「フォロー」という言葉を使わない理由

発言や行動など、子どもが外化した時には必ずポジティブに評価することをお願いしています。たとえ、間違えた発言であっても、「なるほど、そう考えたんだ」と受容し、認めることが大切です。よい行動をほめて強化することや、子どもの失敗をポジティブにとらえて認めるといったことを、「フォロー」という言葉で表現される方がいらっしゃいます。耳にする機会も増えてきたように思います。しかし、私はこの「フォロー」という言葉を使わないようにしています。それに代わる言葉を持っていませんので、子どもの発言や行動を「受容する」「認める」というように具体的に伝えています。特に「受容する」「受け止める」という表現をよく使うようにしています。教師の行動としては同じなのですから、どんな言葉でもよいように思われるかもしれませんが、あえてそうしています。このことについて少し述べたいと思います。

一番気になるのが「フォロー」という言葉が、私にはやや上から目線のように感じることです。「フォローした」という言い方には「してあげた」という気持ちが付随しているように思うのです。間違えた発言に「なるほど、そう考えたんだ。○○さんの考えが聞けてうれしいな」といった言葉を返すことを「フォロー」と表現すると、間違えた発言だけれど子どもが傷つかないように気を使ってあげた。そのように感じるのです。一方、同じ対応でも、子どもを「受容した」「認めた」と表現すると同じ目線で子どもの存在を抱きかかえるように受け止めているように感じるのです。
教師はいつも目下の子どもを相手にしているため、無意識のうちに上から目線で接してしまうことがあるように思います。同じ対応に見えても、目線の高さは微妙な言葉の調子や表情の違いなどで伝わるように感じます。

どのような気持ちで接するかは子どもとの関係においてとても大切だと思います。「フォロー」という言葉を用語として正しくない、「フォロー」という言葉を使われる方が上から目線だと言っているわけではありません。「フォロー」という言葉に感じるニュアンスも人によって違うと思います。ただ、先生方に自然に子どもと同じ目線の高さを意識してもらいたい、子どもを受け止めるという姿勢を持ってもらいたい。そんな私の思いを「受容する」という表現に込めているのです。そして、いや何よりも自分自身が受容する気持ちを忘れないように、自戒の気持ちを込めて使っているのです。私が「フォロー」という言葉を使わない理由です。

塾での子どもの姿の変化に考える

先日、塾の経営者とお話する機会がありました。難関大学を目指す高校生対象の塾です。
最近は以前とは生徒の授業に対する考え方が変わってきたということを聞きました。受験には直接関係はないが、教科の内容に付随して視野を広げるような話をしても、反応が薄いというのです。というか、ムダな話はいいから早く試験に出ることを教えてくれという態度なのです。問題の考え方、アプローチの仕方といったことよりも、解き方そのものを知りたがる、知識を広げることよりも、試験に出ることだけをムダなく覚えようとする。そういう傾向が年々強くなっているというのです。

この話には少なからぬショックを受けました。この塾の対象となっている生徒は、学ぶことに前向きで、たとえ受験勉強といえども興味関心を持って取り組んでいたという印象があったからです。受験に必要な情報をお金で買う。そういう消費者的な態度が学力の上位の生徒にも広がってきているということです。では、学力をつけ、自らを高めるために学ぶという層はどこにいったのでしょうか。
試験に出ることだけを覚えればいいという傾向は、推薦入試の増加とも関係しているように思えます。推薦入試での進学を考えている生徒は、学校での定期試験での成績が重要になります。定期試験はその時授業で習った狭い範囲から出題されますので、塾などで対策を立てることで点数を取ることが容易になります。塾に期待するものは、即効性のある定期試験対策になるわけです。

小中学校では子どもたちが興味関心を持ち、自ら学ぶことを大切にした授業に変えていこうという試みが広がっています。また、そうしないと授業が成り立たないという背景もあります。大学も学生にどのような力をつけたのか社会から問われるようになり、授業評価を導入したりして講義の質を変えようとしています。ところが、多くの高等学校はいまだに出口の大学受験を自らの評価としています。希望の大学にできるだけ楽をして効率的に入りたいという生徒の消費者的な態度と相まって、そこでは本来の学ぶということがおざなりにされているのです。推薦入試も受験対策に追われることなく、自ら興味関心を持って意欲的に学ぶ人材を大切にしたいというのが本来の趣旨だと思うのですが、どうもそのようには機能していないようです。入試の内容が変われば高等学校も変わるとよく言われますが、AO入試などの昨今の大学側の入試改革もあまり効果は表れていないようです。

根本的な解決の方法が私にあるわけではありませんが、少なくとも高等学校の教師が子どもたちのこの状態に危機感持つことが必要だと思います。最も身近に接する教師が何とかしようと思わないことには何も変わりません。
かつて教壇に立っていた時、私は子どもたちから見れば自分の思いを繰り返し話す暑苦しい教師だったに違いありません。私が話すことが子どもたちによい影響を与えていたという自信はありません。今なら、もっとうまい方法を考えることもできたでしょう。しかし、そういう思いもなく子どもたちに接するよりは、まだましだったのではないかと思っています。
危機感を持っていても打つ手がないのかもしれません。しかし、子どもたちに学ぶことの大切さを伝えようと努力し工夫を続けることで、ほんの少しかもしれませんが、この状況を変えることができるのではないでしょうか。これは、高等学校に限らず、どの学校にでも当てはまることです。教師が、目指す姿を明確に持って日々子どもたちと接すれば、きっとその姿を見ることができる。そう私は信じています。

いろいろな場面での姿を知ることの大切さを実感する

先日の新卒対象の企業研修の後に懇親会とカラオケの2次会があり、私も参加させていただきました。まる1日の研修でしたので、一人ひとりの個性やよさをかなり把握することができたと思っていたのですが、懇親会や特に2次会でまた別の面にたくさん気づきました。研修ではぐいぐいとグループをリードしていた人が、2次会ではちょっと控えめでそれでも笑顔で場を盛り上げようとしていたり、逆に研修の時はおとなしく見えていた人が、積極的に場を作ってみんなが楽しめるように動いたりする姿を見ることができました。こういう場が得意ではないように見える人も、場の雰囲気を壊さないように自分にできるやり方で上手に参加していました。彼らのよいところをたくさん発見すると同時に、人の姿は場面によって変わることをあらためて感じました。

教師時代は教室で見せる姿と部活動や家庭での姿が異なることはよくわかっていたはずなのですが、研修や授業といった特定の場面でしか接することがなくなって、いつの間にかそのことを忘れていたようです。また、研修中と2次会での印象の差が大きかった人は、後日話を聞くとその日の午前中は体調が悪かったそうです。今回は2次会でその差に気づくことができましたが、もしこういう機会がなければ第一印象が変わることはまずなかったでしょう。第一印象で人を判断することがとても危険だということがよくわかります。人の姿は、場面でもその日の体調によっても変わります。人が見せる姿は常に一面でしかないことを肝に銘じておく必要があります。

このことは、教師にとっては特に大切なことだと思います。授業中の姿一つとっても、教科や授業者によっても大きく変わります。授業研究で自分の授業とは違った子どもの姿を見て驚いたという感想もよく聞きます。部活動や家庭ではなおさらでしょう。学級担任が時間をつくって、自分の授業以外での子どもの姿を見たり、部活動のようすみたりすることはとても大切です。教科担任の先生や部活動の顧問、保護者から子どもの姿を教えてもらうことも、日常的におこなう必要があります。小学校の先生は中学校や高校と違って、学級の子どもに触れる時間が多いため、子どものいろいろな姿を知っています。それでも、いやそれだからこそ、自分の印象に縛られずに、他の視点での子どもの姿を知る努力をしてほしいと思います。
いろいろな場面での子どもたちの姿を知ることの大切さを実感させていただきました。

「自主か強制か」で考える

教師に対して保護者から宿題を出してほしいという要望が上がることがあります。中学校では、毎週課題を課している学校も多いのではないでしょうか。その一方で、学習は自主的にやるものなので、子どもたちに強制的な宿題や課題を出さずに、自分で計画的に学習させるべきだという意見もあります。学校や学年によっては両者の間で熱い議論が交わされることもあるようです。最近身近でもそういう話を聞くことがありました。

自主的に学習するようになるのが理想ですが、ほっておいても自主的に学習する習慣はつきません。どうしても、宿題などで強制する必要があります。しかし、宿題をすることが学習であり、宿題をやったから十分と思うようになる心配があります。学習塾に通っている子どもの中には、勉強は塾でやっているからと家庭ではほとんど学習しない者もたくさんいるようです。自主的に勉強しないのですから、学年が上がっていくにしたがって宿題や課題が増やされることになります。塾だって宿題を課したりします。そうなると宿題や課題をこなすことで精一杯になり、自主的に学習する時間すら無くなってしまいます。悪循環です。学習は課せられたものを受け身でこなすものだと体にしみついてしまい、高校生になっても課題だ、補習だと強制されなければ学習しない子どもができあがるのです。理想とは程遠いことになります。
自主性を重んじる方は、だから宿題や課題を課すことはよくないと言うわけです。しかし、そういってほっておいたり、自分で学習しなさいと言ったりするだけでは、自主的に学習するようにはなりません。ほっておいてもする子はする。個人の問題だと言ってしまうのはあまりにも無責任です。宿題や課題に代わる方法が提示されなければいけません。ほっておいてもする子はなぜ自主的に学習するのでしょう。目的や目標が明確にあるからでしょうか。それとも学習そのものが楽しいからでしょうか。わかる、できるから楽しいのでしょうか。それとも、評価されることがうれしいのでしょうか。こういう仮説を立てながら、そのための方法を具体的にする必要があります。目的意識を持たせるための手立てはとっているのか。授業で学習が楽しくなるような課題を与えているのか。子どもたちに力をつけて問題を解けるようにしているのか。子どもたちの努力や頑張りをほめているのか。そういうことが問われるのです。

自主か強制か、いずれにしても究極は自主的にやれることです。とりあえず目先を何とかするために強制しても、自主というゴールにたどり着く道筋をきちんと見すえないと全く違うところに行ってしまいます。自主という理想を言うだけで歩き出さなければ、いつまでたってもゴールにたどり着くことはできません。自主か強制かという問題に限らず、ゴールにはどうやってたどり着くかという見通しを明確に示した議論が必要なのです。

介護に携わる方から学ぶ

昨日、介護に携わっている方とお話をする機会がありました。そこで、「いろいろな施設をまわったがその施設が一番自分にあう」といってくださる利用者が多いということを聞きました。「○○(施設名)だから、行く」。そう言ってもらえる施設だということです。学校も同じですね。「行かなければならないから行く」のではなく、「行きたいから行く」。そうありたいものです。
どうして、そう言っていただけるのか聞いてみると、雰囲気がよいということでした。笑顔がとても多い施設なのです。もう少し具体的に聞くと、職員と利用者だけでなく、利用者同士の関係もよいということです。新しく来られた方に対しても、利用者の方が積極的に声をかけてくださるというのです。なるほど、納得させられます。こういう話を聞くと、この雰囲気がどのようにしてつくられているのか気になります。さらに聞くと、利用者同士の相性なども考慮して座席も決めるなど、人間関係にとても配慮しているそうです。もう一つは、ムードメーカーになる職員の存在でした。この方は、「○○さんすごい」「すばらしい」「○○さんきれいだね」と、とにかく利用者をほめるのだそうです。介護施設の利用者は家族の世話になることが多く、家庭では肩身の狭い思いをしているのだと思います。だからこそ、ほめられることはとても力づけられることに違いありません。この方に、「どうして、ほめようと思ったのですか。教えてもらったのですか?」とたずねてみました。すると、「いろいろやってみて、利用者さんが一番笑顔になるのはほめたときだったから」という答でした。これには感動しました。「利用者さんの笑顔が見たい」という思いで接することで、「利用者から学ぶ」ことができるのです。この姿勢であれば、利用者に選ばれる、愛される施設になるのもうなずけます。

ここでの話は、学級経営や授業にもつながることです。介護の職員を教師に、利用者を子どもに置き換えるとよくわかります。教師と子どもだけでなく、子ども同士の関係をよくする。認め、ほめることで子どもたちに自己有用感を与える。目指す子どもの姿を明確にして、その姿が見られるように工夫し、子どもの姿から教師も学ぶ。異業種とはいえ、その構図はとてもよく似ていました。介護も教育も「人を前向きにする」という意味では同じなのです。

この日お話を聞いた方は、どなたも介護の仕事に対して誇りと熱い思いを持っておられました。こういう方々に介護の現場は支えられているのだと実感しました。学校現場も同じですね。素敵な方々からとても大切なことを学ぶことができました。ありがとうございました。
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