最新更新日:2024/06/12
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ともに生きる

ちょっといい話

   これからも長生きしてね。お父さん 

 私は父が大好きだ。いつも優しく笑顔で、私がいじめられていたときも、守ってくれた。父は職場が遠いので、朝7時に車で行き、遅い時には夜11時に帰ってくる。父が休みの日は、学校から帰ってくると「おかえり」と言って、「じゃあ寝てくるね。」と言う。父は私と姉が学校から帰ってくるのを待ってくれている。
 ある日突然、職場で父が倒れた。習い事をしていたため、行くのに時間がかかった。父がいる病院まで行くとき、雨が降っていた。病院に着いたのは5時ぐらいだったが、夜1時までその病院にいた。患者さんがとても多かった。私は、「父が、癌や深刻な病気なのではないのか」と、ずっと考えていた。それから数時間後、「看護師さんが入っていいですよ」と言ったので、病室に入った。父はグッタリした様子で、ベッドで寝ているようだった。看護師さんが、「まだ目を覚まさないようなので1日入院する」と言っていた。倒れた理由は、雨による気圧だったらしい。「癌でもないですよ」と言われたので、人生で一番安心したと思う。「深刻な病気じゃなくてよかった」と心の底から思った。
 これからも長生きしてね。お父さん。

今日のお話 ー3月10日(金)ー

   アルフレッド・アドラーの名言・格言

  子どもにとっては、家族が世界のすべてなのだ。

  親に愛されなければ、死ぬしかない。

  だから子どもたちは全力で親に愛されようとする。

  そのときとった命がけの戦略が

  そのまま性格形成につながっていく。

ちょっといい話

   ずっと笑っています

 私がまだ中学1年生だった頃のお話です。
 私には5つ年上の姉がいました。 姉は中1の時に癌がみつかり、それ以来ずっと闘病生活を送っていました。いつも笑っていた姉は、私の中では無敵の存在。そんな姉が、私は大好きでした。でも、姉の努力とは裏腹に、癌はどんどん姉の体を蝕んでいきます。もう手を上げるのも苦しいはずなのに、私が学校の話をすると、いつも私の頭を撫でてくれました。私が中学上がる頃、姉は天国へ旅立ちました。
 姉が亡くなったその日、私は夢をみました。「ごめんね。卒業式まで、見てあげられなかったね。一緒に遊んであげられなかったね。ダメなお姉ちゃんでごめんね。私はいつも、りあのこと、見守っているからね」、 そう言って、姉は去って行きました。亡くなる直前まで私の手を撫で、微笑んでいた姉。苦しかったはずなのに、ずっと笑っていた姉。亡くなった後も、私のことを考えてくれた姉。
 今思い出す思い出の中の姉は、ずっと笑っています。

今日のお話 ー3月9日(木)ー

   アルフレッド・アドラーの名言・格言

  子どもは、親が貼ったレッテル、

  たとえば「しっかりした子」、
      「甘えん坊」、
      「おてんば」、
      「恥ずかしがり屋」

  などに対して過剰に応えようと努力する。

ちょっといい話

   優しい手

 おばあちゃんが、認知症になってしまった。いつも何でもかんでもこなしてたおばあちゃんは、認知症になってから「ぼーっと」するようになっていてた。急に怒り出したり、怒り出したと思ったら、急に優しくなったり……。私はついていけなかった。
 ある冬の日、その日は久しぶりにに雪が降った。おばあちゃんのことはみんなあまり気にせず、いつもほったらかしだった。その日私は、いつの間にか寝てしまっていて、おばあちゃんのことを見ていなかった。次、目を覚ました時おばあちゃんはいなかった。家中どこを探してもおばあちゃんがいないのだ。すぐ家族に電話して、町中探し回った。警察にも探してもらい、やっとおばあちゃんがみつかったのだ。家から遠く離れた公園のベンチにおばあちゃんは座っていた。おばあちゃんのまわりには雪が積もっていて、とても寒そうだった。どうしてあんな場所にいたのか聞かれた。おばあちゃんは、「○○(私)ちゃんを探しにきたんだよ」ってしわがれた声で言った。私は小さい時、迷子になりこの公園で見つかったのだ。あの時、私を見つけてくれたのはおばあちゃんだった。さみしくって怖かった。そして、家族が迎えに来るまで、ベンチで一緒に手を繋いで待っていた。あの時助けてくれたおばあちゃんの優しい手は、もうシワだらけで小さくなってしまったけど、今もあの時と同じ優しい手だった。

今日のお話 ー3月8日(水)ー

   アルフレッド・アドラーの名言・格言

  まだ無理だと思ってもやらせてみる。

  失敗しても「今度は上手くできるはず」と

  声をかけることが大切。

1年生 3時間目の授業 3月8日(水)

 1年生の3時間目の授業の様子です。

 1組は英語、2組は理科、3組は保健体育、4組は保健体育、5組は保健体育の授業でした。
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今日のお話 ー3月6日(月)ー

   アルフレッド・アドラーの名言・格言

  「仕事で失敗しませんでした。

   働かなかったからです」、

  「人間関係で失敗しませんでした。

   人の輪に入らなかったからです」。

  彼の人生は完全で、そして最悪だった。

今日のお話 ー3月3日(金)ー

   アルフレッド・アドラーの名言・格言

  たとえ不治の病の床にあっても、

  天を恨み泣き暮らすか、

  周囲に感謝し余生を充実させるか、

  それは自分で決めることができる。

ちょっといい話

   誰よりも娘の卒業式を楽しみにしてたんだよ 

 私の小学校6年生の卒業式のこと。退場の時私は、お母さんに大きい花束を渡された。今思えば、騒ぐほど大きいものじゃなかった。当時クラスでも大人しかった私は、学校の皆の前で変に目立つことが嫌で、渡してきた花束を「いらない」と言ってお母さんに押し返してしまった。その後、移動した教室で、お母さんはまた私のところに駆け寄り、花束を渡してきた。どれだけ拒否しても押し付けてくるので、嫌な顔をしてお母さんを睨みながらしぶしぶ奪い取った。クラスの人に見られるのが本当に嫌だった。
 その後、家に帰っても私は終始不機嫌で、「何であんなことしたの。私のことなんにも考えてない、こんなのいらない」とひどいことをお父さんにいい続けた。「お姉ちゃん(私)の事分かってあげられなくてごめんね。けど、お母さんはお姉ちゃんにバレないように花束を買って、誰よりも娘の卒業式を楽しみにしてたんだよ」と……。
 その夜私は、その時お父さんに言われた事がずっと頭をかけ巡っていた。思い返すとお母さんは私に花束を渡すとき笑顔で「おめでとう」と言ってくれていた。拗ねて全然見ていなかった花束には弟が、「おねえちゃんそつぎょうおめでとう」と書いてくれていた。
私はこんなに家族に想われている。なのに私は何てひどいことをしたんだろうと、涙が溢れて止まらなかった。私は夜中にもかかわらずお母さんを起こして、涙でぐちょぐちょの顔で謝り続けた。お母さんは私を責めもせず、ただ「ごめんね、お姉ちゃんがそんなに嫌な思いをしてるとは思わなかった。ごめんね」と繰り返していた。
 これを書いている今も罪悪感でいっぱいで、思い出す度に涙でぐちょぐちょで、家族の大切さと暖かさを感じます。私はまだ高校生だから成人したらもっと親孝行して、いつかまたこのことを謝れたらいいなぁと思います。お母さんだいすき。

今日のお話 ー3月2日(木)ー

   アルフレッド・アドラーの名言・格言

  幸福な人生を歩む人のライフスタイル(=性格)は、

  必ずコモンセンス(=共通感覚)と一致している。

  歪んだ私的論理に基づく性格では、

  幸せになることはできないだろう。

今日のお話 ー3月1日(水)ー

   アルフレッド・アドラーの名言・格言

  行動するたびに叱られ、褒められて育った人間は、
  叱られるか、褒められるかしないと行動しなくなる。
  「よくできたね」と褒める必要はない。
  ただ「ありがとう」と感謝を伝えるだけでいい。
  感謝される喜びを知れば、
  自ら進んで周囲に貢献しようとする人間になる。

ちょっといい話

   お前は体が弱いから

 小学校低学年でガンを患って以来、えらい病弱になった。元々体は弱かったけど、ここ数年は年を重ねていくごとに弱っていくような感じだった。ちょっとした事で熱を出したり、それが悪化して肺炎になったり……。今年は入院もした。それくらい弱かった。
 ある冬の日、学校から帰ってきて夕飯を食べた後。ゴロゴロしていたらチョコレートが食べたくなったので近所のスーパーに買いに行こうとした。だが両親は「寒いからダメだ」と言った。私は「それくらいいいだろう」と思った。いくら体が弱いとはいえ、近所のスーパーくらいいいだろうと思ったのだ。しばらく反論していたが、父親は、私が先月入院した話をもってきた。「そうやって寒い時に外出するから肺炎になってお前は1週間も入院したじゃないか」と……。わたしはチョコレートが買いに行けないとか、お菓子が食べられないとかそういうのじゃなくて、自分の身体の弱さで行動を制限される事が悔しかった。父に「お前は体が弱いから」、そう言われる事が悔しくて悲しくて、情けない事にわたしは泣いてしまった。そのまま布団に行って泣きながら眠った。
 数日後。昼食をつくるためにキッチンへ。戸棚の下にある引きだしにパスタがあったので開けると、そこには板チョコレートが何枚も入っていた。祖母に理由を聞くと「お父さんとお母さんが、夜の寒い時にチョコレート食べたいって言い出したら、いつでも食べられるようにって買ってきたんだよ。ばあちゃんも最初見た時はびっくりした」と笑いながら話していた。
 父と母は、私がどうしてもチョコレートが食べたくて泣いたんだと思ったらしい。何枚もの板チョコを見て、私は泣きそうになった。もう自分の身体の弱さを自覚してわがままを言わないようにしようと思った。

今日のお話 ー2月27日(月)ー

   アルフレッド・アドラーの名言・格言

  どうしたらみんなを喜ばすことができるかを、

  毎日考えるようにしなさい。

  そうすれば憂鬱な気持など、

  吹き飛んでしまいます。

  反対に自分のことばかり考えていたら、

  どんどん不幸になってしまいますよ。

ちょっといい話

   私は6人家族、4人しかいないじゃないか。あとの2人は?

 私のお母さんは、生まれつき少しみんなと違っていて、背中に「できもの」みたいなものがあります。そこを押したりすると、全部の神経と繋がっているらしく、死んでしまうそうです。今は普通に暮らしていますが、生まれたときは、「3才まで生きられるかわからない」と言われていたそうです。
 お母さんは、26才で、私を産みました。弟が1人いて4才差です。でも、ほんとは、もう2人、いるはずでした。私と2才差で、双子でした。でも、妊娠して3ヶ月で流産してしまいました。そのときの辛さは、残念ながら2才だった私にはわかりませんでした。この事を知ったのは3年前、小学校4年生のときです。そのときは、「へぇ」としか思いませんでした。でも、今、2人のことを考えると、とても辛くなります。ふと思うんです。「こんな悪い子が生まれるくらいなら、あの双子が生きててほしかった」と……。「双子が生きてたら私は今どうなんだろ、何をしてるんだろ」と。「男だったかな、女だったかな、もしかしてめっちゃにてる」と。親には強がってて言えないのですが、やっぱり逢ってみたかったです。「おねぇちゃん」という元気な声が聞きたかったです。
 でも、こんなこと考えてたら何も進みません。だから、私、決めたんです。私、亡くなってしまった双子の分まで、「3人分を生きる」と。生きる、こう決めてから、変わったんです。何事にも全力で、取り組むようになりました。おかげで、受験も成功し、偏差値60、倍率6倍の都立中学にいけました。辛いことはたくさんあります。でも、「3人よれば文殊の知恵」で乗り越えています。

今日のお話 ー2月24日(金)ー

   アルフレッド・アドラーの名言・格言

  大切なことは共感すること。

  共感とは、

  相手の目で見、

  相手の耳で聞き、

  相手の心で感じることだ。

ちょっといい話

   さんがにち 

 高校生1年になってすぐ、母が肺がんで入院した。親父と相談の結果、告知はしなかった。夏が過ぎ、秋が過ぎ、病気の劇的な進行とともに母も「もうこの病気は治らないことに気づき始めた」と思う。
 そして年末、危篤状態になった。でも12月30日、意識を取り戻した。

母:今日は何月何日?
俺:12月30日だよ。
母:そうかい、ウチはねぇ、この町で3代愛されてきた八百屋だよ。
俺:うん、そうだね。
母:だからね、町の人に迷惑かけちゃいけないんだ。
俺:どういう意味だい?
母:せめて「さんがにち」が明けるまで、不幸は出しちゃいけない。あた
  しなんかのためにみんなに正月早々やな思いをさせちゃいけない。

 そう言ったきり、母は年が明けて1月4日の明け方まで眠り続け、そして旅立って逝きました。我ながら「すげぇ母親を持ったもんだ」と誇らしかった。やっぱね、もう、だめ、と思った時には母のことを思い出します。そうすると、まぁ、なんとかなる、うん。

今日のお話 ー2月21日(火)ー

   アルフレッド・アドラーの名言・格言

  判断に迷ったら、

  より多くの人間に貢献できる方を選べばいい。

  自分よりも仲間たち、

  仲間たちよりも社会全体。

  この判断基準で大きく間違うことは、まずないだろう。

ちょっといい話

   ごめんね 

 私がまだ小学2年の頃、継母が父の後妻として一緒に住むことになった。何だか馴染めなくて、いつまで経っても「お母さん」と呼べないでいた。そんなぎくしゃくした関係だったけど、継母が私のために一生懸命だったことはよくわかってた。小学校4年になった夏休み、継母の提案で二人で川に遊びに行った。気が進まなかったけど、断る理由もなくしぶしぶついていった。川に着くと私は、継母のことを放ったらかしで川に浸かって遊んだ。水と戯れてた時、急に深みにはまって溺れて息が出来なくなった。すごく苦しかった。でもそのうちだんだん苦しくなくなってきて、意識が飛んだ。
 気が付くと、私は病院のベッドで寝ていた。「一時心臓が止まって危なかったんだよ」と父が言った。ベッドの傍に、継母はいなかった。私は父に「あの人は」と訊いた。父は一呼吸置いてゆっくりとした口調で教えてくれた。「私が溺れた時に継母が服のまま飛び込んで私を助けてくれ、そのまま力尽きて下流まで流された。その後救助されたものの、今も意識が戻らないのだ」と……。私は次の日に継母のいる病室に行った。継母は機械に囲まれて、いっぱい管をつけられていた。彼女は、そのまま我が家に戻ってくることなく…。
 葬儀が終わって母の遺品を整理してたら、鍵のついた日記が出てきた。私は父と一緒に何とかか鍵を探し当てて、日記を読んだ。そこには私との関係に悩む継母の苦悩など、私のことばかり書いてあった。ずっと読み進めていくと最後のほうの日記に「ちょっとはにかみ屋さんだけどとてもいい子。あの子なら、命かけてでも守れる自信がある。○○ちゃんを私に託してくれた△△(実母の名前)さん、本当にありがとうございます。」
 継母は、あの日記を書いた数日後に命と引き換えに私を守ってくれた。いつだってとても優しい目で私を見てくれていた。そんな気持ちはちゃんと伝わってきてたのに、私はあの人に何一つしなかった。愛情をもらいっぱなしでそれに答えなかった。私は愛情どころかあの人の命まで奪ってしまった。日記を読んではじめて、私は「お母さん」と大声で叫びながら錯乱状態になり、声が出なくなるまで「ごめんね、ごめんね」と言って泣いた。ぐしゃぐしゃになって泣いても、後悔ばかりで気持ちは晴れなかった。
 年月が過ぎても、私は未だに「母」に対して申し訳ない気持ちでいっぱいだ。数十年経った今でも夏になるたびに思い出す。

城東中学校を育てる会 −2月20日(月)−

 10時から「城東中学校を育てる会」を開催しました。
 有識者、児童委員、同窓会、保護者それぞれの代表の方に来校していただきました。
 授業参観や学校紹介、現況報告、情報交換等を行いました。情報交換では、「前期学校評価アンケート結果」を使い、意見交換をしました。
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学校行事
3/15 2年進路説明会
3/16 5時間授業

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犬山市立城東中学校
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