道徳で授業者がどのような価値を意識しているのかを考える

前回の日記の続きです。

4年の道徳は、お手伝いを通じて働くことの喜びを知る読み物資料を使った授業でした。
この授業者は、道徳の研修で学んだ「授業者が範読し、所々止めながら子どもとのやり取りを通じて読み取りを素早く行う」という授業スタイルに挑戦していました。学んだことをすぐに実行しようというのはとても素直でよい姿勢だと思いました。

教科書を開かせて範読するので、教科書から目が上がらない子どもが目立ちました。範読で進めるのなら、教科書は開かない方が授業者に集中できてよいと思います。
母親との約束で、ゴミ出しするのですが、夏場なので主人公が「手も、くさいような気がしてきた」という場面があります。授業者はこの「手がくさい」という言葉を意識的に強調します。主人公がこの仕事を嫌に思う気持ちを表しているのでよい工夫だと思います。

主人公は隣のおばさんに「えらいね」とほめられて、「えっ」と思います。「おばさんの言葉が頭の中で何度も繰り返された」という言葉を子どもに問いかけて「グルグルまわる」という言葉を引き出します。「えらいね」という言葉が主人公に大きな衝撃を与えたことを強調するよい活動でした。

生ゴミにスイカが入っていたために重かったことを実感させようと考えたのでしょうか、スイカのゴミの絵をかかせます。重かったことを実感させるのであれば、重たいゴミ袋を用意して子どもに持たせるといった方法の方がよかったように思います。においを強調するのであれば、「手がくさくなるようなスイカのゴミってどんな感じ?ちょっとかいてみて」とするとよかったでしょう。

この後、「えっ」と思った気持ちを考えさせます。子どもからは単純に「うれしい」という言葉が出てきます。「ほめられることが意外だったこと」「ほめられるような仕事だと思っていなかったこと」が浮き上がってきません。主人公が「ゴミ出しを嫌な仕事と思っている」「意味のある仕事と思っていなかった」ことがしっかりと子どもたちの中に入っていなかったようです。また、「おばさんの言葉が頭の中で何度も繰り返された」という言葉の後でスイカのことに場面が戻ってしまっていたので、「言葉がぐるぐるまわった」印象が薄れてしまっていたことも残念でした。「この言葉がぐるぐるまわっていたのはどういうこと?」と問いかけてもよかったと思います。

時間の都合でここまでしか見ることができませんでした。
授業者はあまり意識していなかったのかもしれませんが、働くことを考えさせたいのであれば、「役立ち感」を大切にしたいところでした。「ほめられて」うれしいではなく、「だれかの役に立って」うれしい、「喜んでもらえて」うれしいというところにスポットを当てたいところです。授業者は終始主人公の気持ちを追いかけていましたが、母親の気持ちを考えてもよかったかもしれません。おかあさんの「ありがとう。……」という言葉に注目することで、「役立ち感」を意識させることができたと思います。

前回の日記でも述べたように、道徳では、子どもたちにどのようなことを考えさせたい、意識させたいかでだれにスポットを当てるかが変わってきます。授業者のねらいがそこに現れてくるのです。この授業であれば、授業者自身が働くことにどのような価値を見いだしているのかが問われるのです。そこをもう少し意識していれば、また違った展開になっていたかもしれません。

この続きは明日の日記で。

道徳でどの人物にスポットを当てるかを考える

昨日の日記の続きです。

初任者が担任の5年生の授業は道徳でした。
重い病気のせいで体育を休まなければならず、顔色が悪くしゃべり方も元気がないことや、病気のことをみんなに伝えていないために学級で孤立している女の子が、手術することになった。その女の子と仲よくなっていた転校生がそのことを知って学級全員に事実を伝え、みんなが励ましの千羽鶴と色紙を送り、無事手術を終えたという読み物資料を利用をした授業でした。

内容確認を一問一答で行います。病気の女の子が嫌われていたことに対して、その理由を確認します。「もぞもぞしゃべっていたから」という理由にまわりの子どもは賛成の反応をしません。そこで、別の子どもを指名します。「体育の時間に参加しないから」という答に対しても全員が賛成の意志を示しません。「転校生とはしゃべっていたから」といった答も出てきますが、授業者はこれらの発言を評価しません。どれも理由の一つです。きちんと受容することが大切です。国語の授業ではないので読み取りに時間をかけるのはムダです。中途半端に問いかけるより、授業者がテンポよく押さえていってもよかったと思います。
授業者は「見た目で判断している」ことを言わせたかったようですが、病気の子どもにスポットを当ててもでてきません。もしそうなら、学級の子どもたちにスポットを当てるべきでしょう。結局授業者がその言葉を出しました。

「転校生はどんな人?」という質問に、「見た目で判断しない人」という意見が出てきます。授業者の言葉に引きずられています。この転校生にスポットを当ててもあまり意味はありません。一貫した行動をとる人物です。単純な質問しても子どもたちが揺さぶられることはないのです。
転校生が手術のことを知り、意を決して学級の全員の前に立った時、顔を真っ赤にしていた理由を問いかけます。子どもの反応が薄いので、「どんな時に真っ赤になる?」と質問を変えます。「恥ずかしい時」という答に「いいんですがー」と言葉をつなげ、「先生はどう思ったかと言うと……」とここも授業者が説明してしまいます。結局授業者が説明するのであれば子どもに問いかける意味はあまりありません。資料を読みながら授業者が解説すればいいのです。道徳の授業は読み取りが目的ではありません。子どもたちが、資料の世界にできるだけ早く入り込み、自分のこととして考える変容していくことが大切です。

登場人物の気持ちを考えるまでに、30分近くが過ぎました。じっくり考えを深める時間はもうありませんでした。
ワークシートの課題「転校生が顔を真っ赤にして立ち上がった時の気持ち」を考えさせますが、どんな時に顔を真っ赤にするかを問いかけた時に、授業者がほぼ説明してしまっています。子どもたちが自分のこととして考えることは難しくなっています。手がつかない子どもは資料を見ています。答探しをしているのです。
「一旦鉛筆を置いて、答を聞く時間です」と子どもに指示をだして、考えを発表させます。きちんとけじめをつけさせているのはよいことです。「共感できる考えを聞く」という言葉を授業者は使いました。共感できない考えは排除してよいようにも聞こえます。授業者にそのような意図はないのはわかりますが、こういった言葉づかいは気をつける必要があります。
次の発問は「病気の女の子はどんな思いがあったから手術を乗り越えられたのでしょうか?」というものでした。ちょっと気になる発問です。「思い」で手術が乗り越えられるとうことはそれほど納得感のあることのように思えないのです。この発問をするのであれば、手術前の不安な気持ちをもっとクローズアップしておかなければいけません。「こんな気持ちで手術が乗り切るのだろうか?」といったことを問いかけておかないと唐突に感じてしまいます。
子どもたちからは、「みんなと一緒に旅行に行きたい」「みんなが千羽鶴をつくってくれたから」といった答がでてきます。それを「仲間の支え」と授業者がまとめます。こういう展開をしているとたとえ道徳でも、「これが答なんだな」と答探しをするようになってしまいます。

友だちと支え合うことが大切として、この学級での出来事をスライド見せます。ここでは、子どもたちはとても集中していました。この後話をしている時に、一部の子どもがスライドに視線を残したままでした。授業者はそのことに気づいてディスプレイを消しました。子どもたちを見ることができていました。

この授業は考える立場や視点が揺れていたために、子どもたちが自分のこととして深く考えることがありませんでした。「転校生」が病気の女の子のことを学級に伝えた気持ち、「病気の女の子」が手術を乗り越えた思い、「仲間」の支えと一定していません。
道徳では、気持ちが大きく変化した者にスポットを当てるのが一つの方法です。この資料で一番気持ちが変わったの、実はその他大勢の「学級のみんな」なのです。その変化が「病気の女の子」の気持ちを変えたのです。そのきっかけとなったのが「転校生」です。
「学級のみんな」が「病気の女の子」を嫌っていた理由をただ考えるだけでなく、自分だったらどうかを、資料の読みを途中でいったん止めてたくさん話させます。「転校生」の話を聞いた後、同様に「学級のみんな」の気持ちの変化を問いかけ、その理由を考えさせます。「知っていたら、嫌わなかった?本当?」と揺さぶり、何がいけなかったのかを考えさせるのです。授業者がねらっていた「見た目で判断しない」といった言葉もここで出てくると思います。授業者が考えさせたかったこととずれるかもしれませんが、「相手のことを知ろうとする」「相手に伝えようとする」という、お互いが垣根なく言い合える聞きあえる関係の大切さを子どもたちが考えることができたのではないかと思います。

初任者で、まだまだ経験不足なので仕方がないと思いますが、道徳で子どもたちに何を考えさせたいのか、どんな言葉を引き出したいのかをしっかりと意識して授業を組み立ててほしいと思います。そうすることで、読み物資料で、どこに時間をかけ、誰にスポットをあてればいいかが見えてくると思います。

この続きは次回の日記で。

話し合いの仕方を考える授業から学ぶ

昨日の日記の続きです。

2年生のもう一つの学級はグループで話し合いをするときに気をつけることを考える国語の授業でした。
話し合いのCDを聞いて、話し合いの仕方と気をつけることを確かめる場面です。言語活動の充実で「話し合い」を扱う教材が増えてきています。この授業に限らず「話し合い」の定義が曖昧になっているのを感じます。グループで相談して自分の考えをまとめることを「話し合い」と言っています。全体で一つの結論を出すのも「話し合い」です。この教材では結論を出す「話し合い」を扱っています。授業者はこのことを意識させようとしていたようですが、グループでの活動も「話し合い」と言っていることもあり、子どもたちにはその違いは明確になっていないようでした。
「上手な話し合い」の仕方を考えるといった言葉も、どういうことなのかわかりません。ここをきちんと押さえていないと、ただ話し合いでそれぞれが「何を言っているか」を取り上げるだけで、それがどういう意味を持っているのかわからなくなります。形式的に手順を追うだけになってしまいます。
子どもたちが考えるための視点や方向性がはっきりしていないので、ただ気づいたことを言い合うだけです。子どもたちが気づいたことをもとに、授業者が話し合いの流れ(手順)を整理していきます。最終的には子どもたちが授業者のまとめを写すだけになってしまいました。なぜ、そのような役割が必要なのか、話し方をしなければいけないのかを、子どもたちが考える場面がありません。2年生なので難しいところもありますが、「話し合い」で大事なことは何かを考えさせることが大切です。算数で「こうやると答えが出るよ」と解き方の手順を教える授業のようになってしまいました。
子どもたちと授業者、子ども同士の関係もよい学級です。授業規律もしっかりしているだけに残念でした。

まず「みんなの考えをまとめて結論を出すことを目的とした話し合い」であることを明確にする必要があります。その上で、結論はどのようなものであるべきかを子どもたちに考えさせることが必要です。「一人の意見で決まってはいけない」「みんなが納得するものでなければいけない」といったことに気づかせたいところです。「グループの時には同時に意見を言いたい人がいたらどうする?」とグループでは互いに譲り合えばすむことを確認した上で、「学級全員で話す時、同時に何人も意見が言いたい人がいたらどうする?」といったことを問いかけることで司会者の必要性に気づかせることもできます。おそらく2年生にでは事前に考えることができるのは、この程度ではないかと思います。
話し合いのCDをからどんなことをやっているかを早く整理して、なぜこのようなことをしているのか理由を考えさせることに時間を使うとよかったでしょう。「司会者が発言者に問い返した(質問した)のはなぜだろう?」「『他に意見はありませんか』と聞いたのはどうしてだろう?」といったことを、話し合いの目的(結論がどのようなものであるべきか)を根拠にして考えさせると、深まったと思います。
また、意見を言う時に気をつけることはどんなことかを考えさせるのであれば、CDの発言を取り上げて、ふだん友だちと会話する時との違いに気づかせるという方法もあります。授業者は態度面も気づかせたいと思っていましたが、CDでは話し合いの様子を見ることはできません。そのことを逆手に取って、ロールプレイをさせてもよかったかもしれません。「発言者はどこを向いてしゃべっているか?」「聞いている人はどこを向いているか?」「聞いている人はどんな反応をしているか?」といったことを焦点化すると、面白いと思います。

話し合いの仕方を考えるといった授業は、文章の読み取りとは違った要素がたくさんあります。スキルとして教えるだけでなく、話し合いとは何のために行うのかといった本質に迫るような授業を目指すことが大切だと思います。今回授業を見せていただいて、私自身このことについて具体的に考えることができました。よい学びの機会をいただきました。

この続きは明日の日記で。

算数の授業で用語や根拠の大切さを考える

遅くなりましたが、1月に訪問した小学校の話です。市内の全小中学校での授業アドバイスの一環です。この日は若手を中心に6人の授業アドバイスを行ってきました。

2年生の担任の初任者の授業は算数の100cmを超える長さでした。
子どもたちとの関係は良好で、指示もきちんと通ります。子どもたちが指示に従えた時にほめることもできます。

前時の復習で両手を広げた時の長さが100cmを越えていたこと確認します。指名した子どもが答えた時に子どもたちがハンドサインを出すのですが、数人です。ハンドサインを利用するのであれば全員にきちんと意志表示させることが必要です。
同じ質問を複数の子どもにした時に、子どもたちが「同じです」と答えます。授業者はそれを許してしまいますが、ここは「もう一度言ってくれる?」と本人の言葉で言い直させたいところです。同じといっても全く同じことはまず言いません。微妙に表現が違っていたり、言葉を足してくれたりします。その違いをクローズアップすることで考えが深まったり広がったりします。日ごろから「同じです」を許さないようにしたいものです。

30cmの定規がたくさん必要だったこと、測ったら120cmくらいだったことを思い出させようと問いかけますが、すぐに指名をしていきます。子どもたちが振り返って考える間がありません。ついていけない子どもは戸惑っています。この日は120cmの別の表し方を知ることをめあてとして説明しますが、別の「表し方」という言葉が腑に落ちていない子どもも目立ちます。

板書中に子どもが質問の手を挙げましたが、黒板ばかり見ているので授業者は見落としてしまいます。また、ノートを使わない場面でノートに書いている子どもがいましたが、そのことに気づかずに指示が遅れてしまいました。初任者で仕方がないのですが、ちょっと余裕がなかったようです。子どもの様子を常に意識して見ることを忘れないでほしいと思います。

板書を写し終れば、授業者の方を見るように指示をします。この時期であれば、こういった指示はしないでも自然によい姿勢をとって、授業者に集中するようになってほしいところです。指示が通るようになれば、早い時期に「先生は次に何を言うと思う?」「次はどうすればいいかな?」と子どもたちが指示を待たずに自分で判断してよい行動がとれるようにしていくことが大切です。一つひとつ指示をして子どもたちを動かしていると、指示待ちの子どもが育ってしまいます。指示がきちんととるようになったら、次のステップとしてこのことを意識してほしいと思います。

長さの単位について問いかけますが、子どもたちは「単位」がよくわかっていないようです。何を答えていいのかわからない子どもが目につきました。「単位」といった用語は日ごろから定義を確認して、きちんと定着させておくことが大切です。
「センチ」という答を修正せずにそのまま使います。というよりも、授業者自身が「cm」を「センチ」と読んでいます。日常生活では「c」や「m(ミリ)」を補助単位(接頭辞)として使うのは長さの場合が多いためにm(メートル)を省略することが多いのですが、算数では省略することは避けるべきです。高学年で「m」「c」「d」「da」「h」「k」などの補助単位(接頭辞)を学ぶ時に混乱する恐れもあります。きちんと「センチ」「メートル」と言うことで単位の構造を意識させることが必要です。
続いて、新しい単位として「m」を導入し、書き方を練習します。ここで「cm」の「m」と同じであることを押さえて、「cm」の書き方と関連づけたいところです。こうすることも単位の構造を意識することにつながります。

120cmの別の表し方を考えるために、「cm」と「mm」の関係を復習します。「1cmは何mm?」「12mmは?」と問いかけます。ここでも「mm」を「ミリ」と読んでしまいました。問いかけに対して、「10mm」「1cm2mm」と答を確認するだけで、どうしてそうなのかは押さえません。「1cm」が「10mm」となるのは定義(規則、約束)です。「12mm」は「10mm」と「2mm」なので「1cm2mm」です。「10mmは1cmだから、1cmと2mmで1cm2mmになるんだね」といった言葉がほしかったところです。
算数は根拠がとても大切な教科です。「定義」なのか「性質」なのかといったことも意識する必要があります。答だけを提示することがないようにしてほしいと思います。

この続きは明日の日記で。

わからない子どもがわかるようになる場面をつくる

前回の日記の続きです。

2年生の道徳は、高齢者への思いやりを考える授業でした。
子どもたちは落ち着いていますが、表情があまりよくありません。私たちが参観しているので緊張していたのかもしれません。

最初に「お年寄りが困っているのを見たことがあるか」「お年寄りが困っていたら声をかけるかどうか」といったことを子どもたちに問いかけます。子どもの発言に対して評価や他の子どもにつなぐことはせず、指名された子どもが答えていくだけです。子どもたちが友だちの方をあまり見ようとはしないのが気になります。授業者が発言者だけを見ていることも要因でしょうか、今一つ学級全体が集中しません。
機械の操作など、お年寄りが困ることを子どもたちに言わせますが、子どもからでてきたことをきっかけに、結局授業者がしゃべってしまいます。ここまでにかなりの時間を使ってしまいました。ここは本題ではないので、あまり時間を使わなくてもよいように思います。困っている年寄りに声をかけない子どもが多かったので、そこで止めて置いて、授業の最後にもう一度同じ問いをして子どもの変容をとらえても面白かったかもしれません。

資料を音読するのですが、読んでいない子どもが目につきます。授業者は資料を見ているのでそのことに気づけませんでした。資料を読む時なども子どもたちに目を向けることを意識してほしいと思います。
資料を見ないように指示して、登場人物や気持ちについて質問します。反応しない子どもに「○○さん」と声をかけると挙手をしてくれます。こういったかかわり方はさすがです。指名するとその子どもが返事をしません。もう一度「○○さん」と声をかけて「はい」と返事をさせます。「返事!」と叱ったりしないのはよいのですが、子どもがよい行動をとったこと評価をしないことが気になります。挙手をしてくれれば「おっ、手を挙げてくれた。うれしいね」、返事をしたら「いい返事だね」といったように、ポジティブに評価したいところでした。
登場人物の確認だけでかなりの時間を使いました。読み取りが授業の目的ではありませんから、ここに時間を使う意味はありません。資料を見ないようにしたために、余計に時間がかかりました。資料を見ない意味はあまりないように思いました。

続いて主人公の少女の気持ちを考えていきます。近所の一人暮らしのおばあさんの家で「よく来てくれたね」と声をかけられた時の気持ちを問いかけました。「うれしい」「楽しい」といった言葉が返ってきます。理由を聞くと「おばあさんのことが好き」という自分の感情が出てきます。子どもたちは自分たちの祖父母が優しくて好きなので、その感覚で答えるのです。ここは、「おばあさんが喜んでくれる」という言葉を引き出したいところですが、授業者が説明してしまいました。ちょっと残念な場面でした。「主人公が喜んでくれるのを見たら、おばあさんはどう思う?」といった質問をすることで、喜んでもらえると自分もうれしいことに気づかせるという方法もあったと思います。主人公の訪問をばあさんが喜んでいることに思いが至れば、おばあさんが喜んでくれると主人公もうれしいことを子どもから引き出せたと思います。

友だちとの約束よりもおばあさんから頼まれた水やりを優先した時の気持ちを考えさせる場面では、おばあさんが水やりを「やって」ではなく「やってくれる」と言ったことを考えさせました。おばあさんの思いを考えさせるよい発問だと思いましたが、一人発言した後、他の子どもに「大体同じ?」で済ませてしまいました。よい発問だからこそ、たくさんの子どもに自分の言葉で発言させたかったところです。子どもが発言するとすぐに授業者が言葉を足していく形で進んでいきました。子どもの言葉に、子どもの言葉を重ねていくようにしたいところでした。

お年寄りを大切にしようとする気持ちを持たせたいという授業者のねらいはよくわかりますが、単に「お年寄りは大切にしなければいけない」という教条的なものになってしまったように感じます。内発的に「お年寄りを大切にしたい」と思ってもらえるようにするためには、主人公の側ではなく、お年寄りの側に立ってその気持ちに寄り添った方がよかったのかもしれません。「お年寄りの気持ちに寄り添った時に、自分に何ができるだろうか?」「そうすることで、自分はどんな気持ちになるのだろうか?」そんなことを考えさせても面白かったかもしれません。

これ以外の学級も参観させていただきました。
特別支援学級では、子どもたちが元気に活動している姿を見ることができました。先生方と子どもたちの関係も良好です。友だちの発表を後ろでしっかりと見ることができる子どもがいました。友だちの発表を落ち着いて見ることができることも素晴らしいことです。発表している子どもに意識が向いてしまいがちですが、こういった子どもを意識的にほめることができるとよいと思いました。

3年生の算数は「べつべつ」と「いっしょ」の2つのやり方で計算する場面でした。
「べつべつ」に計算するという言葉は、大人が思う以上に抽象度が高いものです。「ジュースはいくら?」「みかんはいくら?」とスモールステップで確実に解かせることも必要です。その後で。計算を「べつべつ」にやったと説明すると低位の子どもも理解しやすかったと思います。
計算式とその答を発表させたあと、一部の子どもたちが「いいです」と言って次に進んでいきます。つまずいている子どもがいないことを確認しているのならいいのですが、そうでなければ、答を聞いてもつまずいている子どもはできるようにはなりません。つまずいている子どもができるようになる場面をどのように作るかを意識してほしいと思います。

4年生の国語の授業は10年後の私に手紙を書く場面でした。
子どもたちのノートには、何をどの順番で書くかという構造が書かれています。それをもとにして下書きを書くのですが、書けている子どもと手がついていない子どもに分かれていました。手がつかない子どもには、書けるために足りないものがまだあるということです。この課題に取り組むための足場がそろっていないのです。書くための材料が整理できていないのかもしれません。授業者は子どもたちの作業中に指示を出しますが、これではなかなか伝わりません。一旦作業を止めて、学級全体で足場をそろえる必要があったと思います。

5年生の算数は割合の問題に取り組んでいる場面でした。
机間指導でつまずいている子どものところに行きますが、その子どもにかかりきりで全体を見ることができません。まわりの子どもに教えてもらうようにうながすといったことが必要です。また、つまずいている子どもが多いようであれば、まだ学級全体が問題に取り組める状況になっていないということです。一旦作業を止めて、見通しを持たせる時間を取る必要があります。
子どもの答を確認して共有しますが、どうやって考えたかを発表させて共有しません。くどいですが、結果である答を共有してもわからない子どもがわかるようになるわけではありません。答を知ることはできても、考え方を身につけることはできないのです。わからない子どもがわかるようになる場面をどのようにしてつくるのかが課題です。

最後に全体に対してお話しさせていただきました。
授業規律や先生と子どもたちとの関係はしっかりとできています。この学校の課題は、わからない子ども、つまずいている子どもが、わかるようになる、できるようになる場面をどのようにつくるかです。そのために大切になるのは、困っている子どもたちに寄り添って授業を進めることです。常に先生が教えようとしてもすべてに対応することはなかなかできません。だからこそ子ども同士で解決するような場面をつくることが大切になるのです。このことを意識しながら授業を進めてほしいと思います。

返しの難しさを感じた授業

昨日の日記の続きです。

1年生の国語は物語で登場人物の気持ちを読み取って音読を工夫する授業でした。
授業規律もしっかりできていて、子どもたち対する指示も的確です。興味関心を持たせる工夫など、学ぶべきことの多い授業でした。
音読で子どもたちに「強く」「弱く」という強弱や「早く」「ゆっくり」という緩急などを意識して読ませます。できれば、「表題」や「作者」という用語やそれと関連して音読する時の間なども教えておきたいところでした。
「いつの話」「だれが何をしているのか」といったことを意識して読むように指示をします。目標を持たせることはよいことです。子どもたちは一生懸命に読んでいるのですが、音読に意識が集中しているようにも見えました。音読と読み取りと明確に分けてもよかったかもしれません。読み取りについては、それがわかる所に線を引かせると、何となくではなく根拠を持つことができると思います。
発表者には本文のどこに書いてあったかをちゃんと確認します。とてもよいことです。「最初のところに書いてあった」という子どもの答に、そこをちゃんと読ませます。これもよい指示ですが、本人に読ませずに、他の子どもに読ませたり、確認したりするといったことをしてもよいでしょう。手を挙げなかった子ども、聞いているだけの子どもを動かすことも大切だからです。
登場人物の確認で、「いいです」「同じです」という反応が返ってきますが、全員がきちんと反応しているわけではありません。何となくで先に進むことがあると、次第に子どもたちは受け身になっていきます。何人も指名して、「同じ」ではなくもう一度言い直させるとよいでしょう。
「やぶれしょうじ」の意味を確認しますが、しょうじを「やぶって」という子どもの言葉でそのまま進めます。「やぶれている」「やぶれたまま修理していない」ということ押さえる必要があります。また、作者の表現に敏感になって、そこから情景を読み取る力をつけることが大切です。「どうして敗れたままにしているの?」と子どもたちに問い返すことで、「やぶれしょうじ」という言葉から貧しい生活の様子がうかがえることに気づかせたいところでした。
登場人物のおかみさんとたぬきの様子を子どもたちに前に出てやらせます。小道具の糸車とお面に子どもたちは大喜びです。ここで「先生のつくったたぬきのお面は、目は回らないけれど」と本文のたぬきの目が糸車に合わせてクルクル回る表現を意識させます。たぬきの様子が書かれている本文の記述を抜き出して、子どもたちに気づかせてもよかったもしれません。
子どもたちの音読に合わせて、指名された子どもが演技をします。糸車の回る音だけの場面でおかみさんの回す糸車は「キーカラカラ キーカラカラ」「キークルクル キークルクル」という擬音語で表現されています。2つの音ははずみ車の部分の音と糸を巻き取る部分の違いを表わしているのでしょう。小道具の糸車はそこまで細かくつくられていませんが、音が2つに分かれていることも読み取らせたいところでした。また「キー」という音がついていることにも注目させる必要があると思います。ただ、「カラカラ カラカラ」「クルクル クルクル」だけではどう違うのか、それを意識して演技させたいところです。「キー」というきしむ音が入ることで、糸車が古くて痛んでいること、そこからも暮らしが楽でないことを読み取らせたいのです。

用意したおかみさんとたぬきの絵の吹き出しに気持ちを書き込ませます。書けた子どもは手を挙げて先生が来るのを待っています。授業者は○をつけながら声かけをします。子どもたちはとてもうれしそうですが、挙手に頼っているので授業者はあちこちへと大忙しです。手がつかない子どもにも対応しているので、挙手をしている子どもに気づかなかったり、なかなか○つけに行けなかったりしています。ここは、挙手に頼らず列にそって全員に○つけをする「○つけ法」で行うとよいでしょう。手がついていない子どもには一言アドバイスをして、その子たちだけもう一度あとから○つけに回るのです。
子どもたちに、おかみさん、たぬきの気持ちを発表させますが、どこからそう思ったかは問い返しません。子どもなりに根拠があるはずですから、そのことを本文と関連づけて確認するとよかったでしょう。「かわいいなあ」という答に対して「ここに書いてある」と反応する子どもがいます。授業者はそれを取り上げませんでしたが、ちょっともったいないと思いました。
子どもは○ももらっているので発表したくてたまりません。テンションが上がっています。隣同士で聞き合うといったことをしてもよかったでしょう。

おかみさんの気持ちを意識して音読をさせます。子どもたちが考えた登場人物の気持ちと、強弱や緩急をつけるといった読み方の関連がはっきりしません。「どういう風に読むといい?」といった問いかけもするのですが、子どもからは気持ちの部分は出てきても具体的な読み方の説明には上手く結びつきません。ちょっと読ませてみて、子どもたちに「どんな工夫をしていた」とたずねたり、「強く読む時はどういう時?」「かわいいと思ったら、どういう風に読むといい?」と問いかけたりすることも必要だったと思います。

根拠を大切にしようとしていることはよくわかります。しかし、子どもはなかなか明確にすることができません。子どもの発言に対して、できるだけ具体的に問い返すことが必要です。子どもへの問いかけや返しの言葉を工夫するとよいでしょう。
また、この授業では登場人物の気持ちを読み取ることを主眼にしているので、情景の描写にはあまり触れませんでした。時間の関係もあるのでそう判断したのでしょう。情景描写の読み取りについてもどこかで時間が取れるとよいと思います。
力のある方なので、基本的なことは本当にしっかりとできています。だからこそちょっとした工夫で授業はより一層素晴らしいものになると思います。今後が楽しみです。

この続きは次回の日記で。

子どもたちの活動が主体の授業の難しさを感じる

遅くなりましたが、1月に訪問した小学校の話です。市内の全小中学校での授業アドバイスの一環です。この日はベテランと中堅3人の授業アドバイスと学校全体に対してお話をさせていただきました。

6年生の国語の授業は漢字クイズをつくる場面でした。クイズの種類を「読み方山」「使い方山」「送り仮名山」と山に例えて、子どもたちが自分で問題をつくるのがこの日の課題です。
最初に前時にやったクイズについて復習します。指名された子どもは教科書やノートで確認をしようとするのですが、他の子どもは反応しません。他人事になっています。一問一答の形で授業が進むことが多いのかもしれません。
質問に対して積極的に反応する子どもが一部に偏っています。授業者がもっと積極的に指名すれば反応してくれる子どもたちに見えます。授業者がもっと多くを求めてもそれに応えてくれる子どもたちだと思います。

課題を提示後、「発展山」に挑戦してもよいことを伝えます。やる気のある子どもでしょう、「部首」「書き順」と発展問題のジャンルを話します。授業者はそれをすぐに板書しましたが、発言者と授業者だけで終わっています。板書する前に、他の子どもたちに「どんな問題か想像がつく?」と発言を共有したり、「この他にもどんな問題がつくれそう?」と広げたりしたいところでした。
グループで作業をするのですが、グループの形になる時に動きが遅いことが気になりました。課題は理解していますが、どのようにしてつくればいいのか見通しが立っていなかったからのように思いました。

ここで、「分担して、一人が1種類の問題をつくる」「一人2問つくる」「できたら班でやってみる」「掲示用の紙に問題を書き直す」といった一連の作業を説明します。口頭では追いきれません。こういった指示はグループになる前にディスプレイを使って説明するとよいでしょう。指示が終わった後もディスプレイに表示しておくことで、すぐに確認ができます。
子どもたちは、どこから手をつけてよいのかわからないために、エネルギーが低いように感じました。自信がないのでしょう、「先生これであっている?」と授業者に確認します。それに対して、授業者がていねいに対応していました。せっかくグループで活動しているので、グループの他の子どもにつなぐとよいのですが、一人ひとりが違う作業をしているのでかかわり合うことが難しくなっています。「グループで同じ種類の問題をつくる」、グループごとに全部の種類を用意したいのであれば、「ジグソーのように同じ種類で集まって問題をつくった後、元のグループに戻る」といった方法もあります。

気になったのが、この授業の流れからは、子どもたちにどのような力をつけたかったのかよくわからなかったことです。辞書や漢字練習帳をぺらぺらめくっている子どもが目立ちます。意図を持って活動できていません。「漢字に興味を持たせたかった」のか、「漢字の知識を増やしたかった」のか、「辞書の使い方を身につけさせたかった」のか、いずれにしてもそれが明確に伝わってきませんでした。
進捗状況も子どもによって大きく異なっていました。途中で、活動を止めて子どもたちに困っていることを言わせたり、何を使ってどのようなことを調べたかといったことを発表させたりする場面が必要だったでしょう。足場をそろえることで進捗のばらつきは緩和されます。また、「読み方がたくさんある漢字を探す」「同音異義語を探す」「訓読みを確認する」といったことを共有することで、授業のねらいもはっきりしてくるはずです。

子どもたちの活動は、この授業時間内では終わりませんでした。発表用に大きく書き直すことも時間がかかってしまった要因です。授業者は教室に貼ってみんなで見合うことをねらっていたので仕方がありませんが、全体で発表するだけなら実物投影機などを使うことで時間を大きく減らすことができます。こういった活動ではICT機器を活用することも視野に入れたいところです。

子どもたちの活動が主体の授業は、子どもたち任せておけばよいから楽だと思う方もいますが、教師主導の授業よりもはるかに難しいところがあります。課題の与え方一つで動きが変わってきます。また、子どもたちは授業者の予想通りに動くわけではありません。グループや個人によってその動きも異なってきます。子どもたちの様子を観察して、状況に応じた対応が求められます。高い授業力が求められるのです。
この授業を通じて改めてそのことを考えさせられました。この授業から、私も授業者も多くのことを学べたと思います。

この続きは明日の日記で。

学校の次の課題が見えてくる

昨日の日記の続きです。

授業研究は3年生の国語の授業です。「科学読み物を紹介しよう」という単元の第2時で、教科書の本文「ありの行列」の最初の時間でした。
この単元の最終目標である紹介文を書くことを確認してから授業は始まりました。ゴールを意識することはよいのですが、それとこの時間の関係がはっきりしません。内容がわかっていないと紹介できないので、「読み取り方」を学ぶことを明確にしておきたかったところです。
「どんな組立になっているか」を考えて読むことがめあてです。「つながりに気をつけて」という表現もします。「組立」「つながり」がどういうことなのかを確認しておきたいところでした。過去に学習したのであれば、その時の文章を提示して思い出させるといったことが必要だと思います。

授業者の範読を聞いて、初めて知ったことを後から発表してもらうと伝えます。目標を明確にすることはよいことです。この時鉛筆を手に持っている子どもと持っていない子どもがいることが気になりました。「初めて知ったところに線を引く」という課題にして、鉛筆を持つことまで指示した方がよかったかもしれません。
本文に「じょうはつ(蒸発)」という言葉がありました。子どもたちが「蒸発」という言葉を知っているのかちょっと心配でした。確認をしておきたいところです。
子どもから「お尻から液が出る」「餌が多いほど匂いが強くなる」といったことが出ます。この時、友だちの発言を聞いていない子どもが少し目につきます。ここはあまり時間をかけたくないところでしょうが、どこに書いてあったか確認することも必要でしょう。

文章を形式段落に分けさせます。上手く分けることができない子どももいます。形式段落の定義が全員に定着していないようでした。確認が必要だったようです。
段落数の確認で自信のない子どもはまわりの様子を見て手を引っ込めてしまいます。よくあることなのですが、間違えても恥ずかしくない雰囲気ができるとよいでしょう。

授業者がこういった文章には「問い」があると説明します。問いの文はどれかを探させます。「それなのに、なぜ、ありの行列ができるのでしょうか。」という文の「それなのに」を問いに含むかどうかで意見が分かれます。これは「問いの文」をどのように定義するかで違ってきます。「それなのに」の「それ」が、「ありは、ものがよく見えません。」を指していることを押さえて、「それなのに」を含めるのなら指しているものも一緒にしないとよくわからないことを確認するとよかったでしょう。両方を合わせて問いの文とする、1文にするのなら「それなのに」を外した方がよいといったところで納得させるとよかったでしょう。
ここは問いの文を厳密に定義することではなく、文章の構成を考えることがねらいのはずですから、あまりこだわりすぎない方がよかったと思います。
結局、問いの文は「それなのに」を除外することにしましたが、根拠は子どもたちには明確になっていませんでした。

構造を意識するのであれば、「疑問を持つ⇒調べる⇒答がわかる」という過程を意識して、この文章がこのような構造になっているのか考えさせるという方法もあります。
最初に問いがあることから、答はどこかにあるはずだと問いかけて、その部分とそれ以外に分かれていることに気づかせる方法もあります。
いずれにしても、その上で3つに分かれることを「はじめ」「中」「終わり」の用語とともに確認したいところでした。しかし、授業者はこれも天下りで「はじめ」「中」「終わり」の3つに分かれると教えました。何かに疑問を持って調べたり考えたりしたことを伝えようとすると、こういう構造になることに気づかせたいところでした。

3つに分かれることを説明した後で、答の文を確認させました。答の文を「このように、においをたどって、……」の「このように」を含めて線を引く子どもが何人もいました。「それなのに」を除外する根拠が明確でなかったので、混乱しているようでした。「それなのに」がダメだったから「このようにも」だめという意見が出ました。本質的な説明になっていませんが、授業者はそれでよしとしました。ここがこれほど子どもたちの争点になるとは思っていなかったのでしょう。恣意的に進んでしまいました。

結局、子どもたちとっては、文の構造を考えるのではなく、問いの文、答の文を見つけることが中心の活動になってしまいました。
「文の組立とはどういうことか?」「つながりとはどういうことか?」「『はじめ』『中』『おわり』の構成と『問い』と『答』の関係はどうなっているのか?」といったことをどのようにして考えさせ、教えるのかを整理しておく必要がありました。
一読した時に子どもから出た「不思議」という感想の言葉を活かして、「筆者も『不思議だ』と思ったんだね」とそこから「問い」「実験・観察」「答え」というこの文章の構造につなげても面白かったかもしれません。

授業検討会はグループに分かれて行われました。
学級の授業規律のよさや子どもたちが授業にしっかりと参加しているといったよい点がたくさん語られます。この学級だけでなく、学校全体としても授業規律や参加度はよくなっていると感じます。うれしいことです。
先生方の論議も「問いの文」をどう扱うべきだったか、文の構造とどう結びつけるかが中心となっていました。授業の深い部分について先生同士で話し合うことができていることをうれしく思いました。複数の学級がある学年では、授業のアドバイスを一緒に聞きに来てくれます。その一方で、1学級しかない学年もあります。相談相手に困ることもあるかもしれませんが、こういった機会を通じて気軽に話せる関係ができていくことを願っています。

授業規律や先生と子どもたちとの関係ができている学校です。次の課題は一つひとつの授業でどのような力をつけるのかを意識した教材研究です。授業技術を活かすにも、教材研究がその基本です。しかし、これはそれほど簡単ではありません。小学校のように受け持つ教科が多いと、教科書の内容をしっかり理解するための時間を確保するのも大変です。毎日の教材研究を一人で行うのは大きな負担です。互いに気軽に相談できることがとても大切になります。学校のチーム力が求められます。来年度、先生方がどのようにこの課題に取り組んでいくのか楽しみです。私も先生方の取り組みがより前に進めるようお手伝いしたいと思います。

子どもの実態を把握することが大切

昨日の日記の続きです。

4年生の算数の授業は、子どもたちがとてもよい表情で授業を受けていました。
子どもの発表に拍手が起こります。しかし、全員が拍手をしているわけではありません。拍手が形式的になっているように思いました。もし発表が間違っていたら、子どもたちはどう反応するのでしょうか?おそらく拍手は起こらないでしょう。発表した子どもは落ち込むかもしれません。形式的な拍手ではなく、意味のある拍手にすることを意識するとよいでしょう。具体的には、拍手した子どもにその理由を問うのです。形式的な拍手はしなくなります。本当に納得した時、すごいと思った時にされるものであれば、拍手が起きないのが普通になります。その代り、授業者が受容したり、他の子どもたちに同意を求めたりして認め合えるようにすればいいのです。
確認の場面で全員の手が挙がらなかった時に、すぐに指名せずに隣と確認させました。全員参加が意識できている証拠です。
この日は、真分数と仮分数という用語と分数の大きさの関係についての学習でした。用語は知識ですから教える必要があります。これを子どもたちに聞くと塾や通信教育で学習している子どもしか答えられません。また、はっきりしない説明でかえって混乱することもあります。授業者が子どもたちに未習の知識を問いかける場面がありましたが、授業者が説明すべきだったと思います。
真分数、仮分数の定義は、分子が分母より小さい、分子が分母と同じか等しいとなります。分子と分母が等しい時はどちらか?「以上」「未満」といった言葉の定義の再確認などが必要になります。また、分子<分母なら1より小さいということを結論として整理しますが、その理由をあまりきちんと押さえませんでした。「絶対に1より小さい?」「分数が1より小さかったら分子は分母より小さい?本当?」と子どもたちを揺さぶり、自分の言葉できちんと説明できるようにさせたいところでした。結論だけでなく、その根拠をきちんと意識し言語化させることも大切にしてほしいと思います。
練習で、数直線上を示してその値が真分数か仮分数かを問う場面がありました。子どもたちに結果を言わせますが、その根拠を確認しません。小学校では定義と性質を混乱する傾向があります。ここでは「1より小さい」「1以上」といった理由を言わせるだけでなく、「どうして1より小さいと真分数になったの?」と定義に戻って確認するといったこともしたいところでした。
この授業で一番大切なことは何かをしっかりと教材研究していないと、どうしても押さえるべきことが曖昧になります。授業規律や子どもとの関係がよいだけにこのことを意識してほしいと思います。

もう一つの4年生の授業は算数の資料の扱いの授業でした。度数分布表を「正」の字を使って素早くつくる練習をする場面でした。
「正」の字を使って資料の度数を調べるやり方は知識として教えるべきことです。きちんと教えて全員が素早くできるようにすることが大切です。
子どもたちが練習問題に取り組んでいますが、時間がかかっていることが気になります。その理由はすぐにわかりました。子どもたちは、ケガをした場所の数を調べるのに運動場なら運動場だけを探して1つ見つかるごとに「正」の字を1画ずつ書いているのです。これでは、普通に運動場はいくつか数えることと変わりありません。合計を数えるのにも「正」の字を使っている子どももいます。「正」の字を使う意味がありません。授業者はこのことに全く気付いていませんでした。子どもたちの手元を見ればすぐにわかることです。答の確認の場面でも、項目ごとに「正」の字がどうなっているかを示します。これでは子どもたちの間違いを強化してしまいます。
やり方の説明場面を見ていなかったので何とも言えませんが、1つ該当のものがあると1画書き足すことだけが強調されていたのではないかと思います。実際に全体でやって見せ、今までのやり方と比較して、そのよさを子どもたちに言わせるといったことが必要でしょう。その上で、目的によってどのような表をつくればよいのかを考えさせることも大切です。表を与えて穴を埋めるのではなく、何のための表かを意識して取り組ませるのです。また、表に合計の欄があることの意味も考えさせたいところです。間違いを修正するために、合計をどう利用するのかも教えるべきことです。
子どもたちのつまずきを意識して教材研究をし、常に子どもたちの実態を把握することを忘れないでいてほしいと思います。

5年生の道徳の授業は命をいただくことを考えるものでした。
授業者は子どもたちに配る資料を工夫していました。先を読まないように場面ごとに区切って、次の場面は紙を折らないと見られないようになっています。区切りごとに主人公の行動の選択肢が書かれていました。読みながら、どの選択肢を選ぶのか想像させるのです。子どもたちを資料に引き付けるにはとても面白い工夫です。
資料は、家で食用の山羊の面倒を見ることになった主人公が次第に愛情を持つようになったが、自分の寝ているうちに山羊は食べるために殺されたという話です。子どもたちは、主人公はどうするだろうと想像しながら話に引き込まれていきます。最後の方では、選択する場面で「主人公だったら?自分だったら?どっち?」と質問する子どもも出てきました。自分に引き付けて考えていることがわかります。授業者は子どもの選択に対して言葉を足しすぎているように思いました。興味をひかせたいという気持ちはわかるのですが、雑談になっている場面も目に付きました。
「山羊を殺されてどうする?」という問いかけにグループで話し合います。自分の課題となっていたのでしょう。子どもたちが素早くグループの隊形になったことが印象的でした。
時間の関係でここまでしか見られませんでしたが、授業の流れとしては、少し細かく資料を区切りすぎ、行動の選択に時間をかけすぎたように思います。「山羊に愛情を感じるようになったこと」「山羊が食べられることへの葛藤」を押さえて、早く「山羊が殺されてどうする?」という課題に向かわせたいところでした。この後主人公のおじさんの「命をもらわなければ生きていけない」という言葉をもとに、もう一度考えさせる展開だったでしょうが、おそらく時間が足りなかったのではないかと思います。子どもたちに興味をひかせ、考えさせる構成はよかったと思いますが、どこに時間をかけるかをもう少し意識できるとよかったでしょう。一般的に道徳の授業は資料の内容把握に時間をかけすぎる傾向が強いように思います。できるだけ早く子どもたちに考えさせ、そこに時間をかけたいところです。
授業者は毎回先輩と相談しながら、工夫をした授業を見せてくれます。この挑戦する姿勢を忘れずに毎日の授業に臨んでほしいと思います。次回の訪問も楽しみです。

授業研究については明日の日記で。

先生方個々の課題が見えてくる

小学校で、授業研究の指導と授業参観を行ってきました。

学校全体としては、子どもたちは落ち着いて授業に参加していました。

若手の先生の1年生の算数の授業では、子どもたちがまだ集中していないのに授業が進みました。教科書を広げさせますが、すぐには使いません。ワークシートを配ってから説明するので、子どもがごそごそしています。ちょっと心配な状態です。ところが、子どもたちへの指示はきちんと通っています。子どもたちはこの状態でもきちんと聞けていたのです。
この日のめあてを板書したあと、授業者は子どもたちが写している様子をしっかりと見て待つことができていました。これから後は、落ち着いて子どもたちを見ながらきちんと指示等もでき、教室は落ち着いた状態になりました。これが普段の状態なのでしょう。子どもたちはきちんと育っていたので、指示もちゃんと聞けていたのです。最初は私たちが参観するので、緊張して授業者も余裕がなく、それが子どもたちも影響していたのでしょう。
この日のめあては、1から100までの数を順番に書くことです。表に数を書くのにどの方向に書いていけばいいのか子どもたちは混乱します。「右に数が増えていく」「端まで行ったら左に戻って書く」といったことはあたりまえのように思いますが、子どもたちとってはそうとも限りません。1行書いたあと次の行に移るところまでは、全体で確認する必要があります。授業者は行が変わるところは説明をしませんでした。経験が少ないので、仕方がないのかもしれません。子どもたちがどこでつまずきそうか考えたり、先輩に聞いたりすることを心がけてほしいと思いました。

2年生の算数の授業は、九九の表の秘密を考える場面でした。
友だちの発言に「あーすごい」という言葉が出てきました。とてもよい場面なのですが、あっさりと進みました。反応した子どもにもう一度説明させたりすることで、全体で共有したいところでした。
授業者はとても上手に子どもをコントロールします。よい意見だが今取り上げることが適切でないと判断すれば、優しくうなずいて受容しながら「後でね」と流します。先走って発言しようとする子どもには「まだ言っていないよ」と制止します。
子どもたちが個人追究している場面では、個別にていねいに対応しています。しかし、ていねいに対応しているために全体を見ることが少し弱くなっていることが気になりました。全体を見て、困っている子どもに対して対応することも大切です。
気づいた性質を発表させ、そのことを他の子どもたちに確認させます。なんとなく「そうなっている」とはわかるのですが、「なるほど」とそれがどういうことか納得するまではできていません。もう少し子ども同士で相談したりして考えさせたいところでした。出てきた考えは授業者がまとめるので、子どもはそれを写してしまいます。時間の問題もありますが、友だちの考えを聞いて子ども自身でノートにまとめさせたいところでした。
授業をいつでもコントロールできる方なので、思い切って子どもたちに委ねる場面を増やすことにも挑戦してもらいたいと思います。そうすることで、子どもたち自身で課題を解決する力がついてくると思います。

2年生のもう一つの学級の授業は国語でした。数を表わす言葉使って、問題をつくる場面です。
子どもがお店で買い物したり、お母さんたちが立ち話をしたりしている街の絵を提示して、問題をつくる活動をします。絵には値段などの数字が書き込まれています。その絵の場面をもとに問題をつくるのですが、何をすればよいのか子どもたちはよく理解できていません。書けていない子どもが目立ちます。授業者は時間を延長しました。できた子どもに対しては、2つ目の問題をつくるように指示しますが、ほとんどつくろうとしません。問題をつくって一旦集中が切れてしまったので、なかなか戻らないのです。1つできたら、2つ目をつくるといった指示は活動に入る前にしておくことが必要です。多くの子どもたちが問題をつくるのに手間取っていたのは、課題がきちんと理解できていなかったことが原因のように思います。個人作業に入る前の例示の段階をもっとていねいにする必要があったようです。
子どもたちは「算数」的なことに意識が行っていました。答がいくつになるのか、式はといったことを考えている子どもも目につきます。この授業のねらいは「本」「匹」「枚」「人」「個」といった数を表わす言葉を使う練習ですから、もっとそこに意識を向けさせる必要があります。絵を見ながら、「大根が○○“本”あるね」「子どもが○○“人”」いるね。「犬は○○……?」といったやり取りをしっかりして、問題文をつくるには数を表わす言葉に注意が必要なことを押さえておく必要がありました。絵は何もないところで考えるのが難しいのできっかけとして用意されています。無理してそれにこだわる必要もありません。「数を表わす言葉をたくさん使う」ことを目標にして、「どんな問題がつくれるかな?」とした方が、やりやすい子どももいたかもしれません。
いずれにしても、この授業のねらいをしっかりと意識して、そのためにどう授業を展開すればいいのかを考える必要があったように思います。教材研究の大切さを感じました。

この続きは明日の日記で。

提案性のある授業から学ぶ

ずいぶん間が空いてしまいましたが、前回の日記の続きです。

社会科の若手の授業研究は1年生の歴史、鎌倉時代でした。授業者は、以前は最初に雑談などをすることが多かったのですが、すぐに本題に入っていきます。
最初に鎌倉時代の武士の住まいの絵を見せて、読み取れることを3つ以上見つけるように指示します。漠然とした「気づいたこと」よりも「読み取れる」という言葉の方が、社会科として資料を見る視点が明確になると思います。3つ以上としたこともすぐに見つけた子どもが遊ばないための大切な指示です。ちょっとしたことですが、基本ができています。
「読み取れる」という言葉に対して「違い?」と授業者に聞き返す子どもがいました。比較して資料を見ることを日ごろからしているのでしょう。
子どもたちは武士の住まいの絵から、いろいろなことを見つけます。「前見たのと違って……」と平安時代の貴族の屋敷との違いという視点で話す子どももいます。この時、授業者はこの視点のよさを評価しませんでしたが、ちょっと残念でした。見張りのやぐらがあることなどが出てきたところで、「なぜ柵で囲っているの?」と問いかけます。子どもの考えを聞いたのち、「注目してほしいのは……」と授業者が焦点化していきます。ここは授業者が主体で進めすぎるように見えます。この日はこのあとやる「定期市」の学習に時間をかけたかったので、このような進め方になったようです。そうであれば、個々で読み取る時間を取らずに最初から全体で進めたほうが効率的だったかもしれません。その日の授業で何を重点的に扱うかで、進め方は変わってきます。いずれにしても、授業者の意図が授業から伝わってくるということは、よく考えて授業に臨んでいる証拠です。しっかりと授業研究をしていることがよくわかります。

「定期市」の様子がかかれた絵が提示されます。この絵から読み取ったことを発表させます。「武士でなくいろいろな人がいる」「何か売っている」といった言葉が続きますが、授業者はそれがどこにかかれているのかを確認しませんでした。ていねいに進めているのですが、資料をもとに確認してあげると、よくわかっていない子どもも参加しやすくなったと思います。「全体的に商売している人がいる」といった発言がありました。これに対しても、「商売しているのはどこでわかるの?」と聞き返したいところでした。こういった問いかけをすることで、「売り手」と「買い手」といった商売の基本的な要素に子どもたち自身で気づけると思います。
授業者はここで「定期市」という言葉を提示します。「四日市」といった地名から鎌倉時代に各地で月に3回市が開かれていたことを平安時代の「東の市」「西の市」との比較で説明します。平安時代との比較をしたことは歴史の変化を考えるためにとてもよい視点だと思います。
鎌倉時代に定期市が開かれるようになった理由をグループでまとめさせます。発表をすることを考えると、どうしてもまとめさせたくなりますが、これにこだわると多様な意見やよい意見が埋もれてしまう可能性もあります。順番にグループで発表するのではなく、「一人の子どもにグループでどんな意見が出たかをたずね、それをもとに同じような意見や考えをつなぎ、一通り出たところで次の意見を聞く」といったやり方も進め方の一つとして考慮するとよいでしょう。

子どもたちは資料集や教科書の記述から答探しをしていました。教科書の記述をそのまま発表するグループも目立ちます。答が教科書に書いてあるような課題ではこうなってしまうのは仕方がないことです。市が開かれるためには何が必要かをまず子どもたちに考えさせることから始めるとよかったでしょう。「商品が必要」「買う人が必要」といったことを引き出し、「鎌倉時代に定期市ができたのは、平安時代と何が違ったから?」と問いかけて、資料集や教科書を調べさせると面白かったと思います。また、平安時代との比較をしてまとめさせると、より深く理解することができたと思います。
「農作物の収穫が増えた」ことから余剰作物が商品となったことに触れられますが、定期市の絵では農作物以外の商品もたくさんかかれています。「農作物の収穫が増えた」だけで、なぜ他の商品も流通するようになったのかを問いかけたいところでした。購買力が増えることで経済が発展する構造に気づける場面だったと思います。
農作物の収穫が増えた理由として「土地の開墾」が出てきます。ここでも「土地が広がったら耕す人も必要になるけど、人はあまっていたの?」といった投げかけをしたいところです。効率化といった他の要素もかかわっていることから、いくつかの条件がそろわなければ変化が起こらないことに気づかせることができます。
資料集や教科書の記述の内容の確認までを早くして、そこからもう一歩深く考えさせる発問をしたいところでした。

授業者はこのあと、流通に貨幣が必要なこと、日本の貨幣の質の低下と中国からの貨幣の輸入についてかなりの時間をつかって説明しました。経済の発展にともなって貨幣の必要性が高まることについては既に学習していたのかもしれませんが、ここで子どもたちに問いかけて確認しておきたいところでした。悪貨が良貨を駆逐することについての説明もかなり詳しく行ったのですが、ここで扱った方がよかったのかどうかはよくわかりませんでした。江戸時代の改鋳の話の布石にはなるのですが、そこで扱ってもよかったかもしれません。

最後は、授業者が自分の言葉で簡単に全体をまとめて終わりました。時間がなかったのかもしれませんが、市(流通経済)が盛んになるための要素をまとめ、鎌倉時代に起こった理由と対にして子どもたちに自分の言葉で整理させたかったところでした。

授業後、社会科の先生方を中心に検討会を行いました。
うれしかったのが、授業者が自分の授業を振り返って課題を把握し、きちんと整理できていたことでした。この先生が力をつけてきた理由がよくわかります。また、この日は定期市に関連した流通面についてはあまり触れませんでしたが、それも意図的だということがわかりました。子どもたちに考えさせる内容を絞りたかったので、資料から荷物を運んでいる様子がかかれている部分を意図的にカットしたのです。教科書と違う資料を探した上で、こういった工夫をしていたことに感心しました。提案性のある授業をもとに教科の仲間で検討し合うことで、この学校の社会科の先生方は確実に力をつけてきています。互いが成長する構造ができているのです。

研修担当の先生はこういった研修の様子を発信してくれています。こういったよいかかわりが広がっていくことと期待しています。

先生方の進歩とこれからの課題

中学校で授業アドバイスを行ってきました。学校全体の授業参観と社会科の授業研究でした。

さすがにこの時期になると3年生はよく集中しています。1年生も集中している姿をよく見ることができました。2年生は、一見するとよい状態なのですが以前と比べて集中が落ちる場面を多く目にしました。時期的な問題もあるのかもしれませんが惰性のようなものを感じました。3年生に向かって学習・生活の両面で自覚を促すことが必要かもしれません。
学校全体として授業者が以前と比べてしゃべりすぎる傾向がありました。子どもたちは基本的に教師との関係がよく、話をよく聞いてくれます。聞いてくれるのでついついしゃべりすぎてしまうのです。先生が解説してくれるので、子どもが積極的に発言しなくなる可能性があります。

2年生の数学で、子どもに問いかけても反応が返ってこない場面がありました。反応がないので授業者が説明をしてしまうのですが、子ども同士に相談させるといったことをして、言葉を出させる場面をつくることが必要です。穴埋め形式で証明を完成させる場面では、説明と正解の提示が一体化しています。見通しを共有したところで、ちょっと時間を取って自分で埋めさせ、まわりと確認するといった時間を取ることも必要でしょう。今まで学習した図形に関する性質を黒板に貼ってありました。こういう工夫ができているので、あとは子どもたち全員が自分で正確にたどり着けることを意識してほしいと思います。

別の2年生の数学で、板書に課題を感じる場面がありました。
黒板には証明の解答だけが書かれていましたが、どうやってこの三角形に注目したのか、これに関して知っている知識は何か、何が言えれば証明はできるかといった、問題解決のアプローチや戦略がどこにも残っていないのです。子どもたちとのやり取りで取り上げたのであったとしても、証明のどこにそれが活かされているのかわかるようにする必要があります。板書しなくても、写した証明に対して子どもにかきこませるといったことをさせたいところです。

2年生の国語の授業でのことです。子どもたちは授業者の話を静かに聞いていました。まわりと相談する場面になると急にテンションが上がります。受け身の状態で子どもたちは積極的に参加できずに、我慢していたようです。また、その活動のゴールや目標が明確でなければ、相談するといっても互いの考えを評価したり、深めたりすることはできません。相手の言葉を真剣に聞く必要がいなく、言いっぱなしになってしまいます。どうしてもテンションが上がりやすくなってしまうのです。

2年生の社会科で、地理の穴埋め問題の解答をしている場面がありました。一つひとつ授業者が子どもに解答を聞きながら正解を示すのですが、地図帳等を使えばできるはずの問題です。子ども同士で、根拠となるものを示しあって確認させるだけでいいと思います。全体では、意見が分かれた問題があるかどうかを確認して、その問題だけみんなで取り組めばいいのです。穴埋め問題を否定はしませんが、答がわかればそれで満足する子どもが多くなります。どうやって答を見つけるかという過程を大切にしてほしいと思いました。

2年生の英語の”reading”の場面です。授業者は早く読むことを評価として活動させます。そのため、発音はどうしても雑になります。早口言葉を覚えているようなものです。言葉として発しているわけではありません。文の一部を変えただけで、対応できなくなります。この学校以外でも、その活動が「話す」「聞く」読む」「書く」の4技能のどこをねらっているのかわからない英語の授業をよく目にします。自分が中高等学校時代に受けた授業を深く考えずに再現しているようにも見えます。子どもたちが英語の4技能を身につけるために、どのような活動が必要かをもっと考える必要があると思います。

3年生のベテランの英語では、”listening”でまわりと相談する時間をとっていました。聞き取れたことを確認し合ってからもう一度聞くことで、だんだん聞き取れるようになっていきます。子どもたちは集中して楽しそうに参加していました。
この日は“stop 〜ing”と”stop to 〜”の違いの学習でしたが、まだ言葉による説明が中心でした。”I am walking.” ”I see a garbage.” “I stop walking.”といった”situation”で”stop 〜ing”を押さえ、”I stopped to pick up the garbage.”と説明するといった方法もあります。毎回、授業に工夫をされている先生です。こういった”situation”の工夫もして見てほしいと思いました。

1年生の英語で若手の先生が、”picture card”を使った授業に挑戦背していました。主語や動詞、目的語にあたる”picture card”をそれぞれ複数ペアに与えて、一方が自分の選んだ”picture card”を英語の語順に並べて相手に示します。その”picture card”を見ながら、英語にするのです。子どもたちは楽しそうに取り組んでいるのですが、うまく”picture card”を並べられなくて活動が上手く進んでいかないペアもあります。困った時に助けになるものが必要です。「黒板にどこにどのようなものが入るかがわかるような例を提示しておく」「”picture card”を並べた例をプリントにして配る。ペアそれぞれにバディをつくり、困った時はバディがそのプリントを元に助ける」といった工夫が必要だったように思います。授業者はこの授業の課題に自ら気づいていました。こういった新しい方法に果敢にチャレンジし子どもたちの姿から修正しようとする姿勢は立派です。
子どもの席をグループ隊形から元に戻したときに、すぐにはテンションが下がりませんでした。しかし、子どもとの関係がしっかりとできているので、笑顔ですばやく子どもを集中させることができます。
この授業でも、”reading”の評価が速さになっていました。べつの指標を考えたいところでした。

1年生の別の若手の英語では、目的をはっきりさせたフラッシュカードの使い方をしていました。読む練習なので、最初に授業者が発音して読みを確認した後は、子どもだけで読ませます。子どもは詰まりますが、読もうとしているので当然のことです。繰り返すうちにちゃんと読めるようになっていきます。子どもに適度なストレスを与えることが大切です。
ちょっとしたことですが、こういった細かなことを意識して授業を改善し続けています。4月と比べると、ずいぶん進歩しているように思いました。

1年生の若手の国語では、子どもたちが落ち着いて文法の課題に取り組んでいました。文の主語を見つける課題です。ペンを置かせてから、子どもとやり取りしながら解説をします。ここで、子どもたちに文節に分けることを指示して答えさせました。その後に、主語は「誰が」「何が」にあたる文節と用語の定義を再確認して、主語を答えさせます。これでは、子どもは主語の見つけ方を教わっているだけです。考え方の順序が逆です。用語の定義からどうすれば主語を見つけられるか、まず課題に取り組む前に考えさせるべきでしょう。課題を解くことを通じて考えさせたいのであれば、答を聞いたり、作業を指示したりするのではなく、どうやって見つけたかを発表させて共有させるべきでしょう。
答えの出し方を授業者が教える授業になっていました。

1年生の別の国語では、子どもたちに興味を持ってもらおうと三大美人の話をしていました。しかし、これはこの日の授業に直接関係のあることはありません。子どもたちのテンションが上がるだけで、本題に入ると集中力は落ちてしまいます。少なくとも国語のどのような力と関係するのかを考える必要があります。三大美人と国語の作品との関係や引用などの例から、美人について考えさせえるといった活動が必要になるでしょう。
説明文の「原動力とは何か?」について考えさせる場面で、子どもは何を答えていいかよくわかっていないようでした。先ほどの場面と違って、子どもが重く感じられます。ここで考えなくても、このあと授業者が説明をしてくれることを知っているので、自分で考えることに価値を見いだしていないのです。

1年生の理科は、圧力の実験の考察場面でした。スポンジの向きを変えてどれだけへこむかを測定したのですが、沈むことが何を意味しているのかが押さえられていません。強く押すとたくさんへこむ。重たいものを載せるとたくさんへこむといった沈むことが何を意味するのかを事前にきちんと実験するなどして押さえる必要があります。
同じ重さのものを載せれば同じだけ沈むことを押さえておくことで、設置面積の違いで沈み方が違うことが明確になってくるのです。向きを変えても、スポンジの重さ自体は変わらないことを意識させておくことが必要です。しかし、そういった場面があったようには思えませんでした。
一部の班のデータがおかしかったようですが、そのことその班に聞いても答えようがありません。再現して検討するすべがないのです。授業者はうまくいかなったとそのデータを排除しましたが、それでは子どもたちにとって何も学びはありません。実験のデータがおかしいと感じた時にどうすべきかというのも大切なことです。ちょっとやり直す余裕がほしいものです。やり直してみれば、単なるミスなのか何か原因があるのかがわかります。そういったことも実験を通じて経験させたいことなのです。教師が、このデータを排除してしまったことで、実験から考えるのではなく先生の求める答探しの授業になってしまったのです。

1年生の理科で、子ども同士がかかわる場面がほしい授業がありました。子どもを一人発言させてすぐに評価し、授業者が説明してしまっているのです。フックの法則を「ばねの伸びは……」と言葉で説明して、教科書のその用語に線を引くように指示します。言葉でわかるのであれば、教科書を読めばすみます。「ばねの伸び」もきちんとどこのことを示しているのか、ばねの長さとの違いも含めてきちんと理解させる必要があります。実物を見ながら実感させたいところでした。教師が言葉で説明するだけの授業にならないようにしたいものです。

社会科の授業研究はとても学びの多いものでした。これについては次回の日記で。

子どもたちの学習意欲を感じるエピソードを聞く

私立の中高等学校で授業アドバイスを行ってきました。この日も先生方と一緒に子どもたちの様子を参加しました。どの先生も真剣に子どもたちの様子から学ぼうとしていただけました。また、自身の課題について質問をしてくださる方もあります。先生方の中によりよい授業をしたいという思いが高まっているのを感じます。とてもうれしいことです。

子どもたちが落ち着いて授業に集中している姿をいたるところで見ることができます。例年と比べてもとてもよい状態で、どの先生も子どもたちのよさを実感されています。いつも言っていることですが、この子どもたちのよい姿を引き出したのは、先生方の力が大きいのです。子どもたちを受容し授業を工夫する先生方が増えています。先生方一人ひとりの意識が変わることで子どもたちの姿も変わっていくのです。

今まで予習をしてくる子どもはほとんどいなかったが、教科書を読んできたとうれしそうに報告する子どもが増えてきたというお話も聞きました。今まで教師が説明していたのを子どもたち自身で教科書を元に考えさせるようにしたところ、子どもたちの意欲が変わってきたというのです。その先生自身も今まで以上に授業が楽しくなったとおっしゃっています。子どもたちと先生が互いによい影響をおよぼし合っているのです。

冬休み明けの英語科の課題実力テストについて、面白い話を聞くことができました。課題の長文を元に質問に答える問題で、解答は日本語でも英語でもよいとしたそうです。わざわざ英語で答える子どもはほとんどいないだろうと思っていたが、かなりの子どもが英語での解答に挑戦していたそうです。設問は課題そのままではなかったのですが、先生が思っていた以上に解答できていたようです。試験が終わってから気づいたそうですが、課題の解説・解答を配るのを忘れたいたそうです。しかし、子どもたちはそのことにだれも疑問をはさまなかったようです。いい課題に真剣に取り組んでなかったのかとも思えますが、決してそうでないことは試験の結果を見ればわかります。先生の示す正解を求めるのではなく、自分で学習して答を見つけることが当然になっているようです。自分で考え理解することがこの学校の英語学習の基本となっているのです。英語の学習に対する意欲も非常に高くなったようです。英語検定の受験者数が例年の数倍になっているそうです。
この他にも、子どもたちと英語にまつわる面白いエピソードをいくつか聞くことができました。ある先生が子どもを呼び出したのですが、たまたま2人とも同姓だったそうです。一人しか来ないので、「もう一人は?」とたずねたところ、「The other ○○君は……」と答えたそうです。日本人にはなかなか正しく使えない”the other”をちゃんと使えています。試験に出る知識としてではなく、言葉として理解できています。
こんな子どももいるそうです。「先生、今から俺ら10分間英語だけでしゃべるから、先生もなんか英語でしゃべってよ」と言うのです。先生が英語でしゃべると、うんうんうなりながら英語でしゃべろうとします。その子どもは決して英語が得意というわけではありません。でも、自分たちは英語がしゃべるようになっている、しゃべりたいという気持ちがいっぱいなのです。こんな意欲的な子どもが育っているのはとてもうれしいことです。
先生からでてきた言葉は、「うちの子どもたちはすごい!」です。先生方は優秀な学生だった方ばかりです。中堅の高等学校では、自分の高校時代と比べて子どもたちが劣って見えて見下してしまうことがよくあります。しかし、子どもたちの潜在能力・可能性は決して低くはないのです。その潜在能力を顕在化させることが教師のつとめと言っていいかもしれません。そのことに先生が気づいている言葉です。
この子どもたちの英語への意欲向上に大きな役割を果たしているのが、GDMという英語教授法です。これまで、中学校の学習内容を再構成して基礎固めをしていましたが、高等学校の内容を教科書も使いながらGDMの手法で学習するという新しいフェーズに入ってきました。これまでは、既存のGDMのカリキュラムをベースにできたのですが、これからは未知の世界です。先生方にとってはこれまで以上に教材研究に多くのエネルギーが必要です。学校英語でのGDMの第一人者が先生方の熱意にほだされ、手弁当でカリキュラムの作成や指導・アドバイスをしてくれています。この日も、朝から授業を見てその場ですぐにアドバイスをしてくださったそうです。そのアドバイスを受けて修正することで、次の授業では大きく改善されたようです。
英語の先生方は授業研究に多くの時間を費やしています。その時間をつくるのにとても苦労しています。ここまでやってこられたのは、チームで一緒に考え作業を分担しているからです。こういったチームワークが他の教科でも見られるようになることを期待したいと思います。

さて、一つ気になるのが、非常勤講師の先生です。子どもたちの姿が他の授業と比較しても、今一つよくない傾向があります。時間の制約があり先生方と情報交換したり、研修に参加したりできない方が多いのです。そのため、この学校で今起こりつつある変化について共有できていないのです。子どもたちにとって先生側の事情は関係ありません。一方的な講義や、板書を写すだけの授業は、自分たちが活躍できる授業と比べればつまらないものに見えます。ある授業では、両手を前に大きく伸ばしてうつぶせに寝ている子どもが何人もいました。普通子どもは、見つからないように気を使って眠ります。露骨な態度をとっているのは、「寝たくならない授業をして」という先生へのメッセージなのです。このメッセージを受け取ってほしいのですが、なかなか難しいところがあります。今後の課題の一つです。

この日で、ほとんどの先生方と一度は一緒に校内を回ることができました。先生方が授業の改善に挑戦するようになって、教科や個別の授業ごとに課題も見えてきているように思います。次回からは、いくつかの授業をじっくり見て先生方と一緒に授業について考える時間を取りたいと思います。いよいよ次のステップに進む時が来たようです。これから学校全体にどのような変化が起こってくるかとても楽しみです。

完成度の高い授業だからこそ授業観の違いが明らかになる

先日、愛される学校づくり研究会の例会が開かれました。2月6日(土)開催の「愛される学校づくりフォーラム2016 in東京」前の最後の会です。

この日は午前の部、午後の部それぞれの進行イメージの確認を行いました。
午前の部は「愛される学校づくり“公開”研究会」となっています。テーマごとに4人の会員が提案を行い、指定された登壇者と話し合いを行うというものです。
この日は提案者が簡単な提案を行い、それをもとにこの日の参加者から選ばれた登壇者と議論しました。このまま本番にしてもよいくらい面白い話し合いになりましたが、当日は提案も進行もこの日とは異なるものになると思われます。予定調和には絶対ならないというのがこのフォーラムの面白いところです。私は、「『授業の見方』を高めるには」というテーマで提案しますが、この日の議論を受けて、当日の話し合いをより面白くするようなものにしようと考えています。きっと登壇者の皆さんが盛り上げてくれると思います。登壇者もワクワクするようなライブ感を楽しみたいと思います。

午後の部は「楽しく、手軽に授業改善しよう」で、2つの模擬授業をそれぞれ異なった視点で検討しようというものです。この日は、当日とは異なる授業者による模擬授業をもとに、2種類のツールを活用して検討を行いました。
模擬授業は初任者指導員をされている会員が授業者です。単に初任者の授業を見て指導するだけでなく、自身が実際に師範授業をして見せている方です。まだまだ現役の方です。
模擬授業は小学校低学年の詩の授業です。学習用語を中心に、詩の読み取りのための視点を意識したものです。題材は高木あきこさんの「ぞうの かくれんぼ」です。この日のめあてを「詩を深く読むための○○○○を手に入れよう」と提示します。穴をあけることで、「何だろう?」と子ども役に興味を持たせます。上手なやり方だと思います。実際の子どもではないのでよくわかりませんが、「深く読む」とはどういうことか子どもたちが理解できるのかが少し気になります。最初に読んだ時と、授業を終わった時で詩がどのように違って感じるかを子どもたちに確認することで、「深く読めたね」と評価して、深く読むこととはどういうことかを教えるというやり方もあると思います。

空欄に入るのは「ものさし」です。この言葉もちょっと気になりました。「ものさし」とは何か基準があってそれの量を測るものです。比較するために使われるものです。低学年ですから上手い言葉が思いつきませんが、「どうぐ」の方がよいようにも思いました。
「この詩にまとまりがある」と簡単に説明して、「連」という学習用語を示します。1行空きでまとまりをとらえさせます。この詩が何連あるかと問いかけます。子ども役は1行空きを頼りに8連と答えますが、「よく見ると8連じゃない」と返します。さて、「よく見ると」と言われても「連」の定義が曖昧です。まとまりとは何かわかりません。「7連と考えると自然」という言葉が出てきますが、「自然」とはどういう意味でしょうか?相手が大人だからこういう言葉を使ったのかもしれませんが、子どもにとってはとても曖昧な表現です。「ヒント」という言葉も使います。これは授業者の求める答探しにつながる言葉です。「句読点に注目して連に気をつけろ」と言われても、授業者が言わせたいことはこれだなと予想するだけで、本質的に「連」とは何かはわかりません。3番目のまとまりの最後は読点で終わっています。だから次のまとまりとつながるので、一つの連とした方が自然だというのが授業者の説明です。そう言われて納得する子どもは素直かもしれませんが、思考しているわけではありません。授業者の答を受け入れているだけです。少なくとも、「連」を再定義しなければ、「連」とは何かは混乱してしまいます。では、なぜ作者はわざわざ1行あけたのでしょうか?そのことに疑問を持たない子どもでは困るのです。授業者は、そのことについて後で触れます。しかし、ここで疑問として明確にしておかなければ、常に授業者から説明されることを受け入れるだけの子どもになってしまいます。

子ども役に会話の部分を見つけさせる作業をさせて、できたら前に持って来るように指示をする場面がありました。できた子どもを評価することは悪いことではありませんが、前に持って来させることはあまり勧めません。並んで待っている間、子どもたちがだれたり、友だちの邪魔をして集中を乱したりします。よほどの実力者でなければ、その間に学級全体の様子を見ることはできなくなってしまいます。今回は時間がなかったせいもありますが、途中で終わり、全員できたかを確認できませんでした。これでは常に作業の速い子ども、できる子どものみが評価されることになってしまいます。○をつけるなら、何とか全員に○をつけることを考えたいところです。

「会話文」と「地の文」についての説明場面です。ここで子ども役に会話でない文を何というか問いかけます。「地の文」と答えた子ども役がほめられます。過去に学習したことであれば知識を問うことは復習ですので悪いことではありません。しかし、まだ学習していないことであれば、知識のある子どもだけがほめられます。こういった点も私には気になりました。

何度も出てきている表現を問いかけます。「ぞうさん」という発言に対して、「でてくるね」と授業者が評価し、それから子どもたちに同意の挙手を求めます。ちょっとしたことですが、先に授業者が評価してしまうと子どもの判断にバイアスがかかってしまいます。意図的に誘導したいのでなければ、子どもたちの判断を先にするとよいでしょう。
授業者は1連の「ぞうさんと ぞうさんと」と6連の「ぞうさんとぞうさんの」を取り上げましょうと言います。ここを取り上げることは大切なのですが、常に授業者が指示します。せっかく学習用語を元に読み取りを深めたいのですから、「対比」を先に定義してから、「対比」を探させたいところです。いろいろな対比が使われていますから、それぞれについて、どんな効果があるか子どもたちの言葉で言わせたいところです。
授業者は「対比」の説明を「比べること」としていました。それでは「比較」です。対比は、比べることで違いを強調する、明確にすることです。読み取りのための用語としては、「強調」されること、することという言葉が必要でしょう。「ぞう」「ぞうさん」の違いを対比として授業者は説明しますが、「対比」の説明を「比べること」としたのですから、そこから「違い」を見つけることとつなげておく必要があったと思います。その上で、その「違い」がどのような効果をもたらすかといったことを考えたかったところです。

授業者は繰り返しているところを取り上げて「反復」と用語を説明し、強調していると解説します。強調は子どもから出させたいところです。「うろ うろ うろ」を隠れているところを探していることの強調と説明し、「はなが じゃま」「みみが じゃま」「おしりが じゃま」の反復を、指名した子ども役に動作化させます。指名された方の動作に対して、授業者が補足して助けます。詩にそった動作化なのですから、子どもたちに確認したいところです。

「・・・も、・・・も、・・・も、」と「も」が3つあるのは、何を強調しているのかを隣と相談させます。まだ発言していない人で答えてほしいと言うのですが、なかなか手が挙がりません。授業者が常に正解かどうかを判断するので、子ども役は無意識に間違えたくないと思っているように見えました。大人だからこそ手が挙がらないのでしょう。
「隠れるところがないことを強調している、だから行を空けている」と、「連」を考える時の一つのまとまりなのに行を空けていることの説明をここでしました。時間がなかったからだと思いますが、こういった場合は、行を空けたもの、行を空けてないもの、2つを見比べることで子どもの気づきを引き出すとよかったでしょう。

授業後、子ども役から、詩の奥深さを学んだという声を聞くことができました。とても楽しかった、勉強になったということです。たしかに、この詩の深い読み取りはできたように思います。しかし、それは授業者によって気づかされたのであって、子ども自身が授業者の言うところの「ものさし」を使って見つけたわけではありません。読み取れたと思っていますが、読み取った結果を与えられているように感じました。とはいえ、これが授業者のねらいだったようにも思います。小学校の低学年が自分たちでそれほど深く読み取れることは期待できない。授業者が誘導しても、詩の面白さ、読み取りの奥深さを感じ、興味を持ってもらうことがまず先だ。そのための道具として、学習用語を意識させたい。使えるのはこれからだ。そのような主張に思えます。
ここで私が述べたことは、低学年の子どもでも自分で考えることができる、考えさせたいと思った時、授業をどうすればいいのかと考えたことです。授業者の、まず教えて面白さを体験させることが先と考える授業観との違いが現れているのです。

検討会では、学習用語を使いながら明快に詩を読み取っていることや、子どもとのやり取り、さり気ないICT機器の使い方など、この授業の素晴らしいところがたくさん指摘されます。授業者の目指すところを達成するという意味では、完成度が高い授業だったということです。だからこそ、授業観の違いがはっきりとし、この授業で多くのことを考え学べたように思います。どこを目指すかによって、授業のありようは大きく変わります。授業者と私の最終ゴールが大きく違うとは思いません。そこへの道筋、ステップが違うのです。しっかりと考えられた授業であるからこそ、その違いが明確に見えてくるのです。
フォーラム当日は、同じようにレベルの高い授業が2つ提案されます。そこでどのようなことを学べるのか、今からとても楽しみです。参加予定の皆さんにも大いに期待していただきたいと思います。

佐藤正寿先生から本当に多くを学ぶ(長文)

今年度最後の教師力アップセミナーは、岩手県奥州市立常盤小学校副校長の佐藤正寿先生の「わくわく社会科授業〜全員が『わかる』『できる』授業のつくり方〜」と題した講演と模擬授業でした。

3部構成の第1部は、「社会科授業改善の視点」です。
佐藤先生は、子どもたちが社会科を嫌う理由を授業改善へのヒントととらえます。その内容もそうですが、こういった姿勢はとても大切なことだと思います。若い先生方は子どもたちが授業に不満を示すと落ち込むことが多いのですが、それを授業改善のチャンスととらえる強さが必要です。子どもが不満を言うのは先生に期待しているからです。こういった声が聞けなくなることの方がこわいのです。
佐藤先生が挙げた子どもたちの声は、「覚えることが多い」「資料が難しい(特に4年生後半から)」「楽しくない、興味がわかない」「先生の教え方が……」というものです。そこを元に社会科授業改善の7つの視点を提示されました。

視点1「資料に応じた読み取り方を」
教科書に掲載される資料数を種類別に表にしたものを示されます。それまで写真や図が中心だった資料に、4年生後半からグラフや表が登場します。さきほどの子どもたちの声と合わせると、子どもたちにとってグラフや表の読み取りが難しいことがわかります。
先生方はすぐに「資料をみて気づいたことは?」と問いかけますが、これでは何を答えていいかわかりません。まずきちんと資料の内容を読み取ることから始める必要があります。例えばグラフであれば、最初に資料の「基本項目」を確認し、「全体」の傾向、続いて細かい「部分」に注目させ、そしてそれらを「解釈」し、「思ったこと」を発表させるという流れになります。最後の「解釈・思ったこと」で子どもたちから多様な意見を引き出すことで互いに学び合い、深い読み取りが可能になります。社会科に限らずこういうスモールステップを明確にしておくことで、授業の構成が明確になります。

視点2「教材にしかけをする」
ちょっとした工夫が子どもたちに興味を持たせ、積極的な活動を引き出します。例えば資料の一部を隠すというのは簡単ですが、効果のある方法です。「なんだろう?」と子どもたちが食いついてくれれば、それだけで十分価値があります。「どうすればわかる?」と問いかければ、子どもたちを動かすことができます。例えば、コンビニの写真の一部を隠して答を教えなければ自分で調べに行く子どももいるはずです。「なんだろう?」「知りたい?」、子どもに「?」を持てせることが大切です。

視点3「『ゆさぶる』場面を入れる」
あたりまえに答が見えていたり、新しい発見がなかったりすれば子どもたちは学習に興味を持とうとしません。有田和正先生の発問に「バスのタイヤの数はいくつですか?」というのがあります。「あれっ?どうだった?」と「あいまいなことを問う」ことで、子どもたちは引き込まれていきます。常識的な視点とは違う「新たな視点を示す」。特徴に気づかせるために、「他の例と比べる」。「○○なのに○○なのはなぜ?」と「矛盾・対立していることを示す」。こういったゆさぶりが、「子どもたちが社会的な事象を追求し続けるための前提」となる、「子どもたちの中に切実な学習課題への意識が成立すること」につながります。

視点4「定番ネタをもつ」
佐藤先生は、授業の導入にクイズをよく出されます。子どもたちのウォーミングアップに、フラッシュ型教材を使ってテンポよく短い時間で進めます。こういった定番があると、子どもたちも安心して授業に参加できます。「(都道府県名に)『川』が入っている都道府県は?」「数字?」「動物?」といった地図クイズを例として出されましたが、大人でも楽しそうに取り組んでいました。こういったクイズは、だらだらやらないことがポイントになります。

視点5「『知る』『わかる』『判断する』を区別した授業設計」
これは、とても大拙な視点です。「知識」を獲得し、「概念」を形成し、それをもとに「価値判断」する。これは、社会科だけに限りません。例えば総合的な学習の時間であれば、「○○について」とただ調べて発表するのではなく、その調べたことをもとに「○○は××か?それとも△△か?」と判断するような課題にするのです。
佐藤先生は、駐車場に障害者スペースがあることを知り、それが障碍者のための工夫であることをわかり、障害者にとって優しい街づくりであることだと判断するといった流れで説明されました。前の2つが、社会的な「ものの見方」、価値判断が「考え方」です。わかりやすい例でした。これをスモールステップとして、次のように整理されました。「見えるもの」を問う⇒推測する(気づかせ発問)⇒事象を概念として束ねる(概念化発問)「何と言えるか」「条件は何か」。佐藤先生の授業の構成は、まさにこのようになっています。

視点6「主催者として価値判断する場面を」
価値判断できる課題として、「農薬を使うことに賛成か、反対か」「日本は食糧の輸入を増やすべきか、減らすべきか」「あなたが農民の立場だったら、刀狩に賛成か、反対か」といった例を出されました。ポイントとして、「立場が明確」「知識が前提」「話し合いで変更可」「評価は考えが深まったか」を挙げられます。例えば、農薬であれば農家、消費者と立場を明確にすることで、考えやすく、議論が自然に起こります。ここで、判断するためには根拠となる知識が必要です。授業をつくる時には、判断するための前提となる知識を子どもが持っているのか、持っていなければどうやって獲得させるのかを考えておくことが大切です。また、子どもが友だちの考えに触れて、考えを深める場面が必要です。日ごろから、意見を変えることは、考えた証だとポジティブにとらえるようにしておくことが必要です。導き出した答そのものではなく、考えを深めた過程を評価することも大切になります。これは社会科に限りません。すべての教科で大切にしたいことです。
「何のために」といったことを考える、概念形成時に価値を問うという方法も示されました。「昔のくらしのよさは何か」「もし、ごみを出すきまりがなかったらどんな問題がおきるか」「参勤交代は当時の社会にどのようなプラスがあったのか」というわかりやすい例で説明されます。価値判断する場面をつくることは、アクティブラーニングにも通じることです。特に大切にしたいと思う視点です。

視点7「『旬』を生かす」
佐藤先生がいつも意識されていることの一つが、この「旬」を生かすということです。社会科は内容が時代で変わります。今目の前で起こっていること話題にすることで子どもは興味を示してくれます。「消費税アップは必要?」「選挙制度」といったその時、時代にあった課題も魅力的ですが、「伝統行事」「日本人が忘れていけない日」といったことに関してちょっとした話をすることもとても意味のあることです。

佐藤先生のお話は何度もうかがっていますが、今回は今まで以上に若い先生にもわかりやすく社会科の授業をつくる上でのポイントが具体例と共にまとめられていました。

そして極めつけは、第2部の模擬授業です。
第1部でのポイントを具体的な授業の形でわかりやすく示していただけました。
テーマは「東京オリンピック」です。まさに視点7「『旬』を生かす」です。最初にクイズで興味を引き出します。スポーツ選手の写真を見せてどんな人かを聞きます。視点4「定番のネタ」です。ここで、体操の内村航平選手、レスリングの吉田沙保里選手といった有名なロンドンオリンピックの金メダリストだけでなく、パラリンピックの金メダリスト、テニスの国枝慎吾選手の写真もあったことに感心しました。国枝選手を知っている子どもは少ないでしょう。「あれ?だれ?」と思うことでオリンピックだけでなく同時に開かれるパラリンピックにも子どもの意識を向けさせることができます。視点3「『ゆさぶる』場面を入れる」です。
この後、「オリンピック楽しみですか?」と聞いて、「楽しみ」という言葉を引き出しました。この後の問につながる伏線です。

オリンピックについて知っていることを3つ以上考えさせます。ただ「考えなさい」では一つ考えて時間を持てあます子どもが出てしまいます。ちょっと高めのハードルを設定するのがポイントです。いつものように、発表をすぐに板書はしません。友だちの考えをしっかり聞くことに集中させると同時に、玉石混交の意見が出るはずですのでまずは発表だけさせるのです。板書はその後必要なものだけに絞ります。「4年に一度」「世界中の人々が参加する」「五輪のマーク」「100年以上続いている」といったまとめの後、「どんな国で開かれているのか」と問いかけ、知っている国を挙げさせます。これは単なる知識です。その後、夏季オリンピックの開催国の上に開催年が書かれた地図を資料として提示します。国名は書かれていません。視点2「教材にしかけをする」です。国名がない資料なので地域に目がいきやすくなっていますし、子どもたちに国名を考えさせることにもつながります。
「アフリカがない」という発言に対して、「やっていない方に目がいった」と価値付けをします。開催国の傾向として、「西ヨーロッパ、北アメリカ」「アジアは3か国」「アフリカはなし」といったことが挙がります。視点5「『知る』『わかる』『判断する』を区別した授業設計」の資料から知識を得る、「知る」場面です。それを受けて、開催国に必要な条件を考えさせます。推測することで「わかる」場面です。ここは概念形成の場面なので、まわりと相談させることで、多様な考えに触れさせ考えを広げます。
「治安がいい」という発言に対しては、別の言葉で「安全」を出させます。実際の授業では、「治安」という言葉がわからない子どももいます。自然に優しい言葉に置き換えることができるのはさすが小学校の先生です。「経済力がある」「インフラ」と言った言葉は取り上げ板書しますが、「利権」や「プレゼンテーション」と言った発言は受容するだけで板書はしません。さり気なく情報を整理して、この日の課題に必要なものに絞ります。これが露骨だと、子どもたちは先生の求める答探しをし始めます。佐藤先生は、そのようなことにならないように、笑顔でしっかりと受容されています。最初に聞いた「楽しみ」につなげて、「人々(国民)の熱意」を自ら示しました。ここで、子どもから出させることにこだわって引っぱりすぎるとおかしなことになってしまいます。資料をもとに、根拠を持って考えることができるものではないからです。こういった判断もとても大切なことです。

続いて2つ目の課題です。日本が1964年の東京オリンピックのころにどのような発展をしたかを考えます。教科書にある新幹線開通や高速道路建設の写真、テレビの普及率の資料などを与えます。視点1「資料に応じた読み取り方を」の場面です。
考えるための前提となる視点を先ほどの課題で与えているので、「交通網の発達」や「経済力」についての意見が出やすくなります。交通網から「物流(物の移動)」「(個)人の移動」といった多様な視点を意識させます。「個人の移動」と「テレビの普及」を「消費力」の増加につなげます。資料の裏を読み取ることを意識しています。ここでも、視点5「『知る』『わかる』『判断する』を区別した授業設計」の「知る」から「わかる」へつなげています。そして、「この東京オリンピックは一言で言うとどういったオリンピックですか?」と「価値判断」する課題へと移ります。テレビ普及率の資料は1955年からのものですが、この1955年は「戦後」が終わって景気が急上昇する時です。1956年の経済白書では「もはや戦後は終わった」と書かれています。佐藤先生はこの1955年にさり気なく触れて、「戦後」という言葉を意識させます。判断するための前提となる知識を上手に与えていました。「戦後復興」を上手く引き出す布石です。「授業深掘りセミナー」で「電車道」と称されるわけです(第2回授業深掘りセミナー(その1)長文参照)。

ここで東京オリンピックの最終聖火ランナーがどのような人かクイズを出します。オリンピックの強化選手でもあった有力ランナーの坂井義則選手ですが、1945年8月6日に広島県三次市で生まれたことが大きな理由です(本人は被爆者でないが、父親は被爆者健康手帳の保持者)。日本人にとって大切な日を考えさせ、この人選に込められた「平和への願い」に気づかせようというのです。時間の関係で、軽く流しましたが、佐藤先生が大切にしていることが何かがよくわかる場面でした。
そして、最後の課題として「あなたがアナウンサーなら、この最終聖火ランナーが競技場を走って聖火を点火する30秒間をどうアナウンスしますか?」を提示します。音声を抜いた映像に合わせてアナウンスさせるのです。ここは省略しましたが、まさに、視点6「主催者として価値判断する場面を」でした。
「あなたなら、今度の東京オリンピックの最終聖火ランナーに誰を選びますか?」という最後の問いかけは、2020年の東京オリンピックを深く考えさせるきっかけになるものでした。視点7「『旬』を生かす」だけでなく、視点3「『ゆさぶる』場面を入れる」で語られた、「子どもたちの中に切実な学習課題への意識が成立すること」が「子どもたちが社会的な事象を追求し続けるための前提」を具現化した発問でした。

佐藤先生の社会科授業の視点を見事に具現化した模擬授業でした。

第3部は、「社会科教師として力をつける」ために心がけることをまとめてくださいました。
まずは「教科書中心の教材研究+α」です。教科書を読みこなすことが基本です。そのための方法として、「教材研究用に自分の教科書を購入」「すきま時間を見つけて、教科書を何度も読む(持ち歩く)」「資料からわかることを読み取り、教科書に書き込む」「『なぜ?』『もっと知りたい』をメモ」といったことが挙げられました。これは社会科だけでなく、他の教科にも通じることです。その上で「+α」を大切にしてほしい。具体的には「学区を調べ、写真をとる」「市役所や消防署に取材」「全国各地に電話」「歴史に関するエピソードをインターネットで調べる」といったことです。リアリティのある、地域に根差した教材研究、子どもたちに興味を持たせるための材料集めです。例として、歌川広重の「伊勢神宮」の絵に描かれている「子どものひしゃく」「おかげ犬」(最近は「おかげ犬サブレ」が人気ですが)のエピソードから当時の旅や信仰、人々の生活を考えさせる授業が示されました。
また、社会科教師としての基礎体力をつけることも大切だと話されます。教師一個人として短歌をつくったり、合唱団に入ったりといった素養を身につけることが大切ですが、社会科教師にとって、それはどのようなものでしょうか?地図地理検定に挑戦したり、「スーパーマーケットとデパートの違い」といった疑問を調べたりすることが大切だと話されます。また、社会科の教師として、未来の社会を考える姿勢も忘れてはならないという言葉は、教科に関係なく、未来を担う子どもたちを教える立場の人間が心すべきことだと思います。

社会科の枠を超えて、本当にたくさんのことを学ばせていただきました。いつものことですが、たった2時間の短い時間の中に実に多くの学ぶべきことが詰まっていました。中身の濃い学びを本当にありがとうございました。

企業内検定の企画

学校関係の企業での研修の一環として、検定制度を企画しています。学校や教育関係の基礎知識や業務上必要な知識の簡単なテキストをつくり、検定はそこから選択問題で出題するというものです。落とすための検定ではなく、学んでもらうきっかけとしての検定です。
学校関係のものは私がその企業向けに連載している学校情報のコラムからテキストをつくります。コラムそのものは長いので、それを担当の方に要約していただくのですが、書いた本人ではないのでなかなか難しいものがあります。特に難しいのは、コラムを単に要約するのではなく、その企業の社員にとってどのような情報が大切なのかの判断です。実際の現場を知っているわけではなく、また私がポイントをうまく伝えられなかったため、苦労されていると思います。
今後いろいろな方のご意見をうかがいながら、完成に近づけていきますが、こういった企画にかかわることで、改めて先生の仕事のたいへんさ、複雑さを実感します。

先生方の研修はOJTが中心となりますが、充実しているとは言い難い状況のように思います。もちろん市販の書籍等で個人的に勉強されている方もありますが、日常の仕事に追われ、なかなかその時間が取れない方が多いというのが実際でしょう。検定制度という訳ではありませんが、先生方が手軽に学べるようなアイテムや機会が必要だと思います。インターネットでは、学校教育に関する情報もたくさんありますので、定期的にそういったものを閲覧することもお勧めします。

第2回 教育と笑いの会

昨年末に開催された「第2回 教育と笑いの会」は、前回に引き続き大盛況となりました。今回私は「故・有田和正先生の授業におけるユーモアを学ぶ」というコーナーの司会という大役でした。

開始5分ほど前から玉置崇先生が会場を温めます。さすが落語会を数十年にわたって運営してきた方です。開会する時には、すっかり観客の皆さんが話を聞く雰囲気になっていました。
まずは、「野口芳宏・玉置崇の教育漫才」です。
玉置先生が事前にネタの打ち合わせを野口先生にお願いしたところ、その必要はないとの返事だったそうです。しかし、さすがに台本なしではと思い、玉置先生はどのように進めようかと前日の晩はろく眠れなかったそうです。当日は、さすがに野口先生も不安になったのか、「ちょっと打ち合わせをしておこうか」と言われたそうです。いかにも野口先生らしい、とぼけたお話しです。
玉置先生が野口先生にあこがれていた時の出会いや、昨今の教育事情のネタは教師の枠を超えて笑えるものでした。ぶっつけ本番とは思えないほどのできでした。

続いては、志水廣先生の教育漫談です。
さすがは関西出身者、「綾小路きみまろ」ならぬ「綾小路しみまろ」として、服装から髪型まで、ここまでやるかという演出。前の方に陣取った志水先生ファンならずともしっかりと笑わせていただけました。

池田修先生の「『こんな時どう言い返す』ユーモア返答術講座」は、ワークショップ形式で、こんな時どう言い返すか、参加者の方にも考えていただきました。皆さん隣の方と楽しそうに言いあっていらっしゃいます。しかし何といっても面白かったのは、池田先生が関西の先生方から聞かれた切り返しの例です。言葉ではうまく説明できませんが、いかにも笑いの本場関西と言えるものです。また、それを見事に再現する池田先生。関西出身でないとは信じられないほどです。
まじめな子どもにこんな言葉で言い返したら、怒ってしまいそうな例もありますが、先生と子どもとの人間関係によってその効果は変わってくるのだろうと思います。ユーモアは相手との関係に大きく影響されるものであることを改めて意識させられるワークシップでした。

ここからは、落語が2席続きます。協賛してくださっているEDUCOMのスッタフの皆さんが準備してくれた見事な高座で、本格的な落語を楽しみます。
1席目は、「校長もできる落語家月の輪熊八」こと小林幹政先生の「黄金の大黒」。
いやあ、びっくりしました。どこから見てもプロの落語家。声といい間といい、ほれぼれします。この後、プロの桂雀太師匠はやりにくいのではないかと思うほどです。すっかり先生の落語のファンになりました。

2席目は、昨年もお願いした桂雀太師匠の、「代書屋」です。
さすが、プロ。エネルギッシュでそれでいて細やかな、「これが雀太です。個性とはこういうものです」と主張しているような一席でした。一気に師匠の世界に引き込まれました。次の自分の出番も忘れて、噺を楽しんでしまいました。

最後は、「故・有田和正先生の授業におけるユーモアを学ぶ」と題した、野口先生、志水先生、桂雀太師匠、玉置先生に、有田先生から多くを学び、これからの社会科教育をけん引する一人である佐藤正寿先生を加えて、ユーモアとその効用に関して語り合うコーナーです。
最初に、「愛される学校づくりフォーラム2013 in東京」での有田先生の模擬授業を20分ほどに編集したビデオを皆さんに見ていただきました。有田先生の絶妙のユーモアと素晴らしい授業内容に皆さんが引き込まれているのがよくわかります。
ビデオを見終わってから、いよいよ本番です。登壇者にお話を聞く前に、この日有田先生の体調はとても悪く、フォーラム終了後すぐに入院することになったにも関わらず、模擬授業では終始笑顔を絶やされなかったことを紹介させていただきました。ビデオの音声に注意すると、有田先生が舞台を移動する時に苦しい息遣いをしているのが聞こえてきます。胸に迫るものがありました。
話の口火は、佐藤先生にお願いしました。「1時間の授業の中に笑いがない教師は警察に逮捕させろ」という名言がある有田先生から、教材研究や授業技術だけでなく、ユーモアの大切さも学ばれました。佐藤先生の授業は常に笑顔を絶やしません。有田先生のユーモア精神は、次の世代の多くの先生に引き継がれているように思います。
志水先生からは、筑波大学附属小学校時代の同僚としてのエピソードを披露していただきました。授業だけでなく学年主任として保護者に対してお話しする時もそのユーモアで場の雰囲気を和ませていたそうです。
玉置先生に助けていただきながら、「緊張と弛緩」という視点が明確になっていきました。質問の答や課題を考え緊張している時、笑いで場が弛む、ほっとして教室の雰囲気が和む、これがユーモアの効用であり、意識すべきことです。
笑いのプロである雀太師匠からは、有田先生の笑いを「いやらしい」という言葉で評されました。その真意は、自分の笑いやその間をよくわかっていて、確実に笑いを起こすことができるので、ちょっと「いやらしい」ということでした。また、笑わせようとしてはダメだという言葉に、プロとしての笑わせることの難しさと奥深さを感じました。
笑いは子どもとの関係性が大切になるということに関連して、野口先生からは、「笑いは残酷なものである」という話がされました。「失敗するからおかしい。失敗して笑われる者はつらい」、だから笑いは残酷なのです。みんなが笑えるということは、笑われる立場の者も含めて笑える関係になっていなければなりません。笑いのある教室をつくるということはそういう人間関係をつくることと同じなのです。「失敗しても笑われない学級づくり」の一歩先にある「失敗を笑い飛ばせる学級づくり」です。
拙い司会でしたが、すばらしい登壇者のおかげで、有田先生を偲びながらユーモアについていろいろと考え学ぶことができました。

裏方を引き受けてくださったEDUCOMのスタッフのみなさんの協力のおかげで、プログラムは滞りなく修了しました。参加された方々の満足そうな表情に一安心でした。
「来年も開催しましょう」という野口先生の一言で、第3回の開催も決定しました。詳細が決まり次第、この日記でお伝えしたいと思います。

「愛される学校づくりフォーラム2016 in東京」で、「授業アドバイスツール」をモニター希望者に無料貸出し

愛される学校づくりフォーラム2016 in東京」の午後の部「楽しく、手軽に授業改善しよう」では、愛される学校づくり研究会で企画した「授業アドバイスツール」が紹介されます。

このツールは、タブレットや携帯端末を使って授業を動画で記録しながら、画面をタッチすることで、静止画と共にそのポイントを記録するものです。従来のビデオで授業を記録する方法では、見たい場面、共有したい場面を再生するのに手間がかかり、せっかく動画を撮ってもなかなか活用されません。このツールを使うことで、授業後、授業者や参観者と共に、その場面を簡単に共有し振り返ることができます。ハイビジョンで記録されますので、子どもたちの様子も細かい部分まで確認することができ、子どもの事実を元に授業を振り返ることができます。

今回、この「授業アドバイスツール」が「愛される学校づくりフォーラム2016 in東京」に参加された方を対象に、開発元の(株)EDUCOMよりハードと共に無償でモニター希望者(学校)に貸し出されることになりました。モニターの条件等の詳細は、当日フォーラム会場で発表されます。興味のある方はぜひ、「愛される学校づくりフォーラム2016 in東京」にご参加ください(申込みはこちら)。
もちろん「授業アドバイスツール」以外にも見どころはたくさんありますので、モニターを希望されない方も是非ご参加ください。決して損はさせません。

学校におけるICT活用のあるべき姿について研究会で考える

昨年のことで恐縮ですが、愛される学校づくり研究会で、会員の岐阜聖徳大学の芳賀高洋先生の「考え続けるICTの『迷い』と『希望』」という講演を元に、会員で話し合いを持ちました。

芳賀先生は、インターネットの黎明期から今日までの学校におけるICT活用について眺めた上で、社会的なインフラとなっているICTが学校では未だに教具としてとらえられ、その枠の中での活用しか議論されていないことへの苛立ちを露わにされます。既に社会は、ICTやネット環境があることが前提となって動いています。簡単な例で言えば、学校で行われている原稿用紙に鉛筆での文章作成は、現実社会では一部の作家だけでのものでしょう。私自身、原稿用紙を前にして作文しろと言われても、数行書くにも四苦八苦しそうです。ワープロを使わずに文章を書くことはもう考えられない状態です。また、学校では子どもたちはごく一部の時間でしかインターネットを活用しませんが、家庭ではスマホでネット検索は当たり前の状態です。

芳賀先生の主張される、ICTは道具でありそれがいつでも使えることを前提とした教育を考えるべきだという考えは、その通りだと思います。しかし、他の会員との話し合いではなかなか議論がかみ合いません。現実に学習指導要領の枠の中で子どもたちに一定の学力を保障することが命題として与えられている先生方にとって、じゃあどうすればいいのかという具体的な対応が見えてこないのです。学力をつけることが目標である授業の中で、教具として有効な部分はどんどん使えばいい。このことはだれしもすっきりと腑に落ちます。しかし、道具として自由に使わせることを考えた時に、今ある授業の構造とは全く異なる学習形態が求められます。子どもたちにつける学力は何かということから違ってきてしまうように思います。
OECDの調査でも日本の子どもたちの学力は非常に高いものがあります。それを維持しつつ新しいパラダイムに移行する道筋は、まだだれも明らかにしてくれていません。ここに大きな断絶があると思います。この溝を埋めていくことが、大切でないかと思います。
「教具論」と「道具論」が対立してそれぞれの立場に固執するのではなく、互いがつながっていくための道筋を模索していくことが必要だと思います。

研究会では今後もこの問題は継続して検討していく予定です。また、2月6日(土)に開催される「愛される学校づくりフォーラム2016 in東京」の午前の部「愛される学校づくり“公開”研究会」の「テーマ4:授業における『真のICT活用』とは」でもこの問題が議論される予定です。まだ申込みは間に合いますので、興味のある方はぜひご検討ください。

短期間で大きく成長された先生

2学期末に中学校で体育の授業のアドバイスを行ってきました。授業者は2か月前に授業アドバイスをした方です(子どもたちにどうあってほしいかを意識することの大切さを感じた授業参照)。どのように変化しているのかが楽しみでした。

3年生の担任であるのに、この時期に研究授業をやろうという意気込みに感心しました。授業力向上を真摯に望んでいることがよくわかります。
この日は創作ダンスの授業で、前回と同じく3年生の2つの授業を見せていただきました。
どちらも前回と同じ子どもたちなのかと思うくらい様子が変化していました。視線がしっかりと授業者に向いて、表情もとても明るく感じられます。集合してまわりと話していた子どもも、授業者が口を開くとすぐに口を閉じて集中します。自然で柔らかい雰囲気なのですが、行動もとても速くなっています。準備運動のランニングも列が短くなっています。体育において大切な授業規律が格段によくなっていました。
この状況をつくっているのは、明らかに授業者です。顔が上がるまで、笑顔で子どもたちを待てます。顔が上がれば視線を合わせて笑顔でうなずいています。ランニング中も子どもたちから視線を外しません。柔軟運動をしている時の動きもなかなかでした。補助をする時もできるだけ全体を見られる位置を意識し、顔がよく動いています。支援が必要な子どもに素早く気づけています。常に学級全体がどのような状態であるかをしっかりと把握できていました。子どもたちをよく見ること以外にもいろいろと意識していたはずです。何秒で集合したとホワイトボードにメモしたりして目標を持たせることもしていたそうです。すでに素早い行動が定着したのでそういったことも必要なくなったようです。2ヶ月の間にそこまでになっていたのです。
前回、この学校の子どもは緩いという評価をしましたが、私の見誤りでした。授業者が求めれば、規律のあるしまった行動をとれる子どもたちです。

授業の課題は「とぶ」をテーマに2分ほどのダンスをグループで創作することです。最初に「とぶ」から湧くイメージをワークシートに書かせます。「とぶ」と漢字にしないことでイメージを広げようとしたのでしょう。何人かの子どもたちに発表させてから、手順を説明します。テーマとイメージを線でつなげ、今度はそこから連想されるものをつないで樹形図をつくっていくのです。このイメージを広げる作業を全体でやって見せます。子どもたちの発言をしっかりと受容し、言葉が出てこない子どもに対しても笑顔で待つことができています。子どもたちもとても集中しています。
迷うところではありますが、最初のイメージを書かせる前に「とぶ」という言葉をもう少し耕しておいてもよかったかもしれません。例えば「『とぶ』には、どんなとぶがある?」と問いかけることで、「飛」「跳」と漢字を出させ、「飛翔」「飛躍」「跳躍」といった言葉につなげておくのです。こうすることで、具体的なダンスにつなげやすいイメージが出やすくなるように思います。
イメージの樹形図を元に、「はじめ→なか→おわり」のストーリーをつくることを指示します。クライマックスを工夫するようにと伝えますが、具体的にどのようにすればよいのかを考えるための方法がはっきりしません。「明るい⇔暗い」「高い⇔低い」「動⇔静」「強い⇔弱い」「速い⇔遅い」「平面⇔空間」「直線⇔曲線」「集まる⇔散る」といった変化のキーワードを意識させたいところです。時間があれば、途中でどのようなことを考えているかを発表させてキーワードを共有させるという方法もありますが、今回のように発表までを1時間で終わるのであれば、活動の前にどのような変化があるのかを子どもたちに考えさせる時間をとるとよかったでしょう。

「やることをわかった人?」と確認をして手を挙げさせます。ただ確認するのではなく外化させているのも指示を徹底するために必要なことです。子どもたちは、グループに分かれた後、素早く活動を開始します。口頭の指示だけでなく実際に全体でやって見たことで何をすればいいのかよく理解できていたようです。

振り付けを考えている時に一部の子どもがグループから離れていました。授業者はそのことに気づいて素早くその子どもたちに声をかけました。声をかけられた子どもたちは、すぐに輪の中に入っていきました。よく子どもたちの状況を見ていました。
子どもたちはよくかかわりながら活動していましたが、残り時間がそろそろ気になってきます。全体に対して残り時間を伝えることで、せっかく集中して活動している子どもたちの動きをとめたくなったのでしょう。直接グループのところへ行き、タイミングを見計らって残り時間を伝えます。なかなかの対応だと思います。

発表の順番をじゃんけんで決めますが、意外と時間がとられます。こちらで指示したり、あらかじめ一定の規則を決めておいたりする方がよいかもしれません。
発表にあたってタイトルとどのようなストーリーなのかを伝えさせます。時間がないので難しいのですが、そのストーリーがどのような課程で決まったのかを共有することができると今後の創作の参考になったと思います。
授業者は、発表者と見ている子どもたちの両方を見られる位置に立っています。しかし、実際には両方を同時にはなかなか見られません。どちらを見ればよいのか困っているようでした。口頭での発表であれば、聞いている子どもを見ていても話の内容を聞くことができますが、動きを見る発表ではそうはいきません。基本的に発表者を見ることが中心になります。見ている子どもたちの様子はチラチラと素早く集中しているかを確認することでよいと思います。気になる子どもがいるのであれば、その子どもを意識的に見るようにします。

子どもたちは、「空飛ぶ絨毯」「コンサート」「カエルに返る」……とユニークで面白いストーリーをつくっていました。中には体操服を脱いで印象を変えたり、光のあるところで演技をしたりと演出に工夫をするグループもあります。しかし、ストーリーをつくることや演出にばかり意識が行ってしまい、創作ダンスの表現としては中途半端なものになっていたように思います。ストーリーとダンスの動きをつなげるための手立てがはっきりしていなかったことがその要因として挙げられます。先ほど述べたような変化のキーワードを意識させておくことが必要だったように思います。
授業者はワークシートに「体全体(表情・指先)で伝えよう!」と書いておいたのですが、あまり意識されているように見えません。授業者がこの活動を通じてどんな力をつけたいのかが明確になっていないために、子どもたちも意識できていないのです。「構成力」なのか「表現力」なのかどちらだったのでしょうか。「構成力」であるならば、「はじめ」「なか」「おわり」それぞれがどのような「ストーリー」なのか、「クライマックス」はどこかを明確にさせる必要があります。「表現力」であれば、それをどのような動きで表現するのかです。もちろん両方でもよいのですが、それをキチンと意識させ、評価することを授業に組み込む必要がありました。「はじめ」「なか」「おわり」「クライマックス」に分けてストーリーをつくり、それぞれに「速い」「回転」「上下」といったダンスの動きにつながる「キーワード」を決めさせといったことをするとよかったかもしれません。こうすることで、単なる感想ではなく、「構成」や「表現」がどうだったのか、具体的に評価することもできたと思います。

子どもたちはとても集中して互いの発表を見ていました。真剣に自分たちが取り組んだからこそ他のグループの演技も気になるのでしょう。
一方の学級でおもしろい出来事がありました。一人だけ顔が上がらない子どもがいたのです。後で聞いたところ、なかなか教室に入れない子どもだそうです。しかし、グループの活動の時は、積極的でないにしろ友だちとかかわりながら参加していました。とはいえ、発表の場面ではやはり他のグループの発表を見ていません。ところが、自分たちの発表が終わった後、顔が上がり他のグループの発表を笑顔で見ていたのです。きっとグループの一員として発表できたことがうれしかったのでしょう。とてもよいものを見ることができました。
また、授業終了後授業者が何も言わないのに使った黒板をきれいに消している子どもがいました。さすが3年生といったところです。

体育の教師にとって特に大切な授業規律や指示の徹底はかなりできていました。前回と比べて大きく進化しています。短い期間にこれだけの変化があったということは、素直に自分の授業を見なおして改善したということです。また、基礎となる力がしっかりとあったということでもあります。私のアドバイスという、ちょっとしたきっかけで大きく進歩するということは、逆に言えばそのような機会がこれまでなかったということです。
次の課題は、「できる」ようになるためにどのような「活動」が必要なのかを明確にすることです。「できる」ようになるための「手立て」を授業者がはっきりとわかっていなければいけません。当然、何をできるようにするのかという「ゴール」がシャープになっている必要もあります。これが教材研究です。授業規律や指示の徹底と違ってそう簡単なことではありません。体育の教師としての力量が問われるところです。しかし、意識して毎日の授業に臨み、子どもたちの事実から学んでいけば必ず力はついていきます。素直で、前向きな方なので、きっと着実に進化していかれることと思います。

授業者からは、教室での保健の授業をどうすればよいのか困っているということを相談されました。どうしても知識を一方的に教え、板書を写させることになってしまうようです。知識と考えさせたいことをきちんと分けて授業を構成する必要があります。機会があれば、またアドバイスさせていただきたいと思います。

若い先生の成長を間近で見ることができ、とてもうれしく思いました。この仕事をやっていてよかったと思えた時間でした。ありがとうございました。
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31