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ちょっといい話 3月24日(金)

あなたに贈る【感動する話、泣ける話、きゅんきゅんしちゃう恋愛話】

 誰かのために

 僕が看取った患者さんに、スキルス胃がんに罹った女性の方がいました。余命3か月と診断され、 彼女は諏訪中央病院の緩和ケア病棟にやってきました。ある日、病室のベランダでお茶を飲みながら話していると、彼女がこう言ったんです。「先生、助からないのはもう分かっています。だけど、少しだけ長生きをさせてください」彼女はその時、42歳ですからね。そりゃそうだろうなと思いながらも返事に困って、黙ってお茶を飲んでいた。すると彼女が、「子どもがいる。子どもの卒業式まで生きたい。卒業式を母親として見てあげたい」と言うんです。9月のことでした。彼女はあと3か月、12月くらいまでしか生きられない。でも私は春まで生きて子どもの卒業式を見てあげたい、と。子どものためにという思いが何かを変えたんだと思います。奇跡は起きました。春まで生きて、卒業式に出席できた。さらに不思議なことが起きました。彼女には2人のお子さんがいます。上の子が高校3年で、下の子が高校2年。せめて上の子の卒業式までは生かしてあげたいと僕たちは思っていました。でも彼女は、余命3か月と言われてから、1年8か月も生きて、2人のお子さんの卒業式を見てあげることができたんです。そして、1か月ほどして亡くなりました。彼女が亡くなった後、娘さんが僕のところへやってきて、びっくりするような話をしてくれたんです。僕たち医師は、子どものために生きたいと言っている彼女の気持ちを大事にしようと思い、 彼女の体調が少しよくなると外出許可を出していました。「母は家に帰ってくるたびに、私たちにお弁当を作ってくれました」と娘さんは言いました。彼女が最後の最後に家へ帰った時、もうその時は立つこともできない状態です。病院の皆が引き留めたんだけど、どうしても行きたいと。そこで僕は、「じゃあ家に布団を敷いて、家の空気だけ吸ったら戻っていらっしゃい」と言って送り出しました。ところがその日、彼女は家で台所に立ちました。立てるはずのない者が最後の力を振り絞ってお弁当を作るんですよ。その時のことを娘さんはこのように話してくれました。「お母さんが最後に作ってくれたお弁当はおむすびでした。そのおむすびを持って、学校に行きました。久しぶりのお弁当が嬉しくて、嬉しくて。昼の時間になって、お弁当を広げて食べようと思ったら、切なくて、切なくて、なかなか手に取ることができませんでした」
 お母さんの人生は40年ちょっと、とても短い命でした。でも、命は長さじゃないんですね。お母さんはお母さんなりに精いっぱい、必死に生きて、大切なことを子どもたちにちゃんとバトンタッチした。
   『致知』2012月7月号 より鎌田 實「誰かのために・・・」

今日のお話 3月24日(金)

 宮崎  駿の名言

   子どもっていうのは、

   可能性の生き物なんですよ。

   たくさんの選択肢を、

   毎日持ってるんです。

   大人も実はそうなんですけどね。

ちょっといい話 3月23日(木)

あなたに贈る【感動する話、泣ける話、きゅんきゅんしちゃう恋愛話】

  娘の言葉 

 電気工事士として引き抜かれ、次の会社でも頑張っていたのですが、その会社が不振になり、リストラをせねばならぬ状態になりました。私は誰かが辞めさせられるなら、自分が辞めれば1人は救われると思い、自分から申し出て退社しました。その後、屎尿汲み取り(役場の現業職)に従事することになったのです。妻と長女は事情を理解し、早くに納得したのですが、長男が反発して1週間も飯を食わないような状態でした。長女は高校生で、長男は中学生だったので無理もないことです。でも、「職業に貴賎なし。誰かがやらねばならない仕事が世の中にある。お前は、もし、友達の父親が汲み取りをしていたら、
そいつと付き合わなくなったり、その父を軽蔑したりするのか」と諄々と言い聞かせ、ようやく長男も納得させたのです。
 ある日、地元の本屋さんで汲み取り作業をしていたら、女子高生数人が遠くから来るのが見え、長女もその中にいました。友達の手前、こんな父親の姿を恥ずかしく思いやしないかと、とっさに物陰に隠れようとしたのです。その時「お父さん、頑張って〜」と離れた所から長女が声をかけてきたのです。私は、日頃言ってきたことと、自分のとった行動の違いに情けなさを感じました。娘の方が人間としてどれほど立派か、と思い知らされた場面でした。今でもこの時のことを思うと涙が出てきます。

今日のお話 3月23日(木)

 宮崎  駿の名言

   つい偉そうに文化人ヅラして

   「子育ての環境とは」などという

   発言をしてしまうことがありますが、

   たいてい誰も聞いていません。

   つまり、いくら発言をしても

   なんの影響力もないのです。

   必要なのは、

   理念を語ることではなくて

   実際になにかをやることです。

ちょっといい話 3月22日(水)

あなたに贈る【感動する話、泣ける話、きゅんきゅんしちゃう恋愛話】

  言葉ひとつ

 あるご主人が病気で奥さんを亡くされて、初めてキッチンで家事をしたそうです。そのときにキッチンで食事を作る大変さに、ご主人は初めて気がつきました。料理を作るためにはメニューを考えたり、買い物をしたりすることも必要だとわかりました。奥さんが元気だった頃、仕事から帰ってきたご主人は奥さんに、「まだ、食事ができていないのか?」と怒鳴っていましたが、奥さんは何の文句も言わずに、「ビールを飲んで待っていてください」と言って、ビールを出してくれていたそうです。そのときの奥さんの姿を思い出して、ご主人は涙が出たそうです。奥さんが亡くなって初めて洗濯をしたときには、水の冷たさに初めて気がついて、なぜ、奥さんの手が荒れていたのかがわかりました。寒い日に、笑顔で洗濯物を干していた奥さんの姿を思い出して、こんな大変なことを毎日笑顔でしてくれていたのかと思ったそうです。どうして、「毎日、一生懸命に家事をしてくれてありがとう」と一言だけでも、ねぎらってあげられなかったのだろうかと、とても後悔したそうです。
          「小さな幸せに気づく24の物語」 中山和義 著

今日のお話 3月22日(水)

 宮崎  駿の名言

   面白いものは

   この世界にいっぱいある。

   キレイなものや、

   まだ出合ってないかもしれないけれど、

   いいこともいっぱいある。

   それを子どもたちに伝えたい。

   ただそれだけですね。

   映画の中じゃない。

   映画の向こうにいっぱいあるんです。

ちょっといい話 3月21日(火)

女性自身

 1万4千円の婚約指輪を店員に笑われた 

 テネシー州に住む22歳のアリエル・ディジリーがFacebookに投稿した文章が広く反響を呼んでいる。アリエルはコミュニティサービスの事務所に勤め、恋人のクインは中古車ディーラーで働いている。生活に余裕はなく、倹約に倹約を重ねる毎日だ。2年間の交際を経て、2人は結婚を決意。「親友と結婚できるだけで幸せだから指輪は要らない」とアリエルは言ったが、夫は違った。クインはアリエルに指輪を贈るために、密かに貯金していたのだ。ジュエリー店で2人が選んだのは、シルバーとキュービックジルコニアのリングだった。値段は130ドル。心躍らせて会計を待っている間、店員のつぶやきが耳に入ってしまった。「これを婚約指輪として買うなんて信じられる?みじめすぎるわ」クインの顔はみるみる曇り、がっくりと肩を落としてしまった。そして「本当に君はこれで幸せなの?これでいいの?」と不安そうに聞いてきたという。アリエルはその女性店員に「重要なのは指輪そのものじゃない。それを買う、という愛こそが大切なのよ」と反論し、指輪を受け取ってその場を去った。
 アリエルは疑問を投げかける。「私達の国はいつから、男性が3,000ドル以上の派手な指輪を買わないと愛を伝えられないような国になってしまったんでしょう。指輪は本当に素敵で、あのときの気持ちは最高だった。他の人たちの体験に勝るとも劣らないものだった。なぜモノが愛と同一視されるのでしょうか。私の夫は、宝石を買う余裕がなかったから、私に嫌われるのではないかと考えました。私が欲しい指輪を買えなかったから、私の愛が薄れるのではないかと恐れました。世間がこのようにしてしまったんです。本当に悲しいことです。でも、裁判所での結婚、130ドルの指輪、夫からの精一杯の愛情は、想像していたよりもずっと幸せなんですよ」
 彼女の“指輪物語”は多くの人の共感を呼び、65,000回を超えるリアクションを得ている。「なんて素敵なストーリー」「身の丈に合うものを選択したことはとても賢い」といったコメントや、「私の指輪も見て」「私のは25ドルだったのよ」とシルバーやジルコニアの指輪の写真が次々寄せられている。

今日のお話 3月21日(火)

 宮崎  駿の名言

   目の前の子供に

   「生まれてきてくれてよかった」

   って言いたい気持ちがあるから

   映画を作ろうって思うんです。

ちょっといい話 3月17日(金)

いいはな新聞 ちょっといい話・感動する話 まとめ

 無口な祖父

 私の父は、無口で頑固で本当に怖くて、親戚中が一目置いている人でした。家に行ってもいつもお酒を飲んでいて、その横で母がせわしなく動いていた記憶があります。私が結婚する事になり、ドキドキしながら主人を連れて行くと、ずっと黙ったままやっと口を開くと、「ビールは何を飲むんや?」でした。その日は何とか無事に終わり、式の当日、終始酒をつぎにまわってた。
 その後、子どもが生まれ少し育児ノイローゼ気味になった私を見て、なぜか毎日孫の世話をしに来るようになった。当然子どもの面倒など見たことないので、する事がメチャクチャで、イライラしていた私は嫌味ばかり言ってしまった。2ヵ月後、あまり調子がよくないと言っていた矢先、他界した。何でもっと優しくしてあげなかったんだろう。紙オムツの仕方を聞かれて、「それぐらいわかるでしょ」って、何で冷たく言っちゃったんだろう。あの日、自分でどうにかしようと思って変な形になったオムツが残されてた。
 その後、毎日つけていた日記が見つかり、式の当日、「あのバカ娘がとうとう嫁に行った。最後の挨拶では涙が出た。幸せになれ。」って書いてた。おまけに家には主人があの日答えた「アサヒビール」が押入れいっぱい詰められていた。

今日のお話 3月17日(金)

 宮崎  駿の名言

   宝島なんてないと思ってる

   子供たちがたくさんいる。

   だけど、本当はそう思い込んで

   世界を狭くしてるだけじゃないのかなあ。

   出会えたら素晴らしい人とか

   心打たれる風景はたくさんある。

   出会う前、見る前に諦めちゃいけない。

今日のお話 3月16日(木)

 北野 武

     そんな友人が欲しい  

   困ったとき、助けてくれたり

   自分のことのように心配して

   相談に乗ってくれる 

   そんな友人が欲しい

   馬鹿野郎!

   友達が欲しかったら

   困ったときに助けてやり 

   相談に乗り

   心配してやることだ

   そして相手に何も期待しないこと

   それが友人を作る秘訣だ。               

ちょっといい話 3月15日(水)

いいはな新聞 ちょっといい話・感動する話 まとめ

 ぼくと大学生のいい話

 小5のとき、通学路の交差点を渡っていたとき、右折車が横断中の俺めがけて突っ込んできた。催眠術にかかったように体が動かず突っ込んでくる車を呆然と見ていたら、後ろから突き飛ばされ、俺は難を逃れた。が俺を突き飛ばしてくれた大学生は車に跳ね飛ばされた。泣きながら近所の家に駆け込んで救急車と警察を呼んでもらい、自分は警察の事故処理係に出来る限り状況説明をした。後日、家に警察から電話があり大学生の入院先を教えられ、母親と見舞いに行って御礼を言った。中学1年のとき父親の仕事の都合で同県内の市外へと引っ越した俺は、そこで先生となっていた件の大学生と再会した。お互いに驚き再開を喜びつつ、3年間面倒を見てもらって俺は中学を卒業し、高校進学と供に市内に戻った。地元の教育大学に進学した俺が教育実習先の小学校へ向かう途中の交差点で、自分の前を渡っている小学生の女の子に右折車が突っ込もうとしているのをみた。スローモーションみたいに流れる情景に「ウソだろ・・・」と思いつつ、とっさに女の子を突き飛ばしたら、自分が跳ね飛ばされた。コンクリートの地面に横たわって、泣いてる女の子を見ながら、あのとき先生もこんな景色を見たのかな・・・とか考えつつ意識を失った。入院先に、俺が助けた女の子の親が見舞いにやって来た。彼女の親は中学時代の恩師であり、俺の命の恩人そのヒトだった。「これで貸りは返せましたね」と俺が言うと、「バカ・・・最初から、借りも貸しも無いよ」と先生は言った。
 ベットの周りのカーテンを閉めて、俺たち二人、黙って泣いた。

今日のお話 3月15日(水)

 宮崎  駿の名言

   僕は自分たちの仕事を

   クリエイティブな仕事というよりも、

   リレーのように考えています。

   僕らは子どもの時に、

   誰かからバトンを貰ったんです。

   そのバトンをそのまま渡すんじゃなくて、

   自分の身体の中を一度通して、

   それを次の子どもたちに渡すんだという

□ プロフィール
 東京都出身のアニメーション作家、映画監督、漫画家。『ルパン三世』『パンダコパンダ』『アルプスの少女ハイジ』などの制作に関わり、1978年に『未来少年コナン』で事実上の初監督を担当。映画「風の谷のナウシカ」が大ヒットを記録し、作家として宮崎駿の名前も広く知られるようになり、1985年に「スタジオジブリ」を創立。数年おきに長編アニメーション映画作品を製作・発表している。

ちょっといい話 3月14日(火)

泣ける話ちゃんねる

  最後の家族写真 

 俺が小さい頃に撮った家族写真が一枚ある。見た目普通の写真なんだけど、実はその時父が難病を宣告されていてそれほどもたないだろうと言われ、入院前に今生最後の写真はせめて家族と……、と撮った写真らしかった。 俺と妹はまだそれを理解できずに無邪気に笑って写っているんだが、母と祖父、祖母は心なしか固いというか思い詰めた様子で写っている。当の父はというと、どっしりと腹をくくったと言う感じで、とても穏やかな様子だった。 母がその写真を病床の父に持って行ったんだが、その写真を見せられた父は特に興味も示さない様子で「その辺に置いといてくれ、気が向いたら見るから」とぶっきらぼうだったらしい。母も、それが父にとって最後の写真と言う事で、見たがらないものをあまり無理強いするのもよくないと思って、そのままベッドのそばに適当にしまっておいた。しばらくして父が逝き、病院から荷物を引き揚げる時に改めて見つけたその写真は、まるで大昔からあったようなボロボロさで、家族が写っている部分には父の指紋がびっしり付いていた。普段もとても物静かで、宣告された時も見た目普段と変わらずに平常だった父だが、人目のない時、病床でこの写真をどういう気持ちで見ていたんだろうか。
 今、お盆になると、その写真を見ながら父の思い出話に華が咲く。祖父、祖母、母、妹、俺……。 その写真の裏側には、もう文字もあまり書けない状態で一生懸命書いたのだろう、崩れた文字ながら、「本当にありがとう」とサインペンで書いてあった。

今日のお話 3月14日(火)

 東井 義雄の名言

   天に向かって

   ブツブツ言うな

   雨の日には雨の日の

   生き方がある。

ちょっといい話 3月13日(月)

いいはな新聞 ちょっといい話・感動する話 まとめ

 みんな丸坊主 

 昔、当時中学生の弟が、学校帰りに床屋で丸坊主にしてきた。失恋でもしたのか、と聞いたら小学校からの女の子の友達が、今日から登校するようになったからだと。彼女は、今まで病気で入院しており、薬の副作用で髪の毛が全部抜けてしまったらしい。「女が丸坊主じゃ恥ずかしいって言ってたし、だったら他にも丸坊主がいりゃいいかなと思って。野球部の奴等は元々丸坊主だけど、野球部じゃない丸坊主がいた方がいい」と弟は言っていた。翌日、丸坊主で登校した弟は帰宅するなり、「同じ事考えた奴が一杯いた……」と。なんでも優等生から茶髪問題児を含め、クラスの男子全員が丸坊主かそれに近い頭になっており、病気の子と仲が良い女の子達までベリーショート、一人は完全な丸坊主になってたらしい。更に担任の先生(男性)まで丸坊主。丸坊主だらけの教室で、病気の子は爆笑しながら「ありがとう、ありがとう」と泣いたという。示し合わせたわけでもないのに、全員同じ事考える当時の弟のクラスに和んだ。
 ちなみに病気の子は今も健在、弟は意外に丸坊主が気に入ったらしく、それからずっと丸坊主。

今日のお話 3月13日(月)

 東井 義雄の名言

   本物は続く。

   続けるから

   本物になる。

ちょっといい話 3月10日(金)

震災と向き合う12歳の日記4

 「お父さんが軽トラでもどっていった姿を見ました。津波にのみ込まれませんように。そう祈っていました」。巨大地震と大津波が東日本を襲ったあの日、子どもたちは何を見、その後をどう生きたのか。岩手県山田町の町立大沢小学校を3月に卒業した6年生が毎日小学生新聞に寄せた体験日記には震災と向き合う姿が率直につづられていた。

◇3月28日
 きょうは火葬の日。ぼくとねえちゃんとお母さんとけいじろうは、手紙を書いて、お父さんと一緒に入れてやりました。拝んでいる時ぼくは「箱石家は頑張って継ぐからまかせて」と言いました。お墓に骨を埋めるまで、ぼくに骨を持たせてくれました。骨をうめてホッとしました。

◇4月7日
 きょうは、ありがたいと心から言える日でした。お父さんとぼくたちの記事を見て、お父さんが東京マラソンを走った時の写真とお手紙を新聞の人が持ってきてくれました。ぼくたち家族に贈る言葉や、さらにはぼくに贈る言葉の手紙もありました。やっぱりお父さんはすごい。今日は本当にありがたい日だ。

 25日、155人の仲間と一緒に町立山田中学校に入学した。日記は、大沢小の子どもたちが復興に立ち向かう様子を紹介する「大沢からの報告」として毎日小学生新聞に11日に掲載。何回も読み、涙が止まりません。皆様が少しずつでも前に進める日がくることを願っております

今日のお話 3月10日(金)

 東井 義雄の名言

   今が本番

   今日が本番

   今年こそが本番

   明日がある

   明後日がある

   と思っている間は

   なんにもありはしない

   肝心な今さえ

ちょっといい話 3月9日(木)

泣ける話・涙腺崩壊/まとめサイト

  震災と向き合う12歳の日記3

 「お父さんが軽トラでもどっていった姿を見ました。津波にのみ込まれませんように。そう祈っていました」。巨大地震と大津波が東日本を襲ったあの日、子どもたちは何を見、その後をどう生きたのか。岩手県山田町の町立大沢小学校を3月に卒業した6年生が毎日小学生新聞に寄せた体験日記には震災と向き合う姿が率直につづられていた。

◇3月25日
 親せきの人の携帯に電話がかかってきました。内容は、お父さんらしき人が消防署の方で見つかったということでした。急いで行ってみると、口を開けて横たわっていたお父さんの姿でした。ねえちゃんは泣き叫び、お母さんは声も出ず、弟は親せきの人にくっついていました。顔をさわってみると、水より冷たくなっていました。ぼくは「何でもどったんだよ」と何度も何度も頭の中で言いました。「おれがくよくよしてどうすんだ」と自分に言いました。でも、言えば言うほど目がうるんでくるばかりです。お父さんの身に付けていたチタン、東京で買った足のお守りや結婚指輪、携帯。そして驚いたのが時計が動いていたことです。お父さんの息が絶えた時も、津波に飲み込まれている時も、ずっと。
 お父さんの時計は今はぼくのものになっている。ぼくがその時計をなくしたりすることは一生ないだろう。

◇3月26〜27日
 見つかった時のお父さんの顔。まだ頭のどこかで見なきゃよかったと。でも見つかったおかげで火葬もできるし、お父さんをさわることができた。お父さんの体は水を飲んだのか胸がふくらんでいるだけだ。やっぱり見つかってよかった。
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