野口芳宏先生から、いつも以上に多くを学ぶ

3連休の最終日は、今年度第4回の教師力アップセミナーでした。国語の授業名人野口芳宏先生の講演です。台風19号が近づいている中、多くの皆さんが参加してくださいました。それだけ、皆さん野口先生のお話に期待されているのでしょう。私もその一人です。教師力アップセミナー開始以来、毎年一度も欠かさず講師としてご登壇いただいています。そのぶれないお話にはいつも元気をいただいています。

午前中は、「海の命」をもとに野口先生が考える物語授業の進め方を具体的に教えていただけました。野口先生は学習用語を教えることを大切にされています。国語の学力には教材内容と教科内容があります。教科内容の大切な要素として、学習用語を挙げられます。作品の最初の1行からも、「題名」「作者」「作家」「筆名」と教えるべき学習用語がたくさんある。「会話文」と「地の文」、「段落」などもきちんと定義をして教えるべきだと語られます。
音読も、題名は大きく、作者名は小さく、題名と本文の間の空白行はびっくりするほどとって静かに読み始めるというように、教えるべきことをきちんと教えるようにと主張されます。

野口先生の全員参加の考え方が、この日はいつも以上に詳しく語られました。挙手に頼ると全員参加できない。「○か×」と全員に判断を求める。短い言葉で「書かせる」。「主人公の性格を2字熟語で書きなさい」というように、時には2字熟語で表現させるといったやり方も示されます。作品にそって発問されるので、とてもよく理解できます。しかし、こういった技術を活かすためには、作品のどの部分を取り上げるべきかの判断が大切です。教材研究が大切なのです。

子どもの読み取りを助けるのに言葉を足しながら読む方法があります。道徳でよく使われる手法です。この言葉を足すことを「着後」、こうやって授業する方法を「着語法」と言うのだそうです。この言葉を今まで私は知りませんでした。どこかで目にしていたはずなのでしょうが、記憶にありません。お恥ずかしい限りです。
この方法を活用するのであれば、授業でどの表現を扱うがはっきりしていなければ、どこで言葉を足すべきか判断できません。こういった手法を活かすにも、やはり教材研究が大切です。この日、野口先生が模擬授業で伝えられたことの裏には、常に深い教材の読み取りがありました。表面的に野口先生の授業をまねようとしてもそれほど簡単ではない理由はそこにあります。

作品に書かれた「現象」「会話」「事実」から「合理的に推論」することが鑑賞力と定義されます。国語の授業で、私がいつも「本文を根拠として答えることを求めてください」と先生方にお話しすることは、この野口先生のお考えの影響です。
この解釈を助ける方法の一つが比較です。この言葉がなければどうだろう、この表現を他の表現に変えるとどう違うと問いかけることで、作者の意図や表現したいことがよくわかります。このことを具体的な例でわかりやすく伝えられます。
解釈で大切なことは、表の意味「表層義」ではなく裏の意味「深層義」であると話されます。私たちはこのことを明確に意識することなく問いかけ、答えさせることが多いように思います。子どもから「表層義」しか出てこなかった時にどう対応するかが教師に問われますが、この「表層義」「深層義」という言葉を象徴的使うことで、問い返しやすくなると思いました。

この日の模擬授業で、野口先生は参加者に何度も短く端的に答えるように迫りました。考えが明確になっていないと、言葉がどんどん足され言っていることが揺れていきます。聞いている方は何を言いたいのかよくわかりません。短く端的に伝える訓練をする必要があるという主張はその通りだと思います。
ともすると、子どもがたくさんしゃべったことを評価する傾向があります。そのこと自体を否定する気はありませんが、教師が問い返すことで、その内容を明確にさせていくことが大切だと思います。

この日、野口先生は「問われて気づく」ということを何度も強調されました。教師が問わなければそのまま気づかずに済んでしまうことがたくさんあるということです。子どもに「問いかける」のは教師の大切な役割です。では、何を問いかけるのか。やはり教師に求められるのは教材研究ということになります。どこまで行っても、そのことから逃れられません。だから、野口先生のお話をうかがうと、いつも「お前はきちんと教材に向き合っているか」「教師たる者、学び続けているか」と迫られている気持ちになるのでしょう。

午後の第一弾は、若手の授業ビデオをもとに野口先生が講評をするというものです。野口先生が批判される「学び合い」に取り組んでいる学校です。司会はその学校の校長です。授業自体は学び合い以前に国語の授業として課題の多いものでしたが、司会者は批判ではなくどうすれば授業がよくなるかという視点で野口先生の言葉を上手く引き出します。
このやり取りの中で、野口先生が話し合いそのものを批判しているのではなく、子どもたちが何を話し合うのか、その内容を問題にしていることがよくわかりました。いつか、野口先生にこういう学び合いならいいという授業をお見せしたいという司会者の言葉で終わりました(自校でと言わないところがずるい(笑))。

最後は、道徳の教科化とそれに伴う評価のお話しでした。教えるべきことは教えるべきだという野口先生の主張はその通りだと思います。教科化で何を教えるべきかが明確になるのならそれはとてもよいことだと思います。社会の誰もが納得する当然のこと(ルールは守る、人を傷つけてはいけない等)を学校で教えるのかということには、何か釈然としないものがあります。本来家庭で教えるべきことを学校で教えなければならなくなってきたということでしょう。では、価値観が分かれそうなことはどうでしょうか。それに対して教師は自分の考えを強く言うことに臆病になっています。保護者から批判も来るかもしれません。教科化でそのことも明確になるのなら少しは精神的に楽になるのかもしれません。しかし、野口先生は教科とは関係なく、教師が堂々と伝えるべきだと考えられていることが言葉の端々から伝わってきます。制度では教育の質を変えられない、それを変えることができるのは教師の質である。野口先生の言葉はいつも教師であることの意味を私たちに問いかけます。

東京大学名誉教授の東洋先生の「評価は有限である」という言葉を例に出し、評価することを恐れるなと話されます。所詮評価は有限である。野口の評価は野口個人の評価であって絶対ではない。別のものが評価すればまた変わる。そういうものだと。
そこには、批判を受けても堂々と答えるという強い意志が隠されています。私が胸を張ってこう言えるようにまでには、まだまだ自分を高める必要があると痛感させられます。

最後に野口先生の道徳の視点を少し話されました。見方・考え方・受け止め方である「観」をもとに考えるというものです。同じ事実に対して「非」観するのか「楽」観するのかでその後の行動は変わってきます。どうとらえるのかで生き方は変わってくるということです。次回は、具体的な道徳の授業を見せてくださるということです。とても楽しみです。

この日も、いつも以上に多くのことを考え学ぶことのできた1日です。いつ聞いても、何度聞いてもぶれない野口先生の姿に元気をいただくと同時に、わが身の至らなさを思い知らされます。まだまだ修行中の身であることを痛感します。

小学校で学校全体の授業がよくなるには

授業アドバイスをし始めたころ、学校全体の授業がよい方向へ変わるのは小学校の方が早いだろうと思っていました。小学校は学級担任が子どもに接する時間が長いので、先生がその気になれば、すぐに子どもたちが変わっていくからです。ところが、どうも中学校の方が、変化が早いのです。その理由が最初はわかりませんでした。素直に変わろうとする先生の数が中学校の方が多いわけではありません。むしろ小学校の方が多いくらいです。中学生が小学生以上に先生の影響を受けやすいとも思えません。しかし、ある程度の割合で先生が変わると、子どもたちの様子が大きく変わってくるのです。
その秘密は教科担任制にありました。1人の先生がいくつもの学級で授業をするので、多くの学級に影響力を持つのです。全員の授業が変わらなくても、一定の先生が変われば子どもがよい方向に変わりだします。子どもがよい方向へ変わりだせば、他の先生にとっても授業がやりやすくなり、結果的に授業がよくなっていきます。また、子どもの変化に気づくと、自分もまねをして見ようかと思うこともあります。よい取り組みが広がりだします。どうやら、こういうメカニズムのようです。

小学校は、1人の先生の変化の影響は1学級だけです。その学級のことを他の先生は見る機会がほとんどないので、子どもの変化に気づきません。広がっていかないのです。小学校を変えるのは難しい。そのように思うようになりました。
ところが、最近いくつもの小学校が、大きく変わることを経験しました。しかし、今度はその理由はすぐにわかりました。管理職や教務主任が積極的に先生方に働きかけているのです。授業の改善点や新しく取り組むことが学校全体に共有されるように強いメッセージを送っています。また、授業をよく見て、先生一人ひとりにきめ細かくアドバイスやフォローをしています。時には、「このようにやりましょう」と強制力を発揮していることもあります。小学校は学級担任が一日中子どもと接しますから、先生が変化すればすぐに子どもにも変化が出ます。アドバイスを1つでも実行してよい結果が出れば、また次のアドバイスを実行しようと思います。よいサイクルが回りだします。このよい取り組みを上手に学校に広げているのです。

この視点に立てば、小学校では先生方に対して個別にアドバイスすることも必要ですが、管理職や教務主任にその気になっていただくことがより重要だということです。中学校、高等学校では、何人かの先生に対して重点的にアドバイスをして、よい実践例を学校内につくってもらうこと優先してきましたが、小学校ではちょっと違うアプローチをした方がよさそうだと気づきました。学校経営の奥深さを改めて知らされました。

小学校の先生方の教材研究を考える

指導用教科書(赤刷り)を使って授業をしている先生が多いことに気がつきます。中学校ではそれほどでもないのですが、小学校ではかなりの割合のように感じます(ひょっとして先生方に児童・生徒用の教科書が支給されていないのかもしれないのですが・・・)。これ自体は決して悪いことではないのですが、どうもこの指導用教科書や指導書の使い方に問題があるのではないかと思うようになってきました。

小学校の先生は、1人で何教科も受け持ちます。中学校のように教科担任制であれば、1時間のための授業研究をすればそれが何回も活かせますが、1回授業をすればすぐに次の準備です。しかも、中学校であれば3学年しかありませんが、小学校は6学年あります。同じ学年を担当して以前の経験を活かせる確率は少なくなります。久しぶりに経験のある学年を担当したと思ったら、指導要領が改訂になっていてまたやり直しということもよくある話です。同じ学年の先生同士で教え合うことができればまだいいのですが、そんな時間もなかなか取ることができません。小規模校では1学年1人のこともよくあります。
小学校の先生の負担が大きいことはとてもよくわかります。だからこそ、効率的に教材研究をしようとするのは当然のことです。そしてその実態が、事前に指導書と指導用教科書を読んで、当日は指導用教科書を見ながら授業をするというものではないかと想像するのです。効率的に思えますが、そこには大きな問題があるように思います。最初から解説付きで見るために、教科書の内容に対して、どう扱えばいいのか、なぜこのような記述になっているのか疑問を持たなくなるのです。例えて言うならば、数学の問題を自分で解く前に解答を見ているようなものです。答はわかった気になりますが、自分で問題を解く力はつきません。
まずは、解説なしで教科書を読んでほしいのです。そして、子どもの視点で疑問を持ってほしいのです。疑問を解決するために長い時間をかける必要はありません。解決するのには指導書や指導用教科書を利用すればよいのです。自分で考えるというほんのちょっとしたことをするかどうかで、授業で押さえるべきポイントが見えてくるはずです。

このところ算数の授業を見るたびに、先生方が教科書を理解していないと感じさせられます。その原因は先生方の力量以前に、このような教材研究のやり方をしているせいなのではないかと思うようになりました。私の想像が正しいかどうか、先生方がどのようにして教材研究をしているのか聞いてみたいと思います。
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31