発問について考える

昨日は、中学校で社会科の授業研究に参加しました。2人の方が別々に授業しましたが、私ともう一人のアドバイザーの先生でそれぞれ見せていただきました。

私が参観したのは、裁判の3審制をきっかけに、人権がどのように守られているか考える授業でした。この日は教室ではなく丸テーブルを並べたラウンジでおこなわれました。足利事件などの再審請求が認められたことを伝える新聞記事などの資料のパネルや、インターネットがすぐに活用できる環境を準備しての授業です。授業者は「私たちの人権がどのように守られているのか考えよう」という課題を示し、子どもたちに調べるように促しました。一部の生徒はすぐにインターネットに飛びつきますが、その他の生徒はなかなか動きません。せっかくラウンジのまわりに掲示した資料を見ようとはせず、資料集をめくっています。グループでの発表の前に、何とか人権に関することをまとめてはしましたが、子ども同士の話し合いもほとんどおこなわれませんでした。

授業後の検討会では、発問についての意見が多く出ました。

子どもたちの活動が、資料集で「人権」という言葉を探してその部分を抜き出すか、意味はわからないままインターネットで「人権がどのように守られている」と検索して見つかったものを写すだけで終わっていた。課題が子どもたちにわかりにくかったからだ。
人権を守るとはどういうことか、何をどう調べればいいのか、自分たちでもよくわからなかった。
・・・

たしかに、「人権を守る」とはどういうことか考えるのがねらいですが、発問としては、適当ではなかったようです。

「なぜ、日本の裁判はこんなに時間がかかる」
「裁判がもっと早く終わるようにするべきでは」
「なぜ、大事件を起こした犯人のために、大金を使って裁判をおこなう」

このような、子どもたちにとって具体的で取り組みやすいもの、取り組むことで結果として人権について考えることにつながるものにする工夫が求められます。

一方では、教室でなく資料を準備したラウンジで授業をするというチャレンジを評価する声もあがりました。また、あるグループが発表したとき、教師が何も言わないのに何人もの生徒が資料集で確認をしていた。日ごろから資料をちゃんと確認するように指導しているからこそこのような姿が見られるのだという指摘もありました。
多くの先生がこの授業から学ぼうとする姿勢を見せてくれたことをとてもうれしく思いました。

授業後、課題と発問について社会科の先生方と一緒に、もう一人のアドバイザーの先生から遅くまでお話をうかがうことができ、充実した時間を過ごすことができました。よい機会をありがとうございました。

子どもに考えさせる発問

子どもたちに考えさせるような発問をどのようにつくればよいか相談されることがよくあります。考えを促すような発問について考えてみたいと思います。

「○○について考えよう」というような抽象的な発問で子どもたちがしっかり考えられるのは、子どもたちが育っていて、考えるとはどのような視点でものを見たり、どこに根拠を求めればよいかわかっているときです。この場合には、多様な考えを生み出すよい発問になります。しかし、子どもが育っていなければ何をすればよいかわからず、すぐに活動は止まってしまいます。結局後からヒントを出して教師が誘導したり、教師が解説することになってしまいます。
そうなるくらいならば、子どもたちが活動する方向性をあらかじめ含んだ発問をした方がよいのです。このとき、教師が子どもたちにどのような活動をして、どんなことを考えてほしいのか明確になっていなければ、具体的な発問にはつながりません。

具体的な発問で考えてみましょう。社会科である戦争についての授業での発問です。戦争を学習することで、その起こった原因から当時の社会のようすにまで考えを広げることをねらっています。

A「○○戦争について考えよう」
B「○○戦争当時のようすを考えよう」
C「○○戦争の原因について考えよう」
D「○○戦争の原因から当時のようすを考えよう」

Aの発問は、子どもが育っていれば、戦争の原因、結果、その背景すべてを調べて総合的にこの戦争をとらえて考えてくれる発問です。しかし、育っていなければ、教科書や資料集からその戦争に関する事柄を抜き出して終わってしまいます。考えるところまではいきません。これで教師がよしとすると、子どもは調べることが考えることだと思ってしまいます。
Bの発問は、ねらいである当時のようすとの関連に意識を向けさせる発問ですが、子どもが育っていなければ、調べるだけで戦争と結びつけて考えてはくれません。
Cの発問は、視点を限定しているだけで、Aの発問以上のものにはなりません。
Dの発問は教師のねらいそのものです。これは、子どもの活動を原因と当時の社会のようすに限定してしまいます。Aの発問のような広がりはありませんが、ねらいは一番達成しやすいものです。しかし、当時のようすを調べる、知るだけで戦争と社会の関係を深く考えることは難しいでしょう。また、こうしろという指示に近いものになっているので、子どもが受け身で教師の求める答探しをしているともいえます。

B、Cはねらいの一部分を具体化することをしていますが、中途半端なものになっています。結局、Dのような具体的な発問を重ねて、視点をたくさん子どもの中に育てて、Aのような発問で考えることができるようにすることがひとつの基本となると思います。

ここで、子どもに考えることを促すのに想像させる、答や判断を求めるという視点があります。
この例でいえば、

E「○○戦争が起こらなければ、どうなっていたか」

というような発問です。これは子どもに「どうなっていたか」という答を求めています。答を出すためには調べたことをもとに、自分で考えることが必要になります。社会がどうなっていたかを考えるということは、その当時の社会を知る必要がありますし、戦争が起こらなければと仮定することで、社会と戦争の関係を考えることになります。ねらいとなる活動を引き出すことができるはずです。答えそのものが問題ではなく、答を出そうとすることで、ねらった活動を引き出すのです。
少し難しいかもしれませんが、こういう視点をもつと発問の幅が広がります。

「主人公の成長を考えよう」→「主人公は成長したか」
「三角形をいろいろなグループに分けよう」→「三角形をグループに分けるやり方は何通りあるか」
「資本主義が発達と人々の生活について考えよう」→「資本主義の発達は人々の生活を豊かにしたか」
・・・

ねらいとする活動にもよりますが、このように発問を置き換えることで、ねらった活動を自然に引き出すことができます。

発問は子どもたちの成長によって変わっていくものだと思います。「考えよう」で考えられる子どもをつくるためには、まず具体的な指示に近い発問から出発することが必要だと思います。そのためには、子どもたちの活動を具体的にイメージすることが大切です。また、少し難しいかもしれませんが、その活動が自然に起こるような問い、言い換えればその活動から導き出され得る答を問うことで、考えること促すことができます。子どもたちの成長に応じて、発問を考えてほしいと思います。

教師の役目

昨日は中学校の社会科の授業研究に参加しました。製糸工場の女工の生活を農村と関連づけて考える授業です。日本の資本主義の発達と貧富の格差、社会主義運動を扱うための最初の時間でした。

子どもたちは落ち着いて、授業に真剣に取り組んでいました。友だちとかかわりあえる子どもに育っています。
授業者はできるだけしゃべらないことを意識して授業をおこなったそうです。子どもたちに、「厳しい生活にもかかわらず、なぜ女工なってよかったと思ったのか」という課題をグループで考えさせる場面では、最初に具体的な資料を示しませんでした。普段から根拠をきちんと求めているので、子どもたちが自分で教科書や資料集を探して考えてくれるだろうと信じていたからです。しかし、実際にはほとんどの子どもが資料集を開かずに話し合っていました。根拠となるものがない話し合いなので、深まっていきません。すぐに活動が止まってしまいました。そこで授業者は「ヒント」と言って、当時の写真を2枚黒板に貼りました。説明は一切ありません。子どもが自分たちでこの写真が何なのかを考えてほしかったからだそうです。子どもたちは真剣に考えていましたが、この授業のねらいである、過酷な労働を前提とした資本主義の発達と、結果その労働者よりも貧しい農村の生活についてあまり深まることはありませんでした。

教師がしゃべりすぎないことは大切ですが、授業を大きな視点コントロールするのは教師の役目です。この授業では、子どもたちが資料集を開かなかった時点で、何らかのアクションを起こすべきだったのです。

話し合いが止まったところで、「困っていることはない」と一度問いかけて、資料が必要なことを確認する。
「資料集を見ていいか」と聞いた子どもが出てきたときに、「なるほど、資料集が必要なんだね。いい発想だね。必要なものは使っていいよ」と資料集を見てもいいことを伝える。

自分から指示をしなくても、子どもからうまく引き出すことをすればよかったのです。
また、資料については、正しく読み取った上で活用する必要があります。子どもに考えさせたいのであれば、ます資料を読み取ることを子どもたちにさせて、その結果を全員で共有する必要があったと思います。(資料集をどう活用する参照)

授業者とは2年前からかかわっていますが、本当に成長したと感心しました。子どもたちとの関係をつくり、子どもたちを信じようとしていることはとても立派です。今回の授業のために、近隣の図書館をまわって資料を探したそうです。授業にかけるエネルギーも大したものです。授業後に「子どもたちはよく頑張ってくれた。うまくいかなかったのは自分の問題だ」という言葉が出てきました。自分に足りない部分を素直に認める姿勢は今後の成長を大いに期待できます。
いつも思うことですが、授業の基本がしっかりすればするほど、課題が明確になり、またたくさん見つかります。ここからが、大きく飛躍する時期です。次に彼の授業を見る機会が楽しみです。

模擬授業は楽しい

昨日は、愛される学校づくり研究会が主催するフォーラムで発表する社会科の授業の模擬授業に参加しました。

有志の先生数人でおこなうものだと思っていたのですが、その小学校のほとんどの先生が参加してくださったのにびっくり、かつ大感激。授業者は若手の先生ですが、この温かい雰囲気が大きな支えになっていることと思います。

最初は、勝手がわからずちょっと様子を見ていた感もありましたが、司会で仕掛け人のT先生の授業者への突っ込みからがぜん盛り上がり、子ども役の先生からもどんどん意見が出てきました。中には「こんな小学生いないよ」と突っ込みたくなる意見も出できましたが、決して授業者を困らせようというのではなく、子どもと同じように授業に入り込んだからに違いありません。そういう意味では、指導案もよく練られたものでした。
子ども役の先生方は、発言に対する授業者の対応に非常に素直に反応してくれました。うまくつながっているときは、どんどん発言してくれますし、「???」と思う対応には、雰囲気が重くなります。授業者は先生方の反応や意見からとても多くのことを学べたと思います。

この模擬授業を通じて指導案の流れや基本的な発問はほとんど変わりませんでした。しかし、授業を実際に進めるにあたって、指導案づくりだけではわからないポイントがたくさん見つかりました。模擬授業は、教師の切り返しが子どもの活動にどう影響するか、教材・課題を子どもがどのようにとらえ、反応するかなど、机上では気づけないたくさんのことに気づくことができます。模擬授業には指導案の検討とはまた違った学びがあるのです。

勤務時間後にもかかわらず、同僚のために残って参加してくださった先生方の終始明るい笑顔がとても印象的でした。きっと、多くの先生に新しい気づきや学びがあったことと思います。すべての先生が、2週間後の本番の授業を楽しみにしてくれることと思います。私も、この模擬授業がどのように生かされてくるのか、とても楽しみです。授業者には少しプレッシャーかもしれませんが、子どもたちがどんな姿を見せてくれるかを楽しみに授業にのぞんでほしいと思います。

課題や発問の言葉を子どもの視点で見直す

昨日は中学校で授業アドバイスをしてきました。前回訪問時に気になった学年の子どもたちは、授業への集中力を取り戻しつつありました。先生方がチームワークよく対応しているのだと思います。

今回たまたま2つの社会科の授業で課題の言葉が問題になりました。一つは、3審制の「意義」、もう一つは中国の「課題」です。ともに、グループでの話し合いの課題ですが、子どもたちはうまく活動できませんでした。
3審制では、「意義」の意味がわからない子がいたのです。教師があらためて「意義」を説明することで活動は無事に活性化しました。
一方の中国の「課題」ですが、子どもたちは「課題」を考えるという活動の経験がありませんでした。最初は資料集や教科書を調べているのですが、「課題ってどこに書いてあるの」という言葉が出てきました。「課題」を考えるのではなく、資料から「課題」と書いてある言葉を探そうとしていたのでした。授業者は、中国の少子高齢化の問題に気づいてほしかったようです。そうであれば、「中国は30年(?)後は繁栄しているだろうか」というようなより具体的なものにして、気づかせる。人口問題を考えるきっかけとなる資料をあらかじめ用意してから、何年後かの中国のようすを想像させる。といったアプローチを考えた方がよかったと思います。子どもが少子高齢化に気づいたら、「君たちは中国の課題を見つけたね」と評価することで、「課題」を考えるということはどういうことか教えていくのです。

教師は、「意義」「課題」などの抽象的な言葉を無意識に使ってしまいます。教師にとってはぴったりくる言葉であっても、子どもには具体的にどうとらえればいいのか、何を考えればいいのかわからないことがよくあるのです。発問や課題の言葉を子どもの視点で見直すことが大切です。このことをあらためて実感することができました。よい勉強をさせてもらいました。

子どもに寄り添う

「子どもに寄り添う」「子どもの考えに寄り添う」ということがよく言われます。この言葉を口にする若い先生もたくさんいます。しかし、具体的にどうすることが「子どもに寄り添う」ことになるのかはっきりしていないことがよくあります。このことについて考えてみましょう。

授業においては、子どもの気持ちや考えを出発点として進めていくことが「子どもに寄り添う」ということの基本です。わからない子どもがいれば、その子どもの「わからない」から出発するわけです。

たとえば、「わかった人」と聞いて半分くらいしか手が挙がらなかったらどうするのでしょうか。当然、教師はわからない子どもにわかってもらおうとします。そのとき、「じゃあもう一度説明するからよく聞いて」というのは、子どもに寄り添っているとは言えません。子どもにしてみれば、何度も教師が説明するということは、わからない自分が悪いということになってしまうからです。「わからない」というのは、子どもにとって負の気持ちです。そのことを理解した上で授業を進める必要があります。

「どこがわからないか教えてくれる」
「困っていることを聞かせてくれる」

まず、子どものわからないこと、困っていることを教師が聞いて理解することから始めます。大切なことは、教師がしっかりとその困った感を受け止めてあげることです。わからないことが決して悪いことではないということを知らせるのです。

「教えてくれてありがとう。なるほど、○○がよくわからないんだ。」
「それってどういうことか、もう少し教えてくれるかな」

受け止めた上で、理解できなければやさしく聞き返します。こうして、困った感を共有した上で、そのことを子どもと一緒に解決するようにするのです。
もちろん、一人ひとりの困っていることは違います。

「同じところで困っている人いる?」
「他に困ったことはない?」

子ども同士をつなぎながら、子どもたちのわからないところ、困っていることを共有します。ここから、スタートするのです。

子どもに考えを発表させるときでも、子どもの考えに寄り添うことは大切です。教師がしっかり子どもの考えを聞き、その考えをもとに授業をつくるようにします。

「○○と考えました」
「なるほど、○○と考えたんだね。みんなわかったかな。つまり、・・・ということですね」

これは、一見すると子どもの考えを認めて、そこから授業が進んでいるように見えますが、結局教師が「つまり」と自分の言葉で説明しています。こういう授業が意外に多いのです。子どもの説明がたどたどしくて不足があっても、教師がそれを勝手に言い換えるのではなく、子どもたち自身で修正させるように働きかけるのです。

「なるほど、○○と考えたんだね。△△という言葉が出てきたけれど、それってどういうことかもう少し聞かせてくれるかな」
「今の説明がわかった人、もう一度言ってくれるかな」
「うまく説明できない? いいよ。だれか助けてくれるかな」

このような言葉でつなぎながら、子どもたちでできるだけ解決するようにします。
教師は、子どもが自分たちの考えを理解し合い、互いに深めていくようにするために、どのように働きかければいいのかを考えることが仕事になります。時には上から目線ではなく、子どもと同じ目線で、「わからない、教えて」と聞いたり、「こんな風に考えたけど、どう思う」と問いかけたりすることも必要でしょう。

授業以外でも「子どもに寄り添う」場面はたくさんあります。悩みの相談でも、子どもの気持ちや考えをまず認め、一緒に考えるという姿勢が求められます。
「子どもに寄り添う」ということは、「教師の目線を子どもと同じ高さまで下げる」と言い換えてもよいかもしれません。このことを意識してほしいと思います。

行事が終わった後に意識すること

秋は行事の多い時期です。どの学級も一生懸命行事に取り組むことと思います。意外と意識されていないのが、行事が終わった後のことです。行事が終わった後、どのようなことに気をつければよいか考えてみましょう。

行事が終わった後の子どもの状態はどうでしょか。みんなが力を出し切った、結果を出せたときは満足感が学級に広がっています。このよい状態を明日からの授業に活かしたいと思います。そのためには、終わった行事を引きずらないようにすることが大切です。楽しかった行事の高揚感が教室のテンションをあげてしまうことが多いからです。テンションが上がりすぎると教室の落ち着きがなくなり、集中力が落ちてきます。高揚感を適度に抑え、気持ちを授業に集中させるためには、行事のことは一度忘れることが必要です。
もし、よい結果を残せたり、賞状をもらえたりしたのではあればそのことを子どもたちと一緒に喜びます。その上で、明日からの学級の目標を子どもたちに示します。今回の行事で達成したことの上に何を上積みするかです。
そして、できればその日のうちに、遅くても翌日には行事の名残となるもの(賞状のようなものは別ですが)をすべて片付けます。翌日以降、教室に行事で使ったものが残っていたり、行事関係の掲示物がまだ貼ってあったりすると、どうしても行事を引きずってしまうからです。

では、今一つうまくいかなかったと感じるときはどうでしょう。反省会のようなものを開くこともありますが、終わった行事のことを引きずるのはあまり得策とは思えません。それよりも行事を通じて「できたこと」「やれたこと」を探し、そのことをきちんと評価しておくことです。次の行事ではそこを出発点として、目標を考えればいいのです。また、結果が出なかったときリーダー役の子どもや行事に入れ込んでいた子どもはがっかりします。自分のせいだと思ったり、逆に協力的でなかった仲間のせいだと考えたりします。全体で取り上げる必要はありませんが、そういう子には個別に時間をつくって話を聞いてあげることが必要になります。

いずれにしても、行事を通じて新しい人間関係ができてきます。新しく友だちができることで、授業中の無駄なおしゃべりも増えたりします。逆に集団行動が苦手な子どもの中には学級の中に居場所がなくなることもあります。子どもの人間関係の変化に注意をすることが大切です。また、行事でエネルギーを使い体調を崩したり、授業中に集中力をなくす子どももでてきます。子どもたちの体調にも注意をすると同時に、授業での子どもの活動量を意識する必要があります。活動量を増やすことで授業に集中させることは大切ですが、グループ活動などが逆に無駄なおしゃべりを誘発することもあります。いつも以上に子どもの様子を注意深く観察する必要があります。

行事は子どもも教師もエネルギーを使うものです。終わるとホッと一息つきたくなります。しかし、そこで気を抜かず、子どもたちがきちんと気持ちを切り替えて次の目標に向かって活動するために教師がすべきことは何かを見極めてほしいと思います。

伸びる先生の条件

学校に出かけてたくさんの先生とお会いしてアドバイスをします。短い間にみるみるよい方向変わっていく方もいれば、なかなか変わらない方もいます。どこにその違いがあるのでしょうか。経験年数なのか、性格なのか。一概には言えませんが、一定の傾向があるように思えます。

まず、だれしもが言うことですが、「素直」ということがあります。アドバイスに対して、あまり難しく考えずに、「やってみよう」と思える人は、やらない人より間違いなく変わる率が高くなります。若い方に多いタイプです。うまくいくと、また次のアドバイスを求めます。他から学ぼうとする意識も高くなっていくように思います。いい循環に入るとどんどんよい方向に変化していきます。しかし、とりあえずやってみてうまくいかなければ、すぐにやめてしまう方も多いように思います。

一方、経験を積んできた方にとっては、他者からのアドバイスは自身が培ってきたものと相反することがあります。ここで、素直に「なるほど」と試してみる方は、若手以上に大きく変わる可能性があります。もともと経験もあり、基礎となる技術があるのですからうまくいく確率が高いのは当然です。ベテランの女性に多いように思います。

問題は納得できないときにどうするかです。このとき多くの方は、当然自分のスタイルを変えません。ところが、中には納得できないが、それほど言うのだから何か自分には気づかない要素や理由があるかもしれないと、挑戦してみる方がいます。こういう方は、はたからどう見えようが実は「謙虚」な方です。実際に挑戦してうまくいかなくても子どもやアドバイスのせいにはしません。自身の問題として、やり方がどこか悪いのではないか、何か欠けているのではないかと修正したり工夫をし、すぐにあきらめません。結果として実に大きく変化し、素晴らしい授業をされるようになります。

中には、直接アドバイスをしなくても変わっていく方があります。他の方の授業を見たり、自分で勉強している方です。先輩や仲間から盗むことができるので、直接のアドバイスは必要としません。こういう方は、まわりの先生の授業が変わっていくと素早くそのよさに気づき、吸収し自分の授業に取り入れていきます。進歩したいという「向上心」の強い方です。

「素直」「謙虚」「向上心」が伸びる先生の条件のように思います。特にベテランでこの条件を満たす方は、ちょっとしたきっかけで間違いなく素晴らしい授業をされるようになっていきます。
ここまで書いていてふと自分を振り返ると、「向上心」はあったように思いますが、「素直」「謙虚」については心もとないものを感じます。そんな私が、「素直」「謙虚」な先生方にアドバイスをしているのもおもしろいことです。
多くの先生方が変化していく場面に立ち会っていますが、それは「素直」「謙虚」「向上心」といった資質を持ち合わせている方に私がたくさん出会えたということに他なりません。そんな機会を得ていることにあらためて感謝します。

「子どもが主役」の授業を考える

授業は「子どもが主役」という言葉があります。この言葉に異を唱える方は少ないと思いますが、この言葉をどうとらえ、どう授業をつくるかについてはいろいろな見方があるようです。「子どもが主役」の授業について考えてみたいと思います。

「子どもが主役」といっても、授業の基本は教師がどのような課題を準備し、どのような活動を子どもたちにさせるかです。ここをしっかりしなければ、子どもたちは1時間活動したが、何の力もつかなったといったことになってしまいます。子どもたちに授業を通じて身につけさせたいことを明確にして、その達成のための手段を準備することが大切になります。この身につけさせたいことをどのくらいの将来に対して考えるかで、「子どもが主役」の授業のあり方も変わってくるように思います。

最終的なゴールを考えれば、「一生学び続ける人間」「社会の役に立つ人間」となるために必要なことを身につけることが大切です。そのためには、「学ぶ楽しさ」「人とのかかわりを通じた役立ち感」を知ることが重要です。教師が一方的に説明して、問題を解かせて「できた」「わかった」と言わせても知ることはできません。子どもが自分で「わかった」と感じる、互いにかかわり合って「わかる楽しさを知る」、自分の考えを他者に認められて「自己有用感も持つ」。こういう経験を授業の中でする必要があります。そのためにはグループやペアを活用するという方法もありますし、子どもの言葉をいかし、子どもの考えをつなぐような一斉指導もよいでしょう。どちらが正解というわけではありません。子どもの成長や状況によって手段は変わるべきだと思います。
ここで「子どもが主役」ということは、子ども自身の考えや子どものかかわり合いによって問題を解決していくということになります。教師の役割は、子どもが取り組むべき課題を考え、子ども同士のかかわり合いをつくりだすことになります。

長期的なゴールに至る過程を考えると、自分で考え、わかったと感じるためのベースとなる知識や考え方を身につけるということが必要になります。教師がこれを覚えなさい、この問題はこうして解きなさいと指示して練習をさせることが効率的に思えますが、子どものやらされている感が強く、達成感が持てなければ知識や考え方はしっかり身につきません。
知識は教師が教えるだけではなく、子どもが調べて見つけることも可能です。こういう活動をすることで、知識の獲得方法も身につけます。自分が見つけたと達成感も味わえます。考え方も、発問のなかにそれとなくヒントを入れたり、課題そのものを工夫することで子どもたちが気づきやすくすることもできます。
ここで「子どもが主役」ということは、子どもが自分で知識や考え方を獲得するような活動をすることになります。教師の役割は、子どもたちが身につけるべき知識や考え方を明確にして、子ども自身で見つけ気づくようにするための活動を考えることになります。

短い期間で考えると、漢字を覚える、かけ算の九九が言えるようなるといった、日々の授業の中で身につけるべきスキルのような訓練的な要素が強いものもあります。これこそ訓練でやらせるしかないように思えます。しかし、訓練させるにも、ただ「やりなさい」「試験をします」では、子どもは受け身になってなかなか身につきません。どれだけできるようになったかチェックし、自身の進歩を実感させ、ときには達成感を友だちとわかちあう。そのような工夫が必要です。
ここで「子どもが主役」ということは、子どもが目的意識を持って自主的に取り組み、達成感を味わうことになります。教師の役割は、訓練の目的を明確にし、子どもたちにわかりやすい目標を設定し、進歩を認める場面をつくることになります。

実際に「子どもが主役」の授業をつくることは、これらの要素が混じったものになると思います。教科や単元、子どもの成長によってそれぞれの比重が変わりますが、どれかの要素だけというのは不自然でしょう。

最後に「子どもが主役」というのなら、教師は何なのでしょうか。私は、「教師は演出家・プロデューサー・コーディネータ」だと思っています。主役たる子どもたちに活動を指示し、活動しやすいように環境をつくり、子ども同士をつなぐ。こういう意識を持てば自然に「子どもが主役」の授業になっていくと思います。

行事の時期は教室のエネルギーに注意

夏休みも明けて、運動会や文化祭などの行事で教師も子どもたちも忙しい季節です。この時期に授業を見せていただくときに気になるのは教室のエネルギーです。子どもたちのテンションは上がりすぎていないか、低くなっていないか、ちゃんと授業に集中しているか、寝ている子はいないか。この時期をうまく乗り切ることが1年の後半を乗り切る大きな分かれ目です。

行事で学級がうまくまとまっていくと、子どもたちのエネルギーは高まります。人間関係が円滑になると、いろいろなことにやる気が高まります。朝のあいさつも大きな声でしっかりできます。しかし、テンションが上がりすぎて、実は授業に集中できていないこともよくあります。元気はあるがじっくり課題に取り組めていない、忘れ物が増えているといった兆候があるときは、テンションを落とすことを意識する必要があります。挙手をさせずに指名する。指名と指名の間に間をとる。友だちの意見と関連して発言を求める。こういうことが大切になります。

一方行事で子どもたちが体力を使って疲れてくると、授業に対するエネルギーが下がってきます。板書は写すが、意見の発表が減ってくる。騒いだり、よそ事をしたりするわけではないが、何か集中していない。居眠りしたり、ふせっている子どもが出てくる。こういう状態は要注意です。
学級がこういう状態のときは、実は教師のエネルギーも落ちていることが多いのです。子どもたちのエネルギーを高めるためには、教師が積極的に子どもたちとかかわることが必要です。また、課題や発問に工夫も必要です。しかし、行事で疲れるのは教師も同じです。授業にエネルギーを集中できていないのです。
また、行事で授業は遅れがちなるので、教師が一方的に説明をすることで、少しでも先に進めたくなります。子どものエネルギーが落ちているので、騒ぐわけでもなく表面上は無事に進んでいきます。子どもも疲れているから、ちょっと様子を見よう。こんな気持ちで、この状態を放置してしまうと、行事も終わりいざ学級の雰囲気を切り替えようとしても、簡単には戻らなくなってしまいます。子どもも楽をすることに慣れてしまうのです。

子どもたちの集中力ややる気を起こさせるためには、受け身の時間を減らすことが必要です。とはいえ、このような状態では、思考的な活動にはすぐに入れません。物理的な活動を伴うような課題を与えるとよいでしょう。ペアでの活動、グループでの作業。物に触れたり、教具を使うような活動。教師も忙しくて大変でしょうが、ちょっとした工夫をすることが大切になります。

行事で頑張り、授業にもきちんと集中して参加する。この時期をしっかりと乗り切ることで、子どもたちは大きく成長するのです。そのためには、教師はいつも以上に授業での子どもの様子を観察し、教室のエネルギーがほどよい状態になるように注意してほしいと思います。

ペア活動の特性を意識する

ペア活動を取り入れる授業を見ることが多くなってきました。ところが、隣同士のペアで相談するように指示しているのに、後ろを向いて相談したり、黙ってしまってうまく活動できないペアが見られることがあります。うまくいかないときはどのようなときなのでしょうか。また、どのように活用すればよいのでしょうか。

教師が意識しなければいけないことは、子ども同士の人間関係ができていないときにはペア活動が難しいことです。ペアは1対1の関係ですから逃げようがありません。子どもたちにとっては緊張感が高まる関係です。年齢が進むにつれてこの傾向は強くなります。相談のような互いのかかわり合いが強く要求される活動をペアでおこなうのは意外と難しいのです。

それに対してグループは、ちょっと距離を置いて話を聞くこともできますし、声をかけやすい人がいる可能性も高くなります。また、グループで相談しているうちに、人間関係もつくられていきます。相談するといった活動は、グループの方が適していることが多いようです。

とはいえ、わざわざ席を移動してグループにするほどでもない、簡単に考えを確認させたいといったときは、ペアではなく、「まわり」と相談、確認するようにするとよいでしょう。「ペア」という逃げられない関係ではなく、「まわり」というゆるい関係を使うのです。

では、ペア活動はどのような場面で有効なのでしょうか。1対1の逃れられない関係であることを逆に生かして、互いの役割、責任が明確な活動に適しています。(ペア活動のポイント参照)
そして、注意してほしいことは活動を通じて、互いに相手に対してポジティブになるような工夫をすることです。たとえば本読みをペアでするとき、聞き役には、「間違えていないかチェックして」といった相手のミスを見つける役割ではなく、「間違えたり詰まったりしたら、正しく読めるように助けてあげてね」と相手を助ける役割を与えます。実質的に違わないように思えますが、役割の与え方の違いで、子どもの言葉づかいや態度が変わってきます。また、読み終わった後、悪いところを指摘するのではなく、よいところを指摘させるようにします。こうすることで、互いの人間関係もつくられていきます。

ペア活動は子どもたちの人間関係が大きく影響してきます。人間関係ができていなければなかなかうまく機能しません。逆に、その特性を理解してうまく活用することで人間関係をつくることもできます。このことを意識して活用してほしいと思います。

会議の雰囲気をつくる

愛される学校づくり研究会が主催するフォーラムのための指導案検討会が何度か開かれています。この検討会の特徴は、参加者が自分の意見をどんどん発表し合い、指導案の内容がどんどん高まってくことです。当り前のことのようですが、どうやらこれがなかなか難しいことのようです。というのが、参加された複数の方から、「こういう会議は初めてだ」「参加者がいろいろな視点で自分の考えを述べるのが新鮮だった」「刺激的な意見が多かった」といったコメントをいただいたからです。

地区にもよるのでしょうが、立場によって意見が言いづらい、言ってはいけないといった雰囲気のある会議があるようです。少なくとも指導案の検討や授業の検討は、いろいろな考えが出ることがとても大切なはずです。ある方が意見を出すと他の方は意見を言いづらい。それでは、意味がありません。しかし、現実にはそのようなことはよくあることのようです。

では、どうすればこの雰囲気を変えることができるのでしょうか。互いに自由に意見を言い合うことで学べることが増えることをみんなが経験していくこと、他者の意見を聞く姿勢を見せ合うこと(特にベテランが)が大切です。そのためには司会者が、意見が持っていそうだが発言できていない人に意図的に指名するといったことも必要ですし、「どんなことを感じたか聞かせてください」と答えやすく問いかけをしたり、「この点についてはどう考えられますか」と焦点化することも有効です。
また、小グループにすることでだれもが意見が言いやすくなり、その結果、全体でも活発に意見が出るようになることもあります。

このことは、実は教室の雰囲気づくりと一緒です。会議も授業も根っこのところは一緒なのです。子どもたちに質の高い学び合いを保障するためにも、教師同士が質の高い、学び合える会議を経験していてほしいと思います。

他教科の意見は貴重

昨日は中学校で授業研究に参加しました。私が参観したのは同時展開でおこなわれた2つの数学の少人数授業でした。

おもしろかったのが、数学科以外の先生方の反応や意見でした。教科の人間でないので、子どもと同じ視点で授業を見ます。「何をすればいいのかわからない」「何をやっているのかわからない」といった声が聞こえてきます。数学の教師にとっては当り前のことが、そうでない者にとっては決して当り前でないことがよくわかります。
検討会では、数学の教師とは違った視点から、「なるほど」とうなずかされる意見がたくさん出されました。

中学校では教科担任制をとるために、授業研究で他教科の方が参加することに懐疑的な方もいらっしゃいます。しかし、他教科の意見はその教科の人間では決して気づかないようなものがたくさんあります。子どもの目線に近く、しかも教師の視点もあわせもっているということは、とても貴重なことなのです。

今回の授業で「何をやっているかわからない」という声が出た原因の一つが、教材研究不足です。端的に言えば教科書の内容をしっかりと理解していなかったことです。
1次関数のグラフの傾きの最初の授業ですが、1次関数の「変化の割合」という関数としての性質と、直線のグラフに対して定義された「傾き」が等しいことを使って、グラフの傾き具合と「傾き」との関係を整理するという教科書の論理の進め方をきちんと理解していなかったのです。ここが不明確なまま授業を進めたため、傾き具合と「傾き」、「変化の割合」の関係が混乱してしまったのです。

ここでも何度も取り上げているように、教科書の内容をきちんと理解することはとても大切なことです。課題や発問を子どもの視点で見直すこと、教科書をきちんと読み込んだ上で自分なりの進め方を考えることを授業者にはお願いしました。
私自身数学が専門ですので、今回、他教科の方の素直な意見に触れることで、たくさんのことに気づくことができました。とてもよい機会を得られて感謝しています。ありがとうございました。

盛山隆雄先生から学ぶ

教師力アップセミナーで盛山隆雄(筑波大学附属小学校教諭) のお話を伺いました。

まだ40歳と、このセミナーの今までの講師の中では一番の若手の方です。どのようなお話が聞けるかとても楽しみにして参加しました。とにかく感心したのは、授業の基礎基本に非常に忠実ということです。2つの事例を紹介されましたが、発問、子どもの言葉への切り返し(盛山先生は問い返しとおっしゃっていました)、板書、どれをとってもまずはここが一番の基本で大切だということを伝えてくださいました。筑波大学附属小学校で日々研鑽されている先生です。参加者が「あっ」というようなネタもたくさんお持ちだと思います。しかし、若い参加者を意識してオーソドックスな日々の授業に役立つことに絞って話をされました。

自分に振り返ってみると、どうしても参加者受けをねらった、「あっ」と言わせるようなネタを少しは入れたくなります。しかし、「あっ」と言ってもらえたから、参加者の学びが深くなるわけではありません。基本的なことを一つひとつ丁寧に伝えていくことが「あっ」と言わせることよりももっと大切なのです。盛山先生の柔らかい語り口で伝えられる内容をゆっくりと咀嚼しながら、このことに気づくことができました。この日もとてもよい学びをさせていただきました。ありがとうございました。

学びの多い一日

昨日は中学校で授業アドバイスと指導案の検討会に参加しました。

若手の先生と一緒に授業を見ました。子どもたちが落ち着いて授業に取り組んでくれるので、教師の発問の質や子どもの発言への対応がどうであるのかがとてもよくわかります。この学校では、子どもとの基本的な関係から一歩進んで課題や発問、活動の質など、より教科内容にそった授業研究が求められると思いました。
また、2年生の多くの学級で職場体験の自己紹介文を清書する場面を見ることができました。この学年は全体的に人間関係もよく落ち着いているのですが、それでも学級差が目立ちました。誰ひとりわき目も振らず集中している学級、友だちの紹介文を見たりしながら楽しそうに取り組んでいる学級、書き終えた子どもなのでしょう、まわりの子どもとおしゃべりしたり、ごそごそしている子どもが目立つ学級、・・・。教師の姿も、前でじっと立って様子を見ている、教師用の机で何か作業をしている、教師が前で子どもの紹介文をチェックしている、・・・といろいろです。板書も紹介文を書くときの具体的な指示、心構えなどバラエティーに富んでいました。子どもたちの様子の違いとその原因についていろいろと考えることができ、とても面白く感じました。

この日は個別のアドバイスを予定していなかったのですが、若手の何人かが自主的に聞きに来てくれました。とてもうれしいことです。

数学の講師と新任は、教室は落ち着いた雰囲気で授業ができるようになっています。しかし、どうしても先生が一方的にしゃべりすぎるのです。その原因は、解き方の手順を教えることを中心に授業を考えているからです。ですから解き方を聞いて子どもが答えたら、もう聞くことがないのです。定義を問う、解き方の根拠を問う。こういう場面がないため、ひたすら説明と問題練習で終わってしまうのです。ただ教科書をなぞるだけでは授業はつくれません。子どもに何を考えさせるのか、そのためにどのように問いかけるのかを考えて授業に臨むことをお願いしました。

理科の2年目の先生は、昨年と比べて随分と落ち着き、子どもたちとの関係もしっかり作れていると感じました。レンズの作図をする場面では、子どもたちは集中して取り組んでいました。こういう状態がつくれると、授業で改善すべき点が何であるか、とてもよくわかります。
この日のまとめを、光源の位置と像の関係に注意して書くように指示したとき、ある子どもが、「どこかわからない」と声をあげました。おそらく光源の位置をどう整理したらいいのかわからなかったのでしょう。板書を見ても、作図の仕方は丁寧に書いてありますが、なぜこれらの場合に分けているかは書かれてはいません。先生は、その子どもの言葉をとりあげずに個別に対応しました。しかし、他にも同じように混乱している子どもがいるはずです。実際にさきほどの作図と違って、鉛筆にすぐに手がいかない、すぐに動かない子どもがかなりいました。
「他にも困っている人いる」と課題を把握できていない子どもを確認したり、「何を書けばいいか、まわりと確認して」と課題を子ども同士で確かめ合う活動を入れるべきだったと伝えました。

また、このような状態をつくった原因は、作図に入る前になぜ光源と焦点との位置関係に注目して作図をするのかをきちんと確認していないことにありそうです。授業者に確認したところ、やはり、前回の実験のことには触れたが、実験とこの日の作図の関係をきちんと押さえていなかったようです。個々の場面や課題についてはどう進めるか考えているのですが、理科で大切になる、実験でわかったことをもとに考える、考えたことを実験で確かめるといった、課題同士をつなげることを意識できていなかったのです。

しかし、このような教科の内容や進め方について具体的に話せるようになったのは大きな進歩です。基礎的なことがしっかりしてきたからこそ、どこに問題があるか明確にわかるのです。この授業でいえば、もし子どもたちが作図をきちんとできていなかったり、教師の話を聞いていなかったりしていれば、どこが原因で課題がわからないのか想像ができません。これが、私が若い先生にアドバイスするとき、まず教科の内容ではなく基礎的な子どもとの接し方や授業技術について話す理由です。

この日は、このほかにもたくさんのことに気づくことができ、また学ぶことができました。何年もかかわっている学校なので、きっとこんな様子だろうと想像してしまうのですが、子どもたちと先生はいい意味で裏切ってくれます。これが、学校で授業を見せてもらう大きな楽しみの一つです。

すぐに結論が出てしまったらどうする

授業で子どもとやり取りしながら考えを練り上げたいときに、いきなり結論が出てきてしまって扱いに戸惑うことがあります。こういうことを避けるために、どういう順番で指名するか注意をしている教師も多いと思います。結論が早い段階で出たときはどのように授業を進めていけばいいのでしょうか。

教師が戸惑う一番の理由は、自分の予定していたストーリーが崩れてしまうからです。一つひとつのステップを確認しながら、演繹的に進めるための準備をしているので、それが崩れて軽いパニックに陥ることもあります。結論が出たのに、無理やり教師が予定通り進めようと、あえてその発言を保留して最後に利用しようとすることもあります。
こういうときには、演繹にこだわるのではなく、帰納的に進めることが有効です。

結論やよい考えが発表されたからといって、全員がすぐにわかるわけではありません。まず、その考えがわかったか、納得できたか学級全員に確認をすることから始めます。その上で、間を埋めたりつなぐ考えを子どもたちから引き出していけばいいのです。

「・・・だから、・・・になると思います」
「なるほど。同じように考えた人いる」
「いるね。○○さんの考えを聞かせてくれる」
「・・・」
「なるほど、2人の説明でどう、みんな納得した。なるほどと思った人手を挙げて」
「いるね。じゃあ、まだよくわからないという人は」
「いるね。みんながわかったと言えるような説明を考えよう」
「さっきなるほどと思った人、どこでそう思ったか聞かせてくれる」
・・・

答を知って、どうしてそうなるのかを考える力は大切です。また、どうして気づいたのかを自分で考えたり、友だちから聞くことで視野も広がります。

「どうやって気づいた?」
「何をしていて気づいた?」
「どこでわかった?」
「何をやろうとしたの?」
「どんなことをした?」
「すぐに、できた? うまくいかなったことはない?」
・・・

「どうやって気づいたんだろう?」
「何をしたんだろう?」
「どこでわかったのかな?」
「何をやろうとしたんだろう?」
「どんなことをしたと思う?」
・・・

子どもは自分の気づく過程を明確に意識できていません。そのため、子どもの説明ではその部分はなかなか語られません。教師の説明も試行錯誤の部分は無駄として語られないことが多いように思います。そこで、教師がこのように問い返すことで、思考の過程を明確にし、その過程を教室全体で共有することができます。わからなかった、気づかなかった子もどんなことすれば、考えればよかったのかを知ることができるのです。

結論から説明を考えさせていけば、教師が考えていたストーリーの最初の一歩まで逆にたどることができます。そこまで戻れば、あとは当初のストーリーを生かすこともできます。

いつも演繹的に進めるのではなく、時には先に答えを示して、「どうしてこうなるのだろうか」と問いかけることも大切です。考えるアプローチをいくつも経験させておくと、すぐに結論がでてしまったりしても、あせることなく自然に対応することができます。

授業の方向性がそろっている学校

昨日は、小学校で授業アドバイスと授業解説をさせていただきました。すべて算数の授業です。この学校の努力目標の一つに算数が取り上げられているからです。1日算数の授業にかかわることはめったにないので、とても楽しい時間を過ごすことができました。

授業解説のたたき台となってくれた授業は、さすがベテランというべきものでした。子どもがよく育っていたので、聞く姿勢もできていました。しかし、机が横並びのために、後ろの方の子どもの発言を聞くときに、前の座席の子どもが聞きづらかったり、前を向いたままになっていたのがとても気になりました。基本的に聞く姿勢ができているので、座席をコの字型にするといった工夫が必要でしょう。

この授業でおもしろかったのが、子どもの発言が教師の予想を超えていたことです。
速さの導入の授業なのですが、最初に「速さ」について子どもに自由に意見を言わせたところ、すぐに「時間」がかかわること、「1秒で、1時間で」、「同じ距離を」といった基準を意識した言葉、キーワードが出てきました。
授業者は笑顔で子どもたちをとてもよくほめます。そのおかげで子どもたちは安心して意見を言ってくれます。このように子どもが育ったからこそ、教師の予想を超える発言をしてくれたのです。

しかし、研究授業ということもあり授業者は指導案の流れにこだわって、時間と道のりだけに焦点を当てて進めようとしました。しかし、たとえば「同じ距離」という子どもの言葉から「距離」に焦点化しようとしても、子どもは「同じ」に意識がいきます。速さに関して、当然のように関係する「距離」よりも「同じ」が子どもにとってはより注目すべきことだと考えたからです。
このように子どもからよい考えが出たときは、その場で他の子どもも土俵に上がれそうであれば、教師もそこに乗っかればいいのです。
この授業がうまくいかなかったわけではないのですが、同じ時間、同じ距離に注目して、どうすれば速さを比べられるかを先にやってから、練習をすればすっきりと進んだと思います。

授業アドバイスは、若手の先生を中心に6人の方の授業を見せていただきました。
授業後、どんな授業を心掛けているかを聞いたところ、「子どもたちが楽しいと感じる、思う授業」ということをどなたも言われました。この学校の目指すところが先生方に共有されているということです。ちょっと意地悪く、「楽しいとはどういうこと」と聞き返すと、「できる、わかること」とすぐに答えが返ってきました。このことにも感心しました。
ならばアドバイスは簡単です。何ができればよいのか、何がわかればよいのか、教師にとっても、子どもにとってもそのことが明確になるようにすることです。授業の最後にできた、わかったと感じるだけでなく、ステップごとにできた、わかったと子どもに実感させることがポイントです。

授業の場面ごとの目標をはっきりさせること
子どもたちにできた、分かったと実感させる場面を明確にしておくこと
そして、教師できれば友だちがポジティブに評価すること

このようなことを意識して授業をすることをお願いしました。

先生方が、一つの方向を向いて授業研究に取り組んでいることがとてもよくわかる学校でした。管理職、リーダーの先生がしっかり機能している学校です。今年度もう一度おじゃまする機会があります。そのときに、どのように授業が進化しているか今からとても楽しみです。

教材開発の会議に参加

昨日は教材開発に関する会議に参加しました。

授業や教材に関して、知識をいかに効率的に伝えるか、獲得させるかという視点が重視されていることが多いように最近感じます。

子どもの説明は不明確だからと、教師が無駄のない説明をする。
たとえよい考えや意見でも、教師が予定した説明につながらないものは取り上げない。
身につけるべき知識を効率的に習得することを意識して、きれいにまとめた教材。

子どもは、考えることは与えられた問題を教えられた手順に従って解くこと、知識を獲得するとは教師が指示したことを無駄なく覚えることと思ってしまうのではないでしょうか。そうならないために、問題を自ら気づく、発見する、解決する。そして、経験を通じて知識を獲得していく。こういうことを大切にしてほしいと思います。

自分たちで意見をつなぎながら結論を導く。
友だちのいろいろな考えに触れて視野を広げる経験を積ませる。
何が大切な知識か自分で考え、整理する。

学校での学びはこのようなことを大切にしなければ、質の悪い塾のようになってしまいます。逆にこのような学びは個人ではとても難しいことです。残念ながら、学校でこのような学びを経験できていない子どももある程度存在するのではないでしょうか。いろいろな考えに触れることなく、結論だけを示され、それを覚える。このような毎日を学校で送っている子どもたちに、少しでもいろいろな考えに触れ、自ら考える経験を積ませるような教材をつくることができないか。そんなことを考えながら会議に参加していました。何とか形にしたいものです。

教科書の子どもの発言を読みこむ

仕事の関係で小学校の教科書を読む機会が増えました。読みこむことで、最近の教科書はよくできている感心させられることがたくさんあります。何がポイントかとても分かりやすく、指導書は必要ないのではと思うほどです。また、子どもたちにどのような活動をさせたいのか、どのような発言を期待しているのか、教科書作成者の思いがとてもよく伝わります。

このような思いが一番よく表れているのが、教科書に書かれている子どもの発言やつぶやきです。

「・・・じゃないかしら」
「・・・だろう」
「・・・と考えました」
・・・

この部分に非常に重要なポイントが隠されています。ここをしっかり読んで理解すれば教材研究がほぼ終わるとも言えます。しかし、教科書に書かれてはいますが、この発言やつぶやきは授業中に教室の子どもたちから出てほしい言葉でもあります。教科書を読んで気づくのではなく、自分たちで気づいてほしいのです。ですから、教科書は授業の大切なツールではありますが、場合によっては開かない方がよいこともあるのです。教科書を見せないで子どもたちから期待する発言を引き出す。ここに教師の大切な役割があります。

子どもが教科書にあるような疑問を持つにはどのような問いかけが必要か。
子どもが自分の考えを持つためにはどのような活動が必要か。
子どもが自分の考えを発言できるために持つためにはどのような働きかけが必要か。

教科書は教師がどのような役割を果たさなければいけないのかを常に問いかけています。
一見すると、教科書を使わないで独自のやり方で進んでいるようでも、よく練られていると感じる授業は間違いなく教科書をしっかり読みこんだ上でつくられています。

よい授業をつくるには、何よりもまず教科書を読みこみ理解することが第一歩だという思いをますます強くしています。

うれしいハガキ

先日おこなった現職教育の講演(小学校の現職教育)の礼状が教務主任から昨日届きました。ハガキ1枚にびっしりと手がきです。私自身がメールやワープロを多用する方なのでそれだけで感激してしまいます。

翌日の出校日に授業した先生が、「困っていることはないか」と子どもに聞いたところ「立式に困っている」など、具体的に困っていることをよく話してくれた。若手の先生が授業を見てもらいたい、私と一緒に子どもの様子を見てみたいと言ってくれたといったその後の報告が書かれていました。講演後すぐに届くお礼のメールもうれしいのですが、日をおいて実際の授業にどのような変化が起こったのかを教えていただけることは本当にうれしいものです。

実はこの数年、学校からの講演依頼はできるだけ条件をつけるようにしています。別の日でもよいので実際の授業を見せていただくことや授業研究に参加すること、また個別に授業を見てアドバイスさせていただくことです。
全体で話をして、「いい話でした」「勉強になりました」と評価いただいても、実際の授業がよくなったという話はあまり聞けないからです。同じ授業を見て互いに気づいたことを話し合う、私の気づきやアドバイスを伝える。こういうスタイルの方が経験的に授業がよい方向に変わることが多いのです。

私の一方的な話だけで授業に変化が起きたということは、素直な先生が多い学校だと思います。短い期間で授業がいい方向に変わる可能性が高い学校です。今学期に授業アドバイスを予定しているのですが、ますます楽しみになりました。
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