子どもに迫ることの難しさを感じた道徳の授業
前回の日記の続きです。
中学校の道徳の模擬授業は、実話をもとに書かれた曽野綾子の小説「塩狩峠」の一部を使ったものです。塩狩峠を登っていた汽車の最後尾の車両の連結が外れ、坂を逆走する列車の暴走を止めるため、その日友人の妹と結納を交わす予定だった主人公が線路に身を投げたというとても重い話です。 授業者は子ども役に今までピンチになった経験を話させます。ちょっと笑えるエピソードもあり、場が和みます。最後に授業者がトイレで用を足した後、紙がなかった話をして、笑いを誘います。明るい雰囲気になったところで、情景を思い浮かべながら聞くようにと指示をし、資料は配らずに授業者が範読を始めました。 授業者は範読中にあまり顔が上がりません。子ども役の様子をあまり見ていませんでした。体を乗り出して聞いている方、ちょっと下を向いている方、背もたれに体を預けて腕を組んでいる方、いろいろです。ここで何か声をかけるべきかどうかは一概に言えませんが、子どもを常によく見ておけば、ちょっとした変化にも気づけるので、指名や授業の展開を考える上で役立ちます。また、授業者をしっかり見ている子どもに視線を合わせてうなずくといったことをしておくと、その後で発言を引き出しやすくなります。 途中で、情景を表わす絵を貼って理解を助けます。読み物資料を使う時は、早く内容を理解させ、子どもたちが考える時間を確保することが大切です。絵を使うというのもよい方法の一つです。 逆走を始めた列車がカーブに差し掛かったところで話をいったん止めて内容の確認を行います。主人公は誰かと子ども役に問いかけます。半分も手が挙がりません。答えるまでもないのかもしれません。しかし、こういった場面できちんと参加させないと、肝心なところで発言をしてくれない可能性があります。まわりと確認させる、挙手に頼らず何人も指名するといったことをするとよいでしょう。「たしか、信夫?」という答に、授業者は「ああ、いいですね。よく聞いていましたね」とほめます。ちょっと自信のなさそうな答え方だったことからすると、ここまでの内容からはまだ主人公がだれかよくわからなかったようです。範読の途中で信夫という主人公の名前が出た時に、この人が主人公だと授業者が宣言してもよいと思います。主人公がだれかがわかった方が、話を理解しやすくなるからです。 授業者は、「この後信夫はどうするでしょうか?」と問いかけます。この状況に対してどのような選択肢があるのかよくわかりません。根拠を持って考えることのできない発問です。この後のショッキングな展開をより印象付けるためだと思いますが、ここで時間をあまりかけても意味はありません。授業者は30秒考える時間を与えましたが、適切だと思います。 子ども役はじっと考えています。時間が来ると授業者は全員立たせます。指名していって、全く同じ意見だったら座るというやり方です。道徳ではよく使われますが、とりあえずどんな考えがあるかを知る時によい方法です。 「ブレーキのハンドルを必死に回し続ける」「他の人を呼んで、力を合わせてブレーキをかける」「みんなで、列車の中を移動して、バランスをうまくとってカーブを回りきる」「跳び下りて逃げる」「神頼みをする」といろいろな意見が出ます。授業者は「跳び下りて逃げる」という意見に対しても、素直に受容しました。実際の授業ではこういった子どもが、この後どのような変容をするのかに注目したいところです。 続いて主人公が線路に身を投げて列車を止めたこところまで範読しました。 「主人公が線路に跳び下りた時の気持ち」を考えてワークシートに書かせます。ここはまだ主人公の気持ちを考えているところなので、あまり時間を取りたくないところです。授業者は2分ほどして、全体で考えを聞きます。上手な時間配分だと思いました。 先ほど、跳び下りて逃げるといった子ども役が、「自分だったら身を挺して止めようとは思わないので、きっと婚約者との結婚話に裏があって、嫌だったけど結婚しなければいけない事情があった」とちょっと斜めな意見を言います。もし実際にこのような子どもがいたら、とても面白いと思います。「自分だったら」と自分に引き付けてくれています。授業者はこの意見も「なるほど」と受容しますが、自分の気持ちを言ってくれたことを評価して、ここを軸に話を進めても面白かったかもしれません。続いて回っていて気になった意見があったと、一人の子ども役を指名します。「家族や婚約者のことが頭に浮かんで、『ごめん』と思いながら跳び込んだ」という意見です。多くの人を助けたいという意見が多い中、プライベートな家族や婚約者のことに思いを到らせています。「他者を助ける」「自分の身近な人を悲しませる」という2つの思いをもう少し焦点化したかったところですが、授業者は「『ごめん』と言って跳び込める?」と発言者に聞き返しました。「勇気がなくてできない」という答えが返ってきます。授業者も自分もできないと話し、先に進みました。 残された人の様子が語られる中で、主人公が常に遺言を胸ポケットに入れていたという話がでてきます。授業者は主人公のちょっと違う面が出てきたと言ってから、常日ごろ持ち歩いているものは何かを問いかけます。先ほどから変わった意見を言っている子ども役の手が挙がりません。そこで、授業者はその子ども役に声をかけて、発言を求めます。隣の席の子ども役が「遺言」とつぶやいて助けました。授業者はそうですねと、笑顔で受容しました。 授業者は、主人公は何が起こってもいいように胸ポケットに遺言を入れていたと思うと自分の考えを伝えた上で、先ほどは婚約者のことを話してから、跳び込んだ時の気持ちを考えてもらいましたが、今度は「いつも胸ポットに遺言を入れていた」「主人公にふさわしい死に方だったと友人が言ったこと」を考えながら、もう一度主人公の気持ちを考えるように指示しました。 2段階で考えさせることは、子どもたちの考えを深めるための方法の一つです。しかし、その前の段階で焦点化されていることがないと、かえって発散してしまいます。授業者が遺言を持ち歩いていた主人公の気持ちを説明しましたが、このことをもっと自分たちで考えておかないと、考えが深まらないのではないかと思います。 2分ほどして、意見交流をするように指示します。この時に納得する考えがあれば自分の言葉に直して書き加えてもよいと伝え、4人グループにしました。 全体で、どんな意見が出たかを発表させます。発表してくれる人がいたらうれしいとIメッセージで問いかけます。 「主人公が日ごろから、他者のために自分の命使おうと心がけていた」「いつでも死ぬ覚悟はできていた」「婚約者にすまいなと思っていた」「やはり婚約者との結婚が嫌だった」といった意見が発表されます。 授業者は「自分もここまでは無理だけれど、確固たる信念を持って生きてほしい」と自分の思いを伝えて、「今後どのようにして生きていきたいのか?」を書かせます。ちょっと気になったのは、「信念」という言葉が唐突に出てきたことです。子どもたちから出てこない言葉を使う時には、注意が必要です。授業者の答がそこにあると思ってしまうからです。子どもたちが言ってくれたことは主人公の「信念」だと言えることを全体で共有することが必要かもしれません。 最後に、授業者が自分の信念、これだけは守っていこうと思っていることを話しして、「スラスラかけた人、なかなか書けなかった人いろいろいるかもしれませんが、今はそれでいい。これからの人生でそういうものが見つかるといい」と締めくくりました。 授業者は子どもたちに自分の信念について考えさせたかったようです。そうであれば、あなたならどうなのか、自分はそこまで強いものがあるのかといったところを問いかけ、考えさせる時間を取るべきだったと思います。物語の主人公の生き方を客観的にとらえるだけで、自分に引き寄せる場面が足りなかったと思います。 授業者は自分の思いを話しましたが、決して押し付けにならないように意識していたようです。最後に、信念を書けなくてもそれでいいと言ったことで、救われる子どもも多かったと思います。 常に柔らかい表情で子どもたち受容する姿に、落ち着いた学級づくりができているのではないかと思いました。個々の子どもをしっかりと受容できるので、次は子ども同士をつなぐことを意識するとよいと思いました。 最後に、道徳の授業をどのようにしてつくっていくのかについてお話をさせていただきました。 子どもが本音を言える学級づくりが基本となることや、子どもが先生の求めるような答を言って満足していてはいけないこと最初に伝えました。 授業の組み立ては、子どもが考える、変容するような活動に時間を使うことを意識することが大切です。そのためには、読み物資料であれば、読み取りに時間を取られないようにしなければいけません。また、話し合えば考えが深まり変容するわけではありません。子どもの考えを焦点化したり、時には対立させたり、また揺さぶるような切り返しが大切になります。 そのためには、客観的な判断や考えを聞くのではなく、あなたならどうする、自分ならどう思うといった、自身に引き付けるような発問や問いかけが求められます。 こういったことを意識して、子どもの心を耕すことをお願いしました。 模擬授業をしてくれた2人の先生に共通していたのは、子どもを受容しようとする姿勢です。子どもと接する基本ができていたことをとてもうれしく思いました。 このような機会がまたあることを楽しみにしています。 子どもが教師の求める答探しをする道徳(長文)
市の少経験者研修で講師を務めました。午前中は小学校と中学校のチームに分かれ、道徳の授業の指導案を検討し、午後は互いが子ども役になって代表者が模擬授業をするというものです。
小学校の模擬授業は、「星への手紙」という教材を使ったものでした。筋ジストロフィーにかかった子どもが、生きる気力を失くし食事もとらなかったが、母親の涙にこれ以上悲しませたくないと思って一口スープを飲み、その時母親が今まで見たこともないほどの喜びようを見せたことで、こんな自分でも頑張って生きることで人の役に立つことができると思う話です。 授業者は、なかなか上手にアイスブレークをします。自分はグーを出すと宣言して子ども役とじゃんけんをしてパーを出させます。そして、その手をそのまま精一杯上に挙げさせます。この姿勢が挙手の姿勢であることを伝え、一人一回はこの姿勢を取ってほしいと伝えました。 最初に授業者は「みなさん、生まれてきてよかったことはありますか?」と質問をします。あるという人が全員です。確認して、タイトルを示し、「今の質問が何の質問だったのかなと頭に入れておくといいかな」といって次に進みました。今ひとつねらいがよくわかりません。他者を喜ばせるということを意識するのであれば、どんな時に生まれてきてよかったと思ったかをちょっと聞いてみたいところでした。 子ども役に3分間時間を与えて資料を黙読させます。実際の授業では子どもの読む速度に差があるので、早く読み終わった子どもがごそごそする危険があります。また、この後、内容の確認を子どもに発言させてすると、読み取りの力に差があるため、思いのほか時間がかかってしまうので注意が必要です。 授業者は机間指導をしますが、この場合何を見るのでしょうか。授業者の視線が定まりません。ここは、全体を見ながら内容が理解できなくて困っている子どもがいないか、早く読み終って手持ちぶさたの子どもがいないかといったことを見て、都度必要な対応をするべき場面だと思います。 全員が読み終ったのを確認し、早く読めた人は素晴らしいとほめて次に進みます。ここが早く読めたことを評価すべき場面であるかはちょっと疑問です。道徳の性格上、じっくりと前に戻ったりしながら読むことの方が大切に思います。ちょっと気になるところです。 ここで、資料の注釈をもとに筋ジストロフィーの説明を簡単にします。このことが必要だと思うのなら、最初に説明をしてから読ませた方がよいでしょう。ムダにつまずかせる必要はありません。話の内容を少しでも早く理解させることが大切です。 話の内容を資料にそって確認していきます。資料の文の「食べなくなった」のはどんな気持ちでしょうかと問いかけます。手元に資料があるので、子ども役のほとんどは顔が上がりません。少し間をおいて、「こうじゃないかなと思う人?」と挙手を求めます。手が挙がるのは一人です。授業者はすかさず指名します。子ども役が本当に考えているのであれば、もう少し時間を取る必要があります。少ない挙手で進めることは注意が必要です。 「自分なんかいなくなればいい」という答に、授業者は「いいですね」と返します。この言葉は、子どもの考えを客観的に評価していることになるので、実際の子どもであればこれが正解なのかと思ってしまいます。そうではなく、子どもたちをその時の主人公の気持ちに寄り添わせることが必要です。「なるほどね」と受容はしても、よい悪いの評価はしない方がよいでしょう。他の意見を聞きますが、「死んでしまいたい」という発言に、「同じように思った人?」とつなぎます。ここで突然、「同じように思った人」とつなぐと、これが先生の答かと思ってしまうかもしれません。なかなか難しいところです。こういう手法を使うのであれば、常に同じように思った人とつないでいる必要があると思います。 授業者は多くの子ども役の手が挙がったことを確認して、自分の言葉でまとめます。子ども役から一度も出てこなかった「絶望」といった言葉が足されていきます。こういったことも、授業者の求める答があると感じてしまう要因です。子どもたちが主人公の気持ちに入っていくのではなく、距離を取って客観的に考えてしまう可能性が増えます。 お母さんのつくったスープを飲む時の気持ちを問いかけます。子ども役の手がなかなか挙がりません。本当に答えにくかったのか、子ども役になりきっていたためなのかわかりませんが、ちょっと重い雰囲気になっています。授業者は目が合った子ども役に「言えそうですね」と声をかけました。こういった指名の仕方はなかなかのものです。「幸せな気持ち」という答に、「ああ、幸せな気持ち」と受容し、ちょっと間をおいて「確かにそうですね」と続けました。授業者からするとズレた答だったと思いますが、受容したのは立派だと思います。ただ、表情がかたいので、子どもだったら「外した」と思ったかもしれません。こういう時はいつも以上に笑顔と明るい声が必要なのです。 「お母さんが苦しんでいるのは見たくない」という発言に対して、他に似たような言葉でもいいのでと発言をつなごうとしますが。傍から見ていると、どうしてもこの方向に誘導したいという意図を感じてしまいます。子どもたちはこういうことには敏感です。まわりと聞き合うといったことをして、もう少し子どもたちを自由にしゃべらせたいところでした。 続いて「頑なだった、依怙地だった気持ちがほどけるような気持ち」という意見が出てきます。ちょっと子どもらしくない意見ですが、「さすがですね」と評価します。この意見はかなり客観的で、他人事として冷静に見ています。「本当?ずっと死にたいと思っていたのに、そんな簡単に気持ちがほどける?」と揺さぶるといったやり方もあったかもしれません。 主人公の気持ちが、「死にたいと思った時」と「スープを飲んだ時」とで変化したかどうかを問いかけます。全員が変化した方に挙手した後、授業者は場面ごとの板書を使って、ここでは悪かった、ここでよくなったと主人公の気持ちを「よい」「悪い」で評価します。この言葉はあまり適切ではありません。せめて、「落ち込んでいた」「暗い」「上昇した」「明るい」といった柔らかい表現にしたいところです。人は苦しい時、暗くなる時もあります。それを「悪い」と決めつけるのはそういった状態になった時に子どもたちを追い詰めることにつながります。日ごろからそういうことを意識して言葉を使うことが必要だと思います。 看護師さんも駆けつけて、お母さんと同じように涙を流して喜んだ時に主人公はどんなことを感じたかを問います。こういった質問の答えは本文に書かれています。その答を確認するのであれば、単なる国語の読み取りです。ここで子どもたち自身の気持ちに迫りたいのか、それとも確認だけなのかで進め方が変わるでしょう。前者であれば客観的な答に対して、「本当にそんなこと思える?」といった揺さぶりをすることが必要ですし、後者であれば時間をかけずに授業者が本文で確認してしまえばいいのです。 授業者は「頑張って生きよう」という答を受けてすぐに、最初の気持ちと比較して変化したことを指摘します。他の子どもたちとつなぐことをせずに、すぐに自分の言いたことにもっていきました。続いてでた、「いろいろな人に心配をかけたことを後悔している」という意見には何もコメントがありません。子ども役がなかなか積極的に参加でできない原因がこんなところにあるように思います。 「自分が人を喜ばせることができる」という本文の記述に即したことが出てこないので、授業者はその部分を読んで、大事だと思ったところに線を引くように指示します。大事という言葉を使うことで、国語的な読解の授業になっています。また、授業者の求める答探しになってしまいました。 「他の人の役に立つ」という言葉が子ども役から出てくるとすぐに板書をします。別の子ども役が本文に即した発言をしたので、そこを見てみましょうと本文を確認します。完全に国語の授業になってきました。 授業者は主人公の気持ちの変化を、板書を使って確認します。続いて、この主人公が書いた詩を見せます。その詩には空欄があり、そこに言葉を入れることが課題です。すべて同じ言葉が入ると伝えて、となりと相談させます。これも答探しです。子どもたちが冷静に取り組むようなものではなく、自分に引き寄せさせることが必要です。 授業者は子ども役に対して「答が出たと思うけれど」と問いかけます。「答」という言葉を使います。せめて、「考えがまとまったと思うけれども」といった表現をしたいところです。 すぐに全員の手が挙がります。「プレゼントしよう」という答を復唱して板書します。続いて「他に違う意見が出たよという人?」と聞くと挙手が2人です。この状態ですぐに指名しましたが、ここは全員の手が挙がっていたのになぜ減ってしまったのか疑問に思うべきところです。「他の人は、同じ意見だったの?」と確認することが必要だったと思います。 「分けてあげよう」「伝えよう」「与えよう」と発言が続いた後、授業者は「このような答、みんな同じような意見ですね」とまとめます。授業者が同じようだと判断しています。この場面に限らず、子どもたちの意見をすべて授業者が判断しています。そうではなく、子どもたち自身が友だちの意見を聞いて考えを深めていき、自分で価値を判断していく過程が必要です。 「主人公がどう思ってこの詩をつくったのか」と問いかけます。一度先ほど子ども役が考えた空欄に入る言葉を確認して、今度は「みなさんなら」という言葉を足しました。「プレゼントしよう」と答えた子ども役を指名して「なんでプレゼントしようと思いました?」と問いかけます。子どもたちに迫るために「主観的」な答を求めていたのか、「客観的」な答の説明を求めたいたのかちょっと曖昧でした。前者であればこの状況ではかなり難しいと思います。ここまで客観的に答を見つけようとしていたからです。子どもに迫るにも、その前提となる状況をつくれていないのです。子ども役は「喜びをだれかにあげたいという思いがこの人にはあるんだろうなと思いました」と答えます。やはり「この人には」と客観的な答になっていました。先ほど空欄に入る言葉を発表した子ども役を次々に指名します。長い説明を一気に話した方がいます。長い説明を一気に話されるとついていけない子どもがたくさんいます。もう一度発表させ、途中で止めて全体に確認しながら聞き直すことが必要です。 授業者は扱いに困ったのか、「なかなか説得力がありますね」と受けました。他の子ども役が「なるほど」と納得したのならともかく、説得という言葉はおよそこういった場面にふさわしくない言葉です。どれが正しいか判断したり、誰かの意見に集約したりするものではないからです。子ども役の発言は客観的な説明が続きます。授業者は「みんなが言ってくれたことは正解です」とまとめます。どうしても、答探しになってしまいます。道徳に限らず、子どもの考えを「正解」かどうかで評価する授業は、教師の求める答を子どもが探る授業になってしまいます。このことを意識して、「正解」と授業者が判断することをできるだけしないように意識してほしいと思いました。 結局、授業者がこの子は「人に喜び分けてあげることで生きようと思っている」とまとめて、板書をしました。 「これはこの子の場合です。皆さんは生まれてきて、家族に喜んでもらったことありますか?」と問いかけます。「生まれてきて」という言葉を使いますが、小学生にはあまりに大きすぎる問いかけです。「みなさんが喜んでもらったら生きる意味があるんではないか」と続けますが、価値の押し付けになっています。というか、そもそも「生きる意味があるかどうか」などと子どもが考えているとは思えませんし、そう考えるように迫ってもいません。 子ども役からは「テストで100点を取った」「お手伝いをしたとこ」「けがが治った時」「誕生日」といった意見が出ます。子どもが「喜ばせる」ことを意識しすぎると、親が喜ぶことが自分の存在価値になり、それができないと自己否定につながることがあります。この授業のねらいとはずれるかもしれませんが、親を喜ばせることではなく、子どもが生きているだけで親はうれしいことを伝えたいところです。 最後に「生まれてきたよかったか?」と最初の質問に戻ります。最初に手を挙げた以上にしっかりと手を挙げるように伝えます。価値の強要です。辛い思いをしている子どもがこの中にいたらどうなるでしょうか。無理やり周りに合わせることになります。ちょっと手を挙げるのが遅い子ども役がいたので、それではダメと否定して、もう一度全体で手を挙げさせます。授業者が子どもに同調圧力をかけています。 最期まで、授業者の価値観を押し付ける授業になっていました。 この授業者は、復唱や、受容の言葉をかけることができます。少経験者としては、なかなか立派だと思います。しかし、子どもの考えをすべて自分で評価して、自分の価値観に誘導しようとしています。子どもの考えをつなぐという発想がありません。子ども自身が考え、子ども自らで判断していく力を育てることが大切です。子どもが授業者の求める正解探しをしない授業を目指してほしいと思います。 この続きは次回の日記で。 栄養教諭の模擬授業から学ぶ
栄養教諭、栄養士の方を対象にした研修を行ってきました。模擬授業と解説、講演でした。
模擬授業は、2人の栄養教諭の方に、実際に行った授業を再現する形で行っていただきました。時間の関係で、ポイントとなるところだけを模擬授業で行いました。 一人目の方は、ベテランの方でした。担任とのTTで食べ残しとごみの関係について子どもたち考えてもらう、小学校4年生を対象にした授業です。 社会科のゴミの授業が終わったあと、それを受けて学級活動の時間に行われたものです。 最初に栄養教諭の仕事を紹介し、給食センターで給食がつくられる様子を、クイズなどを交えて説明します。ここではスライドだけを見せていただきましたが、とてもわかりやすく子どもたちの興味をひくものになっていました。最後は片付けについての話です。子どもたちは給食を食べちゃったら終わりだけれど、給食センターではまだ仕事があるということを伝えます。たくさん残ってくると調理員さんは大変だという最後のスライドを示したままにして、授業を進めます。ここからが模擬授業です。 ワークシートを使って担任が栄養士や調理員がどのような思いで給食をつくっているかを考えさせます。少し時間を与えてから子ども役に考えを聞きました。 指名は担任で進めます。最初は調理員の気持ち、一通り出た後で栄養士の気持ちを発表させます。「おいしく食べてもらいたい」「いっぱい食べてもらいたい」といった発言一つひとつを、栄養教諭は「なるほど」「確かにね」としっかりと受容します。「たくさん手を挙げてくれてうれしいな」といったIメッセージも上手に使います。「似た考えだけどちょっとだけ違うという人いるのかな」とつなぐこともしています。一般の教員でもなかなかできないことです。 担任が、一つひとつの発言を板書してから次の指名をするのでちょっとテンポが悪くなります。栄養教諭はその間板書を見ていますが、できるだけ子どもたちの方を見るようにすることが大切です。栄養教諭が指名も含めて進めるようにして、担任は板書に徹するという方法でもよかったかもしれません。また、ここは板書せずに「同じように考えた人?」と子ども同士をつないでたくさん発言させることで共有するといったやり方もあると思います。 「みんな私の気持ちをすごくよくわかってくれてうれしい」と言った後、「でも少し困ったことがあります」と続けます。困っていることは何だと思うかを子ども役に問いかけます。板書してある「いっぱい食べて大きくなってほしいな」「たくさん食べてもらえるメニューを考えている」といった子ども役の発言を読み上げて、考えやすいようにしています。スクリーンには先ほどの「残ってくるとたいへん」のスライドも残っています。もう一度困っているのは何だろうと問いかけてから挙手させます。指名された子ども役は「給食が残ってくることだと思います」と答えます。栄養教諭はそれをそのまま復唱します。板書が終わるのを待って、付け足しやほかの意見がないかをたずねますが手は挙がりません。ここは挙手に頼らず何人かに発言を求めてもよかったでしょう。 続いて、「給食の食べ残しについて考えよう」という課題を提示します。この課題は子どもたちにとっては何を答えていいかちょっとわかりにくいものです。「考えよう」という発問は、子どもたちとって何をすればいいのかわかりにくいものなのです。そこで、「残った給食はどうなるか?」と問いかけます。「みんなこれまで学習したこととつながりがあるかもしれないよ」と社会科の学習につなげようと言葉を足します。このことは大切なのですが、答を誘導しているようにも思います。最後に子どもたちから言わせたいところでした。 「ごみになると思います」という発言に対して、すぐに「そうだよね。ごみになってしまいます」と反応します。ちょっと反応が速すぎるように思いました。期待する答が出たのですが、大切な答であればあるほど、子どもたち全員にきちんと考えさせたいところです。「○○さん、どう思う?」「△△さんは?」というように何人も指名して、「みんなに大きくなってももらいたいと思ってつくっている」のに、「たくさん食べてもらえるようにメニューを考えている」のに、「ごみになる」ことを確実に押さえたいところでした。 模擬授業はここで終わりです。実際の授業はこの後、昨年の食べ残しがどのくらいあったかのグラフを見せたり、給食の残りを片付けている様子の写真を見せたりして、昨年の給食の残りが250袋分あったことを伝えます。最後に「きれいに食べられて空っぽの食缶」「たくさん残っている食缶」を見て、調理員さんはそれぞれ何を思ったかを考えてもらい、食べ残しを減らすためにはどうすればよいのか、自分ができることを考えるというものでした。 私からは、この授業での発問をもとに、子どもが根拠を持って考える発問と思いつきで答えられる発問の違い、授業者の子どもを受容する姿勢の素晴らしさを解説しました。 栄養教諭や栄養士の方は食育の授業にあたって、視覚に訴える資料をていねいにつくられることが多いようです。そのことはとてもよいことです。しかし、動画などはそれをもとに次に何を考えるのかを予め提示しておかないと、漫然と見ていて内容が頭の中にあまり残らないことがあることに注意が必要なことを伝えました。 TTについては、それぞれの役割を明確に分担するとよいことをお伝えしました。子どもたちの意見を引き出すのが難しいと感じるのであれば、そこのところは思い切って担任にまかせるというのも一つの手なのです。 最後に子どもたちの行動を変容させるのに何が必要かを考えるようにお願いしました。この教材であれば子どもたちが食べ残しを減らさなければいけないと言うだけでなく、そのための行動を起こすようにするにはどんな要素が必要かということです。食材をつくるためにどれだけのお金と人の力が必要なのかといったことを示すことも一つの方法でしょう。そういったことを考えてほしいと思いました。 もう一つの授業は新規採用から3年目の栄養教諭の方で、先日初めて行った授業を再現してくれました。ほとんど経験のない中でのことで、随分緊張したことと思います。 授業は中学校の2年生を対象とした、自分の朝食のステップアップをしようというものでした。朝食の働きを確認した後、4人の中学生の食事を示します。「寝坊した子ども」「ゆっくり食べた子ども」「自分で用意した子ども」「食欲がなかった子ども」です。自分の食事がどれに近いかを選ばせて、朝食のステップアップを目指すというのがこの日の課題です。ステップアップと言っても具体的にはどういうことかわかりません。学力アップ、運動能力アップといったことを引き出そうとするのですが、どうしても授業者が主導でしゃべりすぎてしまいます。 例として挙げた4人の食事を6つの基礎食品群で分類させたあと、足りないものに気づかせます。基礎食品群の資料など考えるために必要な材料を示したりと、よく準備をしています。しかし、基本的に一問一答で進み、どうしても授業者が解説をしてしまいます。 グループごとに、4人の中から1人の子どもを指定して、それぞれの朝食がバランスよくなるようにするのが課題でした。 それぞれシチュエーションが違うので、そのことを意識することが大切ですが、食事のバランスをよくすることに意識が行っていました。本当は自分の食事をどうステップアップするのかを考えることをしたいのでしょうが、一人ひとり置かれている環境は様々なので、それをグループや全体で扱うのは問題があると考えて、このような形をとったのだと思います。よく考えています。だからこそ、その環境で意識すべきことは何かをまず明確にするとよかったと思います。「寝坊しやすい人はどのような工夫をすればバランスのよい食事ができるのだろうか?」「朝食欲のない時は?」といったことをまず子どもたちに考えさせてから、課題に取り組むのです。食事だけでなく、自分たちの生活を見直す機会にもなったと思います。 子どもが考えるためには根拠が必要です。課題を解決するためには見通しが必要です。こういった要素を意識して授業に組み込むことが大切です。根拠となる知識や事実を明確にして与えておけば、授業者が解説しなくても子どもたちの言葉をつないでいくことで、自分たちで気づくことができるのです。 とは言っても、経験の浅い方にそれを求めるのは酷です。TTであれば、担任に助けてもらいながら少しずつできるようにしていけばよいと思います。このような場に出て挑戦してくれたことをうれしく思います。今後経験を積んでいけば、大きく進歩していくことと期待します。 講演は、「食に関する授業の進め方のポイント」についてお話させていただきました。 授業の解説でも伝えましたが、子どもたちの食に関する行動をよい方向に変化させることが大切です。しかし、子ども心の変容を促すことはそれほど簡単なことではありません。実行できない阻害要因が何かを意識して、それを取り除くにはどうするかを考えることが必要です。 栄養教諭の授業は年に何度もあるわけではありません。1回の授業でどうしても多くのことを盛り込みたくなってしまいます。活動の内容をできるだけ絞り込むことが大切です。そのためには、課題がとても重要です。子どもたちが興味を持って活動するような課題でなければなりません。そのためには、子どもたちにとって取り組む必然性が求められます。「興味・関心」が持てるもの、あれっと「疑問」を持たせるもの、絵空事でない「リアリティ」のあるものであってほしいと思います。そして、その課題に取り組むことが目指す子どもたちの姿につながることが大切です。 また、作業と思考の区別も必要です。今行うとしている活動がどちらなのかをよく考えておくことが必要です。授業の時間配分は考えることを多くしたいものです。そして、考えるためには足場となる知識が必要です。この足場がない状態で考えろと言っても、子どもたちは困ってしまいます。事前に必要となる知識を整理して、効率的に与えることが大切です。 実際に授業をするにあたっては、担任とのコラボレーションが欠かせません。TTであれば、事前にある程度時間を取って打ち合わせをすることが必要です。まず一番に伝えたいのは、子どもたちにどうなってほしいかという「思い」です。そして、担任と目標とする「子どもの姿」をしっかり共有することが大切です。自分が中心とならなければいけないと気負ってしまいがちですが、できないことは担任に助けてもらえばよいと割り切ることも必要です。一人で頑張ろうとせずに、栄養教諭にしかできないことは何か考えてそこに集中することが大切です。 単独で授業をするのであれば、子どもの状況、学級の特性など、知りたい情報を事前に担任から聞いておくことが必要です。座席表などのコピーをもらっておいて指名の時に名前で呼べるようにしておくだけでも、ずいぶんと授業の進行が楽になります。 このようなことをお話させていただきました。 日ごろ見ることがない栄養教諭の授業を見る機会をいただけて、大変多くのことを学ぶことができました。このような機会を得られたことに感謝です。 |
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