幾何ツールの研究会で授業の奥深さを実感する(その2)
前回の日記の続きです。
2回目の授業は、導入から全く異なったものになっていました。どうやら授業者は当初の指導案を完全に捨てたようです。証明のための戦略を考える授業に変えたようです。 まずは、子どもたちに九点円に興味を持たせることから始めました。ユーモアを交えて子どもたちとやりとりしながら進めていきます。授業者の個性が活きています。三角形の形を変えても、いつも9つの点が同じ円周上にありそうだと気づかせます。 続いて、同じ円周上にあることを言うためにはどんなことが言えればいいのかを聞いていきます。「何とかして円周角を……」といった言葉が出てきます。子どもの言葉を受けて授業者がすぐに言葉を足して説明します。時間がないということもあったのでしょうが、どうも物わかりがよすぎます。子どもたちが優秀なのか、かなり不十分な説明でも疑問を持たずに過ぎていきます。数学としては押さえるところはきちんと押さえておきたいところでした。「内接四角形を探す」「対角(の和)が180°のものを見つける」といった言葉が続き、「どんなのでもいい?」という問いかけに「長方形」「正方形」といった言葉が返ってきます。ここで「4つは見つかる」とまとめます。「(9つはいきなり無理でも)4つ(の点が同じ円周上にあるの)は見つかる」ということなのでしょうが、ちょっと言葉が雑です。もう少していねいに押さえておきたいところでした。 「どうしたらいい?」と子どもたちに問いかけると、「9つの(点)を3つずつ重ねる」という意見が出ます。授業者はうまく処理できませんでしたが、「それってどういうこと」ともう少しこの考えも聞いてみたいところでした。おそらく、「3つの点であれば外接円をかけるから、それが一致することを言えばいい」と考えたのだと思います。上手くいくかどうかは別にしてこれも立派な方向性ですから評価したいところでした。 「4つ適当にとる」という意見も出ます。「適当」に反応して「ある程度適当にとる」という言葉も出てきます。「仲間の点(垂線の足、垂心と頂点を結ぶ線分の中点、各辺の中点)を3つ結んで三角形を3つつくる」といったアイデアもあります。子どもたちからいろいろ意見が出たのですが、「どういう風にしたら内接四角形ができる?」と授業者が方向性を決めてしまったのが残念でした。子どもたちで方向性を決めさせたいところでした。 ここでiPadの登場です。今回は、だれもiPadを立てません。下に置いて額を寄せ合って見ています。先ほどの授業とは全く様子が違います。子どもたちの課題となっていたのです。幾何ツールをまだ使い慣れていないのか上手く線分をひけません。悪戦苦闘をしながらいろいろな図をかいています。とてもよい姿です。ここで、長方形を見つけたグループのiPadをスクリーンに映します。長方形になっていたのですが、結ぶ点が違っていたため三角形を変形すると崩れます。するとあるグループが声を上げます。言いたくてしょうがないという様子です。このグループの図は崩れないのです。授業者が取り上げ、この図の三角形を変形して見せ、いつでも長方形になっていることを示しながら「すごくなーい」と子どもたち問いかけます。幾何ツールのよさが実感できます。検討会で確認したところ、きちんとできているグループがあることを知っていて、あえて上手くいかないグループを先に発表させたようです。なかなかインパクトのある演出でした。 子どもたちから、もう一つの長方形に気づく声が出てきます。対角線が「重なっている」「同じ」といった説明に、「なんでー?」といった声が返ってきます。重なっている対角線を示して出てきた「直径」という言葉に、今度は「すごいじゃん」と反応します。子どもたちが真剣に授業に参加し、心が動いていることがよくわかります。6点が同一円周上にあることが言えることがわかり、「残り3点はどうなのか?」を次の課題として投げかけました。ここで残り15分です。かなり時間的に苦しいと思ったのですが、ここからの子どもたちの頑張りは目を見張るものがありました。それぞれがワークシートの図を見ながら考えているのですが、残り3点ではなく、その前にきちんと長方形になる証明をしなければとこだわっている子どももいます。どの子どもも真剣です。友だちに語りかけるともなく「○○じゃない?」というつぶやきが聞こえてきます。それに対して、自分のことに集中していると見えた子どもが反応します。個別に活動しているように見えるのですが、見事にかかわり合っていました。 残り3点について、全体の場でわかった子どもが説明します。説明を聞きながら「あー本当だ」「言えてる」といった声が上がります。子どもたちが素早く理解できているのは、幾何ツールを使っていろいろ試した時間が効いているように思いました。しかし、全員がすぐに理解できてはいないので、ここで少し止めて、まわりと相談、確認をさせたいところでした。子どもたちから、つぶやきが出てくることはとてもよいのですが、まだまわりとはすぐに相談しません。自然に相談できるようにしたいところです。 九点円の証明の流れをほぼ子どもたちが理解できたところで、時間となりました。ここで、「長方形になることを言わないといけない。説明したい」という子どもが出てきました。どうしたものかと授業者が思案しましたが、他の子どもたちも聞きたいという姿勢を見せます。授業者は延長する覚悟を決めました。説明を聞く子どもたちの姿は真剣そのものです。視線が発表者に突き刺さるようです。一つの三角形で説明し終わったあと、「もう片方も同じでいける“はず”」と言葉をつなげました。素晴らしい発言だと思います。“はず”という言葉には、必ず言えるという確信があるということです。この言葉を評価して、数学的な価値を伝えたいところでした。 最後に授業者が「これで9点全部について証明できたことになったのかな?」と問いかけ、子どももたちから「はい」という返事が返ってきました。「ここまでできると思っていなかった。すごい」と子どもたちをほめると自然に拍手が出て終わりました。 子どもたちは九点円の証明が理解できてスッキリしたように見えました。しかし、授業後一部の子どもが黒板の前で話しています。説明がまだ理解できていなかった子どもたちが、相談していたのです。何となくではなく、きちんと最後まで理解したいという気持があるからこそ、こういった姿が見られるのです。子どもたちの課題になっていたということです。とても素晴らしいと思いました。 この授業だけを見ていたら、おそらく「子どもたちが素晴らしい」といった感想を持って終わったでしょう。しかし、先ほどの授業を見ているから、子どもの質ではなく授業のあり方で子どもの姿が変わることにはっきりと気づくことができました。この研究会にはずいぶんと長い間かかわってきましたが、これほど大きく指導の内容を変え、これほど大きく子どもたちが変わったことは初めての経験でした(子どもたちの様子が劇的に変わった例はありますが、指導の内容は大きくは変わっていませんでした)。 2回目の検討会では、子どもたちの様子が劇的に変わったことを中心として、何がよかったのかについて多くの時間が割かれました。 授業者はある意味居直って、どこまでいけるかわからないが子どもたちに任せる気持ちになったようです。最後まで証明ができるとは少しも思っていなかったようです。子どもたちに任せようとした結果、授業者の個性が活かされ、うまく子どもたちの言葉を引き出すことができました。子どもたちが集中して授業に参加した大きな要因だと思いました。 参加者からは、「図を動かしてみせたりして、子どもたちに『あれ?』と疑問を持たせたことが、子どもたちの課題となった大きな要因だ」「子どもたちが額を寄せ合ってiPadを操作していてことから、子どもたちの課題となっていたことがわかった」「幾何ツールを操作することで、課題が深まり思考を促した」「子どもたちの課題となっていたから、自然にかかわり合うことができていた」といった意見がたくさん出ました。この2つの授業から多くのことを学んでいただけたと思います。 最後に各グループの活動のビデオ撮影などで参加してくれた学生さんたちにも感想と意見を聞かせてもらいました。授業者の「指導案を捨てる」という言葉が印象に残ったようで、指導案を捨てることが時に大切だということを学んだという発言がたくさん出てきました。「指導案を捨てて、子どもたちに柔軟に対応すること」はとても大切です。しかし、今回の授業はそういったものではありません。予定していた指導案は捨てましたが、代わりの指導案は書かないまでもある程度頭にはあったはずです。というか、それまでいくつも指導案を考えてきたからこういった対応も可能になったのです。「指導案を捨てた」と一言で言えることではないのです。学生さんたちがもしこれをやってしまえば、十中八九授業は迷走すると思います。このことに気づいてほしかったのですが、時間の関係もあり指摘する意見を拾うことはできませんでした。申し訳ないことをしました。 同じ題材やツールを使っても、授業の構成によって子どもたちの姿は大きく異なってしまいます。課題の見せ方、与え方で子どもたちのツールの使い方も大きく異なります。教師が素材や道具をどのように活かして組み立てるかで、授業は全く別のものに変わります。授業の奥深さを改めて実感しました。 幾何ツールの研究会で授業の奥深さを実感する(その1)
幾何ツールを使った中学校数学の授業研究会で、検討会の司会を務めてきました。この授業研究会の特徴は、一度授業を行って検討会をした後、それを受けてもう一度別の学級で修正した授業をすることです。授業者にとってはとても厳しく、参加者にとってはその変化からとても多くのことを学べるものです。
今年のテーマは九点円(三角形の各頂点から辺におろした垂線の足、垂心と頂点を結んだ線分の中点、各辺の中点の計9点を通る円がかける)を題材にしたものでした。 最初の授業では、辺の中点と垂心と頂点を結んだ線分の中点の6点が同一円上にあることの証明を一つのゴールとしました。6点のうちの4点を組み合わせた3つの四角形が長方形になることに気がつかせ、それを証明させようというものです。 授業者が問題となる図をスクリーンで説明をします。点の条件が示されますが、一つひとつをきちんと理解する前に次の点の説明となるので子どもたちはついていけないように見えます。また、なぜこのような点を取るのか、必然性がよくわからないため集中力が落ちているように感じます。この点を見てどんな図形なると問いかけますが、これでは答えようがありません。授業者は円と答えてほしいのでしょうが、点は点です。子どもの言葉を拾って、「円になりそう?」と全体に返しますが、一部の子どもはどういうことかちょっと戸惑ったのではないでしょうか。円になるのはどういう条件だったか聞きますが、「同一円周上に点がある」と正しく表現してほしいと思います。このように言葉を雑につかうことが、子どもの混乱を助長しているように見えました。 点が円周上にある条件を確認していきます。3点を通る円は、「点と点をつないだ線の垂直二等分線の……」と指名された子どもが説明しますが、授業者は「点と点をつないだ線分」と修正しません。子どもたちも言葉を雑に使っていることが気になります。「4つの点が同一円周上にある」を「4つの点を結んだ四角形がどうなるか?」と置き換えます。「内接する四角形になる」という答が返ってきました。これも、別の用語で置き換えたのですが、これに限らず子どもの発言を評価しません。四角形が円に内接する条件を確かめて終わりましたが、もう一度「4つの点が同一円周上にある」ことを言うには、「4つの点で作られる四角形の向かい合う内角の和が180°になる」ことが言えればいいと整理しておいた方がよかったでしょう。また、「特定の2点と他の2点を結んだ線分で作られる2つの角の大きさが等しい」というのもよく使われる条件ですから、四角形だけにこだわるというのはちょっと誘導しているようにも思えて気になりました。内接する四角形(向かい合う角の和が180°)になる四角形にどのようなものがあるかを問いかけ、正方形、長方形といった言葉を引き出し、iPadを使って長方形を見つけることを課題として提示しました。 ここまでの導入がかなり長かったため、子どもたちの集中力が落ちています。グループに一つのiPadで幾何ツールを使うことで子どもたちがどのように活性化するのかに注目しました。 子どもたちの動きは、思ったほど活性化しません。iPadを立てて使うグループが目立ちます。当然一部の子どもしか操作できませんし反対側の子どもは画面を見ることもできません。しかし、参加できない子どもはさほど気にしていないようすでした。子どもたちにとって、課題が自分のものとなっていない、この課題を解決したいと思っていないということなのでしょう。 「長方形を一つ見つけたグループがある」と紹介しますが、子どもたちはあまり反応しません。結果を知らされてもそれが自分たちの活動にどう活きるかよくわかりません。その後の見通しがはっきりしないので、次第に子どもたちの意欲が落ちていきます。続いて「もう一個みつかった」とみんなに知らせますが、長方形をたくさん見つけることが課題なのか、何を目指しているのかが子どもたちにははっきりしません。 授業者が「長方形になる証明をしてみよう」と課題を子どもたちに提示しますが、子どもたちにして見れば、全体の見通しがないまま次々に課題を与えられているだけです。子どもたちは幾何ツールを通じて自分の課題を見つけたわけではありません。授業者の指示に従ってただ問題を解いているだけなのです。最初からこの図を与えて、「長方形になることを証明しなさい」というのとほとんど変わらないのです。 子どもたちは、証明に取り組みますがなかなか手がかりが見つかりません。この前の場面で幾何ツールを使ったことがここにつながっていません。子どもたちは単に長方形となる四角形を見つけようとしただけで、各点はどのような条件ものか意識して活動はしていません。三角形を変形しても変わらない性質を見つけることも意識していないので、証明の手掛かりになるようなものを見つけていないのです。ワークシートにはあらかじめ図がかかれているので、ますます点の条件を意識しないのです。中には、自分で図をかくところから始めている子どもがいます。こうすることで課題の条件をしっかりと把握できます。こういった行動を評価したいところです。 授業者は机間指導をしながら、グループの中に入って話をします。授業者があまりかかわりすぎるとせっかくグループにした意味がなくなります。子どもたちに任せることが必要です。「だめだ!頭がまわんない」と声を出す子どもがいます。この子どもに対してグループの他の子どもがかかわりません。子どもたちが個別に問題を解いているといった状況です。グループである意味がよくわかりません。このような状態であれば、一旦活動を止めて、どこで行き詰っているのか、どんなことをやったのかといった過程を全体共有することが必要だったと思います。 授業者は、机間指導の合間に「いろいろ見えてきた」と声を出しますが、こういった曖昧な言葉はかえって子どもの思考を混乱させます。具体的にどこに注目しているといったことを伝えた方がよいでしょう。 指名した子どもに発表をさせます。説明中でキーになる三角形が出てきました。それをきっかけにいくつかのグループが動き始めました。説明を聞かずに自分で考え始めます。しかし、授業者はそのまま説明を続けさせます。とてももったいないと思いました。多くの子どもがゴールにたどり着いていない時には、いきなり最後まで説明させるのではなく、どの三角形に注目したといったことを発表させて、もう一度子どもたちに取り組ませるとよいのです。 何人かの子どもに説明をさせますが、証明の形で板書をし始めると多くの子どもが友だちの説明を聞かなくなってしまいました。結局先生の代わりをわかった子どもが務めただけで、答を教えられる授業になってしまいました。 この後の1時間の授業検討を経て、授業者は別の学級で再度同じ授業に挑戦します。いつもは、先生方に自由に発言していただきながら授業の課題を焦点化して改善へのヒントにするのですが、今回はこの手法だと指摘が拡散して授業者がどこを改善していけばいいかがはっきりしないで終わる危険性があります。司会者が方向性を事前に決めることはあまりしたくないのですが、あえて「この授業で数学としてどういう力をつけたかったのか?」「幾何ツールを使う意味はあったのか?」「グループで活動する意味はあったのか?」と3つの視点に絞って検討をお願いしました。授業者には反論をする機会を与えませんでした。論客ぞろいの参加者です。下手に反論してそこでいろいろと言われるよりも、まずいろいろな意見を聞いてもらい、答は次の授業で出してくれればよいと考えたからです。 「この授業で数学としてどういう力をつけたかったのか?」という視点では、九点円を題材として、「証明をするには何と何を証明できればいいという全体を見通す力(戦略)をつけるのか」、それとも「特定の4点でつくられる四角形が長方形になることを中点連結定理の応用としてきちんと証明するような力をつけるのか」という2点に集約されました。1時間の授業では時間が足りないので、すべてを証明することは無理でしょう。だからどちらかに絞ることになるというわけです。授業者はどちらかと言えば後者を選んだのですが、そうであれば九点円という題材が活かされ、課題が子どもたち自身のものになるような場面が必要だったのではないかといった指摘もありました。これは次の「幾何ツールを使う意味はあったのか?」という視点ともつながります。子どもたちは単に長方形を見つけるために幾何ツールを使っただけで、課題の発見や課題の解決には利用していません。子どもたちが何らかの発見をする道具として活かしたいという意見と共に、実際に幾何ツールで円をかかせてみるといった具体的な活用方法もいくつか示されました。とはいえ、短い時間で用意した図を大きく変更させることはできません。今ある図を活かすような活動がどのようなものかを考えることが求められます。 「グループで活動する意味はあったのか?」ということについては、子どもたちはグループ活動に慣れていないという指摘がありました。iPadを使う時に一部の子どもが独占していたことや、長方形になる証明の時に子ども同士がかかわり合っていなかったことからの指摘です。課題が自分のものとなっていないので、友だちと相談してでも解決しようという思いが弱かったとも言えると思います。かかわる必然性がないと言い換えてもいいでしょう。子どもたち自身の課題となることがカギになると思われました。そのために、「どういった場面で幾何ツールを使うのか」「そもそもこの授業で何をねらうのかといったことが改めて問われます。授業者は次の授業でどのような判断をするのか、非常に興味の湧くところです。 この続きは次回の日記で。 企業との勉強会で、よいものを開発し普及させる難しさを感じる
授業と学び研究所と企業とで、これからの学校におけるICT活用に合同勉強会が行われました。前回の続きで、その際に話し合えなかったことが話題の中心でした。
今回は学校と家庭をICTでどのように結ぶのかが主な話題となりました。学校にICT活用サービスを提供している企業の多くは、「こんなことができます」と一見するとなかなかよさそうで使えそうに見える機能を提唱します。しかし、多くの場合、それらは学校のかけるコストに見合うだけのものを得られていないように思います。中には、それを実行することで、かえってマイナス面が増えるようなものもたくさんあります。家庭向けサービスについて言えば、一部の特別な学校や家庭でしか望まれていないものや、既存のものと置き換えることや並行して提供することで家庭の利便性が見込めるがそのサービスを提供することが本来の学校のねらいとずれてしまうようなものがたくさんあるということです。 話し合いでは、企業の方からいろいろなサービスの可能性を提案していただきましたが、私たちから見るとそのようなあまり意味のないものが多いように感じました。しかし、よく聞いて見ると、彼らもそのサービスがよいと感じているのではないというのです。それらはほとんどがライバル企業の提案しようとしているものなのです。ならばそれらの企業のサービスが学校現場に導入されないだけで問題がないように見えるのですが、それほど単純ではないのです。機能がたくさんあって、なんとなくよさそうであれば、いやそうであるほど導入される率が高いというのです。機能がないよりあった方がよいと考えたり、ちょっと見であると便利そうと思えたりすることが重要で、本当に使われるかどうか、そのサービスを提供することが本当に意味のあることなのかの検討は真剣になされないようです。理由の一つに、導入の決定が学校現場のことがよくわからない行政の担当者によって進められることがありそうです。彼らが決していい加減というわけでなく、どうしても行政サービスと同じような感覚で学校を見てしまうからです。提供を受ける家庭が満足すればいいのではなく、最終的に子どもたちの教育にとってそれがどれだけ良い効果をもたらすかが問題なのです。現場からの意見も大切にされますが、現場でICTに詳しい方と学校の経営にたけた方が一致しないことも多く、なかなかよい方向に議論が進んでいかないことも目にします。 企業の方は、「このサービスは意味がない、いやない方がいい」と考えても、その機能がないことが導入の障壁になってしまうのは避けたいと思っています。それは企業として当然です。だからこそ、それらの機能やサービスを学校現場にとって意味のあるものにしたい。本当に必要なものを学校に提案したいと真摯に考えて、私たち授業と学び研究所のフェローに相談してくださっているのです。私たちは純粋に学校にとって必要なこと、意味のあると思えることを提案しますが、企業はそれを単純に形にすればいいというわけではないのです。 この勉強会を通じていくつかの方向性が見えてきたように感じます。それが具体的にどのような製品サービスとなっていくのかとても楽しみです。学校現場にとって意味のあるものが提供され、普及していくことに私たちが少しでも役に立てればこれほどうれしいことはありません。 第2回授業深掘りセミナー(その3)
前回の日記の続きです。
今回の「教育情報知っ得!コーナー」は私の担当です。「反転授業」について参加者の皆さんと一緒に考えさせていただきました。 最初に「反転授業」という言葉を知っているか会場にたずねたところ、意外と少なく2/3に満たないほどでした。そこで少していねいに「反転授業」の定義を説明しました。その上で、「反転授業」は効果がありそうか皆さんに考えてもらいました。 子どもが喜んで予習してくれて、効果のある動画が用意できればこれは魅力的だと思えます。しかし、それは誰が準備してくれるのでしょうか?先生方につくれというのでは負担は半端ありません。これが大きな問題です。また、全員が予習をしていればいいのですが、してこなかった子どもがいた時にはどうすればいいのでしょうか?もう一つ、子どもたちが事前に予習をして公式や基礎知識を学んできたとすれば、今まで授業でやっていたことのかなりの部分を既に学習していることになります。その時、何を授業でやればいいのでしょうか?事前に学習したことを活かした活動を行わなければ意味はありません。それは具体的にどのようなことでしょうか? このような疑問や問題点が見えてきます。 具体的な授業場面で考えていただきました。 台形の面積の求め方を従来の授業でやるとすると、紙を切ったりといった活動をして考える時間を取り、どのように考えたかを発表するといった流れになると思います。一方、CGなどを使った動画を見て子どもたちが予習をしてくると、学習してきたことをもとに求め方の説明をするといった活動や演習で定着させる時間になると思います。前者は子どもたちが自分で求め方を考えることが主になり、後者は教えられた知識を伝えたり定着させたりするものになっています。どちらがよいとかではなく、子どもたちにつくであろう力が違ってきます。 今すぐに「反転授業」が普及するとは思えませんが、いくつかの条件をクリアすればよりよい授業につながる可能性はあると思います。 魅力的な動画がつくられて、子どもたちがそれを見てくれるのであれば、学習時間が増えるだけでも効果があると思います。しかし、それだけではもったいないと思います。これからの子どもたちに求められる資質や能力は、単に知識を獲得し、それを説明したり、定着させたりすることではないはずです。友だちとかかわり合いながら、より考えを深め、問題解決をする力をつけることが求められると思います。 子どもたちが「疑問を持ったり、課題を見つけたりする」「自分の考えを伝えたい、友だちの考えを聞きたいと思う」ような動画が用意されることで、学校ではその子どもたちの疑問や課題、聞き合いたいという意欲を活かして、学びを深めるような授業が実現できると思います。この条件を満たすような動画やソフトがこれから少しずつ蓄積されてくるのではないかと期待しています。この時、教師に求められる力は、今までとはずいぶん変わってくると思います。アクティブラーニングを行う時に求められる力と近いものがあるように感じています。 第2回授業深掘りセミナーも盛況のうちに終わりました。参加された方も私たちと一緒にたくさんのことを考え、学ばれたことと思います。次回は、国語と理科の提案授業を深掘りする予定です。まだ定員には達していませんので、興味のある方はお早目に申込みをお願いします(申込みはこちらから)。 第2回授業深掘りセミナー(その2)
前回の日記の続きです。
2つ目の提案模擬授業は神戸和敏先生(授業と学び研究所フェロー)による中学校数学の発展的学習でした。 3×3の魔方陣を扱った授業です。今回は魔方陣が見つかった次の時間という設定です。「どうしてそうなるの?」「本当に?」「絶対?」といった言葉にこだわった授業です。 簡単に魔方陣の説明をした後、できあがった魔方陣を見せて、「どうしてこうなったのか?」を説明することを課題として提示します。30分という短い時間なので、いきなり何に注目したのから始めます。大人だからついていけるかと思いましたが、意外と戸惑っている様子です。「真ん中の数が5になる」「縦、横、斜め、それぞれの合計が15になる」が出てきますが、魔方陣をつくる作業をしていないので、今一つピンときていません。すぐに「縦、横、斜め、それぞれの合計が15になる」説明をしてくれた子ども役がいましたが、なるほどと軽く受け流します。他の子ども役が十分考えていないところで正解を説明されても困るからでしょう。ただ、なんで軽く流されたのかがわからないと発表者はちょっと不満に思うかもしれません。「○○さんは、もう説明できそうだね」といった言葉を足してもよかったでしょう。 ここで、ペアで相談させます。「どうしてそうなるの?」に対して、「真ん中の数が5になる」「縦、横、斜め、それぞれの合計が15になる」がどうつながるのかがよくわからずに、モヤモヤしているペアがあるように見えました。神戸先生は「わからない」というペアが「わかればいい」と、「わかった」ではなく「わからない」から出発します。「真ん中の数が決まると、上下に入る数が決まってくる」という意見に対して、「納得しました」と返ってきます。それに対して「どういう風に?」と返します。「はさむ数が決まる」と少し言葉が変わって返ってきました。「はさむ」というのは「上下」よりも広い言葉です。真ん中が決まれば「上下」「左右」「斜め」の4組の組み合わせが決まることに気づいた(気づきつつある)ということです。私ならば、「はさむ」という言葉を取り上げて「どういうこと?」と聞き返して、このことを確認します。これをしないところに、神戸先生らしさを感じます。 真ん中の数が決まれば、4組の組み合わせが決まることは、「縦、横、斜めの合計が15になる」ことから決まります。そこでどうして15になるかに焦点化します。「15じゃなければいけないの?」と揺さぶります。神戸先生は、ヒントとなることをあえて言わないようにしています。子どもたち自身で手がかりを見つけて考えさせたいからです。ただ、子ども役の方は魔方陣をつくる作業をしていないので、「1から9までの整数をすべて使って」という条件を意識できていません。「1から9までの整数をすべて使って縦、横、斜めの合計を同じ数にしようと思うと、15じゃなければいけないの?」と言葉を足すという方法もあったかもしれません。 「3マスだから3の倍数」といった面白い(?)考えが出されます。最初に説明できていた子ども役の方をここで活躍させてもよかったかもしれません。 合計が15になるというのは、全部のマスを合計すると1から9までの合計が45になるので、各列の和は45÷3となるからですが、「ななめはどうなるの?」という声が出てきます。必要条件と十分条件がわかっていません。もし、魔方陣がつくれるとすれば、各列の合計は15にならなければいけない。魔方陣の定義から斜めの合計も15にならなければいけない。こういう論理展開です。このことを説明したくなるところですが、ここもあえて神戸先生は口を出しません。子ども役をつなぐことや揺さぶりはしますが、自分からは説明はしないのです。簡単なことに見えてこれはなかなかできることではありません。この我慢が素晴らしいと思いました。 「(合計が)奇数なので残り2マスは15=□+奇数+□で合計が偶数」ということが出てきます。奇数、偶数という感覚はおもしろのですが、真ん中の奇数がどういうことかよくわかりません。どうやら、真ん中は5ということが前提で考えているようです。ここでも、余計な切り返しをせずに、子ども役につなぐことを続けます。「5が基準にあれば、1と9、2と8、……と上手くいく」という意見が出ます。これは十分条件です。真ん中が5でなければいけないという必要条件にはなっていません。「真ん中が5より小さいと残りの合計が10より大きくなる。1とペアになる数がない。5より大きいと残りの合計が9より小さくなるから9のペアがない」といった説明が出てくればいいのですが、そこにはなかなかつながりません。「5には相手がいない」と言った言葉は出てくるのですが、そこから進みません。私なら「5でなければいけないの?6だったら?」といった言葉をだして気づかせたいという気持ちになっていたところです。 「5は4回使う」という言葉が出てきます。これは縦、横、斜め(2つある)の4組の合計をすると、真ん中の5は4回使われることになるということに気づいたということです。他の数は1回ずつですから。15×4は1から9までの合計45に5を3回足した60になっていると言いたいのでしょう。この説明ではあくまでも十分条件ですから、論理的には真ん中の数がわからないという前提で考える必要があります。真ん中の数をxとすると15×4=(1+2+・・・+9)+3xという方程式になります。これを解けば5が出てきます。しかし、「4回使う」という発言に対して、神戸先生は「だって」とここでも子どもに戻すだけにします。 ここで時間切れとなりました。子ども役にとっても、まわりで見ている方にとっても結論の出ないスッキリしないものになったようです。しかし、休息時間になってもまだこの課題に取り組んでいる人がたくさんいます。知りたい、わかりたいという思いがあふれています。このことが、この授業を読み解くカギだと思います。 「深掘りトークセッション」では、結論が出なかったことや課題が子ども役にとってのものになったかどうかが話題になりました。この授業は、子どもたちに考える力をつけるためにどうすればいいのかを提案した授業だと思います。1つ目の佐藤先生の授業を「電車道」とするならば、その真逆の授業に見えます。しかし、教師がヒントを出すことや説明することをできるだけしないというのは、思考力をつけるための「電車道」なのかもしれません。この授業では時間がなかったためその場面がありませんでしたが、「どういうところに目をつけたか」「どうやって考えたか」ということを価値付してメタ認知する場面が必要だと思います。ただ思考する経験を積むのではなく、それを思考の方法として意識することが思考力につながっていくからです。正解が示されると「当たった」という子どもがいますが、こういった子どもは思考を意識していません。自分は考えたのだということを意識させたいと思います。和田裕枝先生(豊田市立小清水小学校長)は「私は答を聞きません。『何考えたか聞かせてくれる?』と聞きます」と発言されました。子どもの思考力をつけることを意識したやり方だと思います。 ゴールが何で、そのためのステップとして今回の課題があるという全体像が意識されていなかったことが、子ども役にとっての課題になりきっていなかった一因のように思います。時間が短かったことと、子ども役が自分で魔方陣をつくる作業をしていなかったことも、影響しているでしょう。しかし、子ども役が授業後もこの課題に取り組んでいたということは、解決したいという気持ちになったからです。それは、神戸先生があえて解決への道筋を見せなかったことが大きく影響していると思います。教師が教えずに我慢して子どもに任せることの意味がよくわかったのではないでしょうか。子どもたちが考える授業の一つのあり方を見せてくれたと思います。 小学校なら、統計的な切り口で子どもの課題にするという意見が和田先生から示されました。子どもたちがつくった魔方陣はいくつかの種類がある(回転や対称を考えると本質的には一つ)はずだが、どれもみんな真ん中が5だということに気づかせて、その理由を考えさせるというのです。なるほどと思いました。単にこうするというのではなく、「統計的」という視点を示されたことに感心しました。 司会の玉置先生(授業と学び研究所フェロー)から、「先生方の授業が、子どもたちが考えるのではなく、答えや解き方を教えるものになってしまうのはなぜか?どうすればいいのか?」という質問をいただきました。私は、あえて「先生方に考える力がないからだ」と挑発的な言葉を発しました。先生方は、授業で扱う問題の解き方を知っています。知っているから教えようとします。しかし、先生方も解き方を知らない問題にぶつかるとそう簡単には解けません。知らない問題を解く力がない、意識できていないのです。「解き方を知らなければどうやって考えるだろう」「どんな課題を与えれば子どもたちは解き方を見つけることができるだろうか」と考えて授業を組み立てることが必要です。子どもたちの様子や反応をよく見て、どのようなかかわり方をすればよいかを考えて毎日の授業をつくっていくことが、進化につながると思います。 神戸先生の授業は一見するとその本質や価値がわかりにくい授業だったかもしれませんが、玉置先生の司会とパネラーの考察で深掘りされることで、参加者の皆さんに十分にその意味が伝わったのではないかと思います。 最後に、「教育情報知っ得コーナー」で反転授業について私からお話をさせていただきました。これについては、次回の日記で。 第2回授業深掘りセミナー(その1)長文
第2回授業深掘りセミナーが開かれました。
1つ目の模擬授業は、岩手県奥州市立常盤小学校副校長の佐藤正寿先生の小学校社会科の選挙についてでした。 いつも通り笑顔いっぱいの授業です。参加された子ども役の方も楽しく授業を受けられます。反応が鈍い時は、「(こういう時は)うーんて、うなずくんですよ」と笑いを誘いながら、どんな行動を求めているのかを伝えます。「○○しなさい」と注意をする先生も見かけますが、行動を是正するにもこういった伝え方があることを知ってほしいと思います。 デジタルのフラッシュカードを使って知識の確認のクイズを行いますが、いつもとテンポが違います。子ども役の反応が今一つよくないのです。間違えてはいけないと考えすぎているのかもしれません。佐藤先生はここで無理にテンポを上げようとしませんでした。ていねいに対応して、授業に全員が参加できることを優先します。 クイズを使って期日前投票、不在者投票といった用語を押さえます。佐藤先生の模擬授業は場面ごとのねらいがわかりやすいのが特徴です。この場面は、初めて出会う子ども役とのアイスブレイクと用語の確認です。教えるべきことはきちんと教え、その上で考えさせるという流れになっています。 続いて選挙について知っていることを聞きます。子どもに活躍の場を与え、受容し称賛することで、発言者以外の子どもの参加意欲も高まります。 続いて、歴史の知識の確認です。最初の選挙は1890年に行われ、「21歳以上の男子で一定額以上の納税者による制限選挙」で、国民の1%しか有権者がいなかったことを押さえます。ここで、子どもが相談する場面を入れました。子ども役の反応が鈍いので、動きを入れたのかもしれません。相談するといっても知識の問題です。誰かが知っていなければ答は出てきません。佐藤先生はほんの十数秒で相談を止めさせます。こういった時間感覚は見事です。うっかり時間を取ってしまうとムダ話を始めてしまうこともよくあるのです。続いて1925年に「25歳以上の男子普通選挙」が、1945年に「20歳以上の男女の普通選挙」が実施されたことを確認します。初めて選挙が行われてから完全な普通選挙になるまで55年以上かかっていること、そして、今年18歳以上に改正されるまで70年間選挙制度が変わっていなかったことを押さえます。子どもたちはまだ10年余りしか生きていません。数字で時間を表現することで、歴史がいかに長い時間をかけて流れていくものかを実感させることができます。年号を点としてではなく、こういった変化を理解するための標として使っているのはさすがです。 知識の確認が終わって、いよいよ子ども役に考えさせる場面です。国政の投票率の変化のグラフをスクリーンに映します。PCを操作するためにどうしてもキーボードや画面を見る必要があります。そういう時でも、ちらっと目線を上げて子ども役の様子を確認しています。子ども役は大人なので心配はないのですが、日ごろ身についている習慣なのでしょう。常に子どもに意識を向けています。 グラフでは投票率はどんどん下がっていますが、2005年の郵政選挙、2009年の政権交代で上昇傾向になっています。そこまでを見せた上で、昨年の衆議院議員選挙の投票率が52%であったことを示します。投票率が低くなっていることを強く印象付けます。年齢別の投票率も同じように年代ごとに見せていくことで、高齢者が高く、若年層が低いことが強調されます。ここで思ったことを子ども役に言わせますが、当然「投票率が低くなっている」「若い人が投票しない」ということが出てきます。「みんなが18歳になったらどうなるかなあー」と投げかけ、「何とかしなければいけません」と「投票率が低い理由」を考えさせます。こういったところが流石(あざとい?)です。「若い人が投票しない」と言っても子どもからすれば他人事です。そこを「みんなが18歳になったらどうなるかなあー」とさりげなく子どもの課題として、「何とかしないといけません」と投票には行かなければいけないということを子どもたちに意識づけています。これもある種の「ヒドゥンカリキュラム」でしょう。 考えさせている時には、PCの画面をスクリーンから消します。子どもの注意をそらさないために、必要ではない時はスクリーンには何も映さないのが原則です。こういったことがさり気なくできているのは、さすがにICTを使い慣れていると感心します。 子ども役を指名するのに「縦にいく」と宣言します。心の準備をさせることで答えやすくし、テンポアップがはかれます。逆に指名方法を宣言しても、ゆっくり進めすぎると指名される予定のない子どもが当分自分は当たらないとゆるんでしまうこともあります。細かいことですが、こういうことを意識するかしないかで授業の様子は変わっていくのです。 子ども役からは、「めんどう」「自分の意見が反映されない」「権利意識が低い」「政治に関心がない」といった意見がでます。佐藤先生は最初の「めんどう」は板書しましたが、それ以外はしっかりと受容するだけで、すぐに板書しません。テンポアップするのと子どもたちの注意を板書ではなく発言に向けるためです。とはいえ、子ども役の方々は大人なので、前を向いて聞いています。ちょっと面白いと思いました。 1列が発表しを終わると出てきた意見を板書します。ここで、それとなく意見を選別するのが佐藤流です。今回はそれほどではありませんが、時としてバッサリと落として必要なものだけを板書します。書かれなかった子どもが傷つく心配がありますが、落とされるような意見を言う子どもは意外と自分の言ったことは忘れていて、ケロッとしているものです。もちろん実際には子どもたち一人ひとりのことはよくわかっているので、必要なフォローはできるはずです。また、そういったことがないように発言した時にきちんと受容していたのです。 「何とかしないといけない」「皆さんもそう思いますか?」と問いかけ、「そう思う」という反応を引き出して、「投票率を上げる案」をグループごとに考えさせます。 この授業では、「何とかしないといけない」という理由については触れません。ある意味当然のこととして進めます。小学生にそのことを考えさせるのはまだ無理だという判断でしょう。中学生であれば、ここに焦点を当ててもおもしろい授業になると思います。意図的であるかどうか別にして、「何とかしなければいけない」ことに疑問を持たせないような進め方をしていました。 「一ついいアイデアを考えてください」と一言足しますが、ここで問題は、どんなアイデアがいいのかがよくわからないことです。各グループでは子どもになりきっているのかどうかはわかりませんが、楽しそうに話し合っています。どのようにして「いい」アイデアかどうかを判断しているのかが気になります。 出てきて意見は、「投票すると券がもらえて、集めるとメリットがある」「投票日にはレジャー施設などを休業にして出かけるところをなくす」「デーマパークなどで投票する」「罰金を科す」といったものです。佐藤先生は罰金を科している国もあることを伝えます。さり気ない一言ですが、こういった知識は教師としては必要なものです。流石だと思いました。 「ナイスなアイデア」といった抽象的な評価はあったのですが、はっきりとした価値付けがなかったことが気になります。ここで出たアイデアは政治に関係ないメリットやデメリットで投票させようというものばかりです。本質的に投票行動をとらせるような意見はありません。これらの意見を「めんどう」といった理由を解消しようとしていると評価し、その上で、「『自分の意見が反映されない』『権利意識が低い』『政治に関心がない』といったことを解決するアイデアは無いでしょうか?」と揺さぶりたいと思いました。実際の小学生にこのことを考えさせることができるかどうかはわかりませんが……。 佐藤先生は、「なぜ実行しない?」と問いかけて、実現可能性や本来の民主的な選挙の観点からより深く考えさせようとしたのですが、残念ながら最初の場面で時間を取られ過ぎたためにここで時間切れになってしまいました。お金がかかるといったことを確認して、民主的な選挙の条件、「普通選挙」「平等選挙」「秘密選挙」「直接選挙」を説明して終わりました。 「深掘りトークセッション」は玉置崇先生(授業と学び研究所フェロー)の司会で進みます。パネラーは伊藤彰敏先生(一宮市立尾西第一中学校教頭)、野木森広先生(岩倉市立岩倉中学校校長)、和田裕枝先生(豊田市立小清水小学校校長)と私です。佐藤先生の授業のよさが語られますが、伊藤先生は、一言「電車道の授業」(この日のキーワードになりました)と評します。相撲で言う立ち合いから一直線に押し出したり寄り切ったりすることに例えられました。なるほどと思いましたが、その詳しい説明は後に回されます。私は「あざとい(小聡明い)」と評しました。ここで述べたように、子どもたちが自分の考えている方向に自分の意志で向かうように、色々と仕掛けているからです。あまりいい言葉ではありませんが、挑発気味の方が議論が面白くなると思ったからです(佐藤先生、失礼な表現をお許しください)。 伊藤先生の説明は、目指すところに子どもたちを一直線に連れていっているということです(電車道だけれど、あちこちと曲がっていると注釈を加えますが……)。資料を見て自由に考えさせるのではなく、グラフの見せ方など、子どもの視点をねらったところに誘導しているというのです。 司会の玉置先生は、ここまで反論しようと手を挙げる佐藤先生に発言の機会を与えません。やっと発言の機会を得た佐藤先生は、まずは「電車道」の授業ができなければ話にならないと反論します。佐藤先生は模擬授業では特に「わかりやすい授業」を目指されます。参加した方がすっと納得するものでなければ参考にならないことをよくわかっているからでしょう。私の「あざとい」も漢字で「小聡明い」と書くことから、「聡明」ということでほめ言葉と受け取るとうまく返していただけました。とても疲れるセッションですが、こういったやり取りは楽しいものです。 今回の授業を例にどのようにして授業をつくっていくのかを佐藤先生に話していただきます。 「問題意識のあるテーマ」にしようと考えて、「現実社会の問題」を扱おうと考えられたそうです。授業を考えるのに先行実践を大切にされています。インターネットではなく書籍や雑誌が中心です。インターネットは資料等を探すのには有効ですが、実践などは評価の視線にさらされていない無責任な質の低いものもあり玉石混淆です。それよりは上質な資料として書籍や雑誌を優先するということです。毎月の書籍や雑誌の購読に数万円を使っているという話は、力のある先生に共通のことのように思います。このような話を聞く度に自分の不勉強を反省します。 今回は「投票率をアップさせよう」という雑誌の記事を、話し合いのテーマの参考にしたそうです。小学校の社会の教科書は、公民分野では「社会の仕組み」を知ることが中心です。それを一歩前に進めるために、まず考えさせることを今回の模擬授業ではねらいとし、正解のないことを話し合わせたいと考えたということです。「問題解決についての話し合いで、原因とその解決策の関係を明確にするべきでは?」という私の指摘は、佐藤先生のねらいとはずれていたのかもしれません。 いろいろな資料が使われましたが、零票確認の写真以外はすべて教科書の資料だったそうです。今回はデジタル教科書を利用されましたが、教科書の資料であれば実物投影機を使っても簡単に見せることができます。面白い資料を見つけることもよいのですが、まずは手元にある教科書を上手く使って授業をつくることから始めてほしいというメッセージだと受け止めました。 「模擬授業職人」とも称される佐藤先生です。参加者に授業で大切なことをわかりやすく伝える達人です。来年もこの「授業深掘りセミナー」に登壇いただきますが、次回はわかりやすさよりも、佐藤先生のやりたいことを優先した授業を見せていただけたらと思っています。このセミナーの司会者とパネラーならば佐藤先生の授業のねらいを参加者にちゃんと伝えることができると思うからです。佐藤先生いかがですか? この続きは、次回の日記で。 活動の目標と評価が大切
昨日の日記の続きです。
3年生の国語は同音の漢字の使い分けの練習の場面でした。 落ち着きのない子どもや気を使う必要のある子どもがちょっと多いように感じました。なかなか大変そうな学級に見えますが、授業者は子どもをよく見て対応できていると思いました。 最初に漢字の復習をデジタルのフラッシュカードを使って行います。フラッシュカードを子どもと一緒に見ている先生をよく見かけるのですが、授業者はチラリと画面を確認するとすぐに子どもに視線を写します。上手に活用していると思います。なかなか集中できない子どもがいますが、授業者は叱るのではなく受容的な声をかけます。こういった姿勢で子どもに対することで、この学級のよい状況がつくられていると思います。なかなか顔が上がらない子どももいます。授業に参加していないように見えるので、声かけが必要ではないかと思いました。しかし、作業が指示されるとすぐに反応して行動します。授業者は個々の特性をよく理解していると思いました。 「人形にはなをつける」の例文の「はな」にどんな漢字が当てはまるか考えさせます。絵と対応をつけながら、漢字で書くことで意味が明確になることを示します。集中が続かない子どももいるのですが、授業者は要所要所でしっかりと引きつけることができています。 同じ読み方の漢字を使った漢字クイズをつくることがこの日の課題です。「はがきれいだ」を例にしてクイズのつくり方を説明します。まず、「は」にどんな漢字が当てはまるか絵を見て考えさせた後、「歯」「葉」の漢字の違いがわかる文章をつくることを例文で説明します。授業者の示す例文は最後が「……、歯がきれいだ」「……、葉がきれいだ」となっていました。子どもたちにも同じような文章をつくらせます。子どもたちは「歯」、「葉」を使った文章を工夫してつくります。授業者は文章の最後を「歯がきれいだ」「葉がきれいだ」で統一することを伝えたつもりでしたが、子どもたちがつくった文章は、この条件を満たしていないものがほとんどでした。「最後は同じ『はがきれいだ』で終わるようにつくるんだよ。どちらの『は』か区別がつくような文章にしてね」と押さえておきたいところでした。「クイズは最後を同じ文にして、どんな漢字になるのかをあててもらえるような文章にするんだよ」とクイズのイメージと合わせて伝えるとよかったと思います。 子どもたちにクイズをつくる作業をさせます。授業者は机間指導をしますが、目の前の子どもばかりを見てしまうので、全体の様子が見えません。助けが必要な子どもや、集中力の切れている子どもに気づけません。常に全体を見ることを意識してほしいと思います。また、せっかく机間指導をするのであれば、ただ黙って見ているのではなく、「ここがいいね」「面白い問題だね。もっとつくれるかな」とよいところに○をつけたり声をかけたりしてほしいと思います。 漢字に置き換えるところには線を引くように指示をしたのですが、忘れている子どもが目立ちます。こういった指示は、教室にディスプレイがあるのですから、作業中はそこに映しておくといったことをしてもよいでしょう。 授業者は「線、引いてありますか?」と子どもたちに問いかけますが、子どもたちの反応はあまりありません。何度か聞き、また個別に引いているか確認をします。子どもたちに徹底することを意識できているのはよいことです。 問題ができた子どもには、「2つ目をやって」と指示をするのですが、子どもはなかなか動きません。集中力を失くしています。一度切れた集中力はなかなか戻りにくいものです。活動を始める前に、指示をしておきたいところでした。また、2つ目をやることことに価値を持たせることも大切です。たくさんつくれたら、それを評価することが必要なのです。「いくつできるかな?」と数を意識させ、いくつできたのかを確認する場面をつくるといったことをするとよいでしょう。 授業者が説明をしようとしている時に、しきりに声を出して注意を引こうとする子どもがいます。授業者は上手にそれを無視していました。よい対応ですが、子どもがあきらめて静かにした時に、ちょっと目線を送って「それでいいんだよ」と笑顔でうなずいてあげたいところでした。「先生は君のことはちゃんと見守っているよ。だけどさっきはしゃべる時じゃなかったから、相手をしなかったんだよ」というメッセージを伝えるのです。 続いてペアで問題を出し合います。進め方について指示を出したあと、わかったかどうかを挙手で確認します。よいことですが、なんとなく挙手する子どももいるので、できれば指名して言葉で確認したいところです。 机が離れたままペア活動をしていることが気になります。きちんと机をつけて子ども同士の距離を縮めたいところです。 ペアでの活動の後に、「全体でやりたい人?」と聞くと、子どもたちのテンションが上がります。クイズをつくることが目標になっていて、中身に対する評価基準がありません。そのため、子どもたちのテンションが上がりやすいのです。「ペアの人の問題がよかったと思った人」とペアに推薦させるというやり方もあります。その時、どこがよかったかを聞くようにします。日ごろから、ペア活動をこのようなパターンにすれば、子どもたちに評価を意識させることができます。 全体として見れば、よく子どもたちをコントロールできています。直接の指示を子どもたちに徹底することはできています。次は子どもたちが集中して活動するような、課題の与え方や活動内容を工夫してほしいと思います。テンションが上がって楽しいではなく、わかった、できたから楽しいという授業にするためには、目標とその評価が大切です。このことを意識すると、子どもたちの様子も変わってくると思います。 市内の他の学校と同じく、この学校も子どもと先生の関係は良好だと思います。子どもが授業に前に向きに取り組んでくれるからこそ、その内容が問われることになります。子どもとの関係がよければ、工夫が活かされやすいはずです。このことを意識して授業に取り組んでほしいと思います。 意識しないと子どもの集中は緩む
昨日の日記の続きです。
2年生の国語は反対の意味の言葉を考える授業でした。 前時の復習で「覚えていますか?」といった問いかけに対して、子どもたちは「はい」と大きな声で答えます。元気のよい学級ですが、ちょっとテンションが高すぎることが気になります。もう少し、テンションを下げるようにしたいところです。 ディスプレイに子どもの絵を表示して、「帽子を脱ぐ」「服を脱ぐ」「ズボンを脱ぐ」「靴を脱ぐ」と動作をしながら、「脱ぐ」の反対の意味の言葉を考えさせます。全員に一斉に答えさせるか、指名した子どもとの一問一答で進めていきます。一斉に答えさせる場合、注意して見ないと、全員が元気よく答えているように見えても、中には口の開いていない子どもや自信がなくてまわりに合わせて口を開く子どもがいます。いつも一問一答だと、指名した子ども以外は自分には関係ないと集中力を失くすことがあります。子どもたちの集中力を切らさないためには、同じ答でよいので何人もテンポよく指名して答えさせるといったことも必要です。 授業者は発言者を笑顔で見守り、しっかりと受容しています。子どもとの関係がよい理由がわかります。しかし、発言者しか見ていないので、集中力を失くしている子どもがいても気づけません。子どもたちの集中力が落ちて緩む場面がよくあります。全員参加を意識して、子どもたち全体の様子をよく見ることが大切です。授業者と子どもたちの関係がよいので、集中力が切れていることに気づければ、声をかけたり活動を指示したりすれば、すぐに集中を取り戻すことができるはずです。 反対の意味の言葉はどういうものか、簡単な例で説明して終わってしまいます。せっかく、同じ「脱ぐ」でもコンテキストで反対の言葉が「かぶる」「着る」「はく」と変わることをやったのですから、そのことをもう少しきちんと確認したいところでした。また、「否定」をしっかりと押さえずに進めたことも問題です。この後、紙を配って反対の言葉を書かせましたが、反対の言葉と否定が混乱している子どもがたくさんでてきました。 子どもたちに紙を持たせて前で発表させます。言葉しか書かれていないので、どうしてその言葉が反対の意味なのかわからないものも出てきます。それに対して子どもたちから質問を出させて説明をさせます。説明を聞いて納得すれば、子どもたちはなるほどいった反応をしてくれます。日ごろからこういった説明をする機会が多いのでしょう。どの子どもも、思った以上によく説明ができると感心しました。 「赤と青」では、磁石のN極とS極の色という説明です。子どもたちの発想は面白いものです。「赤と青」を、信号を使って説明しようとする意見が出ました。赤は止まれで青は進めだからというのですが、言葉が上手く出てきません。その時「さっきのとつなげればいいんだよ」と声をかける子どもがいました。よい雰囲気の学級だと感じました。 子どもの考えた言葉は、名詞が比較的多いのですが、コンテキストを意識させると説明しやすかったのではないかと思います。「信号の青、信号の赤」「友だちに話す、友だちに聞く」というように句や短文をつくらせるとよかったかもしれません。 「現金と借金」「木と鉄」といったものも出てきます。間違いにも思えるのですが、子どもの説明を聞くとあながち間違いとも言えません。「現金で払うのと借金をする」「木は燃える、鉄は燃えない」といった子どもの発言を聞くと、なるほどと思います。子どもは「掛売り」といった言葉を知らないので「借金」と言ったのですが、こういった言葉を教えるべきかどうかは迷うところです。また、「木と鉄」では、授業者が「木の船」「鉄の船」といった言葉を出して助けてもよかったかもしれません。 反対の意味の言葉が一対一にならないこともよくあります。反対の意味の言葉を隠して、他の子どもたちに答を予想させるといったやり方も面白かったかもしれません。いろいろな反対の意味の言葉を見つけることで、子どもたちの言葉に対する感覚を磨くことができると思います。 授業者は子どもの考えを否定せずに受け止めますが、「読む」「読まない」いった否定と混乱しているものを修正しませんでした。国語の授業としては問題があるように思います。最初の「脱ぐ」を使った活動の場面で、帽子を脱ぐ動作をした後、「この反対は?」と、反対の動作をさせるとよかったでしょう。その動作に対して、「この動作を何という?」と問いかけて「かぶる」を出させるのです。動作をしながら「脱ぐ」「かぶる」を繰り返した後、「脱ぐ」「脱がない」を動作化すると、「脱がない」が反対の動作ではないことがわかると思います。ここで、「否定」という言葉を教えておくと混乱は少なかったと思います。 授業者は、笑顔で子どもたちを受容することができます。授業規律も、そのことを意識している場面ではきちんとしています。「全員参加を意識して、常に子どもたち全体の様子を見ること」「子どもの発言を切り返して深めたり、子ども同士をつなげたりかかわらせたりすること」が次の課題です。後者については、教材研究ともかかわってきます。あせらずにじっくりと一歩ずつ前進してほしいと思います。 この続きは明日の日記で。 子どもが授業に参加し考えるるために必要なことを考える
昨日の日記の続きです。
5年生の社会は、貿易摩擦と自動車の現地生産について考えるものでした。 理科の実験の演示のように、後ろの子どもたちを前に出させますが、移動を待っている間に他の子どもの落ち着きがなくなりテンションが上がります。A4の紙に印刷した、自動車の生産台数、輸出台数のグラフをもとに日本の自動車産業の輸出が増えたことを確認する場面でした。授業者は資料を持って動きながら話しますが、小さい紙なので子どもたちはよく見えません。授業者が窓側に移動すると、廊下側の子どもは体を伸ばしても見えないので、あきらめて参加しなくなりました。小さな紙で見せる意味がわかりません。せっかく実物投影機もあるのですから、積極的に使いたいところです。せめて拡大コピーした紙を黒板に貼って授業を進めたいところでした。 授業者は資料をもとに、次々質問をしますが、一人がつぶやくとすぐに拾って説明を始めます。子どもたちが立ち止まって考える時間がありません。授業が流れていってしまいます。 日本の自動車会社が海外で生産している理由を考えることが課題です。教科書や資料を見て考えるのですが、子どもたちは教科書の説明をすぐに写します。「日本車がたくさん輸出されたので、その国の自動車産業に打撃を与えた」といった記述ではなく、そのことを裏付けるような資料を探し、その事実を根拠とすることが大切です。子どもたちは、教科書や資料に書かれている中から答探しをしています。そうではなく、資料をもとに考えさせる必要があります。そのためには、資料を絞ることが大切です。これぞという資料をじっくり見させて、それをもとに考えさせるのです。たとえ教科書の説明を写すのであっても、ただそのまま写すといったことがないように、箇条書きにしていくつ理由があったか発表させるといった工夫が必要です。 インパクトのある資料として、日本車が壊されている写真が用意されていました。この資料をきちんと読み解くことで貿易摩擦がどういうことかわかってきます。「車を壊している人はだれだろう?」「日本車は安くて性能がいいのでよく売れたのに、何で日本車に対する抗議運動が起こったのだろう?」と考えさせることで、何が問題なのかがわかってきます。「では、どうすればこの問題を解決できるだろう?」と問いかけることで、現地生産がその解決策の一つだったことに気づけると思います。この資料一つで考えさせてもよかったかもしれません。 こういった資料を根拠によい意見を言う子どもがいるのですが、その意見をもとに、すぐに授業者が説明し次の質問をします。気づいた子どもと授業者だけでどんどん話が進んでいきます。その根拠となる資料の内容をきちんと全員で確認して共有する場面がありません。よい意見や根拠となる資料が発表されたら、その資料を全体で読み取り、それをもとにもう一度考える時間をつくって全員が参加できるようにする必要があります。最初は友だちの話を聞いていた子どもたちも、次第についていけなくなり、手遊びが増えていきました。 しかし、授業者は発言者しか見ていないので、そのことに気づけていなかったかもしれません。 授業者は、現地生産すれば、早く安くつくれるということを利点としてまとめました。しかし、そうであれば、貿易摩擦が起こる前から現地生産に移行していたはずです。こういった揺さぶりもなく、貿易摩擦の問題との関連もきちんと整理されずに授業は終わってしまいました。この授業の展開であれば、貿易摩擦の原因を整理し、現地生産によってその中の何が解決するのかを明確にすることが必要です。また、現地生産に移行する前と移行後の統計資料をもとに、現地生産によって何が変わったか、新たな問題が起こらなかったのかを考えることも必要でしょう。現在の海外(現地)生産は貿易摩擦の時とは事情が違ってきています。直接触れるかどうかは別にして、相手国によって賃金水準や部品調達コストが異なることに気づかせることも、現在グローバリゼーションが進んでいることへの理解のためには必要だったかもしれません。 授業者は、子どもの言葉で授業をつくりたいと願っていますが、結局最後は自分の言葉でまとめてしまいました。子どもたちの考えを広げ、深めるためにどのように授業者がかかわればよいかが、まだよくわかっていないようでした。「根拠となる資料を全員でしっかりと読み取る」「問題点を整理する」「因果関係を明確にする」「視点を明確にする」といったことを意識して、子どもに言葉を返していくとよいでしょう。 また、資料を読み込むためには時間が必要です。そのことを考えると、資料はある程度絞った方がよいと思います。教えることと考えさせることをはっきりと分け、考えさせるために必要な資料に絞り込むのです。こうすることで、密度の高い授業になると思います。 そして、授業者のもう一つの課題がしゃべりすぎる、間がないということです。子どもたち全員が参加し考えるためには、たとえ授業者が説明して教える場面でも、ちょっと立ち止まって子どもたちが考えるための間をつくることが必要です。このことも強くお願いしました。 授業改善に対して前向きな方なので、きっと自分なりにアドバイスを消化して、よい方向に変わっていくと思います。 この続きは明日の日記で。 子どもたちに考えさせるためには、与えておく知識が大切
小学校で授業アドバイスを行ってきました。市内の全小中学校での授業アドバイスの一環です。この日は若手4人の授業アドバイスを行いました。
6年生の社会科の授業は、満州事変を扱う時間でした。 前時の復習で、第2次世界大戦前の日本の社会の様子を確認します。第1次世界大戦でよかった景気が不景気になってきたこと押さえました。そこで、子どもたちにリットン調査団の写真を見せて、何をしているところかを書かせます。授業者はあまり時間をかけません。子どもたちに何か根拠があるわけではありませんから、考えてもムダです。よい判断だと思います。子どもたちに発表させますが、例え正解が出ても資料の読み取りとしてそれほど意味のあることではありません。子どもたちは、自分の考えを発表してくれますが、あまり興味を持っているようには見えませんでした。何をしているかを考えることの意味がよくわからないからです。そうであれば、教師主導で子どもとやり取りしながら、早く満州事変の説明に移るべきだったと思います。 授業者は日本軍が自作自演の南満州鉄道の爆破(柳条湖事件)をきっかけに満州事変を起こしたことを伝えますが、子どもたちはワークシートの穴を埋めることに意識がいって、授業者の話を集中して聞きません。ワークシートを使う時は、穴埋めの答を授業者が書かないようにするとよいでしょう。もし答を写させたいのであれば、そのための時間を別に取ることが必要です。 日本軍がなぜ満州事変を起こしたのかを考えさせることがこの日の主課題です。不景気や農村の窮状を示す写真、中国の資源分布図などの資料をたくさん用意して、教科書とこれを元に子どもたちに考えさせます。これだけの資料を読み取るだけでも時間がかかるはずですが、活動を始めると、子どもたちがすぐに鉛筆を走らせます。これはとても気になります。正解と思われる教科書の記述をほぼそのまま写しているのです。教科書は使わず、資料の簡単な読み取りだけはしておきたいところです。 個人作業の後、グループでそれぞれが考えた理由を聞き合います。授業者は、最低3つは意見を持つように指示しました。聞く必然性をつくるにはよい指示です。しかし、そうなると子どもたちは友だちの意見をそのまま写してしまいます。グループ内で友だちの意見の根拠を確認している姿はあまり見られませんでした。日ごろの授業では結論が重視され、根拠や思考の過程はあまり意識されていないようです。 全体での発表では、授業者は子どもの意見をしっかりと受け止めますが、すぐに板書をするので、子どもたちは発表者を見ません。ここでも子どもたちはすぐにワークシートに板書を写そうとするのです。 授業者は子どもの発表に対して、根拠となった資料を聞くこともしますが、そこで終わってしまいます。他の子どもにもその資料を見させて、そこから考えさせることをしたいところです。理由という考えた結果ではなく、どの資料を根拠にしたのかを発表させるというやり方もあります。その資料が示していることを全体で共有して、他の子どもにも考えさせるのです。最初に指名した子どもの考えを聞いて自分の考えと比べさせると面白いと思います。 賠償金がほしかったという意見が出てきます。日清戦争での賠償金のイメージが強かったのでしょう。「生活が苦しいので給料を上げる」という発言に対して、「戦争すると給料が上がるの?」というつぶやきがありました。残念ながら授業者はその言葉を取り上げることができませんでした。この疑問について考えることで、戦争と経済の関係が見えてきたと思います。「戦争を起こして輸出額を上げる」という意見もあります。おそらく第1次世界大戦での日本のことを想起してのことだと思います。その時輸出が増えた理由がわかっていないので、このような意見が出たのでしょう。続いて「鉱山で儲ける」「武器を見せつける」といった意見が出てきました。少しずれている意見が多かったのですが、それに対して切り返すことや子ども同士をかかわらせながら考えを深めるといった場面がありませんでした。 子どもたちは、日本の不景気、農村の困窮といった状況を解決したいことが理由とわかっても、満州事変を起こすことでそれらが解決するというロジックはわかっていません。あまりにも経済の知識が少ないからです。 授業者は「最後にどういうことをしたか、一言でまとめるとしたら?」と問いかけ、「手に入れたい」とまとめました。(お金、土地、資源、……を)手に入れることで当時の日本の抱えている問題を解決しようとしたとまとめたのですが、その根拠に触れることがなかったので、子どもたちは今一つ腑に落ちていません。答を探しただけで、「不景気だから、農村が困窮していたから、お金や土地、資源を手に入れようとした」という表面的な因果関係を覚えるだけになってしまいました。「お金」「土地」「資源」といったキーワードを元に、それが当時の日本の抱えている問題とどのように結びつくのか整理することが必要だったでしょう。また、「市場」に関する考えが子どもたちからは出ませんでした。このことも何らかの形で押さえておきたかったところです。結局、子どもたちの活動は、資料から日本が不景気だった、中国(満州)には土地と資源があったということを結びつけただけでした。 リットン調査団の報告をきっかけに日本が国際連盟を脱退したことに触れました。小学生では難しいところもあるのですが、国際社会との問題という面では、ブロック経済にもどこかで触れる必要があったかもしれません。不景気に対してどのような対策が考えられたのかを先に押さえておいてから、満州事変を学習するという進め方もあったかもしれません。植民地をほとんど持たない日本の置かれている状況を背景として知っていないと、なかなか理解できないと思います。 小学生に何をどこまで考えさせるのかは難しい問題です。考える活動をさせるのであれば、それに必要な最低限の知識は教えておく必要があります。この授業では、どのような知識を前提としていたのかがよくわかりませんでした。逆に言えば何を考えさせたいのかが明確になっていなかったのだと思います。このあたりを整理すると、資料も厳選でき、子どもたちの考えも焦点化しやすかったと思います。 最後に満州事変の説明の動画を見せたのでしたが、かなりの子どもがまとめの板書をワークシートに写していて、動画には目を向けていなかったのが印象的でした。 授業者は、子どもたちに資料を読み込んで考えを深めてほしいと考えています。目指すところはとてもよいと思いますが、具体的に資料を読み込むとはどういうことか、考えを深めるためにはどのような視点で考えるとよいのかといったことを、教えたり気づかせたりすることが必要です。今回の授業であれば、日本が抱えていた問題をまず整理しておくことが必要です。「日本軍のとった行動は、このどれを解決しようとしたのだろうか?」「なぜ解決できると思ったのだろうか?」「そして本当に解決したのだろうか?」「新たな問題は起こらなかったのか?」といった視点で組み立てるとよかったでしょう。こうすることで、子どもたちの統計資料の見方も変わってくると思います。また、このことを考えるためにどんな資料が必要かも意識するようにもなると思います。 こういった視点で持って授業の組み立てを考えることで、きっと目指す授業に近づいていくと思います。 この続きは、明日の日記で。 故・有田先生の模擬授業のビデオで、あらためてその素晴らしさに感動する
来週末に開かれる「第2回教育と笑いの会」で皆さんにお見せする、故・有田和正先生の模擬授業のビデオの編集作業を行いました。50分近くあるものを20分ほどにするのですが、有田先生のユーモアが伝わるものにするということで、思った以上に大変な作業となりました。
編集のために何度も何度も有田先生の授業を見ることになるのですが、その素晴らしさに感動します。今回はユーモアがテーマなので、そこをクローズアップするという方針だったのですが、どうしても授業としての素晴らしさもきちんと伝えたい気持ちになります。 実はこの模擬授業は有田先生が公の場に立った最後の時のものです。この日は体調が悪く、控室では舞台に立てるのか心配なご様子でしたが、笑顔いっぱいの模擬授業でほっとしたのを覚えています。今回ビデオを視聴していると、移動している時などに小さく「ぜえぜえ」という苦しそうな息遣いが聞こえてきます。表情は笑顔ですが、相当にお苦しかったようです。そのことに気づいて、今更ながら有田先生の授業、教育に対する思いの強さを感じました。 模擬授業なのですが、ところどころ授業を離れて後進の先生方へのメッセージが語られます。今となって思えば、何か予感めいたことがあったのかもしれません。その言葉の重みをあらためて感じました。 私のつくったカット表をもとに、プロの方に編集作業をしていただきます。暫定版を見せていただきましたが、さすがという仕上がりです。当日は「故・有田和正先生の授業におけるユーモアを学ぶ」と題して、このビデオを元にユーモアとその教育的効果について有田先生と縁のある方も交えてお話をうかがいます。進行役として、どのような話を引き出せるか責任は重大ですが、精一杯努めたいと思っています。 もちろんこのコーナー以外にも、すばらしいプログラムがいっぱい詰まっています。参加を予定されている方には、楽しみにしていただきたいと思います。 実践発表から教育におけるICT活用について考える
昨日の日記の続きです。
午後からのICT活用の実践発表は、使っているソフトや環境は変わっているのに、その中身は20年前とほとんど変わっていないという印象でした。 例えば、プレゼンテーションの学習は、ソフトの使い方ではなく、プレゼンテーションで何をどのように伝えるか、その視点やまとめ方が大切になるということが発表されますが、そのようなことは、プレゼンテーションを学ぶ基本中の基本です。そのことを再確認するのはよいのですが、プレゼンテーションの学習をどのように組み立てれば子どもにどんな力がつくのかをもっと現場の視点で知りたいと思いました。 驚いたのは、ある市の取り組みの発表で、校外学習で子どもがタブレットを使ってその場で写真を撮ってメモをしている姿を見せて素晴らしいと評価していることでした。タブレットを操作できていることが素晴らしいのだとすれば、それはソフトが簡単で使いやすくなったということです。その場で写真やメモを取るのは、別にタブレットを使わなくても取材であれば当然のことです。大人でもパソコンを操作するのが大変だった時代ならいざ知らず、正直何を素晴らしいと言っているのかわかりません。 プレゼンテーションで子どもが聞き手を見ている、聞き手が話し手を見ていることも、評価しますが、これも基本中の基本です。ICTを使おうが使うまいがそうできるように指導してあたりまえです。あたりまえのことができているのはよいことですが、それとICTの教育的な効果がよくわかりません。未だにこの程度のリテラシーなのかと思うと、永らくこの世界に身を置いていたものとしては悲しい限りです。 また、思考ツールとして、タブレットを使うという実践もありました。フィッシュボーン、ベン図、ピラミッド図といった枠組みを与えて、思考の整理をするというものです。こういった思考ツールは最近の流行りでそれなりに理解できるのですが、紙やホワイトボードではなくタブレットであることの意味が全く語られません。子どもたちがタブレット上のピラミッド図を使って説明している、ベン図で説明していると言われても、ICTのよさを感じることができませんでした。 遠隔地とのネットでのテレビ会議の実践はしっかりしたものだったのですが、そこで言われるポイントは、「事前の準備や相手との関係づくり」「活性化するための仕掛け」と、テレビ会議の教育での活用がはじまったころと同じです。その通りなのですが、何が進歩したのかがわかりません。ICT環境が安定し、活用できる範囲が広がったということだけなのでしょうか。 子どものノートを机間指導する代わりに、タブレットに書かれたものをネット越しに見てコメント、アドバイスを書き込む実践は目新しいように見えます。優れた授業者は素早く全員を机間指導できますが、経験の少ない教師には難しいものです。これなら座ったままで効率的にアドバイスできるように見えます。しかし、直接顔を合わせて指導せずに、しかもリアルタイムに文書や図でアドバイスをするので、高いコメント力が求められます。チラリと見せていただいたコメントは、???と思うものでした。これも昔から言われていることですが、ICTがある面をカバーしてくれるからこそ、より高い授業力が求められるのです。授業者の実力をよりはっきりと映し出します。 学校内での閉じたSNSを使った実践には、興味をひかれました。算数のまとめをSNSに書き込むことで、途中で友だちの考えを見ることができます。子どもたちのまとめが収束していくというのです。逆に社会の実践では、気づいたことを書き込むことで子どもの考えが多様に広がったと言います。ノートやワークシートに書くのと同じですが、作業中に他者の考えに触れることができるので、書き終った後に聞くのと違ってすぐに自分の作業に反映できるのです。かつて、掲示板にリアルタイムで意見を書き込む実践がありました。それと同じと言えば同じなのですが、そこで起こっていることの整理の視点は参考になりました。この実践でも、収束した後、多様に広がった後にどう授業を進めていくのかという授業力が問われるという点では同じです。 今回の実践発表を聞かせていただいて、学校のICT環境が充実し、使いやすいソフトが出てきたことはよくわかりました。しかし、それを活用して子どもにどんな力がつくのか、つけることができるのか、そのためのポイントは何かという視点では、新しい知見を得ることができませんでした。ICTの活用といっても、昔から言われるように教師の授業力がなければどうにもならないのでしょうか。ICTを活用することで、授業者にかかわらず子どもたちにある種の力が自然につくといったことは考えられないのでしょうか。ICTの活用で教師に求められる力の一部が不要になり、教師はより高度なことに専念するといった図は描けないのでしょうか。 教育におけるICT活用の将来像が混とんとしたものに感じてしまいました。 文部科学省の関係者のお話は、ICTに限らず、これからの学校教育の方向性についてのものでした。これからの人材には、人工知能には答えられない問題に解答を出させることが求められるというお話は、確かになるほどとうなずけます。しかし、そうはいってもすべての人がそうなれるわけではありません。ある意味それは国家戦略の視点になります。学校教育は社会の要請ですから、そのことを否定はしませんが、現実に目の前にいる子どもたち一人ひとりのことを考えると、どこまでのことを求めればいいのかちょっと悩んでしまいます。OECDの調査で日本の子どもたちの学ぶ意欲が低いことと合わせて、学校で子どもたちに基本的に身につけさせるべきものは何なのか、改めて考えさせられました。 盛りだくさんなイベントで、いろいろなことについて考えることができました。よい時間を過ごすことができました。 ICT教育のイベントでプログラミング教育について考える
先月末に開かれた、業界団体主催のICT教育に関するイベントに参加しました。
午前中は、今回のイベントの中心となる企業による、これからの時代に求められる人材像とそれに対応する教育の話でした。生きる力に関連してICTを利活用した教育が必要とされているということは、その通りだと思います。続いて、「ICTの発達によってこれから求められる人材は理数系となってくる。その中でも情報技術者が大量に必要とされる。だから、これからは情報教育やプログラミング教育が重視される。初中等教育からプログラミング教育を導入することも視野に入れる必要がある」ということが言われましたが、これについては少々疑問を感じました。テクノロジーを進化させる人材が必要なのはわかりますが、それはマスでの情報教育の中から生まれてくるものだとは思えないのです。大量の技術者といっても、一昔前の工場労働者と同じ位置づけになるのではないでしょうか。たしかに短期的には必要なのかもしれませんが、それがいつまで続くのかは少々疑問です。人工知能が発達して、そういう仕事が一気に無くなることも十分考えられると思います。 現代の家庭電気製品は高度な技術によってつくられていますが、それを活用するのに必要な知識は私が子どもの頃よりはるかに少なくなっているように思います。同じように、日常の仕事でコンピュータを活用するために必要な知識や技術は、この40年ではるかに少なくなっています。もちろん、これからの社会で生活する上で情報教育は欠かせないことは間違いありませんが、それほど高度で、専門的なものが必要かどうかは疑問です。特に、小中学校や高等学校でプログラミング教育をしたからといって、それが活きるのはどういう場面なのかがよくわかりません。多くの子どもにとってコンピュータが動く仕組みの一部としてプログラミングを学ぶ程度で十分だと思います。 プログラミングで論理を学べるということを言われますが、これについても疑問です。そういう面も確かにあるとは思うのですが、プログラミングで身につく論理的な思考力はごく一部のように思うのです。私自身、かつて多くのプログラミング言語に触れ、実際にコーディングもしていましたが、それほど大した論理力が必要だと感じたことはありません。それまでの学習で身についた論理的な思考力で軽々と対処できるものです。論理的な思考力は、多くの教科や分野(国語や社会科の文型と言われる分野も含めて)で培うべきものだと思います。基礎的な論理力があれば、プログラミングはほんの短期間で身につくはずです。 社会の状況や仕事に求められるものが変わっても対処できる、より基礎的で汎用的な力をつけることが、これからの初中等教育では求められるべきだと思います。専門的なことは、高等教育以降に個人の意思で選択して学習すればよいのではないでしょうか。 現実に、情報技術者が不足している。その状況に対処しなければいけないということもよくわかりますが、それに特化したような教育を初中等教育に組み込むというのは今一つ納得がいきませんでした。子どもたちの選択肢の一つとして、高等教育以降に組み込むべきだと思います。子どもたちが選択しようとした時に必要となる基礎的な力を初中等教育できちんと身につけさせることが大切だと思います。 午後の部は、実践発表でした。ここでもいろいろなことを考えさせられました。これについては、明日の日記で。 「愛される学校づくりフォーラム2016 in東京」の申込み開始午前の部は、 「授業の見方」を高めるには 若手教師の力量を高めるには 「チーム学校」が機能するには 授業における「真のICT 活用」とは の4つの視点で会員の代表が発表し、それをもとに会員が協議を行います。日ごろから歯に衣着せぬ発言が飛び交う研究会です。エキサイティングな話し合いになるとことと思います。 午後の部は、2名の授業者による算数、道徳のミニ提案模擬授業を、ICTを活用して授業検討を行います。毎年提案授業を楽しみにしていただいていますが、授業検討の様子もきっと皆さんの参考になると思います。ICTの活用も見どころですが、それ以上に一つの授業からどんなことが学べるのか、私たち研究会員の授業を見る視点に注目してください。 引き続き、2つの授業研究をもとに、「楽しく、手軽に授業改善」するためのポイントについて、授業者とコーディネーターでまとめます。皆さんの授業改善にきっと役立つことと思います。 なお、昨年度、一昨年度とも申込み締め切り前に定員となりました。お早目の申込みをお勧めします。 日 時 平成28年2月6日(土) 10:00〜16:30(受付開始 9:30) 会 場 東京コンファレンスセンター・品川 (※JR品川駅港南口(東口)より徒歩2分) 参加費 1人 3,000円 なお、入場券を事前に申し込んだ方には、「EDUCOM教育フェア2016」の招待券が届きます。この招待券は、当日昼食券と引き換えができます。 詳しい案内と、申込みについては、愛される学校づくり研究会のHPのフォーラムのコーナーをご覧ください。 授業改善への意欲を感じた授業研究
私立の中高等学校で授業研究に参加してきました。午前中は先生方と一緒に授業参観をさせていただきました。
今回面白く感じたのが、高校では一般のコースと比べて、受験を意識したコースの子どもたちの方が自分たちで考えて学習することに対して消極的に見えることです。受験を意識して知識中心の授業になりがちなこともありますが、先生の与える正解を欲しているのです。そのため、自分の考えがあっても自分からなかなか発言しようとはしません。授業者が示す正解と違えば、その考えを捨ててすぐに置き換えてしまうように見えます。 センター試験が廃止されるまでは現行の制度が継続しますが、その間にも試験の内容が変化するという話も聞きます。また、彼らが社会に出た時には、マニュアル的な仕事は確実に減り、自分で考え、他者とかかわりながら新しい価値を創造するような仕事の比重が高くなっていると思われます。彼らの姿勢を変えることを意識して授業をすることが求められると思います。 また、先生方と話していて、この学校の子どもたちの力を少し低く見ていると感じることがありました。彼らに考える力や協同的に学ぶ力をつけても、創造的な仕事に就けないのではないかと心配をしているのです。確かに、今の受験制度の中で高いパフォーマンスを発揮する子どもは少ないかもしれません。しかし、彼らが学ぶことを楽しいと思うことができれば、潜在的な力が発揮されていくと思います。大学受験までにその成果は出ないかもしれません。しかし、大学受験がゴールではありません。そこから先を生きる力を中学高等学校でつけることができれば、きっと自分たちで道を切り開いていくと思います。授業が変われば、彼らは間違いなく今まで以上のパフォーマンスを発揮すると思います。 実際に授業を参観していると、彼らの学ぶ意欲を感じる場面にたくさん出会えるようになってきました。そういった彼らの姿から、その可能性を感じていただけたことと思います。 授業研究は若手を授業者として同時にいくつか行われました。残念ながら4つの授業をしか見ることができませんでした。共通して感じたのは、皆さん自分なりの提案があったことです。授業を改善しようという前向きな気持ちを感じました。 高校2年生の英語の授業は、長文読解をグループで行っていました。 授業者のこれまでのスタイルとは違ったやり方に挑戦していたことをうれしく思いました。読み取りのキーワードなどを授業者が提示しましたが、こういった場面では子どもたちから言葉をもっと引き出したいところです。また、動きが止まっているグループに対して直接説明をしている場面がありましたが、課題を共有させて子ども同士のかかわり合いを引き出させることを意識してほしいと思いました。子どもたちに考える力をつけるためには、子どもたちのかかわり方やグループの活かし方を意識する必要があります。 この授業の検討会に参加したのですが、グループ間の格差ができた場合どうすればいいのかといった、こういった授業に挑戦した時にぶつかる疑問が話題になりました。自分で挑戦してみて、初めて課題として意識できます。私からは、一部のグループの動きが止まった時は、いったん活動を止めて、子どもたちが困っていることを共有することを伝えました。これをきっかけにして、一歩ずつ課題を克服していってほしいと思います。どのようなスタイルの授業をつくっていくのかとても楽しみです。 高校1年生の物理の授業は、エネルギーの保存でした。 授業者は子どもとの関係を上手くつくることができてきていると思いました。柔らかい表情や子どもたちを受容的に見ることが意識できています。理科では実験がとても大切ですが、時間の関係や器具の問題で必要な実験をすべてやってみることはできません。しかし、今はインターネット上に利用できる動画がたくさんあります。今回はそういったものをうまく活用しようとしていました。こういった試みはとても大切です。 レールの両端を持ち上げたものの上で球を転がす実験です。球が行ったり来たりするのを見せてから、子どもたちに、レールの場所ごとで、球の運動エネルギーと位置エネルギーがどうなっているのか考えさせます。子どもたちは授業者の指示に従って作業を始めるのですが、どういう意味を持つのかはよくわかっていません。そのため、具体的に何をすればいいかわからなくなってしまいました。どうするのかと思っていると、子どもたちはまわりに確認していました。友だちに気軽に聞けるよい雰囲気です。 ここでは、子どもたちに何が課題となっているのかを意識させる必要があります。動画を途中で止めながら、「この後、球はどうなる?」と聞いたり、「球が持っているエネルギーはどこが一番多い?」と問いかけたりすることで、課題意識を持たせたいところです。また、「球がレールの上で静止した時に、力を加えるとどうなる?」といったことを聞いたりすれば、エネルギーの保存の意味がより明確になるかもしれません。 課題を子どもたちのものにするための工夫を意識してほしいと思いました。 高校1年生の現代社会の授業は、国民の権利を考える場面でした。 授業の最初に簡単な復習の小テストを行っていました。小テスト自体は悪いことではないのですが、この授業の内容に直接かかわることではありませんでした。授業の最初は子どもたちの集中が一番高い時ですから、できればこの日の課題につながることを行うようにしたいと思います。 この日はGHQが新憲法の啓蒙のためにつくったポスターを資料として考えさせます。「GHQ」「新憲法」「啓蒙」という言葉を確認しないまま授業が進んでいきました。高校生だから大丈夫かもしれませんが、ここがよくわからないままポスターを見ても理解が進みません。子どもたちとやりとりしながら、しっかりと押さえておく必要があったと思います。 ポスターから子どもたちが気づいたことを聞くのですが、最後はスクリーンにワークシートの穴埋めの答を表示して、授業者が解説しました。子どもたちはどうしても穴埋めを優先しますので、授業者の解説もしっかりとは聞いていませんでした。 まとめは、穴埋めではなく子どもたち自身の言葉で書かせたいところです。子どもからキーワードを出すためにどのような活動をするのか、子どもの考えをどう共有するのかといったことを意識してほしいと思います。 中学1年生の数学の授業は円錐の表面積を考える授業でした。 まだ幼さが残る子どもたちです。落ち着かない子どもは思ったことをすぐに口に出します。授業者はそういった子どもに少しかかわりすぎのように感じました。一部の子どもとのやり取りで授業が進んでいきますが、出てきた考えを全体で共有する場面がありませんでした。子どもが先生に向かってしゃべったことを、「今いいこと言ってくれたね。みんな○○さんの考えを聞こう」と全体に向かって言わせるようにするとよいでしょう。こうすることで、不規則な発言をきちんと授業の舞台にのせることができます。 円錐の表面積を考えるのに、側面が扇形になることを押さえる必要があります。授業者は円錐の模型も準備して、感覚的にわかりやすく説明しますが、ここは子どもたちにきちんと扇形になる理由を理解させる必要があります。もとになる円の定義と、円錐の母線の定義を確認し、直円錐の母線の長さが常に一定となること押さえて、そこを根拠に側面の展開図が扇形になることを納得させるのです。 扇形の面積を求めるには、扇形の面積、中心角、扇形の弧の長さの関係をきちんと押さえておく必要があります。前の単元で学習した「比例」の復習にもなりますし、高等学校で学ぶ弧度法の布石にもなります。解き方を教えるのではなく、考え方を身につけさせることが大切にしてほしいと思います。 検討会終了後、授業を見せていただいた先生方が個別にアドバイスを聞きに来てくれました。工夫をして授業に臨んだからこそ、話が聞きたかったのだと思います。こういう前向きな姿勢が、授業力向上に欠かせません。これからの成長が楽しみです。 授業改善や新しい授業スタイルに挑戦することに前向きな先生が増えてきたように感じます。この波が大きなうねりとなってくれることを期待します。 学校が安定してきているのを感じる
中学校で授業アドバイスを行ってきました。この日は初任者の授業研究と学校全体の様子を見ることを中心にしました。
3年生は、さすがによい状態で授業に臨んでいます。授業者や授業の内容によらず集中して参加していました。細かい問題はあるかもしれませんが、よい状態で3年間を締めくくることができると思います。 2年生は、前回と比べると子どもたちの様子のブレが少なくなっているように感じました。先生方が、子どもたちにどうなってほしいのかを意識しているのかもしれません。おそらく学年の先生方が共通して子どもたち働きかけていることがあると思います。学年のチームワークのよさを感じました。 チームワークという点では、1年生も素晴らしいものがあります。テンションの上がりやすかった学級も、今ではそんな時期があったことが嘘のように、規律のある学級になっています。若手の担任を他の先生方が上手くフォローしていることがよくわかります。この学級のことだけでなく、要所要所でベテランの知恵が学年の経営によい形で反映されています。若い先生が確実に成長していくと思います。 ただ、この学校は規模が大きいので、3つの学年がそれぞれ別の学校のように見える時もあります。学年間の情報交換や、学校としてのチームワークをどうしていくのかは、これからの課題でしょう。この日は、2年生の学年主任と1年生の学年主任が一緒に私と授業を参観しました。他の学年のよさや課題を知ることができ、いろいろなことを学べたのではないかと思います。こういった機会を持つことが、学校としてのチームワークにつながっていくのではないでしょうか。 この日は、ベテランの英語の先生から授業導入部分を見てほしいと声をかけていただきました。今年度異動して来られた方ですが、積極的に授業を改善しようと毎回工夫をされています。今回は間接疑問文の導入を”situation”ベースで、子どもたちに考えさせようというものでした。T2と英語だけで、”What time is it?” “I don’t know what time it is.”といったやり取りをします。子どもたちはとても集中して聞いています。続いて、”situation”を与えて子どもたちに言わせます。なかなか言葉は出てきませんが、根気よく繰り返しながら言えるようにしていきます。子どもたちは、絞り出すようにして言葉にします。一生懸命考えていることがよくわかります。ただ、”situation”が大きく変わり、扱う文の”contrast”が大きすぎるのが気になります。疑問詞が次々に変わり、動詞の部分も変わります。子どもたちにとって違いが大きすぎて、共通のルールを見つけにくくなってしまうのです。 “situation”の工夫としては、まず”What time is it?”をしっかりと復習してから始めるとよいでしょう。”What time is it?”に対して、時計を見て”It is ○○.”と答える。もう一度、”What time is it?”と聞かれて、今度は時計を振って”Oh, my watch is broken.” “My watch doesn’t work.”と時計が壊れたことを示して、”I don’t know what time it is.”とすれば、わかりやすいと思います。手に何を持っているかといった”what”を使ったもので練習をして、それから他の疑問詞に移るとよいでしょう。 全体で言わせるだけでなく、個人を指名して言わせることもします。これは適度な緊張感を与えるよい方法です。子どもたちは自分もまだよくわからないので、友だちの言葉を聞き洩らすまいと集中しています。とてもよい状態です。授業者は時にはT2との対話を再現して見せたりしながら、指名した子どもが答えられるまでねばります。しかし、どうしても答えられないと苦しくなってしまいます。全体を見ていると、途中でわかったという顔をする子どももいますので、こういった子どもを上手く活かすことを考えるといいでしょう。わかった子どもを指名し、続いて全体で言わせて確認する。その上で先ほどの子どもに再挑戦させるといったことをすれば、わかるようなっていきます。 こういったことをアドバイスさせていただきましたが、いつも自分の授業を改善しようと、素直にアドバイスを受け入れてくださいます。何か工夫をするからこそ、課題が見えてきます。なかなかうまくいかないと言われますが、そうではなく進歩しているからこそ次の課題が見つかっていくのです。この1年間は、挑戦の時です。この時間があってこそ、次年度以降大きく飛躍するはずです。この先生の成長が本当に楽しみです。 初任者の国語の授業研究は、3年生の古典の授業でした。奥の細道の芭蕉の旅への思いを本文から読み取る場面です。指導案は、根拠をしっかり意識したもので、板書計画も明確になっていました。ところが、授業は指導案と大きくずれます。もちろん指導案通りに進まないのは仕方がないのですが、指導案で大切にされていることが、全く意識されていないのです。残念ながらこの授業案は借り物だったということです。 「紀行文」とは何かを子どもたちに問いかけますが、すぐに自分で答を言います。教科書を黙読させますが、本文と現代語訳をどう読み分けるのかも明確ではありません。ここで、現代人にとって旅はどういうものかを問いますが、子どもたちはどのように答えていいのかわかりません。しかし、さすがは3年生です。すぐに相談したり、友だちのワークシートを見たりしています。ここで、授業者が一部の子どもとしゃべり始めると子どもたちの集中は一気に切れました。とりあえず答を書いてすることがなくなったところへ、授業者がよそでしゃべりだしたからです。 子どもを指名すると、「お金がかかる」「楽しみ」「わくわく」と言った答えが出てきますが、結局最後は授業者がまとめます。そのまとめも、江戸時代の旅と比較するための視点が明確になっていません。できれば子どもの答に対して切り返すことで、「時間」「安全」といった視点を意識させたいところでした。 「芭蕉の旅に対する思いを知る」という課題で、ワークシートに作業をさせます。本文を根拠にして書かせるはずですが、この押さえが弱いために気持ちだけをかいている子どもが目立ちます。思いを知るためには本文のどんなことに注目するのかを事前に確認しておきたいところでした。5分もしないうちに子どもたちの手が止まります。とりあえず一つは書き終って、もうすることがないのです。しかし、授業者はその状態にお構いなしでぶらぶらと机間指導をしています。子どもたちの状況を把握して次の手を打とうという意識がないのです。 グループをつくり、小型のホワイトボードを渡して発表の準備をさせます。国語で使うのは初めてのようですが、他の教科でも使っているからか子どもたちは手慣れていました。しかし、グループで何を共有して、何を発表するのか明確に指示されていないため、単に自分が考えた芭蕉の旅への思いを言い合うだけです。次第にテンションが上がってきます。ホワイトボードには本文は書かれていません。根拠が意識されていないために、考えが深まる場面がないのです。 グループごとに発表をしていきます。「命にかかわる」という言葉に、聞いていた子どもたちが一瞬集中しました。よい場面ですが、授業者はスルーしてしまいます。本文のどこでそう思ったかを発表者に聞くことで、ねらいに迫っていけるところです。「もったいない」の一言でした。発表して拍手で終わるだけです。「早く旅したい気持ち」について、どこから思ったかを子どもたちに問いますが、一人指名して終わってしまいます。子どもが指摘した文を全体で共有して、そこからわかるのはどんな思いかを考えさせたいところです。 気になったのが、子どもたちが「古人も多く旅に死せるあり」で、「古人」を単に昔の人としか認識していなかったことです。芭蕉が李白や杜甫といった偉大な詩人のことを意識していることがわかっていません。この理由は授業検討会で明らかになります。 結局、授業者が本文と結び付けることなく、話の流れからざっくりと説明して、「強い旅への思い」とまとめて板書して終わりました。子どもたちは、それを素早く写します。芭蕉の強い旅への思いはどういうものなのかを具体的する授業のはずでしたが、まったく逆になってしまいました。 ほとんどの子どもたちはワークシートの振り返りの「読み取れた」に○をつけていました。「読み取る」ということがわかっていません。日ごろの授業で、「ああ、そういうことか」と納得する、わかる経験を積んでいないので、この程度で読み取れたと思ってしまうのでしょう。 授業検討会で、指導案ではこの授業は3/6となっていたが、前時までにどのような活動をしたのかが問われました。驚いたことに、この日が奥の細道の第1時間目だったというのです。予定通り進まなかったので、いきなり本文を黙読するだけでこの日の課題に取り組ませたというわけです。子どもたちは、よく頑張っていたということです。たとえ授業研究で予定されている内容でも、それが無理ならば変えればいいのです。しかもこれは校内の国語科を中心とするものです。国語科の先生方に、一言了解をとれば済むことです。今回の授業の指導案も、先輩がかなり助けてくれたことは想像に難くありません。この指導案で行わなければという気持ちもわかりますが、子どもたちを一番に考えることができていないことが残念でした。今回の失敗を、教師として何が一番大切かを見直すよい機会としてほしいと思います。 こういった事情がありましたが、先輩たちからは授業者を育てたいという思いを感じることができました。また、この授業をきっかけとして、自分たちも学ぼうという姿勢が見られます。学校の中に授業を改善するサイクルができつつあるように思います。 私からは、古典を学ぶ意義を子どもたちに是非伝えてほしいと伝えました。「先人たちと、古典を通じて交流し、当時のありようを理解すること」、そして、そのことを通じて「私たちの文化のルーツを知ること」を意識して、授業を組み立てほしいと思います。 私がこの学校にかかわらせていただいて7年ほど経ちました。その頃からいらっしゃる先生も、ほんの数人になってしまいました。初めておじゃました時に、「この学校に新しい伝統をつくりたい」と校長からその思いを聞かせていただいたことを思いだします。この間、いろいろな変化がありました。今まで築いてきたものが崩れていくことを心配した時期もありました。毎年入学してくる子どもたちは色々ですが、この学校で3年間を過ごすと、笑顔で授業を受けてくれる子どもに育ってくれます。この学校に新しい伝統ができてきたように思います。来年のことはわかりませんが、この学校での私の役割も終わりに近づいているのかもしれません。 そのありようを見直す時期が来たように思ったフェスティバル
先日、学校評議員をさせていただいている中学校で行われた「地域ふれあい学びフェスティバル」を見学してきました。このフェスティバルを見学するのも12年目です。訪れるたびに、いろいろな変化を感じます。
今年一番感じたのは、子どもたちの表情や雰囲気の変化です。子どもたちは「与えられた」自分の役割を果たしています。しかし、それは傍から見ていると作業をただこなしているように見えるのです。以前に感じた、「自分たちの仕事だ」「お客様をもてなそう」といったエネルギーを感じないのです。表情も乏しいように思います。積極的にこのフェスティバルにかかわっているように見えないのです。子ども時代に強制的に校区のゴミ拾いをやらされた時のことをふと思い出しました。 一緒に活動している地域の方も、子どもたちのサポートに回るというよりも、子どもたちの代わりに前面に出なければいけなくなっているように感じました。地域の方と子どもとのコミュニケーションも弱くなっているように見えました。 どうも子どもたちの当事者意識が弱くなっているように思います。子どもたちの希望者と地域との共催から、学校行事として全員参加に変わってかなりの時間が経ちました。地域が一歩引いた形になったのですが、学校の先生の中にも当事者意識が感じられない方が目に付きます。子どもたちと同じように自分に割り当てられた仕事をこなしているだけに見えるのです。先生方がこのフェスティバルの教育的な意義や目的を意識していないように感じます。地域の方も、自分たちの立ち位置が見えなくなっているように思います。 フェスティバルは無事に運営され、来客者も楽しんでいただけていますが、その主体がどこにあるのかよくわからなくなってきているように思うのです。ただ、お店や展示があって人が集まっている。その核となるのは何なのか、このフェスティバルを通じてかかわる人がどうありたいのか、どうなってほしいのかが伝わってこないのです。 時が経ち、子どもたちも先生方も変化しています。このフェスティバルの存在そのものを根本的に見直すべき時が来たのではないかと思います。学校と地域が、子どもたちを育てるという視点で、フェスティバルは「どうあるべきか?」「どうしたいのか?」をゼロベースで話し合うべき時が来たように思います。 以前のような、時にはぶつかりながらも子どもたちと地域が一つのものをつくっていくエネルギーを感じたいと思うのは、年寄りの感傷なのでしょうか? 教師力アップセミナーで小笠原先生のファンになる
本年度第6回の教師力アップセミナーは中部大学准教授の小笠原豊先生の「子どもが夢中になる理科の授業」と題した講演でした。
スタートから小笠原ワールド全開です。現役小学校校長時代のエピソードに、思わず跳びあがってしまいました。小学校の修学旅行で神主に化けて子どもたちを出迎えたり、また別の年は舞子さんに扮して子どもたちを驚かせたりと、その時の子どもたちの驚きの表情が目に浮かびます。子どもたちと撮った記念写真をフレームに入れて、修学旅行から帰った時に全員に配ったそうです。子どもたちは、家族にその写真を見せながら、修学旅行の思い出を一生懸命に話したことでしょう。単なるパフォーマンスではなく、子どもたちに一生残る思い出をつくってあげたいという、小笠原先生の強い思いを感じます。 実は小笠原先生とは、先生が中学校の校長時代に一度お会いしています。その時は、まさかこんなパフォーマンスをする方だとは知りませんでしたが、ちょっと型破りで、とても懐の深い方だと印象に残っていました。今回の再会で、一気に先生のファンになってしまいました。 小笠原流「子どもが夢中になる授業」を実演しながら解説されます。その一番のポイントは、子どもに「あっ」「えっ」「わっ」と声を出させ、「何で?」「どうして?」と疑問や問題意識を持たせて、「やりたい!」と達成欲求を持たせることです。そのために、同じものを見せるにしても演出や仕掛けが大切です。特に小笠原先生は、「演出」(先生の言うところの「小芝居」)が素晴らしいので、大人でも引き込まれてしまいます。しかし、いくらパフォーマンスが素晴らしくても、理科として大切なところに子どもたちの興味を引き付ける仕掛けがなければ話になりません。単なるおもしろ実験をしただけでは、子どもたちにこれからの社会を生き抜くための資質・能力が身につくわけでもありません。その点、小笠原先生は、子どもたちが身につけるべき力を意識した単元構成をしっかりされています。 理科の探求学習の「ある科学的な知識を獲得するための探求(概念獲得型)」「ある科学的な概念を獲得するための探求(概念活用型)」という2つの分類を元に、小学校と中学校での探求学習の視点を整理されます。小学校では獲得する概念が少なく、活用するほどの知識・技能が乏しいので「概念獲得型」が、中学校では学習塾などで既習の子どももいることや、知識・技能が増えて深い追究が可能になっていることから、学びの有用性が時間できるような「概念活用型」が適しているということです。こういう視点を持つことで、理科の授業の構成がしやすくなると思いました。 この視点からすれば、小学校では単元の導入で子どもたちに強い問題意識や達成意欲を持たせる「仕掛け」が、中学校では、子どもたちにとって「リアリティのある課題」が大切になります。小笠原先生が実演・紹介された事例は、どれもその点でなるほどと納得させられるものでした。 具体的な例は先生の著書「mini 探求学習 RECIPES」を参考にしていただけたらと思います。 講演終了後も小笠原先生からたくさんの興味深いお話を聞かせていただきました。セミナーの運営にかかわっているものの特権です。その中に、こんなお話がありました。 あるところで講演の際、先ほどの「mini 探求学習 RECIPES」を販売したそうです。興味を持たれた先生が手に取ってパラパラめくっていたのですが、「これでは使えない。トークは書いていないんですか?」と聞かれたそうです。この本には、単なるネタではなく、学習のねらいやポイント、展開例もついています。授業をするために必要な情報は詰まっています。トークの部分は、それぞれ先生の個性で考えるべきものです。小笠原先生と同じトークをしても、キャラクターが違いますから上手くいくとは限りません。そこすら自分で考えられないのかと思うと、ちょっと驚いてしまいました。 かつて、若手も交えた勉強会で理科の実験の授業ビデオを見た時のことを思いだしました。小笠原先生と同じく、「しゃべり」が上手く、「小芝居」で子どもを引き付ける方の授業です。どこで心が動いたかを聞いたところ、ベテランは子どもの発言に対する受けや返し、つなぎの部分に集中したのですが、若手はその「しゃべり」や「小芝居」のところにひかれました。授業の本質よりも、話し方や演出といったパフォーマンスに目が行くようです。 授業で大切なことを伝える難しさを改めて感じさせられる話でした。 小笠原先生からとても多くのことを学ばせていただきました。素晴らしい先生と出会えたことに感謝です。 学級会も、大切なポイントは普通の授業と同じ
昨日の日記の続きです。
学級会の授業研究は、若手の2年生担任の学級で行われました。 子どもたちはとてもよい表情で、いい雰囲気の学級です。担任と子どもたちの人間関係がよいことがわかります。 「最高のクラスに向かって」という学級の掲げるテーマを確認して、この日の目標を「一人1回は意見を言う」と設定しました。この目標は悪いことではありませんが、この学級会自体の目標が明確ではありません。学級会を開きたかったのは担任なのでしょうか、それとも子どもたちだったのでしょうか。担任に確認したところ、「最近子どもたちが少し緩んできていると感じたので、子どもたちにもう一度自分たちの行動を考えてほしいと思った」とのことでした。担任の口から説教するのではなく、子どもたち自身で考えてほしいと思い、学級会の形を取ったのでしょう。であれば、子どもたちにもっと学級をよくしたいという気持ちを持たせる場面が必要になります。 最初に、学級のよくなったところを子どもたちに発表させます。よくないことを言わせるのではなく、よいことを言わせるという発想はなかなかです。「悪いところを直しましょう」ではなく、よいところを確認して、「もっとよくするためにどうするとよいかを考えましょう」という展開です。 子どもたちを指名して答えさせます。「3分前着席。三役以外が声かけしている」「どんな行事でも全力で取り組める」「明るい」「切り替えができる」と子どもたちから出てきますが、一つひとつを学級全体に確認しません。すぐに「他にあります?」と進めますが、ここは全員で自分たちのよいところを共有したいところでした。 続いて、「学級のよいところを元に、素敵なキャッチフレーズをつくろう」という課題を提示します。4人グループで相談して一つに決めて発表させます。これはちょっと唐突です。何のためにキャッチフレーズをつくるのかが明確でないのです。担任としては、なかなか発言できない子どもに機会を与えたかったようですが、目標が明確でないため、思いつきで発言します。子どもたちのテンションは上がっていきました。楽しそうにグループで考えたキャッチフレーズを発表していましたので、雰囲気づくりには役に立ったようには思います。 ここで、「今回は、いいところをさらによくするための学級会をします」と子どもにバトンタッチをして学級会が始まりました。「さらによくする」必然性が見えてきません。学級のテーマである「最高のクラス」というキーワードを元に、必然性を持たせる必要があったと思います。4月当初に「最高のクラス」とはどのようなものか具体的にしているはずですから、その確認をして、「いいところをたくさん言ってくれたけれど、最高のクラスになったかな?」と子どもたちに問いかけて、もう一息であることを気づかせてから、学級会に移るとよかったと思います。 司会の子どもたちが、今よりも最高のクラスに近づけるように挨拶、掃除、仲間の3つのテーマについて話し合っていくことを伝えます。最初に最高の挨拶をするために普段から心がけていることをワークシートに書いて発表をします。担任は机間指導をしながらよい意見に○つけや朱書きをして発表しやすいように支援します。ここで気になるのは、子どもたちが考えて発表するのが「今やっていること」ということです。これは一つ間違えるとやっていない子どもに「同じようにやりなさい」と強制することにつながります。そうなると、学級が息苦しくなる子どもが出てくる可能性があります。 子どもたちは自分の心がけていることを理由も含めて発表します。「教室移動の時にすれ違った先生に挨拶をする。理由はそうするとまわりの人も挨拶するから」「相手よりも先に挨拶をする。相手の挨拶をしたい心を揺さぶるから」……といった、他者への影響を意識している発言がいくつか出てきます。中に、「友だちと挨拶の声の大きさを競うのがいいと思います」という発言がありました。これはもう、自分のやっていることではなく、学級のみんなへの提案です。一人ひとりが個人としてやっていることを聞きあって、自分もやろうと思ってもらう場面なのか、学級全体として何かをやろうとしているのかがはっきりしません。また、とても素晴らしいことをいう子どもがいると、ささやかなことだと言いづらくなってしまいます。特定の子どもに発言が偏りだしました。ところが、仲間に対しての発表ではちょっと様子が違っていました。先ほどまでと違った子どもたちが挙手します。担任が積極的に声をかけ朱書きをしたこともあるのでしょうが、仲間に関することは挨拶や掃除と違って、自分が意識していることを言いやすかったように思います。「ありがとうを言うようにしている」「相手に悪いことをしたらすぐにあやまる」「たくさんしゃべる」といった、飾らない言葉がたくさん出てきました。 担任は、子どもたちの発表の様子を教室の隅から見守っています。発表者に向かって笑顔でうなずいて、子どもの発表を後押します。こういったところに、この学級の子どもたちと担任の関係のよい理由があるように思いました。 最後に子どもたちから出てきた、日ごろ心がけていることの中から、学級として心がけることを一つずつ多数決で決めます。「相手よりも先に挨拶する」「責任を持って掃除をする」「自分から積極的に仲間と話す」に決まりました。 最後は多数決で決定しましたが、それでよかったのか疑問が残ります。自分が心がけていることを紹介したのであって、必ずしもそれをみんなにやってほしいと思って発表したわけではありません。一つひとつの活動が微妙にずれているように思います。明日からの子どもたちの行動を変えさせたいのであれば、学級で取り組むことを決めることよりも、友だちの発表を聞いて自分にやれそうなことを一つでもいいから実際に実行することの方が、意味があるようにも思います。多数決ではなく、自分が明日からやれそうなことを宣言するといった終わり方もあったと思います。 こうして学級会を見せていただいて思うのは、例え子どもが司会するのであっても、大切なポイントは普通の授業と変わらないということです。授業者が学級会を通じて子どもにどうなってほしいのか意識して、子どもたちのゴールを設定し、活動を組み立てる必要があります。活動のゴールや目標を明確にし、見通しを持たせることができれば、例え子どもが司会をするのであっても、話し合いが成立すると思います。この研究授業を通じて、大切なことを学ぶことができました。 授業検討会では、担任の支援やテーマ、授業の進め方についてしっかりとグループで話がされました。先生方が子どもたちの様子をよく見ていると思いました。 私からはこの授業についてのコメントの他に、昨日の日記にも書いたように、子どもたちが落ち着いて授業に参加できるようになったからこそ、次の段階に向かって授業を工夫してほしいことを伝えました。 この日は、懇親会にも招待していただきました。多くの先生方から授業についての質問や相談、そして子どもたちの様子についての報告をいただきました。先生方が自分の授業をよくしたいと強く思っていることが伝わってきます。先生方の前向きなエネルギーに触れて、たくさんの元気をいただきました。このような機会をいただきうれしく思います。ありがとうございました。 子どもとの人間関係ができたからこそ、次のステップを目指してほしい
中学校の現職教育で講師を務めました。今回の授業研究は特別活動の「学級会」でした。学級会での授業研究は私も初めての経験でとても楽しみでした。
授業研究に先立ち全体の様子を参観させていただきました。手の空いている先生方も同行してくれます。気軽に互いの授業を見あうことができるのはとてもよいことです。子どもたちの様子を中心に、今教室がどのような状態なのか説明させていただきました。 全体として子どもたちは落ち着いています。基本的に先生方との人間関係も良好です。一方的な授業をしても、子どもたちはちゃんと指示に従い作業をします。ただ活動しているだけで、どんな力がついているのかよくわからない授業も目にします。しかし、子どもたちの状態がよいため、授業が成立していると思っているようです。もちろん、子どもたちが考え、活動するような場面をつくっている授業もあります。そのような授業では子どもたちはとてもよい姿を見せてくれますが、人事異動等の影響もあり、残念ながら絶対的に少なくなっていることが現状です。学校全体で、子どもたちが主体的に取り組む授業を目指してほしいと思います。 具体的には、「課題を先生が一方的に提示するのではなく、子どもたちが疑問を持つような場面をつくる」「わからない子どもがわかるようになる活動場面をつくる」「全員参加を心がける」「授業で大切なことを子どもたちに言わせるようにする」といったことを意識して、授業を組み立てることです。特に1時間の授業で、子どもたちがわかるようになるためには、どのような問いかけをして、どのような活動をすればいいのかを工夫してほしいと思います。 例えば、音楽でソナタ形式の説明の場面がありました。授業者は同じ「形」が出てくると説明しましたが、「形」という言葉ではそれがどのようなことを意味するのかよくわかりません。「形」をわからせるために、楽譜をいくつかのブロックに分けて、似た形を探させるといった活動をすることが必要です。Aとその一部が異なるA’を重ねて見せたりすると音符がつくる形が似ていることに気づくと思います。それを演奏することで、視覚的な理解が聴覚での理解へと進んでいくはずです。一つの例ですが、こういったことを考えてほしいのです。 また、黒板には答や結論、まとめだけが書かれていることが多く、思考の過程や根拠が残されていません。答だけを発表させて、課程や根拠を問わない、共有しない授業も目にします。わからない子どもはただ答を受け入れるしかありません。 例えば英語のQ&Aでは、聞き取れなかった子どもは、友だちの正解を聞いても「そうなの」と思うだけで、できるようにはなりません。できるようになるためには「質問の英語を聞き取ること」「その意味がわかること」「質問の答えを考えること」といくつかの課程があります。それを意識して授業を組み立てる必要があります。いきなり答を聞くのではなく、「どんな言葉が聞き取れた?」「どんな文があった?」と問いかけ、その上で再度聞かせることで今まで聞き取れなかった言葉が聞き取れるようになります。こういった活動を授業の中に組み込むのです。 学年ごとの子どもたちの変化は面白いものがありました。特に驚いたのが3年生です。この学年は入学した時からその様子が気になった子どもたちでした。小学校で学級崩壊を起こしたことがあったそうです。そのためか、子どもたち全体に教師に対する不信感のようなものがあるように感じたのです。生徒指導上で苦労も多かったようですが、一部の子どもにかかわりすぎないようにし、普通の子どもたちとの関係をつくることを一番にお願いしました。学級崩壊を起こした時には、先生方は一部の子どもに手を取られて、多くの子どもたちは先生にかかわってもらうことがなかったと思われるからです。 昨年から、子どもたちと先生の関係がよくなってきました。その様子を見ていて、離れていた子どもが学級に戻ってくるようになりました。そして、この日見た3年生の様子は、どの学級も小学校のように笑顔があふれていました。先生も子どもも授業が楽しくてしょうがない。そんな風に見えました。この時期になると入試のプレッシャーで苦しい表情の子どもも目に付くのですが、こんな能天気で大丈夫かと思うくらいでした。厳しい表情で教壇に立っていた先生の姿を思い出すと、まるで別世界です。先生方と子どもたちでとてもよい学年をつくりあげることができたようです。この素晴らしい経験を学校全体に広げていってほしいと思います。この日あった懇親会の席である先生がこんなことを話してくれました。学校から離れかけていた生徒が、今年は行事があるたびに「今日は3年間で一番楽しかった!」とうれしそうにするというのです。とてもうれしい話でした。 2年生は、相対的に問題が少ない学年ですが、授業で子どもたちが受け身になる場面が目立ちました。先生方が子どもたちを信じて、もっと高いことを求めてほしいと思います。求めればそれに応えることができるはずです。学年全体で目指すところを共有して授業に臨んでほしいと思います。 1年生は、以前訪問した時に、先生と子どもの関係ができる前に子ども同士の関係ができつつあるように感じました。そこで、子どもとの関係をつくることを意識してほしいとアドバイスをしました。先生と子どもの関係はよくなっているのですが、授業中に子どもが先生に対してなれあっているように感じる場面が目立ちました。先生方は子どもの言葉をよく拾います。しかし、授業に関係のない言葉にも一々反応して、相手をしてしまっているのです。こうなると、子どもは調子に乗って不規則発言が目立つようになります。結果として、学級全体のテンションが上がり、授業規律が損なわれたり、集中力を失くしたりしてしまいます。子どもとの人間関係は悪くないので、収拾がつかないといった状況ではないのですが、活気があるというのとは違います。また、一部の女生徒などは、このテンションについていけてないことにも注意が必要です。子どもの言葉を拾い、受容するのは大切ですが、授業と関係のないことは取り上げないようにすることが必要です。けじめをつけることを意識してほしいと思いました。 この学校は、何年かかけて子どもたちと先生の人間関係をつくることができました。だからこそ、そこで止まるのではなくその先に進むことが必要です。授業を工夫すればそれにみあうだけの結果が伴う状況ができました。子どもとの人間関係がよく、授業で困らないことで満足せずに次のステップに挑戦してほしいと思います。 授業研究については、明日の日記で。 |
|