第1回 教育と笑いの会

先週末は、記念すべき「第1回 教育と笑いの会」でした。野口芳宏先生の基調講演、玉置崇先生の教育落語、桂雀太師匠の爆笑落語、志水廣先生の人生論と最後に出演者によるパネルディスカッションという内容です。パネルディスカッションの司会役の私にも、一体どんな内容になるかわかりません。野口先生が玉置先生に教育と笑いの会を起ち上げたいということを話された時にその場にいたのですが、「会長はあんただ。具体的なことはあんたに任せる」の一言でした。お願いする方もお願いする方ですが、その言葉を真に受けて(野口先生曰く)企画する方も企画する方です。まあ、着地点もわからないパネルディスカッションの司会を引き受ける私が言えることでもありませんが。主催者側も中身がよくわからない会だというのに、何と200席が満席です。東北や九州からの参加者もあります。一体何を期待して来られるのか、呆れるやら感動するやらでした。

野口先生の基調講演は、何かと暗い話題が多い教育界にはもっと笑いが必要だというお話だったのですが、とにかく笑いが絶えません。「教師の笑顔が子どもたちを幸せにする」「笑いはパワーを生む」という言葉をまさに地でいくお話でした。野口先生の確かな話術は、笑いの間にも通じます。川柳や漢語などを交えた、野口先生ならではの笑いに思わずうなります。笑いは、残酷な面がある。人が困っているから面白いと森繁久彌さんの駅前シリーズ(話の内容からするに、おそらく社長シリーズの勘違い)を例に話をされます。残酷性を意識して笑うこと、不快に対する耐性をつけることはおおらかさにつながるという主張を聞き、野口先生の視点の鋭さと確かさに改めて感心しました。
笑いながら聞いていますが、だんだん緊張が高まってくるのを感じます。「この後の出演者のハードルは高いよなあ」と他人事の間はよかったのですが、話が終わりに近づいてもパネルディスカッションは一体にどこに向かえばいいのかまったく見えてきません。頭を抱えているうちに、愛狂亭三楽(玉置先生)の教育落語です。

観客の9割は教育関係者です。日ごろアウェイの敬老会で鍛えているだけに、ホームのこの日は三楽ワールド全開です。教育関係者にしか受けないネタでも爆笑を取ります。久しぶりにお聞きしましたが、想像以上に素晴らしい出来です。並の二つ目ではかなわないのではないかと思いました。玉置先生の教室の空気を読む力は、落語で鍛えられた面も大きいということを再認識しました。

一方、雀太師匠はアウェイです。しかも玉置先生が大うけしたあとです。さぞやプレッシャーがかかったことだと思います。しかし、さすがはプロです。話芸の素晴らしさを見せるだけでなく、素人とプロの違いが際立つ仕草の芸で観客を落語の世界に引き込みます。師匠演じる酔っぱらいは、酔っぱらいであるにもかかわらず背中に一本芯が通っているように感じました。プロであるとはどういうことかを学ばせていただいたように思います。玉置先生が、「若手落語家一押し」と言うのもうなずけます。

さあこうなるとプレッシャーがかかるのが志水先生です。傍目にも緊張が伝わります。志水先生のこのようなお顔を見るのは久しぶりです。しかし、本番になると先ほどの緊張が嘘のようです。いきなり、どこかで聞いたような曲がかかります。芸人の「ヒロシ」のテーマです。ヒロシのパロディの「(志水)廣」です。これには唖然としました。志水先生の秘書の方曰く、「仕事そっちのけでネタを仕込んでいた」ということです。他の3人の方が話術、間の芸でしたが、志水先生は全く異色です。観客をたちまち志水ワールドと引き込みます。見事なつかみです。ひとしきり終わったあと、本題の笑いで包む人生論を展開します。終始笑いの絶えない話の底を流れるのは、何事も肯定的にとらえるという人生観です。これは教師が笑顔で子どもを肯定するという志水先生の教育理論にもつながります。ありがとうの言葉、気持ちを大切にする志水先生の考え方は、私の目指す授業とも共通します。私が志水先生に惹かれる理由はここなんだと、改めて思いました。

さて、ここまで皆さんの話に共通することは何だろうと考えますが、観客が爆笑だった以外にうまい接点は見つかりません。とんでもないことを引き受けたと顔が引きつるのがわかります。ここは日ごろからつくり込んだイミテーションの笑顔です。何とか笑顔をつくって観客の前にたちます。唯一の救いは、これまでの出演者のおかげで場があたたまり、皆さんの笑いのハードルが下がっていたことです。私の拙いふりにも簡単に笑いのスイッチが入ります。
パネルディスカッションの冒頭は、野口先生に突っ込みました。「野口先生は子どもたちを鍛えることをいつも提唱され、学力形成を大切にされていますが、笑いで学力はつくんですか?」という私の質問に対して、野口先生は一言「笑いで学力はつかない」です。一言で許されるのが野口先生です。野口先生の言葉をきっかけに話を進めようとした私の思惑は見事に肩透かしです。この後も、皆さん私の意図におかまいなく話が進んでいきます。
噺家の修行と教師の修行の違いが話題になります。噺家は修業時代に師匠に付き添って寄席で雑用をこなしている間に多くの噺を聞くことができます。一方教師は採用されたその日からいきなり教壇に立ちます。先輩の授業を見ることもないまま授業をするのです。なるほど思わされる話ですが、笑いからはだんだん離れていきます。観客の反応が気になります。パネルディスカッション中は、ほとんど話し手の方は見ずに観客を見ていました。私の顔からは笑顔が消えていたことでしょう。幸いにも、笑いに関係のない話でも観客は集中しています。これなら大丈夫と思いながらも、何とかテーマの笑いに戻さなければいけません。
ここで私を助けてくれたのが雀太師匠です。さすがプロ、私のふりに対して意図をすぐに察して見事につないでくれます。雀太師匠が3人の話を真剣に聞きながら、どう反応しようかと考えている姿が印象的でした。
高座に上がった時点では観客との間に溝がある。その溝をまくらで反応を見ながら埋めていく。この日も観客の反応を見ながら5つの話から何を話すかを選んだそうです。なるほど、一見一方通行に見える落語ですが、そこには観客との確かなやり取りがあります。逆にできの悪い授業の方こそ一方通行です。このことは授業における攻めと受けにつながります。野口先生のいつもの「計画の論理(教師の都合)」「状況の論理(子どもの都合)」「教材の論理」に話題が移りました。
笑いは緊張が弛緩する時に起こるという話も新鮮で納得できるものでした。授業中に考えている時、子どもは緊張しています。それが、わかった瞬間に緊張が弛緩し笑顔になります。笑顔の多い授業はこの視点でも素晴らしいのだと気づきました。
また、教師でない参加者である玉置先生の学校のPTAの方も場を盛り上げてくれました。急なふりにも見事に保護者の視点で答えてくれます。これだけ授業を見る目の肥えた保護者のいる学校の先生方のプレッシャーは半端ないだろうと同情します。このプレッシャーをよい緊張に変えて先生方が授業改善してくれることも校長としてのねらいなのでしょう。
師匠やPTAの方のおかげで、蛇行(迷走)しながらも、何とか着地できたようでした。

最後に「第2回があれば、参加してくださいますか?」と会場に聞いたところ、大きな拍手で応えてくれました。かろうじて私の役目は果たせたようです。
終わってみれば、心地よい解放感に苦しかった気持ちはどこかに消えて、楽しかったという思いだけが残りました。参加してくださった知り合いの何人かに声を変えたところ、異口同音に「楽しかった」「来てよかった」「また来たい」という言葉が出てきました。主催者側の一人として、とても幸せな気持ちになりました。
素晴らしい会になったのも、いつものようにこの会を裏で支えてくれた(株)EDUCOMのスタッフの皆さんのおかげです。心から感謝です。

終了後の懇親会では、多くの方と楽しくお話しすることができました。楽しい話、参考になる話を聞かせていただきましたが、中でも久しぶりにお会いした私と同年の校長の「発信しないということも発信だと気づいた」という深い言葉が印象に残っています。その事情はここでは触れませんが、厳しい状況をくぐり抜けたからこそ言える言葉だと思いました。

日ごろなかなか味わうことのないプレッシャーと解放感に浸ることができた1日でした。このような機会を得られたことに感謝です。

ちなみに、第2回をどうしようか悩んでいた玉置先生ですが、もう企画ができたと報告がありました。あとは出演交渉だけだそうです。

「ホンマにやるのんかい!?玉置先生!!」
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