結婚する」と言った俺
 に「お父さんがいるから無理」と断って失恋させたカーチャン
○ ある日、目が覚めると俺の体が全身落書きだらけで泣きながら、「姉
 ちゃんに落書きされた」と訴えると、「足の裏はお母さんです。可愛く
 描けたと思っています」と応えたカーチャン
○ うつ伏せで 寝てるとカンチョーしてくるカーチャン
○ 俺が車に轢かれそうになった時に悲鳴をあげながら庇ってくれたカー
 チャン 
  俺の代わりに轢かれたカーチャン 
  なぜか無傷のカーチャン
○ 職場でいじめられて「たっくんがいじめられてたとき助けてあげられ
 なくてごめんね、一人じゃどうしようもないものなんだね」と謝ってき
 たカーチャン
○ 新しい職場では無駄にもててたカーチャン
○ 引篭った俺を外に出そうとお出かけに誘ってくるカーチャン 
  断ると悲しそうな顔をするカーチャン 
  気まぐれでOKするとちょっと驚くくらい喜ぶカーチャン
○ 明日お弁当作るから公園で食べようねと笑顔のカーチャン 
  次の日「お弁当ができたら呼ぶから準備しておいてね」と言ったまま
 呼びに来なかったカーチャン 
  見に行くとキッチンで倒れてたカーチャン
○ もう会えないカーチャン
○ 最後まで迷惑かけて心配かけてたけど大好きだったカーチャン

今日のお話 ー2月16日(木)ー

   アルフレッド・アドラーの名言・格言

  甘やかすと相手の勇気を奪ってしまう。

  手助けしたり、

  チヤホヤしたりするのではなく、

  独り立ちの練習をさせなさい。

ちょっといい話

   失敗しても恥じゃない 

 間違いを、悪いことや恥ずかしいことと思う人もいるだろう。でも、ぼくは間違いは決して恥ずべき事ではないと考える。生きている間に一度も間違えない人なんて絶対にいないだろうから。
 間違いを笑われたことがある人もいよう。誰かの失敗を笑いにする神経がぼくはよく分からない。「教室は間違えるところだ」と言われる。失敗を、次に生かせればいいのだ。みんなで思い思いに意見を出し合い、みんなで本当の答えを探すことでそれぞれ成長できるんだ。
 ぼくはこの先もたくさん失敗したい。誰かの失敗を笑う人がいたら注意し、失敗した人が次は成功するようにアドバイスできたらどんなにいいだろう。

今日のお話 ー2月15日(水)ー

   アルフレッド・アドラーの名言・格言

   命令口調を止めて、

   お願い口調や私を主語にして伝えるだけで、

   相手に勇気を与えられるだろう。

ちょっといい話

   高校受検へ家族が支え

 ぼくは中学3年生、受験生だ。家族のぼくへの態度が変わってきた。去年までの母は「勉強しろ、勉強しろ」と口酸っぱく言ってきたが、ぼくは勉強よりも自分の好きなことや熱中していることをやりたかった。母とよくけんかになった。
 4月からぼくは受験を意識して勉強するようになった。スポーツとの両立で悩んだ。そんなとき家族が助けてくれた。1番変わったなと思ったのは母で、積極的に相談に乗ってくれた。
 「人生で1番みんなに応援してもらえるのは受験のときだ」と聞いたことがある。本当にその通りだと思った。
 義務教育が終わり、進学する場合、人生最初の試練となるのが受験だ。この先の人生にも影響を与えかねない。今の自分を何かと応援してくれる家族、友達、先輩は貴重な存在だ。彼らの支えはとてもありがたい。

今日のお話 ー2月14日(火)ー

   アルフレッド・アドラーの名言・格言

  人間は、自分の人生を描く画家である。

  あなたをつくったのはあなた自身。

  これからの人生を決めるのもあなただ。

ちょっといい話

   あの子を許してくれましたか 

 小学校の時、いじめられた。消しゴムを勝手に使われて、怒った相手が学年のボスの女子。それ以来、クラスから無視された。それが中学に入っても変わらなくて、真剣に自殺まで考えてたけど、音楽とか聞いて救われた。
 中2の時に転校して、友達にも恵まれた。高校に入ってすぐバンドを始めた。地元の楽器屋に寄った帰り、私をいじめていたあの女子と再会した。親戚の法事で来たらしい。彼女は、あやまってくれた。私は、とっくの昔に「許しているよ」と言った。それから、彼女の乗ったバスを見送り、私も帰ろうとした時だった。後ろから聞いた事のない大きな音がした。振り返ると彼女が乗っているバスが、ひしゃげていた。すぐ側には、大きなクレーン車が横転していた。すぐにレスキュー隊が到着して、割れた窓から血まみれになった彼女を運び出した。それからの記憶はなぜか曖昧で、はっきり覚えていない。
 1月ほど経って、私は電車に乗って彼女の家に行った。葬式にも通夜にも出席できなかったので、せめて仏壇に手を合わせたいと思ったからだ。仏壇に手を合わせ、帰ろうとする私を、彼女の両親が引き止めた。彼女の母親が、亡くなった彼女がつけていた日記帳を見せてくれた。日記には、「私をいじめて後悔していた事、始めたのが自分で引っ込みがつかなくなってしまった事、私が転校し謝る事ができなくなった事」などが綴られていた。そして、「中学の先生に私の転校先を聞き、そして私に謝りに行くという決心」が、日記の最後だった。「親戚の法事」は嘘だった。
 読み終えた私に、彼女の母親が「あの子を許してくれましたか?」と聞いてきた。私は一言、「はい」とだけ、多分涙声で答えた。すると彼女の母親は私の手を両手で掴み、「ありがとう」と言って鳴咽を漏らし出した。彼女の父親も余っていた私の手を掴み、私の目をまっすぐ見ながら「ありがとう」と言った。2人とも何度もむせび泣きながら、何度も「ありがとう」と言った。

今日のお話 ー2月13日(月)ー

   アルフレッド・アドラーの名言・格言

  人は居場所がないと感じると、

  精神を病んだり、

  アルコールに溺れたりする。

  他者に貢献することで、

  居場所を確保すればいい。

ちょっといい話

   うちの娘3才は難聴。ほとんど聞こえない 

 うちの娘3才は難聴。ほとんど聞こえない。その事実を知らされたときは嫁と泣いた。何度も泣いた。難聴と知らされた日から娘が今までとは違う生き物に見えた。嫁は自分を責めて、俺も自分を責めて、まわりの健康な赤ん坊を産むことができた友人を妬んだ。ドン底だった。
 バカみたいにプライドが高かった俺は、まわりの奴等に娘が難聴って知られるのが嫌だった。何もかもが嫌になった。嫁と娘と3人で死のうと毎晩考えていた。ある晩、嫁が俺に向かってやたらと手を動かしてみせた。頭おかしくなったんかと思ってたら、喋りながらゆっくり手を動かし始めた。「大好き、愛してる、だから一緒にがんばろう」手話だった。そのときの嫁の手、この世のものじゃないかと思うくらい綺麗だった。それで目が覚めた。何日もまともに娘の顔を見てないことにもやっと気付いた。娘は眠ってたが、俺が声をかけるとニタッと笑った。
 あれから3年。娘の小さな可愛い手は上手に動いてる。喋ってる。
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