まず取り組むからこそ見えてくること
私立の中高等学校で授業アドバイスを行ってきました。
今年度は学校全体でグループ活動を取り入れた授業を目指すことになっています。今回はまず取り組んでいる方の授業を見せていただき、その様子から今後の方向性を見つけることをねらいとしました。 4人の先生の5つの授業を見せていただきました。新しいことに取り組んだからこそ、見えてくることがありました。 中学校2年生の数学の授業は、子どもたちに試験問題をつくらせるのが課題です。 すぐにグループにしてまとめるための用紙を配ります。配り終わると話を聞くようにと指示をします。しかし、いったんグループになって作業の準備をしていた子どもたちの動きを止めるのは大変です。指示をしてから、グループにして用紙を配ればよかったでしょう。 子どもたちが集中しないまま、「出るかもしれないよ」と授業者が言ったところを参考にして試験問題をつくるとよいと話をしました。ここで注意をしたいのは、先生が出るかもしれないと言ったのと似たような問題をつくるのか、出るかもしれないと言った理由を考えて問題をつくるのか、どちらをさせたいのかです。放っておくとどうしても前者になってしまいます。できれば、後者の視点で考えさせたところです。「試験には大切なこと、考えてほしい問題を出すよ。何が大切かをよく考えてください。発表は、なぜこのような問題をつくったのか理由も聞かせてね」といった、課題の提示や指示をするとよいでしょう。 子どもたちは、問題をつくりにあたって明確な戦略がありません。つくった問題を持ち寄っても、どれがよいか判断する基準を持っていないのです。そのため根拠のない活動になりがちです。どうしても子どもたちのテンションが上がりやすくなるのです。 まずは、試験範囲で大事なことは何かをグループ内で共有することが必要でしょう。それだけを話し合わせて、全体で共有してから問題をつくらせてもよかったと思います。解第解決のための足場となるものが必要なのです。 4人のグループなのですが、2+2に分かれているグループが目立ちます。まとめるための紙が2枚あったので、1枚ずつに分担されてしまったようです。こういったことにも注意が必要になります。 結局子どもたちはそれぞれで問題をつくり一つにまとめているだけです。グループで話し合う必然性がないのです。黙々と自作の問題をつくっている子ども、集中力が切れている子ども、同じグループでも子どもたちの様子がばらばらになっていきます。 授業者は机間指導をしながら、個別の子どもたちと話をします。先生の役割は、子ども同士のかかわりを促すことです。授業者がかえって子どもたちのかかわりをじゃますることになってしまいます。 授業者としゃべっていた子どもが、その後集中力を失くしている場面がありました。授業者との話は課題解決のためではなく雑談になっていた可能性があります。 各グループでまとめた紙を授業者が回収して、全体に見せていきます。あるグループのものを見て「すごい」と声が上がります。一気に子どもたちの集中が高まります。友だちのものはやはり気になるのです。ただ、紙が小さいので細かいところまで見ることができません。実物投影機などを活用するとよい場面です。授業者は「なかなかいい線いっているんじゃないですか」と言って次のグループのものに移ります。もったいない場面です。せっかく子どもたちが反応したのですから、どこがすごいのかを子どもたちに聞いて評価させたいところでした。授業者が「いい線いっている」と言っても、その理由はわかりません。せめて、どうしていい線いっているのかを子どもたちに考えさせたり、説明したりして共有したいところでした。 順番に見せていく中で、授業者がきちんと評価しないものもあります。子どもたちにも評価させないので、これでは意欲が落ちてしまいます。子どもたちに、グループごとにお薦めだという問題を選ばせるといったことが必要だったでしょう。 問題を見る時は集中するのですが、授業者のコメントに対してはあまり集中しません。もう作業が終わって満足してしまって、授業者のコメントには興味がないのでしょうか。ちょっと気になる場面でした。 最後に、試験範囲が終わった後に授業者が出るかもしれないと言ったことをメモしておけば今回とても役に立ったはずだとまとめます。次の時間にもう一度確認すると子どもたちに告げますが、そうであればこの日の子どもたちの活動は何だったのでしょうか。結局先生が出したい問題を出すのかということになってしまいます。 子どもたちが、ただ問題をつくらされただけと思ってしまうことが心配です。 この授業の課題をいろいろと指摘しましたが、これはグループ活動を取り入れたから見えてくることです。逆に言えば、この課題を解決すれば、ぐっとよくなるということです。挑戦してくれたことが大きな前進だと思います。これからの進化がとても楽しみです。 今年から教壇に立つ講師の方の高校生の英語の授業は、小テストから始まりました。 子どもたちは、一生懸命に取り組んでいます。終わった後、子どもに答を言わせます。授業者は「ピンポン」と確認します。途中からは、授業者が答だけを言っていきます。答を聞けば理解できる問題なのかもしれませんが、少し気になります。間違えた子どもができるようになる場面を意識することが必要です。 2人か3人の組になるようにとだけ指示しますが、子どもたちは、どうすればよいか少し困っています。どの列とどの列がくっつくというように具体的に指示をする必要があったでしょう。2人が机を向かい合わせにしている組もありますが、ペアの場合はあまり勧めません。対決型になるからです。授業者がこれも指示するべきでしょう。 ABCの3つの問題が準備されています。組ごとに各自どの問題を選ぶかを決めます。問題は穴埋めです。「教科書を見ながらでいい」とどのページを見るかも指定します。子どもたちは黙々と問題を解きますが、組をつくる理由がわかりません。作業終了後、”dictation”をやると説明します。自分が穴埋めをした問題を読み上げ、それを聞いた人が書き写すのです。なるほど、そういうことだったのかとわかりますが、先が見えないミステリーツアーでした。作業開始前に流れを伝えておくべきだったでしょう。 この”dictation”が成立するためには、「読み手が正しい答を正しく発音で読むこと」「聞き手が、少なくともその文章に出てくる、単語や言葉を知っていること」が条件です。この条件を満たしているかが気になります。また、聞き手は穴を埋めるだけですから、文章を聞き取ろうとするのではなく、穴埋めの答だけを聞こうとします。言葉を理解する活動にはつながらない可能性があります。中には、聞かずに教科書を見て写している子どももいます。子どもたちは、友だちの言葉を理解するのではなく、ワークシートの穴埋めが目的化しています。ワークシートを使う時に気をつけなければいけないことです。 2人組をくっつけて4人組をつくります。リーダーを決めるように指示しますが、その必要性はあまり感じません。グループごとに異なった課題が与えられます。「3人称単数現在」「助動詞を使ってみよう」「5文型」といったものです。子どもたちが持っている文法の副教材を使ってこれらをまとめるのです。こういった知識をまとめて、英語が使えるようになるのか疑問です。このような課題をグループで取り組む、目的や目標は何かよくわかりません。しかも、グループごとに課題が異なるので、どう共有するのでしょうか。 まとめると言っても何をすればよいのかよくわかりません。授業者が個別のグループに対して説明しています。説明が必要なのであれば、作業を止めて全体に対して行うべきです。 また、子どもが授業者に質問して、それに対して答えています。グループで活動しているのですから、子ども同士で解決させるようにすることが大切です。授業者が子ども同士のかかわりを切ってはいけません。 基本的に、副教材の内容をまとめるだけであまり頭を使う必要はありません。子どもたちが個別に付箋まとめたものを貼るだけの作業になっています。 終盤になってくるとさすがに集中力が切れてきます。この活動の目標や評価が見えないので、集中を維持できないのです。最後にグループごとに付箋をまとめた紙を集めてこの時間は終わりました。 これを教室に掲示したりして共有するようですが、他のグループがまとめたことを見て力がつくのでしょうか。そうであれば、授業者がまとめて配ればそれでよいことになります。 子どもたちは、グループの形にすると頑張って取り組みます。だからこそ、何をやらせるのかが大切になるのです。 授業者は、アクティブ・ラーニングに取り組むために書籍を購入して勉強したそうです。意欲的な先生です。しかし、まず英語の力をつけるために何が必要なのかをしっかりと押さえておかないと、アクティブ・ラーニングは単なる活動になってしまいます。残念ながら高等学校の実践は、子どもが活動すればよいというレベルのものがまだまだ多いようです。単に形だけアクティブにしても意味はありません。 とはいえ、くどいようですがまず取り組んでみなければ何もわかりません。アクティブ・ラーニングをきっかけにして、英語の力をつけるにはどのような活動が必要なのか、じっくり考えてほしいと思います。まだまだ、教師人生はスタートしたばかりです。焦らずに一歩ずつ前に進んでほしいと思います。次に授業を見せていただく機会が楽しみな先生です。 この続きは明日の日記で。 学年の課題を考える
6月の上旬に中学校で授業アドバイスをしました。この日は3年生と1年生の様子を見ることを中心にしました。
3年生は、一部の授業で子どもたちの集中が切れていました。というか、子どもたちが先生を見透かしているように見えます。参加する子どもはテンション高く反応しますが、そうでない子どもは、自分に必要と思える場面のみ参加します。計算高いと言ってもいいでしょう。授業者がそこまでの参加を求めていないと子どもたちが感じているのかもしれません。授業者が子どもとの信頼関係を築けなかったということでしょうか。この学校では3年生になれば、どの先生の授業でも前向きに参加するのが通常なのですが、ちょっと気になります。どうこう言っても3年生です。授業者が意識をすることでよい方向へ変わっていくはずです。子どもたちに積極的な参加を求めてほしいと思います。 もちろん多くの授業では、子どもたちが積極的に参加している姿を見ることができます。しかし、子どもたちがよく聞いてくれるので、授業者がしゃべりすぎるように思います。また、授業業者が結論をまとめることが多いようにも感じました。力のある子どもたちなので、授業者が自分の言いたいことを言うのではなく、もっと子どもたちを活かすことを考えてほしいと思いました。 1年生は、出身小学校の色を引きずっている子どもが多かったように感じていたのでしたが、それがまじりあって一つの色になりつつあります。そのこと自体はよいのですが、隙あらばテンションを上げて発散しようという空気を全体に感じました。ちょっとした雑談や脱線に過剰に反応する傾向があります。授業者が意識してコントロールしないと、落ち着かせるのに時間がかかってしまいます。 このことは、授業者の問いかけによく反応する子どもがいるということでもあります。上手く拾って、全体につないでいけば授業は活性化するのですが、一つ間違えると一部の子どもと授業者だけで進んでいくことにもなります。このことを意識できている先生は上手く全体をコントロールできているのですが、そうでない方も目に付きます。授業者が、場面ごとに見せてほしい姿を明確にしていれば、子どもたちは素直にそういう姿になっていきます。 この学年の子どもたちは、授業者が意識していないと勝手な行動をとる傾向があります。同じ学級の子どもたちでも、授業者によって驚くほど見せる姿が変わります。力のある先生でも、自分の授業ではよい姿を見せているのでこのことに気づきにくい傾向があります。学年全体としてこのことを意識していないと、勝手な行動が増えていき、気づいた時には手遅れになってしまうこともあります。また、担任が子どもたちにどうあってほしいかを明確に意識できていない学級もありました。これは、担任に意識してもらうのはもちろんですが、まわりの先生方がサポートしないとなかなか立て直すことができません。 今回、学年主任と一緒に回ることができたので、こういった状況にはっきりと気づいていただけと思います。若い先生も多く、個々の力量に差がありますが、チームとして助け合って切り抜けることを期待しています。 この日は初任者の先生と一緒に授業を見る時間を多く取れました。 今回は特に、わからない、困っている子どもが、わかる、できるようになる場面を意識してもらいました。このことが一番よくわかるのが実技教科です。体育の陸上競技の授業でそのことを実感してもらいました。 ハードルはタイムを計っている場面でした。この場面は成果を知ることが一番の目的なのでしょうが、友だちの走っている姿を見て学ぼうとしたり、応援したりしている様子がないのが気になります。ただ走っているだけでは力はつきません。意識して走ることが大切です。また、授業では自分が直接活動している時間は意外と少ないものです。待っている間にどのような活動をするかがとても重要になります。友だちの走りを見てよいところを見つけたり、時にはアドバイスしたりすることは、自分が意識して走ることにもつながります。そういったことができるように、バディやグループで具体的に役割を与えておくことが大切です。走り高跳びなどは特に待ち時間が多いので、順番を待っている時間に何をさせるかを指示しておかなくては時間がムダになってしまいます。 この時間は複数の競技を同時展開しているのですが、集合させて話をする場面に差がありました。話しているのにもかかわらず、子どもたちの視線が指導者に向いていないグループもあれば、話す前から指導者を全員見ているグループもあります。その違いについて考えてもらうことで、どういったことが大切かを学んでくれたと思います。 わかったからと言ってすぐにできるようになるわけではありません。毎日意識して子どもたちと接することで、次第にできるようになるものです。大切なことは何かを意識し続けてほしいと思います。 今年度は諸般の事情で、訪問回数が減っています。次回は9月の訪問になります。夏休みを間にはさむので、どのような変化が起こるのか不安と期待が混じります。とはいえ、どの学年もチームワークはよいので、きっとよい方向へ変化すると信じています。楽しみにしたいと思います。 生活科でどんな力をつけるのか考える(長文)
小学校の授業研究で助言を務めてきました。
たまたま校長が、別の市で私が講師を務めている研修の担当だったことがあり、面識のある方で驚きました。また、私が関係していた研修会に学生時代ボランティアでお手伝いをしてくれていた先生もいたりと、何かと不思議な縁を感じる学校でした。 授業は2年生の生活科で、トマトをもっとおいしく、大きく育てるためにどんな世話をしたいかを考える場面でした。授業者は笑顔が多く、よい雰囲気の教室でした。 子どもたちに教科書の準備を指示して、今までどのような世話をしてきたか確認します。まだ準備ができていない子どもがごそごそしているのに挙手した子どもを指名します。指名された子どもの話を聞くことよりも教科書の開くことや見ることを優先している子どもが目立ちます。挙手している子どもを順番に指名しながら進みます。挙手は3分の1ほどだったので、いったん子どもたちの動きを止めて、改めて問いかけ直すとよかったと思います。また、今までやってきたことですからどの子どもも答えることができるはずです。隣の子どもと確認させるといったことをすれば、もっと挙手は増えたと思います。 友だちが発言の途中で詰まった時に、まだ発言中なのに挙手をする子どもが何人もいます。発言したくて、「あー」と声を出している子どももいました。発言意欲が旺盛なのはいいですが、友だちの発言が終わるまで待てるようにすることが必要です。基本的に一問一答で、同じ答であれば最初に発言しないと発言の機会がないことが原因の一つです。「同じように考えた人と?」といった、つなぐことを意識するとよいでしょう。 挙手して指名された後、言葉が出なくなる子どもが何人もいました。挙手して指名されることが目的化して、指名されると発言したいことがとんでしまうのでしょうか。このこともちょっと気になりました。 子どもたちに、大きな野菜、おいしい野菜をつくろうとする意欲を持たせるためでしょうか、野菜を使った料理の動画を見せます。パソコンの調子が悪かったこともあり、授業者は動画を再生している間ずっとパソコンにつきっきりで、子どもたちを見ていませんでした。途中で画面から目を離している子どもがいたのに気づいていないようです。 「おいしそうでしょう。いっぱい、ナスやピーマンも使っていたし、野菜がいっぱいできたらつくれそうだね」と話しますが、子どもたちはそのことを意識していたでしょうか。動画を見せる時は、その目標を子どもたちに明確に与えないと、漫然と見てしまいます。「どんな野菜を使っていたか、後で聞くからね。しっかりと見てね」といった、視聴後にする質問をあらかじめ与えておくとよいでしょう。 「甘くて、おいしくて、大きくて、たくさんのトマトをつくりたい。どんなお世話をしてあげたいか」という、課題を子どもたちに問いかけます。教科書を見ている子ども、集中力をなくしている子どもいろいろです。挙手は数人です。まず、考える時間を与えることが必要です。また、どんな世話をしてあげたいかというのは、根拠なく答えることもできる発問です。意図的に発言しやすくしたのかもしれませんが、ちょっと違和感がありました。大きなトマトをつくるといった目的があるのですから、そのために必要なことをもとに考えることが必要です。「子どものしてあげたいことを出させ、それは何のためかと理由を整理していくのか」、「知識をもとにどうするとよいのか、自分にできることは何かを考えさせたかったのか」、ねらいがよくわかりませんでした。 子どもたちは、したいことというより、今までしてきた世話のことを発表しているようです。授業者も、「水やりと書いていた人、他にもいたよね」と声をかけ、子どもたちは「賛成」とハンドサインを出します。したいことなのですから、「賛成」という言葉は違和感がありました。また、水やりは欠かすわけにはいきませんので、全員手が挙がるべきですが、挙がらない子どもがいたことが気になります。その子どもたちに、「水やりやらない?」と声をかけて参加を促したいところでした。 「水やり賛成の人、他にも言ってもらおうかな」とつなぎます。続いて水をたっぷりやるといった意見が出てきますが、それを受けて授業者はすぐに板書をします。「同じ意見の人いる?」「違う意見の人いる?」と、聞いている子どもたちを常に参加させることを意識する必要あります。友だちの意見を聞いていない子どもたちが目立ちます。授業者が板書してもそちらを見る子どもも少ないようです。板書中にすでに挙手をしている子どももいます。子どもたちの姿がバラバラになっていきました。 「水はたっぷりあげた方がいいんだ?」と揺さぶると、水はあまりあげない方がいいという意見がでてきます。授業者はどちらの意見も受容します。なかなか面白い展開です。この意見に続いて、「水をやりすぎると根っこが腐る」という意見が出てきました。授業者が、「何で知っているの?」と問い返すと、「お母さんに聞いた」と返ってきます。「根っこが出てきちゃう」「実が割れちゃ」と子どもの意見が続きます。授業者は「水をあげた方がいい(と思う)人いないの?」と揺さぶったりするのですが、立ち止まって焦点化する時間がないため、多くの子どもはこの展開についていけません。集中力がなくなってきました。 どこからか知識を得た子どもがそれを披露しているだけです。他の子どもがその意見に対して反論や同意をすることはできません。そのための根拠となるものが何もないからです。授業者は子どもの意見をしっかりと受容するのですが、発言者以外はかかわれない状況が15分以上続きました。 水やりをどうするといいのかは、知識です。挙手で発表させていくだけでは意味がありません。知識を与えたければ、教えればいいのです。そうではなく、今後の理科や社会科につなげるのであれば、どうすれば知識を得られるかを考えさせることも意味があります。「両親やまわりの大人に聞く」「本で調べる」「条件を変えて育てる実験をして観察する」といったことを考えさせたり、整理したりするのです。 「お母さんに聞いたんだ」と強調して、「誰かに聞いた人いる?」とつなぎ、「わからないことは聞くという方法があるね」とまとめたり、「どうすれば確かめられる?」と聞いたりするとよいでしょう。「本で調べる」「試してみる」といった言葉がでてくれば、それを整理することで、知識の得方がわかってきます。 水やりに続いて肥料の話になりましたが、肥料をあげる間隔、時期などを詳しく説明する子どもがいます。これはよい機会です。授業者は「どこに書いてあったの?」と確認して、本を持ってくると、「ここに書いてあったね」と全体に示します。ここは、本で調べることをきちんと価値付けして、「本で調べるといろんなことがわかるね。他にも本を見た人いる?」「どんな本を見た?見たらいいの?」と学級全体で共有したい場面でした。 水やり、肥料以外にも何をしたいかを発表させますが、子どもたちの集中力は戻りませんでした。 意見が出尽くしたところで、ここからTTでの授業に変わります。「野菜づくりの名人の先生に聞きましょう」ともう一人の先生がゲストで登場します。ゲストの先生は、子どもたちがいっぱい考えてくれてうれしいと最初に伝えます。Iメッセージを上手く使っていました。 水のやり方について実験をします。乾いた土を入れた水槽に水を撒いて、どのようになるのかを実物投影機を使って観察します。「やって見よう」と言うのですが、「どれくらいの水をやればいいのか、試してみよう」と目的を明確にした方がよかったと思います。 担任が水をやり、ゲストの先生が解説するのですが、担任は水やりで、ゲストの先生はディスプレイを見ているので2人とも子どもを見ていません。子どもの反応を見ることは、誰を指名するかといった次の展開を考えるために重要なことだという認識を持ってほしいと思います。 ペットボトルの半分くらい水をやったところで、ゲストの先生が「さっき半分くらいって言ってくれた子がいたね」と説明します。「半分やる」がまだ子どもたちに課題として共有されていません。実験を始める前に、「半分と言った人もいたね」「たっぷりと言う人もいたね」と確認して、このことを意識させておくとよかったでしょう。 横から見て、半分では水が下まで浸みていないことを目で確認した後、土を掘って見せます。白い土が見えると子どもたちから「あっ」という言葉が湧き上がってきます。わざと上からだけしか見せずに、「しっかり水が浸みたね」とミスリーディングしてから見せると、もっと効果的だったでしょう。 子どもたちが反応するよい場面でしたが、それだけに、子どもたちに課題を意識させたり予想させたりすることをしておくと、実験の意味がもっとよくわかったでしょう。ちょっともったいないと思いました。 ここで、ゲストの先生が手作りのトマトの根っこのモデルを見せて、水がどこまで浸みなければいけないかの説明をします。根っこがどのようになっているのか子どもたちは観察したのでしょうか。もし、そうであればどんな風になっていたかを子どもたちに確認したいところでした。そうでなければ、実際に見せるか、写真で確認することが必要だったと思います。授業者が一方的にモデルを与えると子どもたちは自分の目で確かめようとしなくなります。理科につながっていくことなので、事実を確認することを大切にしてほしいと思います。 「水が途中までしかないと、全部の根っこは水をもらった?」問いかけますが、ちょっと誘導しているように感じます。「これでいい?」と確認して理由を聞けば、子どもたちで説明できると思います。時間の関係もあったでしょうが、ちょっともったいない気がしました。「下の方、もらえない」というつぶやきを拾って、結局先生が、水が皿に出てくるまでやればいいと結論をまとめました。「下まで水が浸みたかどうかどうすればわかるんだろう?」と問いかけるとよかったでしょう。鉢の底に穴が空いていることに上手く気づいてくれれば、子どもたちから答は出たと思います。 この日、水をあげたかどうか子どもたちに問いかけます。どちらもいます。「その理由を言える人?」と問いかけますが、子どもたちは、先ほどの水をたっぷりやるか、やりすぎないかの話に引きずられて、「水をあげるとトマトがまずくなると教わった」といった意見がでてきます。「今日あげなかったのは?」と返すのですが、なかなか答が出ません。水やりするかしないかを意識してやっていなかったのでしょう。もっとダイレクトに、「朝トマトを見てどういう状態だったら水をやる?やらない?」と聞き直した方がよかったかもしれません。 なかなかねらった答が出ないのですが、先生方は否定せずにうなずいたりしてしっかりと受容していたのはよかったと思います。 結局、ゲストの先生が「これは、乾いているかどうかだ」と結論づけました。苦しい展開でした。その日の朝の状態を写真に撮って見せる、いくつかの例を写真で見せるかして、水をやる、やらないを子どもたち判断させるとよかったと思います。 担任が実際のトマトの苗に水をやって見せます。上の方から水をかけると、子どもたちからダメという声が上がってきます。身を乗り出して見ている子どももいます。子どもたちの集中力が戻ってきたのですが、テンションが上がっていきます。「こんな風にあげている人?」と聞くと結構います。他のやり方をしている子ども指名して実演させます。根元から水をやりました。「どっちがいいの?」と問いかけますが、「時間がないので先生が正解を言います」と土がえぐれるので、根元から水をやるのが正解と解説します。子どもたちのトマトの中には土がえぐれて根っこが見えているのもあると補足します。時間の関係もあるでしょうが、実験をして見るか、土の様子の写真を見せて、どちらの水のやり方だろうと問いかけたりできるとよかったと思います。 土がえぐれていたらどうするかを問いかけ、土をかぶせるという発言に「先生も大賛成」と答えます。結局、授業者が正解かどうかを判断しています。これでよいかどうか子どもたちに問いかけたいところでした。 ここから肥料のことや育て方のポイントをゲストの先生が説明をし続けます。せっかくICT機器があるのですから、だらだら話すのではなく、要点を整理してディスプレイに映して見せればよかったでしょう。 ゲストの先生が話し終った時に拍手がパラパラだったのが印象的でした。子どもたちは受け身の時間が長かったため、もう集中を維持することができなかったのです。 担任が最後に、「いっぱい教えてもらったね。やってみたいことあった?」とまとめて終わりました。子どもたちが受け身で、考える時間が少なかったのが残念でした。 子どもたちに伝えるのに、実験をしたのはとてもよかったのですが、しゃべりすぎていました。子どもたちの苗の様子などの事実をディスプレイに映しだせば、子どもたちが考えるきっかけをつくれたと思いました。 検討会では、子どもたちを全員参加させること、活動させることを中心にお話をさせていただきました。 次回は夏休みに話をさせていただくのですが、事前に質問をいただくことになっています。どのような質問が出るか楽しみです。 第3回 教育と笑いの会
6月の始めに第3回教育と笑いの会が開かれました。
今回は東京での初開催です。教育と笑いの会と授業と学び研究所の主催ですが、ベネッセコーポレーションに後援をいただき、会場の提供や準備で大変お世話になりました。また、いつものように協賛会社のEDUCOMの社員の方が裏方として大活躍をして下さいました。多くの方に支えられていることに感謝です。 野口芳宏先生の教育漫談、瀧澤真先生と鈴木美幸先生の漫才、玉置崇先生の教育落語、桂雀太師匠の落語、そして横山験也先生司会によるそれまでの登壇者に山中伸之先生を加えての大喜利でした。 今までの2回は最後に出番があったため、純粋に客として楽しむことができませんでしたが、今回は出番がなく新鮮な気持ちで見ることができました。 野口先生の教育漫談は、教え子とその保護者とのエピソードを漫談仕立てにされました。驚いたのが、事前に野口先生がメモを取って話の整理をされていたことです。過去2回は、ほとんど準備なしでお話しされていたので、今回にかける気合のようなものを感じました。 とはいえ、いつも通りの語り口で野口先生の人柄がダイレクトに伝わるお話です。今回のエピソードは私がかつて聞かせていただいたことがあるものですが、それにもかかわらず楽しく、笑わせていただけました。 常に謙虚な野口先生の人柄を感じられる、それだからこそおかしい話に、「ああ、やはり野口先生だ。昔からちっとも変わらないんだなあ」と何度もうなずいていました。野口先生の人柄を知っているからこそ一層笑えたように思えました。 続いて瀧澤生と鈴木先生による教育漫才です。教師のあるあるを話題に、そうそうとうなずきながら楽しむことができる内容でした。お二人が野口塾の飲み会で話していることを野口先生が聞かれて、「面白いからこれを東京でやりなさい」と鶴の一声で実現したそうです。漫才などやったことのないと思われるお二人ですが、とても仲よく楽しそうで、それだけで見ている私たちも楽しくなる、そんな芸でした。 休憩をはさんで玉置先生の教育落語です。玉置先生は、落語のみの出演依頼もたくさんある方ですから、もう余技の域を越えています。新調したばかりの着物の話から始まり、安定して楽しめる一席しでした。だからこそ、この後の桂雀太師匠の噺が際立ちます。プロの噺を際立たせることができるだけの、プロと同じ舞台に上がる資格のある素晴らしいものだったということです。 教育と笑いの会で毎回口演いただいている雀太師匠は、毎回素晴らしい噺を聞かせていただけます。いつもと同じつかみで、落ちがわかっていても笑ってしまうおもしろさはさすがです。しかし、それ以上に感動したのは、私のような素人が言うのも失礼なのですか、師匠の芸がとても進化しているように思えたことです。上手く表現できないのですが、ムダというか、雑味といったものが減って、すっきりと芯の通ったものになっていたのです。雀太師匠の持ち味や芸風が変わったということではありません。むしろムダがなくなることでより際立ったように感じます。雀太師匠の持ち味で、噺の面白さが広がり深まったと言ってもよいでしょう。前回の口演からまだ半年しか経っていません。関西の新聞社主催の新人賞を取られたこともうなずけます。勢いを感じました。懇親会では、その変わるきっかけとなったのであろう出来事についても、聞かせていただくことができました。日々芸を磨いている方だからこそ、経験を活かすことができるのだと改めて気づかせてくれるお話でした。 最後は、横山先生司会による大喜利です。正直これはどうなるかと一番心配していた演目でした。お題は登壇者が事前に考えて持ち寄ったはずですが、当日の打ち合わせで玉置先生の準備していたもの以外全部没になったということで、さらに不安はつのります。 しかし、横山先生が、当意即妙で場を見事に切り回します。ところどころ、教育についての話につなげながら、教育と笑いの会にふさわしい内容にしていきます。 玉置先生と雀太師匠も司会とうまく絡み、広がりのある、しかも楽しい時間になっていきました。 今回の大喜利を野口先生がたいそう気に入られ、これから野口塾の最後の10分間は大喜利を行うことになったそうです。ちょっと覗いてみたくなります。 実は、今回の教育と笑いの会は事前準備の時間も短く、どうなるかと心配していたのですが、協力会社の皆さんや登壇者のお力で、終わってみればとても楽しいものになりました。感謝感謝です。 次回は名古屋に戻っての開催です。私も今までの司会ではなく、芸をやれとの玉置会長からのお達しを受け、今からドキドキしています。12月10日(土)の午後の予定ですが、詳細は9月ごろに授業と学び研究所のホームページでご案内できると思います。昨年は数週間で満席になりましたので、興味のある方はチェックを忘れないでください。 グループ活動の進め方が課題
昨日の日記の続きです。
1年生の社会科の授業は、なぜパルテノン神殿がつくられたのかを考える場面でした。 子どもたちはグループで活動していますが、話し合いが成立していないグループが目立ちます。男子同士女子同士で並んでいるため、男女でのかかわり合いがほとんどありません。黙って座っているだけの子どももいれば、逆にテンションが上がっている子どももいます。ペンを持っている男子だけでまとめを書いて、女子は黙って見ているグループもありました。授業者はグループの間を回って個別に話をしていますが、全体を見ることができていません。そのため、かかわりを促すといった対応がなされませんでした。全体の状況を把握することを優先してほしいと思います。 グループごとのまとめを黒板に貼って、発表します。授業者はメモを取る準備をするように指示し、次に発表する子どもを前で待機させます。メモを取ることが大切ならば、次の発表者からその機会を奪うことは疑問です。ちょっとしたことですが、こういうところも気をつけたいことです。 メモを取ることを指示したために、子どもたちは発表者の話を聞くことよりも黒板に貼られたまとめを写すことを優先しています。メモを取るとはどういうことかの指導も必要でしょう。 この課題を解決するための足場が子どもたちにあったのかが気になります。根拠となる具体的なものがありません。この課題で子どもたちに何を考えさせたかったのかがよくわかりませんでした。国家の成立、その必要性、国家を維持するために必要なことなどをこの課題を通じて考えさせたかったのでしょうか。であれば、この時代のギリシャ都市国家の周辺状況をまず整理する、させることが必要だったと思います。 国の象徴といった言葉が出てきたグループもありました。ここに焦点を当てて話を深めることができればよかったのですが、時間切れでした。 発表を全部のグループに順番にさせる方法もありますが、パネルにまとめてあるのであれば、まずそれを眺めて共通の考えとグループ固有のものとに分けることから始めるというやり方もあります。共通のものをまず取り上げ、そのことについてどこかのグループに発表させます。必要に応じて他のグループには付け足しをさせます。続いて、グループ固有のものについて意見を聞くのです。これによって同じことを何度も発表することが無くなり、授業者が全体の流れをコントロールすることで、発表の時間をかなり節約できます。大切なことが出てくれば、そのことを焦点化してもう一度相談させる時間をつくりだすこともできるはずです。この授業であれば、「国家の象徴」についてどういうことか、子どもたちに考えさせる時間をとるとよかったでしょう。 グループの課題の与え方、支援の仕方、発表のさせ方、全体での焦点化などが、この学校の課題の一つだと思います。このことについて先生同士で授業を見合ったり、相談したりして学び合ってほしいと思います。 この日は、授業を見た13人のうち午後から出張のあった1人を除いて、全員とお話しすることができました。最後の方の方とお話しするのがずいぶん遅くなってもうしわけないことをしました。遅くなった理由の一つに、多くの先生から授業に関する質問をいただけたことがあります。日々の授業の中で出会う場面についての具体的な質問が多かったのはうれしいことでした。授業をよくしたいと日ごろから思っていることがよくわかります。目の前の授業、子どもたちと真剣に向き合っていることがよくわかるからです。 素直で前向きな先生ばかりですから、次回の訪問までにきっと大きく進化していると思います。次にお会いするのが楽しみです。 子どもたちがよく動けるからこそ、何をさせるのかが問われる
前回の日記の続きです。
3年生の国語は、論語から自分の気に入ったものを選んで、その理由を自分の体験を元に書く場面でした。 授業者はワークシート先に配ってから、課題を説明します。どうしても子どもたちの視線が授業者に集中しません。意欲的な子どもたちなので、ちょっともったいない気がしました。 子どもたちに訓読文と書き下し文、現代語訳が書かれた資料を見させて、「この中で書き下し文は“何ですか”?」と問いかけます。“どれですか”と聞きたかったのでしょうが、言葉に注意をしないと子どもたちが戸惑ってしまいます。 挙手に頼らず、子どもが「一番左(現代語訳)」と答えます。授業者は、「それでいい?」「聞いてみようか?」と返します。ここで、子どもの発言を受容する言葉がなかったので、「それでいい?」という疑問の言葉が印象付けられます。なんとなく否定されたような感じがします。「なるほど、一番左ね?」「同じ意見の人いるかな?」と疑問の言葉ではなく、受容の言葉だけで進めるとよかったでしょう。 何人かの子どもが挙手をします。これは子どもたちで修正させるべきだと思ったのでしょう。「じゃあ」とまわりの子どもと相談させます。よい対応だと思います。子どもたちは素早く動いて話します。かかわり合うことに慣れています。 挙手で確認をしますが、真ん中の文にしか手が挙がりません。授業者のねらい通り、子どもたちで修正できたようです。最初に答えた子どもも考えを変えています。そこで、「考えが変わったね。どういうこと?」とその子どもに理由を聞くとよかったと思います。子どもの言葉で整理できますし、本人に間違いを修正させれば、失敗したという気持ちも消えるからです。 他の子どもに理由を聞くと、「一番左は現代語訳だから」と答えます。授業者は「そうだね」と受けて、「一番左は現代語訳だから、真ん中に書かれているのが書き下し文になります」と説明します。消去法で考えるのは試験では有効かもしれませんが、国語としての根拠にはなっていません。用語として「書き下し文」の定義をきちんと確認することが必要です。「なるほど、一番左は現代語訳だね。これはみんな納得?」と確認した上で、「じゃあ真ん中が書き下し文の理由は?」とつなぐとよかったでしょう。「そもそも、書き下し文って何?」と根拠となる定義を確認するところから始めてもよかったと思います。 ワークシートに何を書くかの説明を続けます。 訳を書くのに、便覧を開かせて参考にするよう伝えます。ここで、便覧の訳は整いすぎているので、初めて読む人にわかりやすいように自分の言葉で工夫して書くように指示します。わかりやすいとはどういうことかを考えさせたいのでしょうか、この活動のねらいがよくわかりません。 続いてその話に関連する体験を具体的に書きましょうと指示します。例として授業者が経験したことを具体的に話します。自分の体験と論語を結びつけるのが目的なのでしょうか、体験と合わせて伝えることで説得力が増すということを教えたいのでしょうか、ねらいが何か混乱してきます。何でもいいので論語に活かせそうな体験を書くように指示しますが、「論語に活かせそうな」という言葉もよくわかりません。何を求められているのかますますわからなくなってきました。 最後にその体験を踏まえて、「今までは、○○だった。これからは○○したい」「今までは、○○だった。これからも○○したい」という話型で孔子の言葉を活かして、「こういう風にしたい」ことを書くように指示しました。「論語から自分の気に入ったものを選んで、その理由を自分の体験を元に書く」という最初の説明と明らかにずれています。授業者自身、この課題のねらいが揺れていることがわかります。 子どもたちにこの活動を通じてどうなってほしいのかというねらいを明確にし、子どもたち自身が評価できるためのわかりやすい目標が必要です。それがないため、子どもたちは何書けばいいのかがよくわからず、教室の空気が重くなっていました。 2年生の英語は、”show me 〜”、”tell me 〜”といったS+V+O+Oの形の文の学習場面でした。 “Please tell me the way to〜.”という文を所々虫食いにして提示し、どんな文字が入るかクイズ形式で子どもたちに問います。そもそもどんな場面で使われる文なのか”situation”もはっきりしません。子どもたちはあてずっぽうで、”m”、”o”と答えます。一生懸命に参加しようとしていますが、根拠を持って考えられません。最後に授業者が何とか答を誘導しますが、子どもたちにはピンときていないようでした。以前に読んだことのある文だと授業者は説明しますが、子どもたちの記憶にはなかったようです。 “Please tell me the way to ○○.”と、子どもたちのよく知っているスーパーマーケットへの道案内をさせます。ディスプレイに地図ソフトのストリートビューを表示して、リアリティを出します。面白い使い方です。 “Go straight.”と子どもたちから声が上がります。どの子どももしっかりとディスプレイを見ていますが、口を開けていない子どもが気になります。“Go straight.”が何度か続いた後、「右」と日本語で答える子どもが出てきます。授業者はそれを”Turn right.”と全体で英語に直させます。ソフトを操作しながら、「この角は入れるかな?」と授業者はつぶやきました。ここで、”Which corner?”、”This corner?”といった言葉を使いながら、”Turn right at this corner.”、 ”Turn right at the next corner.”といった表現を出させたいところでした。 目的地に近づきますが、また、“Go straight.”が続きます。子どもの声が少なくなります。授業者が「せっかくだからみんなで言ってほしい」と伝えれば子どもたちの声が大きくなりますが、声が出なかった子どもたちの気持もわかります。英語で伝えよう、表現しようと考える場面がありません。残念ながら小学校の外国語活動のような、ただ決まった言葉を話すだけになってしまいました。 最後に「着いた」と声が上がり、授業者が「着いたの?」と確認すると、「左です」と返ってきます。「左です。はい(言って)」と子どもたちに英語に直すように促します。子どもたちからは、”Turn left.”と返ってきます。この間違いはかなり深刻です。子どもたちが”situation”を言葉にしようとしているのはなく、「左です」という日本語と単純に対応する言葉を言っているからです。「左に曲がる」も「左にあります」も日本語では「左です」で表現できます。それを子どもたちは1対1対応で”Turn left.”に変換したのです。 「Turn left.だった?何かあったじゃない。左手にありますよって……」と問い返しますが、一人の子どもが”Turn please.”と答えて、後の子どもたちは凍っています。「Turn please.だった?」と返すと、今度は”Please turn.”です。「You ふん、ふん、ふーん……」と言葉のリズムで思い出せようとしています。これでは、日本語の表現と一致する表現を覚えることが英語の学習になってしまいます。せめて、「どこを見れば○○があるの?」と言った英語で示すべき”situation”を確認するべきだったでしょう。”situation”を意識しているようで、実は意識できていなかったのが残念です。結局このヒントでも、子どもたちからは言葉は出てきませんでした。学習していたはずのことが定着していなかったようです。”You can see it on the left.”と授業者が言うと、それはリピートできます。しかし、言葉として言えているのではなく、耳から入った音を繰り返しているだけです。リピートリーディングばかりをしていると、頭の中で言葉を選んで表現する力はなかなかつかないのです。 授業者は「『左手にありますよ』は、You can see it on the left.」と説明しますが、これでは1対1で言葉を覚えるだけです。”You can see it on the left.”の表わす”situation”をきちんと確認することが必要でした。 “Show you 〜”の導入で、子どもたちも知っている?ゲームで使われている、”Show me your moves.”(お手並み拝見)を聞き取らせます。子どもたちは一生懸命に聞き取って真似をしますが、ナチュラルスピードなので聞き取れません。そもそも子どもたちは”move(s)”という言葉を知りません。これで聞き取れたらおかしいのです。まわりの子どもたちと相談させます。子どもたちはしっかりと相談しますが、残念ながらムダです。もし、聞き取らせたいのなら、授業者がゆっくりと一語一語ていねいに、”Show”、”me”、”your”、”moves”と発音して聞き取らせる必要があります。子どもたちができる、わかるためにはどうすればよいかを意識してほしいと思います。 ”Show me your moves.”に続いて、”I’m going to show you how to use waribashi.”、 “Please tell me the way to ○○.”と例文を並べます。この順番も気になります。 “show me”、”show you”、”tell me”の順だと、”show you”、”tell me”のコントラストが大きくなります。同じ単語がありません。ここは、”show you”、“show me”、”tell me”か”tell me” 、“show me”、”show you”の順番に並べるとよかったと思います。 「3つの文章で同じ文法の構造をしているものが並んでいます。どんな構造に並んでいますか?」と発問します。まわりと相談させますが、これに答えられる方がおかしいでしょう。もし答えられるのなら、それは知っている子どもです。子どもたちはすぐに相談しようとしますが、言葉はなかなか出てきません。子どもたちがこの文型を使いながら、自然に語順に気づくような活動が必要です。 子ども同士で相談できるようになると、先生たちはすぐに相談させるようなります。何を相談させればよいのかということをあまり考えずに安直に相談させても、子どもは頑張ってくれます。何となく授業が成り立っているように見えるのですが、子どもたちに学力はつきません。このことを意識してほしいと思います。 「何か気づいたことがある人?」と全体で確認しますが、授業者のねらっている言葉は出てきません。結局子どもの言葉を拾って、授業者が説明するだけです。子どもたちはそれを受け身で覚えるだけになってしまいました。 これと同じ文法構造をとる動詞を見つけてくださいと指示しますが、子どもたちはまず板書を写すことで精一杯でした。 いろいろと新しいことを試みているのですが、本質的に昔ながらの文法を覚える授業と同じになっています。英語の”situation”を理解する、英語で”situation”を表現するという場面をつくって、子どもたちが英語でコミュニケーションが取れたという実感が持てるような授業にしてほしいと思います。授業を工夫する意欲のある方ですから、このことを意識すればきっとよい方向に変わっていくと思います。 この続きは明日の日記で。 子どもたちに何を考えさせるのかを意識してほしい
前回の日記の続きです。
1年生の家庭科の授業は幼児の生活を考える場面でした。 授業者はノートを出して、出した人から前を向くように指示します。子どもたちは素早く指示に従います。子どもが全員前を向くまであまり時間はかかりません。 子どもたちに乳児期、幼児期などの発達段階と年齢の関係をまとめるので、まず表を書くように指示をします。授業者が板書したものを写しますが、結構時間がかかります。頭を全く使わないことに時間を使うのはちょっともったいないと思います。自分の手で書くことさせたいのであれば、表そのものは印刷して配ってノートに貼らせればよいと思います。活動をさせたいのであれば、教科書などを調べさせて自分で書きこませればよいでしょう。 子どもたちは自分のペースで書きますが、早くするように軽いプレッシャーをかけることも必要かもしれません。故有田和正先生が「鉛筆の先から煙が出るスピードで書きなさい」とおっしゃっていたことが思い出されます。 穴埋めの形の表を子どもたちが写し終ると、これから埋めていくので覚えてくださいと伝えます。「出生から1歳になるまでを乳児と言います」と言って板書しながら説明します。重要なことかもしれませんが、ただの知識です。乳児期、幼児期と順番に教えて書かせますが、これでは全く頭を使わない活動です。 子どもたちが根拠を持って活動できないのであまり時間をかけてはいけませんが、乳児期、幼児期、学童期、青年期などをあらかじめ与えておいて、「何歳くらいの時だろう?」と問いかけてまわりと話をさせてもよかったかもしれません。 子どもたちに、生まれた時の身長と体重を聞いてくることを宿題にしてあったようです。みんなの前で教えてくれる人とたずねます。数人の男子が挙手をします。何人か指名しますが、子どもたちはあまり興味を示しません。このことが何につながるのか見通しがないからです。子どもたちを少しでも参加させたいのであれば、「同じくらいの人いる?」「もっと小さかった人いる?」「もっと大きかった人は?」と子ども同士をつなぐとよいでしょう。 平均身長と体重を表に書きこんでいくのですが、なぜそういった情報が必要なのかがわかりません。発達段階で時期を分けるのですから、その時期に大きな変化や特徴があります。子どもたちに「乳児と幼児の違いは何だろう?」「幼児期と学童期の違いは?」といったこと問いかけると発達段階の意味が見えてきます。「立って歩けるかどうか?」という体の発達に気づけるかもしれません。乳児期と幼児期の子どもの写真を用意して、違いや特徴を比べさせるといった活動も面白いかもしれません。 子どもが一方的に教師からの説明を受けて板書を写すのではなく、子どもに考えさせてそこからまとめていくような授業を目指してほしいと思います。 1年生の新任の理科の授業は、植物の呼吸と光合成の実験結果の考察の場面でした。 子どもたちはグループで活動していますが、男子同士女子同士で並んでいるので、男女で相談する姿があまり見られません。話に参加していない子ども、かかわれていない子どもも目立ちます。子どもから質問の手が挙がると、個別に対応しますが他の子どもは我関せずなのが気になります。 グループ活動を終えて発表に移る時に、子どもたち全員の顔が上がるまで待つことができます。挙手で発表させますが、手の挙がる子どもが全くいないグループがいくつかあることが気になります。 発言者に対して視線が集まりません。授業者か自分の手元を見ています。同じグループの子どもが無視をしていることもあります。子どもの言葉を受けてすぐに授業者が板書し、次の子どもを指名します。子どもの発言をつなぎません。また、子どもの発表がどのような事実を元に考察しているのかがはっきりしないことが気になります。長い発表をした子どもがいます。授業者がわかったと言って、代わりに簡単にまとめます。これでは、子どもたちが友だちの発言を聞かないのは当然です。 3人目の子どもの発表が終わると、「いいかな?」と一言だけで、実際には確認もせずに説明に入ります。「植物も呼吸をしていることがわかった。特に二酸化炭素を出している」とまとめます。呼吸の定義はいったい何のでしょうか?酸素が減って二酸化炭素が増えているので、呼吸をしていると考えられるのであって、因果が逆転しています。これでは、理科になりません。 結局3人に発言させた後、授業者が自分の言葉で黒板にまとめ、子どもたちはそれを赤字で写します。授業者のまとめを際立たせたいから赤字なのでしょうか?子どもたちにその意図も告げずに指示を出しました。こういうことをみんなが言ってくれたと言葉を足しますが、たった3人に聞いただけで「みんな」と言われても、子どもたちは、言いたいことを授業者が自分でまとめているとしか思わないでしょう。 夜、植物は二酸化炭素を出しているが、昼間、明るいところはどうだろうかと問いかけます。何人かの子どもが挙手をします。指名した子どもが、「出してない」と答えます。授業者は「出してない、出してないんだよね」と復唱した後、「出してないかのように見える」と続けます。完全に誘導する発言です。子どもたちは自分で考えるのではなく、授業者の求める答探しをするようになっていきます。ここから授業者が「みんなは暗いところしか呼吸をしない?……」と説明しますが、植物について言えば何の根拠もない想像です。どのようにして植物が昼も呼吸していることを示すのでしょうか?中学生では実験はできませんが、そのことを確かめるためにはきちんとした実験を行うことが必要です。せめてそのような実験の結果分かったということは伝えるべきでしょう。 理科の教師なのですから、光照射化での呼吸量の見積もりのために酸素の同位体を使った実験を行ったことや、その結果光呼吸(光照射化で通常と異なる方法で酸素を消費し二酸化炭素を放出する)が行われていることがわかったといったことは知っているとは思います。それを踏まえた上で、子どもたちにどのように伝えるかを考えてほしいと思います。少なくとも、実験を行い、その結果確かめられたこととして説明することが必要でしょう。 実際に植物はいつ呼吸しているか、班で話し合うように指示します。1分間自分で予想し、班で順番に発表させます。自分の予想とそう考えた理由を30秒ほど発表するのですが、実験の結果や根拠がないのですから、こんなことを話し合っても意味がありません。単なる妄想です。このことを授業者は理解しているのでしょうか?授業者は明確な根拠も持っているのでしょうか? 子どもたちは思ったほどテンションが上がりませんでした。納得できる明確な理由が言えないからなのでしょう。かなり時間を使った後、発表させますが、挙手はほとんどありません。間違っていてもいいからと声をかけると、少し手が挙がりました。最初に指名した子どもは、実験結果から、暗いところにある時に呼吸していると答えました。授業者は同じように考えた人とつなぎました。これはよい対応ですが、既に実験結果から暗いところでは呼吸していると確認されているはずです。「光の当たっている時は呼吸していないということ?」と確認するべきです。そもそも、最初の「いつ呼吸しているか?」という発問がよくなかったのです。「光の当たっている時も呼吸しているかどうか?」が問題だったからです。 授業者は「実験結果から」と板書をします。すぐに他の意見を聞きます。せっかく同じ考えの人を挙手させたのですから、彼らの理由も聞きたいところです。 「明るいところでも暗いところでも呼吸している」という発言を、「常に呼吸している」と授業者は言い換えます。授業者が子どもの言葉を自分の都合のいいように言い換えることが子どもたちの発言意欲を失わせる原因だということを知ってほしいと思います。 「呼吸しないと死んでしまうから」というのが理由ですが、植物が呼吸しなければ死んでしまうというのは、どうして言えるのでしょうか?そもそも呼吸が何のために必要なのかを子どもたちは理解しているのでしょうか? 2人指名しただけで、「どうなんでしょうか?」と言って、教科書を開かせます。教科書の記述に正誤を求めるのであれば、これまでの時間はすべてムダです。たまたま結論を知っている子どもだけが活躍する授業です。最後は授業者のまとめを写して終わりです。子どもたちが妄想をして結論を写して終わるだけの授業になってしまいました。 理科の教師なのですから、理科はどういう教科なのかを理解する必要があります。事実を元に論理的に考えることを忘れないでほしいと思います。例え結果を一方的に与える時でも、どのような事実からわかったことかは押さえておいてほしいと思います。 グループの活動中に下を向いて仲間とかかわろうとしない子どもがいたことが気になりました。授業者はその子どものグループに行った時も、その子どもとかかわろうとしません。このことについて授業者と話をしました。実はその子どもは、授業中に漫画をノートに描いてばかりいたので、前日に注意をしたばかりだというのです。授業者が、グループで活動するのに漫画ばかり描いていては他の人が困ると注意をしたところ、今日の姿になったということです。経験も浅い先生が子どもの指導をするのであれば、先輩と相談してからにすべきだったと思います。「あなたのために迷惑する」という他者の論理を押し付けるというのは指導として下です。まず、その子どもがなぜ漫画ばかり描いていたのかを考える必要があります。授業がよくわからないので参加できないのかもしれません。漫画が好きで漫画家になりたいと思っているのかもしれません。授業がよくわからないのであれば、その子どもだけの責任ではありません。先生方の責任もあるのです。そうであれば、「それはつらいね。上手く教えられなくてごめんね」と辛さを共有して、自分の責任をまず認めることから始めるべきです。漫画が好きなのなら、そのことを認めた上で、どうすべきか本人に考えさせることが必要です。漫画を描き続けている事実の裏に何があるのかを知ることをせずに、一方的に指導しても子どもは離れていくだけです。漫画を描くのを止めただけで下を向いていたというのは、指導に対するささやかな抵抗だったのかもしれません。 賢しらに上から目線で指導することは、厳に避けなければいけません。子どもに寄り添って考えることを常に忘れないようにしてほしいと思います。 この続きは次回の日記で。 用語や言葉をていねいに扱うことが大切
昨日の日記の続きです。
3年生の数学の授業は、平方根の導入の場面でした。 36の平方根を問います。子どもたちに「言葉の意味はわかっていますか?」と言葉を足します。ちょっと気になる言い方でした。数学の授業なのできちんと「定義」を使いたいと思います。私などは、「言葉の意味」というと、「平方」(2乗)した時の、「根」(解、元の数)のことなのかと思いますが、もちろん、授業者はこのようなことを説明していませんし、意識もしていませんでした。1/3ほどしか挙手がありません。もし、子どもたちがわかっていなくて挙手しないのであれば、大問題です。平方根がどういうものか、全くわかっていないということです。ここで指名している場合ではありません。そうでなければ、挙手して答えることに価値を見いだしていないということです。いずれにしても、あまりよい状況ではありません。 一問一答ですぐに板書して説明をします。指名された子どもは「6と−6」と答えただけですが、授業者はその何倍も説明します。その間、多くの子どもは授業者の説明より写すことを優先しました。「2乗して36になる数字は、……」と、「数」と「数字」が混乱しています。そのような場面が何度もあります。私は、数学の教師は国語の教師と並んで言葉を大切にしなければいけないと思っています。曖昧さを排除するために、用語の定義がしっかりなされています。そのことを意識してほしいと思います。 続いて9/25の平方根を問います。今度は子どもたちのほとんどが挙手します。ここでも、授業者はすぐに指名します。「3/5と−3/5」という答に、「いいですね」と板書して次に移ります。ほぼ全員ということは、手が挙がっていない子どももいるということです。ここで手の挙がらない子どもに目を向ける必要があります。その子どもたちがもし平方根を理解できていないのであれば、ここで結果だけを聞いてもわかるようにはなりません。その課程をきちんと押さえることが必要です。結果を聞けばできるようになるのであれば、問題をやらせて答合わせをすればよいということになります。子どもたちがわかる、できるようになるために何が必要かを考えてほしいと思います。 板書した答に○をつけて、「必ず2つあります」と説明します。しかし、根拠なく結論を言うのであれば、数学になりません。「本当?」「絶対?」と問い返し、「1つあれば、絶対値が同じで符号を変えたものも2乗すれば同じ値になる」という言葉を引き出すことが必要です。根拠を引き出す過程で、0だけは違うことが出てくるとよいでしょう。出てこなくても、一言押さえておく必要があります。中学校ではあまり重視されませんが、高等学校ではこのことが非常に重要になってきます。こういったことも意識することが大切です。 「2つ書くのがめんどうくさくない?」「いい方法ない?」と問いかけます。知識を聞いても知っている子どもしか答えられません。数人の子どもが挙手しますが、塾等で習ったりしている子どもです。これは授業者が教えるべきことです。 指名された子どもが「±」と答えます。授業者は何でそれでいいのかを問いますが、あまり意味のあることではありません。子どもも何を答えたらよいのかちょっと戸惑っていました。どうやら絶対値が同じことを言わせたかったようです。絶対値が同じ2つの数が平方根としてでてくるので(0以外)、±を使えば表記が簡略できるというだけです。そもそも「書くのが面倒くさい」と授業者自身が言っているのです。話の展開が恣意的なのが気になります。 2乗して2になる数が約1.4であることを確認して、「2乗して2になる数をはっきりさせたい」と言って√という記号を導入します。「はっきりさせたい」という言葉もちょっと問題です。これは表記法の問題です。分数を「/」で表わすのと何ら変わりません。言葉の使い方がとても雑なことが気になります。 √は見たことがあるはずだとどこで見たかを問いかけます。またしても知っている子どもしか答えられない問いです。電卓に√のキーがついていることを言いたいのでしょうが、この記号を知っていなければ、気づくことは難しいでしょう。特定の子どもばかりが挙手して指名されるという構図です。知らいない子ども、よくわからない子どもが活躍する授業を目指してほしいと思います。 「5cm2の1辺の長さがばちっと言えるはずです」と問いかけます。これも雑です。「面積5cm2の正方形の1辺の長さは」と省略せずにきちんと言うべきでしょう。「ばちっと言える」もおかしな表現です。「(√を使って)どう表わせるか」と正しく聞いてほしいと思います。挙手は1/4ほどです。この問に答えられる子どもがこれほど少ないというのは問題です。まわりと確認させたり、ノートに素早く書かせたりして理解できているか判断すべきだと思います。 指名した子どもが「√5と-√5」と答えます。授業者は「今の質問だったらその答え方でよかったですか?」と返します。次にその前の子どもを指名すると「√5cmと-√5cm」と答えました。授業者は「面積が」と言葉を返します。子どもに気づきを促すよい返しですが、すぐに他の子どもが挙手します。間違えた子どもも「あっ」と気づいてすぐに挙手しますが、授業者は他の子どもを指名しました。せっかく本人に気づかせたのですから、その子どもを指名したいところでした。授業者が説明をしている時に、間違えた2人は互いに笑いあっていました。ほほえましい光景です。仲のよい2人なのでしょう。 授業者は、√記号の名前を根号というと教えながら、「なんで根号というんだろう?」とつぶやきます。「数の根っこ、もと」と説明しますが、中途半端です。 もともと、n次式を(x−αi)の形の1次式の積に因数分解した時のαiを英語で”root”と言ったのを直訳したのが「根」です。そのため、以前、中学校や高等学校では1元n次方程式を満たすもの(解)を根と呼んでいました。その他の連立方程式などは解を使っていたので混乱しやすいことから、中学校は1972年、高等学校は1973年入学生から実施された学習指導要領から解に統一されました。 平方は2乗を表わしますが、英語では”square”です。平面の四角(つまり正方形)の面積は1辺の2乗ということですね。平方根は” ”square root”の訳になっています。ちなみに立方根は、同様に英語の”cube root”と対応します。平方根の意味は、x2=aの根(解)とう定義そのものを表わしているのです。 どう教えるかは別として、数学の教師であれば、平方根といった用語が定義とは別にどういう意味があるのかは知ろうとしてほしいと思います。 問題を解くことと教えることは別次元です。直接子どもたちその知識を教えるかどうかは別にして、その教科の本質的な知識や考え方を身につけることが教師には求められます。 授業者は、子どもたちにわかりやすい言葉で教えようとしているのだと思います。そのこと自体はとてもよいことです。しかし、数学としての本質から外れてしまっては問題です。今回のことに限らず、教科書の内容を馬鹿にせず、謙虚に教材研究してよりよい授業を目指してほしいと思います。 この続きは次回の日記で。 子どもたちが考える活動をどうつくるか
昨日の日記の続きです。
3年生の理科は電気分解と電池の違いを説明する場面でした。 班ごとにゼロから説明できるようにまとめることが課題です。子どもたちは授業者の指示に素早く従い教科書を開きます。授業者は子どもたちに教科書を見せながら、原子がイオンになるのか、イオンが原子になるのか違いだと説明します。当然子どもたち教科書見ているので顔は上がりません。これが大切な確認であれば、子どもたちに問いかけ、もし忘れているようなら自分でノートを見て思い出させるような活動が必要です。 確認が終わると、教科書やノートを片付けさせます。その状態で活動させるというのであれば、知識の整理を参考にするものなしで行う、単に覚えているかどうかの試験と同じです。この活動を通じてどのような力をつけたいのかよくわからないというのが正直なところです。 ワークシートを配って名前を書かせ、まとめを書くシートもグループに配って準備完了です。ここで、全員を前に集めます。金属の組み合わせを変えて、電気が流れるかどうかを確認する実験を見せるのです。この後でグループでの作業を説明するのであれば、この実験を見せてから配った方がよかったのではないかと思います。 小さなビーカーでの実験でしたので、後ろの方の子どもはよく見えません。ICT機器を上手く使って大きくして見せたいところでした。リアルタイムである必要がなければ、事前にビデオに撮ったものを見せてもよいでしょう。 前に集めたままで、電気が流れるかどうかの違いはどうしてかを問いかけます。数人しか手が挙がらない状態ですぐに指名します。指名された子どもがイオン化傾向の違いであることを一気に説明すると、授業者は「そうだね」と受けて、「順番覚えている人」とすぐに問いかけます。1人しか手が挙がらないので、ちょっとびっくりしたようですが、指名せずに「順番覚えておくんだよ」といって次の説明に移りました。教科書やノートのない状態で知識を問うというのは、覚えていることが前提です。覚えることはもちろん大切なのですが、忘れればすぐに確認して思い出すことの方がもっと大切です。他者の答を聞いても「ああ、そうだった」となるだけで、力はつきません。学習は記憶することだと子どもが思ってしまうことが心配です。 席に戻した後、ワークシートの説明を始めます。当然子どもの視線はワークシートに向かいます。子どもたちはよく聞いてくれるので、授業者は目を合わせたいと思っていないようです。しかし、子どもと視線を合わせることは、関係をつくるだけでなく、反応がよくわかるので、授業をどう進めるかの重要な判断材料になります。ワークシートを配る前に、実物投影機などを活用して大きく映し出して説明をするとよいでしょう。 子どもたちにどのような説明をつくればよいのか、内容も細かく指示します。「ノートに書いたようなこと」という言葉が出てきます。極端に言えばノートに書いたことを思い出して書きなさいという課題です。思い出せなければどうすればいいのでしょうか?自分のノートを見れば済むことを誰かに聞くしかありません。この活動のねらいが私にはよくわかりませんでした。 子どもが考えることはあまりありません。当然テンションは上がっていきます。授業者は机の間を歩きながら子どもたち話しかけたり、質問に答えたりしています。グループ活動を導入するねらいの一つは、自分たちで課題を解決させることなのですが、それを授業者がじゃまをしていることに気づきません。全体をよく見て、参加できていない子どもがいればかかわれるように声をかける。活動が止まっているグループが目立つようなら、いったん止めて、困っていることを共有するといったことが必要です。 この活動の評価をどうするのかも疑問でした。わかりやすい説明というのであれば、それはどのようなものかを意識させることが必要です。この時間に子どもたちは何を考えたのか、よくわからない授業でした。 3年生の社会科の授業は、大正デモクラシーの学習でした。 子どもたちはグループの隊形でワークシートをもとに個人作業をしています。よく集中して調べています。友だちに確認している姿も目につきます。グループ隊形での作業に慣れているようでした。 作業を終えて、元の隊形に戻して授業者がしゃべり始めます。大正デモクラシーはいろいろなことがあって、整理しないとわかりにくいので普段使わないワークシートを使ったと説明します。 挙手に頼らず、子どもを指名して「ワークシートの労働者の1920年のところに何と書いてあるか」と聞きます。「初のメーデー」と返ってきます。それを受けて、「メーデーの資料で君たちが見るのはおそらくここ」と、資料をディスプレイに映し出します。また子どもを指名して、「この資料で何に気づいた?」と問いかけます。「右側に失業防止と書いてある」と子どもが答えます。ここで子どもたちの顔が上がらないのが気になります。ディスプレイを見ている子どもが何人かいますが、ほとんどの子どもは手元の資料の方を見ます。せっかくディスプレイを使うのですから、全員の顔を上げさせたいところです。また、友だちが発言している時には、そちらを見てほしいとも思います。 子どもに発言させているのですが、一人の発言を受けてすぐに次に進みます。ほとんどの子どもがそのことを書けているのかもしれませんが、きちんと共有したいところです。子どもたちはワークシートの答が気になるので、どうしてもそこから目が離せませんでした。 「どんな政党ができたか調べた人いる?」と問いかけます。ほとんど手が挙がりません。見つけた子どもに「どこに載っている?」と聞きます。教科書や資料と子どもをつなぐよい場面です。その場所が言われると子どもたちはすぐに手を動かします。よい反応です。ところが、「ここに載っています」と、授業者がわざわざ教科書を開いて見せました。しかし、教科書は小さいのでよく見えませんし、ほとんどの子どもは見ていません。隣同士で確認するといったことをすればよかったと思います。 子どもたちがせっかくいろいろと調べたのですがから、もっと活躍させたいところでした。必ず子どもに問いかけて発言させるのですが、それに続いて、授業者が長く説明をしてしまいます。授業者が話したいことを、子どもたちにどうやって言わせるかを考えてほしいと思いました。 この時間には、子どもたちが調べたことをもとに考える場面がなかったことが残念です。子どもたちはよく動きますから、調べることをもう少し絞って考える時間をつくり、「こういったいろいろなことが、短い大正時代に起こったのはなぜだったんだろう?」といった問いを発すれば、きっとグループで考えてくれたと思います。 また、調べるにしても、例えば初のメーデーの新聞記事を見せて、「なぜこの年だったのか?」といった問いかけをして、疑問をもたせたりするとまた違った動きになったと思います。 もう一工夫で、授業はずいぶんよくなると思いました。 この続きは、明日の日記で。 子ども同士がかかわる必要性を考える
昨日の日記の続きです。
2年生の美術は、色の与える印象について考える場面でした。 2枚のイルミネーションの写真を見せて、どんな感じがするかグループで考えるように指示します。男子女子が1列で並んでいるので、男子同士、女子同士で隣り合っています。絵を描くために机の幅が広く、男女の席が離れているため、どうしても男子同士女子同士でしか話がされません。また、自分のグループの子どもとはしゃべらず、隣のグループの子どもとしゃべる子どももいます。グループが崩れてしまうので注意が必要です。 子どもたちはよく話をするのですが、発表となると挙手が少ないことや、発表者の方を見ようとしないことが気になります。発表を受けて授業者はすぐに板書します。子どもたちは先生の方を注意していれば、効率的に情報が整理されます。このことが、発表者の方を見ない一因でしょう。 続いて、ピカソの2枚の絵を見せて全体で意見を聞きます。ここでも挙手する子どもは少数です。子どもの意見を「なるほど」と受容しますが、子どもに問い返したり、「同じような意見の人?」とつないだりすることがありません。子どもたちは聞いてはいるのですが、受け身の状態が続きます。発表する子どもの表情はよいのに対して、聞いている子どもの表情が重いように感じます。積極的に意見を言わせて参加させたいところです。 質問と挙手により、色の効果について考えさせようとしているのですが、一部の子どもとのやり取りだけで進んでいきます。さすがに集中力が落ちてきます。 資料集をもとに説明をしますが、授業者も子どもたちも資料集を見ているので視線が交わりません。実物投影機などを使って資料集を映し出し、子どもたちの顔を上げさせたいところでした。 結局、子どもたちが受け身の時間が長くなってしまったのが残念でした。子どもたちが落ち着いて話を聞いてくれると、どうしても先生はしゃべりすぎます。このことに注意をしてほしいと思います。 1年生の新人の体育の授業は、男女共修です。ソフトボールのキャッチボールの場面でした。 授業者は一方的にボールの持ち方を説明します。子どもたち自身が試して確認する場面がありません。続いて投げ方のよいフォームと悪いフォームの見本をT2と2人で見せます。どっちがよいのか当ててくださいとクイズにしますが、実際にそのフォームをまねてみて、うまく投げられるのはどちらかを比べるといったことをしなければ考えることはできません。よく知っている子どもしか、理由は説明できません。何度も見せますが、どちらがよいかは明らかでも、きちんと視点を決めて比べてみなければポイントはわかりません。 子どもたちに答を聞きますが、1/4ほどしか手が挙がりません。せめて、子ども同士で確認すればいいのですが、そのまま指名します。理由も説明させますが、他の子どもは集中力を失くしています。言葉の説明だけではよくわからないことがその一因です。 まずどこが違うかを確認して、全体で共有することが必要です。その上で、理由を考えさせるようにしなければ、よくわからない子どもには理解できません。 発言者にありがとうございますと言えたのはよいのですが、1人が発言して終わりです。他の子どもは何も参加できません。 「どこが違うかを確認するように」と言って再びやって見せます。ただ見せられてもわかるわけではありません。子ども同士で確認し合うといったことが必要です。 子どもたちに発表をさせます。数人の手が挙がります。子どもの意見を受けてやって見せますが、すぐに「他には」と次に移ります。発表された意見を子どもたちで共有することが必要です。結局わかる子だけで授業が進んでいきます。頭が下がってしまっている子どももいますが、授業者は発言者だけを見ているので気づきません。他の子どもに発言を求めるのですが、手が挙がりません。授業者は「○○さんにすべて持ってかれるぞ。それでいいのか?」と高圧的にしゃべります。これでは逆効果です。上から目線は子どもとの関係を崩します。こういった姿勢が子どもの発言意欲をそいでいることに気づいてほしいと思います。この状況をつくっているのは授業者自身なのです。 子どもの発言を受けて、また授業者が延々と説明をします。活動量が異常に少ない体育の授業でした。言葉ではなく、身体を動かして子どもたち自身でポイントに気づいたり、実感したりする場面が必要です。やらせてみて、それから修正するための時間をとることが大切です。子どもたちは10分ほど受け身の時間が続きます。よく聞いていましたが、さすがに集中力が切れてきました。 子どもたちから出てきたことを、4つと整理します。続いて、「いろいろあるが、3つに絞ります」といってもう一度確認します。子どもの考えを聞いているように見えますが、結局先生が自分の説明したいことを説明しているだけです。これでは、子どもたちは発言したいとは思いません。 投げ方の説明が終わると今度は捕り方の説明に移ります。一方的な説明が始まったのですが、途中で確認のために子どもを1人前に出し、授業者とキャッチボールをしました。友だちが前に出ると、子どもたちの集中力が戻ったことが印象的でした。 グランドに散ってキャッチボールの練習です。子どもたちはやっと活動ができるので素早く動くかと思いきや、そうではありません。移動してペアになってもすぐに動きません。何をすればいいのか、まわりの様子をうかがっています。それはそうです。授業者は投げ方や捕り方についてはくどいほど説明しましたが、「続けてどんどん投げる」「1球ごとに確認しながら投げる」といった活動のやり方については何も指示していません。これでは、子どもたちは動けないのです。 子どもたちのキャッチボールは、残念ながら不十分なものがほとんどです。授業者の説明したポイントは意識されていません。当然です。説明を受けてすぐにできるのなら、練習の必要はありません。互いに、相手の投げ方、捕り方を見てポイント確認し合うといったことが必要ですが、子どもの声が全く聞こえてきません。子どもたちが上手くなるための場面がないのです。授業者は漫然と歩いています。常に全体を見るようにして動かなければいけませんが、意識されていません。体育教師の基本がわかっていないようです。時々、個別に指導しますが、この形で全員を指導しきれるわけもありません。全体の様子を見落とす危険が増すだけです。 ここまで見たのですが、時間からすると最後に子どもたちを集めて、反省をさせることになると思います。しかし、それを活かす場面は次の時間までありません。次の時間に持ち越してしまえば、反省したことは頭の中から消えてしまいます。授業時間内に子どもたちの変容を促すことが大切です。子どもたちが上手くなる、できるようになるために必要なことは何かが、意識されていません。教えたがりの素人コーチのような授業になってしまいました。プロの教師として、子どもたちができるようなるために何をすればよいのか、よく考えてほしいと思いました。 1年生の数学は、指数の計算が()のつけ方でどのようになるかを確認している場面でした。 指名された子どもが「(-2)4はかっこがついているからプラスで、-24はかっこがついていないのでマイナスになる」と説明します。一生懸命前を向いて説明しますが、他の子どもたちはあまり真剣に聞いていません。授業者は、ところどころ復唱しながら聞いていますが、子どもたちにつなぐことはせずに、「もう一度相談して」と返しました。この学級でも、相談する場面になるとテンションが上がります。「もう一回だれか説明して」と問いかけますが、挙手は1人です。友だちとしゃべりはするが、全体で発言しようとはしないことが気になります。 「-2が4回かけられているから、マイナスが偶数個でプラス」「マイナスと2×2×2×2でマイナスが奇数だからマイナス」という説明に対して、「何が4回かけ合わせられている」と問いかけます。なかなかよい焦点化だと思います。「2が4回」ということを言わせて、「2“だけ”が4個かけ合わされていることかな」と受け、「ありがとう」と言って着席させました。ここで、「今の納得した人」とつなぎます。なかなかよい展開ですが、“だけ“という言葉を授業者ではなく子どもから出させたいところでした。1/3ほどの手が挙がりますが、まだ少ないと、「別の式を指してこれがどうなるかわかる?」と問いかけます。ここは納得した人につないで、もう少し説明をさせ、計算式のルールから、-2を累乗するのか、2を累乗するのかをきちんと子どもたちで押さえさせたいところでした。 挙手した子どもを指名して発言させますが、子どもたちは明らかに集中していません。焦点化した「何を4回かけているのか」を子ども同士で確認し、どうしてそうなるのかをルールをもとに説明するとよいでしょう。ここはグループを使うとよい場面だったと思います。 子どもたちにいろいろ発表させましたが、結局最後は、授業者が黒板で説明します。書かずに見るように指示されて、子どもたちは鉛筆を置きますが、集中しきれていません。授業者の説明は、この式はこうなるからという説明ですが、根拠となるルールを確認しませんでした。説明中にも子どもたちの集中が落ちていきます。子どもたちは、(-○)nと書かれたらこういう計算になる、-○nと書かれたらこういう計算になるという結果を覚えようとするのではないかと思いました。 子どもたちに写すように指示します。授業者が板書したことを結論として受け入れることになります。 書きを終わった後、授業者が「何を4回かけるのかなと考えて……」と累乗の混じった計算のコツを伝授します。子どもから出てきた言葉ではなく、授業者の言葉でやり方がまとめられていきます。これでは、子どもたちにとって友だちと相談したり、話を聞いたりすることに意味はないのです。そのため、相談することがリラックスタイムになり、友だちの話は聞かなくてもよくなっていたのです。 子どもの発言をポジティブに評価して、共有し、つなぎ、子どもの言葉でまとめることが大切です。また、数学の授業として、結論ではなく、根拠を明確にすることも大切にしてほしいと思います。子どもの言葉を受容することはできています。意識を変えるだけ大きく進化すると思いました。 この続きは明日の日記で。 授業をよくするための次のステップに、何が必要かを考える
中学校で若手を中心に授業アドバイスを行ってきました。今年の2月に初めて訪問して、今回が2度目です。この日は1時間目から5時間目を使って13人の授業を見せていただきました。
元々子どもたちは落ち着いている学校でしたが、以前よりも表情がよいように思いました。子どもたちがかかわり合っている場面も多いように思います。この学校では、以前私がアドバイザーとして訪問させていただいた学校の校長が、退職されて初任者の指導をされています。その方が、私の訪問以降先生方が変わったとうれしい報告をして下さいました。この日は、教務主任、校務主任のどちらかがかならず同行して下さいましたが、非常に熱心に授業を見ておられました。この学校が変わって来ているのは、間違いなくこの方々の働きかけがあったからだと思います。主任層がしっかりしている学校では、授業の改善が確実に進むものです。 2年生の数学の授業は、講師の方の連立方程式の授業でした。 指示に対して子どもたちの動きがやや遅いように感じます。子どもたちの顔が上がるまで待てるのですが、ほめないことが気になります。笑顔を返すだけでも、行動が前向きになると思います。 プリンとケーキを買った代金の合計630円を示して、それぞれの値段はいくらかを問いかけます。説明を子どもたちは集中して聞いています。まわりの子と相談してもいいので、考えてくださいと指示すると、子どもたちは素早く体を動かし、相談します。子どもたちの笑顔がとても印象的です。楽しそうに言葉を交わしていますが、ややテンションが上がり気味になります。また、友だちとかかわろうとしない子どもも目につきます。授業者は机間指導をしながら、個別に指導しています。自分の考えが持てているのならまわりの子どもと意見を交換する、困っているのなら相談するように声をかけたりして、子ども同士つながるような働きかけもしてほしいと思います。 いくらになったかを全体で聞きます。「そこで話していたことを言ってくれていいよ」と挙手に頼らず指名します。子どもたちが発言しやすいようにしようとしています。よい対応です。1人の子どもが「プリン250円、ケーキ380円」と答えた後、次の答が出てきません。「他の答はないの?」と問いかけると、挙手をして子どもが「プリンをx円とおくとケーキは(630−x)円」と発言します。授業者は「他にない、具体的な数字ない?」とこの考えを無視します。「xはいくらになるの?」と揺さぶっても面白かったかもしれません。ところがこの後、急に子どもたちが動き始めます。まわりとしゃべりだしました。「それ以外にないの?みんな、プリン250円、ケーキ380円なの?」と問いかけます。子どもたちはしゃべっているのですから、その内容を聞いてあげればよかったと思います。「何をしゃべっているの?」「それってどういうこと?」といった聞き方をすれば、違った反応を見せたと思います。 しばらく待って1人の子どもが挙手して、「プリンが300円、ケーキが330円」と答えます。「他には?」と続けて聞くと、また1人手が挙がります。その間子どもたちはちゃんと顔を上げています。今一つ何を求められているのかよくわかっていないようでした。 授業者は子どもたちに「困っていたようだけど、なぜ困っていたのか」と問いかけます。「なぜ」で聞かれると答えにくいものです。「どういうこと?」と子どもたちを指名すれば言葉は引き出せたのではないかと思います。 わかんないと言っていた人がいることを子どもたちに投げかけて、次に進みます。「わかんない」とは何がわからないのか、どういうことかを共有しておいた方がよかったように思います。 新しい情報としてプリン3個とケーキ2個買って1510円になったという情報を足します。これでプリンとケーキの値段を考えるように指示します。まわりの子どもと相談させますが、子どもたちからは「こんなんじゃわかんない」という声が出てきます。ちょっとテンションが高い気がします。ここでの活動は何が目標なのでしょうか?授業者は答を出すことを願っているのでしょうか? 中には一人で固まっている子どももいます。その子どもに、後ろの座席の子どもが席を立って声をかけますが、声をかけられた子どもは明らかに嫌がっています。その前の話し合いの場面では、しっかりと話していたのに、全体のテンションの高さと共にちょっと気になる場面でした。子どもたちは、聞くことよりも話すことに意識が行っているのかもしれません。 最初の課題で方向性が見えないまま、新たな条件が加わっても、子どもたちに考えるための手掛かりがありません。子どもたちの考えが深まっていく様子はありませんでした。一部の子どもを除いて、子どもたちはしだいに行き詰まっていきました。早く活動を止めて次の段階に移るべきでしょう。 授業者は相談する人を変えてと、列を移動するように指示をしました。話をしている子どもが固定化していることに気づいたようです。まわりと相談すると言った時に、特定の子ども同士がつながる傾向があるようです。仲のよい子どもだけが話すことでテンションが高くなっていた可能性があります。 席を移動した後、再びテンションが上がります。しかし、どうにも子どもたちが深く考えているようには見えません。固定した4人グループでじっくり相談させた方がよかったように思います。グループの様子を見ることで、考えられているかどうかわかりますし、活動を止めるタイミングも見えやすくなります。 しばらくすると、先ほどと同じく子どもの活動が止まっていきました。 連立方程式の導入としては、最初の段階で解がたくさん存在することをきちんと押さえたいところです。その上で、他の人もプリンとケーキを買ったと言っていたけど、同じ店であるかどうかはわからないとします。これも、同様に答はたくさん存在することを確認してから、実は同じ店だったとしても面白かったでしょう。xを使った子どもを活かして、プリンとケーキの値段の表に誘導してもよかったかもしれません(方程式のグラフにつながっていく)。 子どもたちは相談することに抵抗はないように見えますが、参加しない子どもが目立つことが気になりました。自分が話せないと相談できないのかもしれません。子どもたちが聞くことを意識するようにすることと、全員が話し合えるようにするために4人グループを積極的に活用することが必要に思いました。 1年生の数学は、小学校から異動してきて2年目の先生でした。以前勤務していた小学校で、私が授業アドバイスをしてきた方です。愚直に私のアドバイスを実践してきてくれた方ですが、そろそろその殻を破って自分の型をつくる時に来ているようです。 子どもたちは集中して授業に取り組んでいます。ちょっと複雑な計算問題を15秒でやるように指示します。子どもたちに軽いプレッシャーをかけて力をつけようというわけです。子どもたちは、全員素早く取り掛かります。意欲が感じられますが、ちょっと時間が厳しかったのでしょう。「確認して」とまわりと相談させるのですが、声があまり出ません。「難しいかな?」と子どもたちに声をかけて、反応を見ます。1人の子どもが手を挙げたので、指名します。「−64」と答えますが、授業者は「−64」と復唱して、「ちょっと時間をあげるからもう一度やってごらん」と全体に返します。この答は違っているのですが、正解かどうか判断しないことで、他の子どもは真剣にもう一度取り組みます。 近所の人ともう一度確認させます。子どもたちは苦戦しているようですが、先ほどよりは動きがあります。 授業者は活動をやめさせて、まずどこから計算をするのか隣同士で確認させます。子どもたちは素早く確認し、授業者はすぐに子どもたち挙手させます。全員の手が素早く上がりました。ムダのないよいテンポで進みます。「21÷5です」と子どもが答えます。授業者は黒板のその部分を目で確認して見せます。するとすぐにその子どもは「21−5です」と訂正しました。なかなか見事な対応です。子どもたちはすぐにまた手を挙げます。先ほど間違えた子どもを指名します。上手にリカバーの機会を与えます。「21−5」と同じ答です。同じ答でもいいから、自分の答を言うことが子どもたちに浸透しています。子どもたちが落ち着いて挙手をしている理由がよくわかります。 途中まで全体で確認をして、最後の計算を子どもたちにやらせます。再び隣と確認をしますが、今度は自信を持って声が出ていました。「言える人」と聞くと、ほとんど全員手が挙がっていたのですが、1人だけ挙がっていません。授業者はそのことに気づいていたようです。最後にもう一度4人で確認するように指示します。今度は全員しっかりと手が挙がりました。全員に手を挙げてほしいという強い思いを感じました。 2人に確認をして、「ちょっと難しかったかな?でもいいんだね、このぐらいで」と言って次に進みます。 黒板に黙って次の問題を書きます。子どもたちは写さずにじっとそれを見ています。書き終ると、15秒でやるように指示します。子どもたちは素早く写して問題に取りかかります。時間を区切ることで上手に集中させています。子どもの動きを見ながら、15秒経った時に、あっているかどうか別にしてできたかどうかをたずねます。少し少ないようなのでさらに5秒与えました。隣同士確認させて、もう一度4人で確認させました。すぐに答を聞かずに、どこから計算するかをたずねます。過程をていねいに扱っているので、間違えた子どもや困っている子どもはその説明を聞くことで理解することできます。次に計算するところをまわりと確認させます。この後演習に入りますが、その前にきちんと計算のやり方を定着させようとしていることがわかります。簡単な計算部分は挙手に頼らず指名しながら進めていきました。間違えた子どもも、どこで間違えたかはわかるはずです。 この間、私が見始めてから6分経っていません。柔らかい雰囲気でゆったりと進んでいるように見えますが、実は密度が濃いことがわかります。授業者が余分なことをしゃべっていないからです。 演習に入りますが、先ほどの計算に正解できなかった子どもも、すぐに問題に取りかかります。子どもたちの動きが速いことから、学習意欲が高いこととよく鍛えられていることがわかります。 授業者は机間指導をしながら、○つけをしています。特定の問題に絞って、その問題が全員できていることを確認していたようです。声かけをしていませんが、集中している雰囲気を壊したくないのでしょう。これだけ集中して手を動かしているのなら、それもありかもしれません。 授業の基礎はかなり高いレベルで実現できていると思います。今回はグループを使っていませんでしたが、グループを有効に利用することも考えるとよいでしょう。 子どもたちに基礎的な力をつけることはかなりできていると思います。子どもたちをより伸ばすためには、課題の工夫が必要になってきます。より深い教材研究が必要になります。ここからの道のりは長いものになると思います。今までのように目に見えて授業がよくなっていくというわけにはいかないでしょう。子どもたちを大切にして、日々精進をしてほしいと思います。 成長を長い目で見守っていきたいと思っています。 この続きは明日の日記で。 授業者の思いと子どもたちの活動のずれを感じた授業
前回の日記の続きです。
8年生の社会科の授業は今年異動してきた若手の先生でした。昨年までいた市の小学校で、何度か私が授業アドバイスをした方です。この日の授業は鎖国の学習です。 鎖国を貿易面から考えるために、朱印状の資料をディスプレイに映します。子どもたちの手元に同じ資料があるので子どもたちの顔が上がりません。意識的にディスプレイを見るように指示したいところです。子どもたちは、小学校で朱印状の資料を見たことがないようです。これが朱印状であることを説明して、どんな時に使ったかを考えさせます。 子どもの発言を「なるほどなるほど」と笑顔でしっかり受け止めることができます。子どもの発言を復唱して、余分な説明は加えません。「どこかへ行けという命令」「詐欺を防ぐために使う」という2人の意見が出ました。授業者は「2人の意見と似ているよという人?」「こうじゃないかと思う人?」と子どもたちをつなぎます。この間優しい笑顔は崩しません。子どもの手が挙がります。「勘合貿易の進化版」という意見です。3人の意見があるものに共通していると子どもたちに返すと、「貿易」というつぶやきが聞こえます。他の子どもになんと言ったかを確認します。続けてもう一人としっかりと子どもたちに聞くことを求めています。ここで、朱印状の説明をしました。 朱印状についての知識だけを問うのであれば、子どもたちとのやり取りはムダな時間です。知らなければ答えられないからです。しかし、子どもたちが資料から読み取るのであれば、意味のある時間です。実は、最初に答えた子どもは地名らしきものが書いてあったからどこかへ行けという命令だと思ったのです。次の子どもは朱印があるから証明書のような物だと思ったのでしょう。3人目の子どもは過去の知識からの類推です。どうしてそう思ったのかを問い返してあげれば、資料の読み取りにつながったのですが、ちょっと残念です。朱印状に何が書いてあるかは教えて、そこから考えさせても面白かったでしょう。とはいえ、子どもたちに発言させ、つなごうという意識が強く感じられます。子どもたちは落ち着いて授業に取り組んでいました。 ディスプレイにまとめが映し出されると子どもたちはすぐに写しだします。子どもたちは写すことに集中して授業者の方に顔を上げようとしません。授業者は説明が終わると書き終るまで待ちます。少しの間のことですから、顔を上げてほしいところでした。 子どもたちが書き終るのを待って、朱印状の中に行き先が書いてあることを告げ、どこへ行くのかを問いかけます。子どもたちから「とうきょう」というつぶやきが聞こえてきます。それを拾って、「とうきょうでいいと思う人?」と挙手を求めます。8割ぐらいの子どもの手が挙がります。そこで授業者は「根拠を教えてください?」とどこに書いてあるかをたずねます。挙手をしてくれた子どもを指名して、ディスプレイを指でささせます。「確かに東京と書いてあります。大正解といいたいところだけれど、実は東京じゃないんです」と授業者が言うと子どもたちから「えー」という声が上がってきます。上手く疑問を持たせます。ワークシートの地図に行き先があるので探すように指示します。ここで授業者はヒントを出します。「北京」「南京」と板書してどう読むかを確認して、「相談してもいいよ」と子どもたちに探させます。 静かに一人で探している子どももいれば、まわりと相談して見つけている子どももいます。「見つけた人?」と挙手させますが、4、5人です。隣の人と確認させますが、まだ見つかっていないのですから数は増えません。再び挙手させて指名した子どもが「トンキン」と発表します。見つからなかった子どもは「トンキン」を見つけられなかったのか、「トンキン」という名前の都市を探そうとしなかったのかが気になります。「東京」が「トンキン」であることを共有した後、地図でその位置をそれぞれで確認させたいところでした。授業者はディスプレイ上で確認し、見つからなかった子どもには自分のワークシートに印をつけておくように指示をしました。ディスプレイの表示は子どもたちの手元にあるワークシートと同じものです。わかりやすい反面、単に結果の確認となりやすいことが気になります。一つ間違えると、ワークシートが自分の考えを整理するものではなく、答を整理する物になってしまいます。 続いて「トンキン」が現在のどこになるのかを問いかけます。ワークシートの地図は白黒なので「カラーで見たい人は」と資料集のどこにあるのかを教え、カラーの地図は国境線が見やすいことを伝えます。この場面では時間の短縮のために教えたのだと思いますが、何を探せばいいのかを自分たちで考えることも意識しなければいけません。子どもたちは授業者の指示に素早く対応します。全員が真剣に地図を見ています。つぶやきも聞こえてきます。しかし、子どもたちに発表させようとすると、挙手は数人です。1人指名して「ベトナム」と答えると、すぐにそうだと説明に入ります。少なくとも他の子どもに確認したいところでした。 子どもたちがこれだけ活動しているのに発言意欲が少ないことが気になります。授業者は中高一貫なので小学生も教えていますが、共通して発言意欲が低いことに悩んでいます。子どもたちの発言意欲を高めることは、この学校で取り組むべき重要課題に思えます。 朱印船貿易が行われていた地域が地理的にどのようなところかを答えさせます。「仏教」というつぶやきが聞こえてきます。授業者は「あっ仏教」と受けて「確かにあるんだけれど、地域の名前で言うと?」と返します。子どものつぶやきを活かそうとしています。「東南アジア」と小さな声で言う子どもに対して、「みんなに聞けるように大きな声で言ったって」とつぶやきを公的な発言に変えさせます。よい対応だと思います。ただ、ここで子どもたちにそれでよいのかを確認させたいところでした。授業者が問いかけて、授業者が正解を判断すると、どうしても授業者の求める答探しになってしまいます。このことに注意が必要です。 日本の商人が東南アジアに進出していたことを説明するのですが、子どもたちはディスプレイに映されたワークシートに入る言葉を一生懸命写していました。 日本人が現地で作った町の名前、貿易の品目を教科書のページまで指定して、調べて書くように指示をします。これは、ただの作業です。あまり時間をかけたいところではありません。社会科としては、その事実から何がわかるのかを考えさせることに時間を使いたいところです。 ここでも挙手で確認を進めていきますが、半分ほどしか手が挙がりません。一問一答で確認しますが、子ども同士で素早く確認して次に進めばよいと思います。 ここで大名に朱印状を渡して、彼らが貿易をしていたことがさり気なく言われます。それまでは商人といっていました。微妙にずれています。朱印状を説明した時に、きちんと整理しておくことが必要でした。 ここまでに、授業時間の1/3ほどを使っていますが、ほとんどが知識とその確認です。結果としてワークシートの穴埋めをしているだけです。子どもたちが資料を読み取ったり、それをもとに考えたりする場面がありません。 ここでは、「なぜ大名が朱印船貿易を行っていたのか?」「この品物が取引されていた理由は?」といったことを考えさせることが次の鎖国を考えるための布石になりますが、こういった場面がなかったのが残念です。 鎖国の時にどこで貿易したかを確認します。いつも同じような子どもの手が挙がるだけで、他の子どもは下を向いてじっとしています。教科書やノートを開くこともしません。こういった知識を挙手指名で確認していくのは、あまり意味はありません。正解もはっきりしているので、自信のない子どもは手を挙げようとはしないからです。こういう場面で子どもたちに参加を求めないと、多くの子どもたちはこのような場面は自分には関係ないと思ってしまいます。答が書かれた時に写すことがこの子どもたちにとっての学習になってしまうのです。 どこの国と貿易したのかを問いかけますが、相変わらずの状況です。船の国旗を見るとわかるとヒントを出し、しばらく考えさせて挙手で進みます。一問一答の後、ディスプレイにまとめが映し出されると、やはり説明はそっちのけで写すことに専念してしまいました。 こうして鎖国の基本的な知識をまとめた後、「江戸幕府がどうして朱印船貿易から鎖国へと政策を変えたのか」というこの日の課題を提示します。授業者はここでも教科書や資料集の参考にするところをページで指定します。グループで作業をしますが、これでは理由を考えるのではなく、教科書や資料集をまとめる作業になってしまいます。先生の質問に子どもたちが教科書や資料で答を探すという図式とあまり変わりません。 他の3人が作業をしているのに、隣のグループにちょっかいをかけている子どもがいます。ちょっと気になる場面でした。子ども同士の人間関係が気になる場面です。 授業者はかかわっていない子どもに対してかかわりを促すことをしていますが、グループで考えをまとめるため、ペンを持っている子どもが仕切る傾向が強く、ただ見ているだけの子どもも目につきました。 子どもたちにグループごとに発表させますが、教科書の抜き書きになっているだけです。自分たちで考えたものがありません。授業者はグループ間に共通するものがキリスト教と指摘しますが、キーかもしれないと結論とはしません。ここで時間となっていたので、次時でもう少し深く考えさせたかったのでしょう。 せっかく朱印船貿易を扱ったのに、これとの比較で考えている子どもたちはいませんでした。朱印船貿易を活かして子どもたちに考えさせるのであれば、鎖国前と後の貿易を比較させることから考えさせても面白かったと思います。 貿易は利益を生み出すことを押さえた上で、日本側の主体はだれだったのか、どの国と取引したのか、どこで行ったのか、何を扱ったのかといったことを比較するのです。 「大名が貿易によって力をつけないため」「外国との貿易や文化の流入を幕府がコントロールしようとした」「キリスト教の布教に執着していないオランダと中国に制限したことから、キリスト教を排除した」といったことが子どもたちから出てくると思います。ある政策の前後の状況を比べることで、そのねらいが見えてきます。こういった視点を身につけさせることも大切だと思いました。 授業者は、子どもたちを活動させようという意識がとても高いと思いました。しかし、ワークシートの穴埋めの答を問いかけ、それを示すといった授業の流れが、子どもたちの積極的な発言を妨げています。教科書や資料集から答探しをするような課題が子どもたちを思考から遠ざけています。ワークシートの使い方や課題を工夫してほしいと思います。 2日間授業を見せていただいて、この学校の課題が見えてきたように思います。学校としてこの課題を共有して、どのように改善していくかを考えることが大切です。 小規模な学校なので、先生方が互いの授業を見合いながら一緒に考えることが大切だと思います。 次回の訪問時に、先生方の意識にどのような変化が起きているのか楽しみです。 教科書の流れを変える前に、その考えを理解をしてほしい
昨日の日記の続きです。
9年生の数学は若手の平方根の学習でした。 チャイムと同時に教室に入ってきた子どもがいました。授業者は「チャイムなっていますよ」と声をかけます。悪い対応とは言えないのですが、叱責ととらえることもできます。「間に合ってよかった」とポジティブな声かけをしたいところでした。 前時の復習をタブレットと電子黒板を使って行います。平方根の定義を授業者が自らしゃべります。この時間では平方根の値の大小を考えますが、そこで大切になるのが定義です。ここを子どもたちにきちんと押さえておかなければいけません。子どもたちは、授業者の説明をあまり集中して聞いていませんでした。 平方根は何個あったか続けて聞きます。ちょっと雑な表現です。「ある数の」平方根というべきでしょう。「2つ」というつぶやきを拾って、「すぐに正の方と負の方の2つあったよ」と授業者が引き取ります。正と負を授業者が足しました。中学校ではあまり強調しませんが、正の数の平方根は2つで、0ならば1つです。教科書も条件はきちんと書いてあります。中学校の試験で問われることはあまりないのかもしれませんが、ある程度ていねいに押さえておかないと、高等学校で同じことを再度学習する時に、中学校で学習したからと聞き流してしまいつまずく原因となってしまいます。 また、新しい記号として±を確認し、±を使って書くことができると説明しますが、「絶対値」が同じというところは押さえません。 問題の答を重視して、数学的なものの見方・考え方、論理性はあまり大切にしていないという印象を受けました。 電子黒板をフラッシュカードとして活用します。一人の子どもを指名してから授業者が「19の平方根は?」と問題を読み上げます。その子どもが考えている間に他の人も頭の中で考えるように指示します。先に指名してしまったので、他の子どもが考えていないことに気づいたようです。子どもが「プラスマイナスルート19」答えた後、口頭でルートの解説をします。続いて次のカードを表示して「9の平方根は?」と問いかけます。授業者は指名した子どもばかりを見て、他の子どもは見ていません。子どもの「プラスマイナス3」という答を再度口頭で確認して、「0.64?」と次の問を順番に示します。指名された子どもが答に困っている時、まわりの子どもが助けます。その時、最初に指名された子どもはもう当たらないと下を向いて手遊びをしていました。緊張と集中のないフラッシュカードの使い方です。 ルートの説明をするのではあれば、例題をていねいに全体で確認して行うべきです。それからフラッシュカードで練習をすればいいのです。授業者が問題を読み上げる必要もありません。カードに集中させて、全員、個人を上手く組み合わせ、テンポよく行うことが大切です。答えられない子どもがいたら、全員で答えさせてすぐにもう一度言わせたり、「後で当てるよ」と次の子どもを指名して答えられるまで、何度か指名したりして、集中を切らさないようにするのです。フラッシュカードの特性を活かすことをしてほしいと思います。 タブレットの操作に慣れていないのか、タブレットを見ながらしゃべるシーンが目立ちます。素早く操作してできるだけ子どもの様子を見るようにすることが必要です。 この日のめあては「平方根の大小を、不等号を使って表わす練習をします」と提示します。「表わす練習」という言葉に、授業が問題の答探し、答の見つけ方の手順となる予感がします。大切なのは、平方根の絶対値の大小が√の中の数の比較でできることの根拠です。ここを押さえた上での、解き方の学習です。 授業者は、まずワークシートを配ります。配られるとすぐに名前を書く子どもがいる反面、ワークシートを読んでいる子ども、ぼーっとして指示を待っている子どもも目立ちます。授業者が名前を書くように指示していますが、もう9年生(中学3年生)です。指示されなくてもすぐに動けるようにしたいところです。こういった動きの悪さ、緩さが目立つのもこの学校の特徴です。 ワークシートに書かれている課題の説明を授業者が読み上げます。授業者も子どももワークシートから視線が離れません。こういう場面こそ、電子黒板とタブレットの出番です。ワークシートを配る前に大きく映して、顔を上げて説明をします。子どもたちをよく観察して、理解できていることを確認してから配って、すぐに作業に移らせるのです。 課題は何組かの数の大小を、不等号を使って表わすというものです。その理由も書くようになっていますが、その話型が問題です。「……すれば、大きさが比べることができる」となっているのです。予想通り手順になっています。これを理由としてしまうと数学になりません。 机間指導しながら、いろいろしゃべります。「問題が難易度の順になっている」といった意味のない情報を与えます。空中を見ながら歩いている姿も気になります。子どもたちの何を見るために机間指導しているのかが明確でないのです。誰がつまずいているのか、どこで困っているのかを、全体を見ることと個別に様子を見に行くことを上手く使い分けながら知るようにしてほしいと思います。 「全然わからなーい」といって後ろの子どものワークシートをのぞき込む子どもがいます。それに合わせるかのように、いくつかの場所で子ども同士がかかわりだします。その時授業者は、一番前の端の子どもを個別に指導をしていました。教室全体が死角になっています。子どもたちのこのかかわりに気づいていたのでしょうか?ひょっとすると、先生が死角になっているので、動いたのかもしれません(考えすぎ?)。 とりあえずできた子どもは、手持ち無沙汰です。次の指示がないことが問題です。こういった子どもを遊ばせることは教室の雰囲気を緩めてしまいます。 作業を止めて、次の班での活動を指示します。どうにも子どもたちの顔が上がりません。次の活動への意欲が感じられないのです。班で意見を一つにまとめるように指示しますが、これも問題です。できなかった子どものグループでの存在意義が弱いのです。一つ間違えればわかった子どもの意見が書かれるのを見ているだけになります。「わからなかった子どもは、説明を聞いてもう一度考えてみて」「納得しないのに、引き下がっちゃだめだよ」「説明を聞いて、自分でもう一度解いて、理由をまとめて」といった活動を求めることが大切です。 代表が前にホワイトボードを受け取りに行っている間に、あるグループの男子が3人で勝手に相談を始めていました。これをよいこととらえるのか、よくないことをとらえるのかは難しいところです。このグループの人間関係が気になります。代表の女子はグループに戻った後、自分のワークシートに書き始めます。他の3人はそのまま話し続けました。その子どもの机が他の3人と比べて少し離れているのも気になります。しばらくすると顔を上げて3人の会話を聞き始めました。その場面に授業者が通りかかりましたが、何もせずに隣のグループに行き、そこで一人の子どもに説明を始めました。他の3人はそれを無視して話しています。グループでは、子ども同士のかかわりをまず大切にする必要があります。グループにうまくかかわれない子どもや困っている子どもを他の子どもとつなぐことを常に意識してほしいと思いました。 グループごとに問題を割り当てて発表させます。 「√の中の数を見たらわかる」という言葉が出てきます。それを受けて授業者は「ルートの中の数字?を見て決めました」とそのままスルーします。「a>0,b>0の時、a>b ⇔ a2>b2」はそれほど自明なことではありません。因数分解もまだの子どもたちに、きちんとした証明をさせることは困難です。このことと平方根の定義をきちんと押さえなければ、論理的に説明ができません。この授業で一番大切なところがここなのです。教科書は、正方形の面積を使って、何とか説明をしています。教科書の著者の工夫と苦労がよくわかります。しかし、授業者はここを無視してしまいます。また、数と数字が混乱していることも気になりました。 子どもたちは、有理数を√を使って表わして、ルートの中の数を比較すると説明します。それを受けて、授業者が細かく説明します。子どもたちが発表する意味がありません。どうしても、自分で説明しないと気が済まないようです。そのせいか、子どもたちは誰も発表者の方を見ません。先生が必ず説明するから、聞く必要がないのです。授業者が説明する代わりに他の子どもに説明させたいところでした。 負の数の大小を間違えていたグループがありました。説明する子どもが「逆で」と修正します。授業者はそれを受けて、すぐに書き直します。もったいない場面です。「何が逆なの?」「それってどういうこと?」と問い返し、「どういうことかわかった?」と他の子どもにつなぐことで、とてもよい復習ができたと思います。 √6の大きさを考えるのに、2乗して大体6になる数を考えると発表します。授業者は、「先生よくわからん」と上手くぼけました。子どもたちが反応して、つぶやきが出てきます。面白い場面です。子どもたちのつぶやきを拾ってつなげればよいのですが、授業者がしゃべり続けます。そのため、子どものつぶやきは消えてしまい、授業者と一部の子どもだけで進んでいってしまいました。 子どもから負の数の大小と2乗の関係が混乱して質問が出ます。質問を授業者が受けて、子どもに説明しようとします。ここは、その質問がどういうことか、他の子どもたちに理解させたいところですが、どうしても授業者は、全部自分が受けて説明しなければいけないと考えているようです。2乗しての比較は正の数同士でなければ、大小関係は維持されませんが、そのことを最初に押さえていないので混乱し始めたのです。 √7の√を外すのに2乗しなければいけないと説明します。あまりに乱暴です。勝手に2乗してよいわけがありません。論理ではなく感覚になってしまいます。結局、最後は授業者が平方根を含んだ数の大小を見つける手順をまとめて板書し、子どもたちが写して練習問題に移りました。根拠のない答の見つけ方の手順を教える授業になってしまいました。 数学として何が大切かをしっかりと押さえ、それを子どもたち自身が論理的に理解し修得するために、どのように授業を構成すればよいかを考えてほしいと思います。教科書の流れを変えるのであれば、まずは、なぜその流れになっているのかをきちんと理解してほしいと思いました。 授業者にはこのことを伝えたつもりですが、理解していただけたでしょうか?次回の訪問時に。どのような変化がみられるのか楽しみです。 この続きは次回の日記で。 子どもたち一人ひとりを大切にすることと先生のかかわり方
昨日の日記の続きです。
8年生の国語の授業は学級を2つに分けての少人数の同時展開でした。授業者の一方は若手、もう一方はベテランの方でした。 説明文を事実と考察に分けて捉える場面で、同じ指導案によるものでした。 本文には2つの事例が挙げられています。子どもたちを2つに分けて、どちらの事例を担当するかを決めます。同じ担当同士で4人か5人のグループをつくって、相談しながら各自のワークシートにまとめます。続いてグループを解体し、それぞれの担当が半分ずつのグループに再編して聞き合い、他の担当の部分を自分のワークシートにまとめるという流れです。 若手の授業では、数人の挙手で授業が進んでいきました。子どもの発言を受けてすぐに自分で説明します。 ワークシートについて、あらかじめ板書したことを使って説明しますが、どうしても黒板を見てしゃべることが増えてしまいます。もちろん子どもたちの方を向きはするのですが、首があまり動きません。死角が大きく、子どもたちと目が合うことが少ないことが気になりました。授業者の一方的な説明が続くので、次第に子どもたちの身体が揺れてきます。集中が切れ始めているのです。段落が「事実」と「考察」に分かれていることの説明の途中で、「考察」という言葉がよく使われる教科があると問いかけます。数人が「理科」と反応しますが、それを他の子どもに確認したり、理科ではどういうことなのかと聞いたりはしません。すぐに、自分で説明します。子どもたちが考えたり、何か活動したりする場面が作業に移るまでほとんどありませんでした。 グループにする前に、個人でワークシートを埋めていきます。作業が始まってすぐに、子どもから質問が出てきます。この質問に対して教室の前で全員に説明します。しかし、子どもたちはほとんど顔を上げませんでした。 机間指導をするのですが、明確な意図を持って動いているようには見えません。ただ何となく机間指導をするのであれば、誰の手が動いている、動いていないといったことを全員の手元が見える位置からしっかりと見て、子どもたちの集中度を見たり、支援の必要な子どもを見つけたりすることに専念してほしいと思いました。 ベテランの授業では、個人作業もグループで行いました。グループごとに担当の確認をし、ワークシートの説明を再度します。他のグループはすぐに動かずしばらく待っていましたが、とりあえず作業を始めました。しかし、授業者がしゃべりながら各グループのところへ来るので、あまり集中できません。どうしてもざわざわします。授業者が一通り回り終わって、やっと落ち着きました。 子どもたち一人ひとりの状況がとても気になるのでしょう。授業者は子どもたちに個別に声をかけアドバイスします。子どもたち一人ひとりを大切にしたいという気持ちがよく伝わる対応です。しかし、授業者が個別に対応することで子ども同士のかかわりを断つことになってしまいます。せっかくグループで活動しているのですから、困っている子どもを見つけたら、他の子どもにつなぐようにすることを意識してほしいと思います。いちいち先生が教えなくても、子ども同士で聞きあえる関係をつくることが大切なのです。 子どもたちが作業している時に、つい補足の説明をします。しかし、子どもたちは自分の作業の方を優先しています。中には授業者の話は聞かずに隣と相談している子どももいます。どうしても伝えなければいけないことであれば、いったん作業を止めてから話すようにしなければいけません。また、作業中であれば顔を上げて話を聞かなくてもよいと子どもたちに教えていることにもなります。板書を写していれば顔を上げて先生の話を聞かなくてもよいと思うような子どもになってしまいます。 若手の授業のグループでの意見交換の場面では、子どもたちがグループ隊形になる時の動きが気になりました。とても重たいのです。話し合うことが楽しくないように見えます。 グループになっても個人作業を続けている子どもが目立ちます。単に友だちのワークシートを写している子どももいます。授業者は、あるグループに対して、回し読みではなく、みんなで声を出して読むように指示をします。が、いずれにしても結果を共有するだけです。事実として何が書いてあるか、いくつあったかといったことを出し合って、本文のどこに書いてあるかを確認し合うといった、方法を教えることが必要のようです。 グループの活動中に個人と話をします。他の子どもは全く無関心です。この学校では、子ども同士の関係を断つ方向に動く先生が目立ちます。 5人のグループでは、子どもが3:2に分かれていたり、お誕生日席の子どもが孤立していたりする姿が目立ちます。やはり、5人というのは全員でかかわり合うのが難しいようです。 教科書を使って説明している子どもは見当たりません。根拠をきちんと示すことをしていないのです。 授業者は、途中でそれぞれに事実がいくつあったかを提示します。これでは、子どもは答探しを始めてしまいます。子どもに疑問を持たせて考えるように仕向けることが大切です。数にこだわるのであれば、途中でいくつかあったかだけを中間発表させて、その上でもう一度グループに戻すといった方法があります。数が分かれれば、どれが正しいだろうかと疑問に思い、考えようとするはずです。 新しいグループでそれぞれの担当したところを伝え合います。一生懸命に伝えようと顔を上げて話をしている子どもがいますが、自分の答を説得しようとテンションが高くなっていることが気になります。中にはその圧力から逃れようとするため体を引いてしまう子どももいます。一方自分のワークシートを見て読んでいる子どももいます。こういう場面で、どういうことを意識するといいのかが、きちんと子どもたちに伝わっていませんでした。 ここで授業者が、友だちの話を聞いてまとめるためのワークシートを渡し忘れていたことに気づいて、あわてて配りました。先ほどまで顔を上げて聞いていた子どもの顔が一気に下を向いてしまいます。悩ましいところです。まず、話を聞いてからワークシートにまとめさせるといった方法もあるでしょう。必要に応じてメモを取ってもよいのですが、基本は相手を見て話を聞くようにします。まとめる時に聞き洩らしたこと、よくわからなかったことをたずねることにすれば、子どもたちのかかわりが生まれやすくなると思います。 ベテランの授業では、説明文を読む時に事実とそれをもとに考えたことに分けて読むとわかりやいことを最後にまとめます。この時、子どもたちの顔があまり上がらないことが気になりました。中には片づけ始めている子どももいます。まとめは授業者ではなく、子どもたちに言わせたいところでした。 説明文の授業としては、全体の構成から事実と考察の位置づけを考えさせるとよかったと思います。「筆者が言いたいことは、どこだろう?」「そのことを相手に納得させるために何を書いているのだろう?」といったことを整理しながら、説明文を読むための力をつけるのです。この文章を理解することを通じてどのような力をつけたいのかを意識して授業を組み立ててほしいと思います。 子どもたち一人ひとりを大事にしたいという思いを先生方から感じます。特にベテランの方の机間指導の様子は、その思いがあふれるものでした。だからこそ、先生が個人の子どもにかかわりすぎると、その子どもとまわりの子どもの関係を断ってしまうことに気づくことが必要です。お二人は私との話の中で、そのことに納得してくださったようです。子どもたちが、互いにかかわりながら学べることを意識することをお願いしました。 次回の訪問時に、どのような変化を見せていただけるか楽しみです。 この続きは明日の日記で。 子どもたちに疑問を持たせることで考えさせたい
昨日の日記の続きです。
9年生の理科の授業は若手による中和の実験でした。 復習で酸とアルカリの確認を行います。「酸とは何か?」と問いかけ、挙手させますが、数人しか手が挙がりません。しかし、授業者はすぐに指名して進めます。他の子どもたちは動こうとしません。教科書やノートを見て確認しないということは、わかっているけれど発表したくないのでしょうか。それとも、じっとしていれば先生が答を教えてくれると思っているのでしょうか。とても気になります。ノートを確認させたり、まわりと確認させたりすることが必要です。 指名した子どもは「水素イオンを含む」と答えますが、授業者は「電離した時に水の中に水素イオンを含む」と言葉を足します。結局先生が説明をしています。子どもたちに思い出させたければ、他の子どもに確認したり、付け足させたりすることが必要です。 続いてアルカリについても質問します。今度は少し挙手が増えました。何を答えればいいのかわかったのでしょう。指名された子どもは、「電離した時に水酸化物“ナトリウム”ができる」と答えます。授業者は「水酸化物ナトリウム?」と軽く聞き返しました。よい対応ですが、本人には何を言われたかわかりませんでした。まわりの子どもが間違えて言ったことを教えてくれて、「今私なんて言った?」と気づきました。最後に自分で「水酸化物イオン」と修正することができました。しかし、この時一部の子どもだけが参加していて、多くの子どもは下を向いたり、よそ見をしたりしていて他人事でした。こういう場面で全員参加をどう促すかが、この授業というよりこの学校の課題です。 この日の課題が「酸とアルカリを混ぜるとどういう変化が起こるか」であることを告げますが、授業者が提示しただけです。子どもたちはそのことを知りたいと思っていません。疑問を持たせることをするような導入をしたいものです。「酸には水素イオンが“たくさん”あるね。アルカリには水酸化物イオンが“たくさん”あるね。混ぜるとどちらも“たくさん”あるけど、酸なの?アルカリなの?」と揺さぶるような発問をしたいところでした。 塩酸と水酸化ナトリウムの電離式を確認しますが、ここでも一問一答です。挙手はそれほど多くはありません。発言を受けて授業者がする板書を写すことが中心です。酸とかアルカリでは電離をきちんと押さえておくことが中和を理解するのにつながります。ポイントは電離しやすいかどうかです。水は水素イオンと水酸化物イオンにわずかしか電離しないことが中和を理解する鍵となりますが、ここは押さえていないのです。 ワークシートを配って、この日のめあてを書かせますが、かなり時間がかかります。中学生ですから、もっと早く書くように指導したいところです。集中があまり感じられないことが気になります。 塩酸に水酸化ナトリウムを混ぜるとどうなるかを予想させます。どんなことを書けばいいのかよくわかりません。予想のための根拠はイオンのモデルを使うしかないのですが、ここでは使いません。個人で考えた後にグループで相談させますが、根拠がはっきりしません。理由も言えればと授業者は途中で指示をしますが、「水素イオンと水酸イオンが出会うと水となり、水はほとんど電離しない」ということを子どもたちは意識できていませんでした。 グループで話していたので、挙手に頼らずに指名します。最初に指名した子どもは「酸性」と答えました。「もともと塩酸が入っているけど」「そこに水酸化ナトリウムを入れても」と授業者が揺さぶりますが、その子どもは「酸性」と力強く答えます。これは、とても面白い意見です。この意見を活かしたいところです。ここで、一部の子どもがざわめきます。この子どもたちは、中性になると単純に知識として知っている子どもだと思います。この子どもたちを指名して、考えを言わせたいところです。水酸化ナトリウムの量によって、酸性、中性、アルカリ性と、どうとでもなります。量の意識を持たせることが大切です。きちんと押さえないと中和と中性が混乱してしまいます。意識させるよい機会でしたが、活かすことはできませんでした。 中性という意見の後に、混ぜると「消える」という意見が出ました。これもよい意見です。「何が消える?」と問い返すことで、水素イオンと水酸化物イオンが消えるということを引き出すことができそうです。しかし、授業者は受容しますが、問い返すことはしませんでした。ちょっともったいない場面でした。 理由を問いかけると、イオンの電離式で水素イオンと水酸化物イオンの数が同じで、プラスマイナスで消えると説明します。ここも、「ナトリウムイオンと水酸化物イオンもプラスマイナスで消えてもいいじゃない」とつっこむと電離度の違いがクローズアップされるところでしたが、授業者はそのまま流しました。 塩酸と水酸化ナトリウムの電離式を一つずつ書いているので、うまく相殺されて中性になるイメージなってしまいます。量の意識ができません。水溶液中にイオンがたくさんあるモデル図で考えさせるべきだったように思います。 ここで、実験で確かめるとのですが、「中性という意見が多かったですが、うまく中性に“できる”でしょうか?」と議論がすり替わっていました。“なる”と“できる”は違います。話がおかしくなってきました。 実験の手順は、最初から中性にできることが前提のものです。 一定量入れた後、 ・BTB溶液の色が黄色だったら一滴ずつ水酸化ナトリウム水溶液を加えて、緑色にする。 ・青色の場合塩酸を一滴ずつ加えて緑色にする。 ・緑色の場合、おめでとう となっています。 やる前から結論がわかっています。 しかも、中性だったらスライドガラスに一滴とって、後で塩化ナトリウムを観察するようになっています。中性でなくても塩化ナトリウムはできています。子どもに疑問を持たせるべきところがすべて、決定事項として指示されています。 授業者が、あらかじめ簡単な実験をしてみるとよいでしょう。まず少しだけ水酸化ナトリウム溶液を入れて、「酸性のままだよ。酸性になったね」と子どもに問いかけ「少なすぎる」という言葉を引き出します。じゃあと言って大量に入れて「アルカリ性になった。アルカリ性にもなるんだ」と揺さぶり、子どもから「ピッタリ」「ちょうどよい」といった言葉を引き出します。そこで、「ピッタリってどういうこと」と問いかけ、「中性になる」とつないで、「ピッタリを見つけてみよう」として実験に取り組ませても面白かったと思います。 実験の手順はワークシートに書かれていますが、具体的な指示はすべて口頭です。駒込ピペットの使い方も実物を見せながら説明したのですが、ピペットの下を触っている子どもがいました。塩酸や水酸化ナトリウムが手に着く危険性があります。ポイントの押さえが甘かったようです。 実験の手順は先生がビデオに撮っておくとわかりやすくなります。実際に使う器具で、大きく映し出せ、ポイントは止めて何度も繰り返すことができます。こういった提示の仕方も考えるとよいでしょう。 手順がBTB溶液の色で書かれているので、子どもは「緑色になっている」と話しています。それが中性を意味していることが意識されていませんでした。 中性になる説明をモデル図で考えさせますが、途中の様子は考えさせません。ワークシートの塩酸と水酸化ナトリウム溶液のモデルには、水の分子がありません。また、塩酸と水酸化ナトリウムは2分子分ずつで同数です。同数であれば中性になるところが子どもたちに考えさせなければいけないところなのですが、そこが飛ばされていました。理科として子どもたちに考えさせるべきところが、抜け落ちています。 また、グループで考えをまとめるように言いますが、無理にまとめる必要はありません。面白い意見が潰されないようにしたいものです。 子どもたちの説明の図には水の分子が書かれているものと書かれていないものがあります。この違いも押さえたいところでした。 子どもたちの説明は、水素イオンと水酸化物イオンがくっついて水になるというのは共通ですが、ナトリウムイオンと水酸化物イオンがくっついて塩化ナトリウムになったというものと食塩水になったというものがあります。同じようで微妙に違います。ここも押さえるべきでしょう。大切なことは、ナトリウムイオンと塩素イオンは電離したままだということです。その違いを意識させることができるよい機会だったのです。ナトリウムイオンと塩素イオン、水素イオンと水酸化物イオンはそれぞれ同じように存在しているのですが、水素イオンと水酸化物イオンがぶつかると水になって電離しにくくなるので、結果として水とナトリウムイオン、塩素イオンが残るのです。 結局子どもたちが疑問を持つべきところ、理解すべきところを焦点化せずに表面的な知識の確認で終わってしまいました。 最後のまとめで、「酸とアルカリが互いの性質を打ち消し合うことを中和」とまとめて終わりました。ここで言っている「性質」とは何かがよくわかりません。酸の性質、アルカリの性質とはどういうことか、それが何に起因するものかが押さえられていないので、単に言葉の知識で終わってしまいました。 水素イオンや水酸化物イオンがあることで酸やアルカリの性質が現れていること、それが減ってしまう(無くなる)ことで性質が打ち消し合うことで説明したいところでした。 授業者は私の伝えたいことをよく理解してくれたように思いました。この学校は小規模のための同じ授業をもう一度できないのが残念ですが、子どもたちに疑問を持たせ、そこから子どもたちに考えさせることを意識した授業を目指してくれることと思います。次回の訪問が楽しみです。 この続きは明日の日記で。 授業者の思いと工夫がたくさん見られた家庭科の授業
昨日の日記の続きです。
8年生の家庭科の授業は、ベテランの講師の先生の纏(まつ)り縫いの実習でした。 最初の挨拶では、子どもたちの顔がしっかり上がるまで待っています。着席後、子どもたちの机の上が少し雑然としているので、「整理しましょう」と優しく、はっきりと指示をしました。子どもたちはすぐに従います。よく指示が通ります。授業者と子どもたちの関係がよいことがわかります。 子どもたちが整理し終わるのを確認してから、この日の活動を説明します。準備した纏り縫いのサンプルを子どもたちに配り、自分たちの服に同じ縫い方をしているところがないかを探させます。この日学習する縫い方が、何の役に立つのか子ども自身で気づくことができます。 班で相談するのですが、子どもたちはあまり話し合いません。とりあえず自分で見つけることができているので、その必要性を感じていないのかもしれません。 子どもたちがあまり話せてはいませんが、班ごとに発表させました。前の班と同じが2回続きました。2回目に言った子どもは考えていないために苦し紛れに言った可能性があります。「同じでも、もう一度言って」と確認したいところでした。たとえ同じであっても自分の言葉で言わせることが大切です。 「スカートの下の部分」という意見が出ました。授業者はそれを「スカートの裾」と言い換えました。男子は直接触って確認はできませんが、「どう?使ってた?」と問いかけて子どもたちに確めさせたいところです。その上で、「ここは何て言ったっけ?」と本人から「裾」という言葉を引き出したいところでした。 子どもたちに、裾が落ちた時にどうするか問いかけます。「縫います」という答を「なるほど」とうなずいて受容します。続いて、みんなが着ている服の原料を確認しますが、授業者の期待した「石油」は出てきません。子どもたちには、多くの化学繊維の原料が「石油」であるという知識がなかったのです。ちょっと強引でしたが、石油であることを説明してから、修繕して着るということがエコにもつながるということを押さえました。今から実習することの意味を持たせようとしている場面でした。 ここで縫い方を教えるのかと思ったところ、配ったサンプルを見て縫い方の特徴を見つけさせます。縫い方のポイントを子ども自身で意識させるためです。よい活動だと思います。子どもたちはじっくり見ようとしますが、班に一つしかないので、一人が見ている間、他の子どもはすることがありません。本来は一つのサンプルを真ん中に置いて子どもが考えを聞き合うのが理想なのですが、この子どもたちはまだそこまでの関係ができていないようです。4人の班なのですが、男子同士、女子同士が2人ずつ並んでいることもかかわりが弱い原因かもしれません。男女市松模様に座らせる、時間で切ってサンプルを回すといったことが必要なようです。 子どもたちに考えを発表させますが、一人発表するとすぐに板書をします。そのせいでしょうか、子どもたちは友だちの話を聞きません。こういった場面で集中しないことが気になります。多くの子どもにとっては活動のない受け身の時間になっています。すぐに板書をせずに、「同じことを考えた人?」とつないだり、サンプルを見てそうなっているか確認させたりといったことが必要です。 「かがり縫い」と似ているという意見に対して、「どうして似ているの?」と問いかけますが、だれも反応しません。どうもこの学校の子どもたちは、発言することに消極的です。子どもたちに外化を求め、それをポジティブに評価することが必要です。子どもの発言をすぐに引き取って、説明したり板書したりするのではなく、他の子どもとつなぐことを考えてほしいと思います。 黒板に貼った、紙で作った大きな布の模型を使って縫い方を見せていきます。授業者が実演するためには、あまり高いところに貼れないので、子どもたちを黒板の前に集めます。なかなか前に出てこない子どもたちに、「もっと前へいらっしゃい」と声をかけます。 実演はとてもわかりやすいもので、工夫されていると思いました。子どもたちはよく集中していましたが、それでも全員にしっかりと見えていたかどうかはわかりません。実物投影機の利用を考えてもよいかもしれません。 利用者がていねいに説明しますが、「できますか?」という確認だけで席に戻します。要所要所のポイントを、具体物があるその場でもう一度子どもに言わせて確認したいところでした。 席に戻って、「纏り縫い、裾上げ最適、縫い目は1mm」とポイントを黒板に貼って読ませます。子どもたちの声が小さいので、大きな声で読むように指示します。今度はしっかりと読めました。求めればできる子どもたちです。授業者が子どもたちにどうあってほしいかを意識して求めることが大切です。 実習での諸注意のポイントがあらかじめ黒板に準備されていました。ただし、大切なポイントは空欄になっています。なかなかの工夫だと思います。まず、空欄のまま写させてから、一つひとつ説明します。 待ち針はどの向きに打つかを子どもたちに確認しました。声が小さいので耳に手をあてて声を大きくするように伝えます。それでも、口を開かない子どもがかなりいます。そのまま進みましたが、何人か続けて指名するか、まわりと相談させると言ったことも必要でしょう。 実習に入る前に、早く終わった場合の次の指示も忘れません。ポイントがよくわかっていると思います。 「わからない人は、班の人に聞いて」「前に来て(実演に使った模型を)見てもいい」と伝えますが、机間指導で困っている子どもがいると、つい説明したりして個別に対応してしまいます。ここは、他の子どもに聞くように働きかけたいところでした。 同じ班の子どもに教えてもらえる子どもがいる反面、他の班の子どもにかかわろうとする子どもも目立ちます。子ども同士の人間関係が微妙なのかもしれません。誰とでも話せるようにしたいところです。 子どもの様子を見ていると、いちいち針を抜いて縫っている子どもが目立ちます。これでは作業効率が上がりません。また、実際にやってみると思ったようにいかないこともよくあります。一度活動を始めると最後までそのまま続ける先生が多いのですが、途中で止めて修正することも必要です。 困っていることや上手くできないことを発表させて共有し、他の子どもにコツを言わせるといったことをするとよいでしょう。できない子どもができるようになる場面を意識することが大切です。 時間が来て、片付けを指示します。子どもたちは作業に集中しているので、なかなか顔が上がりません。決して悪いことではないのですが、いったん手を止めさせてから指示したいところでした。 作業が途中の子どもは、すぐに終わらずに続けています。切りのいいところまでやりたいのでしょう。その後の行動はスムーズでしたが、全員が片づけ終わるまでにかなりの時間がかかりました。作品を前の箱にしまう時の移動が遅いように感じました。早く行動しようという意識が子どもから感じられません。この授業というより、この学校の課題のように思います。 片付けが終わった後、最後まで縫えた人がいたか確認します。数人が挙手しました。素晴らしいと拍手をさせますが、手が動かない子どもがかなりいます。できた子どもだけが評価されるのではなく、誰もが評価されることを意識したいところです。 最後に、「新しい縫い方を覚えてちょっと楽しいかなと思った人?」と問いかけました。何人かの手が挙がりかけます。授業者は「あっすごい。しっかり挙げてみて」と声をかけ、最終的に1/3ほどが挙手しました。「ありがとう」と言って手を下ろさせた後、今度は「こりゃあ細かすぎて手に負えんと思った人?」と問いかけます。何人かの手が挙がります。「そうか、正直でよろしい」と優しく返しました。しかし、「正直でよろしい」というのはちょっと上から目線にも感じます。「そうだよね。ちょっと大変だったよね」と受容し、「正直でいいね」と共感的に返すとよかったかもしれません。 授業者は、自分がよく纏り縫いを使うことや、ぐちゃぐちゃになった生地が纏り縫いでまとまることの楽しさを伝えます。よい話なのですが、どうもごそごそと落ち着かない子どもが目立ちます。早く授業を終わりたいのかもしれません。 足を大きく前に突き出している女の子がいたので、授業者は笑顔で注意しました。こういう場面でも笑顔が出せることはとても素晴らしいと思いました。 とても安定した授業だったと思います。この方ならよい学級担任になると思いました。講師であることがとてももったいないと思う方でした。ぜひ他の先生もこの先生の授業を見て学んでほしいと思いました。 この続きは、明日の日記で。 教科で求められる力とその力をどうつけるかを意識する
前回の日記の続きです。
9年生の社会科の授業は、石油危機、バブル崩壊を経た、現在の日本の経済状況についての学習と、伊勢志摩サミットを話題にした活動でした。 授業者は表情よく子どもたちと接することができます。子どもたちともよい関係を築けていると思いました。 石油危機の時のトイレットペーパーの買い出しの写真を見せて、どんな場面かをたずねます。何人かの意見を聞きます。といっても正解は出てきません。トイレットペーパーの買い出し風景であること伝え、この出来事が何か知っている人と問いかけます。数人の手が挙がりますが、これは石油危機を知っていないと答えられません。指名した子どもが石油危機と答えた後、当時トイレットペーパーが無くなって困った話をします。話としては面白いので子どもたちは真剣に聞いていますが、この日の授業の内容には直接かかわりません。それよりも石油危機とトイレットペーパー不足の関係が子どもたちには腑に落ちていないのを何とかしたいところでした。 続いて本日のめあてが、石油危機とバブル経済についてとその後にご当地サミットを開くことだとを伝えます。 GDPの成長率の変化のグラフを使って、石油危機からバブル経済にいたる変化を考えさせます。以前にも使った資料ということでしたが、このグラフが何を示すものかの押さえがありません。授業者はタブレットとディスプレイを使って授業を進めますが、それらを交互に見て説明するので子どもたちの顔を見ることができません。まだ顔が上がっていない子どもの数がかなりあることに気づいていませんでした。グラフが右下がりであれば経済が悪くなったことを表わしていることを押さえます。これまでに説明したのかもしれませんが、経済が悪いとはどういうことか、それとGDPの成長率が下がることとの関係を子どもたちがしっかりと理解しているようには見えませんでした。 石油危機が何だったかを押さえずに、どうやって石油危機を乗り越えていったのかを調べさせます。子どもたちは、調べるというよりは教科書に書かれていることを写しています。教科書に線を引くかわりに、自分の手を動かしただけのように思えます。ペアで説明をし合うようにと指示しますが、子どもたちは互いに教科書から抜き出したことを読んでいるだけです。あまり有効な時間とは思えませんでした。 続いて授業者は、石油危機で経済成長が止まったことを説明します。子どもたちの活動は石油危機後の成長についてです。活動前に押さえることだと思います。子どもたちに「日本は何をしたのでしょうか?」と調べたことを発表させると、「輸出を増やした」「省エネ化」と答えていきます。輸出は増やしたいと言って増えるものではありません。輸出が増えれば経済がよくなることの理由もよくわかりません。省エネが経済によい影響を与えるというのはどう言うことなのでしょうか。ここを子どもたちに問いかけなければ学びは深まりません。授業者は、「省エネはどういうことか」と問い返します。「想像でいいですよ」と言葉を足しますが、子どもたちからは出てきません。結局授業者が省エネとはエネルギーを使うのを減らすことと説明します。子どもたちは授業者の問いかけをどのようなものととらえていたのでしょうか。単に省エネの言葉の意味を聞かれていたと理解していたのでしょうか。もしそうであれば、だれも答えなかったのはとても大きな問題です。全員がわからないということはあまり考えられないからです。子どもたちが発言することに対して非常に消極的だということです。また、「どういうことか」という問いかけを、「省エネ“化”するとは、社会がどのようになることなのか、経済が発展することにどうつながるのか」といった社会科的な視点での考えを求められたと思っていた可能性もあります。そうであれば、なかなか答えることができないのも当然です。子どもたちが調べていたのは単に答であり、それがどういうことだろうかと疑問を持ったり、どうしてこれで経済がよくなるのだろうと考えたりはしていなかったからです。 続いて「公共投資」が出てきます。授業者は「公共事業」という言葉を聞いたことがあるかを問いかけます。「投資」から「事業」に言葉が変わります。このつながりがよくわからないまま公共事業の説明に移ります。子どもたちに「聞いたことがある人」と問いかけますが、挙手は数人です。授業者はそのまま「公共事業はどういうことでしょうか?」と問いかけますが、当然数人しか手が挙がりません。その子どもを指名して進みます。一部の子どもだけで授業が進んでいきます。最後は授業者が説明をしますが、その間、自分で調べ続けている子どもがいました。こういう子どもを活かすことをしてほしいと思います。 子どもたちはこれまでの歴史の学習で、大恐慌の時の合衆国の政策で「公共投資」に関連したことを学習したことがあるはずです。経済状況が悪い時の公共投資の有効性がクローズアップされたのはこの時です。ここは意識的に過去の学習とつなげたいところでした。 続いて「企業の合理化」といった言葉が出てくるのですが、一問一答でそれを受けて、結局授業者が「生産性を高め利益を上げる」と説明していきます。この説明でわかれば、用語集を見れば社会科の学習は成立してしまいます。子どもが考える場面がありません。 最後はディスプレイにワークシートの解答を順番に表示しながらまとめていきます。子どもたちは、それ写しています。あらかじめ用意したものを映すということは、子どもたちが何を発言しても結論は変わらないということです。子どもたちは自分で一生懸命考える必要はないということになります。これでは意欲は高まりません。 「その後、1988年にある出来事が起こります」といって、ワークシートの穴埋めをさせます。子どもたちは事象として起きた結果を調べるだけです。1988年という年号がなぜ出てきたのかも疑問です。せっかくGDPの成長率のグラフがあったのですから、そのグラフに書かれている出来事は空欄にしておき、急激に変化している部分を指して「この年に一体何が起こったのか?」と問いかけたいところです。 バブルのころの給料袋が立ったといった話も織り交ぜるのですが、授業の本質とは関係ないところで時間を使っています。確かに惹きつけてはいるのですが、子どもたちが考えることにもう少し時間を割くべきでしょう。 授業の後半はサミットに題材をとって、環境問題を考えさせますが、授業の前半とつながりがありません。時間があまりない中での活動でしたので、ちょっと無理があったように思います。伊勢志摩サミットの参加国を子どもたちに問いかけますが、なかなか出てきません。手元の資料にはG7、G10、G20の国名と今回がG7であったことが書かれていますが、子どもたちは答えようとしません。他人事のような顔をしている子どもが目立ちます。発表することに消極的なことが気になります。 子どもたちにサミットに関して問いかけますが、知っている子どもと授業者だけで話が進んでいきます。知らない子どもが活躍できる場面がありません。「○○サミット」と題し、世界が抱える環境問題を考え対策を話し合うことが後半の課題ですが、子どもたちが話し合うための足場がありません。せめて世界が抱える環境問題を共有しておかないと、そこを調べるのに精一杯で、対策を考えることはできません。話し合いが浅いものなってしまいます。 森林問題を話しているグループで、「木を切らないわけにはいかない」というよい意見が出てきたのですが、取り上げられずに話が深まりません。木を切らないわけにはいかない現実に目が向かないのです。砂漠化を取り上げているグループでは砂漠化の原因がわからないので対策の話しようがありません。もっと考えるための資料やそれぞれの国の事情を考えるための情報が必要なのです。サミットと題するのですから、それぞれの国の立場があり、立場を超えようとしていることを意識させたいと思います。環境問題であれば、参加国、参加国以外の立場を意識した議論をさせたいところでした。 グループで話している時に、授業者が口をはさみますが、そうなると仲間ではなく授業者と話をしてしまいます。授業者が子どもたちの話し合いのじゃまになってしまうのです。話を黙って聞いているのはよいのですが、あまり口をはさまないようにすることが大切です。このことを意識してほしいと思います。 常に知識ばかりを問う授業になっていました。「資料から読み取ったことから疑問を持つ」「疑問を解決するために資料を調べる」「事実の間の因果関係を考える」といった社会的な活動がない授業です。社会で求められる力は何だろう、その力をつけるためにどのような課題や活動が必要になるのだろうかと自身に問いかけながら授業を考えてほしいと思います。 この続きは、明日の日記で。 子どもたちができていることを笑顔でほめる姿勢が大切
小中一貫校の中学校(7年生から9年生)で授業アドバイスを2日間行ってきました。小規模の学校で少人数授業も積極的に取り入れています。
7年生の音楽は少経験者の授業でした。前半はリコーダー、後半は合唱でした。 リコーダーを忘れてきた子どもがいました。最初の全体練習で何もすることがなくただボーとしているだけです。個別、ペアでの練習と続きますが、机間指導の時にその子どもがすることがないことに気づき、指だけでも動かすように指示しました。子どもはすぐに指示に従いましたが、リコーダーの練習中、何度か集中が切れて手が動かなくなりました。リコーダーなしで指使いをするのはそれほど楽なことではありません。授業者はその子どもが取り組んだ時に頑張っていることを評価するべきだったと思います。この場面に限らず、子どもの活動に対してポジティブな評価をすることはほとんどありませんでした。 ペアで見あってと指示しますが、男子はほとんどペアの方を見ようとはしません。また、互いに「『どこがダメだったよ』と言ってあげてください」とネガティブな評価をするように指示します。言葉を交わしているのはほんの数組なのも仕方がないでしょう。しかし、授業者はOKと評価して先に進みます。そもそも、何を意識して吹くのか、どう吹ければよいのかのポイントや目標がはっきりしません。これまでの時間で話をしたのかもしれませんが、活動前に子どもたちに確認しておく必要があります。 全体での練習では、子どもたちに吹かせながら「そうそう」と声をかけますが、何が上手くできているのかわかりません。列ごとに吹かせたりしますが、何を意識してこの練習方法をするのかまるでわかりません。列ごとに上手くできるが評価したいのでしょうか。しかし、具体的な評価はありません。他の列の子どもはただ、ボーとして休憩の時間になっていましたが、授業者は笛を吹いている列に注目していてよく見ていませんでした。 子どもが発言する場面はほとんどありません。ただ活動の指示があるだけで、ポイントの説明もありません。当然、子どもたちは何を意識していいのかわからないまま、活動をするだけになります。意欲が高まらないのは当然です。すぐに集中が切れてしまいます。 合唱の練習はステージで行います。移動するように指示しますが、子どもたちの動きが遅いことが気になります。授業者はピアノに移動して音を確認しています。その間、子どもの様子を見ていません。しばらくして子どもがまだ移動できていないので、「早く並びなさい」と注意をします。もし、早く並ばせたいのなら、移動をしている時に素早く動いている子どもを「○○さん早いね」とほめて、早い移動を促す必要があります。ちゃんとできている子どもも、注意ばかりを聞くことになります。自分はちゃんとやっているのにと、授業者に対して負の感情をもったり、注意の原因となった子どもを疎ましく思ったりするかもしれません。いずれにしても、あまりうれしいことではありません。 合唱の姿勢について指示をします。全員が指示に従えていないのに声を出させます。指示をしてもできているか確認がありません。確認をして、できていることをほめることを意識してほしいと思います。声を出していない子どもがいてもそのまま歌い続けます。途中でも一度止めて、声を出すように促すことが必要です。子どもたちに今どうあってほしいという姿を伝えることが必要です。その上で、できている子どもをほめることが大切です。できていない子どもが目立ちますが、できている子どもの方が多いのです。その子どもたちが評価されなければ、学級全体の意欲が無くなってしまいます。 子どもたちの姿勢がよくないことを「姿勢をよくしてよー」と途中で指摘しました。ちょっと遅すぎるように思います。指摘しても状況は変わりませんでした。 子どもたちは大きく授業規律を乱すことはしませんが、上手に授業者の隙をついています。ちょっとしたきっかけで授業が崩れる危険性を感じました。 ただ演奏する、歌うだけでは上手くはなりません。子どもたちが上手くなる場面や仕掛けが必要です。この日の活動の流れもはっきりと示されていませんでした。子どもたちは授業者の指示に鼻面を引きずり回されているように見えます。板書は一切なく子どもたちがよりどころにする物がありませんでした。 課題は色々あると思いますが、まず、子どもたちを笑顔でほめることを意識してほしいと思います。時々怒った口調になりますが、それでは逆効果です。子どもができていることをどう評価するかを第一に考えてほしいと思います。授業規律の面だけでなく、音楽の活動も同様です。評価するためには目標が必要です。その目標を達成するためのポイントを明確にすることも必要です。このことを意識するだけで授業はよい方向に変わっていくと思います。 この続きは次回の日記で。 作者の意図を理解するとはどういうことかを考える
昨日の日記の続きです。
授業研究は6年生の国語の説明文の授業でした。授業者は、ベテランの先生です。ベテランの先生が進んでこういう舞台に立っていただけるのがこの学校のよいところだと思います。ベテランが謙虚に学ぼうとする姿勢、向上心を見せてくださることが、若手の学ぶ意欲に大きく影響していると思います。 授業は、説明文の構成を意識して、作者の意図を読み取ることを「笑うから楽しい」という短い文章を使って経験させようというものです。「作者の意図をとらえ、自分の考えをまとめよう」というのがめあてになります。 前時の復習で「はじめ」「中」「終わり」の段落構成を確認しますが、子どもたちの反応は今一つです。授業者はちょっとあせったようでした。自分の学級ではないので、なおさらだったのでしょう。ちょっと早口になります。よく聞き取れない子どももいたようでした。 作者は自分の考えを伝えるために何をしているのかを問いかけます。子どもたちは本文を見たりして考えていますが、すぐに挙手する子が指名されて発表します。子どもたちは考えていたので、もう少し待ってあげたいところでした。指名に頼らず、まわりの子どもと少し相談させてもよかったかもしれません。 作者が事例として取り上げた実験の内容を理解させようとします。「脳が体の動きを読み取って心の動きを呼び起こします」という記述で子どもたちがつまずきました。授業者はこのことを理解させようとしますが、なかなか反応できません。子どもたち自身もどこがわからないのかよくわからないのです。脳が「読み取る」という言葉の意味がわからないのかもしれませんし、「体の動きを読み取る」とはどういうことかわからないのかもしれません。作者が言っていることに納得していないのかもしれません。授業者はここで時間を取られ過ぎると、予定していた自分の考えをまとめるところまでいかないので、ペースを上げようとして、次第にしゃべる言葉が増えていきます。ここは、授業者がしゃべるのをやめて、子ども同士で相談させる時間をつくるとよかったと思います。言葉にすることで、自分のわからないことが何かに気づくこともできます。 子どもたちに笑い顔をつくらせて、気持ちの変化があったかどうかを話し合わせます。これは作者の言っていることを理解することではなく、本当かどうか確かめる活動です。気持ちが変化しなければ、作者の考えに納得しないということになりますが、それはこの文章を読んでどう思うかということです。大切なことは、作者の論理の流れ、根拠を明確にして理解することが大切です。理解することと納得することはまた別なのです。いつの間にか作者が言っていることを理解することではなく、納得する活動になってしまいました。 ここで、作者の「意図」とは何かが問題になってきます。「伝えたいこと」なのか、伝えるために「事例を挙げたことなのか」わからなくなってきます。伝えたいことを理解するのであれば、体験することよりも、「この事例から作者は何を説明している」「どうしてこの事例からそのことが言えるのか」といったことを考える必要があります。具体的な事例を挙げて説得力を増すという意図を理解するのであれば、事例を使って自分の考えをまとめることを意識させる必要があります。「事例があると納得できる」という言葉を子どもから引き出したいところです。授業者はこのことを意識はして、作者の事例と似たような経験を考えさせたのですが、結局、この言葉ははっきりとは出てきませんでした。 作者は、「脳の血液温度の変化に合わせて心の動きを決める」と言っています。このことの事例として紹介された「空気をたくさん吸い込むと気持ちがいい」ことを、深呼吸をして体験させます。こういった活動自体は悪いことではないのですが、国語としては本文から作者が言っていることを理解することを第一にすべきです。体験が中心になると理科の授業になってしまいます。 作者が一番伝えたかったことは何かを子どもたちに問いかけます。ここではそれを意図と言い変えました。それならば、最初にきちんと定義する必要があります。子どもたちが、作者が一番言いたいことは何かと考えながら活動することを求めればよかったのです。 子どもたちは、今までの活動から何となく思ったことを発表します。子どもたちは体験活動に引っ張られて、本文から読み取るという意識が無くなっていました。短い文章を選ぶことで、1枚の紙で全文を一度に見られるように工夫してあったのですが、子どもたちはほとんど見ていません。構成を意識しやすいようにしていたのですが、残念でした。授業者は、文章の書き方から読み取れないかと問いかけます。しかし、今までの活動では文章の構成を意識させていないので、ちょっと無理があります。結局、授業者が最後の文章に何が書いてあったかを子どもに問いかけて、作者の伝えたいことを引き出しました。 最後は、自分の考えを50字程度にまとめるのですが、子どもが書きやすいように、「〜がよくわかりました」「〜について、もっと知りたいです」「今まで〜けれど」といった話型を提示します。感想と考えが混乱しているように感じます。考えは「根拠」を持って自分が「判断」したことです。このことを意識させることが必要です。 残念ながら、途中で思ったように子どもから意見を引き出せなかったために時間が足りなくなりました。子どもたちの文章を発表させることはできませんでした。 授業者は、明るく一生懸命に子どもたちから考えを引き出そうとしていました。今回は復習場面で子どもたちの反応が予想以上に悪かったためペースが苦しくなってしまい、普段以上にしゃべる量が増えてしまいました。その結果、子どももじっくり考えることができないという悪循環になってしまったようです。例えベテランでも、こういうことはあるものです。 この授業であれば、作者が言いたいことを言うために、どのような文の構成にしたのか、その構成要素間の関係をまとめながら読むとよかったと思います。体験活動を、子どもが考えを書く時の立場を意識させるために使っても面白かったと思います。「作者の言うとおりになった。ほんとう?」と揺さぶったり、「作者の言うとおりにならなかった人?」と問いかけたりして、作者の意見に反対の立場の子どもをつくるのです。賛成にしろ反対にしろ、子どもなりの根拠を作者と同じように事例を挙げてまとめるというように書き方を限定することで、活動のねらいがはっきりしたと思います。 検討会では、皆さんが授業者のよいところや工夫をしっかりと意識できていました。グループでの検討はとても充実していたと思います。 授業者は、学校訪問の際にもこの授業を公開するようです。次回は自分の学級なので、今回の授業研究をより活かしやすいと思います。私は参観できませんが、どのような授業になったか、報告を聞かせていただくことが楽しみです。 ちょっとした押さえや、発問の言葉のずれが子どもの理解に大きな影響を与える
昨日の日記の続きです。
4年生の授業は国語の段落分けの場面でした。 授業者は教科書のページを開かない子どもがいる時に、その子どもを注意するのではなく「ページをめくってください」ととるべき行動を全体に対して指示します。指示や問いかけに「はい」と反応してくれた子どもをほめてよい行動を広げようとしています。次の同様の場面では、子どもたちの多くが「はい」と返事をするようになっています。しかし、授業者が働きかけないとよい姿にならないということは、まだ徹底できていないということです。ちょっと落ち着かない子ども、集中力を失くしやすい子どももいるようです。よい行動を広げるという姿勢で、根気よく子どもたちとつき合ってほしいと思います。 5年生の国語は説明文の授業でした。 一部の子どもたちが勝手に意見を交換しています。授業者はそれを拾おうとするのですが、もう一度きちんと全体に対して発言させません。そのまま話が進むので、参加しようとしている子どもたちも内容がよくわからずついていけません。また、子どもたちの発言が、筆者の考えではなく自分の考えになっています。本文のどこに書いてあるかといった、根拠を押さえて話し合うことが必要です。 授業者は子どものよい発言を広げようとしていますが、その発言のよさを価値付けする場面がありません。子どもたちは、授業の流れで強調されることや板書されることでそれが正解だと理解します。根拠を子どもたちと共有して、みんなが納得することでまとめていきたいところです。 よくわからない子どもに対して、他の子どもに説明をさせます。子どもたちは友だちにわかってもらおうと次々に説明をしてくれます。その子どもも笑顔で理解しようとしています。授業者が「わかった?」と聞いてその子どもはうなずきました。「わかったって、よかった」とIメッセージを送ります。よい対応だと思いますが、ここで、「みんなが一生懸命説明してくれたおかげだね。ありがとう」と説明してくれた子どもにも一言声をかけたいところでした。実行すべきかどうかの判断は微妙なのですが、「わかった」と言った子どもが本当に理解したのかどうかを確かめたい気もします。みんなが一生懸命説明してくれるので、空気を読んだのかもしれません。本人の言葉で説明させて、その上でしっかりとほめてあげられるともっとよかったと思います。 子どもたちは、自分たちの活動がこの文を読み取ることにどうつながっていくのかがよく見えていません。授業者としては段落の内容を要約することで文の理解を進めようとしているのですが、大きな読み取りの流れが子どもたちに明確になっていませんでした。文章を読み取るためにはどうすればよいのかを、子どもたちにもっと意識させることが必要だと思います。 もう一つの5年生の授業は若手の算数でした。小数×小数の計算を辺の長さが2.3cmと2.4cmの長方形の面積をもとに考える場面でした。 若手ですが、なかなか力のある方です。子どもたちはしっかりと授業に参加しています。友だちの発言もしっかりと聞こうとしています。授業者の説明に手遊びをしていた子どもが、友だちの発言は体をそちらに向けて一生懸命聞いていました。基本的な授業規律はしっかりとしていると感じました。子どもたちは友だちの発言に拍手していますが、全員ではありません。全員でない理由が気になります。ハンドサインと同じく、拍手が納得した、賛成という意味であれば拍手していない子どもにどこが納得していないか聞きたいところです。また、拍手している子どもに発言を求めることも必要です。拍手やハンドサインは形骸化しないように注意をする必要があります。 1cm2の正方形の中に面積1mm2の正方形が100個あることの確認をします。その理由の説明を子どもたちに求めました。「1cm2は1辺が10mmだから10×10で出しました」という発言があります。これは100個とは直接つながりません。mm2を単位として面積を出して、後からcm2に換算する発想につながります。授業者は「あってるね」と言って、もう一人挙手をしていた子どもを指名します。次の子どもは1cmの中に1mmが10個あると説明します。縦と横でそれぞれ10個あるので10×10になると言いたかったのでしょうが途中で混乱してしまいました。授業者は「いいところをついている」と引き取って、1cmの中に1mmが10あるとするのですが、縦と横それぞれ10あるから100mm2と面積に戻してしまい、面積1mm2の正方形が「100個」を押さえませんでした。2人目の子どもの発言は、正方形の個数を意識していました。「1cmの中に1mmが10個あるんだね。この後、○○さんの言いたいことわかる人いる?」とこの子どもの発言を活かしたいところでした。 ここで子どもたちに長方形の面積を求めさせます。子どもたちは作業中に自然にまわりの子どもに相談しています。日ごろから、子ども同士のかかわりを大切にしていることがよくわかります。 時間が来て全体で確認していきます。式が23×34になることを押さえて、「23×34で出たものは何だろう」とたずねます。子どもからは「答」と返ってきます。「何の答が出てきたの?」「面積」という答に授業者はディスプレイに映してある長方形を一辺1mm2の正方形で分割した図を指し示して、「これが何個あるか知るために、縦何個、横何個ということを言ったな。かけて出たものは何が出たのか話し合って」と、相談させます。面積に引きずられている子どもは、mmで表わした面積と考えています。子どもたちは面積から離れることができません。授業者は正方形の数で進めたかったの、どうすればいいのか困ってしまいました。 長方形の面積を考える前に、面積1mm2正方形が「100個」をきちんと押さえなかったこと、面積を求めることを課題にしたことが混乱の原因でした。面積で進めるなら、面積をcm2で換算した後、cmを単位としたらどんな式になるのかを確認してから進めればよかったでしょう。個数にこだわるのなら、「100個」を押さえた上で、長方形の中に1辺1mmの正方形がいくつあるかをストレートに聞けばよかったのです。 授業者は、面積と正方形の個数を子どもたちが自由に行き来できると思っていたようですが、そうではなかったのです。ちょっとした押さえや、発問の言葉のずれが子どもの理解に大きな影響を与えるのです。 授業者は、そのことに気づいていたと思いますが、焦ってしまって上手く修正できなかったようです。よい経験をしたと思います。 6年生の若手の授業は社会科の平安時代の文化の学習の場面でした。 子どもに発問して挙手が少ないとすぐに相談させます。すると子どもたちはすぐに活発に話し合います。ところが挙手はあまり増えません。手を挙げかけている子どももいるのですが、発言意欲の旺盛な子どもが勢いよく手を挙げているので、その子が指名されました。せっかく相談させたので、挙手に頼らず「どんな意見が出てきたか聞かせて?」と話をよく聞いていた子どもを何人か指名したいところでした。 授業者はどのような文化が生まれたかを子どもたちに問いかけます。前時までに平安時代をある程度学習しているようです、教科書や資料集を見ないでもよく話し合えていました。しかし、挙手はやっぱり少ないのです。学習したことだけに、正しいことを言わなくてはいけないというプレッシャーがあるのかもしれません。教科書や資料集に書かれていることであれば、それを見て発表させればよいのです。大切なことは文化から何を子どもたちが学ぶかです。そのための共通の視点を与えることです。私は、文化をとらえる視点の一つに「人」があると思っています。誰が文化の担い手か、誰が楽しんでいるかという視点です。これを時代ごとに追いかけていくことで、歴史の流れが見えてきます。平安時代の文化を考えるのであれば、天平・奈良時代と比べるのです。天皇から貴族へ、女性の台頭といったことから、律令制から荘園制、側室と閨閥といった歴史の変化やポイントとの関係に気づくことができます。調べることも大切ですが、そこから何を考え、知るかを意識してほしいと思います。 授業者は歴史の授業をどう進めたらよいのか悩んでいたようです。どうしても知識を与える、覚えさせる授業になってしまっていたようです。そこで、今回は歴史の授業を私に見せたということです。困っているから、そこに正面から向かおうとする姿勢はとても素晴らしいと思います。私に質問してくれることはとてもうれしいのですが、職場の仲間ともぜひ相談してほしいと思います。次回訪問時にどのような授業を見せてくれるのか楽しみです。 特別支援学級の授業は、どんな時に、どんな気持ちになるのかを書くことが課題でした。 6人の子どもがすべて同じ課題です。一人一人ひとりの能力や状況が違うので、進み方はバラバラです。早くできた子どもは集中力を失くしています。人数が少ないので、授業者は個別に対応します。子どもと目線の高さをそろえ、寄り添うようにして話しています。しかし、個別に対応していると、わずか6人でも全体を見ることができず、集中力を失くした子どもへの対応ができません。それぞれの子どもに応じた負荷を意識することが大切です。例え同じ課題でも、目標を変えることで負荷を変えることもできます。どういう個別の対応ができるかを考えてほしいと思います。 授業者は、子どもを自分の目指す姿にしようと働きかけます。そのこと自体は悪いことではないのですが、この子どもたちにあまり強制力を働かせてもよい結果にはなりません。子どもの望むことが、授業者が子どもに望むことと一致することが理想です。そのための働きかけを意識することが大切です。動機づけとなるものは一人ひとり異なっています。その子どもの特性を意識した対応を心がけてほしいと思います。 授業研究の様子は明日の日記で。 |
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