1.27 図画工作(3年生)「顔よりも足の方が短くなっちゃってますよ!」 「ほんとだ!なおそ!」 先生のアドバイスを聞きながら、一生懸命取り組んでいました。 上手にできるといいね! 1.26 ものさしを使って 2年生1.26 見守られて登校(PTA)1.26 音訓かるたを作ろう(3年生)1.26 今日の給食
今日の給食は
ごはん 牛乳 ひきずり めばるのあんかけ みかん でした。 今日は、『旬を味わう日』です。冬においしい白身魚の「めばる」や、「温州みかん」を味わいましょう。愛知県の郷土料理である、鶏肉を使ったすきやき「ひきずり」など、冬を味わえる献立でしたね。 1.26 はじめの いっぽ(1年生)
(1・2枚目の写真)図画工作「のってみたいな いきたいな」
絵の具で、背景に色をつけました。色を混ぜたり、塗り方を工夫したりして、丁寧に塗り進めていました。 (3・4枚目の写真)算数「大きい数」 100をこえる数を数えたり、書いたりしました。 (5・6枚目の写真)国語「たぬきの糸車」 文章を読んで、おかみさんやたぬきの気持ちを考えました。 1.26 150周年記念行事に向けて(校長より)今日は「68歳」の方の思い出です。 「国鉄『踏切番』の思い出」 黒田小学校の南東には、銀座通りとJR(昔は国鉄)東海道本線が交わる踏切があります。 現在の学区制度では、この踏切を渡る黒田小学校の子はいません。 私の小学生の頃は、現在の木曽川東小学校の校区も黒田小学校の校区でした(のちに、黒田小学校から分離したのが木曽川東小学校です)ので、南黒田地区の子どもたちの多くは通学路としてこの踏切を利用していました。 現在の踏切は、通過する列車が近づくと自動で鳴る警報機、自動で開閉する遮断機が設置されているのが当たり前ですが、当時はそうではありませんでした。 ここは、木曽川町の中でも交通量が多い踏切の一つであることは、今も昔も変わりません。 ではどのようにして、頻繁に通る列車と自動車や歩行者の安全を確保していたのでしょうか? この踏切には、常時、「踏切番」と言われる人がいたのです。 そして、踏切の北東脇には、「踏切番小屋」が建っていました。 列車が近づくと、「踏切番小屋」に合図が来ます。 今となっては記憶が曖昧ですが、確かブザーが鳴り、ランプが点るようになっていたと思います。 「踏切番」の人は、その合図に従って大きなハンドルを操作し、手動で遮断機を下ろします。 今のような道幅半分の長さの棒ではなく、線路と並行に張った道幅いっぱいの長さの吊り下げ式遮断機を上下するのです。 踏切を渡る人や自動車の動きを見定めながら、遮断機を上下するのです。 時には、線路に取り残されそうな人もいました。 この「踏切番」の人の仕事は、子どもながらに「たいへんだなあ〜」と思って見ていました。 私は、登下校時や学校に遊びに行く際は、必ずこの踏切を通らなくてはなりませんでした。 しかし、この踏切で止められることは嫌いではありませんでした。 この「踏切番」の人が、てきぱきとハンドル操作をしている姿が格好よく感じていたからです。 学校の放課時間にも、運動場からその仕事ぶりをよく眺めていました。 時々、蒸気機関車も煙を吐きながら通る時代でした。 また、何十両もの長い貨物列車が通るたびに、何両連結しているのかみんなで声を上げて数えていました。 今でも、この踏切を渡る機会がよくあります。 そのたびに、当時の「踏切番」の人が格好よく働く姿が懐かしく目に浮かびます。 2枚目の写真の赤い〇のところに、いちばん下の写真のような「踏切番小屋」がありました。 ※この学校へ赴任した時に「電車が好きな子たちは、毎日うれしいだろうな」と思いました。(けっこう電車が好きな小学生は多いので・・) 予想通り、「校長先生、もうすぐ新しくなった『しらさぎ』が通るよ!」とか、「貨物列車って全部荷物が積んであるわけじゃないんだよ」とかうれしそうに教えてくれた子たちがいます。 電車がとおるたびに、遮断機を上げ下げする「踏切番」・・そんなお仕事をする方がみえたのですね。知りませんでした。うっかり踏切番小屋で居眠りでもしたら、たいへんなことになってしまうな・・と、そんな心配をしてしまいました。 1.25 150周年記念行事に向けて(校長より)今日は「62歳」の方の思い出です。 「私の思い出」 私が黒田小学校に在籍していた当時は、北側に低学年教室用の平屋の木造校舎があり、これぞ昭和という風情で読み書きを習っていました。 また、JR(当時は国鉄)の踏切近くに歩道橋が設置され、通学路が大きく変更されました。 安全ですが遠回りの通学路となり、たくさん歩いた思い出があります。 3年生のとき、私のクラス3年5組では、帰りの会のときに、「今日のがんばったさん」というメニューがあり、毎日一人ずつがんばった人が選ばれ、教室にあった木製の馬にまたがり、みんなから拍手してもらえる時間がありました。 1年間あればクラスメートの全員が一度はまたがることができるように担任の先生は配慮していたのですが、なぜか自分は一度も選ばれませんでした。 たぶん先生は自分がとっくに選ばれていることだろうと思い込んでいたのではないでしょうか。 「馬に乗れなかった」ということをみんなに知られるのが恥ずかしくて最終日まで言えず、さみしい思い出となりました。 4年生のとき、私のクラス4年5組では、授業時間に余裕があると、担任の先生はよく「みんなで地図上の地名を探そう!」と言って、みんなの知らない本当に無名の場所を、地図上で場所を探し当てることをしました。 級友と競争し合いながら地名を探し、大いに盛り上がった思い出があります。 そのおかげで社会科の学習が好きになりました。 ※こういう思い出を読ませていただきながら、自分の教え子たちはどんなことを覚えていてくれるのかなと考えます。教え子の中に「先生が『踊りがすごい上手!』ってほめてくれたから、劇団に入りました!」という子がいます。自分のひとことがそんなふうに子どもたちに影響を与えてしまうんだなと驚き・・どの子にも必ずある「キラッとひかるいいところ」を伝えるようにしようと今でも思っています。 1.25 はじめの いっぽ(1年生)
(1・2枚目の写真)生活科「ふゆを たのしもう」
校内を歩いて、冬見つけをしました。観察池が凍っていたり、運動場が雪で真っ白だったり、いろいろな冬を見つけることができました。 (3・4枚目の写真)クロームブック クロームブックをつかって、絵を描きました。 (5・6枚目の写真)体育「とびばこ あそび」 開脚跳びを練習しました。手の付き方、踏み切る足の位置などに気をつけて練習しました。 1.25 無事に登校できました寒い中、いつもと同じように見守って下さった皆様、近くの道路の雪かきをしてくださった皆様、途中まで付き添ってくださった皆様、本当にありがとうございました。 1.24 はじめの いっぽ(1年生)
(1・2枚目の写真)体育「とびばこあそび」
今回も、開脚跳びを練習しました。跳び箱に手を付くときの位置に気をつけて取り組みました。 (3・4枚目の写真)書写 画の長さに気をつけて、漢字を書く練習をしました。 (5・6枚目の写真)国語「たぬきの 糸車」 自分が好きな場面を決めて、絵と文で感想を書きました。 1.24 道徳の授業(1年生)
今回は、担任が交代して道徳をしました。それぞれのクラスで「ちいさな ふとん」「やれば できるんだ」「すきから うまれた そらまめくん」の資料を通して考えました。
来週の2月1日から学校公開ですが、道徳は担任が交代して授業を行う予定です。 1.24 版づくり(3年生)1.24 150周年記念行事に向けて(校長より)今日は「48歳」の方の思い出です。 「なつかしい数々の思い出」 私は昭和49年生まれ、木曽川町出身で黒田小の卒業生です。 私が小学生だった頃の黒田小学校は児童数が千人を超えていて、朝の登校では、学校までの通学路には小学生の長い列ができていました。 私の通学路は、国鉄(今のJR)の踏切を渡って学校の北門へ向かうルートでした。 登校時で一番印象に残っていることは、当時の冬は今よりも気温が低く、凍結する日が多いため、踏切近くの坂では滑って転倒する恐れがあったので、みんな慎重に歩いていたことです。 集合場所近くの田んぼの日陰には、乗っても割れないほどの氷が張り、みんなが集合するまで滑って遊んでいました。 自宅周辺には、いろいろなお店がありました。 八百屋、仕出し屋、駄菓子屋、文具屋、本・レコード屋、靴屋、ふとん屋、化粧品店、薬局、銭湯、ラーメン店…、思い出してみると多くの商店があったのだと驚きます。 住宅は現在に比べて少なく、小さな公園が所々にあり、田畑や空き地が多かったため、遊ぶ場所には困りませんでした。 小学3年生になると、自転車の試験がありました。試験に合格できないと、公道を自転車で走ることができない校則(ルール)でした。 当時はまだテレビゲームがなく、自転車が流行りだったので、友達と頑張って練習したことを覚えています。 自転車の試験は、北舎の屋上でできるようになっていて、横断歩道や交差点などが本物の道路のようにペイントしてありました。 夏休みの思い出では、朝早く起きて友達と現在の138タワーが建っている辺りへカブトムシやクワガタを採りに行き、ラジオ体操が始まるまでには自宅へ戻り、ラジオ体操が終わると子ども会のキャンプでの出し物練習、その後は学校のプールへ行ったり友達と野球をしたりして遊んだりと、忙しく毎日宿題が終らない子どもでした。 現在はJRの駅がリニューアルされたこともあり、自宅周辺の様子はずいぶんと変わりました。 しかし、母校の黒田小学校の外観は当時と変わりなく、大人になった今、朝の見守りや学校運営協議会などで学校に関わらせていただいておりますので、学校に足を運ぶ際には毎回懐かしい気持ちになり、自分が小学生だった頃の記憶がよみがえります。 今後も地元の伝統ある母校・黒田小学校が、これまで通り子どもたちや地元の人々にとって親しみのある大切な場所であり続けることを願っております。 【当時の思い出の写真も送っていただきました】 ※読ませていただきながら、自分の子ども時代もそうだったなぁと思いました。(私の方がもちろんけっこう年齢は上なのですが・・)本校の卒業生であり、その後ずっと本校に関わっていただけていることを、本当にありがたいなと思います。ずっとずっとよろしくお願いいたします。 1.23 はじめの いっぽ(1年生)
(1・2枚目の写真)書写
画と書き順に気をつけて、清書をしました。2学期から学習を始めた漢字ですが、きちんと書けるようになってきています。 (3・4枚目の写真)体育「とびばこあそび」 「またぎのり」や「かいきゃくとび」を練習しました。踏み切る足や手の位置に気をつけて取り組みました。 (5・6枚目の写真)国語「たぬきの糸車」 場面ごとに登場人物の気持ちを読み取ったり、話の全体の内容を確認したりしました。 1.23 今日の給食
今日の給食は
ごはん 牛乳 とうふの中華煮 コーンしゅうまい ひじきの中華サラダ でした。 給食に毎日出ている牛乳には、骨を強くする栄養素であるカルシウムがたくさん入っています。そのことは知っている人が多いかもしれませんね。他にも、今日のサラダに入っているひじきやチンゲンサイにもカルシウムはたくさん入っています。 いろいろな食べ物を組み合わせて、強い骨や歯を作りましょう。 1.23 委員会活動
6時間目に、委員会活動がありました。それぞれの委員会で、行事の計画を立てたり、学校の環境整備をしたり、高学年の子たちが進んで活動していました。
150周年記念行事に向けて(校長より)今日は「43歳」の方の思い出です。 「私の思い出」 ♪負けない事 投げ出さない事 逃げ出さない事 信じ抜く事 駄目になりそうな時 それが一番大事♪ 1991年のヒット曲「それが大事」の歌詞が学年集会の教室の黒板に書かれていた。何割かの同級生はそれに気づいていた様子だったが、音楽を聴く習慣のなかった当時の私にとっては初めて目にする言葉だった。 時は小学6年の3学期。まもなく巣立ちを迎える私たちに、先生はこの曲の歌詞を通して"この先の人生にとって大事なことは何か”を伝えようとしたのだろう。流行歌の歌詞を題材にするという斬新な発想に私は大きなインパクトを受け、30年以上経った今も鮮明に覚えている。見事に先生の術中にはまったのが嬉しいような恥ずかしいような不思議な気持ちになる。 今では自分が小学生の子を持つ親となり“大事なことをきちんと伝える“ということが如何に難しいかが分かるにつれ、先生たちが真剣にそして一生懸命に私たちのことを想ってあの学年集会を考え、開催してくれたのだと思うようになった。 今でも“懐かしのヒット曲特集”などで「それが大事」が流れる度にこの学年集会のことを思い出す。「大事なことを忘れていないか?」と先生たちが語りかけてくれる気がするのだ。 わたしもこの歌が大好きで、子どもたちと歌いました。記念行事で講師として来てくれる教え子が、ちょうどこの方と同じくらいの年齢です。 朝の会や帰りの会で毎月いろんな歌を歌っていたので、今でもそのころの曲を聞くと、そのころの教え子を思い出します。きっとこの方の恩師も覚えていると思います。 1.23 三角形のしきつめ(3年生)しきつめた三角形の中から、いろんなもようを見つけることができました。 150周年記念行事に向けて(校長より)1つずつ紹介していこうと思います。 まず、今日は「24歳」の方の思い出です。 「さまざまな挑戦をした小学校生活」 私は黒田小学校で六年間を過ごし、さまざまなことに挑戦させていただきました。 特に、初代児童会役員として、学校全体や地域に関する活動に主体性をもって取り組ませていただいたことが印象深く、その経験が私を大きく成長させてくれたと感じています。 児童集会にて校長先生へのあいさつの言葉掛けを毎週考えたり、COP10について紹介する劇を作って発表したりしました。 半年間のどの活動においても「自分たちで」やったという成功体験を通し、やりがいや達成感を味わうことができました。 これは、先生方の支えのもと、いろいろなことに挑戦する機会を与えてもらったからだと感じており、とても感謝しています。 その経験が自信となり、その後の学生生活でも、人前に立って何かを伝えたり、仲間と協力して何かを作ったりする取り組みに進んで参加できました。 また、小学校生活では、先生方の関わりや言葉掛けに心を大きく動かされました。 私は小学校四年生のとき、その後の人生を変えてくれた恩師に出会いました。 私は当時、人前で話をするのがとても苦手でした。 しかし、恩師はそんな私に対し、 「あなたは周りをよく見ているから、ぜひリーダーに挑戦してほしい」 と声を掛けてくださいました。 私は勇気を出して学級委員に立候補しました。 集団の中で、自分から何かをやりたいと手を挙げるのは初めてでした。 それがきっかけで、私はクラスのため、誰かのためになることをしたいと思い、行動できるようになりました。 私は自分が経験したように、多くの子どもたちにも自分のまだ知らない力を知り、発揮してほしいと思うようになりました。 そして、子どもたちと関わり、その子の可能性を引き出せるような仕事がしたいと考え、今はそれを叶えています。 このように、小学校生活における経験は、今の私を作っています。 私が変わるきっかけを与え、いろいろな挑戦をさせてくれた黒田小学校は、自慢の母校です。 ※思い出を寄せてくださった方の中でいちばん若い方です。 「自慢の母校」と思えるような学校に自分が校長としていられることが、本当にうれしくて、またその重みを感じています。ありがとうございました。 |
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一宮市立黒田小学校
〒493-0001 愛知県一宮市木曽川町黒田字古城26番地2 TEL:0586-28-8740 FAX:0586-87-3249 校長 柴田 泰子 ★他サイト及び紙・電子問わずあらゆる媒体への無断転載を禁じます★
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