生徒募集競争

先日、大阪の私学の副校長とお話しする機会がありました。昨年度まで大阪府立高校の校長をされていたそうです。
学校会改革のお話が中心だったのですが、府立高校長時代のお話も聞くことができました。

・毎月のように校長対象の研修がある。
・学校の中長期計画策定して教育委員に直接面談で説明する。
・募集に関しては、オープンスクールや中学校訪問だけでなく、塾への説明会もおこなう。

中でも募集に関することが強く印象に残りました。公立高校が塾対象に説明会をする状況というのは、ちょっと想像がつきませんでした。
大阪は、私学も公立も授業料が無償です。府立の高校も何もせずに生徒が集まる状況ではないのでしょう。学校間の募集競争を否定する気持ちはありませんが、こういった競争が最終的に、学校の中身の向上につながってほしいと思います。入学した生徒をどれだけ成長させるかが、学校にとって一番大切なことですから。

学校全体で学びの質を上げる難しさ

昨日は中学校の公開研究会に参加しました。

小学校の頃に学級崩壊を経験した学年もあり、生徒指導上大変であったと聞いていましたが、どの教室も落ち着いた雰囲気で、笑顔があふれる授業でした。子どもたちの学び合いをベースにした授業づくりのよさが感じられます。先生方が互いに学び合って授業を作っているのがよくわかります。授業検討会でも授業のよいところから学ぼうとする姿勢を感じました。

多くの学校を見させていただいて感じるのは、子どもたちが落ち着いて学びあえる雰囲気をつくるところまでは比較的に短期間(2年前後)でできるが、その学びの質を学校全体として高めるのがとても難しいということです。
一人ひとりの学びをきちんと見ることに加えて、課題と子どもの動きの関係、考えを深めるためにどのように子どもの意見をつないでいくかといったことにも意識を向けて授業を見ていかなければならないからです。課題や考えを深めるということに関しては教科の知識がどうしても必要になってきます。これを全体の協議の場でうまく話し合うのは難しいことです。教科や一つひとつの授業の固有の問題からどの授業にも通じることを整理して共有化することはとても難しいのです。したがって、同じ教科の人間が集まっての授業研究も必要になってきます。しかし、1校だけでこれを実現するのは人数の関係でなかなか難しいことです。ある程度広域の勉強会を作る必要があります。

今回の授業検討会でも、2回のグループでの話し合いにおける個々の場面での子どもたちの学びをよく観察していましたが、最初の話し合いでテンションが高い子が多かったのに対して、次の課題では話し合いがうまく始まらず、しばらく動きがなかったという事実については話題になりませんでした。

最初の課題は知識を持っている子にとっては、それほど難しいことではなかったようです。わかっている子どもが説明したくてテンションが上がってしまったのです。一方、ベースになる知識が曖昧な子は、説明を聞いてもすぐにわからないようでした。「わからないから教えて」と聞くことができる子どもが育っているので、なんとかわかってもらおうと、ますます力を入れて説明する子と、どう説明すればわかってもらえるのかを考えながらじっくりと説明する子に分かれたようです。その結果、グループによってテンションが変わっていったようです。
知識を持っている子がすぐに答えがわかることを課題にした時に起こりやすい事象でした。

2回目の話し合いでは、与えられた課題が曖昧だったため、何を話していいかわからない状態でした。ところが子どもたちはそこで、教師から与えられた言葉(課題)を自分たちなりに解釈して、話し合いを行いました。その結果、全体の場では全く異なった視点での考えが発表されました。それぞれの視点を明確にすることを教師が意識しなかったため、発言をきちんと学級全体に広げることができませんでした。話し合いの内容を深めるチャンスを逃してしまったのです。

だから、この授業がよかった、悪かったということではありません。そこで起こっていたことに気づき、どう理解するかということです。そこで学んだことが授業づくりに生きてくるのです。

管理職の方と少しお話をする機会がありました。私が感じたことはとてもよく理解されていました。今の状態はまだまだ通過点で、ここからが本当の踏ん張りどころだと話す姿に、来年はもっと素晴らしい学校になっているに違いないと確信しました。

充実した研究会で学ぶ

日曜日に参加した研究会は実践報告もレクチャーも大変内容の濃いものでした。

中学校での縦割りによる探求活動(総合的な学習の時間)の実践は、

ゴールは「・・・について」ではなく「・・・なのか」と自分たちの考え、結論を明確にする。
インターネットなどで調べるだけでなく自分の足で調べる。
中間発表を入れて、他者の意見をブラッシュアップするチャンスを設ける。
子どもだけでなく、大人の評価も受ける。

といった、1年のサイクルで回す場合の基本がきちんと押さえられた活動で大変参考になるものでした。
この活動に、縦割りを活かした、3年間のスパイラルで子どもたちが伸びる仕組みをぜひ組み込んでいただきたいと感じました。

レクチャーでは、私自身がよくわかっていると思っていたことを、私にない視点を付け加えてまとめられていました。おかげで考えを深めることができました。感謝です。

また、保護者の学校評価の興味深いデータも見せていただきました。荒れている学年のデータは、学校に対する評価が低いのですが、教師への信頼や努力に対する評価は高いのです。結果が出ていないことへの不満と、そうは言っても目の前で教師が頑張っている姿は評価しているということでしょう。あらためて、「愛される教師を作る(になる)のは簡単だが、愛される学校を作る(になる)のは難しい」と感じました。

3時間余りの会でしたが、本当に充実した時間で、たくさんのお土産をいただくことができました。

今泉博先生から学ぶ

教師力アップセミナーで、今泉博先生のお話を聞かせていただきました。

「推理と想像」をキーワードに、どの子も発言したくなることを目指す授業の具体例をたくさん話されました。
発言するためには安心して話せる状況が大切である。そのために間違いを活かして、間違いをほめて、そこから授業を深めるという主張は大いに納得できました。
子どもの参加意欲を増すために、だれでも発言できる質問からスタートして、次第にねらいに迫る発問を加えて、考えを深めていくという展開です。どの例もよく練られたものでした。

ここで、注意をしたいのはだれでも答えを言える質問は、根拠のない無責任な発言につながることです。

「遣唐使はどうやって唐にいった」
「泳いで」
「いかだ」
「船」
・・・

特にクイズのような質問はそうなりやすいのです。今泉先生の素晴らしいところは、子どもを引き付け参加させたところで、子どもたちが関わりながら、根拠を持って内容を深めていくための発音や手立てをきちんと用意していることです。

「どんな人が行った」
「お坊さん」「役人」「通訳」・・・
「それじゃ、いかだじゃだめだ」
「船だ」
「どんな船」
「大きな船」
「帆がある」
「エンジンがある船」
「そのころはエンジンはないから違うよ」
「帆だけじゃ風がないと動かないから、人が漕いだ」
・・・
地図を見せて、
「どこから出発したんだろう」
・・・
「どこを通ったんだろう」
・・・

このような授業は、深い教材研究に支えられています。教えたい内容を明確にした上で、子どもたちがそれを見つけ理解していくためにどのような授業展開をするのか、どのような発問を用意するのかがとても大事なのです。ここがしっかりしていないと、子どものテンションだけが上がり、無責任な発言ばかりが目立つ、思考や深まりのない授業になってしまします。特に参加された若い先生にはこのことを強く意識してほしいと思いました。

学校と地域の関係を考える

昨日は、私が関わっている中学校で行われた地域ふれあい学びフェスティバルを見学してきました。地域の方と学校が一体となって、イベントや体験講座、模擬店を運営し、多くの方に楽しんで参加しながら、学んでいただきたいというものです。
私が見学するようになって、今年で7年目です。当初は地域の方と有志の生徒が中心となって企画運営してきましたが、昨年からは生徒主体の学校行事へと変わりました。
変更になった時は、地域の方も、生徒も先生も自分の役割が明確でないまま形だけが先にあるような状態でした。今年は、生徒の動きが昨年よりも格段によくなり、自分たちが中心となる意識が芽生えてきました。生徒だけで新聞社に取材を求めたり、地域を回って広報活動をしたようで、参加される方の数が飛躍的に増えていました。先生も自分の担当に応じて生徒たちを如何に活躍させるかに心を砕いておられました。

地域の中心となっている方々のお話を聞くこともできました。この学校を支える地域の人間としての思いを持って企画してきたのですが、昨年は生徒主体ということで、積極的に企画もできず、仕事をお願いされるばかりでどう関わっていいのか戸惑ったようです。その経験を生かし、今年は学校側とも連絡を密にとり、まず子どもたちにどのように育ってほしいのかを共有化したようです。そして、そのために自分たちがどうすればよいか考え、生徒自身が自分たちのフェスティバルとして責任を持って行動するように働きかけてくださったのです。子どもたちの成長のために、生徒主体で運営したいという学校の思いを受け止め、主体から生徒のサポート役へと自分たちの関わり方を変えてくださったのです。

これからは、学校と地域の協力が今まで以上に求められてくると思います。しかし、学校と地域とが同じ思いで動くことは簡単ではありません。子どもの成長のために互いに協力し合う。その点でまず一致することから始めなくてはなりません。その上で、自分に何ができるかを考え、そのことを伝えあうのです。決して相手に何をしてもらいたいかではないのです。
この地域では、今までとは違った学校と地域の関わり方が生まれました。これが正解でこのやり方を続けていけばよいということではありません。今までのやり方にこだわるのではなく、子どもたちの成長のために互いが変化できる柔軟性を持ち続けることが大切だと思いました。

小中学校の連携

昨日は中学校の授業研究に参加しました。規模の小さい中学校で全員が同じ小学校の出身です。この日は小学校の先生がたくさん参観してくれました。一部の先生は残って授業検討会にも参加していただけました。

小学校の先生が中学校の授業を参観することで、自分の教え子たちが卒業後どのように成長しているのかを授業を通して見ることができます。その子どもたちの姿から自分たちの授業や指導を再評価し、指導の改善へとつなげることができます。
中学校の先生にとっては、子どもたちの小学校での様子を知ることができます。特に子どもたちの具体的な名前が上がってくるような授業研究では貴重な情報が得られます。

そして、このような試みを通じて小中9年間を一貫したものとして、そのつながりをしっかり意識して子どもたちに接してもらえることがポイントです。小学校から中学校への移行時期は、思春期と重なります。この難しい時期を乗り切るためには小中が手を取り合って子どもを育てていける体制が求められます。授業を互いに見合うだけでなく、中学校の教師が小学生を教える、小学校の行事を中学生が手伝う、小学生が中学校の行事に参加する。つながりを意識することでいろいろな連携が生まれてくることと思います。

教科を好きになる

若い先生に、「どんな授業をしたい」「子どもたちにどうなってほしい」という質問をよくします。最近よく聞く答えが、その教科を「子どもが好きになる」です。

まず、興味関心を持ってもらうことが第一歩。
好きになれば勉強をするから力も付く。

このように答える先生の授業を見て気になることがあります。
それは、どうもその「教科を好きになる」ではなく、その先生のその「教科の授業を好きになる」を目指しているように見えることです。

雑談やクイズで盛り上げる。
物を作ったり、作業が多い。
子どものテンションが上がる場面が多い。
考える場面が少ない。
説明は先生が面白おかしくする。

こんな特徴があります。

誰でも参加できること、誰でもできることを中心にすることで子どもは活動します。先生の話が面白ければ、確かに子どもは楽しそうです。しかし、これだけで本当にその教科を好きになるのかよくわかりません。おもしろいショーに参加して楽しんでいるとしか見えません。子どもが自分たちで考えて問題を解決する姿が見られないからです。自分で考え、「わかった」「できた」「そういうことか」と教科内容を理解して、またこんな課題を「考えたい」と思って初めてその教科を好きになったといえるのではないでしょうか。

好きなることで考えるという発想だけでは、子どもは考えません。考える場面が授業になければ、考える必要がないからです。自分で考える、自分で解決するという経験を積んで初めてその教科が好きになるのだと思います。

教科を好きになることと先生を好きになることは違います。楽しい、おもしろい先生になって好かれることは教師の目的でありません。その先生がいなくなっても、その教科を好きであり続けるような授業を目指したいものです。

野口芳宏先生から学ぶ

教師力アップセミナーで、野口芳宏先生のお話しを1年ぶりに聞かせていただいた。今回の目玉は、若手の授業実践のビデオを見ての先生の解説であった。

授業を見る視点の鋭さ、明快な解説には学ぶことが多い。今回の授業をもとに、ワークシートのあり方、動作化についてお話しをされたが、特に教材内容と教科内容という視点で動作化をとらえたのは私にとっては新鮮で、自分の視野の狭さを反省させられた。

しかし、それ以上に学んだのは、授業の切り取り方であった。授業者のよいところをきちんと評価されていたのはもちろん、問題点を取り上げるにも、この授業の問題としてではなく、手法そのものの問題としてより一般化してお話しされた。こうすることでこの授業に対して参加者は否定的な気持ちにならずに話を聞くことができる。授業者も素直に受け入れることができる。私は授業を解説したり、アドバイスをする場面にこういった配慮がきちんとできているのか、授業者や参加者にネガティブな気持ちを持たせていたのではないか。反省させられることばかりである。

野口先生の厳しいが温かい語りは、私のようなひねくれ者にも素直な気持ちを思い出させてくれる。私自身、人をこのような気持ちにさせることができるようになるのは一体いつのことなのだろうか。遠い道のりだが、一歩ずつ前進しようと思いを新たにさせていただいたセミナーだった。

大学の講義の様子に思う

たまたま大学の講義を見る機会がありました。建物を見るのが目的だったのですが、時間の都合で授業中に教室に入ることになってしまい、失礼ながら講義の様子が目に入ったのです。

講義の中ごろだと思いますが、すでに半分くらいの学生は机に倒れていました。後ろの方では、背中を向けて友だちと雑談をしている者もいます。起きている学生も話を聞いているものはほとんどいません。講師の先生は学生の様子に頓着せず、淡々と話を続けています。ちょっと悲しくなりました。
学生にとっても講師にとっても不幸な時間です。今の学生は、大学の先生の授業技術はと非難する気はありません。この講義が大学の講義を代表するものだとも思いません。ただ、この状態を改善するにはどのようなことが必要なのかを考えさせられました。

もう何年も前のことになりますが、私が関わらせていただいていた中学校で、授業を改善しようという動きが起こりました。そのころ教室にはやる気のない生徒、寝ている生徒の姿が目についていました。何とかしたい、せめて寝ている子をなくそうと先生方は授業改善に取り組みました。数年後には寝ている生徒の姿を見ることはなくなりました。これは一部の先生の頑張りで達成できたのではありません。「私の授業は大丈夫」「あの先生の授業はちょっと」と個人の問題とせず、共通の理解のもとに全体で取り組み、授業を工夫し、互いに公開し、学び合って達成できたのです。

いま大学では学生による授業評価が進んでいます。しかし、授業改善を先生個人にゆだねていてはなかなかよい方向には向かわないと思います。授業を先生方の共通の問題とすることが改善への第一歩だと思います。

指導案について思う

先週末は中学校で授業参観と研究発表当日の指導案のアドバイスを行ってきました。

A4で2枚の指導案なのですが、授業の細部まで伝わってくるものと、なかなか見えないものがあります。その差はどこから来るのでしょうか。
ここでの説明は具体的にこうしよう、わからないようだったらこうしよう、ここでの活動はここを中心に見ようと授業者が具体的な授業イメージ(子どもの姿、それに対する自分の対応)を持っているかいないかの違いが大きいのです。
授業イメージが固まっていない指導案は、流れは書いてあるのですが、具体的な記述が少ないのです。

「説明する」
「指示する」
「できていない子を個別に支援する」

こういう言葉は書かれているのですが、具体的に「・・・」と説明する、指示する、「・・・」ができていない子には「・・・」という支援を行う、といった記述が少ないのです。どのように説明するのか、支援するのかを直接聞いても明確に答えられなかったりします。

指導案は事前に授業を検討するために作るものだと思います(授業を参観する方のためという視点もありますが、それは二義的なものでしょう)。事前に授業のイメージを明確にするための作業の結果と言ってもいいかもしれません。そこがはっきりすれば、どう改善すればよいかを事前に考えることもできます。
指導案を通じて事前に授業を検討することはよいことですが、授業が始まってしまえば、もう指導案にこだわる必要はありません。実際の子ども状況で授業はどんどん変わるものだからです。

授業をよくしていくために必要なのは、事前にどんな子どもの姿を見たいかを明確にし、そのために何をするかを具体的にし、実際の子どもの姿から学ぶことだと思います。指導案という形式にこだわらず、授業のイメージを明確にすることを毎日の授業で心掛けて、子どもの姿から学んでほしいと思います。

若者の成長に思う

先週末に参加した学会の発表後、研究会の仲間と懇親会をおこなった。研究会をサポートしてくれている企業の社員の方もたくさん参加してくれた。中には何年もあっていない方もいて、久しぶりの再会に楽しい時を過ごした。

途中で参加者全員によるちょっとしたスピーチがあった。当時まだ駆け出しでスピーチどころか、「こんにちは」の挨拶さえ大丈夫かと心配していた若者がどんな話をするのだろか。彼らのメインの仕事は、学校に行って先生のサポートをすること。コミュニケーション能力が要求される。だからこそ、彼らの挨拶や話し方が気になっていたのだ。期待半分、不安半分でドキドキしながら聞いていた。ところが、どうだろう。彼らはみな実に見事なスピーチをするではないか。驚くとともに、彼らをこれほどまでに成長させた時間と経験に思いをはせた。

この何年か本当に前向きに仕事取り組んできたのだろう。それに対して私はどうだろう。彼からどう見えたのだろう。成長どころか、下手をすれば退化していたのではないか。

若者の成長の速さをみるにつけ、否応なしに自分が老いていくことを考えさせられる。まだまだそんな歳ではないとは思いつつ、彼らに負けぬよう、日々前向きに生きていかねばと思う。

背中で見る?

テレビ会議でセミナーのリハーサルをおこないました。モニターにはスライドが映っているために、参加者の顔は見えません。これがとってもやりにくいのです。

スライドにしていない実例やポイントなどをいくつか用意していたのですが、反応がわからないので話すタイミング失してしまいます。結局スライドの字面を追うだけになってしまいました。前半は自分でも乗りの悪いものでした。

ところがスライドも半分に近づくころになって、音が聞こえることに気づきました。画面はスライドで埋められていても、音声システムは相手の音を拾ってくれているのです。何の音か何を話しているか細かいところまではわかりません。しかし、なんとなく雰囲気はつかめるのです。カメラの向こうに人の姿が感じられるようになりました。ここからは、いつものペースを取り戻すことができました。自然に体も動き、身振り手振りもついてきます。予定していた実例もかなり入れることができました。

テレビのアナウンサーのように、聞き手が直接見えないところで話をするのはすごいことだと、あらためて思いました。逆に相手を目の前にして話す場合、聞き手の状況を非常に大切にしていることがよくわかりました。

教師時代に、「背中で見えるようになりなさい」と言われたことを思い出します。目だけでなく、話し声やちょっとした音からでもたくさんのことが見えてきます。授業は教師の五感すべてを使って作っていくものだということを改めて思い出す出来事でした。

永遠の課題?

先週末の教師力アップセミナーで國學院大学の滝井章先生に「思考力と表現力の育成を重視した算数の授業づくり 〜新学習指導要領の趣旨を生かした授業づくり〜」という演題でお話しをうかがった。

算数を通じて「物事の本質を見つける力」をつけたいという先生の考えに大いに共感した。また、今回の指導要領の改訂で学年間の重なりが重視されたが(スパイラル)、単に下の学年に降りてきたのではなく、そのつながりを意識してほしいという具体例が非常にわかりやすく、大変勉強になった。

しかし、先生の話される思考力、表現力を育てる授業ということは、今急に言われだしたことではない。特に、思考力は、算数・数学という教科ができた時からではないかと思う。学年間のつながりを意識するということだって、言い方こそ違え多くの方がおっしゃってきた。にもかかわらず、こういったことが言われ続けなければならないのはなぜだろう。永遠の課題と言ってしまえばそれまでだが、そんな言葉で片付けたくない。よい授業にゴールがないのだから、求め続けるのは当然というのもちょっと違う気がする。
現場で授業を見せていただいて、実現の度合いが低いと感じるからだ。

滝井先生のようなすぐれた実践者はたくさんおられる。具体的な実践が広まっていかないことが問題なのだ。セミナーで話を聞いてもせいぜい1つか2つの例しか聞けない。しかも聞いただけで実践できるようになるわけではない。いわんやすべての教科単元を網羅するなど絶対に不可能である。結局、教師自らが書籍などを通じて学び、実践し、同僚と学び合う以外に方法はないのだろうか。それさえも現実には難しい状況がある。
わかっていたとはいえ、あらためてこの問題を考えることになった。今すぐ答えが見つかるわけではないが、自分できることをやりながら、答えに近づきたいと思う。

いい授業ってなんだろう?

研修会の際に、「いい授業」にするための検討のポイントを説明したのですが、そのとき「いい授業ってどういう授業ですか」と質問されました。

たしかに、あたかも「いい授業」という絶対的なものがあるように話をしてしまうことがよくあります。

・子どもが積極的に参加する
・子どもにとってわかりやすい
・授業規律が保たれている
・教師と子どもの信頼関係ができている
・・・

いい授業の要素は思い浮かびますが、全体像はなかなか明確にできません。

その研修会では、「授業者の目指す子どもの姿が実現できる」のがいい授業であるとお答えしました。「いい授業」のイメージは教師の数だけあります。誰もが納得するものをその場で示すのは難しいと考えたのです。
実はこのことが、授業検討でも問題になるのです。意見を言う際に目指す子どもの姿が違っていては、話がかみ合いません。まずは授業者の目指す子どもの姿にそって議論しなければ話は進まないのです。
一方、目指す子どもの姿については、学校の中で共有することが大切です。全員が全く同じである必要はありませんが、少なくとも方向性は一致してほしいのです。そうしなければ、互いに授業を見合っても視点がずれてしまい、うまく学び合えません。

目指す子どもの姿を明確にすることがいい授業を明確にすることにつながります。目指す子どもの姿について教師がふだんから話しあう雰囲気をつくることが、その学校におけるいい授業を具体的にしてくれるのです。

迷惑をかけたくない?!

先日義理の母が出先で転倒して、骨折をしました。タクシーで家まで何とかたどり着いたものの、這いずるような状況。たまたま工事の人が見つけてくれて、玄関まで運んでもらい、民生委員さんにも連絡をしてくれたそうです。
ところが、民生委員さんがどれだけ言っても救急車を呼ぶことを拒否します。それならばタクシーで救急病院へ行くというのはどうかと提案しても、首を縦に振りません。ほとほと困り果てた民生委員さんが電話をかけてきてくれて、初めて事故のことを知りました。

義母の気持ちはわかります。周りに迷惑をかけたくない、心配させたくない。その一念で我慢していたのでしょう。結局、私たちの説得で行きつけの病院にタクシーで向かったのが、転倒から3時間後の6時過ぎ。ところが、病院は休診日。救急病院のお世話になりましたが、今度はベッドが空いていません。あれほど拒否した救急車で別の病院に搬送され、入院の検査と手続きが終わって私たちが家に帰った時には日付が変わっていました。「すぐに救急車を呼んでくれていたら」と思わずにはいられませんでした。

「迷惑をかけたくない、心配させたくない」と思うあまり、余計に周りに迷惑をかけ、多くの人を心配させてしまうという結果になったわけです。
これに似たことは、学校でも起こりがちなことです。学級で問題が起こっていても、「自分で何とかしなければ」と抱え込んでしまい、結局打つ手が遅れてしまい、最終的には子どもたちにマイナスとなってしまう。こんな事例をよく目にします。

トラブルは自分で抱え込まずに、思い切って周りに頼ることが大切であるとあらためて思いました。

大人が伝えること

キャリア教育の模擬授業を検討していて考えたことです。

学校教育はどのようなことを目的としているかを考えてみると、次代の社会を担う構成員として必要な知識や態度を教え、育てることがその一つにあげられます。社会の継続性です。そのために必要なことを学校では教えているのです。これを働くという視点で切り取ったものがキャリア教育だと思います。ですから、キャリア教育といってもあらためて何かするというのではなく、子どもたちが学校で学ぶことが社会で生きていく上で役に立つのだという実感を持って生活してくれることが基本だと思います。

そう考えると、学校で学んでいることにリアリティがないことが問題だと感じました。学校で学ぶことは直近の受験のためで、その先にあるものは実感がないのです。社会に出て働くということには結びついていないのです。そもそも子どもたちに働くことのリアリティがないのです。

私が子どもの頃は町に自営の店がたくさんあり、子どもたちが手伝いをしている姿がよく見られました。農家の子どもも田植えや稲刈りで頼られる労働力でした。子どもたちに働くことのリアリティがありました。
今の子どもたちにこれを求めるのは無理です。短期間の職場体験ではなかなか難しいものがあります。

かれらに働くことと学校で学ぶことの大切さを考えさせても無理があります。それを教え伝えるのは大人の仕事です。社会に出て大切なことを身近な大人である教師や保護者がもっと子どもに伝える必要があると思います。そのうえで、毎日の生活の中、学校生活の中のどこでそれを身につけるのかを子どもに考えさせることが大切です。

例えば職場体験でも、単に経験するだけでなく、働く上で何が大切だと思ったか、職場の人は何を大切にしていたか、そしてそのことはどうすれば身に着くか。そんな問いかけが必要です。

働くことに関してだけでなく、社会で生きていくために大切なことを我々大人が伝え、子どもたちがそのことを意識して生活することが求められます。結果、学校で学ぶことのリアリティが生まれてくると思います。キャリア教育をきっかけに、大人の役割を考えさせられました。

言語活動を考える

来週に予定している講演に関連して、「言語活動」についていろいろ考えていました。
どうも言語活動というと、話すこと書くことを中心に語られることが多すぎるように思います。それよりも、聞くこと、読むことの方が大切な気がします。「伝えたい」「わかってほしい」より「理解したい」「わかりたい」を大切にしてほしいのです。

伝えたい思いをこめて一生懸命話したということで満足してもしょうがありません。伝わらなければ意味がないのです。でも、理解しようとしてくれなければなかなか伝わるものではありませんし、伝わらなくても何も反応してくれないからそのまますぎていきます。話し手が自己満足するしかありません。
理解しようとしてくれれば、うなずいたりしてわかってといるという反応をしてくれます。わからないところは首を傾げたり、質問してもらえます。自分の足りないところがわかります。その結果、自然に発信力もついてきます。
教室に相手を理解しようとする空気をつくることから始めなくてはいけません。そういう教師ではいじめも起きにくいはずです。言語活動はまず聞くことから始めてほしいと思います。

「盗む」という文化がなくなってきている?

若い先生の指導について話していると、管理職やベテランの先生からよくでてくる言葉が「盗む」です。

自分たちの若いころはこんなに研修もなかったし、指導してもらう機会もなかったので、先輩から盗むしかなった。最近の若い先生は与えられることに慣れてしまったのか、「盗む」ことをしない。

こんな話をよくされます。
確かに私たちの若いころは、先輩に聞いたり、こっそり授業を覗いたりして学んでいたように思います。新任1年目から先輩と同じ土俵で仕事をしなければならない学校では、「盗む」ということが重要な手段であり、一つの文化だったように思います。では、最近の若い先生は学ぶ意欲がなくなったのでしょうか?

若い先生に授業のアドバイスをしていて困っていることを聞くと、たくさん質問されます。悩んでもいるし、学ぶ意欲もあるのです。ところが、たまにしか会わない私に聞かなくても、身近な先輩に聞けばすぐに教えてくれそうな質問もたくさんあるのです。私が、「先輩に聞いたらいいよ」と言っても、なぜかしづらそうです。

そこで学校の様子を見てみると、職員室で授業や学級経営について話す雰囲気がなくなってきています。そもそも話をする余裕もないのです。
新任は授業もきちんとできない中で、毎週のように研修の課題に追われ、与えられたことをこなすので精一杯です。
若手も担任を持てば学級経営や校務、もちろん授業の準備など「やらねばならない」ことがもっと増えてきます。
また、ベテランと若手の間を埋める中堅の数が少ないことも、授業について話し合う雰囲気ができにくい理由の一つでしょう。
「他人の授業を覗くなんてとんでもない」という顔をされることもよくあります。こっそり授業を覗くにしても、人間関係ができていないと難しいのです。

若い人が先輩から「盗む」ことをしなくなったのは、学ぶ意欲がなくなったからでも、若い人だけの問題でもないのです。学校の中に、授業や学級経営、そして一番大切な子どものことを気軽におしゃべりする雰囲気や余裕がなくなったからなのです。
簡単に解決する問題ではないかもしれません。今の学校の置かれている状況から言えば仕方がないのかもしれません。しかし、行政、管理職、ベテラン、中堅、若手、それぞれの立場でできることはあるはずです。

まずは、隣に座っている先生と授業の話をしてみませんか?

廊下を歩くと授業がわかる?

学校を訪問した時に私がよくお話しするのが、「廊下を歩くと授業がわかる」です。
廊下を歩くと授業の何がわかるのでしょうか。

廊下を歩きながら教室をのぞくと、たいてい何人かの子どもがこちらに気づきます。この数が少ないほど子どもが授業に集中しているということです。
注意するのはそのあとです。ちらりとこちらを見てすぐに顔が前に向く時と、そのままきょろきょろし続ける時があります。
子どもの気持ちが授業に向かっていないとなかなか視線が戻りません。それどころか、こちらを振り向く子がどんどん増えてきます。多くの場合、最初の1人2人の段階で教師が気づいて、声には出さなくても目で子どもを制しますので、すぐに収まります。こちらを見る子どもの数が増えるということは、子どもが集中力をなくしているだけでなく、教師が子どもを見ていないということです。

子どもの授業に対する集中度と教師が子どもをちゃんと見ているかがわかるのです。

廊下を歩くだけで教師がざわつく学校もあれば、まるで自分が空気にでもなったように感じる学校もあります。授業改善が進んでいる学校は、訪問するたびに子どもの視線を感じなくなります。それだけ子どもが授業に集中しているのだと思います。

身近なところから教材を作る

先週末は教師力アップセミナーで、角田明先生のお話を聞かせていただきました。

小学校英語は、担任の先生方に大きなプレッシャーになっていると思いますが、角田先生の「英語は知らなくてOK、子どもに聞かれて知らないと言える人間関係があれば大丈夫」という言葉が救いになった方も多いと思います。

教材は「英語ノート」しかない現状で、自分のクラスの子どもにあわせてアレンジしよう。キーワードは子どもたちの身近な所にある「英語探し」という主張はとても納得のいくものでした。

この身近なところから教材を作るという発想は、小学校英語に限ったことではありません。「学校の勉強は社会に出て役に立たない」という子どもに出会うことがあります。学んでいることと自分の生活との関連が分からない「リアリティ」のない学習をしているということです。授業の内容とつながる身近な物、事を見つけようという姿勢で街を歩けばきっとたくさんのものが見つかると思います。角田先生のお話にあった、「モノレール」「コンビニの英語表示」などは、そういう姿勢で街を歩いているから見つかったものだと思います。
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