グループ活動の後の発表を考える

昨日の日記の続きです。

ベテランの国語の先生は、高校の授業で古典の作品の一場面をグループで絵にするという活動を取り入れています。今まで教科書の脚注や資料集を見なかった子どもたちが、積極的に見るといった変化が見られるようになったそうです。グループの中から「あー、そうだったのか」といった声が上がったりもするそうです。

この日は、2年生の古文での授業です。
徒然草の「世に従はん人は」の「沖の干潟はるかなれども、磯より潮の満つるがごとし」が表していることが何かをまとめ、この話から場面を選んでイラストにするのが課題です。これまでに、グループでワークシートにキーワードを書きだし、それをもとにまとめる作業をして、イラストも描いています。
グループの隊形になるように指示をし、班長を集めてこの後の活動の指示を行います。机を移動したばかりの落ち着かない状況で班長を集めたので、ざわつきが止まりません。全体に対して指示、確認をしてから、グループにした方がよかったでしょう。
互いにまとめを聞き合い、質問や疑問があれば話し合って、その内容を代表が全体で発表する流れです。
子どもたちの様子を見ていると、互いに聞き合っているというよりも、発表予定者が仲間の意見を聞いてまとめているだけのような感じがします。意見をもとに話し合えているグループは少ないように感じました。

代表が前に出て発表しますが、子どもたちの顔が上がらないことが気になります。発表者も手元のまとめを読んでいるので子ども同士の視線が交わりません。子どもたちは自分のまとめと比べているのでしょうか、ワークシートを見ながらもよく聞いているように見えます。しかし、発表を聞くことの意味が明確になっていないので、子どもたちが発表から何を得ようとしているのかはよくわかりません。また、自分の発表が終わるとほっとしてか、その後聞いていない子どももいます。聞く目的をはっきりさせる必要があります。
発表が終わると質問を受け付けますが、なかなか質問は出てきません。発表のねらいもはっきりしていないので、質問をする視点も明確ではないのです。最後に子どもたちが拍手をして終わります。しっかりと拍手をすることから、子どもたちの人間関係のよさを感じます。しかし、形式的になっているように思います。この一連の活動の目標に対してどうであったかという評価が必要です。これが、明確になっていないので形式的な拍手での評価で終わってしまうのです。

発表を聞きながら本文にあたるなど、何らかの反応を示す子どもがいます。質問が出にくいのであれば、代わりにそういう子どもたちに何か問いかけてみると面白かったかもしれません。
子どもたちの発表は、個別にどのような意見があったかが中心で、それをもとに話が深まったという報告はあまりありません。しかし、中にはグループ内でそれは違うと議論になったものもあります。こういった話題を学級全体の話し合いにつなげたいところです。
授業者はすべのグループの発表終了後、「自分たちと違う考えや、発表を聞いてなるほどと思ったことがあったのではないか?」と問いかけ、もう一度グループで話し合わせます。こういった活動をすることを事前に伝えて発表に臨めば、また子どもたちの姿は変わったと思います。

司会役の班長が、話をつなげようとしていますが、単発の意見が出るだけで深まっていきません。授業者が全体で子どもたちの発表を焦点化して議論すべきことを明確にしておくべきだったしょう。
授業者は子どもたちの動きが止まっていることに気づいて、「もう意見が出ないという班はこんなこと考えて」と次の課題を提示します。よい判断ですが、「もう意見が出ない」と条件を付けたために、聞こうとしない子どもも目立ちます。いったん作業を完全に止めて、新たな課題として提示した方がよかったでしょう。
子どもたちのイラストに「生老病死」が多かったが、その理由を考えてほしいというのが新たな課題です。時間のこともあったでしょうが、まず子どもたち自身にそのことを気づかせる場面がほしかったと思います。それがないため、どうしても自分たちの課題になりにくいのです。この後子どもたちが再び動きだしましたが、参加できない子どもも目立ちます。

再び発表させますが、きちんと話し合いを止めませんでした。自分の座席で発表させたこともあり、それを聞かずに自分たちの話を続けているグループがありました。
最初の発表を「想像しやすい。描きやすい」と授業者がまとめます。「このグループでも描きやすいと言っていた」と言って、いったん子どもの考えをつなぐのですが、そのまま順番で次のグループを指名します。こういう場面では順番にこだわらずに、同じ考えのグループの話を聞くとよいでしょう。
次のグループは、本文に「生老病死」について書いてあるからと答えます。「なるほど」と授業者は受容して、「本文には季節のことやいろいろなことが書いてあるのに、なぜそちらは描かない、描きにくい?」と返します。それに対して発表者は「わからない」と答えます。仕方がないので、次のグループに移りました。ここでの切り返しは発表者に対するものでしたが、「どう、みんなはどう思う?」と学級全体に広げて、他の子どもにも問いかけたいところでした。よい意見や、より深く考える材料が出てきているので、それを全員のものにすることを意識するとよいでしょう。

この日は時間がないからということで、「みんなに答を言ってほしかったけれど」と前置きして、「具体的だから」と解説を始めます。答と言った時点で子どもたちは、授業者の求める答探しをするようになってしまいます。ここで解説をすることよりも、答が出てくるための活動をしたかったところです。全部のグループを発表させることを優先するのではなく、途中であった「本文には季節のことやいろいろなことが書いてあるのに、なぜそちらは描かない、描きにくい?」という問いかけをもとに焦点化していけば、子どもたちは、描きやすいか描きにくいかが、具体的か抽象的かで決まることに気づいたと思います。ちょっとと残念でした。

授業者は日ごろから子どもたちをよく見ているのでしょう。子どもの様子から、必要な対応をとろうとしていました。切り返しもできるのですが、発表を全部のグループに順番にさせなければいけないと考えているために、授業の自由度が狭めてしまっています。発表の仕方を工夫することで授業者の力がもっと発揮されると思います。

この学校で、授業改善に向けての第一歩が踏み出されたように思います。この波が学校全体に広がり、大きなうねりになることを期待しています。次回は、全体に対してお話をさせていただきます。今回の5つの授業で見せてくれた子どもたちの具体的な姿をもとに、ポイントを整理してお伝えしたいと思っています。

子どもたちに伝えたいものがある授業だから考えさせられる(長文)

昨日の日記の続きです。

ベテランの先生方もグループを活用した授業に挑戦してくれました。
高校1年生の国語は絵や写真を言葉で表現する授業でした。
最初の挨拶の時に、子どもたちをよく見ています。準備ができていない子どもがいたので、号令を待つように指示しました。
柔らかい雰囲気で、穏やかな語り口です。教科書を開くように指示すると、子どもたちは落ち着いて指示に従います。子どもたちとの関係のよさが感じられます。
夏目漱石の夢十夜の紹介を行います。作品の一部を範読し、続いて、夢一夜を漫画化したものも紹介します。漫画では女性がベッドに寝ているが、自分は小説を読んで和室で布団に寝ているイメージを持ったことを話し、受け取るイメージが人によって異なることがあると伝えます。ちょっとした読書紹介ですが、そこに授業者の伝えたい思いがさり気なくこもっていました。子どもたちに伝えたいことをたくさん持っている方のようです。押しつけがましくなく伝えようとするその姿勢は、子どもたちにも伝わっているように思いました。

「絵と文章の間には落差があることを学習した」と前回の授業のまとめを授業者が説明します。今日はその続きをもうすこしやってみようと伝えます。子どもたちは授業者の言葉を聞いていますが、顔は上がりません。「どんなことを学習した?」と子どもたちに問いかけて、顔を上げさせたいところでした。
校舎のような建物の前で家族らしい大人と子どもが写っている集合写真を見て、内容がよくわかるような説明の文章を書くのがこの日の課題です。教科書に従って、全体、人物、背景の3つの視点で文章を個人で書き、その後グループで突き合わせてまとめます。この日の活動の流れをきちんと伝えていますが、やはり子どもたちは教科書を見ていて顔が上がりません。続いて授業者は今指示した内容を板書します。ここで子どもたちの顔が上がり始めます。板書の後、客観的な文章で箇条書きにすると補足します。ていねいな対応で指示を徹底させていますが、一方的なコミュニケーションになっているのが残念です。
何をするのかはとても明確なのですが、子どもたちは指示に従って活動しているだけです。この活動の目的や目標が子どもの視点で明らかになっていないことが気になります。子どもたちは3つの視点で箇条書きにしていきますが、どのような文章が書ければよいのでしょうか。その評価の基準はどのようなものでしょうか。「読んだ人がどのような写真か想像して、本物に近いイメージが持てるような文章にする」「写真の雰囲気までも伝える」といった目標が必要なように思います。

机間指導で子どもの書いているものを見ながら、「真ん中の女の子の入学じゃないかもしれない」「まずは、自分で」とヒントを話したり追加の指示を加えたりします。「たくさん書くように」と途中で目標が追加されました。「家族じゃないかもしれない。男の人と女の人の間に隙間がある」と揺さぶったりもします。もしこういったことをするのであれば、途中でいったん止めて、どんなことを書いたか何人かに発表させ、そのやり取りの中で授業者が写真の中の「事実」と写真を説明する「客観」を意識させるような働きかけをすればよいと思います。

5人のグループになって互いに聞き合います。グループをつくる時の子どもの動きがやや遅いことが気になります。通常の隊形と違い、輪になります。面白い試みです。教室に余裕があるので可能になっています。ただ、反対側の子どもと距離が大きくなるので、声を大きくする必要がありそうです。子どもたちは、程よいテンションで話していましたが、一通り発表し終わったころに、一部のグループで大きな声が上がりました。何か面白いことを発表した仲間がいたのでしょう。それを引き金に全体のテンションが異常に上がりだしました。ちょっと心配な状況です。授業者はしばらく様子を見ていましたが、次の活動に移るための指示を始めました。よい判断です。ところが先ほど声を上げたグループの子どもがしゃべるのをやめません。「○○班の人。△△君、どう?終わった?」としゃべっている子どもに声をかけます。決して強い口調ではありません。しかし、すぐに口を閉じ落ち着きを取り戻しました。子どもとの関係がよいからこそ、指示が通るのでしょう。
続いて、仲間の情報で参考になるものを付け加えてよいので、これらをもとに客観的に全体の構成をまとめることを指示します。「校舎が白いので新築1年目」と書いてあったが、これは客観ではないと注意をします。前時までに主観と客観の違いは押さえてあったと思いますが、まだ注意が必要なようです。ここで、授業者が明確にこれは違うと否定していますが、できれば子どもたちにどう思うか聞いて、自分たちで判断、修正させたいところでした。

グループの隊形のまま、個人作業に入ります。どのようにまとめればいいのかよくわからなかったのでしょう、書き始める前に相談している姿が見られます。方向性が見えたのでしょう、しばらくするとしゃべるのをやめて書くことに集中し始めました。ただ先ほど声を上げたグループは、なかなか書き始めようとはしません。声こそ大きくないのですが、まだしゃべっているようです。授業者は机間指導をしているのですが、そのグループにはなかなか向かいません。気づいていなかったのかもしれません。結局そのグループの数人は、最後まで書くことに集中しませんでした。
子どもから受けた「操作報告のように書くのですか?」という質問を全体に対して説明します。子どもたちの作業を止めずに話をするので、手が止まらない子どもがほとんどです。この質問を活かすのであれば、全体を止めて中間発表をし、その中で「○○君が面白い質問をしてくれた。聞かせてくれるかな?」とその子どもに発表させて、「どう思う?」と子どもたちに判断させたいところでした。
書き終った子どもが出てきたので、早く主観、妄想を入れた文章を書きたい子どももいるだろうからと、並びに書くように指示しました。「妄想」を書くことは面白いと思うのですが、できれば「推測」としたいところです。何らかの「根拠」が必要なのが「推測」です。「妄想」では根拠も何もありません。ちょっと飛躍しすぎるように思います。

作業をやめて、元の隊形に戻り、「書いたことについて振り返ってみましょう」とまとめに入ります。ここで授業者が「客観と主観で文章を書いたけれど、客観で文章を書くのは難しいと感じてくれればいい」とまとめます。これでは授業者が子どもたちに感じてほしいことを結論として強制していることになります。振り返りは、子どもたち自身に出力させるべきものです。
2020年の入試の予想問題の例として、800字で写真の意味を説明する問題を紹介し、これからは、一問一答形式の答が明確にあるものではなく、自分で考え、自分なりの答を生み出すことが大切であると説明します。子どもたちは活動するのですが、最後は授業者が伝えたいことを一方的に話す形になっていました。子どもたちが書いた文章をもとに考えたり、深めたりする場面がありません。伝えたい思いがたくさんあるために、こうなってしまったのだと思いますが、子どもたち自身の言葉で語らせたいところでした。

今回の授業は、与えられた写真でやらされている感があったと思うので、次は自分たちで選んだ写真でやることを告げ、授業者が用意したインパクトのある写真を紹介して終わりました。

この授業の続きを別の学級で見ることができました。
授業者は毎時間、読書や授業に関連しものを紹介しているようです。今回は、絵や写真を表現することに関連して、小説の脚本化の例を少し話されました。こういった活動もしてみたいと伝えます。国語教師として、子どもたち伝えたいことが全身からあふれているような方です。だからこそ、子どもたちは授業者の話を真剣に聞いているように思いました。ある種、古き良き時代の教師の姿を彷彿とさせてくださる方です。とはいえ、新しい授業スタイルに挑戦するという姿勢も併せ持っていられます。こういう先生にお会いできたことはとても幸せなことです。

前時の活動を授業者が振り返って、この日の活動に移ります。アクティブ・ラーニングという言葉を主体的に学ぶと説明して、教科書の写真ではやらされている感が強いので、今回は子どもたちが選んだ写真をもとに、前回と同じような手順で進めることを伝えます。
用意された写真は、「銃弾を受けてまさに崩れようとする兵士」「餓死寸前の子どもを、その横でじっと見ている禿鷹」「ベトナム戦争で、ナパーム弾で焼け出されて裸で逃げている少女」「阪神淡路大震災で、崩れた橋から今にも落ちそうなバス」など、子どもたちを惹きつけるインパクトのある報道写真です。黒板に貼っていくと、子どもたちからは、「おー」といった声が上がります。中にはその写真を見たことのある子どももいるようです。授業者はこの写真がどういうものであるかの説明は一切しません。子どもたち自身で読み取らせようというのです。

グループで、どの写真を選ぶかを決めさせます。この学級は人数が少ないからでしょうが、先ほどの学級と違い4人グループで、机はピッタリとくっつけました。
子どもたちで写真を選ばせることを主体的と言っているのですが、グループで一つ決めるのは問題があります。決定するための根拠がないからです。それぞれの思いがぶつかったときに、自分の思いを通せない子どもが出てきます。グループで同じ写真について書くことで、互いに学び合わせるのがねらいならば、まず自分の書きたい写真を選ばせて、同じ写真を選んだ子どもでグループをつくるという方法もあります。人数の調整が難しいかもしれませんが、自分で選ぶことを優先した方がよいように思います。1人しかいない子ども同士でグループをつくるのもありではないでしょうか。

子どもたちはどの写真にするか決めかねているようです。近くで見ていいよと授業者が声をかけると、2/3ほどの子どもたちが席を立って黒板に見に行きます。一部の子どもだけが見に行っているグループもありましたが、途中で残りの子どもも見に行きます。写真を前にして相談を始めるグループもあります。誰も席を立たなかったグループは、人だかりが消えると全員で見に行きます。なかなか面白い行動でした。
席に戻って来てすぐに書き始めている子どももいますが、次の指示待ちをしているのか多くは動きがあまりありません。授業者は各グループが選んだ写真を個別に確認した上で、必要なグループには写真を渡しました。この動きをきっかけに子どもたちは鉛筆を持ちます。
しばらくすると、子どもたちの手の動きが止まりだします。絵を前にして話している子どももいますが、なかなか4人のかかわりは生まれません。しかし、ある程度時間が経つと子どもたちは話し始めます。どう書けばいいのか、一人では行き詰まったのかもしれません。子どもたちが話し出したのを見て、「文章にして見てね」と授業者が書くことを促します。「あと5分待ちましょう」と授業者がタイムリミットを設定すると、書くことに集中し始めました。

「客観的に書くこと」が、活動の目的ですが、今回の写真は客観的な事実を切りとることで撮影者が伝えたい主観があります。ここをどのようにとらえるかが難しいところです。書けた人に対して、今度は主観で書くように指示します。子どもたちは、時間いっぱい集中して書き続けました。
最後はグループで読み合って、代表を決めるように指示しますが、客観的に表現することの意味がはっきりしていません。表現することで何が伝わればいいのかが明確ではないのです。この一連の活動の前に、客観的な文章を書く意味、その価値について子どもたちが考える、気づくような場面が必要だったと思います。

活動を終わって、授業者がまとめに入ります。子どもから「これって正解があるんですか?」という質問があったことを伝え、「正解があるわけではない」と前置きした上で、写真の解説を始めました。「目の前で死にかけている子どもを助けずにシャッターを切っていると非難された」といった、それぞれの写真にまつわるエピソードも話します。その話を子どもたちはとても集中しています。ここでも、これらの写真を通じて伝えたい授業者の思いを強く感じます。このことはとても素晴らしいのですが、子どもたちが行った活動の具体的な評価や価値付けがなかったことが残念でした。

授業について深く考えられている先生です。自分が伝えるのではなく、子どもたちから引き出すことを意識されると、授業は大きく変わると思います。この先生の授業が今後どのように変化し、進化していくかとても楽しみです。

この続きは、明日の日記で。

まず取り組むからこそ見えてくること

私立の中高等学校で授業アドバイスを行ってきました。
今年度は学校全体でグループ活動を取り入れた授業を目指すことになっています。今回はまず取り組んでいる方の授業を見せていただき、その様子から今後の方向性を見つけることをねらいとしました。
4人の先生の5つの授業を見せていただきました。新しいことに取り組んだからこそ、見えてくることがありました。

中学校2年生の数学の授業は、子どもたちに試験問題をつくらせるのが課題です。
すぐにグループにしてまとめるための用紙を配ります。配り終わると話を聞くようにと指示をします。しかし、いったんグループになって作業の準備をしていた子どもたちの動きを止めるのは大変です。指示をしてから、グループにして用紙を配ればよかったでしょう。
子どもたちが集中しないまま、「出るかもしれないよ」と授業者が言ったところを参考にして試験問題をつくるとよいと話をしました。ここで注意をしたいのは、先生が出るかもしれないと言ったのと似たような問題をつくるのか、出るかもしれないと言った理由を考えて問題をつくるのか、どちらをさせたいのかです。放っておくとどうしても前者になってしまいます。できれば、後者の視点で考えさせたところです。「試験には大切なこと、考えてほしい問題を出すよ。何が大切かをよく考えてください。発表は、なぜこのような問題をつくったのか理由も聞かせてね」といった、課題の提示や指示をするとよいでしょう。

子どもたちは、問題をつくりにあたって明確な戦略がありません。つくった問題を持ち寄っても、どれがよいか判断する基準を持っていないのです。そのため根拠のない活動になりがちです。どうしても子どもたちのテンションが上がりやすくなるのです。
まずは、試験範囲で大事なことは何かをグループ内で共有することが必要でしょう。それだけを話し合わせて、全体で共有してから問題をつくらせてもよかったと思います。解第解決のための足場となるものが必要なのです。

4人のグループなのですが、2+2に分かれているグループが目立ちます。まとめるための紙が2枚あったので、1枚ずつに分担されてしまったようです。こういったことにも注意が必要になります。
結局子どもたちはそれぞれで問題をつくり一つにまとめているだけです。グループで話し合う必然性がないのです。黙々と自作の問題をつくっている子ども、集中力が切れている子ども、同じグループでも子どもたちの様子がばらばらになっていきます。

授業者は机間指導をしながら、個別の子どもたちと話をします。先生の役割は、子ども同士のかかわりを促すことです。授業者がかえって子どもたちのかかわりをじゃますることになってしまいます。
授業者としゃべっていた子どもが、その後集中力を失くしている場面がありました。授業者との話は課題解決のためではなく雑談になっていた可能性があります。

各グループでまとめた紙を授業者が回収して、全体に見せていきます。あるグループのものを見て「すごい」と声が上がります。一気に子どもたちの集中が高まります。友だちのものはやはり気になるのです。ただ、紙が小さいので細かいところまで見ることができません。実物投影機などを活用するとよい場面です。授業者は「なかなかいい線いっているんじゃないですか」と言って次のグループのものに移ります。もったいない場面です。せっかく子どもたちが反応したのですから、どこがすごいのかを子どもたちに聞いて評価させたいところでした。授業者が「いい線いっている」と言っても、その理由はわかりません。せめて、どうしていい線いっているのかを子どもたちに考えさせたり、説明したりして共有したいところでした。
順番に見せていく中で、授業者がきちんと評価しないものもあります。子どもたちにも評価させないので、これでは意欲が落ちてしまいます。子どもたちに、グループごとにお薦めだという問題を選ばせるといったことが必要だったでしょう。
問題を見る時は集中するのですが、授業者のコメントに対してはあまり集中しません。もう作業が終わって満足してしまって、授業者のコメントには興味がないのでしょうか。ちょっと気になる場面でした。
最後に、試験範囲が終わった後に授業者が出るかもしれないと言ったことをメモしておけば今回とても役に立ったはずだとまとめます。次の時間にもう一度確認すると子どもたちに告げますが、そうであればこの日の子どもたちの活動は何だったのでしょうか。結局先生が出したい問題を出すのかということになってしまいます。
子どもたちが、ただ問題をつくらされただけと思ってしまうことが心配です。

この授業の課題をいろいろと指摘しましたが、これはグループ活動を取り入れたから見えてくることです。逆に言えば、この課題を解決すれば、ぐっとよくなるということです。挑戦してくれたことが大きな前進だと思います。これからの進化がとても楽しみです。

今年から教壇に立つ講師の方の高校生の英語の授業は、小テストから始まりました。
子どもたちは、一生懸命に取り組んでいます。終わった後、子どもに答を言わせます。授業者は「ピンポン」と確認します。途中からは、授業者が答だけを言っていきます。答を聞けば理解できる問題なのかもしれませんが、少し気になります。間違えた子どもができるようになる場面を意識することが必要です。

2人か3人の組になるようにとだけ指示しますが、子どもたちは、どうすればよいか少し困っています。どの列とどの列がくっつくというように具体的に指示をする必要があったでしょう。2人が机を向かい合わせにしている組もありますが、ペアの場合はあまり勧めません。対決型になるからです。授業者がこれも指示するべきでしょう。
ABCの3つの問題が準備されています。組ごとに各自どの問題を選ぶかを決めます。問題は穴埋めです。「教科書を見ながらでいい」とどのページを見るかも指定します。子どもたちは黙々と問題を解きますが、組をつくる理由がわかりません。作業終了後、”dictation”をやると説明します。自分が穴埋めをした問題を読み上げ、それを聞いた人が書き写すのです。なるほど、そういうことだったのかとわかりますが、先が見えないミステリーツアーでした。作業開始前に流れを伝えておくべきだったでしょう。
この”dictation”が成立するためには、「読み手が正しい答を正しく発音で読むこと」「聞き手が、少なくともその文章に出てくる、単語や言葉を知っていること」が条件です。この条件を満たしているかが気になります。また、聞き手は穴を埋めるだけですから、文章を聞き取ろうとするのではなく、穴埋めの答だけを聞こうとします。言葉を理解する活動にはつながらない可能性があります。中には、聞かずに教科書を見て写している子どももいます。子どもたちは、友だちの言葉を理解するのではなく、ワークシートの穴埋めが目的化しています。ワークシートを使う時に気をつけなければいけないことです。

2人組をくっつけて4人組をつくります。リーダーを決めるように指示しますが、その必要性はあまり感じません。グループごとに異なった課題が与えられます。「3人称単数現在」「助動詞を使ってみよう」「5文型」といったものです。子どもたちが持っている文法の副教材を使ってこれらをまとめるのです。こういった知識をまとめて、英語が使えるようになるのか疑問です。このような課題をグループで取り組む、目的や目標は何かよくわかりません。しかも、グループごとに課題が異なるので、どう共有するのでしょうか。
まとめると言っても何をすればよいのかよくわかりません。授業者が個別のグループに対して説明しています。説明が必要なのであれば、作業を止めて全体に対して行うべきです。
また、子どもが授業者に質問して、それに対して答えています。グループで活動しているのですから、子ども同士で解決させるようにすることが大切です。授業者が子ども同士のかかわりを切ってはいけません。
基本的に、副教材の内容をまとめるだけであまり頭を使う必要はありません。子どもたちが個別に付箋まとめたものを貼るだけの作業になっています。
終盤になってくるとさすがに集中力が切れてきます。この活動の目標や評価が見えないので、集中を維持できないのです。最後にグループごとに付箋をまとめた紙を集めてこの時間は終わりました。
これを教室に掲示したりして共有するようですが、他のグループがまとめたことを見て力がつくのでしょうか。そうであれば、授業者がまとめて配ればそれでよいことになります。
子どもたちは、グループの形にすると頑張って取り組みます。だからこそ、何をやらせるのかが大切になるのです。

授業者は、アクティブ・ラーニングに取り組むために書籍を購入して勉強したそうです。意欲的な先生です。しかし、まず英語の力をつけるために何が必要なのかをしっかりと押さえておかないと、アクティブ・ラーニングは単なる活動になってしまいます。残念ながら高等学校の実践は、子どもが活動すればよいというレベルのものがまだまだ多いようです。単に形だけアクティブにしても意味はありません。
とはいえ、くどいようですがまず取り組んでみなければ何もわかりません。アクティブ・ラーニングをきっかけにして、英語の力をつけるにはどのような活動が必要なのか、じっくり考えてほしいと思います。まだまだ、教師人生はスタートしたばかりです。焦らずに一歩ずつ前に進んでほしいと思います。次に授業を見せていただく機会が楽しみな先生です。

この続きは明日の日記で。

学年の課題を考える

6月の上旬に中学校で授業アドバイスをしました。この日は3年生と1年生の様子を見ることを中心にしました。

3年生は、一部の授業で子どもたちの集中が切れていました。というか、子どもたちが先生を見透かしているように見えます。参加する子どもはテンション高く反応しますが、そうでない子どもは、自分に必要と思える場面のみ参加します。計算高いと言ってもいいでしょう。授業者がそこまでの参加を求めていないと子どもたちが感じているのかもしれません。授業者が子どもとの信頼関係を築けなかったということでしょうか。この学校では3年生になれば、どの先生の授業でも前向きに参加するのが通常なのですが、ちょっと気になります。どうこう言っても3年生です。授業者が意識をすることでよい方向へ変わっていくはずです。子どもたちに積極的な参加を求めてほしいと思います。
もちろん多くの授業では、子どもたちが積極的に参加している姿を見ることができます。しかし、子どもたちがよく聞いてくれるので、授業者がしゃべりすぎるように思います。また、授業業者が結論をまとめることが多いようにも感じました。力のある子どもたちなので、授業者が自分の言いたいことを言うのではなく、もっと子どもたちを活かすことを考えてほしいと思いました。

1年生は、出身小学校の色を引きずっている子どもが多かったように感じていたのでしたが、それがまじりあって一つの色になりつつあります。そのこと自体はよいのですが、隙あらばテンションを上げて発散しようという空気を全体に感じました。ちょっとした雑談や脱線に過剰に反応する傾向があります。授業者が意識してコントロールしないと、落ち着かせるのに時間がかかってしまいます。
このことは、授業者の問いかけによく反応する子どもがいるということでもあります。上手く拾って、全体につないでいけば授業は活性化するのですが、一つ間違えると一部の子どもと授業者だけで進んでいくことにもなります。このことを意識できている先生は上手く全体をコントロールできているのですが、そうでない方も目に付きます。授業者が、場面ごとに見せてほしい姿を明確にしていれば、子どもたちは素直にそういう姿になっていきます。
この学年の子どもたちは、授業者が意識していないと勝手な行動をとる傾向があります。同じ学級の子どもたちでも、授業者によって驚くほど見せる姿が変わります。力のある先生でも、自分の授業ではよい姿を見せているのでこのことに気づきにくい傾向があります。学年全体としてこのことを意識していないと、勝手な行動が増えていき、気づいた時には手遅れになってしまうこともあります。また、担任が子どもたちにどうあってほしいかを明確に意識できていない学級もありました。これは、担任に意識してもらうのはもちろんですが、まわりの先生方がサポートしないとなかなか立て直すことができません。
今回、学年主任と一緒に回ることができたので、こういった状況にはっきりと気づいていただけと思います。若い先生も多く、個々の力量に差がありますが、チームとして助け合って切り抜けることを期待しています。

この日は初任者の先生と一緒に授業を見る時間を多く取れました。
今回は特に、わからない、困っている子どもが、わかる、できるようになる場面を意識してもらいました。このことが一番よくわかるのが実技教科です。体育の陸上競技の授業でそのことを実感してもらいました。
ハードルはタイムを計っている場面でした。この場面は成果を知ることが一番の目的なのでしょうが、友だちの走っている姿を見て学ぼうとしたり、応援したりしている様子がないのが気になります。ただ走っているだけでは力はつきません。意識して走ることが大切です。また、授業では自分が直接活動している時間は意外と少ないものです。待っている間にどのような活動をするかがとても重要になります。友だちの走りを見てよいところを見つけたり、時にはアドバイスしたりすることは、自分が意識して走ることにもつながります。そういったことができるように、バディやグループで具体的に役割を与えておくことが大切です。走り高跳びなどは特に待ち時間が多いので、順番を待っている時間に何をさせるかを指示しておかなくては時間がムダになってしまいます。
この時間は複数の競技を同時展開しているのですが、集合させて話をする場面に差がありました。話しているのにもかかわらず、子どもたちの視線が指導者に向いていないグループもあれば、話す前から指導者を全員見ているグループもあります。その違いについて考えてもらうことで、どういったことが大切かを学んでくれたと思います。
わかったからと言ってすぐにできるようになるわけではありません。毎日意識して子どもたちと接することで、次第にできるようになるものです。大切なことは何かを意識し続けてほしいと思います。

今年度は諸般の事情で、訪問回数が減っています。次回は9月の訪問になります。夏休みを間にはさむので、どのような変化が起こるのか不安と期待が混じります。とはいえ、どの学年もチームワークはよいので、きっとよい方向へ変化すると信じています。楽しみにしたいと思います。

生活科でどんな力をつけるのか考える(長文)

小学校の授業研究で助言を務めてきました。
たまたま校長が、別の市で私が講師を務めている研修の担当だったことがあり、面識のある方で驚きました。また、私が関係していた研修会に学生時代ボランティアでお手伝いをしてくれていた先生もいたりと、何かと不思議な縁を感じる学校でした。

授業は2年生の生活科で、トマトをもっとおいしく、大きく育てるためにどんな世話をしたいかを考える場面でした。授業者は笑顔が多く、よい雰囲気の教室でした。
子どもたちに教科書の準備を指示して、今までどのような世話をしてきたか確認します。まだ準備ができていない子どもがごそごそしているのに挙手した子どもを指名します。指名された子どもの話を聞くことよりも教科書の開くことや見ることを優先している子どもが目立ちます。挙手している子どもを順番に指名しながら進みます。挙手は3分の1ほどだったので、いったん子どもたちの動きを止めて、改めて問いかけ直すとよかったと思います。また、今までやってきたことですからどの子どもも答えることができるはずです。隣の子どもと確認させるといったことをすれば、もっと挙手は増えたと思います。
友だちが発言の途中で詰まった時に、まだ発言中なのに挙手をする子どもが何人もいます。発言したくて、「あー」と声を出している子どももいました。発言意欲が旺盛なのはいいですが、友だちの発言が終わるまで待てるようにすることが必要です。基本的に一問一答で、同じ答であれば最初に発言しないと発言の機会がないことが原因の一つです。「同じように考えた人と?」といった、つなぐことを意識するとよいでしょう。
挙手して指名された後、言葉が出なくなる子どもが何人もいました。挙手して指名されることが目的化して、指名されると発言したいことがとんでしまうのでしょうか。このこともちょっと気になりました。

子どもたちに、大きな野菜、おいしい野菜をつくろうとする意欲を持たせるためでしょうか、野菜を使った料理の動画を見せます。パソコンの調子が悪かったこともあり、授業者は動画を再生している間ずっとパソコンにつきっきりで、子どもたちを見ていませんでした。途中で画面から目を離している子どもがいたのに気づいていないようです。
「おいしそうでしょう。いっぱい、ナスやピーマンも使っていたし、野菜がいっぱいできたらつくれそうだね」と話しますが、子どもたちはそのことを意識していたでしょうか。動画を見せる時は、その目標を子どもたちに明確に与えないと、漫然と見てしまいます。「どんな野菜を使っていたか、後で聞くからね。しっかりと見てね」といった、視聴後にする質問をあらかじめ与えておくとよいでしょう。

「甘くて、おいしくて、大きくて、たくさんのトマトをつくりたい。どんなお世話をしてあげたいか」という、課題を子どもたちに問いかけます。教科書を見ている子ども、集中力をなくしている子どもいろいろです。挙手は数人です。まず、考える時間を与えることが必要です。また、どんな世話をしてあげたいかというのは、根拠なく答えることもできる発問です。意図的に発言しやすくしたのかもしれませんが、ちょっと違和感がありました。大きなトマトをつくるといった目的があるのですから、そのために必要なことをもとに考えることが必要です。「子どものしてあげたいことを出させ、それは何のためかと理由を整理していくのか」、「知識をもとにどうするとよいのか、自分にできることは何かを考えさせたかったのか」、ねらいがよくわかりませんでした。

子どもたちは、したいことというより、今までしてきた世話のことを発表しているようです。授業者も、「水やりと書いていた人、他にもいたよね」と声をかけ、子どもたちは「賛成」とハンドサインを出します。したいことなのですから、「賛成」という言葉は違和感がありました。また、水やりは欠かすわけにはいきませんので、全員手が挙がるべきですが、挙がらない子どもがいたことが気になります。その子どもたちに、「水やりやらない?」と声をかけて参加を促したいところでした。
「水やり賛成の人、他にも言ってもらおうかな」とつなぎます。続いて水をたっぷりやるといった意見が出てきますが、それを受けて授業者はすぐに板書をします。「同じ意見の人いる?」「違う意見の人いる?」と、聞いている子どもたちを常に参加させることを意識する必要あります。友だちの意見を聞いていない子どもたちが目立ちます。授業者が板書してもそちらを見る子どもも少ないようです。板書中にすでに挙手をしている子どももいます。子どもたちの姿がバラバラになっていきました。
「水はたっぷりあげた方がいいんだ?」と揺さぶると、水はあまりあげない方がいいという意見がでてきます。授業者はどちらの意見も受容します。なかなか面白い展開です。この意見に続いて、「水をやりすぎると根っこが腐る」という意見が出てきました。授業者が、「何で知っているの?」と問い返すと、「お母さんに聞いた」と返ってきます。「根っこが出てきちゃう」「実が割れちゃ」と子どもの意見が続きます。授業者は「水をあげた方がいい(と思う)人いないの?」と揺さぶったりするのですが、立ち止まって焦点化する時間がないため、多くの子どもはこの展開についていけません。集中力がなくなってきました。
どこからか知識を得た子どもがそれを披露しているだけです。他の子どもがその意見に対して反論や同意をすることはできません。そのための根拠となるものが何もないからです。授業者は子どもの意見をしっかりと受容するのですが、発言者以外はかかわれない状況が15分以上続きました。

水やりをどうするといいのかは、知識です。挙手で発表させていくだけでは意味がありません。知識を与えたければ、教えればいいのです。そうではなく、今後の理科や社会科につなげるのであれば、どうすれば知識を得られるかを考えさせることも意味があります。「両親やまわりの大人に聞く」「本で調べる」「条件を変えて育てる実験をして観察する」といったことを考えさせたり、整理したりするのです。
「お母さんに聞いたんだ」と強調して、「誰かに聞いた人いる?」とつなぎ、「わからないことは聞くという方法があるね」とまとめたり、「どうすれば確かめられる?」と聞いたりするとよいでしょう。「本で調べる」「試してみる」といった言葉がでてくれば、それを整理することで、知識の得方がわかってきます。

水やりに続いて肥料の話になりましたが、肥料をあげる間隔、時期などを詳しく説明する子どもがいます。これはよい機会です。授業者は「どこに書いてあったの?」と確認して、本を持ってくると、「ここに書いてあったね」と全体に示します。ここは、本で調べることをきちんと価値付けして、「本で調べるといろんなことがわかるね。他にも本を見た人いる?」「どんな本を見た?見たらいいの?」と学級全体で共有したい場面でした。

水やり、肥料以外にも何をしたいかを発表させますが、子どもたちの集中力は戻りませんでした。
意見が出尽くしたところで、ここからTTでの授業に変わります。「野菜づくりの名人の先生に聞きましょう」ともう一人の先生がゲストで登場します。ゲストの先生は、子どもたちがいっぱい考えてくれてうれしいと最初に伝えます。Iメッセージを上手く使っていました。
水のやり方について実験をします。乾いた土を入れた水槽に水を撒いて、どのようになるのかを実物投影機を使って観察します。「やって見よう」と言うのですが、「どれくらいの水をやればいいのか、試してみよう」と目的を明確にした方がよかったと思います。
担任が水をやり、ゲストの先生が解説するのですが、担任は水やりで、ゲストの先生はディスプレイを見ているので2人とも子どもを見ていません。子どもの反応を見ることは、誰を指名するかといった次の展開を考えるために重要なことだという認識を持ってほしいと思います。
ペットボトルの半分くらい水をやったところで、ゲストの先生が「さっき半分くらいって言ってくれた子がいたね」と説明します。「半分やる」がまだ子どもたちに課題として共有されていません。実験を始める前に、「半分と言った人もいたね」「たっぷりと言う人もいたね」と確認して、このことを意識させておくとよかったでしょう。

横から見て、半分では水が下まで浸みていないことを目で確認した後、土を掘って見せます。白い土が見えると子どもたちから「あっ」という言葉が湧き上がってきます。わざと上からだけしか見せずに、「しっかり水が浸みたね」とミスリーディングしてから見せると、もっと効果的だったでしょう。
子どもたちが反応するよい場面でしたが、それだけに、子どもたちに課題を意識させたり予想させたりすることをしておくと、実験の意味がもっとよくわかったでしょう。ちょっともったいないと思いました。

ここで、ゲストの先生が手作りのトマトの根っこのモデルを見せて、水がどこまで浸みなければいけないかの説明をします。根っこがどのようになっているのか子どもたちは観察したのでしょうか。もし、そうであればどんな風になっていたかを子どもたちに確認したいところでした。そうでなければ、実際に見せるか、写真で確認することが必要だったと思います。授業者が一方的にモデルを与えると子どもたちは自分の目で確かめようとしなくなります。理科につながっていくことなので、事実を確認することを大切にしてほしいと思います。

「水が途中までしかないと、全部の根っこは水をもらった?」問いかけますが、ちょっと誘導しているように感じます。「これでいい?」と確認して理由を聞けば、子どもたちで説明できると思います。時間の関係もあったでしょうが、ちょっともったいない気がしました。「下の方、もらえない」というつぶやきを拾って、結局先生が、水が皿に出てくるまでやればいいと結論をまとめました。「下まで水が浸みたかどうかどうすればわかるんだろう?」と問いかけるとよかったでしょう。鉢の底に穴が空いていることに上手く気づいてくれれば、子どもたちから答は出たと思います。

この日、水をあげたかどうか子どもたちに問いかけます。どちらもいます。「その理由を言える人?」と問いかけますが、子どもたちは、先ほどの水をたっぷりやるか、やりすぎないかの話に引きずられて、「水をあげるとトマトがまずくなると教わった」といった意見がでてきます。「今日あげなかったのは?」と返すのですが、なかなか答が出ません。水やりするかしないかを意識してやっていなかったのでしょう。もっとダイレクトに、「朝トマトを見てどういう状態だったら水をやる?やらない?」と聞き直した方がよかったかもしれません。
なかなかねらった答が出ないのですが、先生方は否定せずにうなずいたりしてしっかりと受容していたのはよかったと思います。
結局、ゲストの先生が「これは、乾いているかどうかだ」と結論づけました。苦しい展開でした。その日の朝の状態を写真に撮って見せる、いくつかの例を写真で見せるかして、水をやる、やらないを子どもたち判断させるとよかったと思います。

担任が実際のトマトの苗に水をやって見せます。上の方から水をかけると、子どもたちからダメという声が上がってきます。身を乗り出して見ている子どももいます。子どもたちの集中力が戻ってきたのですが、テンションが上がっていきます。「こんな風にあげている人?」と聞くと結構います。他のやり方をしている子ども指名して実演させます。根元から水をやりました。「どっちがいいの?」と問いかけますが、「時間がないので先生が正解を言います」と土がえぐれるので、根元から水をやるのが正解と解説します。子どもたちのトマトの中には土がえぐれて根っこが見えているのもあると補足します。時間の関係もあるでしょうが、実験をして見るか、土の様子の写真を見せて、どちらの水のやり方だろうと問いかけたりできるとよかったと思います。

土がえぐれていたらどうするかを問いかけ、土をかぶせるという発言に「先生も大賛成」と答えます。結局、授業者が正解かどうかを判断しています。これでよいかどうか子どもたちに問いかけたいところでした。
ここから肥料のことや育て方のポイントをゲストの先生が説明をし続けます。せっかくICT機器があるのですから、だらだら話すのではなく、要点を整理してディスプレイに映して見せればよかったでしょう。
ゲストの先生が話し終った時に拍手がパラパラだったのが印象的でした。子どもたちは受け身の時間が長かったため、もう集中を維持することができなかったのです。

担任が最後に、「いっぱい教えてもらったね。やってみたいことあった?」とまとめて終わりました。子どもたちが受け身で、考える時間が少なかったのが残念でした。
子どもたちに伝えるのに、実験をしたのはとてもよかったのですが、しゃべりすぎていました。子どもたちの苗の様子などの事実をディスプレイに映しだせば、子どもたちが考えるきっかけをつくれたと思いました。

検討会では、子どもたちを全員参加させること、活動させることを中心にお話をさせていただきました。
次回は夏休みに話をさせていただくのですが、事前に質問をいただくことになっています。どのような質問が出るか楽しみです。

第3回 教育と笑いの会

6月の始めに第3回教育と笑いの会が開かれました。
今回は東京での初開催です。教育と笑いの会と授業と学び研究所の主催ですが、ベネッセコーポレーションに後援をいただき、会場の提供や準備で大変お世話になりました。また、いつものように協賛会社のEDUCOMの社員の方が裏方として大活躍をして下さいました。多くの方に支えられていることに感謝です。
野口芳宏先生の教育漫談、瀧澤真先生と鈴木美幸先生の漫才、玉置崇先生の教育落語、桂雀太師匠の落語、そして横山験也先生司会によるそれまでの登壇者に山中伸之先生を加えての大喜利でした。

今までの2回は最後に出番があったため、純粋に客として楽しむことができませんでしたが、今回は出番がなく新鮮な気持ちで見ることができました。

野口先生の教育漫談は、教え子とその保護者とのエピソードを漫談仕立てにされました。驚いたのが、事前に野口先生がメモを取って話の整理をされていたことです。過去2回は、ほとんど準備なしでお話しされていたので、今回にかける気合のようなものを感じました。
とはいえ、いつも通りの語り口で野口先生の人柄がダイレクトに伝わるお話です。今回のエピソードは私がかつて聞かせていただいたことがあるものですが、それにもかかわらず楽しく、笑わせていただけました。
常に謙虚な野口先生の人柄を感じられる、それだからこそおかしい話に、「ああ、やはり野口先生だ。昔からちっとも変わらないんだなあ」と何度もうなずいていました。野口先生の人柄を知っているからこそ一層笑えたように思えました。

続いて瀧澤生と鈴木先生による教育漫才です。教師のあるあるを話題に、そうそうとうなずきながら楽しむことができる内容でした。お二人が野口塾の飲み会で話していることを野口先生が聞かれて、「面白いからこれを東京でやりなさい」と鶴の一声で実現したそうです。漫才などやったことのないと思われるお二人ですが、とても仲よく楽しそうで、それだけで見ている私たちも楽しくなる、そんな芸でした。

休憩をはさんで玉置先生の教育落語です。玉置先生は、落語のみの出演依頼もたくさんある方ですから、もう余技の域を越えています。新調したばかりの着物の話から始まり、安定して楽しめる一席しでした。だからこそ、この後の桂雀太師匠の噺が際立ちます。プロの噺を際立たせることができるだけの、プロと同じ舞台に上がる資格のある素晴らしいものだったということです。

教育と笑いの会で毎回口演いただいている雀太師匠は、毎回素晴らしい噺を聞かせていただけます。いつもと同じつかみで、落ちがわかっていても笑ってしまうおもしろさはさすがです。しかし、それ以上に感動したのは、私のような素人が言うのも失礼なのですか、師匠の芸がとても進化しているように思えたことです。上手く表現できないのですが、ムダというか、雑味といったものが減って、すっきりと芯の通ったものになっていたのです。雀太師匠の持ち味や芸風が変わったということではありません。むしろムダがなくなることでより際立ったように感じます。雀太師匠の持ち味で、噺の面白さが広がり深まったと言ってもよいでしょう。前回の口演からまだ半年しか経っていません。関西の新聞社主催の新人賞を取られたこともうなずけます。勢いを感じました。懇親会では、その変わるきっかけとなったのであろう出来事についても、聞かせていただくことができました。日々芸を磨いている方だからこそ、経験を活かすことができるのだと改めて気づかせてくれるお話でした。

最後は、横山先生司会による大喜利です。正直これはどうなるかと一番心配していた演目でした。お題は登壇者が事前に考えて持ち寄ったはずですが、当日の打ち合わせで玉置先生の準備していたもの以外全部没になったということで、さらに不安はつのります。
しかし、横山先生が、当意即妙で場を見事に切り回します。ところどころ、教育についての話につなげながら、教育と笑いの会にふさわしい内容にしていきます。
玉置先生と雀太師匠も司会とうまく絡み、広がりのある、しかも楽しい時間になっていきました。
今回の大喜利を野口先生がたいそう気に入られ、これから野口塾の最後の10分間は大喜利を行うことになったそうです。ちょっと覗いてみたくなります。

実は、今回の教育と笑いの会は事前準備の時間も短く、どうなるかと心配していたのですが、協力会社の皆さんや登壇者のお力で、終わってみればとても楽しいものになりました。感謝感謝です。
次回は名古屋に戻っての開催です。私も今までの司会ではなく、芸をやれとの玉置会長からのお達しを受け、今からドキドキしています。12月10日(土)の午後の予定ですが、詳細は9月ごろに授業と学び研究所のホームページでご案内できると思います。昨年は数週間で満席になりましたので、興味のある方はチェックを忘れないでください。
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