子どもたちが考える授業にする
私立の中高等学校で授業アドバイスを行ってきました。この日は今年度採用者と若手を中心に授業を見せていただきました。
1年生の歴史の授業は秦の時代の学習でした。 秦の時代の官僚による地方統治である郡県制と周の封建制とを比較しました。周の封建制を図にしたことを思い出させ、図にするとどうなるかを子どもたちに問いかけますが、すぐに自分で図を書き始めます。前回の図を確認させ、違いがわかるような図を子どもたちに書かせるといった課題を与えないと、子どもたちが考える場面がありません。単なる制度の比較だけでなく、なぜ変更する必要があったのかを問いかけたいところでした。 子どもたちに意見を聞いても、数人の挙手で指名して、すぐに正解と言って解説を始めます。子どもたちは発言者を見ずに、授業者の方を見て説明を待ちます。しかし、板書が始まるとそちらを写す方を優先します。授業者は子どもの顔が上がっていない状態でもしゃべるのをやめません。この場面で子どもたちどうあってほしいかが意識されていないのです。 この日の中心の課題である「万里の長城はなぜつくられたか」を個人で考えさせた後、6人のグループで順番に発表させ、班長がまとめて発表します。 子どもたちは、教科書や資料を見ながらその内容を写すだけで、写し終ると手持ちぶさたにしています。グループでの発表は指定された順番に行うのですが、発表者は書いたものを読み、他の子どもたちは自分の手元を見たままで視線が交わることがありません。班長の発表も「匈奴から守るためにつくった」といったものばかりが順番に出てくるだけでした。 授業者は子どもたちに、万里の長城について考察させ、子ども同士で考えを交流させたかったようですが、この発問、活動ではグループを使っても一問一答形式の答探しと変わりません。子どもたちはこれまでの社会の授業で資料をもとに考えることをあまり経験していないようです。社会的なものの見方・考え方が育っていません。基本から始める必要があります。まず、事実(知識)を教科書や資料から見つける、そしてそれを元に考えると段階に分けて、考えるステップを教える必要があります。 教科書や資料を見ればわかる「匈奴から守るためにつくった」という事実は、子どもたちに見つけさせ、どこに書いてあるかを確認して全体で共有すればよいのです。この基本となる知識をもとに考えさせるのです。例えば、万里の長城がどのくらいの長さかを確認して「こんな壮大な物をつくるのにものすごくお金も労力もいるよね。そんなに匈奴は脅威だったの?どのくらいの勢力だったの?こんなことをする必要がほんとうにあったの?」と言ったことを問いかけて揺さぶり、資料をより詳しく調べたり、考えたりすることを求めるのです。 グループは生活班でしたが、学習のグループと生活班は分けた方がよいでしょう。学校生活のすべての場面で生活班が基準となると逃れない関係になってしまいます。生活の中で誰とでもうまく関係がつくれる必要はありません。しかし、授業ではどんな子どもともかかわれることは身につけさせたい大切な力です。生活班を授業に持ち込むと、そこでの関係が持ち込まれて上手くかかわれなくなってしまう危険性があるのです。 グループでの交流は、友だちの考えを聞くことを中心にします。手元を見るのではなく、友だちの顔を見て聞く・話すことをルールにし、司会者は設けずにフラットな関係で進めるとよいでしょう。原則、結論を一つにまとめることはせずに、それぞれの考えを深めることを目指します。一つにまとめることで、せっかく出た多様な意見が消されることも避けられます。もし、一つにまとめるのであれば、決定のためのプロセスを明確にすることが必要です。そうでなければ決定要素(根拠)がないため、恣意的に決まってしまうからです。学習では挙手などで結論を出すことは避けなければいけません。常に根拠を求めることが必要です。 全体での発表は、グループの意見ではなく自分の考えを求めることが必要です。個人を指名して、「グループではどんな意見がでた?」「あなたは、その中でどれが一番納得した?」といった聞き方をするとよいでしょう。グループを順番に指名するのではなく、「似たような意見が出たグループは?」と似た考えをつないで発表させ、同じところ、異なるところを焦点化して深めていくことも大切です。 授業者は子どもたちに考えさせたいと思っていますが、考えさせるための方策を持っていません。ただ課題を与えてグループにすれば考えると思っているように見えました。また、基本は一問一答型で子どもに答えさせた後は、自分の説明で全員にわからせようとする説得型の授業です。授業者の理路整然とした説明よりも、たどたどしい説明を「今の説明どういうこと?」「どう説明すればよいの?」と子どもたちが自分たちで理解しようとし考える場面をつくることで、教師の無駄のない説明よりも深く理解できます。先生が説得する説得型でない、子どもたちが自分たちで納得する納得型の授業を目指してほしいと思います。 授業後アドバイスをしましたが、授業者は素直に聞く姿勢を見せてくれました。これまでこういった視点で授業を考えたことがなかったようです。次に授業を見せていただく時にどのような変化をしているのか楽しみです。 この続きは次回の日記で。 記録は注意する材料ではなく成長を見守るためのもの
学校では、子どもたちの忘れ物や提出物などをチェックして記録することがよくあります。3回忘れ物をしたら、ペナルティを課すといった先生もいらっしゃいます。
このようなチェックを全面的に否定するつもりはありませんが、少し考えてほしいことがあります。それはこれが子どもたちにとってネガティブなものになっていないかです。多くの場合、記録はよく忘れる子どもを注意するための情報源になっています。「○○さんは忘れ物が多いので気を付けてあげてください」と保護者に対してお願いをする時のエビデンスとして利用されることもあります。保護者が事実を知って、子どもを注意する材料になっています。きちんと提出するのがあたりまえのことなので、できている子どもがほめられることはあまりありません。先生も、○○さんは忘れ物が多い、どうしようと記録を見てため息をついています。これでは、だれの気持ちも明るくなりません。 なんとか忘れ物をなくしたいと思っての手法ですが、注意することで行動を変えようとすることは、言われたからやるという行動パターンにもつながります。自主性が育ちにくいのです。チェックされるからではなく、忘れ物をしないように自ら意識できるようにすることが大切です。 具体的には、子どもたちをほめる材料にすることを意識するのです。例えば何日か続けて忘れ物が無ければシールをあげるといったやり方です。注意をしてほしいのが、全員が忘れ物をしないことを目標として強く押し出さないことです。ある子どもが忘れ物をして達成できなかった時に、その子どもが非難される恐れがあるからです。たまたま全員が忘れ物をしなかった時に、「すごい」「うれしい」と喜ぶくらいがよいでしょう。 では、忘れ物をした子どもにはどう対処すればよいでしょうか。忘れないためにどうするのかを一緒に考える姿勢で接します。どうしたら忘れ物をしないか一緒に考えてあげるのです。4月の時期であれば、忘れないためにどんな工夫をしているか、するとよいかを全体で共有することも必要でしょう。忘れ物が多い子どもに対しては忘れ物が減ったことをほめるようにします。記録はそのために使うのです。 保護者に対しても、「○○さんは頑張って忘れ物が減っています。ゼロになるまでもう一息ですので、見守ってあげてください」といった伝え方をすると、自然と協力していただけると思います。 全員の忘れ物をなくそうと意気込む先生も多いと思いますが、ほめて育てていくことで忘れ物は減っていくはずです。「全員」と力を入れ過ぎず、できない子どもに対しては、根気よく長い目で見守ってほしいと思います。記録は注意する材料ではなく、子どもの成長を見守るためのものと考えてほしいと思います。 社会人に必要な力を学校でどうつける
新社会人対象の研修をしていて感じたことを書きたいと思います。
提出期限がある課題をさせた時に、期限までに完成することを目標としているということです。時間が足らなくて内容に少々不足があったとしても、とりあえず形を整え、時間内に完成すれば課題をクリアしたと考えているようでした。発表であれば、その時間に発表できればよしということです。出来栄えは二の次で、提出、発表することが目的となっています。また、グループの課題ではすぐに役割分担をして個人作業で進めます。効率的に完成させることを優先しているのです。 仕事となれば、これでは困ります。内容、結果に責任が生じます。少しでも良いものにすることが求められますし、そもそも求められるレベルに達していなければ話になりません。提出すること、発表することが目的ではありません。このことを理解していないのです。 締め切り直前に提出され、手直しさせるにも時間がないため徹夜でやり直した。せめて、修正する時間を見積もって仕事をしてほしいという上司の嘆きも耳にします。 だからと言って「最近の若い人は……」と非難するつもりはありません。逆に彼らに申し訳ないと頭を下げたくなるのです。それは私たちが彼らに与えてきた教育の結果だと思うからです。 学校では、課題を期限までに提出させることに重きを置いていることが多いのではないでしょうか。提出期限までに出さない子どもに対して、何とか提出するようにしつこく働きかけ、時には居残りさせても完成させようとします。とりあえず提出することが目標となっています。手抜きに対して再提出させることはあっても、基本提出すればそれでOKで、評価はA、B、Cといった簡単なものがほとんどです。評価して、それをもとにより良いものに仕上げさせるといったことはまずありません。 まずはきちんと提出させることが基本だ、課題をきめ細かく評価するというのは時間的に無理だという声が聞こえてきそうです。その通りだと思います。ただ、課題に取り組むにあたって、修正・改善するという活動を取り入れてほしいのです。総合的な学習の時間などはそのよい機会だと思います。発表がゴールとなる活動では、途中に中間発表を入れて評価し合い、ブラッシュアップする時間を設けるのです。活動の最後に反省しても、次にそれを活かす機会はなかなかありません。中間発表を入れることで修正・改善するという過程を組み込むのです。 また、グループで何かを創りだす活動に関しては、協力することのよさをきちんと価値付けしていないことが多いように思います。課題を達成することが目的化して、課題達成のために何をやったか、よりよいものにするためにどのような工夫をしたかが問われていないのです。結果を評価することはあっても、過程を問う場面に出会うことはあまりありません。子どもたちが仲間と一緒に取り組むことのよさを意識する場面が必要なのです。 課題に取り組むことで自然に気づくことができるのが理想ですが、それほど簡単ではありません。課題の与え方にそれなりの工夫が必要になります。そこで、作業を分割するというのが一つの方法になります。目的・目標をグループで共有する時間をつくる。続いて、それを達成するためにどんなことが必要か、どんな工夫をするのかといったことをグループで相談し、それが終わってから作業を分担するのです。 仲間と知恵を出し合うことで新たな気づきがある。互いの考えをキャッチボールすることでより考えが深まる。そういう体験を意図的に積ませることが必要です。 私が出会った新社会人はとても優秀でした。研修を通じて目に見えて成長します。今までこういったことを考える機会がなかっただけなのです。 学校教育では、社会で必要な力をつけることが求められています。先生方がその力を意識し、教育活動のどの場面で身につけさせるのかを考えてほしいと思います。 子どもたちが落ち着いていることが、先生の成長を妨げる!?
今週の始めに。今年度授業アドバイスを行う予定の中学校の授業公開に参加しました。まずは学校の現状を知るためです。
市全体で学び合いを進めている地区の学校で、子どもたちはとても落ち着いています。グループでの活動も手慣れたものでした。 2年生は道徳、3年生は特別活動の時間でした。気になったのが視線です。視線が発表者の方に向かっていない子どもが目に付くのです。友だちの発表をきちんと聞こうとしていないように見えます。中には素早く発表者の方に体を向ける学級もあるのですが、向きを変えるだけで集中しているようには見えません。子どもたちが友だちの発言を聞こうとしていない理由の一つに、授業者が発表者とだけやり取りし、発言を他の子どもたちにつないでいないことがあります。聞くことの価値がないのです。 一方、授業者の視線も、子どもたち一人ひとりに向いていません。何となく全体を見ているか、発表者だけを見ているのです。子どもたちが今どういう状況か知りたいという気持ちが感じられません。聞いている子どもの反応をもとにどの子どもとつなごうか、次はどう展開しようかと考えていないのです。また、一人ひとりに注意を払わなくても子どもたちが落ち着いていて、スムーズに授業が進むので、先生方は一向に困らないのです。 特に道徳では、子どもの反応をよく見ないと、ここで揺さぶる、もう少し他の子どもにつなげるといった次の展開を決めることができません。先生方が子どもの考えを深め、本音に迫りたいと思っているのか疑問でした。道徳以外でも子どもの状況や反応にかかわらず、予定している一つの流れにそって進めている授業が多いように感じました。 また、どの授業でも、一つひとつの活動のねらいが明確になっていないように思いました。各場面で、子どもにどうあってほしいのか意識されていないことも、先生方が子どもたちをよく見ないことの原因のように思います。 例えば、1年生の理科の花の観察の場面では、一人ひとりが異なる花のレポートをグループで机をくっつけて書いています。子どもたちはそれぞれで教科書のレポートのテンプレートを見ながら項目を埋めています。友だちとかかわる姿はありません。完成後に交流するのでしょうが、この場面でグループを使うことで子どもたちつけたい力は何でしょうか。テンプレートを見れば困らないので友だちとかかわる必然性はあまりないようです。グループであることを特に意識した活動でないのなら、つけたいのはテンプレートにそってレポートを書く力でしょうか。それともレポートの書き方そのものを覚えることなのでしょうか。確かにそれらも必要でしょうが、まずは何のためにレポートを書くのか、そのためにはどのような要素が必要なのかを考えることが大切だと思います。 途中から見たので、考える場面があったのかもしれませんが、少なくとも黒板には観察の視点やレポートに必要な要素などは残されていませんでした。子どもたちはひたすら教科書を見て書いていますので、こういったこと意識しているようには見えません。この時期ですから、初めての観察、レポートだと思います。理科の観察は何のためにするのか、レポートにどんな目的があるのかをまず考えさせることから始めてほしいと思います。そういったことを考えるのであれば、グループが活かせます。個別にレポートを書くにしても、友だちが何を書いたか、自分と比べてどうなのかといったことが気になるので自然と話し合うことになると思います。友だちのレポートや教科書の例と比較することで、理科的なものの見方・考え方が身に付くと思います。 レポートやまとめを書く場面は理科に限らずいろいろな教科であるはずです。社会科など、他の教科のレポートと比較をするといったことも面白いと思います。他の教科と連携を取ることで、教科を越えた学びにつながると思います。 グループや全体の話し合いの場面では、結論が共有されることが多いように感じました。根拠や過程が大切にされていないように感じます。作業が目的化して、答探しや穴埋めをすることがゴールだと思っているように見えました。子どもたちは、先生が自分たちに何を求めているのかよく知っています。先生を見抜いています。子どもたちが聞く姿勢をとればそれで聞いていると先生が思っていれば、子どもたちは発表者の方を向くだけでしっかり聞こうとはしません。子どもたちの姿は、先生が求める姿と重なるのです。 この日の授業者は若い方が多かったのですが、指示の仕方や授業規律のつくり方といった基礎的な技術が未熟でした。先生が特に意識しなくても、最初から子どもたちが落ち着いているので、こういった技術を身につける必要性がないまま、経験年数だけが増えているようです。この市の他の学校でも同様の傾向を感じています。 今回訪問させていただいたおかげで、校長と課題を共有することができました。語弊があるかもしれませんが、子どもたちが落ち着いていない方が先生方に課題意識があるので授業改善は進みます。先生方に課題意識を持っていただくためにどのようなかかわり方をすればよいか悩みます。 校長と密に相談しながら、授業改善を進めていきたいと思います。 できない子どもができるようになる場面をつくる
間が空きましたが、前回の日記の続きです。
授業研究は、2年生の国語で「しかけカード(開くと立体的になるカード、ポップアップカード)」の説明文の工夫について考えるものでした。子どもたちが、説明文をもとに「しかけカード」をつくる活動をした後の授業でした。 授業者は、子どもたちが授業の準備に気を取られて、まだ聞く準備ができていないのに説明を始めました。準備が終わるとちゃんと集中できる子どもたちでしたので、少し待ってから話すとよかったと思います。 ワークシートを配った後、よい姿勢を取るように指示しますが、この時期であれば指示しなくてもよい姿勢が取れるようになっていてほしいと思います。いつも子どもたちに指示をしていると、指示がないことはやらなくてもよいと思うようになります。子どもたちが指示に従えるようになったら、指示をしなくても動くようになることを目指してほしいと思います。 「分かりやすいせつめいのくふうをみつけよう」とめあてを板書して、ワークシートに写させます。素早く書いてよい姿勢を取る子どももいますが、なかなか終わらない子どもも目に付きます。授業者は黙って待っていますが、早く書くことを求めることも必要です。一つひとつの活動に対して、子どもたちにどうなってほしいという目標を意識することが大切です。 「漢字は読める?」と確認してから、全員で読ませます。続いて、「工夫ってどういうことかわかる?」と問いかけますが、子どもたちの反応はありません。「あんまり、ぱっとわからないね」と言ってから、「昨日カードをつくるのに教科書見たね」と教科書を開くように指示をします。該当部分を印刷した紙を貼って、「昨日、ぱっと作れた?見ながら作った?」と話しますが、相変わらず子どもたちは反応できません。「みんながカード作れたのは、なぜ?」と質問しますが、どう答えてよいのか戸惑っています。授業者が何を説明しているのか、何を求めているのかよくわからないのです。「写真で説明していていると文だけよりわかりやすいね」と、授業者が一方的に説明を続けますが、なぜこの説明をされるのかよくわからないので、子どもたちには話の先が見えません。理解させたいことと、理解させるための活動を明確にして授業を組み立てる必要があります。 「工夫」の概念を理解させたいのであれば、その「工夫」がない場合と比べてどちらがわかりやすいのかを考えさせるとよいでしょう。どこが違うのかを言わせ、こういうことを「工夫」というと説明するのです。逆に、わかりやすくするために、どんなものを使っているか、どんなことをしているのかと、「工夫」を使わずに問いかけ、最後にこのようなことを「工夫」というと定義してもよいでしょう。 授業者は、「写真があるといいね、これが作者の工夫です」とまとめます。結局、工夫という言葉を説明せずに、めあてに対する答の例を示す形になりました。これでは言語感覚は育ちません。問いの答を探すことが学習になってしまいます。 授業者はわかりやすい説明の工夫を見つけることを指示しますが、「何個もあるのでたくさん見つけるように」と説明を加えるなど、言葉を何度も重ねるので、子どもたちは何をすればよいのかよくわからなくなっていました。 子どもたちが活動を開始するまで17分も経ってしましたが、その間子どもたちはよい姿勢を取り続けていたのが印象的です。子どもたちと授業者の関係は決して悪くはないのです。それだけに、指示を簡潔なものにしていれば、子どもたちの様子は大きく違っていたと思います。 活動をするように指示した後、すぐに鉛筆を持つ子どもがあまりいません。何をすればよいかよくわからないのです。ここまで、授業者はずっとしゃべっていましたが、ポイントとなることが黒板にも子どもの手元にも残っていません。黒板を使って整理をしたり、子どもの言葉で言い直させたりといったことが必要でした。 途中で手の止まっている子どもの姿が目に付きます。することがなく手持ちぶさたにしています。できた子どもには次の指示をしておくことが必要ですし、何をすればよいのか困っている子どもには、何らかの手立てが必要でした。授業者は5分間と指示をしたので、それまで待っていましたが、子どもの状態によって途中で切り上げるという判断もあったと思います。 続いて、グループで発表させます。まず一人ひとりが順番に自分の見つけたものを発表してから、話し合うようにと指示します。授業者は、「難しかった、書けなかったという人もいたと思います」と指示する前に言っていたのですが、「発表して」と指示することで、書けなかった子どもが何もできなくなることに気づきません。また、話し合うと指示しますが、何を話すのかは具体的に指示されていません。手のつかなかった子どもが悲しそうな顔をしていました。 子どもたちが机をくっつけてから、グループで意見をまとめて発表するように追加で説明します。子どもの勢いをそいでしまうので、グループになる前に指示した方がよいでしょう。 結局答を出せた子どもが発表し、ペンを持った子どもが発表用の透明シートに写すだけです。参加できない子どもが何人もいます。答を見つけられなかったのですから当然です。できなかった子どもができるようになる場面を作ることが必要です。 グループの代表者を前に並ばせて順番に発表します。発表者は教室の斜め前に立ってシートを読み上げるだけです。声が小さいこともあり、聞いている子どもたちは何を言っているのかよくわかりません。聞く側の役割もハッキリしないので、反応もできません。だれも参加できない場面でした。せめて、自分たちと違う考えはあるか、同じものはといった視点を持たせることが必要でしょう。そのような視点を持たせるのであれば、代表者がグループの意見のまとめを持って前に並んでいるというのでは困ります。 できる子ども、できた子どもだけが活動し発表するだけになりました。 工夫を見つけるためには、まず工夫とはどういうことかその概念を理解させることが必要です。そのための活動、場面をつくらなければなりません。また、ただ工夫をみつけて発表するだけでは考えは深まりません。その工夫が、「しかけカード」をつくる過程のどこでどのように役立ったかを意識させ、工夫をグルーピングして、子どもの言葉で整理させたいところでした。このような経験を積み重ねていくことが、子どもたちが説明をする力をつけていくことにつながります。 単元のねらいを意識して、授業を構成していくことが大切です。ねらいとそれを達成するための活動を明確にした授業を意識してほしいと思います。 新年度になりました
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